奴隷邂逅【3】



【9】


 堅牢なナイロンの鞄に手を突っ込み、札束の安否を確認した。女の子は変わらず、こちらへ好奇の目を向けている。怯えがない訳ではないが、じいと落ち着き払っている。近くで通り魔が出没したくらいでは、金切り声なぞ発しない肝が据わっていると見た。だからこそ惹かれた。女らしくない女というのは好都合だ。親父の要求は果たせるし、俺もさほどの意識改革なしにいられる。さし当たっての障害は、この子の売値が十万ポンドという現実のみである。

 隣で赤毛のケルト系が買われた。連鎖する様に、件の美青年もお立ち台を下りる。粘りの強い唾液が口内に満ちゆく。俺とて性欲が枯れた訳ではない。不健康で不健全なクラプトンの男として、本能に基づいた感情を抱くのも致し方ないのである。

 客観性に欠ける弁論はさておき、本題はそこではない。眼前の少女を購入する事で、親父殿の目的は果たされる。そこに息子の自由意志が介在する余地はなかったのだが、今となっては些末な事だ。自動操縦で動く身体が、紅いベストの奴隷販売業者の肩を叩く。「ローンについて訊きたいんだけど」

 その数秒後、俺は物言わぬ少女を傍らに伴い、赤毛の七万ポンドを購入した男と仕切りで隔てられた席に案内されていた。貸与契約――満額受領まで、所有権は販売元にあるらしい――を担当する職員を前に、何十枚もある書類と対面する。無価値な雑務、ビジーワークだ。うんざりする。

 少女の個人情報が記載された書類に目を通し、そこで初めて彼女が十八歳である事実を知る。情報といっても、商品管理に用いられる識別番号と生年月日、血液型くらいで、氏名さえも記されていなかった。奴隷の拝命は主人次第という説明が、職員から為された。この男が作ったお決まりではないが、無性に殴りたかった。

 ことさらに目を惹いたのは備考欄で、五行ある欄全てが埋め尽くされていた。最初は健康状態良好の旨で、おおよその奴隷はこの一行で締められるのだろう。この子の場合は、直後の内容に唖然とした。「奴隷化以前の記憶なし」どういう経緯か従業員に問い詰めると、どうやら身を売られたショックによるものだと説明する。脳の自己防衛機能の一環だ。同様の症状に浅からぬ因縁があるので、本人がすぐ隣にいる手前、追求はしなかった。

 その次はもっと惨かった。「原因不明の月経停止」。今度こそは語気荒く従業員に詰め寄る。半泣きで応じた回答によれば、詳細は不明だが健康状態に支障はなく、如何なる心身障害も罹患していない、と文字通りお手上げしてみせた。診察医の連絡先が備考欄の最後にあるのを指し、業者は赦しを乞うた。無視してしつこく食い下がり、他に欺瞞している情報の有無を訊問。とうとう哀れな雇われディーラーがしわくちゃにべそをかいたところで、責めから解放してやった。これには傍らで控える例の彼女も少したじろぐ。そう焦るなよヒルバート。人間の九割は第一印象だ。顔の傷をパスしたのに、性格を疑われたら元も子もない。まあ、優れている方ではないんだが。

 芋づる式に問題が浮き彫りになったが、それでも契約辞退の選択肢はなかった。この娘を逃せば、朽ちた命綱が千切れる確信があった。ヘリフォードの住所や勤務先を書き殴り、黙読したところで無為な法律の確認に首肯し、気取ったデザインのペンがせわしなく走る。額が額であったし、年収の記載も要求された。従業員は何度も言葉につかえて、その度にこちらの機嫌を窺った。別に噛み付きゃしねえよ。悪かったよ。

 十枚以上は漂白コピー紙に目を通しただろうか、それまでより格式張った、分厚い書類が差し出される。購入承認の最終的な合意書らしく、返品や免責に関しての留意事項が太字になっている。知った事か。こちとら後には退けないんだ。即断で署名を落とし込むと、従業員は数年分の仕事を片付けた様に、安堵の息を漏らした。分かってるよ、やり過ぎたって。ごめんよ。

 それから生命保険の加入や、付随するアフターサービスを結んでいった。人権を剥奪しておいて、などとは言わなかった。お坊ちゃま大学の講義ではない。机上の空論は、奴隷制を糾弾する少数の政治家に任せておけばいい。

 カウンターに着いて、どれだけ経っただろう。腕時計を見ると、十八時を回っていた。道理で疲れる。慣れないデスクワークなんかやるからいけない。俺の疲弊を悟ったのか、平常心を取り戻しつつあった従業員が、次で最後の確認事項だと告げた。いやはや、君にとっても悪くない話じゃあないか。「再調教サービスというものがありまして……」「何だいそれは」「弊社は奴隷の品質を確約しておりますが、万一にお客様のご要望に満たなかった……例えば、態度が反抗的だったという場合に、弊社へご連絡戴ければ当該奴隷を適切に再教育してお返しするというもので、これが一年保証になりますと五千ポンドで……」「結構!さよなら!」

 二万ポンドを頭金に、契約は実存を得た。一〇八回払いのローンをこの『スレイヴ・デディケイション』とかいう企業と組んだ事で、今まで押し殺していた不安がここぞと喰らい付いてきた。――一体、これからどうなっちまうんだ。思春期の男子みたいな懊悩を、自称さえ許されない少女の前で晒す訳にもいかなかった。



【10】


 やっちまった!契約書の束を提出し、世間的には自身の所有物と化した少女を引き連れて会場を去るヒルバート・クラプトン(二九歳)は、過去前例にないほど狼狽えています!ああ何てこった!衝動買いの経験くらい誰だってあろうが、こんなに恐ろしいのは類を見ない!処理不能の興奮に融解した脳味噌ですが、弾薬庫が誘爆した戦車よろしく噴出しそうです!ぶしゅー!

 店内を探索して見付けた、休憩スペースのティー・テーブル。その白い天板に両肘を突き、汗で蒸れた頭を抱える。向かいには、渡されたミネラルウォーターを遠慮がちに飲む「彼女」がいた。

 販売会場から撤退して、喉の渇きを癒すついでで何が飲みたいか訊くと「お気遣いは不要です」との事だったので、自分と同じものを与えた次第である。相当に重傷だ。短く礼を述べて水を受け取った彼女は、か細い指でボトルのキャップを捻り、桜色の唇を飲み口にあてがった。たったそれだけだ。紅茶に濡れた彼女の整った口唇に、俺の濁った目は奪われた。自分の水分補給もおろそかに、トラウマの一因を対の性別が担っているとは思えぬ有様である。彼女が変態的な視線に気付いていない幸運を祈った。

 双方が無言で、数分が経過した。彼女は露ほども凍り付いた無表情を崩さないのに、こっちは首筋で、ねばつく汗がシャツを前衛芸術的に染めていた。大人の余裕とは何だろう?

