奴隷邂逅【7】
【15】
ブリジットと共に酒場を訪れた翌日から、生活がまたも一変した。SASとしてあるべき生活体系に戻ったと言うべきか、早朝に起き出してTシャツ一枚にスウェットを履き、手入れされたブーツに足を通してランニングへと家を出る。付近を十二キロほど走りながら、同じく体力の維持に励む連隊の仲間に会えば「よう!」などと片手を上げたりする。やつらは俺が殊勝に励む姿をしばらく見ていなかったから、死人でも見た様な面で足を止める。これが中々に小気味いい。
ランニングから戻ると、決まってブリジットが朝食の準備に取り掛かっている。汗だくの俺に笑み掛けると、電解質飲料のグラスを手渡してくれる。シャワーで汗を流して着古した服に袖を通し、朝食の完成までテレビをぼんやり観る。これが朝の習慣となっていた。医師の奨励みたいな生活で精神的にも安定が訪れ、快い日常を送っていた。こういった日々を続けていれば、少しは前向きにもなれるだろうか。そんな具合に、陰気な性質に少しだけ見切りを付けられるやもと、画策した矢先であった。
健常な朝を送り始めてから一週間。本日も爽やかに――何とまあ似合わない形容詞か――ランニングを終えて家に戻り、朗らかなブリジットのご尊顔を拝もうとした。だが、キッチンに彼女の姿はなく、家中は静まり返っていた。妙じゃないか。一階に人気は感じられず、地下室の扉にも開かれた形跡は見られない。顎をさすりつつ二階へ上がると、どうやら気配がある。まだ寝ているのだろうか。彼女も人間だ、寝坊の一つもするだろう。そう結論付けて、寝室のドアを小突く。やや遅れて、弱々しい返答があった。――まさかな。意図せず口角が引きつる。舌先を噛み、これから知り得る状況を想定して、額に手をあてがった。小声で呻き、入室の意思表示をしてからドアノブに手を掛ける。
開く回数のめっきり減ったドアの先、布団を頭まですっぽり被るブリジットがいた。膨らんだ布団がしきりに上下し、内側から苦しげな吐息が絶えず発せられる。どうやらビンゴらしい。
「……体温計を取ってくる。そのまま待ってて」
ブリジットは必要ないとかほざくが、床から出られない時点で重症である。体温計と薬品箱を持って戻ると、弱気に表情を歪めたブリジットが身を起こすのを手伝った。体温計を腋に挟ませ、その間に必要になるであろう薬品を用意する。やがて検温終了の電子音と共に液晶が表示した数値――三八度五分。否定の余地なく、立派な発熱である。
ブリジットは自分の身を両腕で抱いて震えており、ベッドに接した壁に寄り掛かっている。悪寒と倦怠感、風邪の典型的な症状だ。ここ数日はさほど寒い日はなかったので、心身が弱ったところにウィルスの卑劣な奇襲を喰らったと考えるのが自然だろう。突如として生活環境が変わり、極度の緊張下に置かれたのだから無理もない。都合よく捉えるなら、ここでの生活に慣れて緊張の糸が緩んだという可能性も捨て難い。
息を荒げるメイドさんを部屋に残してリビングへ向かい、職務用の携帯電話を取り上げる。親父の番号を呼び出すと、呼び出し音が二つ鳴る前に繋がった。
〈どうした?〉
何かを咀嚼していると思われる口振りである。お忙しいところ申し訳ないが、こちらの都合が優先事項だ。
「今日は欠勤する」
〈ほざけ、起きろ〉
「ブリジットが風邪を引いた」
〈理解した。他の連中には話を付けておく〉
向こうから口を開くとろくでもないが、物分かりの良いお父様だ。ポットに電解質飲料を満たし、グラスと一緒に寝室へ運ぶ。ブリジットはさもだるそうに、ベッドの縁でへばっていた。グラスに電解質飲料を注いで渡すと、弱々しく礼を述べてから口を付けた。唇が乾燥して白っぽくなっている。緩慢な動作でグラスの三分の一ほどを喉に流し込むと、サイドテーブルに置いた。喉もやられているのかもしれない。
「今日は安静にしてな。早い内に治した方がいい」
義務感の強いメイドが「でも」と口走りそうになったので、指を立てて遮る。
「いいかい、こいつは上官命令だ。本日の業務は全て中止。体調の回復に努めるべし」
相当に渋ったが、とうとう彼女は俯いて頷いた。よしよし、いい子だ。頭を撫でてやると、髪の質感が少し衰えているのに気付いた。相変わらず、腕には末梢神経が指先から炸裂するみたいな感覚が走る。いい加減に慣れて欲しいものだが、それならとっくに治っている。この痛みに比べれば、骨折や銃創くらい屁でもない。
