奴隷邂逅【2】



【5】


 戦場で凝り固まった脳では、その文脈を読み解けなかった。精神の防御機構が作用して、認識を拒絶していたのだろうか。延々とエラーを吐き続ける息子に構わず、親父は語を継いだ。

「金はこっちで出す。現金で二万ポンドもあれば、頭金として十分だろう」

 俺の知らぬ場所、常人が怖い物見たさに蓋を開ければ発狂は免れぬ、リチャード・クラプトンの頭の中だけで会議が進んでいる。こうなると、核爆発が起きても止まらない。

「待てよ、どうしてそうなる」

「何だ、他に縁でもあるのか?火薬ばかりで、女の匂いなんてしなかったのに。おっ、そうか読めたぞ。ホモに目覚めたな」

 かぶりを全力で振り、身体の至る部位で否定を表した。汗臭い兵舎で同僚のカマを掘る趣味はない。

「じゃあ別に構わんだろう。金は用意されてるんだ、他に何の不満がある?」

 そうして仰々しく肩をすくめてみせる。俺が二つ返事で首を縦に振らなかったのが、釈然としないとでも言いたげに。頭がおかしいのか?ああ、そうだった。

「もうろくするには早過ぎるぞ親父殿。あんたみたいなのを受け入れる介護施設なんて、一朝一夕には……」

「ニーナ!」

「最後まで聞けよ」

 クラプトン少佐の執務室には小さな物置が併設されており、彼の私費で給湯室へと改装されていた。そこでは親父の家政婦、もとい妻同然の女殺し屋が、常に紅茶の準備を行っている。給湯室のドアから「かしこまりました」と、曇りない声が返ってきた。

 ニーナなる声の主は親父お抱えの秘書で、それはもう見事なプラチナブロンドの髪が艶めくスラヴ系だ。年端もいかぬ時分に両親を失い、東欧を放浪していたのを親父に拾われるという、これまた数奇な経緯を持っている。そういう過去もあって、親父を何者にももとる変態と貶めながらも畏敬の念を示し、こってり濃密な慕情を注いでいる現在に至る。果たしてそれが倒錯かは知れたところではない。当初は親父も彼女の真摯な愛に応えるのに抵抗を感じていたが、その染み一つない美貌と雄大なカフカス山脈(要はおっぱいだ)に三日で屈した。その時は本気で絶縁を考えたものである。

 更に特筆すべきは当人の技能で、第二二SAS連隊の女性正規隊員という、陸軍内部でアウトロー極まる当該部隊でも例外視される籍に身を置いている。都合が合わずに人員が足りない事態に応援とか通信支援を行う、非常勤のお局様だ。厄介な事に、野郎連中なんかより遥かに強い。身体も、それからおつむも。

 身体のラインがぴっちり浮き出るウーリープーリー(コマンドセーター)に身を包み、肩で切り揃えた髪を揺らして、ニーナは給湯室もどきのドアを跳ね開けた。とんでもねえ女だ、ブーツで扉を蹴り飛ばしやがった。我らが姉君は甚だ虫の居所の悪そうな視線をこちらへ寄越し、すぐに興味を失ってそっぽを向いた。俺の顔の何が不服だって言うんだ。お前の旦那の次男坊だってのに。

 彼女は迷彩トラウザス(パンツ)のポケットへ白磁の手を突っ込み、何やら大業な紙の束を蛍光灯の下に晒した。括目せずとも分かる。買い出しに持ち歩くには、とんでもない額の札束だ。女王の微笑みが、赤軍兵士みたいに大挙している。色を見るに、観光客の大好きな五十ポンド札らしい。それを事もあろうに、彼女はこちらへ上手投げした。緩い放物線を空に描いた札束が、俺の胸元にぼすりと凄まじい衝撃を伴って着弾する。紙幣の塊が、汚れた輪ゴムで留められていた。

「おい、女王陛下に敬意を払えよ!」

「己が財布から飛び去る金に、うやうやしくおもねる義務はないんだよ」

 自己陶酔とも取れる諦観を決め込んだ親父の冷笑に嫌気が差したが、すぐに同情を覚える。きっとせっかちな老衰に冒されて、お脳の大事な箇所が蕩けてしまったのだ。可哀想な親父!そしてそんな痴呆に付き合わなければならない、輪を掛けて可哀想な俺!

