奴隷邂逅

紙谷米英

奴隷邂逅【1】

【1】


 何という事もありはしない、ただほの暗く照明の落ちた一室での出来事であった。ひび割れが走る石膏の壁に、女の嗚咽と子供の喚きが反響する。表の道路では、自動車のまばらな走行音が遠ざかる。女は子供を抱き寄せ、子供は女の胸にしがみついている。こちらへ向けられる二つの瞳は落命の恐怖に濁り、生への執着と欲求を訴えていた。

 理屈ではない、本当の生命がそこにはあった。自分の右手には、生命を容易く屠る鉄の塊が握られている。女の震える口から、助けを乞う言葉が零れた。反して、自身の本能はおぞましい打診を囁く。全身から汗が噴き出し、衣服が皮膚に貼り付く。喉が乾き、生命の根源たる水を欲した。手にした銃が震え、握り締めたグリップが軋みを上げる。自身の存続を求める衝動と相反する、彼女らの未来を願う理性が働く。

 だが、二つを同時に成し得る矛盾は叶わない。殺したくはない。それでも自身を危険に晒したくないというエゴが、馬鹿げた抗争の渦中に飲まれて霧散する。混濁した思考が焦燥を煽った。ともかく、踵を返してその場を去るという選択肢は存在し得なかった。当初の予定通り、肩に提げた鞄の装置が起動していたとしても、同じ結果にはなっていたのに――。

 延々たる逡巡の末、乾いた銃声が二つ、湿気た空気を満たした。



【2】


 耳元で、金属の衝突する不快音が鳴り響いている。それが、自身が今の今までレム睡眠の組んだ牢獄に囚われていたのを諭してくれた。騒ぎ立てる目覚まし時計を、緩慢な動作で制止する。人によっては安眠を阻害する雑音であり、そしてまた救いの鐘であるのやもしれない。針は午前七時を指していた。

 何へ向けたか定かでない悪態をついて重い身を起こすなり、異常なまでの倦怠感が襲いくる。いつまでも慣れない悪夢。言うなれば、拭い去れないトラウマである。青と白の縦縞の寝間着は汗でべっとり濡れ、野郎のすえた臭気が寝室に籠もっている。およそ爽やかな朝とはいかぬ皮切りに、労働意欲など生ずる筈もない。こういった日には家でのんべんだらりと過ごしていたいというのが人の性だが、そうはさせてくれないのが現実であり、人間という社会的動物を縛る制約である。

 ヒルバート・クラプトン、それが俺の名だ。と言っても十五年ほど前に身元引受人から授かったに過ぎない。出生なぞは思い出したくもないから、とうの昔に忘れてしまった。

 幼少時に、奴隷として身を売られた。出自を抹消する理由など、それで足りる。とはいえ、それで尚も消し切れない残渣があるというのもまた事実で、ヒトの脳は一切合財を自分に都合のいい様には作られていないらしい。宗派の差異はどうあれ神が存在するのなら、この欠陥を野放しになさるかの者は残酷この上ない。

 二階の寝室から一階のバスルームへ移動し、蒸気の上がるシャワーで脂汗にまみれた身を清める。洗面所で硬い髪を拭って髭を剃る最中、洗面所の鏡に映る我が身を恨めしく検める。白人らしからぬ血が通う肌に無数の傷跡が走り、そこだけ色素が失われていた。容貌は西欧とも東欧とも取れる、要らない国際色に溢れている。黒髪であるから、日焼けして髭を伸ばせばアラブ系に見えない事もない。瞳は濃いグレーで、もう支離滅裂の様相を呈している。こんなのはまだ可愛いもので、陰鬱な影が落ちる顔の一部分を、不機嫌な三白眼が捉えた。顎の右側から首にまで、一際大きなぎざぎざの傷跡が我が物顔で寝そべっている。物心ついた頃には、既に寝食を共にしていた傷跡だ。こんな場所に、誰が好んでお洒落な事故物件をこしらえたのか。憂いに塞ぎ込む間に髭を剃り終え、T字剃刀のシェービングジェルも洗い落とさずに、洗面所を後にした。

 ソファへ投げやられたシャツと、擦れて生地が薄くなったチノパンを履き、第二次大戦時に米軍が使用したよれよれの野戦服を羽織って、朝食の準備に掛かる。メニューは――毎度変わらないのだが――トースト二枚と卵二つの目玉焼き。そして、かりかりに焼きたいベーコン。あくまでも願望だ。この頃は、それさえも難しくなっている。

