雲曳きの配達人

凪野基

雲曳きの配達人

 その街はいつも曇っていて、メグには湿度が高すぎた。息苦しくて、弱った魚のように口をぱくぱくさせる。ここに来て一週間ほども経つが、ちっとも慣れない。

 それもそのはず、そこは山の麓の温泉街で、街の方に下ってゆくと大小さまざまな露天湯がもうもうと湯気をたてていて、湯治客や、こんなご時世だというのに悠長な観光客がのんびりと足を浸し、あるいは体を伸べているのだった。

 空の青は薄く、雲の奥にあってひたすらに遠い。療養所は前線基地に比べればましかもしれぬが快適にはほど遠く、がっちりと固定された左脚と腰の不自由さもあいまって、メグの機嫌は常に悪かった。

 ゆっくりと体を休めろ? 一日も早い復帰を待つ? 調子のいいことを。苛立ちに任せて握りつぶした令状の皺をおざなりに撫でながら、寝台で頭を抱える。

 こんなことをしている場合ではない、今すぐ飛ばねば。一機でも多く墜とさねば。こうして寝転んでいるうちにも、戦況は刻々と変化しているのだ。我が国が優勢ではあるけれども、制空権を握ったとも言い切れず、その有利の天秤はいつ相手国側に傾くとも知れない。操縦席に座ることさえできたなら。操縦桿を握ることさえできたなら。

 傷だらけの両手を握りしめる。エンジンをかけてペダルを蹴り、重力のくびきを断ち切る離陸の一瞬を思い描く。腹の底からフッと解き放たれて自由になる、あのかけがえのない歓喜の瞬間――。

「あ、……ぁ」

 背筋が一斉に粟立ち、手が震えた。

 空想の翼は墜ちた。幻の操縦桿を握っていた両手で肩を抱き、震えが治まるのをただ、待つ。何だかわからない染みが薄く残るシーツを睨みつけ、身体に刻み込まれた恐怖と戦う。固く目を閉じても、麦畑に墜ちた愛機が真っ二つになり、目の前で燃えゆく記憶は去ってくれなかった。

 塗装が焦げ、炎と熱に舐められた座席が、風防がゆっくりと歪んでゆく。麻張りの機はあちこちから燃えはじめ、二枚の翼や桁にまで火がついた。ワイヤーが弾け飛ぶ。燃料はまだ残っていて、逃げなければと思うのに身体は少しも動かず、メグはただ乾いた目を見開いて、隊の徽章エンブレムと、その脇で誇らしげに輝く四つの星が灰になって歪んだ空に舞い上がるのを見つめることしかできなかった。

 この、記憶の巻き戻しも何度目か。メグを正気に引き戻したのは、血が滲む唇でも、青痣のついた腕でもない。

 山肌にこだまする音が窓ガラスを震わせていた。

 聞き間違いようもない、メグの愛機と同じ、ゾキアのエンジンの咆哮だった。



 山への反響のせいで、位置が掴めない。窓を開け放ったメグは湯気のにおいに唇を曲げ、しかしすぐに幾重にも薄い層を成す雲に向かって駆け上がってゆくゾキアの姿に目を奪われた。

 鮮やかな緑に塗装されたゾキアは何の前触れもなく宙返りループし、高度を失う代わりに得た速度で再び雲間に舞い上がった。優美な曲線で構成された機体を見せつけるような大きな旋回ロール、次いで操縦者の技量の限界に挑戦するかのような鋭い旋回。糸が切れたかのようにまっすぐ地表に向けて急降下ダイブしたかと思うと、何事もなかったかのように飄々と空と戯れている。

 最後に一度だけ右に旋回し、翼端から雲を曳いて、緑色のゾキアはメグの視界から姿を消した。エンジン音の反響もやがて消え、元通りに湯気と湿度と低い雲に覆われた光景を眼前から押しやるように窓を閉めて、そのまま床に崩れ落ちる。

「何、あれ……」

 呟いて、違和感を再度紡ぐ。

「誰なんだろう」

 どうしてこんな僻地に、あれほどの駆り手パイロットがいるのだ。

 前線では一人でも多く、一機でも多く飛ばせと血眼になっているというのに。

 検温にやってきた看護師が悲鳴を上げるまで、メグは床に転がったまま緑色のゾキアの航跡を反芻していた。




「何って、郵便公社の配達ですよ。ここは田舎だから、ああして航空便が五日に一度、飛んでくるんです。ルイ・ヴィッカースって男が乗ってるんですけど、以前は曲芸飛行士だったとかで。……あんな曲芸ができるなら、軍に志願すりゃいいものを、ねぇ」