「三日間やる。その金で女奴隷を買え。それまで職場に来る必要はない……いや、絶対に来るな。買ったら連絡を寄越せ。理解したな?復唱しろ」

 馬鹿も休み休み言え。こちとら奴隷なんて、耳にするだけで胃液がこみ上げる始末である。それあろう事に自ら購入し、あまつさえ一つ屋根の下で共同生活を営めと仰る。こちとら二つ返事で了承する、都合の良い息子でもない。机まで大股で詰め寄り、散らかった天板に札束を叩き付けた。

「実に愚かしい選択だ」

 親父の唇が強か歪む。俺の手を離れた札束には、一瞥もくれない。

「奴隷に選択の権利を与えたのは、他でもないあんただ」

「その理屈だと、また奪うのも俺の自由だな」

 向こうさんも全く譲らない姿勢だ。ニーナは我関せずと、隅で壁に身を預けて気だるそうに腕組みしている。不意に親父が椅子を立ち、毛足の短いカーペットを踏み鳴らしてぶら付き始めた。脂肪を蓄えた顎を撫で、手入れの届いていない巻き毛を握っては離す。そうして室内を一周する頃、脳内の豆電球が通電したらしい。

「……ようし、こう考えてみちゃどうだ?お前はこの金で、荒廃した現代社会から女の子を一人救う。不自由ない生活環境と知識を授けて、人並みの権利を保証する。哀れな奴隷の身分を上塗りしてやるんだ、悪い話じゃないだろう」

「いい話でもないね。逃げ場のない一つ屋根の下にそいつがいたら、デリケートな心身に悪くてしょうがない」

「そりゃ心中穏やかじゃないでしょうよ。童貞だし」

 ニーナの鋭利なナイフが脇腹を直撃したが、何も聞かなかった事にした。第一、童貞云々は付随する些細な結果で、病の原因ではない。親父は机の角にたるんだ尻を乗せると、小馬鹿にする表情を浮かべた。

「お前、自分の病状を理解しちゃいないな?まあ、それも致し方あるまい。今まで普通を装っていられたのが不思議なくらいだ。デリケートな精神とやらは知らないがな、それが既に限界を叫んでいるんだよ。こっちはそれが引き裂けるのを防いで、ボンドでくっ付けてやりたいだけなんだ」

「言うだけなら簡単だ。現実は違う」

「現実から逃げてきたやつが言えた口か」

 唐突に、親父が胸ぐらに掴み掛かってくる。身長が十センチほど低いので、下から突き上げられる具合だ。皺だらけのシャツが、尚更もみくちゃになる。腑抜けっぽい空気の消えた顔が、真下から睨んでいた。

「これがお前と、それから俺にとっても最後の機会なんだ。お遊びでやってるんじゃないんだよ」

 シャツを握っていない方の手が札束を掴み、俺のチノパンへ捻じ込む。ここで再び女王の集団を放ったら、次はいよいよパンチが飛んできそうな剣幕だったので、抵抗せずに親父から距離を取った。

「いいな、三日間だ。それ以上必要なら連絡しろ。少しくらいは引き延ばしてやる」

「大きなお世話だ。勘違いするなよ、あんたの指示に従うんじゃない。後はこっちの好きにさせて貰う。酒でも賭けでも、自分のやりたい様にな」

 親父は微かに頬を緩めた。それが気に食わず「くそ親父」と呟いたが早いか、無防備な股間にパンチが飛んできた。さしたる痛みはなかったが、途方もない速さだった。

「今日はもう帰れ。雑務はヴェストに割り振る。何かあったら……うん、ちょっとでも不安に感じたら電話しろ。どうせ暇なんだ、いつでも出てやるよ」

 そしてまた、座り心地の良い椅子にどすんと尻を収める。勤務中にのんべんだらりと紅茶を啜っていられるのは、美人秘書が全て片付けてしまっている為だ。

「息子様は反抗期でね、十割方ないだろうよ」

 にやける親父と、さっさと出て行けと言わんばかりに冷たい視線をぶつけてくる姉から、半ば逃げる様に踵を返す。背後でドアの閉まる音を合図に、汗腺のダムが決壊した。何てこった。これでは全部、あの道化親父の筋書き通りじゃないか。面白くない。

 ちくしょう、二人になった途端にちゅっちゅしてるんだろうな。何もかも面白くない。



【6】


 結局、二万ポンドという大金を押し付けられたクラプトン少尉は、まだ十時も回っていない時分に職場を追われてしまった。

「ヒルちゃんが退職するぞ!」

 何処からともなくパーティ用のとんがり帽子を持ち出してきたジェロームの野次を尻目に、あのくそイタリア野郎を殺すと胸に誓った。綺麗なままのケツ穴でいられると思うなよ。司法解剖で直腸からジャガイモとタマネギが摘出される様に取り計らってやる。決意を固めるのと同時に、クラッカーが後頭部で炸裂した。凄くうるせえ!