 食パンを対人地雷よろしく慎重にセットし、油を引いたフライパンにラージサイズの卵二つを爆撃する。指に力を込めた途端、カルシウム質の物体が中身もろとも無残に砕ける感触があった。全くついていない。今日は目玉焼き一つとスクランブルエッグだ。気を取り直して二つ目の卵を握り、シンクの角に叩き付ける。生じたひびに指を突っ込むと、数秒前に聴いた音が木霊する。今日のスクランブルエッグは、かなりでかい。

 数分後に出来たベーコンは、干し肉と思える程の硬さに焼き上がった。かりかりというよりは、ばりばりといった感じだ。既に食欲が失せ始める。焼き色の悪い卵の塊と、肉の板を飾り気のない皿に載せてテーブルに着き、たっぷりとしたイギリスの朝食らしくないそれに手を付ける。流石にもう失敗はないとタカをくくり、唯一の救いであるトーストに手を伸ばす。――何だこれは。ウォール街の株価大暴落なぞ、比較にならない衝撃だ。指先に走る感触、そしてその温度。冷たい、凄まじく冷たい。アフガニスタンの雪だって、こうも人を拒絶はしない。原因を辿れば単純明快で、俺というやつはトースターのダイヤルを回し忘れていたのだ。

 現在時刻は七時三五分。職場までは車で十分。出勤の目安は八時くらいと考えている。食事に五分。パンを焼くのに三分……。たったこれだけの計算が煩わしかった。自らのポカを悔やみつつ、パンを焼かずに食う英断を下す。不味い糧食をより不味く、そしてせわしなく詰め込み、飲み込む間もなく食卓を立つ。雑多な調度品に何度もつまずきながら、くたびれた砂色のベレー帽を掴んで家を飛び出した。手の中で、一対の翼を有する剣の徽章が歪んだ。

 玄関を抜けてガレージのシャッター上昇を急かし、ろくに洗車していない為に砂埃を被った車に転がり込み、イグニッションにキーをぶち込んでエンジンを叩き起こす。何度目かの試みの後、耳障りな破裂音と、力なき今際の息が前方のエンジンから漏れた。ぶ、すん。

「……ちくしょうめ」

 果たせるかな、それから何度キーを回しても、うんもすんもなくなった。人知れずため息が漏れ、ハンドルに脱力した身を預けた。自宅から職場までは徒歩で二十分。自転車はない。そこから容易に導き出される結果は、考えるまでもなく遅刻である。異様なのは、それが明白になった時点で、先の焦りを微塵も感じなくなった事だ。二九歳の大人が、確たる理由もなしに遅刻。法で禁じられているにもかかわらず、奴隷出身で軍籍持ち。ツテで手に入れたも同然の、少尉という階級。そして、第二二SAS連隊(英国陸軍特殊空挺部隊)が小隊長たる身分があっても、看過される行為ではない。

 指摘されなくとも、我が身が尋常ならざる容体に陥っているのは理解している。数年前であれば額に汗を滲ませるくらいはしたが、今や車の修理を自分でやるか、業者に依頼するかで思考を巡らせていた。気が狂っている。それでも、修理のしようがないのだ。

 車を降り、ガレージも閉めずに前庭の芝を踏みしだく。凄まじく始点の悪い、それでも平穏に一日を耐えられると信じて、今日も通勤路を辿る。衣食住に不自由しない先進国にいながら、幸福度は海抜すれすれだった。人並みの幸福なんぞ、過ぎたものは望まない。ただ、ヘリフォードの街の曇天が恨めしかった。



【3】


 くたびれたナイロンの黒い鞄を脇に抱き、まばらな通勤の人足に混じって職場へと向かう。クレデンヒル元空軍基地までは、二・五キロの道程だ。立ち並ぶ商店が開店準備を始めており、軽食店を営むでぶの男が閉店の札を片付けている。そこかしこの酒場に運送トラックが停められ、ビールのアルミ樽が下ろされていた。それだけに留まれば、ウェールズくんだりの味気ない日常に違いない――ただ一つの例外を除けば。