 緑色のゾキアが何なのか、誰が乗っているのかは看護師に聞けばすぐにわかった。何のことはない、この長閑な療養地に騒音とともに現れる緑色の複葉機とその曲芸飛行アクロは、ちょっとした名物だったのだ。

 看護師はメグの所属を知っているのだろう、お追従のようにルイとやらへの批判めいた一言を付け加えたが、逆に彼女の本心が透けて見えるようで不愉快だった。

 言葉通り、郵便公社のゾキアは定期的に飛んできて、しばらく後に離陸して曲芸飛行を見せて去ってゆく。荒天の日は曲芸こそないものの、配達が途切れることは一度としてなかった。それは新聞やラジオで伝えられる、依然として戦況は優勢という情報が正しいことを示している。

 療養生活が二月を数えても、ゾキアの曲芸飛行にも、戦況にも変化はなかった。身体を固定する忌々しいギプスが薄くなり、季節がゆっくりと巡って空の色がやや濃くなった頃、意を決してメグは街に下り、ゾキアが羽を休める飛行場を訪ねた。




 いつもの時間にゾキアは西からやってきて、教本通りと言うにはやや強引な進入角と速度で滑走路に降り立った。その割にはタイヤが地面を擦る音はほとんどせず、無駄な滑走もせず、ぴたりと誘導員の手前に停まる。

 郵便公社の曲芸飛行機を一目見んとしているのはメグだけではなく、普段着姿の者や、噂を聞きつけたらしい湯治客など、滑走路脇にはちらほらと人影があった。女性ばかり五人ほどが集まって黄色い声を上げているのを後目に、メグは杖に体重を預けながら、機から下りて現地の公員と郵便物のやりとりをするゾキアの駆り手、ルイを観察する。

 これといって特徴のない中肉中背の男で、砂色のつなぎ、飛行帽も飛行眼鏡も手袋も、どこにでも売っていそうな平凡なものだった。落胆しなかったと言えば嘘になる。あれほどの曲芸飛行をやってのけるなら、とどこかで期待していたことに気づいて、止めていた息を吐いた。

 ゾキアを、ルイを見に来てどうしようというのか。どうするつもりだったのか。ここに来た目的も、来ようと思った意志も曖昧に薄れて、メグはただ、事務的に作業を進めるルイを見つめる。彼は運んできた郵便物の代わりに持ち帰る一袋を受け取り、それを積み込んだ後は機体の手入れをする作業員と二言三言交わして、休憩所に向かった。黄色い声を上げる集団が彼を囲むように同行し、メグもまたふらふらとその後を追った。

 先に聞いた話によれば、彼は西の街から二百五十キロほども飛んでくるそうだ。ぎりぎりとまではいかないが、あまり余裕がない行程だ。そもそも、手紙の配達になぜ戦闘機たるゾキアが使われているのか。低速でももっと燃費のよい機を使えばよいだろうに。

 ルイは二十六歳、今年に入ってからゾキアでここにやってくるようになったそうだが、人当たりもよく、勤務態度も飛行技術も申し分ないらしい。非公認で親衛隊も結成されたとかで、黄色い声の女性たちがもしかするとそうなのかもしれなかった。

 ルイについての事前情報が脳内を駆けめぐり、これといった手触りもなくすり抜けていくのに任せ、メグは女性たちの相手をする彼を離れたところからぼんやりと眺めていた。そのうち、きゃいきゃいと騒ぐ女性たちの一人がメグに気づき、熊をも射殺しそうな視線を送ってきた。

 ――いや、そういうつもりじゃないし。

 ではどういうつもりだったのか、確たる答えがないことに今更ながらに動揺し、杖を持つ手を滑らせてつんのめる。

 何事かとこちらを振り向いたルイの眼差しがぴたりとメグを捉え、視線が絡んで火花を散らす。何気ない一瞬の交錯にわけもなく動揺し、杖を抱え直して一目散に療養所へ逃げ帰った。

 何でわたしが逃げなくちゃならないの。どうして?

