奴隷邂逅【8-2】

【18】


 ベイリーズのグラスを干し、氷がからりと音を立てる。もう何杯、こうしてブリジットが注ぐリキュールを味わっただろうか。既に目蓋が垂れて、ずっしりと疲労が皮膚を支配している。

「……とまあ、そんな性根のねじ曲がった餓鬼んちょが、かつての北アイルランドにいたというだけの話さ」

 ブリジットは口を真一文字に結び、眉根を寄せて良き思い出話に聞き入っていた。外では空が白み始め、朝日を待たぬ内から鳥がさえずりを響かせている。

「それから……?」

 よくもまあ、体力と気力が保つものだ。逆の立場であれば、ロビーが登場した辺りでいびきをかいている。正直、この先を話すべきかは判断を下しかねていた。決して得る物のある面白い話題ではないし、何より彼の後日談には小恥ずかしい珍騒動が目白押しである。

「断っておくが、盛り上がるところなんかないぞ?」

 ブリジットはこくと頷き、ベイリーズと牛乳を俺のグラスに注ぎ足した。十秒ほどで冷え始めたリキュールに口付けて燃料を補給すると、再び過去が収められたフィルム群の捜索に取り掛かった。



 マーティンは爆発に巻き込む以外の形で、初めて戦場の外にいる人間を殺した。女の後頭部の射出腔から散った脳漿が、まるで彼を苛む呪詛の如く壁にへばり付いている。IRAの奴隷はその場に跪いて嘔吐し、爆弾のバッグもその場に家屋を飛び出した。取り乱した少年の姿を目の当たりに、人々は一様に彼を避けて道を開けた。面倒事を避けるのは当該地域において暗黙の了解であり、戒律であった。

 何も考えられなかった。ひとえに、自己の内で計り知れない程に増大してしまった怪物から逃げたい一心で、両脚を動かしていた。肺が悲鳴を上げても厭わない。任務などどうでもいい。目的なく、逃げる行為のみに囚われていた。何度も蹴つまずいて顔や肘を擦り剥き、幾度となく巡回中の警官に呼び止められた。行き場を失くして鉄砲玉と化した奴隷は、彼らの腕を振り解いて走り続けた。涙と血で固まったファンデーションはグロテスクに固まり、見る者は忌避の表情を浮かべた。

 マーティンは行く当てもなく敗走した。IRAという暗部から逃れられるなら、何処でも構わなかった。包み隠さず言えば、脳裏に巣食う数年前の戦慄におののきつつも、イギリスの揺り籠へ天の邪鬼に縋りたい願望もあった。その裏付けに、彼は無意識にボグサイド地区へ到達していた。長距離をノンストップで走った所為で、ふくらはぎと足首が気味悪く腫れ上がっていた。酸欠に陥り、文字通り何も考えられなくなっていた。

 思考も千々にほの暗い路地裏へ迷い込んだマーティンは、弱ったところを地元の不良グループに絡まれる。彼は多勢を相手に善戦するも離脱の隙を見出す暇なく、ろくでなし三人を地面に伸すのみで泥を舐める結果となった。不良らの頭目に髪を掴み上げられた際に、それまで隠していたブローニングを相手の額に突き付けた事で、無法者共は蜘蛛の子を散らす様に退散した。――これでもうお終いだ。あいつらが情報源となり、俺は間もなく警察に連行される。そうなればロビーの家に警察が押し入り、病床に伏す父親代わりは両腕を背中に回す結末を迎える。IRAの優秀な爆弾作りが捕まる事実ではなく、養育役の存在を奪われる陰湿な背景に、マーティンは悲壮感を舐めさせられた。

 路地裏で突っ伏していると、彼方からパトカーのサイレンが迫ってきた。遂に俺も拘置所入りか。一歩も動けなくなった身に鞭を打って立ち上がろうとし、すぐにまた地面に顎を打ち付ける。情けない。父親がどうかなっちまうという事態に、このぽんこつはちっとも役に立たない。知らぬ間に嗚咽を発してすすり泣く奴隷に、冷たい雨が追い討ちを掛けた。