 謹慎処分を突き付けられ、行く宛てもなしにヘリフォードの街をたゆたう。流れ着いた先は兵士の街に相応しい、洗練と真逆に位置する薄汚れた喫茶店だ。そこで何をとち狂ったか、形の崩れた不細工なケーキを大量に注文し、腹へと収め切れずにそのまま三時間が無為に過ぎて現在に至る。

 吐きそうだった。三四ポンドという金が羽を生やして飛び立ってしまった手前、幼少の苦労から食わずに帰るという訳にもいかない。産まれる前などと贅沢は言わない、せめて入店時まで時間を戻してくれ。

 注文したケーキの、その数たるや十個。ここまでの過程だが、最初の二十分で四つを喉奥に押し込み、その後ずっと砂糖なしの紅茶だけを飲み続けている。やけ食いとやらがこうまで辛いのかと、この歳でようやく気付けた。知らない方が幸せだった。

 残った六個の内、四つは甘ったるいだけのチョコレートがふんだんに使われたやつだ。味なんかあったものではない。舌にざらついたクリームが触れただけで、胃液が逆流するのは想像に難くない。親父のとち狂った命令に、まともな思考回路がノックアウトされていた。

「お客様、ご気分の程は?」

 頬の骨張ったウェイトレスが、面倒そうに声を掛けてくる。そんなに酷い顔してたのか、俺は。右顎にでかい傷跡の走る男が、大量の甘味を前に呻いている状況を思い描き、悲しくなった。みっともなくて涙も出ない。

「お下げ致しましょうか?」

「大丈夫、食べるから」

 額に脂汗を浮かばせて、何を言うのだろう。

「ご無理をなさらずに」

 そう味気なく残し、コカインをやっていそうな彼女は去った。どうして気を遣ったか知っているぞ。あんたが掃除当番だからだな。俺がゲロしたら、あんたが始末しなきゃならないからだ。どいつもこいつも一人残らず、自分の事しか考えちゃいない。

 とかく、奴隷の件を忘れていたかった。親父の爆弾発言と、それを全く止めようとしないニーナの冷血を、腸を通過した砂糖と一緒にトイレという海に流したい。

 更に二時間。血涙を流す心地でケーキ六個師団を滅ぼし、魔の喫茶店から立ち去った。今日は帰って休まないといけない。繊細なメンタルを筆頭に、自己が崩壊してしまう。奴隷の件は、明日考えればいい。特別、急ぐものでもない。そう、明日でいいのだ。店を出てから十歩進んだところで、悪寒めいた思考が駆け抜けた。どうして俺は、ケーキを持ち帰るという選択肢を見出さなかったのか。間抜け!店員も気を回してくれたっていいだろうに、人の心はないのか!

 正午を回っても、色濃い曇天は一向に晴れ間を見せない。イギリスはいつだってそうだ。過去に一度の例外を除いて。



【7】


 騒々しい目覚ましの咆哮から、更に短針が三回転していた。陽光の遮られた午前十時の寝室。働き盛りの男が何をするでもなく、悶々と唸っていた訳だ。

 ベッドから出られる気がしない。思案の構造体が、土台を成す前に瓦解する。この三日間、考えは綿埃ほどもまとまらなかった。無気力に冷凍食品をレンジへ突っ込み、BBCが映るテレビの液晶抜けを見つめ続け、空のビール瓶を意味なく転がして過ごした。録画していれば、立派な精神病患者の証明になる。虚空にこれから為すべき行動を問うても、当然ながら誰も答えてはくれない。こちらとしても、返答されては困る。家全体を除霊して貰わねばならない。

 既に期日を迎えていた。日付は六月の二六日の筈だが、確認しようにも壁のカレンダーは二〇〇八年の十一月で止まっている。一昨年のやつだ。

 最後の帰宅から、外界との繋がりを断っていた。携帯電話の電源を切り、固定電話も電源を抜いた。職務用の携帯は常に身に着けていたが、呼び出しが掛かる事はなかった。酒場へも行かなかったし、そもそもアルコールをやっていない。夜はずっと酒浸りの日々だったが、意図せずして初めての継続休肝を達成した。

 このまま奴隷を購入せずに一日を過ごしていれば、じきに親父からお叱りや苦言が飛んでくるだろう。そうなると面倒だ。望まぬ謹慎期間の追加を喰らうやも知れない。お局の姉貴の蔑みも、想像だにぞっとしない。

 とはいえ、奴隷を家に招き入れる真似は受け入れ難い。だって余りに不謹慎だろう。双方の合意があってこその肉体関係だし――思い過ごしと言われればそれまでだが――それを金で買った女と、一夜のみならず永劫に同じベッドで過ごすなど、言語道断ではないか。などと愚かしい持論を構えて早二九年、思えば一瞬だったが、その間常に頭の隅に巣くっていたのは、童貞である自分への叱責だ。周りのやつは十代で安物の誇りを売り飛ばしたというのに、何を躊躇っているのか。下らない葛藤と付き合っている内に、その誇りも埃を被って一ペニーの価値もなくなってしまった。トラウマを体の良い盾にするのも問題だ。

 奴隷購入に対して気が進まないのは、そもそも自身がその出身である点が多分に影響している。奴隷というやつは、貴族か企業が娯楽・雑用に買う道具の筈だ。一般人が持つべきではないし、その存在は今や全世界で受け入れられるものでもない。現時点で奴隷を産業として扱っているのはイギリスとその保護国の一部くらいのものだから、時代錯誤も甚だしい。