 問いに答えられる者はなく、その夜から墜落の記憶に加え、ルイのまっすぐな、透明で温度のない視線がメグを縛ることとなった。



 親衛隊の威嚇は何でもないが、ルイの透徹した眼差しはこたえた。痛みを覚えるならばまだしも、わけもなく不安をかきたてられるようで、耐えられない。揺るぎない大地が急にやわやわとした腐葉土に変わってしまったような、底が抜けるような居心地の悪さ。その正体、あるいは原因を突き止めるべくメグは飛行場に通ったが、ルイと直接言葉を交わすことは親衛隊に阻まれ、遠巻きにしているだけでは見えないナイフに抉られるばかりで、埒があかない。

 こんなに足しげくルイを訪ねるなんて、まるで親衛隊入隊希望者のようではないかと憤りつつ、メグは今日も飛行場に向かう。しのつく雨が煩わしく、未だ杖が手放せぬ身には快適な外出とは言い難い。療養所で無理を言って借りた雨除けの外套は大きすぎ、思った以上に蒸れた。

 これなら雨の日に飛べと言われた方が百倍ましだ。天気のせいで鈍く痛む傷を庇いながら、身体を引きずるようにして辿り着いた飛行場では、親衛隊各位がお揃いの緑の外套に身を包み、熱心に西の空を見上げていた。まるで、そうしていれば雨雲が去って、愛しのルイが姿を現すとでもいうように。

 だが、今日に限って緑のゾキアは姿を現さなかった。西はもっと天気が悪いのかも知れない。一時間ほども待って雨足が強まってくると、焦れた親衛隊の一人がルイの到着を待つ郵便公社の若者に詰め寄っていくのが見えた。電話なり何なりでルイの消息を調べてこいということらしい。追い立てられた若者が戻ってきたのはさらに半時間ほどしてからで、親衛隊の面々の我慢の水位はすでに危険域を越えており、若者の答えが彼女らのお気に召さないものであったことは、雨の静けさを根こそぎ掘り返すような喧噪から容易に想像がついた。

 親衛隊たちが姿を消しても、何となく帰りそびれてしまったメグは雨の中、水たまりのできた滑走路や陰鬱とした雨雲を見つめていた。やがて、例の若者が気を利かせてやってきて、この天候ですからルイさんは到着が大幅に遅れるそうです、もしかすると途中で降りているかもしれませんし、今日は来ないかも、と親衛隊に告げたのだろうことをメグにも教えてくれたが、それを聞くとなおのことルイは来るような気がして、立ち去りがたく思えるのだった。

 教えてくれて有難う。そばかすが残る遠慮がちな顔にそう告げると、彼もまたそれ以上言い募ることができなかったのだろう、お怪我に障りますよと囁いて、走り去った。

 まあそうだろう、とメグは他人事のように頷く。さっきから左脚には感覚がなくて、下半身を支える右脚と杖を持つ手も冷えきって岩のように固まっている。いかな名湯とあっても、この凍えた身を癒すことはできまい。

 どうしてこうもしつこくルイを待つのか、彼に何を言い、何を期待するのか、答えは見つからないままだ。初対面のあの日から、あの眼差しになにかを感じてから、その「なにか」が何であるのか明らかにするためには、直にルイと言葉を交わして、彼という人物を見極めたかった。

 この非常時に、どうしてあなたほどの技術を持つ人が後方で郵便配達などしているのか。前線で一機でも多く敵機を墜とし、爆撃機を守り、対空機銃と果敢に戦ってこその飛行機乗りではないか―ルイにぶつけてやろうと用意していた正論はいつしか丸まって心の隅に転がっている。もし本当にそう思っているなら、こんな冷たい雨に降られてはいない。一刻も早く療養所に帰り、温泉に浸かって体を温め、リハビリに精を出すだろう。

 なまったか。前線に臆したか。メグは自問する。けぶる前線の昏い空がそこにある。

 数少ない女性飛行機乗りとして、メグは常に前線にあった。広告塔と呼ばれることを拒否しつつも、その役割から逃れ得ることはかなわず、報道陣、ひいては友軍の男性たちからの品性の欠片もない質問、視線、想像に弄ばれてきた。愛機に星が刻まれるたび、賞賛とそれ以上の妬み嫉みを浴びせられた。