 平日の朝の風景の中、際立って目を引く存在があった。傍目からは異常なまでに短いスカートを履いた――十中八九は履かされている――若い女連中が、通勤のスーツ姿に紛れ切れないでいるのが散見される。これこそが現代イギリス連邦の最たる恥部、奴隷だ。かつてのスペインをも蹂躙して名を馳せたイギリス様だが、欧州ではとうに化石と変じた制度が未練がましく長らえている。

 雑貨店のショーウィンドウを磨く少女があれば、物資を詰め込んだ紙袋を抱える少年もいる。ご立派なスーツに身を包んだ金持ちに、半歩離れて控える美少女までおいでだ。商店で労働を課せられている大半は、お世辞にも『可愛い』なんて形容詞をあてがえない見てくれだが、金魚の糞をやっているのは見目麗しい美少女とか美少年の類に限られる。いわゆる、性奴隷と呼ばれる種族だ。奴隷に明確な職業区分は存在しないが、性奴隷に関してはその限りではない。顔の造りで一目瞭然に判断出来る。

 大概の性奴隷は、機能性を軽視した給仕服を着せられる。主人に伴って職場へ付き添ったり、或いは家に残って家事雑用を担うなどして、日々を生かされている。視界に捉えた性奴隷は華美なフレンチメイド服に身を包み、夏に差し掛かるとはいえど寒々しい灰色の市街に、そのか細い四肢を晒していた。うら若き素肌に、情欲が欠片も湧かないと豪語するつもりはない。であるが、イギリス国民がおよそ抱え得ない忌避感が、この身に巣食っていた。石炭よろしく赤熱する、激しくも寡黙に燻る憤り。それに反して氷の如く冷め切った諦観が、背反しつつ共存していた。この国の常識を受け入れられない病魔が、俺の精神を長きに渡って蝕んでいる。

 原因は単純明快であったが、如何せん解決への意欲も生じず、そうしようものなら他ならぬこの身が全力で拒絶反応を起こしてくれる。こんなのが十年以上も続いているから、たまったものではない。何事に対しても尊大な期待は抱かず、未練がましく諦める姿勢で生きてきた。死人と同等の目で、拭い去れぬ過去と対面せず、遂に三十路を前にくじけそうになっていた。有り体に言ってしまえば、生きる気力を失っていたのだ。それだのに、服毒自殺する踏ん切りさえ付けられない。



【4】


 職場に到着した時点で、腕時計の針は既に九時を回っていた。黎明期の戦車みたいな鈍足だ。目前に佇む陰気な建築物群が、こぞって俺を叱責する錯覚さえ抱く。

 陸軍SAS本部――空軍に放棄されたクレデンヒル基地を、SASが一九九九年に貰い受けた移転先だ。元いたスターリング・ラインズ基地と比較すると、大半のSAS隊員とその家族が暮らすヘリフォードからは幾分か離れている。とはいえ、第二次大戦時に建造されたおんぼろ施設を鑑みれば、多少の不便は甘んじて受け入れられる。サンドハースト(陸軍士官学校)を卒業直後、パラシュート連隊で三年を過ごした俺が入隊した頃には、極めて快適な施設として運用されていた。

 何重にもある警備付きの検問を通り、やっとで施設へと足を踏み入れる。特徴のない壁に囲まれた廊下を進み、自分に与えられた部屋――個人の装備を置いたり、入隊直後で家のない隊員が寝起きしたり、浮気がばれて妻に追い出された間抜けが寝泊まりする――のベッドに荷物を放り出し、遅刻の件で上司に平謝りへと向かう。事前の電話連絡をしようとも考えていたが、面倒に感じてなおざりにしていた。それに、俺の遅刻は最近では珍しくなくなっていたから、上司も分かっているだろう。


 廊下で数人の同僚とすれ違う。大抵がスウェットの上下とか、迷彩プリントの施された戦闘服姿だ。何人かは嫌悪を露わに睨み、鼻を鳴らして過ぎ去っていった。俺が所属するD戦闘中隊とその他少数だけは、ただ黙って頷いてくれた。殆どが軍曹や伍長、果ては兵卒などで、階級だけ見れば少尉様に平伏している様にも見える。その実、やつらは酒場で爽やかな笑顔を伴って俺のビールにタバスコをぶち込む輩なので、礼節などは存在しない。事情を知っているのだ。兵士かかずらう受け入れ難い過去と、それが生んだ癌細胞を。

