サクラ

中川ハシル

第1話 スキーとスノーボードの違いは……。

 雪の上を滑るということは共通しているけれども……。

 スノーボードは一枚の板でストックなしでサーフィンのように滑るのに対して、スキーは二枚の板でストックで調子を取りながらのスキー独特の滑りである。伊佐木一喜はスキー派であるが、現在の若者はスノーボードが多い。

 昭和40年代は「巨人」「大鵬」「卵焼き」と呼ばれる時代であって、3C時代であった。『カラーテレビ`(color television)』『クーラー(cooler)』『自動車(car)』新3種の神器と呼ばれて家庭に揃っていれば理想的とされた3つの品物であり、一喜の家にはカラーテレビしかなかった。車やクーラーは大分後になってからだった……。

 スノーボードのも、殆ど見かけなく。スキー全盛の時代だった。スキーは今とは逆にブームであって、人気は高かった。ファッションはスキーもスノーボードも殆ど変わらなかった。女性はカラフルの色彩で無彩色の自然とは真逆の色彩で

目立ち事故防止にも役立つ色であった。ゲレンデに眩いぐらいに咲く花の女性の衣装は無彩色の自然とは違って対照的であった。

 ゴーグルで彼女たちの表情は分からなかったが、明るい声がスキー場に響いて転んだ照れくささを隠していた。

 白銀に舞う雪煙はパウダーとなって降り注いでいるのが印象的であった。

 スノーボードはサーフィンに似ていた滑りだったが、水上スキーはスキーとは違ってモーターボートに引っ張られてのスラロームだった。水上スキーは腹筋が強くないと立つこともままならないスポーツだった。

 スキーの匂いは新しい内は用具のいい匂いがしたが、ゲレンデでは、景色と同じように無臭だった。汗の匂いぐらいしか鼻孔に感じるものではなく。都会の排気ガスから逃れての滑りは快適だった。

 一喜を虜にしたスキーは美しい白銀の世界であって、無の世界であった……

 美大時代には味わえなかったことであったが、仕事のストレスを消してくれる麻薬のようなモノだった。流れる汗によってすべてを蒸発させてしまうスキーの魔力には抵抗できなかった。

 スキーを覚えてからの一喜の顔の色も違って真っ黒な健康色に変わっていた。

気持の方も積極的になって、怖いもの知らずになっていた。

 理屈っぽく喋ることも忘れて何時もニコニコしていた。明るく輝いた瞳で行動する姿は女性の憧れの的であった。

 スキーを遣る前と後ではこんなにも変化があることに一喜自身も驚嘆していた。

 家族両親と子供6人兄弟の次男として東京の下町に生まれた一喜は……。

 両目の間にある皺と鼻の凹み具合が父親似であって、身長は母親に似て1メートル67センチで男としては小柄な部類だった。

 兄は1メートル76センチで父親に似て長身で、顔の形は母のお父さんに似ていた。

 妹で長女は顔は父そっくりで身体は骨細で母親似だった。

 妹の次女は顔は母似で身体は母親似だった。

 妹の三女は顔は父親似で身体も父親似だった。目は母親に似て二重だった。

 末の弟は顔は父親似で身体は母親似だった。

 目は父親は一重で、母親は二重だったので、長男は右が二重で左目は一重で頓珍漢だった。母の二重に似た二重は三女だけであり、一喜と長女、次女弟は一重だった。遺伝のメンデルの法則がこれまでハッキリとした家族は珍しかった。

 家族の類似性は目や身体の特徴に出るが、一喜はあまり気にしていなかったが、遺伝子の特徴は家族の上にも出て犬や猫などの動物もこのように出るのかなと想念する一喜だった。血統書が重要な犬猫ではあるが純粋なチャンピオン犬や猫の血統の大切さは遺伝子の勝負だった。

 人間の家族と動物と比べることは失礼であるが、遺伝に対する考え方が明確に解る気がする彼であった。

 一喜の家族は運動能力には遺伝的にダメであった……。

 オツムの方は近所でも評判の一族だったが、スポーツに関しては一喜は中学時代の徒競走で3位が最高だった。

 親父の方は信州松本郊外の南安曇郡の出身であり、木曽谷から登って来た九州の志賀島辺りでたむろする海人で安曇族と呼ばれていた。

 博多への単身赴任で解った一喜は自分史の一面が解ったことに当時は感激していたが、九州の遺跡巡りがこんなにも役立つとは、当時は想ってもみなかった。

 信州と博多はかなり距離的にはあるが、関係は深かったことに驚きすら感じている彼であった。父は40代で潜水で50メートル無呼吸で泳ぎ切ったのを見て一喜は驚嘆した……。近所の浜町公園にあるプールでの一コマを今でも想い出すことがある。何となく九州の海人だった祖先の血が騒いでいるのだなと認識していた。自分もそういえば、山よりも海が好きだということは小学校の夏の林間学校では江の島の越谷海岸だったことを思い出す。なかなか急には天才は出るモノではなく。一族の血統の集合体であると理解した。一族の祖先を知ることは、これからの生活に役立つであろう時がくるとも限らない。