 新聞記事を賑わせるのは、彼らが望むような、こうあれかしというメグの虚ろな像でしかなかった。同姓同名の、メグの知らない女。記者たちに話した言葉の一つ、思いの欠片すらそこには存在しない。

 メグはいつしか、「女神」などと大仰な名で呼ばれるようになっていた。言い出したのが誰か、今となっては定かではない。だが、女神、と口にする者の胸にあるのは、華やかに飾りたてられた殺人者たれという過剰な期待か、もしくは純粋な悪意のどちらかだということくらいは、メグにもわかった。

 そして、女神は墜ちた。人々の願望が作り上げた醜いはりぼては燃えつきて灰さえも残らず、火傷と打撲と骨折で歩くことすらままならぬ生身のメグは、温泉地での休養を命じる紙切れ一枚に抗うこともできずに燻るしかないのだった。

 小隊の面々は、あるいはもしかすると中隊長くらいまでは、メグの帰還を待ってくれているかもしれない。除隊されなかったのがその証だが、その厚意はきっと有限である。刻々と変化し、大抵は悪化するばかりの状況にあって、地に墜ちたマスコットの快癒を待つ余裕などない。欠ければ補充し、あちらからこちらに異動させ、継ぎをあてて数を揃えるだけのこと。それはメグ自身が一番よく知っている。

 ――ああ、つまり、わたしは。

 ルイ・ヴィッカースが新たなマスコットたらんことを願っているのか。

 メグは息を吐いて歯を食いしばる。

 親衛隊より性質たちが悪い。最悪だ。

 泥濘に杖を叩きつける。飛び散った泥が外套と頬を汚した。

 来てくれるな。

 来ないでくれ、ルイ・ヴィッカース。

 頬を拭い、顔を上げたメグの耳に、聞き慣れたゾキアのエンジン音が届いた。



 郵便公社所属を示す緑色のゾキアは雨がどうしたと言わんばかりの正確な操縦コントロールで飛行場に降りた。エンジン音を聞きつけたそばかす君や整備士たちキーパーが駆け出してきて、ゾキアとルイを迎える。

 いつもと変わらぬやりとりが交わされた後、ふと人垣が割れてルイがこちらに歩いてきた。大股で三歩ほど、十分に距離を置いた位置で立ち止まり、泥に汚れたメグを見つめる。彼の黒い眼は心なしか、いつもより柔らかかった。

「明日、昼飯でもどうかな」

「……は」

 予想もしなかった一言に、間の抜けた吐息がこぼれる。投げつけるべきかどうか逡巡していた棘だらけの言葉はあさっての方に転がって、振り上げた手だけが気まずい。

 ルイは幾分か疲れを滲ませた目元を和ませ、寒さで色を失った唇を吊り上げた。

「あんた、『女神』だろ。メグ・ファルマン。違うか」

「……違わない」

「じゃあ、あんたが今すべきことは、さっさと療養所へ帰って熱い風呂に入って湯気の立つ飯を食って眠ることだ」

「そう、ね」

 下がりきった防御ガード。態勢を立て直すこともできぬまま、予想外の方向から飛んできた正論にぐうの音も出ない。

「おれに話があるんだろ。おれからも話がある。どうせこの雨じゃ飛べないから、全部明日だ。風邪なんかひいてみろ、療養所に怒鳴り込むからな」

「……それはちょっと」

 言葉こそ荒いが、口調はさほどでもなかった。嫌みのないその態度ゆえか、彼の言い分はささくれだった心にすっと馴染んだ。

 ルイは顎をしゃくり、早く行けとせっつく。寒さで強張った身体をどうにかこうにか動かしていると、背後でルイが声を張り上げた。

「おいロビノー、お前どうして怪我してるお嬢さんを雨ん中ほったらかしにしてるんだよ!」

 ロビノーというのはそばかす君のことだろうか。彼は彼なりの気配りを見せてくれたのだ、彼があまり叱られませんようにとメグは思う。

 そして、ほんのわずかとはいえ、笑みを浮かべている自身に気づいた。お嬢さんと呼ばれるようなたまでも歳でもないけれども、悪くないものだ。「女神」なんぞよりもずっといい。