 居心地悪いのもあったが、そろそろ便宜上でも、彼女の呼び名が欲しかった。残酷だとは思ったが、彼女の元の名を尋ねる決定を下す。良心の皮を被った保身願望が駄々をこねたので、殴って黙らせた。

「君、名前は覚えてる?」

 彼女は申し訳なさげに首を振り、やはり聞き心地の良いが、上品を装っている風ではない声音で応じた。

「施設では番号で呼ばれていましたので……。どうぞ、ご随意のままにお呼び下さいませ」

 施設というのは、恐らくは調教に使われていた場所なのだろう。書類の情報群に、約三年をそこで過ごしたとの記載があった。調教とやらの実態は知る由もないが、一般教養と家事全般を叩き込まれ、他企業商品の宣伝やレースクイーンとして駆り出されていたらしい。

「でも、仲間内での呼び名なんかはあったんじゃないの?例えば、他の子との交流があったりとかは?」

 彼女は遭遇時と同じく目を丸くしてみせ、それから感情を露呈させない調子で答えた。

「仲間内では、ブリジットと呼ばれていました」

「ブリジット?その名前に抵抗は?」

 自分でも分かってはいる。奴隷にどうしてそこまで気を遣うのかと、第三者から疑念を掛けられるのは必至だ。理解しかねるだろう、それが甚だ自然なんだから。奴隷としての過去なき者には聞こえないかすかな叫びが、彼らの世界では恨み言の如く木霊している。分からないの一言で全てを拒絶されるくらいなら、ただ何も言わずに優しくして欲しいだけなのに。

「いいえ、ございません」

「俺もそう呼んでも?」

 きっと今の自分を鏡で見たら噴き出すだろう。こんなに微笑みが下手くそなやつがいるか。今まで皮肉っぽい表情しか作ってこなかった報いだ。これから顔面神経を揉みくちゃにして訓練しよう。

「お望みのままに」

 彼女――ブリジットが、笑顔の手本を見せてくれた。首を僅かにかしげて両頬が軽く持ち上がり、物腰の柔らかい雰囲気だ。俺は顔の皮を強張らせながら語を継いだ。

「紹介が遅れたね。ヒルバート・クラプトンだ。よろしく、ブリジット」

 対等な立場で接したいという願望から、テーブル越しに右手を差し出した。無骨で節くれ立った肉棒が生える前肢にたじろぎつつ、ブリジットはそっと白磁の手で握り返してくれた。うわあ、やわこい。理性をかなぐり捨てそうなくらい気持ちいい。煩悩が顔に顕現する前に、温かな手を放した。右手が泣いていた。口惜しいが、これが限界だ。俺が女性と関わっていられるのは、この距離がぎりぎりの線だ。健全な男であれば股間が爆発するが、俺は胃腸が炸裂する。その証拠に、右腕には極太の針で皮膚を縫い付けられる痛みと痺れが、色濃く残っていた。

「こちらこそ、クラプトン様」

「……どうも堅苦しいのは苦手な性質なんだ」

「それでは、ヒルバート様とお呼びしても?」

 敬称は訂正されなかったが、当面は良しとした。悪い気はしない。きっと向こうから慣れる時が来る。いつか、ヒルちゃんとでも呼んでくれると嬉しい。


 さて、どうしたものか。彼女の衣服はワンピースと靴、個人の持ち物が入っているらしい、革張りのでかい旅行鞄だけだった。夏とはいえ、これでは風邪を召してしまう。まだ七月にすら達していないし、イギリスはいつだって肌寒い風土だ。差し当たっては彼女の衣服を買おうと、本人の了承を取って席を立つ。手持ちの金は、自前の三千ポンドと小銭が少々。きっと何とかなるだろう。公共料金への充当以外で、カード払いはしたくなかった。少なくとも、服の一着がスイスの軍用銃ほどする経済にはなっていない筈だ。

 階層案内を参照してエスカレーターで二階へ上がり、婦人服店の集中するフロアへ到達した。さて、ここで障害がまた一つ生じる。俺というやつは駐英イラン大使館が襲撃された際の対応は把握していても、お嬢様のお召し物の知識なぞ持ち合わせてはいないし、奴隷のそれに至っては尚更に未開拓の領域というのが実情である。さあ、困ったぞ!黙っていても、誰かが最適解を持ってきてくれる訳じゃない。闇雲にフロアをぶらぶらしてそれらしい店舗を発見し、四十半ばと見られる女性店員を呼び止めた。

「この子の服を見繕って貰えます?」

 四千ポンドで、と小さく付け加えると、店員はにこやかに俺達を会計付近のテーブルへ案内した。どうやら悩まずとも済みそうだ。大切なお味噌の休暇である。

 店員は店の奥の扉へと姿を消し、すぐに分厚いファイルを手に戻ってきた。背表紙に『奴隷関連商品』と書かれている。

「こちらの娘さんは……ええと、メイドでお間違いありませんか?」

 言い回しで変わるもんだな!俺は消極的で煮え切らない返事をした。

「何かご希望はございますか?」

「えー、あー、ありません、特に」

 唐突に訊かれても、用意されていないカードは容易に切れない。こちとら、迷彩服という一張羅で暮らしてきたのだ。お陰様で、一般人の言う普段着はこの有様である。ヴェストからちょっとくらい洒落っ気を分けて貰いたいところだ。運の悪い事に、この服装への無頓着が血の繋がらないショーンに遺伝してしまっているのは、実に嘆かわしい。一日分の糖を消費して灰になったお味噌で、ようやく絞り出した回答は酷く情けないものだった。

「お任せって出来ます?」

「はい、勿論でございます」

 よかった、本当によかった。他力本願・無責任、どうとでも言え。ここで人に頼らずしていつ頼る。

「他に特筆事項などは?」

「さしあたっては何も……。ああ、下着や寝間着も見繕って下さい。靴もね。とにかく一式です」

「かしこまりました。では一時間ほど頂戴しますが、ご都合は宜しいでしょうか?」

「構いません」

「承りました。ではご用意が終わり次第、全館放送を致しますので、お名前を戴けますか?」

「クラプトンです」

「はい、クラプトン様ですね。それではお時間まで、ごゆるりとお過ごし下さいませ」

「どうも」

 そうして、店員はブリジットと共に会計奥のドアへと消えていった。無防備な彼女が、嫌味など言われないか心配だった。


 待ち時間を過ごせと言われても、この商業施設に用事はなく、さして欲しい物品もない。そもそも現金がない。店員のコーディネートが終わるまで、この場で彼女の新しい服でも妄想しようかとも考えた。が、ジェローム君ほど人間を辞めた想像力なきおつむでは早々に限界が見え始め、すぐにその場を後にした。書店でもぶら付いていれば、自然と時は流れるだろう。

