タイムマシンは恋心の果てへ
葱間
タイムマシンは恋心の果てへ
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ずっと心に刺さっているもの。
夢を追う彼にどうしても縋ることが出来なかった。彼の足枷になりたくないと、隠した恋心。心に残る棘。
あれから十年の間、『過去に戻れたら』と思っていた。
――今、目の前にあるタイムマシンに、ワタシは何を思えばいいんだろう。
1
古臭い紙の匂いが部屋に立ち込めていた。部屋の中には、何やら不思議な機械がいくつかと、数式が書き込まれ真っ白になった黒板。そして紙が、紙がひたすら散らばっていた。何処に足を置けばよいのか全く分からず、そして、どうやってこの部屋の中で生活を行うのかも分からなかった。
あと、暖房も何もないから寒い。
「まぁ、散らかっているが、適当に入ってくれていい。地面に散らばっているものは不要なものだから、踏みしめてくれていい」
部屋の主である星井がそういうものだから、割り切って部屋に踏み入る。記念すべき第一歩は、『時間超越のために』と銘打たれた、論文のタイトルページであった。星井の、おそらく人類史に残るだろう研究の成果は、無残にも地に放られ、凡人に踏みつぶされた。
「何をそんなに不愉快そうに……あぁ、なるほど。この紙達か。安心して良い、というよりも気にする必要はない。そんなもの、思想を書き写しただけの写本に過ぎない。原本は別にある。そもそもアーカイブ化された後なんだ。それは燃料にするか、ちり紙にでもするぐらいの価値しかない」
星井はそう言って、何の躊躇いもなく自らの努力と知啓の結晶を、文字通り足蹴にした。ワタシはなんとなく、後ろめたさや行儀の悪さを感じながら、星井に倣って紙の海を歩いた。
「ん、まぁ、座ってくれ」
椅子へ促される。その脚も相変わらず紙を踏みしめていた。
椅子に腰かけると、ミシリと嫌な音が鳴り、不満を伝えてくる。主人に似て、失礼な奴だなと思いながら、少しだけ腰を浮かせ、体重をかけないようにした。
「なんで、そんな変な姿勢を。ああ、安心しろ。君が体重をかけたくらいで壊れる椅子ではない。普段は60 kg はあろうかというものも載せているくらいなんだから」
「あぁ、そうですかっ。じゃあお言葉に甘えますねっ」
やっぱり、星井は『シツレイ』な奴であった。
ミシリ。椅子、御前もだ。
「……それで? 星井は何でワタシを呼んだの、今さらこんなところまで」
「あぁ、そのことをまだ話していなかったな」言いながら星井は、いつの間に淹れたのか、珈琲を差し出してきた。それは、星井にしては珍しく、かわいらしい黒猫の模様が入ったマグカップに入っている。いつか、どこかで、だれかが贈ったものであった。
ワタシはそのマグカップを複雑な気持ちで受け取った。星井の心などは一度も読めたことはなかったが、今回ばかりは理解の糸口を掴むことも出来なかった。
「篠崎、君は前に言っていただろう。『過去に戻ってやり直したいことがどうしても一つだけある』と。その思いに決着をつけさせてやろうと思ってな」星井はそこで、珈琲を啜った。顔を顰めているところを見るに砂糖の量を間違えたのだろう。彼はそうやって、甘くなり過ぎた珈琲を嫌そうに飲むのだ。
「決着? なに、タイムマシンでも作ったの?」
「あぁ、作った。まだ公表はしていないが」
星井はさらりと。
「作ったって、そんな、本当に?」
「あぁ、作ったぞ。試運転も済ませてある。過去に戻れた。未来は行ってないから分からないが、おそらく行ける。帰ることも可能だ」
星井は立ち上がると、部屋の隅に設置された機械の前に立った。随分と小さかった。
「まさか、それがタイムマシン?」
声が震えていた。