 指定された時間に指定された辻へ行くと、ルイ・ヴィッカースは先に着いていて、行き交う人々を眺めていた。

 つなぎの飛行服ではない姿を見るのは初めてで、特に飾ったところのない、普段着そのものの格好なのにじろじろと検分してしまい、そんなことをしてしまった自分自身にメグは戸惑う。

 メグはといえば、脚のギプスと腰のコルセットのせいで着る服を選べず、かといっていつも飛行場に出かけている部屋着同然の格好というのも気が引けて、一枚だけ持ってきていたワンピースを着ていた。昨夜、死に物狂いで畳み皺を伸ばしたけれど、みすぼらしく見えないだろうか。

 長いこと袖を通していなかったのに小花柄が気に入って捨てられなかったもので、療養生活で筋肉が落ちていたためにぴったり収まってほっと胸を撫で下ろすも、久々のスカートは足元が心許ない。隙だらけだと不安になるが、何を警戒しているのかと自意識過剰な己を嘲笑う冷めた部分もあって、落ち着かない。

 メグに気づいたルイもまた、メグが彼にそうしたように頭のてっぺんからつま先まで何度か視線を往復させ、不躾さを恥じるように微かに視線を逸らした。

「新聞で飛行服姿ばかり見てたから、不思議な気分だ」

「あなたも。そうしていればゾキア乗りにはとても見えない」

 恐らく、親衛隊の面々も気づかないのではないか。それほどルイの姿は街並みに自然に溶け込んでいて、緑のゾキアから降りてくる硬い表情の青年と同一人物には見えなかった。

 促され、近くの食堂に入る。入り口に対面して置かれているワゴンには色とりどりの総菜が並んでいて、葉野菜の緑、トマトの赤、南瓜の黄、香ばしい肉の焦げ目や魚に絡むソースの照り、あらゆるものが鮮やかで食欲をそそられた。

 窓際の空席で難儀しながら椅子とテーブルの隙間に身体をねじ込んで一息つくと、ルイがまた物珍しそうにこちらを見ているので、居心地悪く尻をもぞもぞさせる。

 間近で見ても、親衛隊ができるほどの美男子だとは思えなかったが、髪も髭も爪もきちんと手入れされているからか、だらしない印象はない。肩や腕には筋肉の陰影が浮かび、つなぎ姿でいるよりずっと逞しく見えた。

 待ち合わせた辻からの移動にしても、頼んだわけでもないのにメグに合わせてゆっくりと歩き、ごく自然に通りの側に立った。こういう気配りができる男は航空隊にはほんの少ししかおらず、感激したものだ。人当たりがよくて勤務態度も真面目、と人から聞いた話に一致する。悪人ではなさそうだが、得体が知れないことに変わりはなかった。

「具合はどう。昨日の雨で悪くなったりは……」

「何てことないわ。腰も脚もまだ装具が取れないし痛まないわけじゃないけど、じっとしてばかりじゃ筋肉が落ちるから、無理のない範囲でどんどん動くようにって言われてるの。あの……誘ってくれて有難う」

 ああ、とルイは歯を見せて微笑んだ。

「てっきり、断られると思ってた。もっと怖い人なのかと思ってたからさ。写真で見るのとはやっぱり違うね」

 何と答えてよいやら、青春時代を飛行機への情熱に費やしたメグは経験不足で俯くしかなかった。

 ルイと二人きりであるということが今更ながらに不思議で、断るべきだったのか、と弱気が差す。話したいことがあるのは本当だが、何をどう言えば伝わるのか。改めて向かい合うと、柔らかそうなブルネットや力強い眼差しに目を奪われる。たたずまいや何でもない仕草、雰囲気が航空隊の面々とは段違いに穏やかで丁寧で、ゾキアを自在に駆る飛行機乗りとしての技量を思うと、その落差に気が遠くなるのだった。

「墜ちたっていう記事を読んで、心配してたんだ。このひとは次にまた飛べるのかなって」

「それは……」

 身体的にか。それとも、気持ちの問題としてか。あるいは、軍における立場を気にかけてくれているのだろうか。

 いつものメグであれば、余計なお世話だと一蹴しただろう。けれどそうしなかったのは、多少なりともこの男に興味がわいてきたからだった。負傷したことへの心配ではなく、その先を想像できる男に。

