春の卵焼き

麦野陽

第1話

「徐々にだよ」


 目線を落とし、一臣は言った。なにもついていないのに、指先をこすり合わせる癖が一臣にはある。そして、その癖は、嘘をついているときに出るものだった。


「すきじゃなくなったって?」


「いや……そうじゃなくて」


 わたしは仁王立ちで一臣を見下ろしていた。頭のつむじに白髪が一本生えている。一臣は白髪を抜こうとするとひどく怒った。うちの家系はみんな薄いんだよ。真剣な顔の一臣を見て、わたしが笑うと彼はいつもこう言った。


「ちかちゃんだって、将来旦那になる男が薄毛なんていやでしょ」


それを聞いてわたしはいつもこう答えるのだった。


「そんなこと気にしないよ。だって、わたしも家系的に横に太る未来が約束されているもの」


 懐かしいじゃれあい。いまや、それが本当にあったことなのかすら、怪しい。


 一臣は、うつむいたまま、指先をこすり続けている。そのまま、指先がなくなってしまえばいいのに。半分本気で、そう思った。


「とにかく」


 次に一臣が口をひらいたのは、時計の針が四をさした時だった。薄い唇が震えている。


「とにかく、なに」


 わたしを見上げる一臣の口が、魚のようにぱくぱくひらいた。しかし、言葉は出てこない。ずるい男。わたしが咳払いすると、一臣は目を泳がせた。


「黙っていても、わからないよ」


「う、ん。つまり、その」


 言葉を発するたびに、声のボリュームと目線が下がっていく。一臣の白髪を見るのは、きょうで何度目なんだろう。わたしは、腕を組んでため息を吐いた。


「終わりにしたいってことなの」


 ハッと一臣は顔をあげた。瞬間、ひさしぶりに一臣とちゃんと目があった。こんなに目尻が下がっていたっけ、このひと。それは、新鮮な感覚だった。ずっと一緒に暮らしていたのに、一臣の変化にわたしは気がついていなかったのだ。


「えっと」


 一臣の指先の動きは止まっていた。


 この男、ほんとに。


 わたしは立ち上がると、寝室のクローゼットにむかった。そこには、二人分の衣類や荷物が詰めてある。右側が一臣、左側がわたし。そう決めたのはわたしだった。一臣は整頓という言葉を知らない。きっと、母親の子宮にでも置いてきたのだ。決断力と一緒に。


 三段ボックスの上を引き抜くと、わたしはその場で逆さまにした。軽い金属音や鈍い音が寝室に響き、空になったボックスをベットへ放り投げた。洗いたてのベットシーツがすこし波うつ。


「なにするんだよ」


 二段目に手をかけようとしたとき、一臣が言った。振り返ると、寝室の入り口で怒ったような驚いたような顔をした一臣が立っていた。


「なにって」


 わたしは、本能のように二段目の引き出しを引き抜いて逆さまにした。


「荷造りを手伝ってあげようと思って」


 どさどさどさ。白いTシャツが落ちていく。空になった二段目を同じようにベットに放り投げると、ボックス同士がぶつかる音がした。このボックスも、もういらない。


「え、もう出ていかないといけないの」


「は」


 わたしは、三段目のボックスに手をかける。いったい、この男はなにを言っているんだろう。三段目のボックスは一番容量が大きく、服がぎっしり詰まっている。重い。わたしは両腕に力をこめて、ボックスをひきぬいた。


「だって、急じゃないか」


「それはこっちのセリフよ!」


 ばさばさばさ。ジーンズが白いTシャツの上に落ちていく。空になったボックスを一臣にむかって投げたが、届かなかった。一臣は、徐々に気持ちの整理をつけていたのだろう。しかし、わたしにとっては急だった。だって、昨日まで、一緒にテレビを見て笑っていたじゃないの。この芸人さん、面白いねって、言い合ったじゃないの。一緒に晩御飯にハンバーグを食べて、一緒にベッドで眠って。一緒に、一緒に、一緒に。