薬を飲ませるにも、まずは食事を摂らせねばならない。何があるかとキッチンを漁ると、色艶の良いナシが一つあった。何もないよりはましかしらと、〈ベンチメイド〉のナイフで皮を剥いて適度な大きさに切り分け、不細工に盛って寝室へ運ぶ。ブリジットにフォークを渡して食べさせると、酷く申し訳なげに謝罪を述べた。これでは何だか悪い事をしているみたいだ。半分ほど平らげたところで風邪薬を飲ませ、念を入れて鎮痛剤を部屋に残した。
ランニングの汗を手早く流し、メモ帳とペンを手に取る。我が家のキッチンには大量の物資が存在するが、現時点においては病人に優しい食材の在庫が足りていなかった。こういった事態に適した食事のメニューを、脳内の便利な父ちゃんに尋ねた。「病人には、卵粥だ」よし、ポリッジにしよう。それから、果物も必要になるだろう。効率的な水分補給に、電解質飲料も大量に仕入れなければならない。着々とメモ帳に書き殴り、ブリジットへ買い出しに行ってくる旨を告げるついでに、タオルで包んだ氷嚢を用意した。軽いノックと共に寝室に入ると、薬が効いたのかブリジットは眠っていた。不規則な呼吸ではあったが、悪くない。小さな額にそっと氷嚢を乗せ、隠密の足取りで家を出る。よもや、一般生活で要求されるとは思わなんだ。
制限速度ぎりぎりでBMWを走らせ、〈テスコ〉でメモの記述より遥かに多くの物資を詰めた袋を両手に車へ戻り、本日初の自分の食事を頬張りつつ、爺さんが転がす軽自動車を追い抜く。これではまるで要人警護だ。
家に戻って患者の様態を窺うと、やはり苦しげに寝返りを打っていた。氷嚢が解けていたので交換し、部屋に汗の臭いが熱気と一緒に籠もっていた――不思議と嫌な感じはしない――ので、換気に窓を少し開いた。
さて、と意識が家中へ向く。ブリジットがダウンしている間の家事だが、誰かがやらねばなるまい。煩わしい躊躇と物臭が展開される前に、視界に入った目標へ突進していた。便器を磨き、掃除機を掛け、バスタブを漂白し、浴室の排水溝でまぐわう様に絡み合う縮れた金色と黒を排除していると、全身に疲労が堆積するのが分かる。本気で家事に向かい合うなど、果たして何年振りであったか。今でこそブリジットが清潔に保ってくれる我が家だが、つい数週間前は綿埃が蜘蛛の巣に引っ掛かるくそ屋敷であった。己が如何に家の整備を怠っていたかは、想像に難くない。脱衣所の洗濯物を洗濯機に突っ込むだけでも、ため息が漏れる。ヒルバート君は、つくづくお家仕事に向かない人間らしい。高そうなシルクの下着と自分のぼろ切れを一緒くたに洗うのは気が引けたが、水道代を鑑みて洗濯機に放り込んだ。ああ、ドラム式洗濯槽で、ピンクとオリーブドラブが混じり合う……。陵辱めいた光景にいたたまれなくなり、脱衣所を去った。
正午を過ぎた頃に、ブリジットが一度目を覚ました。酷く汗をかいており、白い寝間着が皮膚に貼り付いて不快そうであった。洗面器にぬるま湯を満たし、タオル数枚と新しい寝間着……気は進まなかったが、綺麗な下着を添えて寝室
へ運んだ。
「身体を拭いた方がいい。着替えは置いておくから、そっちを着てくれ。いいね?」
下がり眉でブリジットは応じ、俺はそそくさと寝室を退出した。だって、流石にそいつは彼女自身にやって貰わなきゃ。そりゃあ俺だって男だから、女の子の生まれたままの御姿は見たいさ。だがそれに触れる自分を想像すると、過去の罪が責め立ててくれる。誰にしているかも不透明な弁解を考えつつ、彼女の昼食の用意に階段を下りた。
それから果物を剥いてやったり、洗濯物を干している内に陽が落ちた。気付けば似合いもしないクリーム色のエプロンを掛ける自分に、思わず冷笑が浮かぶ。どう見たって、人間の解体に夜の街へ赴く猟奇的な肉屋だ。そいつが湯気にまみれて鍋を掻き混ぜているのだから、傍からすると気が気でない。料理に火薬の臭いが移っていないか心配しつつ、味を見る。どうやら最近の自分には珍しく、まともな味に仕上がったらしい。出来上がったタマネギと卵のポリッジを深い器へ移し、妙な緊張を胸に二階へ上がった。
寝室のドアをノックしてから開けると、ブリジットが微睡みから覚めるところであった。