 幾つもの小部屋を通り過ぎた先の食堂から、格別に見知った顔が三つ現れる。やつらはこちらをを認識するなり意地悪い笑みを満面に、さも頭の弱そうな風を装って詰め寄ってきた。

「どうした、ゴキブリ退治にでも手間取ったか?」

「スピード違反で切符切られたんだろ?」

「重役出勤ご苦労さん!」

 そんな具合で口々に野次られたので、「羨ましかろう!」と返してやった。こういう場合は開き直るに限る。何という事はない、気遣いに溢れた兄弟同士の軽口だ。

 青いジャージのショーンは少尉で、巻き毛の黒髪と角張った顎のありふれたゲルマン系だ。既に数多の実戦に参加しており、頬がこけて実際の二八歳よりずっと老けて見える。本国に待機している間は、対テロリストチームで狙撃班のリーダーを務めている。餓鬼の頃から俺の良き理解者であるが、数年前にスーダンで寝た現地の女に財布を誘拐されて以来、女性恐怖症である。何やってんだ、お前。

 ヴェストも同階級で、綺麗に刈り込まれたブラウンの髪と、思わず殴りたくなる程の容姿を誇るケルト系だ。あらゆる物事に器用で多趣味、それ故に本気で打ち込める対象に懊悩している。女性経験も豊富で、気が付くと酒場で女を引っ掛けている。否、女の方から寄ってきているのだから、こいつの女癖が悪いという事ではない。

 ジェロームは少尉らしいのだが、まるでそんな気風がない。程々に整ったラテン系の容姿、けちの付けられないシャンパンゴールドを頭に生やすが、決して人間ではない。ミラノの排水溝から這い出た変質者だ。寝床を出ると女を求め、その下心が丸出しである故に手に入らないと嘆いて、風俗店に入り浸る。そして月末には裸同然になって、ひたすら腹を空かしている。鉛弾よっか先に、性病で死ぬんじゃなかろうか。

 三人全員が俺と同年代であり、上司のツテで今の階級を手にしているのと同然の状態だ。とはいえ実力は額面以上、仕事はきちんとこなす性質の悪さから、お咎めも少ない。少々の扱い辛さはあるが、俺という人間を深く理解してくれる稀有な同胞だ。各自が複雑な出生を有する、血の繋がらない兄弟だ。戸籍上はヴェストを長兄に据え、ショーンが三男、ジェロームが末弟となっている。そういう訳で、俺は次男となっている。

 兄弟と適当に別れを済ませ、今度こそ平謝りに向かう。幹部の執務室が密集する区画の一室、『クラプトン少佐』と簡素なプレートが打ち付けられた質素な木製ドアの前に立ち止まる。そこら中に「うんこ」とか「女貸せよ!」と油性マジックで落書きされて、シンナーで消されかかった跡がある。ちゃんと消してやれよ。こんな扱いを受けているのが直属の上司かと思うと、無性にやるせなくなった。ドアを拳で二度小突くと、覇気のない返事が寄越された。

「失礼します。すいません遅れました」

 謝罪の念など、ひとつまみと持ち合わせずに突入する。灰色でつまらなく彩られた、小窓さえもない部屋の中央。革張りの椅子にどっかり尻を沈めた中年が、座席をくるくる回して遊びふけっていた。使い古された金属の事務机に菓子が散乱し、署名箇所がまっさらな書類に油が染みていた。

「分かってるよ。時計の見方くらい知ってる」

 回転しながら応じている為に、間の抜けた調子だった。声音から、こちらを叱責する事もないのだろう。その方がずっと辛かった。

「懲罰を与えないのは、時間の無駄だからかい」

「本気でそう思ってるのか?」

 中年はぴたりと椅子の回転を制し、苦々と落胆した表情をして見せた。リチャード・クラプトン。白髪が混じったブラウンの髪、腹部の肉がふくよかに垂れる、我らがD戦闘中隊直属のボスである。階級は少佐で中隊長を担っているが、その正体は淫蕩極まりない嗜好にどっぷり浸かった変態野郎だ。現在は前線を引退した形を取ってゆるゆると茶など啜っているが、現役時代の仕事振りは今でも語り継がれている。業務態度は甚だ悪いが、評判は決して悪くない。身の丈は高い方ではなく、格別に顔が良い訳でもない。包み隠さず言えば、冴えない風体である。どだい一般からは受け入れられないが、それでも孤児同然であった兄弟と俺を地獄から拾い上げた、父親に等しい存在には違いない。

