鶴の恩返し

奥森 蛍

第1話 鶴の恩返し

 きれいな茜空の上に差し始めた紫の夕暮れの空を烏がカアカアと鳴きながら横切っていく。水平線の向こうから真っ直ぐな伸びた橙の光が辺り一面を燃えたように明々と照らし出し、バットにグローブを引っ提げたすれ違う子供たちの伸びた黒い影は、あれよあれよと競争をするようにしてスタスタと駆けていく。


 他愛もない別れの挨拶を交わしてその子らは方々に散る。ひとり残された僕は駅から自宅までの20分の道のりをとぼとぼと歩いた。


 システムエンジニアの仕事につき今年で十三年目になる。四年制大学を卒業した後、就職した初めての会社で、しがない地元の中小企業だ。ひがな一日パソコンと向き合う環境で、職業病といっても良いがとにかく目や肩が異常に凝る。


 入社時には1.5有った自慢の視力も酷使したことで入社半年で0.7~0.8に低下し、今では堂々のメガネ男子となっていた。毎日、得意先にせくせくと電話しては誰が見ているというわけでもないのにペコペコと頭を下げ、要望に合ったソフトを作る。頼みの休憩時間は心を休めるのにいっぱいで、食事のことにまで頭が回らない。ぼやける頭にコーヒーのカフェインを流し込んで自分を保つのが精いっぱい。仕事と向かい合うだけの日々に辟易としていた。


 背中のリュックは脱力した僕の肩に重くのしかかる。差す夕暮れがしなびた僕の肩と右手に持った夕食のコンビニ袋を照らしていた。 


 子どもたちの声も聞こえなくなり、空には一番星が輝き始める。通りに面した空き地からヒステリックな少女の声が聞こえた。


「てめえ、いい気になってんじゃねえぞ! ちょっとモテるからって調子こいてんじゃねえぞブス」

「今度、うちらの彼氏にちょっかい出したらただじゃおかねえからな」


 物騒な会話だ。近所の高校の制服が見える。どうやら空き地に居るのは女子高生のようだった。同じ学校の生徒らしい。5、6人程が集まり一人の少女を取り囲んでいる。囲まれた少女は座り込んで、どうやら暴力を受けたらしく鼻血を出していた。

こういう揉め事には一切関わり合いになりたくないのだが、見捨てるのも心が痛む。相手は少女たちだからと勇気を振り絞って義侠心を振りかざした。


「止めないか君達、寄ってたかって一人の子をいじめるなんて何を考えているんだ!」


 すると連中は一斉に狂気の視線を向けて怒声を上げた。


「なんだてめえ?」

「やるってんのか? おら」


 一瞬怯んだが相手はただの礼儀を知らないただのミニスカート連中だ。


「喧嘩を止めないと警察を呼ぶ」

 スマートフォンを取り出し、きっぱりとした声で脅した。

 すると一人の女子高生が近づいて来て僕のスマートフォンを取り上げ、地面に落とすとなじるように踏みつけた。


「るっせえ! すっこんでろじじい!」




 結果僕は奮起した。携帯を踏みつけられた事が一番の理由だが、爺と呼ばれたのにも我慢がならなかった。日頃の鬱憤も爆発して僕は仕事鞄を振り上げると腹の底から唸り声を上げた。


「ううおおおおーーー!」

 すると女子高生たちは一斉に顔色を変えて後ずさりした。


「うわっ、何だコイツ!」

「やべっ、行こうぜ行こっ」


 我を捨てた権幕に気圧され彼女らは蜘蛛の子を散らしたように一目散に逃げ出ていった。


 だだっ広い空き地にはぽつりと僕と手負いの少女一人が残される。


 僕は少女に「大丈夫?」と声かけしてポケットティッシュを丸ごと渡すと、鼻血を拭くよう促した。


 少女は無言で受け取りせっせと鼻血を拭く。鼻血の付いたティッシュは四、五枚になり少女はそれを自らの制服のポケットにまとめてしまい込んだ。


 土にまみれたスマートフォンを拾い上げ、安否を確認する。幸いにもスマートフォンは土にまみれた程度で画面に傷一つ付いていなかった。ほっとする。


 僕は項垂れたままの少女に手を差し伸べた。気づいた少女はスッと僕の手を握る。少女の手は氷のように冷たく引き上げると少女自身は羽のように軽かった。立ち上がる時に濡れカラスのような彼女の長い黒髪がはらりと流れ、中から陶器のような色白の顔がのぞく。漆黒の切れ長な瞳にバラ色の小さな唇。よわい十六、七歳だろうがそれを感じさせぬほどの色香に僕はぞくりとした。