「悪い、起こしちったか」
眠たげな目蓋を平時より重そうにもたげたブリジットは緩慢に首を振り、冬眠明けの熊よろしく上体を起こした。先ほど渡した寝間着は既に皺だらけになっており、布団の中で彼女が寝苦しそうに身をよじる光景が脳裏に描かれた。サイドテーブルにポリッジを置き、自分は折り畳みの椅子を用意して腰を下ろした。
「どうかな、食べられそう?」
「……そうですね、少し食べてみます。わざわざご用意して戴き、申し訳ありません」
欲しかったのは謝罪ではなかったが、病身に揚げ足は取れまい。ブリジットはトレイを受け取ると、湯気の立つポリッジにスプーンを差し入れた。白濁したポリッジに、彼女がそうと息を吹き掛ける。何やら扇情的な光景だ。健常な身であったら、彼女の健康状態への思慮などゴミバケツへ放り込み、涎を撒いて組み敷いていただろうに。
少しと言いつつ、ブリジットは休み休みポリッジを完食した。食後にハチミツ酒を一杯飲ませると、とろんと脱力して幾分か芳しい血色になる。皿を片付けて寝室に戻ると、彼女は薬を服用して眠ろうとしていた。朝に比べれば顔に生気が戻り、表情にも余裕が生まれている。この分であれば、明日には快復した彼女に会えるだろう。お休みと告げて明かりを消そうとした時、遠慮がちな依頼の声が上がった。
「……少し、お話をして戴けませんか?」
これには目をしばたたいたが、次があるやも知れないから、無駄にする手はない。一度は畳んだ椅子を展開して、ベッドの傍に腰掛けた。
「それで、どうしたんだい?」
耳も腐り落ちるおぞましい猫撫で声に、どういった風の吹き回しか、彼女は至極難解な問を投げ掛けてきた。
「ヒルバート様はその……どうして私を買われたのですか……?」
以前にもあった問いだ。当時はブリジットとの性交を拒絶して泣かれたが、今の彼女は純然たる疑問を呈していた。さて、こいつはどう扱ったものか。実のところ、奴隷の購入は自棄になった結果であるし、その発端といえば親父のきちがいじみた命令である。事情を包み隠さず言えば彼女を傷付けるだけであるし、こちらも良い心地はしない。頬を掻いてしばし熟考に耽り、及第点とはいかない回答を提出した。
「まあその、何だ。一つには、君が可愛かったからというのがある。いや、冗談抜きで」
ブリジットの表情はぴくりとも動かない。そりゃあそうだ。三十路前で未婚のおっさんが総毛立つ発言をぶつけてくるのだから、心中穏やかではない。
「第二に、これは上手く言い表せないんだけど……。つまり現状、俺には大きく欠けたものがあって……」
固唾と一緒に言葉を飲み込む。この先は言うべきではないだろう。しかし口外の英断で、何某かの進展が見られる可能性もありはしないか。悪魔の囁きには違いなかったが、それを承知で語を継ぐ。
「……要するに、俺には君が必要なんだ」
言った傍から赤面するのが分かる。嘘だろ、額が放熱板になったみたいだ。ちくしょう、誰か殺してくれ!こちらの気も知らずじいと見つめる少女の瞳に、いたたまれず生殺しとなった馬鹿が映っている。
「……左様ですか」
ブリジットはふにゃりと頬を緩め、弱々しく手を差し出してきた。握れという意思表示だろうか。人間、体調不良で滅入った際は、相手はともかく温もりが欲しいのが性か。触れると汗ばんでふやけていたが、若人のみが持ち得る瑞々しさがあった。接触を持ったせいで肩まで痺れが疾走する。同種族の感触に安心したのか、彼女は目蓋を下ろした。
「……この先も、ご厄介になって宜しいでしょうか」
確認の求めに、空いている手で砂色の髪を掻いてやった。
「出来る限りの援助は惜しまないつもりだ。学校に行きたければ手続きをするし、資格が欲しいなら教材を探してくる。嫌な事があれば、愚痴を漏らしたっていい。ここはお前さんの家なんだから」
それだけ聞くと同居人は儚く礼を呟いて、穏やかな寝息を発し始めた。
羞恥に染まり切って、全身が痛痒くなっていた。意識も混濁した最中の問いだったが、この子は先刻の言葉を忘れてくれるだろうか。左手に絡んだ手を慎重に解いて布団に収め、それから自らの外面もない失言に今一度悶えた。まずいぞ、このままでは自殺しかねない。寝室の明かりを消して退出すると、安全装置代わりの寝酒を取りに向かった。