驚きと、そして笑いが半分。
「本当だ。私が嘘をつかないことは篠崎、君が一番知っているはずだ」星井が、こちらを見る。目が笑っていなかった。あの日と同じ。
「そんな、でも、そんな。ということは、えっと」
「君の思っている通りでいい。このタイムマシンで、過去に戻ったらいい。そこで君は君の後悔に決着を着けるんだ」
星井は、珍しく熱のこもった声で。
それに何を返したらよいのか分からなかった。
「でも、さ。過去を変えてしまって大丈夫なの? その、ほら蝶の羽ばたきで竜巻が、タイムパラドックスなんでしょ?」
「大丈夫だ。時間軸のズレやバタフライエフェクトなんてものは、絶対に起こらない。安心して良い」
「そう? でも」
「大丈夫だ。私を信じてくれ」
星井がどうしてここまで熱心なのか分からなかった。七年前に会ったときは、周囲に関心を失ったようになってしまっていた彼。今の彼は、イメージとは離れた姿だった。
でも。けれど。
「……分かった。星井を信じる」
「そうか。ありがとう」星井は、安心したように笑った。久しぶりにその笑顔を見て、思いがけず想影がよみがえった。
「それで篠崎、もう飛べるがどうする?」
「え……まぁ、決心が鈍るとあれだし、もう飛ぼう、かな?」
「そうか。それではこちらに来てくれ」星井はそうして、機械をいじり始めた。感傷にも浸らせてはくれないその性急さは、星井らしいと言えば、らしかった。
「篠崎? はやくこちらに来て、これを被ってくれ」
星井が差し出したのは、ヘルメットのようなナニカであった。丁度、いつか講義で見た脳波を測定する装置に似ていた。頭にすっぽりと被るような形状で、そこからたくさんの線が伸びている。
え、まさか?
「これ被るの? え、なにワタシ。脳波でも弄られるわけ?」
「そんなことするわけないだろう」
星井は呆れたように言った。
「これは君の『現存意識』を、別の時間に存在する君自身の身体へ飛ばすための装置だ。これで君の意識を別時間に送り、タイムトラベルをするという具合だ、簡単に言えば」
星井はさらっと言うが、あまりに荒唐無稽な話だ。大体、意識を飛ばすというのはどういうことだ。全く理解が及ばなかった。
いろいろな言葉が頭を飛び回っていた。けれど、気づけばワタシは、装置を被っていた。意識の外で。無意識下でそうしていた。
「うん、ありがとう篠崎。それでいい」星井は、ワタシが被った装置の、あごの辺りに伸びた線に手を伸ばした。必然、ワタシのあごに、首に手が触れることになる。ちょっと動揺した。
「よし」星井は、線、いやベルトを止めただけであった。「これで準備はできた。あとは篠崎、覚悟だけだ」
「えっと、覚悟」いざ、渡航の段階に入ると、少し気おくれが出てきてしまう。けれど、こんなチャンスはない。すごく性急に話が進んでしまっているが、そうじゃないと収まりがつかないと星井も知っているのだろう。お互い、迷いながら時間に追われて歩いてきたから。
「いいよ。飛ぼう」ワタシは無理やり覚悟を決めた。
「そうか。じゃあ、十秒だ。十秒後に飛ぶぞ。あちらに着いたら君は、『十年前の君の身体に居る』はずだ。丁度、君の戻りたい瞬間の五分前の、だ。いいな?」そういって星井は装置を起動した。ちょっと待ってほしい。
「何で星井はワタシの戻りたい時間を知っているの⁉ 」
「……知ってるよ。『あの日』のことを僕も――」
そこまで聞こえて十秒が。時間が迫ってきた。
視界暗転。
ワタシは気を失ったようにして、そして。
――過去へ。『あの日』へ飛んだ。
2
視界明転。直ぐに感じたのは、蒸し暑さであった。季節感の変化から、星井の部屋とは違う何処かに来てしまったことを悟った。
立ち眩みのような感覚がして足がふらついた。乗り物酔いのような感覚。どうやら意識だけでも酔うことは出来るらしかった。