「……ありがとう」

 立ち上がり静かに彼女は言った。


「あ、いや……」

 思わずどもってしまう。


「膝も血が出てるけど大丈夫?」

「平気です」


「そう、それじゃあ……」

 焦る僕は思わずカタコトになりロボットのように機械的に回れ右をする。




 少女は美しかった。美術館に飾られている絵画のように完成されてスッと澄み渡る静けさが潔かった。本音では彼女とこれをきっかけにお近づきに。ということも全く考えなかったわけでは無いが歳は倍半分ほど離れているし、社会人としてのモラルがそれを許さなかった。僕は今日見ず知らずの彼女を助けた。それだけでいい。


「あの」


 背後から彼女の声がして僕は振り返った。


「このご恩はいつか」




 このご恩はいつか、何て完成された響きだと思った。最近の日本でご恩など意味を知っていても口にすることが有るだろうか。古風な見目の少女にぴったりの言葉だと思った。手負いの少女を助けて恩返しを受ける。


――まるで鶴の恩返しだな。


 一ついいことをしただけで気分は晴れやかだった。帰り道、小さい時に絵本で読んだ鶴の恩返しを思い浮かべながら実は彼女は大会社の令嬢でたんまりとご褒美がもらえるのではと不純な妄想を巡らせながら自宅へと帰った。




 当然のことながら、彼女からの恩返しは無かった。毎日同じ空き地の前を通ったけれど彼女の姿は無く僕の日常もいつものままだった。別に恩赦を期待して助けたわけじゃない。助けたことすらもいつしか日常の中に埋没していき彼女の存在を忘れかけた頃、ある日突然再会の時は訪れた。


「ピーンポーン」

 土曜の午前中、インターホンのなる音で目が覚めた。布団から起きずに鳴りを潜めていると再びインターホンが鳴る。僕は慌てて床に散らばる洋服をかき集め取り敢えずに着替える。


「ピーンポーン、ピーンポーン、ピポピポ、ピンポーン」

「はいはい、出るって出るって」


 立てつけの悪い扉を開けるとそこに居たのはあの日の少女だった。しんしんと雪の降る日の出来事だった。




「汚いんですね」

 彼女は部屋の中を見るなり言った。


「あっ、いやこれは……」

「片付けます」


 静かに微笑んで彼女は部屋に上がろうとする。


「待って待って、ちょっと待って」

「何ですか?」

「片付けるって何?」


 僕の焦る声に少女は当然だと言わんばかりに答える。


「散らかってますよね、片付けます」

「片付けるってちょっと……」


 戸惑う僕を尻目に部屋の中に上がり込んで少女は黙々と片付けを始めた。


 敷きっぱなしの男臭漂う布団を上げて、脱ぎ散らかした洋服を畳み掃除機をかける。シンクの中に溜まった汚れ物を全て洗い、床を雑巾で拭く。ものの三時間ほどで彼女は片づけを終えてしまった。


 その後、空腹の僕のために米を炊いて温かい味噌汁を作ってくれた。その光景を部屋の隅に追いやられた座卓の前でぼうっと見ていた。調理を終えた彼女が一息つき僕の前までやって来て正座をして頭を垂れた。


「行く当てがなくて困っています。どうかここに置いてください」




 少女の味噌汁は美味かった。長年独り暮らしの体に染み渡った。彼女の申し出を受け入れるには十分の美味さだった。しかし、身寄りのない未成年の少女を男の一人住まいに置く。この事に問題は無いのだろうか。そもそも身寄りがないということ自体本当なのだろうか。


 色々と心配し彼女に家や両親のことを質問した。しかし、彼女は「大丈夫です」と短く答えるばかり。学校や友達の事などについても質問したがこれには白い頬をやんわりと桃色に染め、はずかしそうに眼を伏せるだけ、結局肝心なことは何も答えてくれなかった。