ポエム火山が羞恥心で噴火するのを免れた翌日、いつもの様にランニングから戻ると、万全に復活したブリジットが食器を洗っていた。体調を慮ると、十分休んだからと拙い看病に礼を述べて微笑んだ。成る程、笑顔の方が似合う。銃器への性倒錯の疑いさえある俺をして、そう思わせる。憎からず思っている訳でもない女に愚考を抱き、急にえも言われぬ不信感が浮上した。――好きでもないだと?生じかけた疑問に、慌てて拒絶をぶつける。馬鹿野郎、高望みも大概にしろ。ランニングで生じたものと別の液体を拭いつつ、メイドから渡された電解質飲料を飲み干した。
【16】
その日の仕事場は埃の舞う地下室ではなく、星さえ見えない曇天の下であった。通りを行く人影はまばらで、黄ばんだ光の街灯が電気を浪費している。人々は、深夜の戸外を恐れていた。事実、ここ――北アイルランドが州の一つ、アーマーの南部ではそうだった。十二歳の俺は、べとべとに溶けた緑色の飴玉を口に含み、指定された場所に向けて前屈みに歩みを進めていた。右手は上着のポケットに突っ込み、さも目的ありげな歩幅と速度を保った。左のポケットには飴玉と空の包装が幾つか。右のポケットは夢に溢れていた。この時の為に研ぎ上げたアウトドア・ナイフが、シース(鞘)から抜いて収められている。
さびれた通りの角に建つ二階建てに、柔らかな明かりが灯っている。その一室に住むアルスター警察の関係者に、自分の知らない誰かが会いたいらしい。俺はその会合が円滑に進む手伝いをする。方法は単純だ。当該物件に誰かが入るのを、何者にも見られない様に手配する。目的の建物を正面に見据え、じわりと背筋に脂汗が滲む。玄関近く、切れかけた街灯がちらつくその下に、帽子を被った二つの影が揺れている。警官だ。十月の夜風が身に染みるらしく、上着に手を突っ込んで互いに恨み言を漏らしている。彼らは単なる巡回ではない。その背後の家屋に住む男を警護する立哨として、寒風に吹かれていたのだ。
仕事の内容を反芻する。目標付近の障害の排除。手順は何度も繰り返して、身体が憶えた。要は覚悟と運次第だ。口の中で、半分ほどの大きさに溶けた飴玉を噛み砕く。決断は早かった。行く宛てもなげな足取りを模倣する。大人に構って欲しげな小僧を演じればいい。何食わぬ風を装って警官らの傍を通り抜けるなり、背の高い方に呼び止められる。
「こんな時間に一人歩きか?親御さんは?」
時刻は日付の変わる手前だ。そんな時間帯に、だらしなく着崩した少年が一人でふら付いている。しかも不健康そうなくまが下目蓋に巣食っているのだ。こんな風体で不機嫌そうにいれば、誰しも家出した不良少年と決め付けてくれる。訝しむ警官に、俺はにへらと黄ばんだ歯を見せた。
「親だって?今さっきそいつらに叩き出されたんだぜ?こっちは放っておいて、どうぞお勤めに戻りなさいな」
そうしてぷいとその場を去ろうとすると、背の低い方が肩を掴んでくる。――予測済み。深いため息を漏らして警官に向き直り、大袈裟に肩をすくめて弱った目をしてみせる。
「なあ、頼むよ。ほとぼりが冷めるまで、友達の家に厄介になるつもりなんだからさあ」
それでも警官は職務の責任上、こちらを見逃そうとしない。二人は互いに顔を見合わせて唸り、警備任務の闖入者への対応に苦心していた。
警官の身の丈は、高い方は約一八〇センチ、低い方は一六五センチ程度だった。前者は俺の目線にまで腰を落とし、後者はふんぞり返って鼻息を漏らしている。二人は矢継ぎ早に質問を投げ掛けたが、俺は曖昧に応答するだけで具体的な回答を寄越さなかった。
表面上だけの、無意味な問答が一分ほど続いただろうか。視界の端に、蠢く影を認識した。数は三つ。姿勢を低く、忍び足でこちらに接近してくる。警官は彼らの存在に気付いていない。背の低い方が、煮え切らない返事ばかりのくそ餓鬼に声を荒げた。
「だから、さっきから言ってるだろう。名前と家を教えてくれれば、警察がそこへ行って親御さんの説得を手伝ってやる。それで何の不満があるんだ?」