 そういえば、父親の京の友禅染色家(模様師)と言われた職業と一喜のアートディレクターになった関係はある遺伝子で繋がっているのであろうか。自分の道を歩んでいるようであるが、一族のレールの上に乗っている人生のいたずらは、祖先を馬鹿にすることはできない。「結局、一族の血統から、出ることはできない自分の人生は……」自立心の強い彼であったが、一族の手のひらの上で勝負してることなんだなと想念していた。「桶屋は桶屋なんだな」と……。

 兄はゲームにおいてはスキーとボーリング、将棋に囲碁が出来。次男の一喜はスキーに将棋を得意としていた。野球は共通のスポーツだったが、試合というよりはキャチボールが多かった。受験期には気分転換のために良く行ったが、知らざぬコミュニケーションだった。たまにする試合のポジションは一喜はショートかセカンドであり、兄はファーストだった。打撃の方は一喜はセンター前にライナーを飛ばすことが多く。兄はあまり得意ではなかった。

 ボーリングは兄は会社のボーリング部だったので、ボールも特注で自分のボールを持っていたので、一喜よりも上手かった。。

 一喜ははじめてやった青山のボーリング場で170台を出してしまったので、素質はあった。自然にボールがセンターから右のトップピンから入るとストライクを連発したので、球筋は良く。スピードを出さなくとも当たりどころがいいとストライクになった。無理をしないで肩に力を入れないで投げる自然なボールは生きていたのだった。力むとスコアは乱れて勝負にならなかった。

 ゴルフはお互いに会社の付き合いで遣り始めたがハーフは50台であったが、九州に単身赴任してから40台も出るように成長していた。九州福岡時代には毎週地下鉄駅西新の一つ先の姪が浜というところに大き目なゴルフ練習場があり、毎週土曜日には練習をしに行ったが、レッスンプロにも教わって少しづつ上手くなったいった。兄は酸素会社の役員だったので、付き合いゴルフが多く。上手くなったが、兄弟で一緒にゴルフを遣ったのは只の一回だった。僕の会員権のある茨城県にあるニッソーカントリークラブであった。ここでの勝負は一喜が優勝したのは当然であった。自分のコースだったので、40台後半であったが河川コースだったのでアップダウンが少なく、池によって難しくしているところもあった。一喜は池を苦手としていたが、知ったる我がコースだったので、なんなく50台を切ることができたが、兄も四十台後半で弟は50台前後だった。兄弟、腕はだいたい同じ程度だったので、楽しいゴルフができた。

 九州のコースはトリッキーであって、いきなり池越えでしかも深いラフで苦労した。本州の関東のコースは箱庭コースで手入れが良く。フアーウエイもグリーンのように綺麗に手入れがされているので楽でありスコアも纏まり易かった。九州と比べたらコースが楽であり、冬でもできる荒れた九州のコースとは比べるアマチュア・コースであり、スコアを気にする人々でもコースによってスコアが違うんだなと一喜は学習した……。

 九州時代の同僚は三十台後半でシングルプレーヤーが多かった。九州へ赴任でゴルフ場によってスコアが違うんだなと認識した。一喜は当時はリンクスの3番アイアンを得意としていたので、スコアが乱れることはなかったが、九州のコースでスコアを纏めることの難しさを体験した。一喜も入れ込めばシングルプレーヤーになったと思われるが、博覧会の仕事が忙しくなりはじめてからはゴルフどころではなかった。彼はフェアーウエイでは、殆ど3番アイアンで勝負したので、それなりにスコアは安定していた……。