 四階に位置した書店に立ち寄り、至る箇所に折り癖の付いた雑誌を立ち読みする。関心のない政治の特集をすっ飛ばし、アウトドア用品や銃器ブランドの広告ページを探り当てた。こんな時に限って、贔屓にしているブランドの特集が組まれていない。時間を潰す必要に駆られているのに、運がそれを許さない。さぞや陰険な表情を浮かばせていたのだろう、不機嫌な非番軍人を視界に入れてしまった五歳ほどの少年が、母親の尻にしがみ付いた。子供には酷な願いだろうが、おじさんの心へのダメージも考えてくれ。


 やがて貰い物の姓が放送機材から発せられ、拷問めいた退屈の終了を告げられた。もう少し遅れていたら、発狂して政治家先生の奴隷制に関する素晴らしい御本を破り捨てていただろう。

 エスカレーターを駆け下りて二階へと戻り、件の店舗に辿り着くと、先程の店員に試着室の奥まった場所にあるドアへと誘導された。この先に、彼女がいる。掌に粘っこい脂汗が滲んだ。何を案ずる事があろうか。あの容姿だ、大抵の服は着こなすだろう。加えて専門家の目があるのだ。童貞がでたらめに部品をくっ付けるのとは、訳が違う。

 鍵付きのドアを開くと、様々な衣服と装飾品にまみれた、立方体状の部屋に直結していた。さながら写真屋のセットだ。カメラとレフ板の代わりに、巨大なクリーム色のカーテンが室内を仕切っている。

「ご自分で開かれますか?」

 ここではそれが通例なのだろう、店員は返事を分かり切ったものとして問い掛けてきた。だから答えてやった。

「いえ、開けて下さい」

 臆病者、ここに極まれり。笑ってくれよ、その方が救われる。苦笑混じりに、店員がカーテンを引く。天井のレールを走る金属音、それと共に開かれた布の向こう。先程まで確たる所属さえなかった少女が、その職務を明示する制服を纏っていた。華はないが、スカートが膝元まであるブラウンの上下に、諸所に主張の激しくないフリルをあしらった前掛けから成るエプロンドレス。砂色の髪に映える、飾らないホワイトブリム(メイドが装着するカチューシャ)。膝下まである革の紐ブーツ。全てが彼女の魅力を引き出し、その持ち味を最大限まで際立たせていた。

「お気に召さない点がございましたら、お取り替えしますが」

 女店員がうやうやしく尋ねてくるが、そのしたり顔では期待の内容が明け透けであった。

「問題ないです。これで会計を」

 十二分の完成度だ。文句の付け様がない。会計カウンターへ移動し、店員がレジスターのキーを叩く。三千ポンドを店員の手に直接渡し、釣りは要らないと心付けをした。ちくしょうこのおばちゃん、何とも自信に満ちた表情をしていやがる。仕事人め。手渡された領収書にはブラとかネグリジェといった単語があったが、意識的に見まいと努めた。店舗を去る前に、ブリジットが女店員に小さく礼を言うのが聞こえた。


 衣類の詰まったくそ重い紙袋を手に、モールから撤収する。足早に愛車へ戻り、ブリジットを助手席に案内して――慣れない手付きでドアまで開けて差し上げたんだぜ!――長い付き合いのハンドルにもたれ掛かったところで、でかいため息が漏れた。隣に可愛い女の子がいて、そんな真似をするやつがあるか?お前なんかに俺の気苦労が分かるか、と自責の念を跳ね除ける。何しろ、今度は任務完了の報告という大仕事がある。

 三日振りに〈ノキア〉の携帯電話の電源を入れると、二一件もの不在着信があった。その殆どが親父で、ヴェストやショーンの名前も散見される。にわかに信じられないが、ジェロームのあんちくしょうの履歴まであった。今度、ピザの一つでも奢ってやろう。チーズだけが乗っかったやつ。

 連絡先から目当ての番号を指定して、太い指で小さな通話ボタンを押し込む。親父の携帯に繋がるまでの数秒間が、恐ろしく長かった。このまま出てくれない方がと思い始めた矢先、緊張の籠もった応答があった。らしくない、あんたは図々しいのが取り柄じゃないか。

「まあ、その……果たしましたよ」

 隣にブリジットがいる手前、「奴隷を買った」などと吐ける豪胆さは持ち合わせていない。茶を濁してはいるが、核心は伝わるだろう。

〈……本当に買ったのか?〉

 失敬な野郎である。まるで、尻尾を巻いて逃げ出すのを待っていたみたいだ。否定はしないが。

「ああ、だから手短にしてくれ。これからどうすればいい」

〈今は何処にいる〉

「首都だ」

〈子供の家出みたいな距離だな。まあいい。今からうちに来い〉

 帰って寝かせてくれる気はないらしい。ひでえよ、父ちゃん。おざなりに返事を寄越して、電話を切った。

 時刻は一九時半を回り、既に陽が沈んでいた。車内に、今にも死にそうな胃の悲鳴が轟いた。どう反応していいのか当惑したのだろう、ブリジットが不安げに俺の腹を見つめている。年中腹を空かせて飯代もままならない、そんな男の許で暮らさねばならない……そんな懸念が瞳に込められている。曲がりなりにも士官でよかった。


 気管支炎の患者みたいな始動音のBMWを走らせて、食料の調達を急ぐ。昼にも訪れたマクドナルドにしようかとも考えたが、余り貧乏くさい印象を与えても宜しくない。ここは〈バーガーキング〉のドライブスルーを選択した。何にせよ、腸に物を入れなければ。脳もそうだが、肉体が臨界点を突破している。

「悪いね、こんなので」

 ブリジットにハンバーガーを渡すと、ちっとも気にしていない風に受け取ってくれた。多分、凄まじくけち臭いと思われている。バーガーキング様にも、甚だ失礼な言い草だし。

 俺が膝にバンズの屑を撒いて運転に勤しむ最中、ブリジットが至極愛らしい仕草でバーガーに齧り付く。そんな光景を脇目に、運送トラックだらけの高速道路で事故を起こすのではと杞憂した。だって、それくらい強力なんだもの。この身は決して、女性自体にトラウマがある訳ではない。性欲そのものは、確固と存在し続けている。だからこそ、精神に及ぼす影響が尚更にややこしい。近付いてしまえば、自己嫌悪から自身が壊れてしまう。そして今は、この子にファストフードしか食わせてやれない事態が、最たる自己嫌悪の材料だ。