ジュネーヴ条約が愚かしくも子供への攻撃を承認していないのには、兵士の精神を防護する役割が大きいのだろう。目下、御託を並べているこの男は軍人ではないが、どうあれこの場で一瞬でも油断を見せたのが運の尽きだった。ちび警官は続けて何か言おうとしたが、後頭部を強打された所為で言葉にならなかった。忍び寄った男らの一人が、前のめりに倒れた背中に馬乗りする。もう一方の警官は、まだ状況の理解が追い付いていない。そいつの胸ぐらを掴み、こちらへ引き寄せつつ、喉を目掛けてナイフを一突きした。警官の血走った目が大きく見開かれ、四肢をばたつかせて抵抗を試みる。構わず首からナイフを引き抜くと、おびただしい量の血液が傷口から零れて、芝に黒い水溜まりを作った。不安定な体勢からナイフをもう一突きし、身悶える警官の気管を切り裂く。自転車のタイヤのパンクに似た音がしたかと思うと、警官はだらりと体重を預けて事切れた。ナイフを握る手に温かい血が掛かり、皮膚と衣服を染める。もう一人の警官は、仲間が――俺はそんな風に思っていなかったが――ロープで窒息させていた。
こんな雑用も何度目になるだろうか。地面の血溜まりを拭き取り、死体を付近に停めたバンに載せる。我々は血の臭いが充満する車内の空気を肺に吸いながら、死体処理に使う農家まで車を走らせた。現場を去る直前、立哨のいなくなった物件がバックミラーに映り込む。あそこの住人もこんな風になるのかと、足下で揺れる死体を視界に現実味なく考えていた。
この行いが善と悪に二分されるなら、一体どちらに仕分けられるだろう。半ば哲学じみた詮索に、ブレーキを掛ける。知った事ではない。こちとら、食い扶持を稼ぐ為に必死なのだ。関心さえない抗争の中で、IRA暫定派――アイルランド共和軍暫定派、通称『プロヴォ』に助力しているのは、ただそれだけの理由だ。
血に濡れたナイフを警官の服で拭う最中も、罪の意識は催さなかった。戦場で矢面に立っておきながら、彼らは来たるべき魔手から身を守れなかったのだ。相手はずっと小さな子供だったのだから恥こそあれ、弁解の余地はあるまい。当時はそういった暗示で、精神に継ぎはぎの鎧を着せていた。やがてそれが耐え切れぬ重荷となり、自身が崩壊するとも知らずに。
目蓋の裏に過去を見るのは久方振りであった。起き抜けは気分が優れなかったが、ランニングで汗を流してシャワーを浴び、ブリジットが用意したソーセージマフィンを頬張る頃には、重苦しい虚脱感も薄れていた。
ブリジットがこの家に来て、どれだけ経っただろう。二十日か、もう少し過ぎていたか。彼女はすっかりこの家を所有物として扱い、キッチンの調度品は彼女好みの位置に変更が加えられていた。先日の風邪が治ってからも、家主は家事を手伝わせて貰えず、ヒモ以下の生活を強いられていた。ブリジットはよく気が利く娘で、俺が喉の渇きを覚える頃合いに紅茶を淹れ、昼下がりに菓子を作り、夕食後にはその日の気分に合わせた酒を見繕ってくれた。一人で飲むのも気が引けて晩酌に誘うと、決して断らない付き合いの良さも持っている。その内に夜の街で、同僚に背中からぐっさりやられても不思議はない。殺られる前に返り討ちにするが。
この日も職場で千発単位の銃弾を撃ってから帰ると、メイドさんは律儀に玄関まで迎えにやってきて、手荷物を預かった。「今日は何かございました?」と明朗に尋ねる彼女に、特に何もと答えるが恒常化している。細胞間の酸素受領と同じく無意識に過ごしていたが、中々どうして常人の手の届かぬ水準の暮らしだ。簡潔に述べれば、自宅に若くて可愛い無欠のお手伝いさんが、年中無休の住み込みで働いている。少し前の孤独と比較すれば、日常は正しく百八十度の変貌を見せた。最近は同僚に「健康が一番」などと爺臭い説教を垂れるまでになって、少々若い連中に引かれている節さえある。年寄りには優しくしてくれよ。
リビングのソファに腰掛けてテレビを点けると、とある政治家がパパラッチに詰め寄られていた。BBCの画面下を走る字幕が示す限り、政治家の名はマーティン・アボット。保守党議員が一人で、毛髪の後退しかけた額を少ない毛で惨めに覆う、ビール腹の中年だ。小難しい政に関心はないが、聞けば近年は廃止傾向にある奴隷制の維持と推進に尽力しているらしい。ハゲの抑止にだけ集中すればいいものを。パパラッチのカメラに追われているのは、一種の裏取引の尾を掴まれている所為らしく、強面の黒服に前後を挟まれるアボットは、胃袋に生きたゴキブリでも住み着いたみたいに、虫の居所の悪い様を体現していた。