 一喜はゴルフコンペでは2、3回優勝経験はあるが……。

 部会程度のモノだった。

 一番惜しいコンペは群馬県にある下秋間カントリークラブでのコンペだった。

 下秋間は

 1992年に日本ゴルフ選手権

 1988年~1999年連続で日本シニア選手権

 1987年関東プロ選手権

 を過去に行った名門のゴルフコースであった。


 ……時は1995年5月20日

 新ぺリア 隠しホールは

 OUT  ① ② ③ ④ ⑦ ⑨

 IN ⑩ ⑪ ⑫ ⑮ ⑰ ⑱

 というルールであった。


 一喜のプリミィティブ企画からの出向で大手広告代理店の東京本社へ戻る送別会も兼ねた試合だった。総勢34名のビック大会で会社あげての大会だった。

 一喜の一緒に廻るグループはハーフよん40台で回る連中だった。力の揃ったメンバーは幹事の努力によるものだった。送別会用のベストメンバーであった、しかも会場は2週間前に日本シニア選手権が行われた難しいコースだった。

 メンバーは、水野、持田、斉木、伊佐木であった。優勝候補が蠢くグループだった……。


 スタートは一喜はドライバーでマクレガーのチタニュームでメイドインUSAであり、重さも軽く、当時は流行ってる製品だった。

 一喜の戦略はドライバーはあまり無理をせずフェアーウエイキープを心掛けた。

 第1ホールはフェアーウエイが狭く。左にドックレックしてひらがなのくの文字のような形をしていた。曲げないことが、勝利への道だと想ってあまり力まず3番ウッドの気持ちで、力、8分目に振り切った。結果オーライだった。後は真っすぐで3番アイアンでグリーン手前に落としてパー5を6叩いたが正解だった。

 水野 8

 持田 6

 斉木 7

 伊佐木6

 スタートは上々の出来だった。

 第ホールはショートホールだった。パ-3を一喜は倍の6を叩いてしまったが、ショートホールを苦手とする一喜は予定通りだった。

 天候は晴れで、緑が眩しいぐらいに目に焼き付いていた……。

「最高の気分だね━」

「いい天気ですね! お天気が良くて……」

 普段からゴルフ仲間の水野さんが呼応した。

 ショートの151ヤードの中途半端なコースを得意な7番アイアンにするか、5番にするのか迷った末の5番アイアンがバンカーに捕まり倍も叩く結果になってしまった。

 水野 4

 持田 3

 斉木 3

 であったが、上手い人たちはパーで上がっていたのに、一喜は2ホール目でハンデが付いてしまった。

「もう、ダメかな!」と弱気の虫が湧いてきたが、ショートのはじめてのコースだったので、気を取り直して、身体が暖まれば良くなるだろうと楽観視していた。

「まだ、はじめのコースだからな。取り戻せるな!」

「最初は身体が廻らないからな!」

 一喜は気持ちを切り替えて次のホールは得意なミドルホールへと向かった。

 風も殆どなく絶好のゴルフ日和だった。いいスコアが出る予感がしてきた。

第3ホールは393ヤードであって、一喜は自信を深めた……。

「ストレスも吹き飛んだな!」独り言を言いながら……。

「実力者はパーで切り上げるな」

 さすがに一喜は悔しい表情を浮かべていた。異常に真っすぐなミドルであり、曲げは許されない。ドライバーはまあまあだったが、二打目の3番アイアンがダフリぎみだっので、7打だった。

 水野 5

 持田 4

 斉木 6

 でかなり差をつけられてしまった一喜の顔は沈みぎみだったが焦りが出ていた。

「気楽に遊ぼう!」彼は開き直っていた。

「難しいコースなのでまずまずの出来だな。このまま行けばどうにかなるだろうな」

口には出さなかったが普段の自分の実力どおりだなと自分に言い聞かせて決して不調ではく周囲が上手すぎるだと感じるようになつていった。

「その内、調子が上がるだろう」

 第4ホールは、また、ミドルで354ヤードであった。

 伊佐木7

 水野 8

 持田 6

 斉木 6

 実力どおりの差であったが、水野さんの8打は自分よりも1打多いことに勇気ずかられた。曲線の少し入った難コースであり、さすがシニアプロが争う技術でを要するコースだと彼は認識していた。「徐々に馴れるだろう!」