 運送トラックが暴走するM4自動車道に乗って、約十分が経過した。車載ラジオも点けず、隣の少女との間に会話はなかった。数分前の作戦で、仲間の誰かがが死んだみたいだ。誰も話を切り出そうとしないし、そうするのが一番だと知っている。今は違う。単に思考が行き違っているだけだ。片や不審な無頼漢に警戒を抱き、そいつは過去の自身とどうして向き合えばいいか壁にぶち当たっている。十万ポンドで責任を買ったのに、未だ思い切りが付けられずにいる。停滞している内は、まだ足踏みする余裕がある。ケツに火を点けて退路を断つくらいしないと、凍り付いた歴史は動かない。背水の陣とかいうやつだ。

「これから向かう場所だけど、今から三時間ほどで着くヘリフォードだ。俺の親父の家に寄って、そこで少し食事をすると思う。それから、君の今後の家に行く。質問はある?」

 可能な限り語調を柔らかく、笑みを作って問い掛けた。バックミラーに『エルム街の悪夢』が上映されていた。おぞましい表情のせいか、彼女は口を結んだままだ。

「その……二、三あると助かる。話が下手なんだ」

 うわあ、目の当てられない惨状だ。これで三十路前である。若さを言い訳に出来る時代は、とうに過去のものだ。人生の年表には介入した作戦が刻まれているが、それを除けば白紙も同然だ。士官学校時代に毎晩酔い潰れて下宿先の玄関で吐いたのを加えるなら話は変わるが、特に珍しくもない。俺が他とちょっと違うのは、パパとクリスマスを過ごさず、風邪の時にママのオートミールを食わず、友達と家の庭にツリーハウスを造らず、学生をやっている間にセクシーな同級生と一つのベッドを使う代わりに、樹脂粘土と紐切れで物騒なびっくり箱を作っていただけなのに。陰鬱な空気が滲んでしまったのか、弱ったところに救助艇が派遣された。

「……では、一つお聞かせ願えますか?」

 奴隷とか自分の意見がないのは別として、聞き分けの良い子は大好きだ。そういうやつは、きつい訓練も上手く切り抜ける。

「一つだけだと、このドライブを終える前に、君が退屈で死ぬかもな。少しでも気に掛かる点があれば訊いて欲しい。命令じゃなくて、お願いとして」

 言ってから自分に反吐を催す。柄になく、くさい台詞を並べるものではない。ブリジットが微笑を作る。こんな状況下で、本当に笑えるやつはいない。主人を懐柔して猫可愛がりされようという思惑も臭わないから、まともに接するのも一苦労だろう。何としてでも、俺へ対する正体不明の関心を維持させなくてはならない。橋頭堡の構築は、揚陸作戦の要である。初っ端からどじってみろ、走行中の自動車から飛び下りる羽目になるぞ。どんぱちやるだけが取り柄じゃないと、親父に目にもの見せてやれ。

「それでは……お仕事は何を?」

 成る程、当然の疑問だ。自分の雇い主が食い扶持を得られる身分かは、彼女にとって最優先の確認事項である。特に、油まみれのハンバーガーを食わせる男に買われた場合は。

「うーん、軍人……信じられないだろうけど、SASなんだ。知ってるかな?そこで少尉をやってる」

「SAS?スペシャル・エア・サービスですか?」

 食い付いた!だが油断するな、お前のポカ一つで状況はひっくり返るんだ。

「そう、それ。俺達は単に『連隊』って呼んでる。馬鹿な男達が集まって、毎日人に向けて……銃を撃ってる」

 おい馬鹿!まるで人生の軌道を外れたろくでなしだ!汗でハンドルを握る手が滑り始める。

「ごめん、今のは語弊があった。違うんだ。ちゃんと対象は選んでる。警察の手に負えない悪いやつらとか、首相を殺そうとする不届き者を追い払ったりするんだ。最近はアメリカの尻にくっ付いて、中東によく行く」

 幼稚園児の作文じゃないんだ。上手くやらなくていいから、ぼろを出すな。全てが決まる第一印象だ。

「だから……ホモみたいに野郎ばかりでつるんで、全身を汗と火薬臭くして、夜にチップスとビールをやって馬鹿騒ぎする場所だよ。ドラッグは身体に悪いからやらない」

 右手で運転席のドアロックを外した。鳥になる頃合いだ。傷は浅い内がいいし、躊躇う理由もない。後の始末は、親父が何とかしてくれるだろう。幸い、この車は『特別仕様』だから、俺が飛び下りても助手席の彼女に危険はないだろう。後続の軽自動車をスクラップにするのは忍びないが、これも運命だ。シートベルトを外し、不甲斐なさから右目に涙が滲む。最後に美少女と話せてよかった。辞世の句が浮かびつつある最中、すぐ隣から快い音が聞こえた。

 ――笑っていた。少し控えめに、それでも確かにブリジットが笑っていた。ロックが外れて逃げるシートベルトを捕まえ、再び装着する。バックミラーに、唖然と阿呆面を晒す自分が映っていた。

 間抜けを露呈している俺に気付き、和やかな笑みは消え去った。自分の処遇への影響を察して、彼女は消え入りそうに謝罪の言葉を紡いだ。馬鹿馬鹿しい。愚かしい己に鼻白む。理解者を作らねばならない時に、自己を偽るとは。

「分かった、下手な芝居は止めよう。その通りなんだ。動物園みたいな職場に行って、飼育係の教官にどやされて、ゲロよりも不味い餌を食べながら、雌ゴリラの娼婦を値踏みする。ヤクをやらないのは本当さ。ああちくしょう、すっきりした!」

 バックミラーに、今度は色々と吹っ切れた男がいた。仲間内でゲロを貪っている時の、だらしない面構えだ。

「幻滅するだろうけど、現実は得てしてそんなに綺麗じゃない。特殊部隊なんて、くその掃き溜めだよ。俺はそのくそが大好きなんだ」

 ブリジットは呆気に取られていたが、次第に状況を把握してくれた。ちょっとくらいは舐め腐っても問題ない相手だと判断された。その口許に、微笑が戻っていた。

「ようし、何でも訊いてくれ。お国の機密でも喋るよ」

 数時間前の取り繕った感じではない、ほのかに気を許した塩梅の笑みが、隣にあった。

「ではその……ご家族は?」

「兄弟……全部男だ。それが三人。皆うちから近い場所に住んでる。親父が車で十五分の場所にいて、母親は……どうだろう、いたのかな。孤児でね」

 容姿に相違なくブリジットは聡明で、彼女からそれ以上の追求はなかった。その代わりに、親父について述べる事にした。これから訪問する相手であるし、あの変人に前置きなしで会わせたら、常人は貧血を起こしかねない。