鼻の頭をてからせたでぶなぞ、好んで拝み続けるものでものではない。何よりブリジットに陰鬱な情報を見せたくない懸念から、チャンネルを変えた。いつかは、彼女に打ち明ける機会があるだろうか。隷属の過去とそれが生んだ罪業に、心は半ば潰されていた。唐突に気が滅入り、仰いだ天井へ鼻息を漏らす。ようやく慣れてきたと思えた同棲だが、今を以て障害は多いらしい。
夕食に濃厚なポトフを平らげ、キッチンで片付けに勤しむブリジットの視姦に、頬杖で耽っていた時分であった。
「私の背中に、何か面白いものでも?」
悪戯っぽく笑む同居人に、首を振りつつ目を背ける。これだから、女の勘というやつは恐ろしい。彼女はくすりと愉しげな音を漏らし、作業に戻る。参ったなとこめかみを掻きつつも、やはりスケベな眼球は女中さんへ向いてしまう。光沢を殺した黒のロングスカートに、揃いの上着。上品に輝くシルクのエプロンの紐が、背中で弛みなく交差する。特殊性癖御用達な装いに、性的興奮を催さないとの豪語は往生際が悪い。あつらえた様にサイズの合った被服は、彼女の繊細な影を忠実になぞる。色白な肌に、メイド服のマットな黒のコントラストが映える。全体的に露出度が低い為に、男の性とも表すべきであろうか、素肌を拝謁したい冒険心が萌芽するのも確かである。誠に勝手な言い分ではあるが、罪作りな女だ。
食器の片付けを終えると、メイドさんは両の手をタオルで拭ってキッチンから出てきた。その顔にはやはり微笑が湛えられており、この家に来たばかりの彼女を知る身としては、いささか不気味さを覚える。
「今晩は何をお飲みになりますか?」
屈託ない笑みに促されて、モスコーミュールを注文した。甲斐甲斐しく返事を一つ、彼女はキッチンへとエプロンの紐を揺らして戻る。生活を送る上で雇用主に取り入る必要があるとはいえ、家事に加えて晩酌までやる義理があるだろうか?そうは躊躇いつつも、厚意に甘えてしまう自分に反吐を催す。てめえの妻でもなければガールフレンドでさえないのだから、依存するにも程度をわきまえるべきだ。胸の内の遠慮と格闘を繰り広げていたその時、ブリジットがグラス二つと〈アブソリュート〉の瓶を抱いてやってきた。
「ご一緒して宜しいでしょうか?」
最近は間抜け面ばかり晒している。彼女からの突拍子な申請に、窓口が五秒ほど凍結した。ようやく状況を理解した時には、口も開いたままにかぶりを振る自分がいた。まさか、先方から誘ってくるとは。
ブリジットは対面に着席すると、淀みない手付きで霜のない氷とウォトカをグラスへ落とし込み、〈ウィルキンソン〉のジンジャーエールを静かに注いでステアした。仕上げに、新鮮なレモンの輪切りが浮かべられる。出来上がったモスコーミュールを「どうぞ」の一声と共に差し向けると、何処か満足げに頬を緩ませる。知り合ってからこっち、この女中さんは笑顔の裏で何を画策しているのか底知れぬ女であった。無駄を承知でその実を探りつつグラスに口付けると、普段より濃いアルコールを鼻腔が認識した。分量を間違えたのか?とはいえこれはこれで悪くないと、もう一口を舐める。透き通るレモンの果肉とグラスの底を通して、ブリジットが銀色のシェーカーを振る姿が麗しい。あれも調教とやらで会得した技術だとしたら、施設の用途を誤っているとしか思えない。家政婦や嫁入り前の婦女子の研修機関であれば、如何に健全な場所であっただろう。手の届かぬ分野にまで首を突っ込むまいと自己を律し、余計な活動を起こす脳味噌を黙らせる目的で、グラスの残りを飲み干した。
肩に気だるさがのしかかってきた頃、俺は既に三杯のカクテルを胃に流していた。二杯目はギムレット、三杯目はXYZであった。何れもカクテルメジャー(計量器)を使って作られたのに、アルコール度数が高く設定されていた。如何な馬鹿でも流石に不審を抱いたが、ブリジットの上機嫌を損ねる愚行は犯したくなかった。平時よりも幾分か饒舌な彼女は積極的に話題を持ち掛けてくれたし、年齢に不相応な会話手法も趣深かった。使用人というよりは、良く出来過ぎた秘書という案配である。ちょっとでも彼女の血を自分に入れたら、少しはこのいかめしい一重目蓋から険が取れるかしら。酩酊初期というのは、まともな妄想をしない。