 夜の帳がアイルランドを覆ってから、どれくらいそうしていただろうか。泣き疲れたマーティンは精神の防護の一環も手伝い、全ての警戒を解いて寝入っていた。そんな彼の肩を揺らす者がいるとすれば天使様か、でなければ無抵抗の標的から財布を漁る浮浪者だろう。後者と即断したマーティンは、出し抜けにブローニングを抜いた。銃口は正拳突きよろしく物盗りを捉え、その胸元へ噛み付く。これでびびってくれなければ、盗るなり掘るなり好きにしろ。そういう破れかぶれの一撃であった。

 彼の予想に反し、相手方は第三の存在であった。突き付けられた銃を荒々しく弾くと、そのまま浮浪児の手首から得物をもぎ取る。不気味なまでに手慣れた動作に危機意識を取り戻し、マーティンは勢い首をもたげた。目と鼻の先、三年前にボグサイドで見かけた、SASと思しき肩幅ある男が彼を見下ろしていた。その後方にブロンドの長身もいて、全周警戒を敷いていた。

「お前、名前は?」

 拳銃を奪った茶髪が誰何する。マーティンは男を睨み付けて無言を貫いた。何か思うものがあったのか、男はそれから何も訊き出そうとはせずに提言した。

「訳ありみたいだな。ちょっと付き合えよ、紅茶くらい出すぜ」

 茶髪の言葉に、長身が面食らった様子で反論をがなった。だが、憔悴しきったマーティンの薄れゆく意識の下では、何に憤慨しているのかさえ判断が付かなかった。


 目覚めると、マーティンは打ちっ放しのコンクリートの壁に囲まれた個室にいた。中央には安物の角テーブルが鎮座し、向かい合う形でパイプ椅子が配されている。その一方、ドアから遠い方に彼は座していた。状況の理解が追い付く前に、個室のドアが開かれる。あの恰幅の良い男だ。

「おや、もう起きたか」

 浮浪少年は倦怠感に呻き、腕時計へ目を落とす。午前の三時。先程まで携わっていた作戦の失敗を思い出し、マーティンは戦慄した。十四年間で未曾有の不安に襲われ、背筋を氷の水滴が伝う。尋常ならぬ様子に、男は外の者にグラスを持ってこさせてマーティンに飲ませた。男の持つグラスから水を顎に垂らしつつ、錯乱したマーティンはかろうじて水分を摂取した。その呼吸が幾らか落ち着くと、男は語調も柔らかく接してきた。

「リチャードだ。お前さんは?」

 奴隷は口をつぐんだ。雇用主の情報だけは吐く訳にいかない。明確な敵意を籠めて、彼はリチャードなる敵兵をねめ付けた。男は下がり眉で肩をすくめる。

「まあいいさ。眠ってる間に、お前さんの荷物を漁らせて貰った。それについてちょっと訊きたいんだが……」

 リチャードは野太い指で懐をまさぐり、小さな機材をテーブルに置いた。赤外線式のガレージオープナー。あの家で、マーティンが仕上げに使う筈であった起爆装置だ。使わずじまいの装備が、喪心の彼を追い詰める。

「俺はこいつのメーカーなんか知らないし、何処の工場で製造されたかも興味はない。だが、こいつの用途に疑問がある。なあ、車もなしにどう使う気だったんだ?」

 IRAの奴隷は、断固と口を閉ざしていた。それはロビーを想っての黙秘でもあったが、同時に混在した複数の自責で打ちのめされていた側面が大きい。

「……だんまりかあ」

 リチャードは手入れの届いていない顎髭を音も盛大に撫で、不意に尋ねた。

「紅茶でも飲んで話そう。なあに、金は取らねえよ」

 にいと悪戯っぽい笑みを満面に浮かべ、リチャードはドアの外へ紅茶の手配を叫んだ。ドアを出てすぐに、長身のブロンドが護衛に立っているのが窺えた。どうやら一緒にいる場面を多く見かける辺り、この男と組んでいるらしい。動揺の割に系統だった思考を働かせる脳に苛立ちを覚えつつ、マーティンは殺しを行った家の様子を思案した。今頃は女と子供の死体が発見されて、警察が押し掛けているだろう。現場に放置した弾頭と薬莢から、それを射出した銃が特定される。その銃は目の前のSAS隊員が押収していたとじきに判明し、母子の殺人犯が自分という事実が明るみに出る――。自己の破滅を憂い、奴隷は肩を落とした。