 奴隷購入についてここで初めて思考を働かせたが、奴隷と銘打たれている製品が実際にはどういったもので、購入後に如何なる責任や義務が生じるかなど、ついぞ未開拓の領域であった。知的好奇心を惹かれないと言えば嘘になる。そう、関心はある。何故かしらの魅力がある。

 ……いいや待て、落ち付けヒルバート・クラプトン。血迷ったか。何を期待している。顔が少し火照るのを感じた。止せよ、奴隷の心情については、お前自身が一番把握している。抑圧された精神状態での過酷な労働、醜悪な異性との性行為を強要される日々の連続。どだい人間に耐えられるものではない。しかし購入せねば叱られる!逃げ場のない板挟み!おまけにニーナには判断力に乏しい役立たずと、排水溝に詰まった髪の毛を見る目を向けられるだろう。ゴミにも位階があって、あれは最下層にかなり近い。

 親父なりの心配はありがたい。であるが、奴隷というのは考えものだ。常識が少しばかりあるなら、息子に出せる指示ではない。不意に思い至ったが、人間をたかだか数千とか数万ポンドで買える現実も妙だ。政治屋の正義を疑う。

 自らの意思が両極に割れ、内部衝突の鎮火の兆しは見られなかった。冷静に俯瞰して、強い興味が芽生えているのは明らかだ。それに、これ以上他人にどやされたくないのも。

 よしと発起して我が身に鞭を叩き、四肢を突っぱねる。奴隷への知的欲求が、欲望剥き出しの悶々した煩悩に昇華し始めている。早急に行動を起こさないと、何をしでかすか分かったものではない。女性でトラウマを植え付けられた筈が、男という本能を満たせずジレンマを生んでいるのだ。呪いにしても性質が悪い。

 ものの数分で計画を立案した。何にせよ、奴隷を買わねばならない。悩むのはそれからでいい。そう考えると、気が少し楽になった。熱いシャワーを浴び、鬱蒼たる大自然と化した髭を剃って、ラフな服で遅めの朝食を作る。今日のメニューは、今度こそトースト二枚と卵二つの目玉焼き、かりかりのベーコンだ。油を引き延ばしたフライパンに、ラージサイズの卵をかざした。ぽろりと掌から逃げる卵、それを追いかける右手。儚い音を立てて白球が砕け、潰れた卵黄が床を汚す。転落死させてしまった卵を雑に片付け、二つ目に望みを託した。しっかと卵を掴み、ヒビに指を入れて割れ目を拡げる。手元で殻が左右に分かたれる感触、そしてそれが急に軽くなる。割れた――!ぼてっ、と生卵の内容物が落ちるには余りにも程遠い、鈍い着地音。陽炎の上る鉄板の上、毛も生え揃わない成り損ないのヒヨコが、油の海に揺れていた。

 十時四五分、俺は空腹のまま家を出た。手には未だ、卵の白身だと信じていた感触が残っている。不運なヒヨコは、庭に埋めた。願わくば、化けて出て来ない事を。世界屈指の特殊部隊でも、除霊の方法は教えてくれないのだ。



【8】


 陰鬱な気分とお手てを繋いで、ガレージの愛車――外見はかなり前の黒のBMW――に乗り込み、イグニッションを回すと不機嫌そうな咳を払ってエンジンが始動した。謹慎中に呼んだ修理屋の仕事に嫌悪を催したが、今日ばかりは動いて貰わねば困る。こんな事であれば、自分でボンネットを跳ね開けるなり、仕事終わりの隊員に頼めばよかった。朝食代わりのチョコレートバーを齧りつつ、重いアクセルを踏み込んだ。

 ウィンドウの外を流れていく風景に、何の面白味も感じられない。イギリスお馴染み、変わらずの曇天だ。昼時だというのに薄暗く、肌寒ささえ覚える。目的地は首都ロンドン。〈グーグル〉で「奴隷市」と検索を掛けただけで十万件以上の候補がヒットし、しかも本日開催の即売会が見付かった。何が光栄ある孤立か。欧州から村八分を喰らって、勝手に気取っているだけだ。

 M4自動車道を走り続けて三時間も経たぬ内に首都に到達し、〈マクドナルド〉でチーズバーガーとポテトを貪る。そこで一時間の休憩を摂ってから、奴隷市の会場であるショッピングモールを目指した。どうしてそう公の目に留まる場所でやる必要があるのか理解に苦しんだが、すぐに思考を中断した。精神の毒でしかない。

 雑念に脳味噌を働かせたくなかったので、カーナビを点けず、道路地図と精度の高い〈シルバ〉のコンパスを助手席に置いていた。ナビゲーションの専念には成功したが、地図とコンパスが優秀過ぎて、予定より早くモールに着いてしまった。腕時計の針は、午後の三時前を指している。

