シリアスな笑い

ミーシャ

"誰が笑うのか"という問い


 荒唐無稽な話を支える、有り得る諸事情(=現実)のエッセンス。これを上手く捕まえるセンスが、曰く、ユーモアと呼ばれる資質なのだと思う。ゴーゴリの『鼻』は、彼のそうした面白さを理解するに、広く知られた作品である。


 まずは、タイトルである。


 どの国にも大抵、身体のある部位を用いた慣用句、言い回しが存在する。日本語でも、『鼻持ちならない』、『鼻が高い』、『鼻に付く』など、”鼻”を使った物言いがあり、嬉しいことに、”ロシア語”でも、同様のフレーズが存在する。むしろ、現代におけるその共通語彙の豊富さや、表現の類似性は、長年に渡る日本の翻訳活動の賜物であるとは言え、名実ともに、親近感を体現するに至っていると思われる。


そのため、この題目を聞き、話のあらすじを知って抱くであろう、『なにゆえ、鼻なのか』という問いに関しては、特段、支障なく日本語で答えられるのだ。―『そうです、それは”鼻”ゆえに、”鼻”だからです』と。


 鼻の高さと言うのは、比喩としてはプライドの高さとして、身体性としては、形が良く高い鼻は、美醜の要として自慢の種になる。

 

この作品で逃げ出した鼻も、そうした素晴らしい鼻の一つであり、そのふるまいや、”身分”についても、それ相応なものとして、描かれる。またさらには、それが引き起こす混乱についても、床屋と、鼻の持ち主であるコワリョフを困らせた程度で、周囲は、コワリョフが醜態を曝して助けを求めた時点で、非常に良心的な態度に転じ、その混乱を収める役を担っている。


 

 鼻がもたらしたのは、何であったのか。


 それは、数多の意見と解釈を呼ぶ、楽しい問いかけである。だが、ここでは、一個のと、それに乗じた主人への、と読むことにしよう。独立した鼻が、床屋のイワンのパンの中に現れて、川に落とされて以降、五等官の制服を着て馬車を乗り回し、逃亡を図るまでが、どこまでも計画的な犯行である。実際、当事者の困惑ぶりを嘲笑するのは、生真面目な登場人物たちではなく、その全体を知る読者であるという”仕掛け”も、見事である。


つまり、読者は、奇妙な話の中にある笑いに、単に誘われるのではなく、話の筋を解した結果、自らそれを笑うか否かを決めるまでの、”間”を持つ、ということ。嘲笑とは、まさしくそうした自由と自主性のある笑いである。


 では、読者が、真に心優しき、憐憫の情に溢れた人間であった場合はどうであろう。ゴーゴリの可哀想な登場人物たちは、ただ奇妙な目に遭った、不幸な人間としか映らない可能性もある。物語の筋に現実味が薄ければ、なお一層、なぜこんな筋書きであるのか、その必然性への理解に苦しむだろう。


しかしそれでも、鼻を一個の人間と捉えて、その自由と想いを尊重するならば、そのように行動した理由を、作中から求めることが出来る。それこそが、ゴーゴリの提供する、シリアスな笑いの完成度であると、私は思う。




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シリアスな笑い ミーシャ @rus

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