「どう説明すればいいのかな……。良い人には違いないんだけど、馬鹿野郎なんだ。事務に対して不真面目だし、腹が出てるし、日本にかぶれてる。俺の上司で、二十以上も歳の離れた彼女がいる。ロシア人のニーナ。親父の秘書をやっていて、家ではメイド服を着せられてる。変態なんだ。多分ニーナも」

 内容はどうでもよかった。車内を無音に戻したくなかった。何よりブリジットは拙い話を訊いてくれたし、湧き出る泉よろしく質問をぶつけてくれた。信教、購読している雑誌に新聞、好きな映画、どうして車に変な装置が載せられているのか――これはアイルランドでIRAとの抗争が激しかった頃に、当時のSASが使っていた防弾装甲付きの改造車両を貰い受けたからで、変なでかい機械群は通信機だ――他諸々。その全てに俺は滅茶苦茶に答えて、時たま彼女へ訊き返した。彼女は俺の過去には触れなかったし、俺も自身の弱点については語らなかった。それでも、暇な三時間を撃退するには十分だった。年齢については二九という事実に面食らわれて、少し憂鬱になった。皮膚下へのヒアルロン酸注射を検討しようかしら。


 日付も変わりそうな時分。赤レンガで洒落っ気を演出している、二階建ての親父宅に到着した。車がガス欠になる寸前で、内心穏やかではなかった。もう少しで、防弾装甲の施されたくそ重い車輌を押す羽目を喰うところだったのだ。帰り際に、親父から少し拝借するとしよう。

 ノーム人形などいない前庭を越えてインターホンを押し込むと、屋内から慌ただしい足音が轟く。二十年前に精鋭の兵士だったとは信じ難い。インターホンは仕事をさせて貰えず、すぐに玄関ドアが開かれる。白いポロシャツでビール瓶を手にした親父が、赤ら顔を見せた。だが瞬間、急速冷凍でも掛けられた様に朱が抜け落ちる。――こいつは一悶着あるぞ。苦笑を浮かべ、腹を据えた。

 靴底の泥を落として家中へ迎え入れられ、『醤油の臭い』が漂うダイニングへと導かれる。奥の広々としたキッチンでは、濃紺のエプロンドレスに身を包んだニーナが『土鍋』――げえっ、『湯豆腐』だ!――を火に掛けていた。そんな夫との『しとね』以外では冷酷な女王様も、ふとこちらへ注意をやった途端、驚嘆という人間らしい感情を覗かせた。正確に述べれば、俺の三歩後ろに立つブリジットを見てからだ。それでも何もなかったと言わんばかりに、再び鍋に目を落とす。傍目には冷静に見えても、あれでかなり揺らいでいる。鍋を回す手が、いささか速くなっている。

 親父はブリジットへ、慣れた手際でニーナと自分の紹介をしつつ食卓へ丁重に案内し、意図せぬ扱いを受けた客人はおっかなびっくり着席した。それから次男坊へ含みのある笑みを放って、肩に手を乗せてきた。

「話がある。表へ出ろ」

 わあい、やっぱりだ。大失敗の笑顔に、口角が引きつった。


 今抜けた玄関ドアを抜け、庭へ戻る。先を歩く親父が振り返りざまに口を開きかけたが、それを遮った。覚悟を決める時間を稼ぎたかった。

「車がガス欠寸前なんだ。少し分けてくれ」

「それは俺の話が終わってからだ」

 普段の飄々とした態度は何処へやら、親父が詰め寄ってくる。殴り掛かる気はないと見積もったが、こちらの返答次第でどうとでも変わるだろう。

「単刀直入に訊こう。幾らだ」

「誤魔化しの利く空気じゃなさげだな」

 身振りで表さずとも、暗闇に光る灰色の双眸が物語っていた。前線を退くまで、屈強な戦闘員として銃を握った男だ。相応の凄味が込められている。虹彩の筋の一つひとつに、殺気めいた意志が渦巻いていた。

「十万だ。それから衣服に四千。加えて保険が諸々」

「十万?そりゃあ凄いな。で、あの奴隷か?」

 隠していたF評価の答案用紙が見付かってしまった。

「あんたはこの案が、俺にとって最後の機会だと言ったな。その通りだよ。こっちはとうに歯車が錆び付いて、あとちょっと油が乾けばお終いだった。それで、似た境遇の女を探させたんだ。違うか?」

 親父が黙っていてくれたので、自説を続けた。向こうが岩の砦を築く前に、基礎をにわか作りの破城槌でぶっ壊してやるしかない。

「今日行った会場の子は、全部見て回った。それで出した回答なんだ。あの子だけ他とは違った。外見はこの際は置いてな。最後に物言うのは、経験からもたらされる直感だ。俺はその勘に従ったまでだ」

 自分で吐いておきながら荒唐無稽な言い分であったが、元は口下手の親父に困惑の色が差した。慧眼なんぞなくとも、今日のツキは俺にある、畳み掛けるには、今しかない。

「なあ親父、頼むよ。いつおっ死ぬかも知れない生業で、こんな事を言うのもどうかしてる。でも本心なんだ。失った分の人生を取り戻さなきゃならない。下らない過去に引きずられて、時間を無駄にしたくないんだよ。純粋に生きる活力を見出したい。現状はもう御免なんだ」

 親父の両肩を掴み、指に力を込める。前線を退いてはいるが、今でも酒場の飲んだくれとは比較にならない骨肉が備わっている。説得に失敗すれば、これでどつかれるのだ。あばらの三本は余裕で逝くだろうが、それで済むなら軽い方だ。冷や汗が首筋を伝う。親父の腕が、だらりと脱力した。

「お前、俺が一丁前に叱るとか思ってるの?」

「違うのかよ。相談なしに十万ポンド使ったから、腹立ててるんだろうよ」

 不審な言動に、眉根を寄せた。

「たまげたな。的外れな勘違いまでしていやがる」

 緊迫した表情を解き、親父はにへらと顔面の筋肉を崩した。そこからが速かった。軸足を一瞬にして刈り取られ、直立姿勢を崩し倒されて顔面から青い芝生に伏していた。すぐ頭上で、近所迷惑もはばからずに親父が哄笑している。

「言ったじゃないか、足りなければローンを組めって。お前はその通りにした!しかしまあ、とんでもないのを連れてきたな!」

 憂慮していた自分の苦心は何だったのかと、冷たい土の味を噛み締めながらに嘲った。端から無為な懸念だったのだ。親父が課したのは奴隷の購入であり、価格は指示に含まれていなかった。