 モールは四階建ての屋上に大規模の駐車場を有する、築造されてから五年と経っていない新築だ。きっとバッキンガム宮殿よりも大きい。会場は当物件の一階であり、かなり大規模な多目的スペースを割いて開かれる。もっとちんけな奴隷市が地元でも見付かったが、そんなふざけた場所にいるのを同僚に見られたくなかった。

 モール前の広大な駐車場に我が儘な愛車を停め、ぐらつくドアを開いた時にふと思い立った。ひょっとすると、資金不足という事態が生じるのではないか。コーデュラナイロンの鞄に放り込んだ、輪ゴム留めの札束が急に心許なく思えてきた。杞憂だと分かっていたのだが、気付けば最寄りのキャッシュディスペンサーで三千ポンドを下ろしていた。(イギリスでは屋外で野晒しな事が多い)ちくしょう、結構な数字が口座から消し飛んじまった。通帳の削れた残高が恨めしい。舌打ちを一つやり、今度こそモールの正面玄関をくぐった。

 平日とはいえ、店内はその日の電気代を賄える程度には混み合っていた。見取図で会場を確認し、大股に歩みを運ぶ。何処かで子供が泣き叫んでいるのが聴こえる。些末な事象だが、萎びた心には相当くる。

 これから何を行うかは定かでない。奴隷市の状況を観察して見定め、分析・評価の後に適切な措置を選択する。親父にしょっぴかれるのを前提で帰途に就くか、覚悟を決めて奴隷を購入するか。それとも腹をくくり、親父に助言を求めるかだ。三つ目の選択肢を取るのは遠慮願いたいが、他二つもどっこいどっこいだろう。不甲斐ない姿を晒しておきながら、ここに来て無意味に格好付けしい自身に虫唾が走る。意気地なし!

 ショッピングモール一階の中心部。そこに位置する多目的スペースに近付くにつれ、富裕層らしいスーツ姿が増えてきた。イタリア製だか知らないが、甘ったれた身体にあつらえた絹地が繊細な色味を放つ。就職活動中の学生に譲ってやれ、豚に〈アルマーニ〉は似合わない。玄関から運転手付きの車までの距離しか歩かない革靴が眩しい。対する俺は、ストライプのくたびれたシャツという風体だ。色落ちしたアイボリーのチノパンの下には、仕事用とは別に購入したコンバットブーツを履いている。夏場は辛いが、足首を完全に保護された履き心地が気に入っている。こいつで金持ち共の足首を踏みにじれたら、さぞ爽快だろうに。そうして現実を直視出来ないまま、とうとう会場に来てしまった。ああ、逃げ出したい!

 わざわざ真紅のカーペットが敷かれた四方二百メーターの会場に、頬の弛んだ中年が大挙していた。髪を後ろに撫で付けた奴隷のディーラーと、がたいの良い用心棒が一定間隔で配置されている。四隅に立札があり、撮影禁止の指示があった。

 通常の利用客が、市場のでぶ連中を見る目は冷ややかだ。それが数分後の自分にも向けられるのだから、今から胃が痛い。おまけに俺だけ平服だから、肥溜めのダイヤモンド並に目立つ。額に少量の汗が滲んでいた。あと三歩も進めば、奴隷市に踏み入ってしまう。SHOTSHOW(毎年ラスベガスにて開催される、アウトドア・ミリタリー・法執行機関向けの製品展示会)みたいな混み様だ。

 意を決して警備員の脇を抜け、紅のカーペットへ踏み入る。小さな白い円柱形のお立ち台に乗った奴隷達が、憐れみを求める双眸を支配階級へと向けている。正しく商品の扱いだ。衣服は白のワンピースと粗末な白い靴だけで、あとは何も身に着けていない。購入後はお好きな色に染めてやれと言いたいのだろうが、どうせ欲望のどどめ色に漬け込まれるに決まっている。

 上半身の皮膚がぴりぴりと痛んだ。物理的な境界を越えた事で、早くも神経に拒絶反応が走っている。痺れをいなしてスーツの海を分け進み、すぐ傍で展示されている奴隷に目を向けた。首から下げた値札に、一万ポンドと記されている。とんでもない価格だ。人ひとりの自由が、型落ちした自動車同然に買い叩かれている。赤毛で病的に肌が白い、そばかすだらけの少女が「買って」と震えた囁きを発する。気管の真ん中に、拳大の氷をねじ込まれた心地だった。共通項を持つ人間に、耐えられる訳がない。