 自分としては何時もの調子であったがメンバーが上手過ぎるので、一喜も吊られて、いい方向へ向かい出した。

 5番ホールは137ヤードショートで彼は何とはじめてのパーを取った。彼の顔は上気して、赤くなり、嬉しさが込み上げてきた……。

「こんな難コースでパーを取るなんて奇跡に近い。オレもプロ級だな……」

 このころから饒舌になってきた彼であったが、身体が暖まり、何時も以上の力が湧いて来るのだった。

 水野 5

 持田 4

 斉木 3

「さすが、斉木さんパーですね」

 一喜は大声で褒めちぎった。

「……でも、難しいホールですね。曲がりは許されないですね」

「僕もソフトボールの大会でセンター返しの二塁打を打ったことがあるが、ゴルフにも影響してますね」

「真っすぐに、飛ぶのが基本ですね」

 一喜も調子が出てきて「これは行けそうだ!」という予感が泉のように湧いてきていた。

 このショートホールで自信が付いてきた一喜はゴルフの醍醐味を味わうこととなった。

 第6ホールは315ヤードのミドルホール。

 パー4をなんなくダブルボギーの6だった。一喜はリズムに乗ってきていた。

 水野 5

 持田 7

 斉木 6

 であって、上手い人たちもスコアを纏めてきていた……。

 第7番はミドルホールの384ヤードで一喜はボギーの5であり、完全に波に乗った。得意の三番アイアンが冴えてスコアは安定してきた。

 普通のコースと違うシニア選手権を行うコースは、それだけの技術がいるが、

山岳に近いコースなのでアップダウンがきつく。平坦のコースとは違った難しいコースばかりだった。その中でのスコアの良さには信じられなかった。

 水野 7

 持田 5

 斉木 4

 グループの連中も水野さん以外は驚異的なスコアであり、さすが、シングルプレーヤーの力を見せつけられた。同じ組の人が上手いとこんなにもスコアが纏まるのだなと実感した一喜は気分は爆発しそうだった。

「何年ぶりかな、こんな楽しいゴルフをするなんて……」

「やつぱり、シングルプレーヤーに囲まれるとスコアが伸びるんだな」

 一喜は九州で磨いた腕が光り輝き出してゴルフを満喫を味合うこととなった。

 彼のアイアンはキャロウエイのPAT PEND USAは切れ味鋭く。殆どフェアウエイを捉えていた。下秋間の難コースを征服するのには相応しいツールであった。

 今までの筆降ろしから日じまった集大成として入れ込んでいた。

 第8番ホールは得意のロングコースで495ヤードの自信のある距離であり、細いフェアーウエイで左にドックレックした難コースだった。彼は8を叩いてしまった。得意なホールをスコアは纏まらず無念の表情を浮かべていた。

 水野 7

 持田 6

 斉木 7

 仲間の全てのドン尻であったが、二桁叩かなかったことは幸いだった。ゴルフはメンタルなスポーツなので「今日はダメだな!」と感じた途端にスコアが乱れるので、気分転換して直ぐに忘れることも重要だ。

 次はコースは前半戦最後のホールだった……。

 ミドルホールで388ヤードの左ドックレックで割と普通のコースだった…。一喜は6であったが無難に纏めた。

 水野 4

 持田 5

 斉木 4

 で彼以外のメンバーは素晴らしいスコアだった。

 クラブハウスに行くと先にスタートしてる組は、もう既に食事中であったが、スコアを聞いた他の連中は我々のグループの中から優勝者が出るのではないかと噂になった。

 前半のスコアは集計すると

 伊佐木 54

 水野  53

 持田  46

 斉木  46

 この難コースでの斉木か持田の中からベスグロが出るかもしれないし、伊佐木もハンデで優勝候補だと言われた。

 一喜は狭いフェアウエイでのリズム感が良いのはゴルフ上手いシングルプレーヤーに引っ張られてプロの世界(バックティーではないが)を味合うことの楽しさをプレゼントされ、グループに感謝した。