 親父様は地べたに這いつくばる息子を見下ろし、何とも楽しげに呵々大笑していらっしゃる。これでは少々収まりが付かない。おつむの成長が十代そこらで止まっている野郎の大腿を抱きかかえて引きずり倒し、そこから取っ組み合いになった。束の間、久々に大人げなく親子の時間を過ごした。女も知らずに、男同士で何をしているのだろう。双方の気が済んで互いに衣服の土を払い落とす最中に、子供同然の開放的な面を見せる親父に語り掛けた。

「あんたがどう言おうと、金は追々返していくよ」

「何処までも素直じゃないね。『後押しありがとうございます、お父様』の一言でいいのに」

「借りを作り過ぎると面倒だからな。それと、奴隷なんて呼び方は止してくれ」

 土をはたき終えて玄関ドアに手を掛けた俺に、親父がつまらなそうに苦笑した。

「もうちょっち親として見てくれてもいいんだぜ?北で拾った貸しなんざ、ただの酔狂でしかねえ」

 歳を取って締まりのなくなった涙腺が緩みかけるのを悟られぬ様、さっさと家の中へ戻った。気軽に触れたい話題でもないし、シルクのハンカチーフを片手にしんみり懐古に浸る性質でもない。するにしても、握るのは鼻水でぐちゃぐちゃのティッシュが似つかわしい。


 勝手知ったる洗面所で手の土を流し、親父がその後で水飛沫を俺へ向けて放ってくるのを無視して――おい、楽しいか?――ダイニングへ戻ると、ニーナがテーブルを挟んでブリジットと対話していた。父子の存在を視界に入れるなり、はたと口をつぐんでしまい、席を立ってそそくさと鍋を食卓へ運んできた。ええ、お邪魔しましたよ。すみませんね。

 常よりもぶすっとしたニーナの隣に親父が座し、彼女の向かいにブリジットが座る。俺は親父の向かいにいる訳で、おっかない姉さんと相対せずに済んだ。最近は政治絡みで奴隷制への反対意見や、それに伴う運動が活発化している。同性からは尚更に心象が悪いだろう。どうせ考えてもろくな事にならないので、食事に専念しようとした。が、何しろ相手は湯豆腐。気が紛れるどころか、夜通しの長距離行軍を命じられた気分だ。

 目慣れぬ異国料理へ手を付けるのに躊躇いを見せるブリジットに、ニーナは基地で野郎に対して使うのとは明らかに別種の、親近感の持てる対応を取ってくれた。俺へは湯豆腐をよそってくれるのかと思えば、切り揃えられた白い立方体を、漆塗りの椀の中で潰してから寄越してきた。挙句それを俺に差し向けてきた際には、素晴らしく陰湿な微笑を浮かべて「空爆後のイラクみたいね」などとほざく有様である。豆腐のみならず、俺の純真な心まで崩していく。可哀想な俺!しかもブリジットにはスプーンを渡しておきながら、俺へは『割り箸』を放る始末である。そりゃあ遅めの反抗期だって迎えたくなる。

 使い勝手の悪い箸で湯豆腐を掻き込み、舌に火傷を負いつつ終えた食事は、個人的に緊迫の絶えない時間であった。如何なる会話を交わしていたかは殆ど憶えていないが――大体、俺が虐められていた――それでも、ブリジットがこの不可思議な家族に、不快感を覚えていないのは確かだ。


 食後、ニーナが食卓を片付けるのをブリジットが手伝おうとしたが、親父夫婦がそれを拒んだ。客人扱いの意思が誤りなく伝わったのか、ブリジットは申し訳なげに謝礼を述べ、立ちかけた椅子に腰を下ろした。そして俺は、姉様の顎で使われた。

 豆の汁のゼリーで膨れた腹を撫で下ろしつつ、日付変更から既に一時間が過ぎた腕時計を見やる。流石にもうお暇すべきだろう。これを日本の西部では『ブブヅケ』とかいうらしい。ただでさえちんけな息子の脳の容量を、これ以上圧迫しないで戴きたい。

 男同士の揉み合いで芝生が抉れた庭で、ガソリンのポリタンクへ傾ける。親父が〈シュアファイア〉のフラッシュライトで手許を照らすが、反射光が眩しくて目が痛い。漏斗から車内へと液体が滴る最中、ブリジットは指を絡ませて所在なげであった。奴隷として買われた分際が、何も手を貸さぬままでいいのか。存在理由が剥奪された心地だろう。こちらの目から、ノイローゼになるのではないかと懸念を抱く。段々と重量を失っていくポリタンクの発する音が、自分の身体から生気が抜けるそれに聞こえた。疲労が脊髄を上がり、目蓋に溜まっていく錯覚に襲われたが、ポリタンクが空になった弾みで現実に戻された。食事中に親父からビールを勧められたが、断って正解だった。居眠り運転で人生を下らないままに締めくくりたくはない。

 昏倒しそうなのを耐えて乗車した時に、親父が「燃料代のちゅー」と気色の悪い伝票を弛んだ頬と一緒に提示してきたので、「さっさとくたばれ」とお休みを言ってイグニッションを回した。エンジンはちゃちな爆弾でも仕掛けられていたのか、破裂音と一緒に始動した。車の喘息の所為で殆ど掻き消えてしまったが、発進する間際に「いつでも頼れ」と囁きが聞こえた。



 閉店時刻で酒場から追い出され、帰り道さえ思い出せずに娼婦からも蔑まれて彷徨う酔っ払いを轢き殺さない様――うわ、うちの隊のブランドンがゲロしてる!――細心の注意を以てハンドルを切る事十五分。ようやくで到着した我が家を前に、少しは気を抜けるかと予見していたのだが、どうやらそうでもないらしい。むしろ来たる巨大な気苦労が、ここに来てその氷山の一角を垣間見せた。

 防犯体制が強固に配備されたオフホワイト色のマイホームは、安寧の住居としての顔を見せてはくれなかった。今晩ばかりは、その姿が悪名高きアウシュビッツ強制収容所の如く立ち塞がる。芝の敷かれた殺風景な庭――その実、赤外線センサーが不可視のレーザーをびゅんびゅん走らせてる――を抜けた分厚い鋼鉄の扉の先。ブリジットにしては、外部との接触を断たれた牢獄。俺にとっては、揮発性の劇薬と寝食を共にするガス室だ。今後、彼女は小さな身に内包した神経を擦り減らす日々を送る。それを少しでも緩和、あわよくば良好な関係を築くのが、大金まで借りた俺のお仕事だ。それには、先に俺がガスで中毒を発症しないという前提が必要になる。こいつの症状は凄まじく危険だ。ストレスに狂った鳥類は、己が羽をむしり始める。同じく自己嫌悪に苛まれた結果、俺も手ずから喉を掻き切りかねない。中々どうして、自分が包丁を片手に血の海に沈む痴態が容易に想像出来る。