メイドの促すままに、へべれけ家主はとうとう五杯目を口に含んでいた。ジン・トニックの芳醇な香りがふわりと粘膜に広がり、鋭い余韻を残して喉奥へと沁みてゆく。一種の芸術とアルコールを称賛した時であった。ふと、飲んだくれをじいと見守るブリジットへ目が行く。昼光色の照明の下、くすんだブロンドは柔らかく光を返し、とろりと悦に入った碧眼が情欲を燻らせる。本能の手綱を握り締めつつグラスを干すと、ブリジットは緩慢に口を開いた。
「ヒルバート様が、お酒を好かれる方で安心しました」
藪から棒におかしな事を言う。
「男性を落とすなら酔っ払っている時が一番だって、エリーが言ってたから」
言葉の真意を探ろうにも、脳味噌はアルコールの海で蕩けていた。彼女も相当に酒が回っている訳であるし、意味の通らない発言をいちいち拾う必要もないだろう。不可解な言動を関心の対象から除外し、やにわに登場した女性の存在を問いただす。
「エリーって?」
「あ、エリーは施設にいた同期です。私より四つ年上で、借金がかさんで返済が出来なくなったから、自分から奴隷になったって言ってました」
いささか驚いた。何しろ、彼女が自分からこうも単刀直入に奴隷の話題――それも本人がいた施設を持ち出してくるとは。酔いも醒める勢いの雇用主に対し、メイドはあっけらかんと話を続けた。
「他にも同期はいっぱいいましたよ。ブライス、アンジェラ、クリスティン、モリー……それから、記憶のない私に名前をくれたリタ!クリスティンとはルームメイトで、消灯時間を過ぎてからもお喋りしてました。皆いい子でしたよ」
語末を過去形で締めるや、表情に陰が落ちる。
「でも、奴隷として売られる日に皆ばらばらになって……各地の販売会場に運ばれました。知らない子達と一緒に、薄暗いトラックの荷台に詰め込まれて……」
「気が付いたらここに、か」
ブリジットはそっと頷き、そのまま俯いてしまった。こいつはいけない。ここから泣き上戸にでも転ばれたら、彼女を慰める手立ては皆無だ。ところが、不穏な胸騒ぎに反して彼女は微笑んでいた。下がり眉ではあったが、眠たげなまなこは意志を保っている。
「凄く不安でした。知らない街に連れていかれて、知らない人にお金で買われて、知らない家で暮らすだなんて、普通じゃ耐えられない。だから、心は壊れるんです」
その一言に、表情筋が張り詰める。
「心だって身体の一部です。病に侵されて腐敗した部分を除かなければ、病原菌は転移します。でもその前に心が死んでいれば、菌はそこを培養液には出来ません。そうでしょう?」
同意を求められても困る仮定である。要約するに、精神を病まない方法の一つとして、心という祖国を外敵の生きられない環境――例えば、核や生物兵器や毒ガスで満たす、という焦土作戦まがいの解釈で齟齬はないだろうか。これはこれで頭が悪そうだ。とりあえずはと曖昧に相槌を打つと、ブリジットは自論を続投する。
「心を自分で壊す事で、人は病原菌から身を守れます。少なくとも、一時的には。でもこの施術……平たく言って『割り切り』でしょうか、これには追随する問題が生じます。それも、元の病原菌よりずっと大きな問題が」
彼女は出し抜けに真顔になると、氷の解けたグラスをあおった。流石に飲み過ぎだろうか。その割に、顔に紅潮が見られないのが訝しまれる。
「大きな問題って?」
ブリジットは力強く頷く。
「壊してしまった……ここも言い直しましょうか。感情が揺れない様に固定された心は、それでも時間の経過に伴って壊死していくんです。それも、当人が気付かない内に」
弱った風な笑み。幼いながらに包み隠そうとしてはいるが、喉元が少し震えている。無茶をしおってからに。
「……つまり、精神を蝕まれる前に自分で心を凍結した、と」
踏み込むべきか逡巡したに違いない。それでも自爆覚悟の覚悟を踏まえ、意を決して彼女の領域へ立ち入った。今後の生活の懸かるブリジットからすれば、全財産を賭しての大勝負だった。
沈んだ反応を返されると信じて疑わなかったのだが、彼女は予想外にきょとんと呆気に取られていた。そのまま数秒が過ぎたかと思うや、今度はやにわに破顔して吹き出すのだから、もう計算は狂いっぱなしだ。何だ、俺の頭に花でも咲いたか?試しにつむじを弄ってみたが、植物の類は生えていない。生えていたら何の花だったろう。スマトラオオコンニャクかしら?