「わからない。でも、飛びたいとは思う。前のように飛べるかはわからないけど」

「飛べるさ、何度だって。おれが言うんだから、間違いない」

 曲芸アクロなんて墜ちて怪我して上手くなるようなものだから、とルイは続け、軽やかに笑んだ。

 その眼に浮かぶ確信はどこまでも透明で、それは狂気と紙一重の純粋さだとメグは知っている。空に魅入られた者の、傲慢ともとれる言葉。選ばれて空を飛んでいるのだという自信と誇り、それらを支える空への執着、憧憬と崇拝。

「怖くなかった?」

「そりゃあ、少しは。死ぬな、って思ったことも一度や二度じゃきかないけど……わかるだろ」

「空で死ぬなら本望?」

「もちろん」

 夢見る少年そのままのルイの言葉は、凄惨な前線を目の当たりにしたメグには眩しすぎた。尖った言葉でぶちのめすのは容易いが、彼のように思っている純粋なメグも心の奥底にひっそり息づいていて、軍では到底表に出せないその純情を誇る姿に安堵する気持ちもあった。ここでは何もかもをさらけ出してよいのだと思うと、呼吸が楽になる気がする。

 前線を飛んでいるときは当然だった忍耐の日々が、極度の緊張ゆえのものだと、そんな当たり前のことに今更気づいて愕然とする。

 初対面のとき、この青いひたむきさ、清らかさを目の当たりにして動揺したのだと、ようやく納得がいった。戦場という現実が覆い隠していた柔い部分、幼い憧れを暴かれたようで気まずかったのだ。前線では蔑視と嘲笑につながるだろう、あの切なる願い、飛びたいという想いは、未だ失われていない。

 彼を戦場にやってはならないと、考えを改める。飛行機乗りたちの良心を取り出して服を着せたようなルイ・ヴィッカースは、敵機も銃弾も存在しない平らかな空で、美しく雲を曳いているべきだった。それは、メグをはじめとする軍属の飛行機乗りたちの、ひととして大切な何かを尊ぶことだから。血と煙と炎にまみれた戦場で、失ってはいけないものだから。

 彼を初めて見たあのとき、理由はわからないまでも、用意していた言葉をぶつけることができなくて正解だったのだ。直感はまだ衰えていない。

「でも……どうやって徴兵をかわしてるの? 前線じゃ一機でも多く飛ばせって、躍起になってるのに」

「それね、何度も言われたよ。療養に来た人に首根っこ掴まれて、非国民って怒鳴られたり、技術も能力もあるのに何故飛ばないって、泣かれたこともある」

 彼に向けて、言ってしまった人もいるのだ。ああ、という曖昧な相槌に何を思ったか、ルイはテーブルに身を乗り出して、声を潜めた。

「何てことはない、抜け道さ。戦争のために飛びたくないって我儘を、父が認めてくれただけ」

「お父さん?」

「姓は違うけどね。ジョルジュ・ベシュローって知ってる?」

「ベシュロー……大佐?」

 かつてエースと呼ばれ、輝かしい戦果を挙げた男である。負傷がもとで空を去り、今は乞われて軍の上層部にいる。多くの部下に守られた車椅子姿を、遠目に何度か見かけたことがあった。メグにしてみれば、まさに雲上人である。そのベシュロー大佐自らが、ルイを戦地に送らないでいるという。大佐の何を知っているわけではないが、自分と同じくルイに飛行機乗りの理想を見ているのでは、と思えた。

「もちろん、わかってる。おれがのうのうと飛んでいられるのは、きみらが命を懸けて飛んでくれてるからだって。おれのことが気にくわないっていうなら、殴ってくれても蹴ってくれても構わない。きみからなら、甘んじて受ける」

 言い切るルイの眼はいつもの透徹さをたたえていた。ベシュローの姓を名乗らないことも含め、複雑な事情を抱えているのだろう、単なるぼんぼんではないのだ。

 理想や憧れだけで空は飛べない。大義名分や欲望だけでも。妄執と呼んで差し支えない何か、悪魔に魂を捧げても構わぬと断言する狂気の片鱗を抱いた者が科学の手助けを得て空に挑む。人を飛ばすのは人の想い以外にない。飛びたいと思う心、飛ばせたいと思う心、飛べるはずだと思う心。