 落胆と絶望に打ちひしがれる少年に、リチャードが無垢に問い掛ける。

「おい、顔がぼこぼこじゃないか。親の虐待……じゃあないな。何で化粧なんかしてる?あ、傷跡が目立たない様にか。ていうか何だよそれ、格好いいな!」

 こっちの気も知らないで、いい気なもんだ。目に見える不快に顔を歪め、マーティンはどうにか逃げ出す術を求めて室内を見渡した。丁度その時、湯気を立てり紅茶のカップと潰れたロールケーキのトレイが、丸太みたいな腕と一緒に突き入れられた。リチャードが「あいよ」と受け取ってテーブルへ置く。紅茶は茶葉の小片が沈んでおり、色が濃くて如何にも渋そうだ。俺様が淹れた方がましだな。奴隷工作員の崩壊した心に、幾らか余裕が生まれた。紅茶を口に含むなり、リチャードが悪態を漏らした。

「ひでえぬるさだ。アフリカの原住民の方が、まだ味覚を心得てるぜ。なあ?」

 突飛な同意を求められても、マーティンは唇を固く結んでいた。リチャードはつまらないとばかりに眉をひそめ、不格好なロールケーキに手を伸ばした。これにも文句を垂れつつ、手と口を汚しながらも結局は完食した。

「……でだ。そろそろ名前くらい教えてくれない?やり辛くてしょうがねえよ」

 口からスポンジのカスが飛び、テーブルを汚した。戸籍には載っていないのだから、くれてやっても問題はないだろう。奴隷はうな垂れて、自分の識別記号を呟いた。するとリチャードは破顔し、身を乗り出して握手を求めてきた。捕虜は明確に拒絶の意を示したが、いつまでも身を引いてくれない獄吏に折れて、粗野な指を掴んだ。それで満足したのか、リチャードはようやく元の体勢に戻った。

「随分と立派な手だな。職人でも目指してるのか?」

 長らくニッパーとナイフを握った皮膚は白く硬質化し、ひび割れていた。それを一瞬で捉える辺り、ちゃらんぽらんに見えても、やはり観察眼は養っているという証か。マーティンはこのいけ好かない男がSASである事実を改めて認識したが、今更に確証を抱いても無意味であった。自分にはもう、情報を欲してくれる親許への帰還は叶わないのだから。

「……当ててやろうか?」

 リチャードは不意に両目を見開き、頬を吊り上げた。何を考えているか、皆目分からぬ男だ。マーティンは鼻を鳴らして薄ら笑みを浮かべる。お前なんぞに何が分かる。荷物を検分したくらいで、果たして何を突き止めたというのか。

「お前、奴隷だろう?」

 タカをくくる彼は、この日だけで二度目の虚を衝かれた。それまでの茶化した空気は消え失せ、真顔に変じたリチャードがマーティンに詰め寄る。

 ――何故だ。マーティンの一度は乾いた額に、またも水気が訪れた。如何にして知り得た。冷静に考えれば、子供の奴隷を使役するIRAが蔓延る現状から容易に推測出来そうなものだが、当時の奴隷兵士に論理的な思考を行う精神と体力は残っておらず、図らずも狼狽を露にしてしまった。

「おっと、ビンゴみたいだな。どうだ?出逢って間もない輩に出自を当てられる気分は。そりゃあ屈辱的だろうよ、それが狙いだったんだからな」

 マーティンの胸ぐらへ前触れなく掴み掛かり、息の掛かる距離まで顔を寄せる。

「さっさと吐けよ、てめえのボスの根城を」

 マーティンは本能的にその手から逃れようと身をよじりもがいた。しかし、鍛え抜かれた腕を前に児戯でどうにかなるものではない。

「憶えているぞ、三年前にもこの地区で見た顔だ。あの車両爆弾で陸軍兵士が十人死んだ。それから三年、この地で何百人もの血が流れた!てめえらプロヴォの下らない独立運動とか銘打たれたテロの所為で、罪のない人間がいっぱい死んだ!ああ!」