「大丈夫? 遥」
正面から声。その声に驚き、しっかりと眼を開いて前を見据えた。強い日差しに眩む視界の中で、彼は確かにそこに居た。
「だ、大丈夫だよ、星井……」
星井が。十年前の星井がそこにはいた。他の何でもなく、そして完全に記憶の中に存在していたままの星井であった。記憶とは存外に色褪せないものだと、どうでもいいことを感じていた。
「星井って……?」星井が訝しんだように声を。その声で思い出した。ワタシが星井を、彼を『星井』としたのはこの日の後である。まだこの時は確か、彼は別の。
「い、いや何でもない。ちょっと眩んじゃって。ボケちゃっただけだよ、さ、聡」十年ぶりの音は、どうも発声がし辛かった。
「そう? じゃあ、続けるよ?」
その言葉の意味は一瞬掴みかねた。けれど、星井の言葉を思い出して、そして分かった。ここが、『あの時』の五分前だとすれば、今は、オハナシの途中であるはずだった。
ワタシたちのその先を決めるはずの。
「遥。やっぱり僕は、ここを離れるよ」聡は、やけにハッキリとした声でそう言った。
やっぱり。ここは確かに『あの日』で、そしてここは確かに過去であるらしかった。星井は本当にタイムマシンを作り上げたのだろう。すごいなと、単純にそう思った。
そして、そうと分かったら、することは一つだけであった。星井に、『ワタシの想い』を伝えるのだ。
「……やっぱり、それは変えられないの?」ワタシの口が滑るように動く。「留学、するんだよね?」
「うん。アメリカか、欧州か。留学するつもり」星井は、今とは違って、はきはきと話す。「そうして、いつかタイムマシンを作り上げる。SFでしかない夢物語を現実に出来たらと思うんだ」
「……そっか」そこで言葉に詰まった。なぜか言葉が出ない。あれほど頭の中で、夢で、きっと深層心理でも繰り返したはずのことが上手くできなかった。「そっか……」
「うん……」聡も、そういって無言になってしまった。二人の間には飛行機のエンジン音とセミの求愛だけが。
これは、全く。
記憶の中に残る沈黙と同じであった。全てが記憶通りに進んでいく。ここで、ワタシね聡のことが好きなんだ、とそう言うつもりなのに。言いたかったのに、言おうと思ってきたのに、言えるんじゃないかと思ってきたのに。それなのに、口は、『ワタシ』は全く思い通りにならなかった。
「そ」ワタシの口が動く。滑るように。記憶をなぞるように。
『それなら仕方がない、よね。夢だもんね。かなえなきゃ。頑張らなきゃ。えっと、その、応援するね? いつかそのタイムマシン、ワタシにも使わせてね? 一番にね?』
記憶の再上映。再生と再認。何の冗談だろうこれは。
すべてが記憶のまま進んでいった。知っている、ここからは。聡が、何処か寂しそうに笑い、任せて、なんて言って、二人はそこで別れるんだ。聡は帰って、ワタシは残って立ち尽くして、そして、そう。
「丁度こんな感じ」一人。どれだけ時間が経ったのか辺りが夕焼けに染まっていた。あの日に見た、夕焼けそのものであった。けれど、何故だろうか。記憶のなかの光景よりも遥かに綺麗に見えるのは。
ここまできて、星井が言っていたことが分かった。きっと彼は、こうなることを知っていたのだろう。こうなると分かった上で彼は、『あの日』行きの切符を渡したのだ。それはワタシと約束したからか。何故かは分からない。でも、事実は事実だった。
結局、夢は破れた。破れてそして、でも痛くなかった。寧ろ、何処かスッキリとした。十年間抱えていた後悔に、きっちりと決着がついた。それは、爽快感……いやちょっと違うかな。でもそんなものに似た感覚であった。晴れやかな、そんな気持ちだった。