 空にいる限りその覚悟は様々な形で問われ続け、信念を手放した者から墜ちてゆくのだ。

 ルイはルイの空を飛ぶ。飛行機乗りたちがなげうった理想を背負って。

 ならばメグはメグの空を、前線を飛ぼう。空に線を引く行為に荷担するのは本意ではないが、汚れない、守るべき一線はルイに預ければよい。メグに必要なのはただ、飛ぶ、飛べる、墜ちぬ、そう信じることのみ。飛びたいのだという自らの本能と、整備士たちが用意したメグを飛ばすための翼に、誠実であるのみだ。

「あなたを殴る蹴るするより、ゾキアをどうこうする方がこたえるでしょ」

「……違いない」

 ひとしきり笑いあって、思い出したように運ばれてきた料理を楽しむ。

 これまでに食べたどんな食事よりも、忘れられぬ味がした。




 前線基地へ戻る前日、久しぶりにメグは飛行場を訪ねた。昼食を共にした日からさらに二月が経ち、空の高い、汗ばむ季節になっていた。

 親衛隊からは離れて、滑走路脇でゾキアの着陸を眺める。相変わらずいい腕をしていた。

 いつも通りの手順で荷の交換を終えたルイは黄色い声援には見向きもせず、まっすぐにメグのところへやってきて、やあ、と手を挙げる。

「行くのか」

「ええ。明日の便で」

「そうか、気をつけて。また新聞に載るのを待つよ」

「やめてよ、あれ、あることないこと書き立てられてほんと嫌なんだから」

「記事はどうでもいいんだ」

 基地に戻ればまたあの不躾な記者たちの相手をしなければならないのか、とうんざりした気分を振り払うようなルイの返答に、え、と声が漏れる。

「きみが無事でいることがわかれば、何だっていい」

「……はあ」

 気の利いた言葉も見つからず、どうも、と頭を下げると、ルイが悲壮な顔で唇をわななかせていた。これまで激することもなく、大きく表情を変えることもなかっただけに、意外だった。いや、ゾキアの翼がもげたと告げられれば、こんな表情になるかもしれない。

「全部終わったら、また会いに来るから」

「……うん、待ってるよ。あの……」

「じゃあ」

 湿っぽくなる前にと踵を返すや、待ってと呼び止められる。何かと思えば、ルイが絶大なる非難を込めた眼差しでメグを見下ろしていた。

「何?」

「いや、何、じゃなくて。こういうとき、ふつうは……ほら、出会った記念にとか、今度会ったら返してとか言って、こう、大切なものを交換する、みたいな」

「小説の読み過ぎじゃないの」

 思いのほか、女々しいことを言う。この期に及んで何を面倒くさいことを、とつい本音が声色と顔に出てしまって、ルイがまたしても盛大に傷ついた顔をする。

 それが捨てられた子犬のように哀れで、まるでこちらが悪いことをしたかのように思えてくるから不思議だった。いたたまれなくなって、言うつもりのなかったことを、敢えて告げる。

「ルイ・ヴィッカース。あなたには、わたしの理想を預けてるの。あなたはここで郵便物を運んで雲を曳いて飛んで、わたしはこの空を守るために前線へ帰る。これ以上預けるものなんてない、わかるでしょ。『女神』の理想よ、有難く思いなさい」

「……理想、ね。理想。……うん、まあ、悪くはない、かな」

「今ものすごく自分に都合の良いように解釈をねじ曲げたように思えたんだけど」

「そんな、まさか。ひどいな、おれだって同じ飛行機乗りだ。わかるよ、メグ。きみの理想は、おれが預かる。その代わり、ちゃんと引き取りに来てくれよ。……待ってるから」

「約束する。それじゃあ、ルイも元気で」

「きみも」

 差し出された右手を握り返す。

 ルイの手はさらりと乾いて、メグの手を易々と包み込むほどに大きかった。



 そしてメグ・ファルマンは空に帰る。

 目を閉じれば、低い空をかすめるように飛ぶ、緑色のゾキアの機影を思い出すことができる。山に反響するエンジンの咆哮に背筋が粟立つ。

 幼稚な、けれど光り輝く理想はあの空で、いつでも銀色の雲を曳いて軽やかに舞っているのだ。

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雲曳きの配達人 凪野基 @bgkaisei

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