 歯を剥き出しに怒りを露呈するSASに、マーティンは総毛立った。熾烈な剣幕に気圧され、反射的に仰け反る。リチャードの勢いは少しも削がれる様子なく、マーティンをまくし立てた。

「あの装甲車が爆破されたのは、俺が増援に来た初日だった!あの時、俺はお前らみたいなくそ野郎を排除しなけりゃならないと確信した!人間を害虫みたいに殺すばかりか、餓鬼の未来を奪って自分らの流儀で洗脳し、人殺しの片棒を担がせやがる!そんなやつらを野放しにしておけるか!」

 怒声を聞き付け、ブロンドの長身が室内に踏み込んでくる。彼は猛烈な腕力でマーティンからリチャードを引き剥がして羽交い絞めにした。

「少しは落ち着け、相手は子供だ!」

「だからどうした!こいつらの所為で、今月に入って仲間が三人やられた!お前も見ただろう!農場の倉庫で両目を潰され、指と耳と舌まで失っていた!こいつらがやった!こいつが『グレイ・ヘイズ』だ!」

 耳慣れぬ名詞に長身がたじろいだ隙に拘束を振り解くと、リチャードは再び捕虜に掴み掛かった。

「子供だから甘く見てやるなんて思うなよ。情報を吐くまで罵ってやる。産まれたのを後悔するくらいなじってやる。二度と外を歩けない様に心を踏みにじってやるからな……!」

 その言葉が、マーティンの琴線に触れた。

「なら、やってみろよ。もうとっくに砕けちまった、その心とやらを踏みにじってみろ!」

 リチャードが右手を振り被る。マーティンは衝撃に備え、両目を強か瞑り首を引っ込めた。狭い室内に、乾いた音が反響する。振り抜かれた手は、平手だった。

 奴隷は目をしばたたき、早くも赤く熱を持ち始めた頬に手を添えた。確かに殴られはした。そこには暴力ではなく、今思えば別の意図が含まれていたのだろう。リチャードは振り抜いた手をそのままに、肩を上下させていた。

 やつの怒りの諸元は理解出来る。しかし、マーティンに理解の及ばない事態が生じていた。どういう訳で、このいい歳した野郎は落涙しているのだろうか。呆け面を晒す捕虜へ背に、リチャードは長身の男へ向き直る。

「スティーヴ、悪いがしばらく二人きりにしてくれ」

 同僚の具申に幾らか尻込みを見せたものの、長身のブロンドは首肯して部屋を去った。それからリチャードは席へ戻り、カップに残る紅茶を啜った。奴隷諜報員の思考回路は、未だ土台すら復元出来ていなかった。

「……お前らがプロヴォの養育下で犯罪に荷担しているのには、少なからず大人の俺達に責任がある。他国がとうの昔に排斥した奴隷制度を今日まで引きずっているのは、下衆だらけの上流階級を打倒出来なかったからだ。さっさとIRAを根絶やしにしない俺ら軍人だって、本当はお前らに申し訳が立たない」

 荒げた息を整えつつ、リチャードは上着を脱いだ。いきなり怒鳴り散らしたかと思えば、今度はつまらない自嘲の独白だ。プロボクサーのパンチを右から左から喰らった具合に、マーティンは混乱していた。