 油の切れた鍵穴へディンプル式の鍵を挿入して解錠し、ブリジットを中へと誘導、俺はその後から敷居を跨いだ。きついブーツから部屋履きに足首を収めつつ、即席で作った平常心を崩すまいと顔を掌で覆う。彼女が調教施設にいた頃は、気心の知れたルームメイトなり、それに準じた存在がいたかもしれない。この家は違う。二基の監視カメラはごろつきの撃退に頼もしかったが、この窮屈で物々しい構造物は彼女の痛苦に直結する。男の臭いが染み付いた部屋は、生理的な忌避感を催すだろう。おまけに最も無防備な睡眠を、何を企てているか知れない異性の管理下で行わねばならない。致命的な精神疾患を、その身に受けても不思議ではない。改めて整理すると、とんでもなく敏感な爆弾を抱え込んだ事態を実感する。何やら数キロの重石が両肩に乗っている感じだ。このたった数キロが、どうしようもなく重たい。

 玄関ドアの錠を落としてからというもの、ブリジットの面持ちは今まで以上に緊張を孕んでいた。家中を案内したが、一度で暗記するのは困難だろう。騒々しい販売会場から移動すると着せ替え人形の扱いを受け、お次は三時間の密室空間。仕上げに変人のお仲間ふたりを交えた異文化交流もどきで、疲弊するのも無理はない。第一、この家は一人暮らしには広過ぎる。

 目頭を揉み、自宅の内装に視線を巡らせた。一階は仕切りのないキッチンとリビングダイニングが大部分を占め、決して小さくない浴室と、洗面所を兼ねた脱衣所、清掃の不足が目立つトイレが、余裕を以て廊下と繋がっている。これだけでも独り身には持て余すが、二階と地下室を備えていると来た。階段には収納スペースが大きく取られ、寝室三つを設ける上階へと通じている。その内の一つは大量の銃の保管場所を兼ねた作業部屋であり、警察に見付かればいい顔はされない。主寝室は他に比べれば飾り気があり、これまでの遠征や作戦での記念写真が壁に掛かっている。ベッドの下には、三日は生き延びられる装備を詰めたベルゲン(金属フレーム入りの背嚢)と、HK53カービン(ライフルを短銃身化した銃)を横たえている。就寝前にはいつだって、私物の〈シグザウアー〉P226を枕元に控えさせる。ちなみに名前はボリス君。石壁で囲まれた地下には、イギリスの冬に欠かせないセントラル・ヒーティング(全館集中暖房)を始めとした機材を動かすボイラーと、それぞれ異なる錠の掛かった幾つもの戸棚がそびえる。棚には各種食糧や燃料の他に、護身の範囲を逸脱した量と口径の弾薬、危険物が貯蔵されている。こんな問題物件に、か弱い少女を連れ込んだ罪状は如何程だろうか。死後に地獄暮らしくらいで済めばいいのだが。

 一つしかないシングルベッドのシーツと枕を替えて、ひとまずはブリジットの寝床をこさえた。家主が下階のソファで寝るのを彼女は良しとしなかったが、意地を通して説き伏せた。声を荒げぬ様にと慣れない配慮をした所為で、全身の皮膚がべろりと剥けそうだった。

 銃を始めとした危険物への注意をブリジットに呼び掛け、ベッド脇のサイドボードからP226を回収して一階へ下りる。手にした鉄塊に恐怖の一つでも表すかと危ぶんだが、それも杞憂であった。銃そのものが見境なしに破壊をもたらす存在でないと、多くが受け入れぬ真相を心得ているらしい。その分の警戒までもが、俺個人へと向けられる訳である。頭が良いのも考え物かしら。

 気付けば、深夜一時を更に半時過ぎていた。ブリジットの目蓋も重そうで、明らかに疲れが見えていた。就寝前にシャワーを浴びる様に勧めると、僅かに目を伏せて頷く。小さな背中が、廊下とリビングとを隔てるドアで見えなくなる。それが合図だった。膝下から力が抜け落ち、ソファへ脇腹から沈み込む。いやはや、我ながらよくやったよヒルバート。人殺しだけが取り柄の身にしては上出来だ。頑健な軍用銃と違って、あの子は繊細過ぎるのだ。変に気を遣わない訳がない。両の目蓋が今にも合体しそうであったが、超過労働を訴える目頭を揉んで起き上がる。どうにかして、失った分の英気を養わねばならない。キッチンから〈ギネス〉の瓶とメーカー指定のパイントグラスを調達してソファへ戻り、常温のスタウト・ビールをゆうっくりと注ぐ。これがいい。

 ギネスには、メーカーの最高醸造責任者が定めた厳格な注ぎ方が存在する。よく冷えたギネスを二段階に注いで適切な泡を生み、それから一一九・五秒……。真ん中で漂っていた泡が上面へ浮くにつれて、奥深い黒色の秘術が完成する。次第にアジアからの観光客なら、酒場の店主が必ず案内をしてくれる。でも、イギリスとアイルランドの民は知っている。ギネスは自宅でくつろぎながら、常温で胃に流し込むのが一番美味いという不文律を。

 壁際のプラズマテレビへリモコンを向けつつ、底の見えない黒の奇跡に口付ける。ローストした麦の匂いが口内から鼻腔へ抜け、複雑な苦みと濃密な香ばしさが胃を満たす。グレア加工の液晶画面にBBCが映り、遠く離れたイラクで英陸軍兵士が奔走する光景が流れた。すぐにぶっ壊れるSA80(英陸軍制式ライフル。L85A2)を手にする彼らには、頭が下がる。

 数で劣る特殊部隊が任務を果たせるのは、ひとえに通常部隊の尽力という前提が築かれている為だ。我々が彼らに勝る点は幾らでも挙げられるが、その運用は確固たる地盤ありきである。特殊部隊が特殊な仕事をする裏――実際には我々が裏だが――では、通常部隊が汗水垂らして世論を遠ざけてくれている。飲みながら考える事柄でないし、誰かに聞かせるべくもない、単なる自己満足だが。

 SA80の発砲音がけたたましいテレビをぼんやりと眺めている内に、でかいグラスの中身は繊細な泡だけになっていた。心身に詰んだ疲労を秤に掛けると、アルコールの量が絶対的に足りない。キッチンから持ってきた二杯目のギネスをグラスへ注ぐと、どす黒い液体の水面に、茶色にもくすんだピンクにも見える、優しい色合いの泡が積み重なる。雑念に頭を使わず、五感だけで麦の魔術を味わう。粘膜をアルコールがじわりと焼き、大麦の深い芳香が鼻腔を抜けて、身の内の気苦労が解かれる。酔い潰れる以外の目的の酒など、思い出せない程に久しかった。