 奴隷の自滅的なアプローチに狼狽して市場から逃げ去り、フードコートで買った不気味な青色の電解質飲料を口に含んだ。ものの一分と、あのくそ壺に耐え切れなかった。五歳ばかりの女の子が、父親と仲睦まじく並び歩いている。あの子と先程の奴隷に、生まれ以外の違いはない。今しがた飲んだものが、急に逆流してむせ返った。顔の粘膜という粘膜から、生ぬるい液体が磨かれた床へ滴る。体内から漏れた腐臭がかつての住居を想起させ、吐瀉物の混じった痰が顎を伝った。


 店内に留まる事さえ叶わなかった。おぼつかない足取りで駐車場まで撤退し、ガムまみれのゴミ箱の許にしゃがみ込む。至急、気付け薬が必要だ。普段はやらない煙草を取り出してパッケージを覗くと、一本だけ残っていた。それで十分だったが、摘み上げると、フィルターから先が折れていた。葉がパッケージの中で、ふにゃりと解れていた。言葉にならない悪態をつき、ライターごと〈マールボロ〉を捨てた。灰皿に突き刺さった吸い殻を拝借する自棄もよぎったが踏み止まって、ヒップフラスコ(スキットル)に持参していたドライ・ジンを勢いぐいと喉に流す。これがいけなかった。荒れた気管支に高濃度のアルコールが殺到し、経口摂取したばかりの〈ボンベイ・サファイア〉が鼻腔を焼きつつアスファルトを濡らす。用を終えた買い物客が、不信と警戒も露わに自分の車へと急いだ。筋肉質な男が眼を充血させてむせているのだ、傍から見ると脅威でしかない。結局、いつ処方されたかも記憶にない抗不安剤を噛み砕いて、モールの自動ドアへ向き直った。ここで無益に唸っていれば、臨戦態勢の警備員がやってくる未来が保証されている。進退きわまった。恥晒しにスコットランド・ヤードに突き出されるくらいなら、反吐を撒いて救急車に担ぎ込まれる方を選ぶ。


 開戦前から満身創痍で奴隷市場へ戻ると、商品購入の瞬間に遭遇した。購入者らしき痩せぎすの灰色スーツが、市場の隅に設営されたカウンターへと誘導される。どうも七面倒な事務作業が要求されるらしく、金だけ払ってさようならとはいかないらしい。心身が崩壊する前に、この腐敗地域を離脱出来るだろうか。

 二百メーター防水の腕時計が、十七時を刻む。市場の偵察を始めてから十五分、お立ち台の奴隷――可愛いかそうでないかと訊かれれば、大半が不健康そうな不細工だった――の価格を、ひいひいメモに取って平均を算出していた時分だった。それまで服を着た豚でごった返していた、会場の中央で、動きがあった。どうやら他の商品と区分を異にするスペースになっており、ゴキブリが同胞の死骸に群がる様に壁が取り囲んでいる。唐突にディーラーが誘導の指示をがなり、脂ぎったゴキブリ群がモーセの奇跡を模倣するかの如く割れた。穢れた花道をディーラー、購入者らしきでぶ野郎、それに続いて奴隷が歩む――。常識離れした光景の、取り分けて特異な存在に驚愕した。

 目を惹いたのは他でもなく、売買が成立したその奴隷だ。偵察と称して今まで価格を検めていたのは、百歩譲っても彼女らを美形と定義するのに難儀していた為だ。薄幸な身に申し訳ないが、吹き飛ぶ金と天秤に掛けて同情の余地なしという不細工である。ちょっとは見られるのだと、軽く三万ポンドは吹っ掛けてくる。

 そこで、あの娘の容姿だ。艶めくシャンパン・ゴールドの髪、くすみ一つない卵型の美貌が、淀み切った目に眩しい。それも恐らくは天然物で、頬の骨を削って整えた形跡がない。惜しむらくは絶望をも通過した落胆の表情くらいで、本当にけちの付けられない女だった。そいつが今や、前を行くでぶ野郎のちんぽこに貫かれる運命を背負わされていた。銃後の庇護なき、孤独な矮躯に。

 五月蝿い理性が雲隠れした。数字を書き殴ったメモを仕舞い、人海の裂け目に身を投じる。何度かご立派な足を踏んで悲鳴や悪態が上がったが、歯牙にも掛けなかった。全身が、衝動に駆り立てられていた。

 展示用のお立ち台こそ変わりないが、全コンテンツがそれ以外の商品と掛け離れていた。あばたを持つ者などおらず、流行を追って体中を穴だらけにしているやつもいない。年齢は大小あるが、いずれも美少女――どうしよう、女じゃないのがいる――の定義に合致する。無論、端っこで優雅にポージングしている青年の価値は、俺の知るところではないが。目前に控える六人の女に比肩する女には、恐らくニーナを除いて二度と逢いまみえる未来はないだろう。知りたくなかった、こんな世界!