「なあ、雇用主の居所を言わないのはどうしてだ?」

 振り出しに戻った訊問に、奴隷は目を逸らす。

「……保護者だからか」

「黙れ!」

 今度はマーティンが怒髪天を衝いた。紅茶のカップが倒れ、石灰質の床に染みを作る。

「何も知らない野郎が口を挟みやがって!俺はあの家で育って、あそこで全てを学んだ!それの何が悪い!」

「豆粒みたいな世界で全てを知った口を利く辺りは餓鬼んちょだな。お前はそこから抜け出さなきゃならない。あるべき場所へ、思想も束縛もない自由を手にしなきゃならない」

「何を言っているかさっぱりだね!情報は吐かない。お前らが殺らないなら……」

 奴隷は陶器のカップをテーブルに叩き付けた。紅茶の容器と一緒に、奴隷の心が今一度崩壊した。砕けた鋭利な破片を握り締め、己の喉目掛けて一突きする。奥の手たる自決が成立する前に、リチャードの腕が阻止に入る。抗う隙もなく奴隷は手首を捻り上げられ、即席の刃物が床に砕けた。

「それで死んで逃げられるほど、世間は甘くないんだ」

「じゃあどうすればいいって言うんだよ……!親の信頼を裏切った。帰る場所もなくなった。組織からは見放されるばかりか、不都合な存在として処分されかねない……。そんな俺に、これ以上の策があるって……?」

 マーティンは膝から崩れ、額を紅茶で濡れた床にすすり泣いた。その姿は、信ずる対象に裏切られた子供そのものだったに違いない。どうしてこうなってしまったのか。奴隷は知るもの全てへの恨み節を奏上した。

 繕った外面を暴かれた少年の許へ屈み込み、リチャードが彼へ掛けた言葉は余りに残酷で、無防備な子供におよそ耐えられるものではなかった。

「お前さんは生き続けなきゃいけない。この忌まわしい土地を出て、別の場所でやり直すんだ。しっかり更生して、他の道を歩む。それが、お前に為せる最大の贖罪だ」

 紅茶と鼻水で崩壊した面を上げると、リチャードが歪んだ視界で微笑んでいた。ロビーが、父親代わりが決して見せなかったそれだ。子供というのは視野が狭い。親が与える世界が価値観の全てであるが故に、正常な感覚という基準がしばしば狂う。虐待を受ける児童がCSC(児童相談所)や教師から事実を問いただされても、その親を庇う傾向は一向に改善しない。今のマーティンが、正しくそうであった。期待を寄せてくれるロビーを裏切ってはならない。ロビーなくして、自分は存在し得ない。雑多に入り組んだ強迫観念が、心の奥底に根付いていたのだ。その歪な戒めに、綻びが生じた。

「その場所と時間を、一体誰に請えばいい……?」

 意図せぬ救いを求める声に、俺は自身の無知を痛感した。泣き腫らした顔がそんなに無様だったのか、リチャードは吹き出してから囁いた。

「そんなの、俺が親父になってやるしかないじゃないか」

 出来の悪いくそ餓鬼を見守る目が、そこにあった。この日、奴隷は初めて雇用主に反逆した。


 西暦一九九四年、八月十五日。かくして、マーティン・マクギネスより名を授かった少年は死んだ。この日を境に、北アイルランドから『灰色の霞』は消えた。名無しとなった少年はとつとつと保有する情報の一切合財を吐き散らし、矮躯に背負う重荷をリチャード属するSASへ託した。SASはこれを許に膨大な資料を作成し、警察と連携してプロヴォの構成員の逮捕に駆け回った。

 少年の元所有者である爆弾魔ロビーは二人の母子――ニック・バートンの妻子の殺害容疑が掛けられ、夜明け前に重武装のアルスター警察とSASが家宅へ踏み込んだ。病床に伏すロビーはベッド下に仕掛けた爆薬で自爆、その命を絶った。この報せを警察署で客観的に得た少年は悲哀や後悔ではなく、奪われて久しい自由との再会に、奇妙な解放感を享受したのであった。

 事実の改竄は容易であった。戸籍のなかった元奴隷の少年は、孤児という扱いでリチャード・クラプトンの養子になり、「ドイツっぽくて格好いいだろ?」なる理由でヒルバートの名を冠した。リチャードが北での任期を終えるまでの二箇月をヘリフォードで学校に通って過ごし、養父の帰還と同時に家族がもう一人増えた。ヴェストと名乗る恐らく一つ年上の少年は、ヒルバートと同様にIRAの小間使いの経緯を持っていた。彼は青あざの残る整った顔で、次男坊に笑み掛けた。こいつはえらい女泣かせになるぞ。その直感が的中するのは、そう遠い話ではなかった。