「不思議だね、星井」そっと呟いた声は、十年後の彼に届くのだろうか。届いたらいい、いや届けたいと思った。「帰ろう。どうやったら帰れるのかわかんないけど」
そう言ったと同時位に、すごく強く引っ張られるような感覚がした。きっと、未来が、『彼が星井である時間』が呼んでいるのだと思った。
帰ったら星井に何を言おう。そんなことを想って。
視界暗転。
時間が迎えに来た。
3
視界明転。寒さが身体を包み、足が震えた。
二回目だからか、あまり強い酔いは感じなかった。ゆっくりと眼を開くと、そこには、何処かバツが悪そうな表情を浮かべた星井がいた。
「ただいま、星井」
「お、おかえり。は……篠崎」星井は珍しく、いや今の彼にしては珍しく喋りにくそうな様子であった。「その、どうだった?」
「星井、全部知ってたんでしょ」ワタシの言葉に星井はビクリと肩を揺らした。動揺が目に見えて分かった。「何で知っていて、それでも、ワタシを『あの日』に送ろうとしたの?」
「言い逃れは」
「できればしないでほしい」
「……分かった」星井はそういうと、椅子を勧めてきた。ワタシは黙って椅子に座る。ワタシが怒っていると思っているのだろうか、星井は少し震えていた。「何から話そうか」
「多分、キミの話はきっと長くなると思う。だから、今ワタシが聞きたいのは一つだけ。『聡は何をさせたかったの?』」
「それは……」星井は少し言葉を詰まらせた。「……いや、もうハッキリと言ってしまおうか。もういい。話す。その前に篠崎」
「何?」
「また、遥と呼んでもいいか」
「いいよ」
「そうか、ありがとう」星井は……うん。
聡は、ワタシの許諾に柔らかく微笑んだ。その笑顔にワタシは……。
「簡単に言ってしまえば、遥に踏ん切りをつけて欲しかった。私と同じように」星井は淀みなく話し始めた。
「踏ん切り?」
「そうだ。私も『あの日』に飛んで、そこで遥が体験したことと同じ事を体験した。そのときに今日のことを思いついた」そこで言葉が、躊躇われたように切れた。「私は言いたかった言葉を結局言えなかった。なのに何故か晴れやかで、そして『これからのこと』を考えられるようになった。だから、もしかしたら遥も同じように感じるのではないかと思ったんだ」
「……聡は、ワタシに踏ん切りをつけさせてどうしたかったの?」
「そうだな……『これからの話』が出来ればと、そう思った」
「そっか」
ワタシはそこまで聞いて、それだけ言って立ち上がった。聡はそんなワタシを、不思議二割、不安八割といった様子で見上げていた。少し、可愛いと思った。
「今日はそこまで聞いて満足するね」ワタシは持ってきていた鞄から一枚、カードを取り出した。コンタクト可能な連絡先を粗方書き込んだ、友人用の名刺。それを聡に差し出した。「これにワタシの連絡先がほとんど載ってる。もし、ワタシを『この部屋に呼ぶ気になったら』コンタクトして」
「あ、あぁ……」聡は戸惑いがちにカードを受け取った。「えっと、いつでもいいんだな?」
「いいよ。会社には『アメリカに旅行に行くから』有休をくれって、そう言ってきたから、一週間くらい暇だし」それだけ言って、扉の方へ向かった。ワタシが過去にいる間に片づけたのだろうか、床に散らばっていた聡のこれまでの論文たちは、どこかへ消えていた。
「それじゃ、聡、今日はその……ありがとうね」
「あぁ。その何だ……急ですまなかったな。また、後でちゃんと説明をする。そうしてから、絶対に大事な話をしよう」
「うん。待ってるから。すぐそこの未来で」
ワタシはそうして、聡の部屋を出た。すぐさま、目を赤光が覆った。
あの日の様に綺麗な夕焼けが、あの時とは別の場所にいた。
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