 教えてもらったのは名前ばかり……

 彼女は名を『鶴子』と言った。




 部屋が欲しいと希望した鶴子のためにダイニングの隣の四畳一間を宛がった。生活の全てをダイニングで行っているため通常は使用していない物置の部屋だ。鶴子はこじんまりとした部屋とひんやりとした畳の感触そして窓辺を気に入り大層喜んだ。今日から鶴子と僕の二人暮らしだ。事情はともかくこれが同棲と言うやつなのだろうか。嬉々とする僕に鶴子は部屋のドアを閉めながら言った。


「絶対に覗かないでください」




 鶴子は次の日も次の日も居続けた。

 毎朝僕の目覚める頃に美味しい朝食を作り、夕方会社から帰宅すると温かな御飯で出迎えてくれた。僕は幸せだった。鶴子はどんなつまらない話でも頬を上気させ笑ってくれたし、落ち込んでいた日には微笑んで励ましてくれた。彼女とずっと一緒に居られたらどんなに幸せだろう。そして自分の思考の愚かさに気づく。


――ずっと? ずっとはいつまで?


 僕は鶴の恩返しを思い出した。




 雪の降る日、とある翁が罠にかかった鶴を助ける。その夜雪の降るなか翁夫婦の元に一人の娘がやって来て親戚の所に行く途中雪で道に迷ったので泊めてほしいと懇願する。次の日も次の日も雪はやまず娘も居座り続ける。ある日、娘は素性も知れぬ親戚筋の所に行くよりいっそ翁夫婦の娘にしてほしいと申し出、翁夫婦はこれを了承する。ある日娘は「絶対覗かないでください」と言い置き部屋でこっそり機織りをして美しい布をあつらえる。その布はたちまち町で評判を呼び高値で売れ翁夫婦は富を得る。しかし、ある日翁夫婦は娘の正体を知ってしまう。実は娘は翁の助けた鶴で、自らの羽を布に織り込みそれで美しい布を織っていた。正体のばれた羽の抜けた鶴は翁夫婦に別れを告げ娘から鶴へと姿を変え空へと旅立って行った。


 鶴子の絶対覗かないでくださいというその言葉は僕の心中にずっと居座り続けた。妄想は膨らみ。いつしか鶴子は実は鶴で助けた僕に恩返しをするために人に姿を変えてやって来たのではないかと思うようになった。鶴子は僕のために機織り、もとい機織りに代わる何かをこっそりして僕に恩返しをしようとしているのではないかと。事実、鶴子の部屋からは夜な夜な明かりが漏れ、時折、彼女のたてる静かなコトンという音が朝方まで続いた。


 僕は部屋を覗かなかった。鶴子は覗くなと言ったし、それがマナーだ。だが、一番の大きな理由は僕が鶴子の正体を知ると鶴子が出て行くのではないかと懸念していたからだ。


 覗いても鶴子が出て行くという確証はない。ノックをして開けるのであれば何も問題は無いだろう。しかし、鶴子は出て行く。僕はそう予感していた。鶴子に出て行って欲しくなどない。鶴子の居た生活は僕にとって珠玉の日々だった。あの美味しい味噌汁、優しい笑顔、清らかな笑い声。それ以外に何を求めるというのだ。


 鶴子の正体など知ったことかと。僕は悶々とする頭を抱える様に布団をかぶり眠りに就いた。



 

 そんな生活に変化の兆しが訪れたのは寒い雪の舞う朝のことだった。いつも通り僕が起きると鶴子は台所に立ち、朝食の準備をしていた。しかし、様子はいつもと違っていた。室内だというのにピンクのニット帽を目深にかぶりすこぶる寒そうに調理をしていた。


「おはようございます」


 僕の顔を見た鶴子は口元に少しだけ笑みを浮かべ、そう挨拶をする。何だかやつれて見えた。


「鶴子!」


 僕は思わず声をかける。


「?」

「あ、いや何でもない」


 それ以上問い質す勇気が無かった。夜なべして何をしている? そんなやつれた顔で笑うな。言いたいことは沢山あったが、健気な花のように笑い返す鶴子を見て僕は何も言えなくなった。僕は黙って部屋の暖房を入れた。


「ご飯入れますね」


 鶴子は茶碗に飯をよそい座卓に着く。まるで、新婚夫婦のようとも幾度となく思った。鶴子は鶴なのだろうか? ご飯を食べながらそんな事を考える。ふと聞いてみたくなり僕は様子を伺いそっと聞く。