 士官のくせに最前線勤務という肩書を持つリチャードは、事ある毎に浮浪児や戦争孤児を拾って歩き、一年と経たずに四男一女のクラプトン託児所を構えていた。ヒルバートは平和の花園で駆け回り、自然な家庭生活を遂に謳歌した。他人の顔色を窺う必要のない暮らし、失った時間を取り戻した。父親の迎えで、利権と欲望の渦巻く大人の紛争から逃れられたのだ。

 砕け散った心の補修をしないままに。



「……それで、その後は?」

 こいつは、いつになったらおじさんを逃がしてくれるのだろう。自ら振った話題とはいえ、そろそろ体力的に限界だ。アルコールが、胃の中でたぷたぷ言っている。目蓋を下ろせば、即刻に寝入る自信がある。油断すれば、口の端から唾液が垂れそうだ。

「やつは今でも生きているよ。ヘリフォードの一角に家を持って、馬鹿な連中に囲まれて楽しくやってる。最近は可愛いお手伝いさんを雇ったらしい」

 ブリジットが社交辞令ではにかむ。いやあ、我ながらぞっとしない台詞だ。主人の酔いが限界に迫っているのを察したのか、流麗な手際で温かい紅茶が淹れられる。氷と牛乳の連続で冷えた腹に、九十度の湯が優しかった。

「……でも、少年の心には出血毒を垂らす牙が刺さったままだった。周囲の救済こそあれ、彼自身が自分を赦していなかった。無罪の女子供を殺した身に、それに触れる許しはない。生き方だけは上手いくせに、生きる事に不器用だったやつは精神に大病を抱えたまま、その悪性腫瘍を放置してしまった」

 紅茶をもう一口啜り、渇きを訴える唇を濡らす。カビ臭さ充満する地下室にいた頃は、こんなに安らいだ気分で喫茶する日が来るなど、望外もいいところであった。今にすれば、かような外道を匿っていた我が身にさぶいぼが生じる。

 鼻に抜けるアッサムの芳香を味わう最中も、ブリジットは真面目腐った面持ちでこちらを見つめていた。止せよ、おじさんだって照れるぞ。

 一息つき、目頭を押さえる。いかん、本気で眠い。己のトラウマなんぞどうでもいいから、早く寝かせて欲しい。が、ブリジットの真摯な眼差しを前に「ぐがあ」と意識を喪失出来る程、当方も人でなしになれないらしい。

「月日が流れて、少年の外見は大人になった。陸軍士官学校を卒業すると、すぐに現場の泥にまみれた勤務を志望した。やつはそこで幼少期に培ったいわく付きの知識を発展させて、破壊工作のスペシャリストとなった。

 ところが、彼はそのまま一般部隊に骨を埋めるのを良しとしなかった。自分を魔窟から拾い上げた父親の背に憧憬を抱き、同じ聖剣の徽章を受ける決意を胸に秘めていた。SASの選抜訓練に参加した若き兵士は、同年代の候補者が次々と落伍する中で奮起した。餓鬼の頃の苦役に比べりゃ、遠足みたいなもんだった。

 晴れてSASの一員となった兵士は、加入して最初の実戦で優秀な歯車として働き、諸々と噂の新人として名を響かせる。拭い去れない悪名と一緒にな」

 ブリジットが目を伏せる。頭の良い彼女であれば、過去の因縁に気付くのは造作もない。

「火種ってのはしぶとく燻るもんでな、煙が立っちまった。そいつがIRAで爆弾作りを担っていた過去が何処からか連隊中に知れ渡り、白い目が向けられた。酒場でねちねちと喧嘩を吹っ掛けられもした。……適当に返り討ちにするんだが、士官というのもあって、事後処理が面倒だったね。しばらくして落ち着いたと思えばどっこい、ある時に銃を持ち出した同期がいてな、流石に肝を冷やしたね。そいつはぶっ飛ばした後で除隊になって、今はどうなってるか知らないけど。