「ちかちゃん」


 三段目のボックスを拾って、一臣は言った。


「ごめんね」


 わたしの横を通り抜けて、一臣はベッドに三段目のボックスを置いた。それから、隣のクローゼットをひらいて、ボストンバッグを取り出し山の前に座った。


「たくさんあるなあ」


 白いTシャツをつまんで広げると、一臣は言った。襟がすっかり伸びきっているそれは、わたしがいつぞやプレゼントしたものだった。


「それ、いい機会だから捨てたら」


「うーん」


 きれいにたたみなおすと、一臣はTシャツをボストンバッグにしまった。


「気に入ってるんだよ、このTシャツ」


「荷物増えるだけじゃないの。ばっかみたい」


 意識的に強く足音をたてて、わたしはベランダに出た。春の陽ざしはやわらかく、じわじわとわたしの体を照りつける。ジーンズのポケットから煙草とライターを取り出すと、わたしは火をつけた。




 一臣と最初に出会ったのは、近所の居酒屋だった。お互いひどく酔っていて、なにやら話しているうちに、距離が近くなり、あれよあれよという間に、気づいたらわたしの部屋に一臣が転がりこんでいた。


「将来は作家になりたいんだ」


 一臣はよくそう言っていた。ぼくの頭の中には、たくさんの物語が詰まっているんだ。熱く語る一臣の姿をわたしは思い出す。


 バイトが終わると、ちゃぶ台にたくさんの紙を広げ、一臣はペンを握った。深夜、彼の後頭部をずっと見続けてきたが、しかし、ひとつとして完成することはなかった。


 階下から子どもたちの声がする。そうか、春休みか。ふう。唇をひらくと、煙は細く高く上がっていく。


 このまま時間が止まればいいのに。


 水の入った空き缶に煙草を落とすと、わたしは暗い室内に戻った。明るいところから暗いところに入ると、一瞬なにも見えなくなる。一臣も、二人で選んだ緑色のソファも。


「コーヒー、飲む?」


 しゅんしゅんとお湯が沸く音がして、一臣が言った。


「片づけは?」


 なんでそんなに呑気にしていられるのだろう。いらいらする。わたしは腕を組むと、壁にもたれかかった。


「だいたい終わったよ」


 牛乳、牛乳。歌うように一臣は言って、冷蔵庫をあける。さっきまでおどおどしていたのが嘘みたいに、一臣は機嫌がいい。その機嫌のいい理由に、すべてではなくともわたしのことも含まれていることが腹立たしかった。そして、そのことに腹が立っている自分がみっともなかった。


「ねえ、いる?」


 一瞬、なにを訊かれているのかわからなかった。ずずっ。一臣がカップを傾けている。


「いらない」


 きっと、牛乳と砂糖がたっぷりのコーヒーを飲んでいるのだろう。色がもったりしたあまいだけの飲み物。


「せっかく二人分沸かしたのになあ」


 だー。勢いよく傾けられたお湯はシンクを熱く叩いて流れていく。熱いものを流すときは、水も一緒に流してって何回も教えたのに。結局、最後まで直らなかったな。わたしは、緑色のソファに座った。


 一臣は、台所に立ったまま、おいしそうにコーヒーを飲む。緑色のソファにおもいきりもたれて、わたしはいつまでも減らないコーヒーについて考えていた。ずるずると一臣はコーヒーをすすっている。





 ボストンバッグをひとつ。手提げをふたつ。それからリュックを背負って一臣は玄関に立った。


「じゃあ」


 なんて情けない顔をしているんだろう。一臣はいまにも泣き出しそうな顔をしていた。どうして、そっちが泣きそうな顔をするのよ。ずるい。わたしはぐっと奥歯を噛んだ。


「うん」


 腕を組み玄関の壁にもたれかかる。触れる二の腕がほんのり冷たい。暑い日、壁が冷たいことに興奮することも、競争のようにふたりして壁にひっつくことも今年からなくなるのだ。永遠に。考えて、びっくりした。永遠という言葉の強さに。それから、まさにいまそれがいま起ころうとしていることに。


「あの」


 うつむいていた一臣が顔をあげた。


「なに」


 返事をすると、一臣は意を決したように、声を張った。


「俺のものが残ってたら」


「捨てるよ」


「うん」


「全部捨てる」


「うん」


 一臣は、わたしの顔を見た。わたしも一臣を見た。黒子のあるおでこも、下がった目尻も、薄い唇も、きょうからわたしの世界からいなくなる。


「やっぱり、出ていくのは明日に」


「日が暮れるよ」


 目がぐらついた一臣を見て、わたしは胸が苦しくなった。出て行ってほしい。出て行ってほしくない。もう、わからなかった。


 玄関の扉がひらいて、春の風がわたしの髪を揺らす。ああ。わたしは奥歯を強く、強く噛んだ。


「じゃあ」


 一臣は手提げをふたつとも左手に持ち、右手をあげた。扉の外の陽ざしが、一臣の輪郭をぼやけさせる。


「うん」

 手をあげ頷くと、春の陽ざしはだんだんと細くなり、がちゃりと音をたてて消えた。


 冷たい壁がじわじわと温かくなってきて、わたしはゆっくりまばたきをした。また、扉がひらく気がして、わたしはドアノブを凝視した。しかし、まわらなかった。そのうち、立っていることに疲れてきて、わたしは座り込んだ。