 少佐は俺の顔を凝視しつつ、手入れのされていない顎髭を擦って、頬杖を突く。昔から、何を考えているのか窺えない男だった。

「……最近、色のある話はあったか?」

 ほうれ、いつもこうだ。発言が常に突飛で、掴みどころがない。返答にあぐねていると、肩をすくめて同情めいてみせた。

「やっぱりないのか」

 やっぱり。失礼極まりない。

「いいでしょうが、別に」

「よかないから言ってるんだ。もう三十路前だぞ?少しは危機感があるだろうよ」

「あんただって結婚してないでしょうに」

「書類上はな。女はいるもん。ところがてめえは未だに鳥さんを演じて、サクランボとおさらば出来ないでいやがる」

 うるせえ!確かに二九という年齢で童貞の肩書きを引っ下げているのは至極みっともない。女を買う金がないのではないし、敬虔な宗教家を名乗るつもりもない。一つの結果として、その事実が存在し続けているだけだ。

「嫌味を垂らすくらいなら、叱ってくれる方が助かるんですがね」

 少佐は不服そうに口を曲げ、眉根を寄せた。

「嫌味?そうか、お前さんにはそう聞こえるのか。ならはっきり言ってやろう。お前は調律の狂ったピアノだ。うーん、そんなに繊細じゃないな。照準器を失くしたぽんこつ銃だ」

 唐突に喧嘩腰へと移行した少佐に、反射的に拳を作った。他人の深層に、土足で踏み込んで来やがる。

「おや、何か間違っていたか?うだつの上がらないお前の代弁をしてやったんだ。端から正答分かっているくせに、短い人生が終わるまでペンを持とうとしねえ。出来の悪いくそ兵士だよ」

 口の中で鉄の味が広がった。奥歯がぎりぎりと軋み、手の甲に醜い青筋が浮き出る。

「お前の古傷は相当に酷いもんだ。『北』で拾った時点で、いつか狂っちまうんじゃないかと危惧してはいたが、ご覧の通りだ。近い内に殺人か自殺でもしちまうぞ」

 軽度の鬱病だったら、もう少しましだったかもしれない。PTSD――心的外傷後ストレス障害。平たく言えば、精神的トラウマだ。未だ脳裏にべっとりこびり付き、悪夢となって毎夜繰り返される。兵士は人間を殺した瞬間から、相手の死の情景を夢に見る。当時の俺は正規の兵士ですらなかったし、敵を選べる立場でもなかった。下される指示を、ただ妄信する事しか許されなかった。

 自ら科した足枷の重みが、限界を迎えていた。メスを以て切除しなければならない悪性腫瘍であるのも自負している。にもかかわらず、手術を目前に駄々をこねて日程を先延ばしにしてきた。

 周囲から、心療内科に通院する様に勧められてもいた。実際、数年前に通いはしたが、長続きしなかった。他人に――一部の近しい者を除いて、自身の最も敏感で脆い部位を見せたくなかった。

「だからって、どうにか出来るものじゃない。専門家だろうが、他人は何処まで行っても他人だよ。脳の中身を覗ける訳じゃないし、どうせ理解も共感も出来やしないんだ。そんなの、兵隊のあんたなら言うまでもないだろう。

 麻薬まがいの薬物もやった。退役軍人と、お喋りセラピーもした。あんたの言う通りに、集団カウンセリングにも参加したさ。それで何が変わった?最初から知れていた事さ、同じ境遇なんて存在しやしないんだ!ましてや俺は北の……!」

 すっかり大人の態度を崩して狼狽える俺を、親父が掌を突き出して御した。弱ったしかめ面を覆い、唇を噛んでいる。五年に一度見られるかどうかの所作だ。

「なあ、ヒルバート。親として、お前が苦しむのはこれ以上見たくない。分かってくれるな?荒療治になるが、今生の頼みだ。最後にもう一つだけ試してくれないか」

 これが演技なら、確実に助演男優賞のトロフィーを持ち帰れるだろう。親父は絞り出す様に続けた。

「……奴隷を買ってくれ」

 それが、後のなくなった息子へ提示された治療法であった。


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