第42話 一幕が終わる前に



 七十年ぶりの達成者だった。

 しかもほとんど独力で登ってきたのだと言う。

 興味が沸かないはずがなかった。ゆっくりと精神を磨耗させていく年月において、彼ら達成者に会うことはいい気晴らしになったのだ。

 扉を開ける音がした。足音はしない。かなり腕の立つ人物なのだろう。

 ティナーシャはカップにお茶を注ぎながら美しい声で呼びかけた。

「ようこそ」

 そして彼女は、彼に出会ったのである。




 ※ ※ ※ ※




「ほ、本当に気が変わってしまった……」

 ティナーシャは鏡の中に座る自分を見ながら愕然と呟いた。

 彼の守護者として過ごした一年が、長かったようにもあっという間の出来事にも思える。

 鏡の中のパミラが感無量といった表情で微笑んだ。

「お綺麗ですよ。こんなお美しい花嫁はいらっしゃいませんわ」

「まさか結婚するとは夢にも思いませんでした」

「誰しもそう言うものですよ」

 二人の他人事な会話をよそに、花嫁に真剣な顔でヴェールをつけていたシルヴィアが、ふっと息をつくと体を起こした。

「出来ました! もう動かれても平気ですよ!」

「ありがとうございます」

 ティナーシャは言われて恐る恐る立ち上がった。ドレスの裾もヴェールも支度部屋の半分に広がるほど長い。純白のレースを纏った魔女は、目だけが深淵のように深い闇色だった。

 ティナーシャは二、三歩歩くと嘆息する。

「転移した方が早そうですね」

「歩いてください!」

「ううう。ドレスが重たい」

 丁度その時扉が叩かれる。文官がティナーシャを呼びに来たのだ。

 ヴェールの裾を整えていたパミラが扉を開ける。外に居た者たちが花嫁を見て息を呑む中を、ティナーシャは苦笑すると無造作に歩き出した。



 城の西にある大聖堂には既に国内外の招待客が集まってきていた。

 オスカーは控えの部屋で手袋を嵌めながら、隣に立つ父を見やる。

「とても面倒くさい。もっと簡略でいいのに」

「歴史に残るよ。二度とないから精々お披露目しなさい」

 父の「二度とない」とはどういう意味で言っているのか。よく分からなかったが、オスカーは渋々頷いた。即位式を簡略化したので、その代わりと思えば諦めもつくかもしれない。

 一方魔女である花嫁は、一旦城都の外に出てから民衆にお披露目をしつつ城に来ることになっている。おそらく政略結婚で他国から花嫁を迎えていた時代の名残なのだろう。彼はそれを安全性の面で反対したのだが、彼の花嫁は彼を守護するより楽、と言い切った。今頃その為の馬車の準備がされているはずである。


 とは言えオスカー自身、肝心の彼女には、お互いが忙しいのとしきたりとやらでもう一週間以上会っていない。簡略化しろと苦情も言いたくなるものだ。

 彼は腰に佩いた王剣を鏡越しに確認する。

「ほら、時間みたいだ」

 ケヴィンが笑いながら言った。オスカーは頷くと、扉に向かって歩き出す。その背に父の声がかかった。

「ロザリアも喜んでるよ」

 彼は母親の名に目を閉じて笑う。

 今、彼を生かす為に、どれだけの人々が手を貸してくれたのだろう。

 ―――― ただひたすら途方もない。

 そのことに素直に感謝して、彼は扉をくぐった。




 城都の大通りは集まった人々のざわめきで満ちていた。

 王の花嫁がもうすぐ通りに現れるのだ。だがそれは彼らにとって、必ずしも手放しに喜べるものではなかった。人々は顔を見合わせ口々に憂いた口調で囁く。

「例の魔女なんだろう?」

「でもあの昔話は事実と違うって言われたじゃないか」

「そうなんだけどな……」

 今回の式にあたり、オスカーは相手が魔女であることに加え、ファルサスの人々に膾炙している昔話の訂正を発表したのだ。ティナーシャ本人は「昔話くらいいいじゃないですか」と放置しておくことを勧めたのだが、彼は「王妃になる人間の不名誉な話など、事実でないなら殊更広めておくべきではない」と判断していた。