「もう、ヒルバート様は構え過ぎですよ。確かに、ここに来て数日は落ち込んでいました。それは認めます。でも辛気臭くなっていたのは、ほんの少しの間だけです。心を閉じたと言っておきながら処遇に不服を訴える使用人なんて、凄くおこがましいですよね」
そこで振られても、返答に閉口する。だが今の供述を聞く限り、差し当たって彼女は現状に不満を抱いてはいないらしい。これは願ってもない好況だ。彼女が以降もここで生活する気概を有する事実は、こちらとしても望ましい。この子の場合、今日までの発言が全て偽りであっても納得出来る節はあるが。
「ヒルバート様はご存知ですよね?私に、昔の記憶がない事。目が覚めたら調教施設の真っ白な天井があって、冷たい目をした大人に囲まれる暮らしが始まったんです。すぐに仲間は出来ましたけど、毎日やりたくもない性的な技術を学ばされて、露出度の高い服を着て、お金稼ぎの鑑賞品にされるんです。数え切れないくらい下品な目に晒されて……目の前で性器を露出してきた人もいました。そんな中にいて、希望なんて単語はたちどころに打ち破られたんです」
言い表すのが躊躇われる程に痛々しい経歴だが、ここでおいそれと涙を零すなどと安い同情は許されまい。流石に心苦しいものがあるのか、ブリジットはウィスキーをグラスに注ぎ足すと、かなり大きな一口をあおった。急性アルコール中毒が懸念されたが、今晩の彼女はそれくらいで止まらないらしい。堆積した鬱憤が、今になってダムをぶち壊しに掛かっている。上司として、部下の文句に付き合う腹を据えた。
「そうやって三年間、好きでもない人の身体に触れたりして……。想像出来ますか?自分の意志でもなく、何が原因かも知れない境遇に置かれているんです。友達はいました。でも心の内では孤独で、寒くて、弱音を吐く事さえままならない。自殺を考えた時期だってありました。でも、商品価値を損なう行為は厳罰の対象でした。同期にリストカットを試みた子がいましたが、その後はどうなったか……。ごめんなさい、急にこんな与太話をしてしまって。理解して戴けないのは承知です、でも……」
とつとつと語るブリジットの目から、感情の発露が零れる兆しは見られない。アルコールで鈍くなっているのか、はたまた特別タフなのか。女心との接触に乏しい身では、知る由もない。それでも、脳に舌が先走った。
「……分かるさ」
不意に放たれた肯定に、ブリジットは身を強張らせた。彼女が平静を取り戻すのを待たず、自嘲めいた笑みを差し向ける。
「知ってるよ。その日を生き抜くだけで精一杯。味方を見付けるより敵を作らないのが賢明だと、度重なる経験が物語る。絶望に打ちひしがれていながら、そのくせ壊れかけの自分を暴く存在を心待ちにしている……。人権を剥奪された者の痛みってのは、そんな風に矛盾だらけだ」
メイドは真剣な面持ちでかしこまっていた。俺も理性に綻びが生じていたのだろう。まさか日も変わらぬ内に、手ずから己が暗渠を暴露する橋頭堡を築くとは。
「心を閉ざし、外因に振り回されない自分を偽る……実際、そう上手くはいかないんだ。君の言う心を壊すのにだって、相応の犠牲を要する。下手を踏めば、反動で制止も利かずにおっ死んじまう」
「どうして……」
自分がとうとう達せなかった一歩を指摘され、少女が戦慄に目を見張る。何故分かるかって?聡明なお前さんが、余程動揺していると見える。グラスの残りを喉へ流し込み、暗く淀んだ双眸を以て見据える。
「酔っているところに悪いけど、〈ベイリーズ〉を頼む。牛乳と一対二で割って欲しい」
ブリジットは真面目腐った態度で頷き、キッチンへときびきびした足取りを向ける。間もなく甘ったるいカクテルが供され、一口やって腹をくくった。
「……とある少年の話をしようか」
お気に入りのクリームリキュールを、今晩だけで何杯干す事になるだろう。どうやら長丁場になりそうだ。
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