奴隷邂逅【9-2】
食事時、炭から発される遠赤外線で不気味な程に旨味を増した肉を受講生に混じって咀嚼していると、雑木林で親父と叔父が妙な動きをしているのが視界に入った。しかも、どうも俺個人に向けて手招きしているらしい。何事かとタマネギの串を片手に歩み寄れば、御二方とも何やら不敵な笑みでいらっしゃる。良からぬ予感は当たるもので、親愛なるお父様はこう口火を切った。
「ブリジットとは何処までいったの?」
食事時に吐き気を催す、下品極まる面構えであった。世の父親は、息子の色恋事情にこうまで関心を持つのかしら。せがれの精神が心配だからであると思いたい。この悪辣兄弟の訊問めいた詰問に下手な偽りを述べても看破されるのは目に見えているので、素直に白状する決定を下した。
「……キスされた」
「へえ!その先は?」
食いついてきたのはパトリックだ。瞳を輝かせる彼の勢いには、性に目覚めた少年も裸足で逃げる。
「あんたも俺の病状は知っているだろう?ナニは今じゃ役立たずだし、元より彼女と男女の関係になる資格なんぞない」
「馬鹿だなあ。それじゃまずいから奴隷を買わせたんじゃないか」
親父の「奴隷」に眉をひそめたが、肥えてる方のクラプトンは構わず続けた。
「いいか?お前の下らない病気とやらは、その強過ぎる罪悪感が原因だ。そいつを潰してやらにゃ、快復どころか症状の改善だって期待出来ない。その辺りは理解してる?」
「分かっちゃいるけどさ……」
「お前すげえよな。俺なら逢って三分でファックしてるぜ」
空気を読まない馬鹿叔父に二人して侮蔑の視線を向けると、彼は肩をすくめた。親父は咳払いをやって場を取り持ち、真面目腐った顔で語を継いだ。
「奴隷としての過去からもたらされる劣等感、それに女への罪の意識から来る無為な贖罪の念が、お前にとっての癌細胞だ。それを摘出するって医者が向こうから来てるのに、何を躊躇う?急ぐ必要なんかもねえが、拒む理由もない。そうだろう?」
親父の諭しに呻く身に、追撃の論を投げ込んだのは叔父だった。
「それとも何だお前さん、あの娘が好かないのかい?それなら俺が味見させて貰うが」
後半はさておき、断じて違う。進んで家事を担ってくれるブリジットには感謝しているし、好感を抱いているのも事実だ。とはいえ色恋に発展するかと問われれば、即答するのは困難である。何しろ不肖ヒルバート、劣情こそあれ、ついぞ他人に慕情を抱いたためしなどないのだ。顎髭をさする親父は、閉口した様子でため息を漏らす。
「それで、本心ではブリジットをどう思っているのさ?」
いい子だと思うよ。まさか模範的な回答を求めている訳ではあるまい。曖昧に躱そうとしても逃がしてはくれないだろう。だが現実問題、この甲斐性なしはブリジットという女性に対して好き嫌いを問われ、即断する用意を整えていなかったのだ。好きか嫌いかを問われれば、きっと好きな部類には入るだろう。だがそれを恋愛感情と見なして相違ないか自問すると、理性の邪魔立てか、だんまりを決め込んでしまう。結局、自分にとってブリジットという女の子が如何なる存在であって欲しいのか、それが不明瞭なままであった。
「急かしはしないが、立ち止まっているだけの余裕も残っちゃいないんだ。決めるなら早い方がいい。次策を練る時間も取れるしな」
そう残すと、二人は受講生の談笑に混じって姿を消した。――ブリジットに何を求めるか。分かっているなら、最初から病気なんざ患っていない。傍にあった切り株に腰を下ろし、冷めたタマネギを齧った。
途方に暮れて嘆息し、空になった皿と串を地面に思考の沼へ頭を突っ込む。男であれば――ゲイでなければ、何かしらの要素でブリジットに惹かれるのは至極当然だ。が、一つしか空きのない彼女の隣に、旬を過ぎたおじんが厚顔に身を置くのはおこがましい。そう偽善を振りかざせど、性欲と微妙に異なる衝動が、最近では抑え難いのも否定し切れない。しかし、これを恋と呼ぶのは早計だ。ヒルバート君は恋というやつをこの目で見たためしがないし、感じた憶えもない。その全貌は正しく謎に包まれており、未知が故にある種の畏怖さえ抱く。その様な得体も知れない存在に触れるなど、末恐ろしくて考えたくもない。触れると痛いのだろうか?子供じみた興味を抱きつつも、実際に得たいとは望まない。そうなってしまえば、自分を罰しなくてはならなくなる。特定の女に深く関わってはならない。俺の罪は、まだ清算されていない。あとどれだけの負債が残っているのか、それすら知れない。
暗く深い海に潜った意識が、不意に引き揚げられる。何者かが、肩を揺すっている。分厚い生地を通して伝わる、柔らかな感触。油の匂いを掻き分けて香る、女のそれ。見上げた先に、予想通りの人物がいた。他ならぬ、悩みの種が。
「こんな人気ない所で……ご気分でも優れないのですか?」
その表情に邪気はなく、コーラのボトルが握られている。よく出来た娘だ。
果たして問うべきだろうか、弱った脳味噌で逡巡が為される。理性は善戦したが、最終的に疑問を一つ投げ掛けた。
「なあ、俺の何を気に入ったんだ?」
最近の彼女の行動が、俺に取り入る、気に入られる為という可能性の全否定を前提とした、非常に都合の良い質問である。ブリジットは一瞬たりと考え込む様子もなく、くすりと微笑んでコーラを差し向ける。
「全部って言ったら……どうします?」
「馬鹿を言うんじゃないよ」
年甲斐もなく熱を持ち始めた頬を、彼女の視界から逸らそうと顔を背ける。とんでもない悪女だ、極めて度し難い!
「でも、嘘じゃありませんよ?」
男殺しの呪文を発しつつ、ブリジットは自分の皿から肉やら野菜を俺の口へ運ぶ。何やら腑には落ちないが、そういう事にしておこう。炭火で焼かれた肉の串を齧っている内に、考えるのも馬鹿らしくなっていた。今はただ、この娘が懐いてくれた事実を甘受すればいい。
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