 早々に二本目の瓶を空けて、三本目をちびちびやっている時分である。脱衣所から、こちらへ移動する足音が聴こえた。ビールのほろ酔いが雲隠れし、顔面神経に緊張が戻ってきた。自己を偽るのは止めたのではなかったのかと叱責する自分を、段階が大事だと甘やかす自分がいた。冷静になってみると、どちらが自身に無理を強いているのか分からない。グラスに一口残っているスタウトに口付けたのと同時に、後方のドアが開く。そちらを見やると予想通り、毛足立った濃紺のバスローブを纏ったブリジットが佇んでいた。家主のサイズなので、床に触れるぎりぎりで生地の端が揺れている。無駄毛一本ない足首には、砂色のスリッパを履いている。風呂上がりにブーツは蒸れるだろうと、渡していたものだ。無垢な肌は上気して赤みを帯び、濡れて常より艶めく髪が妖しい。自己に手錠を掛けてテーブルの脚に繋げようと、引き千切って欲望のままに飛び掛かりそうだ。出来もしない妄想と一緒に三杯目の残りを口に含んだ瞬間、事故は起こった。無音の室内にするりと響く、無味で乾いた衣擦れの音。バスローブの前を留める紐、ブリジットの細い指がそれに掛けられた。たった一つ、結び目を解く目的で。予期せぬ行動に、濃厚なスタウトが口から噴き出る。えんがちょナイアガラの一部が鼻腔から逆流して下腹部を汚し、あとはテーブルにまで到達して白く泡立っていた。自爆してむせ返る雇い主を目の当たりに、哀れなメイドさんはその場で硬直していた。

 遮蔽物なき原野で狙撃に晒されているかの如く、心拍数が上昇していた。肺と気管が悲鳴を上げていたが、アルコールの回った思考回路は、思ってもみないほど冷静に原因究明を成し遂げた。自ら彼女を毒牙に掛けてしまうのを恐れていた余り、もう一つの可能性を失念していた。一括払いでないとはいえ、手中に収めた性奴隷をその日の内に犯さないやつはいない。鼻から滴る麦汁を拭い、かろうじてバスローブの結び目が繋がったままのブリジットへ向き直った。どうにも、通しておかなければならない話があるらしい。

「あのな、まずは紐から手を離そう。それから、事の成り行きとしては至極当然なんだろうけど、そんな事をするつもりは毛頭ないんだよ。それだけは分かって欲しい。俺とその……寝ないからって、戸外へほっぽり出すなんて薄情はしないし、そもそもダッチワイフ代わりに君を雇った訳じゃない」

 途中で何度か咳き込んだが、空気が剣呑にならない様に身振りを交えて闇雲に主旨を伝えた。だけど、俺は兄貴じゃない。服の裾が翻れば淀んだ空気がオーシャンブルーに変わり、視線が合った女が悶死する極上の色男なら、こんなに苦労はしないのに。

 数秒の沈黙が室内を満たし、やがて小さな嗚咽が空気を湿らせた。

「じゃあ……どうして私を買われたんですか……」

 疑問ではない、嘆きと苦心を込めた恨み言に感じられた。俯いて口許を手で覆い、細かに震える小さな身体が余りに痛々しい。だのに、掛けてやるべき言葉の用意がない。齢二九にしてこの様とは、何たる欠陥品だ。彼女の反応は当然だろう。奴隷としての技術を叩き込まれ、その使用を許されぬ職場へ監禁されたのだから。楽観的な性質であれば、働かずして飯にありつけると構えられたのだろう。精神的な重圧と責任感から、労働せずにはいられない――言ってしまえば、奴隷という身分上、雇用主から捨てられる懸念に付きまとわれているのだ。可哀想なやつ。

 整った顔を崩してすすり泣くブリジットに、そっと歩み寄る。スタウトでべちょべちょの身であったが、この際気にしてもいられない。とうとう両手で顔を覆ってしまった少女の肩に、節くれ立った手を置く。その身が瞬間的に強張り、嗚咽が弱まった。が、またすぐに身寄りなき弱者の悲鳴が、謝罪形を取って吐き出される。こちらの自棄も極限に達していた。無言で華奢な腰に無骨な腕を回し、弱々しい肩を抱き寄せる。気の強いやつなら張り手や引っ掻きの一発くらい覚悟していたが、ありがたい事に抵抗の一つもなく、腕の中で大人しくしてくれていた。都合のいい人質を取っているみたいで、仕事をしているみたいだった。

「何かをさせる為に、君を連れてきた訳じゃあないさ。状況だけに、信じられないだろうけどね」

 ブリジットが返事を寄越さないのをいい事に、そのまま語を継いだ。

「ここでの生活に慣れるのには時間が必要だろうし、行き詰まったら相談するといい。相手が俺なのが嫌なら、さっきの親父の連絡先を教える。他にも、頼りになるあてはあるから」

 ゆっくりと身体を離して向き合い、ぽんと濡れた頭に手を置いて優しく撫で付ける。それからすぐさま後ろを向かせ、ドアへ向けて背中を押す。俺の顔は、かなり困った風だったに違いない。

「さーて、もう午前の二時前です。ほれ、子供は寝る時間だよ。さっさと寝た寝た」

 理解の追い付いていない、涙で赤く腫れた双眸が向けられたが、やがてほんの少しだけ緊張を緩めてみせてくれた。罪の意識を、束の間忘れる程に可愛らしい。一拍を置いて、未だ震えの混じる声で、自信なげな問い掛けがあった。

「……明日は、いつ起床のご予定で?」

「七時くらいかな」

 それだけ聞くとブリジットは深々と頭を下げ、今度こそ本当に寝室へ向かった。彼女が階段を上がり切るのを耳で確認してから、飛散したスタウトの後始末を済ませる。力の入らない身からシャワーで汗を流し、うだつの上がらない寝間着を纏って、ソファに寝そべった。テーブルには、弾倉を挿入した拳銃が置かれている。これからの日々、招きもしない波乱の数々が巻き起こるだろう。数時間後には仕事もあるし、厄介事の絶えない生活が始まるのが目に見えている。それでも、何処かでそんな骨折りを期待する馬鹿たれが身中にいるのを実感している。落涙する被雇用者とは真反対に、ここに来てにやけた口許を隠せなかった。

 差し当たり悩まされたのは、ブリジットの柔らかな肢体に触れた数秒間が童貞の脳の皺に刻み込まれ、眠りを欲する身体を休ませてくれなかった点だ。俺の人生の敵は凶悪犯罪者と自らのトラウマに加え、これからは性欲という魔物が立ち塞がる。辛苦には他ならないが、それこそが失った人生なのかもしれない。薄っぺらい布団を頭まで被ると、悶々としながらも、次第に意識が遠のいた。


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