 接触自体が禁忌とも思わせる彼女らを買った不埒者がいた証明に、既に空いたお立ち台が幾つかある。どうかしている。何がイギリスだ。観光客からは紳士と持て囃されているが、実態はご覧の残念極まる変態王国だ。己が内面に潜む恥部を取り繕い、包み隠した結果として紳士が偽られる。慇懃無礼に交渉へ臨み、不服の意思表明に平然と他国を蹂躙する。それが大英帝国の本性だ。小綺麗な包装の下には、残虐で獰猛な真実が口を開いて待っている。太陽の沈まぬ国を打ち破った強者が、誰からも敬われる英雄である道理がない。謀略あってこその栄華だ。

 煮立った脳味噌が、爆散した思考回路を繋ぎ直そうと試行錯誤していたが、絶世の美女群を前にしてはそれも容易ではなかった。おまけに俺は童貞ときている!飽和した間抜け面が、追加の情報で今度は瞬間的に凍結された。

 一番近くに展示されている、栗色の髪を持つ奴隷。その首に下がる札に印字された文字の羅列――八がひとつにゼロ四つ、その後ろに英国流通通貨:ポンドを表す記号。端から口にする言葉などなかったが、息を呑んだ。千ポンド爆弾並みの衝撃に、数秒間の前後不覚を味わう。性奴隷でもトップクラスに位置する階層という訳だ。

 だが、この値だって異常な事態であるのには変わりない。人生をほんの数万ポンドで剥奪する暴挙に正当性など認められないし、これでも安過ぎるくらいだ。国家レベルで見れば!

 目尻がひくついた。親父め、どうしたって俺をこんな場所へやったのか。手持ちの二万ポンドに見合うのは牛のくそから発生した蛆虫で、まともに目も当てられない。包み隠さず言えば、穴しか取り柄のない女だった。失った人生の補償には、余りに役者不足だろう。童貞の戯言に過ぎないが、如何せんこちらにも事情がある。奴隷を囲う腹づもりは毛頭ないが、手ぶらで帰れば次の奴隷市を用意されるだろう。更に悪い事に、今度は親父が同伴するかもしれない。それだけは避けねばなるまい。

 この場に仕向けられた理由が、ようやく分かった。どうして見合いや紹介ではいけなかったのか。わざわざ奴隷と目標を絞った、英国人らしい悪趣味な魂胆が。とどのつまり、俺と同等の境遇に巡り合わせる為だ。強烈なを負って帰還した兵士の扱いに戸惑い、破局する男女は少なくない。ベトナムや湾岸、ひいては最近のイラクやアフガニスタンの帰還兵にもあてはまる話だ。軍の精神科医の手に余る患者はごまんといる。

 だからこそだ。古傷を抉ってまで奴隷と引き合わせる名目としては、これ以上の理由はない。意図的に共依存の環境を構成するのが、親父の策略であった。極めて合理的だが、ヒトの親の思い付く事ではない。それだけ俺が切羽詰まっているとすれば、上官として命を下した意味は計り知れない。

 だけど、俺とてもう大人だ。欲しいものくらいは自分で決める。そこに妥協の付け入る隙などない。

 にわかに平静を取り戻し、上物の検分に取り掛かる。先の八万ポンドの娘は、俺を視界に入れるなり、僅かに目を背けた。平らな腹の前で組んだ手がきつく結ばれている様子から、怯えを悟った。右顎のでかい傷跡を、整形外科に通ってでも消すべきかもしれない。何にせよ、見える情報くらいで揺れるこいつは駄目だ。こっちの心労が絶えない。

 少し離れた左手、おっぱいのでかい薄いブロンドは、こちらを一瞥しただけで明らかに目許を歪ませた。それからすぐに表情を正し、頭髪の寂しいじじいへと色目を遣り始める。商品でなければ張り倒していただろう。九万ポンドの札を下げるこの娘とは、元より縁がなかったのだ。

 左端の男には、興味本位で近付いた。値段を見たいだけだったのに、高音域の猫撫で声が掛けられる。「兄さん、どうだい」ぴっちりしたブラックジーンズと清潔な白のワイシャツに身を包んだそいつは、澄んだ碧眼を爛々と輝かせていた。止めてくれ、ケツで遊ぶ趣味はないよ。どうしてそんなに楽しげなんだ。まるで望んで奴隷になったみたいだ。ひょっとしてそうなのか?どの道、お前さんと結ばれたくないなあ。さようなら、十二万ポンドの君。どうも君とは、根っこから波長が合わない。

 すぐ近くで動きがあり、先と同様に海に裂け目が生じた。頬のこけた長身の男が、さっきまでなよなよ媚びていた奴隷を連れている。艶のあるブルネットを揺らし、まずは衣食住の確保に安堵していた。

 さて、これで残る女奴隷は五人になった。購入店舗の指定こそないが、それでも少なからず焦燥を覚えるのが人の性だ。冷たい汗を顎に伝わせ、三人目へ目を向ける。ケルト系の赤毛は七万ポンドで、日に焼けて見るからに健康そうだ。見物人へと豊かな胸元をはだけさせ、やたらと性的なアピールを振り撒いている。こんなに楽観的なのは手に負えない。奴隷へ抱くイメージが違い過ぎる。