 そんな具合に決して快い労働環境ではなかったんだが、人間の心理ってのは中々面白い。命懸けの現場というのは、図らずも特殊な結託が生まれるらしい。多くの実戦で共同している内に、兵士の過去の境遇に理解を示す者が現れ始めた。彼が二十台半ばに差し掛かる頃には、その風潮が所属する中隊にまで広まっていた。後で知ったが、どうやら兄弟も色々と根回ししてくれたらしい」

 少し緩んだ涙腺を指で押さえ、紅茶のお代わりを希望する。ブリジットがキッチンへカップを運ぶ隙に涙を拭い、垂れかけた鼻水をすすった。〈フェデックス〉の運送トラックが、排煙を上げて走るが窓から見える。朝っぱらからご苦労さん。俺も、もうちょっと頑張る事にするよ。

 新しい紅茶が目の前に置かれ、どうぞと柔らかい声が囁かれる。寝不足で、彼女の若い肌が荒れないか懸念が募る。紅茶の甘い愛撫を内臓に受け、再び過去の雑然とした記憶を手繰り寄せる。

「……ようやくで人並みの幸福が訪れた矢先、兵士の精神にばら撒かれた毒草の種が萌芽する。悪性腫瘍は着実に心身を蝕み、現実生活において支障が表面化する。最初は微々たるもので、注意が散漫になったり、ちょっとした健忘の程度で済んでいた。それが次第に慢性的に変じ、傍から見ても重症と認識されるまでに悪化した。手の震えで朝食の卵を割れなくなったのを契機に、連隊の精神科医を当たった。それから数人を巡る内に、とある医師へ辿り着いた。そこで、過去の出来事を簡潔な資料にして提出させられた」

 不眠不休で、途方もない数のミスタイプ出しながらキーを叩いた夜があった。その最中で幾度も胃液をシンクに吐き散らし、鼻孔を胆汁で荒らした。あの時点で、俺は既にやり直しが利かない廃車同然だった。誰もそれに気付けなかったし、本人さえも兆候を軽視していた。周囲へ対する遠慮か、或いは早期警戒の機能群が死んでいたせいで救難信号も出せなかったのか。

「完成した資料を医師へ提出して、兵士は薬物療法で経過を見守る判断を下された。その頃には四肢の末端が熱を持って、発汗も不安定に陥っていた。とどのつまり、自律神経失調症だよ。医師からは作戦への従事を控える打診もあったが、それこそ自我に反する行動として、業務に尚の事熱を上げた。直視したくない問題から目を背けたんだな。それでしばらくは乗り切れた。しばらくは、な」

 自嘲。自分の恥部と対峙出来ない性質が祟り、眉根を寄せて口角を歪める。こんな反応は今までになかった。家族や連隊の仲間でもなく、患者の治療を義務付けられた医者ですらない赤の他人に、こんなに脆い核を晒している。

「包み隠さず言えば、即日入院すべき状態だった。患者の兵士は通院して、医者の放つスローボールな質問に応じてはいたが、核心に迫る部分では茶を濁した。IRAの紛争の何も知らない、実戦経験のない医者には、何を話しても無駄と決めて掛かっていたんだ。父親と兄弟の言では、本当の意味での理解者を家族の他に見付けなきゃいけないらしかった。

 本当は分かっていたんだ。自分が何を克服しなきゃいけないかなんて。あの日、奴隷は――俺は争いの埒外にいた母子を殺した罪から、選択の余地を失った人間にトラウマを抱え込んだ」

「だからあの日……」

 はっとした様子でブリジットは口を挟み、そしてしまったという顔になる。お見事、ご名答だよ。

「表じゃ警察が処理した風になっちゃいるが、奴隷がやらかしたあの銀行強盗を鎮圧したのは俺達だ。誰だって、好きで蜂起なんか起こさない。やむを得ぬ状況を必死に打破しようとして、そうするしか方法がなくて犯罪に走る。世間一般でテロリストと称される連中の罪は、彼らに犯行を実行させた世論や市井も同様にあがなうべきだ。大方の感覚では、暴論や傲慢と見なされるだろう。だがお花畑の文民に、望まぬ殺人を強要されたやつはいない」