 だが城からの発表があってもなお、真実がすぐにティナーシャの歓迎に繋がるわけではない。たとえ昔話が歪められたものでも、彼女が魔女であることには変わりが無いのだ。

 ティナーシャがかつてファルサスの戦線に立ち、王に力を貸したことや、その絶大な力がファルサスに以後属することを評価し、この婚姻を喜ぶ者たちもいたが、それ以上に戸惑う者たちの方がほとんどであった。


「ロザリア様は美人だったなぁ」

「今度の花嫁は魔女だろ? どんなだと思う?」

「やっぱり黒い服着て皺皺な……」

「結婚式に黒い服はないだろ」

 無責任な会話が通りに集まった民衆の間に広がる。

 その時、花嫁を乗せた馬車が通りに現れた。

 屋根を持たない馬車にはその代わりに、強固な結界が何重にも張られている。好奇心を以ってやって来る馬車を見た人々は、想像と全く異なる花嫁の姿に絶句した。

 純白のヴェールが引き立てる貌は清冽で、彼女自身が芸術品と言っていいほど美しい。長い睫毛の揺れる大きな瞳は、吸い込まれそうな漆黒である。高く通った白い鼻梁の下で、花びらのような紅い唇がわずかに笑みを刻んでいた。

 民衆は声を上げるのも忘れ、ただ彼女に見入る。その中には、彼女が先日新年の儀式の際に王の傍に居た魔法士と同一人物であるとに気づいた者も多かった。


 従者として車に乗り合わせているパミラは、向かいに座る主人に囁く。

「ティナーシャ様、もっとちゃんと笑ってください」

「ちゃんと笑うって単純なようで難しい指令ですね……」

 魔女であると公表した彼女が従来通りに外から城に入れば、民衆から偏見の視線を浴びることになるだろうということも、オスカーがこのお披露目に反対した理由である。だが、ティナーシャはそれを退け、馬車での入城を選んだ。

 どの道、いずれは受け止めなければいけない問題なのだ。ならば逃げるのではなく、それを越えて彼の前に立とうと思った。


 困ったような微笑を浮かべかけたティナーシャの目に、ふと見知った人間が映る。

 民衆の壁の中から手を振っていた少年は、彼女が自分に気づいたことを察すると喜色満面に声を上げた。

「お姉さん! じゃなかったティナーシャ様!」

「サイエ! 元気でした?」

 駆け寄ってこようとする少年を兵士が留めたが、ティナーシャはそれを避けさせた。

 馬車があわせて足を緩める。サイエを車上に上げようと手を伸ばしかけたティナーシャを、さすがにパミラが制止した。少年は馬車に併走して小走りになりながらティナーシャを見上げる。

「ティナーシャ様がやっぱり魔女だったんだ」

「そうですよ。塔にはほとんど帰りませんから行っちゃ駄目ですよ。危ないです。何かあったら城に来てください」

「俺、大きくなったら兵士になるよ。強くなってティナーシャ様を守る!」

「期待してます」

 強い意志と未来への期待で目を輝かせる少年に、ティナーシャは破顔した。本人は意識していないのだろう、見る者を魅了する大輪の花の如き笑顔に、サイエは少し顔を赤らめる。