 四人目は九万ポンドのラテン系で、短く濃い栗毛を生やしている。酷く塞ぎ込んでいる様で、冷たいグレーの瞳が曇っていた。あれはきっと、俺より先に壊れてしまう。身体も全体的に皮膚が引きつっていて、食も細そうだ。家計には優しいだろうが、見ているこっちが気が気でない。

 さて、注文を付けている内に最後の一人になってしまった。これでがっかりなのが登場なら、それはそれで親父に事情を納得させるまでだ。俺だって、自分の脆さを曝す相手は可愛いやつがいい。奴隷に同情するのはやぶさかでないにしろ、そいつの外見にまで気配りは回らない。

 思い切り目を瞑り、やけくそに念じる。――ベンテンでもダイコクでもいい、神よ!真っ暗だった視界に、光明が割り入る。おぼろげな像が、次第に形を成す。初めに認識したのは値札だった。十万ポンド、素晴らしい!期待させてくれるじゃあないか。どうせこの機を逃せば一生分は拝めない高嶺の至宝なのだ、ねっとり拝謁させて戴くとしよう。訊いてもいないのに教わった言葉を使うなら、今しかない。見るだけなら『ロハ』なんだ! やけっぱちで目蓋を一気に跳ね上げる。優秀な視細胞が光彩を数秒で調整、目標に焦点を定めた。

 失語症とは、こういうものなのだろう。十代の少女らしいあどけなさの残る容貌に、小柄な身の丈。肌は白く、緻密な工芸品を髣髴とさせる手指。その点は他の奴隷と大差ないのに、その子だけがまるで違う。周りより幾分か華やかさに欠けて地味なところはあるが、並外れた異彩を放っている。それも、一般人には感知出来ないやつを。

 彼女には幾つか不可思議な疑念、言ってしまえば、物見高さを誘われる要素があった。背中の中程まで伸びる髪は、くすんだブロンドとか灰っぽい砂色とも見られる絶妙な色合いで、緩やかなウェーブを描いている。額は小さく、グレーの強い碧眼が醒めた印象を抱かせるが、その輝きは失せている。それを縁取る目蓋は、何処か眠たげだ。顔に関して滅裂な自分が言えた道理ではないが、小さな卵型のそれはゲルマン系かと思うとスラヴ系の匂いがアクセントを加え、かつ骨張った風でもない。胸も小振りで、中華の肉饅頭と良い勝負だ。(イギリスに中華料理店が数多く存在する)

 身振りから滲む雰囲気は、見てくれ以上に虚を衝いてきた。他の奴隷が媚びへつらうか生気を失っているのに対し、膝を抱いてぺたりと座り込む娘は妙に自己へ無関心で、むしろ他者の観察に分析的な目を向けている。ややもすると、変人の類か。変人で真っ先に浮かんだのは、愚弟のジェローム君である。あいつがこの場にいなくてよかった。きっとこの五人の女を人質に、戦争をおっぱじめるだろう。不細工なのは、肉の盾が内定している。

 娘の首が緩慢に旋回し、熱の失せた瞳がとうとう俺に向いた。直後こそ視覚情報の衝撃――傷跡か、それとも場違いな服装だろうか――を隠し切れずに目を丸くしたものの、すぐにその細い首をかしげる。目線はこちらへ固定されたままだ。姿勢の都合でこちらが見上げられる形になっているのでいたたまれないものがあるが、向こうがずっと放してくれないので、正面から向き合った。

 北で裏工作を働いていた時に増して、心臓が脈打つ。蛇に睨まれた蛙同然で、情けない話だが、その場から動けなくなっていた。彼女の表情に陰りはなかった。純粋に俺を吟味している具合で、自己を納得させるに足る情報を揃えられていないのが窺える。要するに、だ。素敵な勘違いでなければ、この娘は同族の人間を損壊させるのが生業の俺に、少なからず好奇心を示している。うーわ成る程、こいつは疑いなく変人だ。それも規格外の難あり物件。――だけど、それくらいで丁度いい。

 親父への連絡に携帯へ手を伸ばし、咄嗟に思い止まる。F判定の答案用紙を持って帰る悪餓鬼と同じ心境だった。親父、監視を付けなかったのは、あんたの不手際だ。

 系統だった思考は不要だった。邪魔な背広組を言葉なく押し退け、達観した女の子の目線まで腰を折る。

「君、紅茶は淹れられる?」

 変質者の突飛な問いに、彼女は幾らか当惑したらしい。それでも人の良い、それでいて物怖じしない柔らかな声で応じた。

「……人並みには」

 つまり、上手いって事だ。往生際をわきまえずにあがく理性を、そっと捻り潰した。


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