 ブリジットは無表情を保って、やさぐれた俺を観察していた。この話を耳にした者は大概、同情めいた視線を送ってくるのが常であった。蓋を開ければそこに人情は込められておらず、「何だこいつ面倒くせえ」くらいにしか思われていないのが実状である。軍人ですら、欠片も共感を得られないのが実情だ。

「結果、ヒルバート・クラプトンには恒常的な躁鬱症状、強迫神経症……餓鬼の頃は皮膚が剥けるまで盛っていたマスかきさえ出来ない、勃起不全なる診断が下された。

 悲劇の主人公なんざ願い下げだ。でも、現実はこの通りだ。いつ何時この身をぶっ壊すかも分からない呪いに、ずっと付きまとわれてる」

 ふうと肺の空気を解放し、冷めた紅茶を飲み干す。カップの底がテーブルを叩く音が、静寂を極めた家中にやたら響く。

「……以上、とある不名誉な特殊部隊員のお話さ。ご静聴ありがとう、お代は今度払わせてくれ」

 疲れただろうから、もうお休み。そう語を継ぐ矢先であった。

「――じゃあその呪い、ちょっと解いてみましょうか?」

 目下の自分の表情を解説するなら、辞書の「唖然」の項目を如実になぞっているだろう。呪いなんぞはただの例えで、トラウマの抽象でしかない。おとぎ話じゃあるまいし、「ちょっと」で玩具の杖をくるくるやって事が済むなら、こんなに懊悩はしていない。

 ブリジットが席を立った。あんぐりと口の開いたまま、首が彼女の動きを追う。ゆっくり、そして一歩ずつ雇い主へ近付く。両手を後ろに組み、落ち着きある黒のメイド服がにじり寄る。濃厚な自白剤でも打たれた様に、何も考えられなかった。そうして彼女が目と鼻の先に迫ったその時。油が枯れ、錆び付き欠けた歯車が動き出した。

 数多の訓練を踏破した故に、肉弾戦にはそれなりの力量と自負があった。少しばかり酔ったくらいでは、相手のパンチに中るのも難しい。躱せなければ受け流しが可能だし、いざとなれば腕を犠牲に防御の札を切れる。だのに筋肉が動かなかった。いや、動けなかったのだ。

 一つ屋根の下に暮らす、少女の見知らぬ一面。柔らかな微笑みに見え隠れする、底深い妖艶な影。顎にさらりとした手が触れ、つうと傷跡をなぞられる。何かが変わる、そんな気がした。否、本当に変われたのかもしれない。

 人間は意識の範疇を超越した出来事に直面すると、思考の大部分が一時的に吹き飛ぶ傾向にある。脳へ過剰な処理を抑制させる為との説が濃厚だが、お陰様で現状の把握にはたっぷり十秒を要した。眼前で揺れる長い睫毛。甘く清潔感の漂う、少し重い香り。それから、固く強張る口唇に触れる、薄く整った桜色の花びら。粘膜が潤いを覚えた束の間、メイドは重ねた時と同様にそっと唇を離し、スカートの裾を翻した。

「それではヒルバート様、良い夢を」

 何事もなかった。そんな具合にブリジットは食器を片付けてリビングを後にし、寝室へと上がっていった。

 何が、どうなっていやがる。ほのかに残る彼女の体温を、指先で再確認する。酔った勢いにしても、相手は選ぶべきだ。黙っていればいいのに、野性的な勘が働いた。思い立ったが早いか席を立ち、キッチンへ駆け込む。数分前まで、ブリジットが自分のグラスへ傾けていたウォトカの瓶――。蓋を汗で滑る手で開けると、強烈なアルコール臭が……しない。矢継ぎ早に襲い来る事象を正面から受け入れられず、腰からがたんと脱力した。背中を壁に預けて薄れゆく意識を手放す瞬間、心を呪縛する鎖が一つ、千切れる音を聞いた。


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