 その時、一拍の間を置いて周囲からわっと歓声があがった。ティナーシャは驚いて顔を上げる。

「え、なんですか、私何かしました?」

 困惑に辺りを見回す主人と、口々に祝福の声を上げ始める民衆の両方を見て、パミラはくすくすと笑い出した。

「だからちゃんと笑ってくださいって申し上げたじゃないですか。貴女の笑顔には破壊力があるんですよ」

 ティナーシャは軽く目を瞠る。

 そうして魔女は、片目をつぶってみせるパミラと笑顔で手を振るサイエに視線を送ると、改めて可笑しそうに笑った。




 波のように広がっていく歓声に押されながらティナーシャはファルサスの城に入城した。馬車を下り、外に作られた回廊を大聖堂に向かって歩いていく。

 大聖堂の扉が見えた時、その手前に一人の女が立っていることに気づいてティナーシャは足を止めた。前を歩いていた護衛の兵士たちが女に気づいて誰何の声をあげる。

「何者だ!」

 剣を抜きかけた兵士たちを、しかしティナーシャは制止した。

「すみません、ちょっと二人で話をさせてください」

「しかし……」

「平気です」

 ティナーシャは軽く言うと女に向かって歩き出した。

 三十代半ばに見える女はどこか冷ややかな表情をしている。少し険があるが美しい容姿で、腰まである濃い茶色の髪を一つに束ねていた。

 ティナーシャは彼女の前に立つと苦笑する。

「ラヴィニア、お久しぶりです。……彼を見に?」

「別に」

 ラヴィニアと呼ばれた女はそっけなく答えた。ティナーシャは僅かに緊張を伴って問う。

「では殺しに?」

「それでもない。ただ物好きな女の顔を見に来ただけだな」

「それだけでいいんですか?」

 王の花嫁は首を傾いだ。闇色の眼に憂いが宿る。

 だがラヴィニアは相手に生まれたその感情を一顧だにしなかった。

「お前を引き寄せるだけの運があったんだろう。私はこれ以上どうする気も無いさ。好きにすればいい」

 話は終わりだと言わんばかりにラヴィニアは横に避けた。無言の態度で大聖堂の扉の方を示す。

 ティナーシャは古い知己に何かを言いかけて、しかし結局その言葉を飲み込んだ。

 小さくかぶりを振って扉の前に立つ。少し離れたところで控えていた兵士たちが、それを開ける為に駆け寄ってきた。

 彼女は息をゆっくりと吸い込む。

 扉が開いていく。

 多くの人間が、花嫁の方を振り返った。ざわめきが広がる。

 しかし彼女はそれら視線も、潮騒に似た響きも、世界の外にあるかのように遠く感じられた。

 顔を上げて真っ直ぐ前を見つめる。

 その先には彼女のただ一人が待っているのだ。




 花嫁の人間離れした清冽な美貌に、聖堂内にはいくつもの溜息が零れた。

 彼女はその中をゆっくりと歩いてくる。迷いのない女の貌に見惚れながら、オスカーは「鮮烈だな」と誰にも聞こえぬ声で呟いた。

 ティナーシャは一段高いところに立つ彼の眼前まで来ると、両膝をついて頭を垂れる。オスカーは手を伸ばして彼女の頭にかかるヴェールを取り去ると、代わりに小さな王冠を載せた。

 次いでアカーシアを抜くと、切っ先を彼女の額に触れさせる。

 静かな、しかしよく通る声で口上を述べた。


「新たなる契約を締結す。―――― 我が名はオスカー・ラエス・インクレアートゥス・ロズ・ファルサス。汝、ティナーシャ・アス・メイヤー・ウル・アエテルナ・トゥルダールを我が妃としてファルサスに迎え、伴侶としての権限を与えることをここに宣言する」


 王の言葉に呼応して、アカーシアから契約を帯びた力が魔女に注がれる。魔力とは異なる、未だ解明されないその力は、記録にも残らない昔からファルサス王家に伝わっているものだ。

 ティナーシャはその力が自分に染み渡ると同時に口を開いた。

「確かに受諾致しました。私の名と血にかけて、私に帰属する全てと共に貴方に嫁ぐことを誓います」

 その誓いは単なる婚姻の誓いだけではない。魔女として、トゥルダールの女王として彼女が持っていた全てが、以後ファルサスに受け継がれることをも意味していた。

 そしてその中にはトゥルダールの精霊も含まれている。

 彼女は予め精霊たちに、自分の死と共に契約を終了させる旨を提案したのだが、精霊の全員は「面白そうだから」と彼女の血を継いで行くファルサス王家に契約を書き換えることを望んだのだ。もともと力で王を選んでいたトゥルダールに伝わる精霊である。ファルサスに移ればいつの日か、彼らを使役できる王が現れなくなるかもしれない。

 だがそれはまた、遠い先の別の物語だ。


 オスカーは手を差し伸べると彼の花嫁を立たせた。彼女だけに聞こえる声でそっと囁く。

「四代遅れで国が手に入ったな」

 人の悪い冗談に、ティナーシャは唇の片端を上げる。男の、日が沈んだばかりの夜空の色の瞳を見上げた。 悪戯っぽい目で小さく笑う。

「国はいりません。貴方をください」

 オスカーはその答に嬉しそうに目を細めると、身を屈め彼の花嫁に口付けた。

 そしてこの日を境に、畏怖で大陸を震え上がらせてきた魔女の時代がその幕を閉じることになったのだ。

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Unnamed Memory 古宮九時 @nsfyuki

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