 ぼやけた室内の闇が、いっそう深くなってもドアノブはまわらなかった。一臣はいったいあの大荷物でどこに行ったのだろう。あてはあるのだろうか。考えるも、わたしは頭を振った。わたしの世界にいない人のことを考えても仕方がない。そう思うのに、体は動かなかった。まるでお尻に根っこが生えたみたいに、わたしの体は立ち上がることを拒否していた。


 あしたが休みでよかったと、心の底からわたしは思った。そうでなければ、ひどい顔で出勤することになってしまう。それだけは避けたかった。


 なにか、食べよう。ようやく立ち上がると、暗闇の中、わたしは台所へむかった。手探りで電気を探し、攻撃的な明るさに目を細める。明るさに目が慣れてきたとき、わたしはそれを見つけた。見慣れたマグカップ。底に丸く茶色の液体が残っている。わたしは、それを持ち上げた。いま、力を緩めれば、これは落下する。そして粉々になるだろう。だけど。わたしは、洗剤を含ませたスポンジを手に取り、念入りにマグカップを洗った。


 あんな男のいったいどこがよかったのか。いなくなってくれて、せいせいする。勇んで冷蔵庫をひらくと、卵が目に入った。十個一パック九十八円。昨日、わたしは二パックも買ったのだ。一臣は卵がすきだった。


 しっかりしなくては。わたしは、一パックまるまる取り出すと、次々ボウルに割りいれた。ひとつ、ふたつ、みっつ。平らなところにぶつけて、わたしはひびに親指を差し入れる。


「俺はね、かっこいい割り方ができるよ」


 そう言って、一臣は片手で卵を割った。得意げな顔と卵の黄色ばかり、頭のなかでちかちかと点滅する。


 ぱかり。わたしは最後のひとつを割りいれると、醤油をぐるりと垂らした。一臣は甘い卵焼きがすきだった。わたしは、甘いのは得意ではなかった。でも、一臣が喜ぶから、いつもすこし甘くした。菜箸で混ぜると、ボウルの中は黄色一色に染まった。


 油を薄くひいて、卵液を垂らす。じゅわっと音がして、香ばしい匂いが広がった。菜箸で大きく円を描くと、黄色のひだがつやつやと光った。


 あのとき、引き止めれば。手前から、奥へくるくると卵を巻いていく。うっすら焦げ目のついた外側が見えて、わたしはため息をついた。一臣の申し出に頷いて、そうだね明日にしようって言えば、よかったのか。それとも、別れたくないと叫べばよかった? 焼けた卵を手前に寄せて、さらに薄く油をひく。卵液をたらすと、混ざりきってない白身がどろりと落ちた。


 いや、ちがう。これでいいのだ。よかったのだ。別れるタイミングが今か未来かのちがいだ。些細なことだ。大丈夫。わたしは、大丈夫。


「ふぅっ」


 足の甲でいくつも水が弾ける。何度か服の袖でわたしは目を拭った。そうしなければ、視界がぼやけて、卵が上手に焼けない。焦げた卵焼きは食べたくない。わたしはいま、自分のために焼いた美味しい卵焼きが食べたい。


 ぽるん。皿に取り出すと、大きな卵焼きは震えた。真ん中に箸の先を差し入れると、柔らかさがとろりと流れた。


 一口、二口、わたしは立ったまま口に運び続けた。ふわふわと舌の上で転ぶ卵の焼き具合が愛おしい。最後の一口を飲み込むと、すこし満たされた気がした。


 スポンジに洗剤を含ませ皿を丁寧に洗い、さっき洗った一臣のマグカップの横に置いた。キッチンの電気を消すと、室内に闇が戻ったが、わたしは平気だった。ゆっくり寝室に辿りつくと、空のボックスを床に置き、わたしはベッドに横になった。カーテンが引かれていない窓のむこうに、いくつもライトが点滅しているのが見えて、わたしは目を閉じる。シーツから、春の陽ざしの匂いがした。

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