「鶴子……」

「はい?」

「君は鶴……なのかい?」

「いやだ、まさか」


 鶴子は恥ずかしそうに頬を染めて否定する。ははっ、当然だよなと言って僕は続ける。


「君を見ていると鶴の恩返しを思い出したんだ。だから聞いてみたくなった、それだけだよ」

「びっくりしました」


 鶴子は息を吐き肩の力をそっと抜く。そんな鶴子の様子を見て僕も息を吐く。鶴子と僕の息はまるでピッタリだった。長年連れ添った夫婦でもこうなるのは難しいだろうと一人思う。気が付けば僕は密かに鶴子との結婚生活を意識し始めていた。まだ、共に暮らし始めて一週間だ。早すぎる。それに鶴子はまだ十六だ。


 僕には若すぎる。彼女が大人なら苦心する事は無いのに。心からそう思った。




 その日、散歩に行こうと彼女を外に連れ出した。鶴子は部屋にこもってばかりでそれでは体に毒だと思ったからだ。雪の舞う中彼女は嬉しそうに舞った。


「わあ、雪が綺麗。あとどれくらい降ったら積もるのかしら」


 少し痩せて青白い彼女の肌は雪の白光を受けてより輝いた。やつれていたが美しかった。雪の似合う鶴、差し込む夕焼けが彼女と雪を照らし出しそれはまるで東北の田園風景のよう。


 その時、僕は確信した。彼女はやはり鶴なのだと――。


 その晩、僕は眠ることが出来なかった。隣の部屋に鶴が居る。扉を開けるとそれは鶴子では無くて鶴だ。そんな思いに取り付かれた。僕は扉を開けてみたくなった。そっと起きて彼女の部屋の扉を叩いた。


――コンコン。


「はい」


 電気の光が扉の隙間から漏れ、中からか細い声がする。僕は中には踏み込まずドアの前で問う。


「鶴子、鶴子かい」

「はい、鶴子です」


「何をやっているんだい」

「何も」


「こんな夜更けまで毎晩毎晩。体に毒だよ。早く寝ないと」

「じきに寝ます」


「鶴子、ここを開けてくれないか?」

「いやです」


「鶴子」

「ここを開けるというのなら鶴子は出て行きます」


 僕はそれ以上言う事が出来なくなってしまった。彼女の正体は知りたい。けれどここを開けると鶴子は出て行く。結局僕は扉を開ける事が出来ずその晩を明かした。


 次の日も鶴子はピンクのニット帽をかぶって台所に立っていた。


「おはようございます」

 鶴子は昨晩の事は何事も無かったかのように儚い笑顔で微笑んだ。


「ああ、お早う」


 僕も何事も無かったかのように振る舞った。これでいいのだろうか。僕の心のもやもやは晴れなかったが鶴子のことを思うとそれ以上真相を追及することは出来なかった。




 だがある日、ついに僕は鶴子の正体を知ってしまう事になる。


 それは急な雨天で洗濯物を取り込もうとした時の事だった。僕は鶴子の存在を失念し、彼女の部屋を開けてしまったのだ。しまった、と思ったが時は既に遅かった。驚いた鶴子は慌てて立ち上がる。僕は立ち尽くす。そこに居たのは一羽の鶴では無く、ただのやはり鶴子であった。しかし、毛を無残にむしりとられた一羽の悲しい鶴……


 鶴子はつるりと禿げていた。彼女の手からはらりと一つの異物がこぼれ落ちる。それは決して錦の織物などでは無く、漆黒にきらりと光る美しい『かつら』。


 そう僕は禿げていた。悲しい事実だが僕はうっすら禿げていた。鶴子はそんな僕を哀れんで自らの美しい髪を犠牲にかつらを織りあげていたのだ。つるっぱげの鶴子とうすら禿の僕の視線が交錯する。


「鶴子……」

「見ないでくださいと言ったのに見てしまったのですね」


 彼女は凍り付いたような顔で言った。


「正体がばれてしまった以上これでお別れです。私は出て行かなくてはなりません」

「鶴っ……」

 鶴子はピンクのニット帽を手にし、冬の寒空へと羽ばたく様に消えていった。後に残されたのは漆黒の美しいかつらと三十五の悲しい翁がただ一人であった。

                                      (了)


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