「これ程までにゴルフって楽しいスポーツだとは思わんかったよな」一喜の頬は緩みっぱなしだった。

「ゴルフって、上手い人と廻らなければな……」

グループに感謝して笑顔は消えなかった。

「それにしてもシニアプロのコースで、このスコアだからね」

「結構、グリーンも早いし……」

「フェアウエイも細く、真っすぐだったよな」

「真っすぐに飛ばない人は難しいコースだね。それにしてもゴルフのスコアはコースによるんだね」と一喜は実感した。

 後半のラウンドはゴルフ場の自然がピンク色に染まった気分になって気分を良くしてスタートラインまで足を運んだ。まるで勝利した凱旋門将軍のよう……。

 第10番ホールはミドルで324ヤードだった。

 一喜はドライバーを真上に上げてフェイス部分の位置を確認した。ドライバーの先にはスカイブルーの空が開けて、絶好のコンデションだった。

 フェアーウエイは広く緩やかな左ドックレッグしていたので、思いっきり振り切った。「ナイスショット!」メンバーから同時に声が上がった。

 なんなく、全員ダブルボギーの6で挙がった。一喜のスタートとしては申し分なかった。全員、表情は明るく自信に満ちていた。

 シングルプレーヤーは相変わらず安定していて崩れなかった。

「みんな上手いなぁ」

 つい、一喜の口から声が漏れてしまった。それにしても二人のシングルプレーヤーは相変わらず無口だった。「ゲームに集中しているのだな!」一喜は学習した。

 第11番ホールは289ヤードで右に極端にドッグレッグしていたので、スライスしても理想的な位置にボールを付けることが出来た。

 このホールも一喜は思い切って振り切った。

 二打目はすべてのメンバーがグリーン手前にボールがあった。

 一喜はダブルボギーの6であった。

 水野 6

 持田 4

 斉木 3

「斉木さんバーディーですね。素晴らしい!!」

 一喜は目を丸くしながら、シングルプレーヤーの凄さを目の当たりにして吃驚していた。

「……でも、平常心、平常心」と自分に言い聞かせていた。

 それにしても、目の前でバーディーを見せつけられると自分の気持ちは焦りに変わった。「パー4のコースで3ですからね」

「ドエライことですよね」

 水野さんもさすがに頷いていた。顔色は青かった。

「あまり、見たことないですね」

「幸せですよね。目の前でバーディーをみられるのですから……」

「この難コースでバーディーは立派ですよね」

 それに吊られての一喜の6も良かった。

「ゴルフは上手な人と廻るべきですね」

「そうですね。穏当に……」

「これこそ、プロの世界ですよな!」

「はじめて、この難コースでバーディーもみましたよ」

 だが、二人のシングルプレーヤーは当然、無言だった。

「あぁ、ゴルフというのはこうゆうスポーツなんだな」

「自分の殻に閉じこもらねければ、いいスコアは出せないな」

「実力の差が歴然と出るスポーツなんだな」

 まだ、一喜はバーディーの余韻に浸っていた……。

 第12番ホール297ヤード、ミドル。

 ドライバーを打つときにの膝の曲げ方はスキーにそっくりと想いながらショットした……。真っすぐに近いコースレイアウトだったので、無理せずセンターへボールを転がすことに集中した。率直に……率直に、只それだけを心掛けて狙った。

 一喜はダブルボギーの6であった。

 水野 5

 持田 5

 斉木 6

 で斉木さんと同スコアでホッとした。かなりいけそうだな……。

 グループのスコアは全員纏まりだし「これは凄いことになるな」と予感する

一喜だった。

「この組から優勝者がでるな」

「まるで、プロの世界ですね」

「みんな調子があがりましたね」

 と一喜も静かに語った。

 相変わらず水野さんと一喜は冗談をいいながらの勝負だっが、後の二人は無言だった。

 第13番ホールはパー4であったが、水野さんだけが6で、あとの3人は全員ボギーの5だった。

 第14番ホール112ヤードのショートホール、パー3であったが、持田さんのバブルボギーの4以外は全員ボギーの3であったシングルプレーヤーと同スコアに近づいてきた一喜はもともと、技術力はそれに近かったが、53歳という年齢による持久力の問題があったが、今回はスコアが上がってきたので、そんなことは忘れてしまっていた。

 第15番ホールは373ヤードのミドルであり、ここで心の油断からか一喜は倍の8を叩いてしまった。

 水野 5

 持田 4

 斉木 5

  上手い人は纏めてきていた。

 第16番ホールは561ヤードのロングコースであり、一喜の得意とするコースでパー5をボギーの6で纏めた。

 水野 10

 持田  7

 斉木  6

 ……で、シングルプレーヤーと同じようなスコアで一喜は満足だった。

 第17番ホールは119ヤードのショートホールであり、一喜はバギーの4で上がった。

 水野 5

 持田 3

 斉木 4

 手前に池でバックが崖という難コースをパー取った持田さんはプロ並みのスコアだつた。

「我々のボギーも凄いスコアだったと思ったのにパーですからね」

「これは、正しくプロですね!」

「このグループのスコアは凄すぎますよね」

「ほんとうですね」

「僕もここまで、46ですよね」

「優勝候補ですよ。ハンデから言って!」

こんな大きな大会で40台のスコアが出るかなと想うと、優勝の二文字が頭に浮かんできた。

「この難コースで40台!」

 信じられないことが起こるかもしれないと一喜の肩に力が入り込んできた……。

 最後の15番ホールは505ヤードの得意なロングコースだった。だが、フェアウエイが狭く右にドックレックして難コースだった。

 彼は集中していたが力みを感じながら身体に力が入りながらで、カチカチになっていた。

「こりゃ、不味いな!」

 メンタルスポーツのゴルフにとって、自信過剰は余計であり、冷静さを戻そうとしたが遅かった。

 最悪の9を叩いてしまって、優勝の望みは消えてしまった。

「10叩かなかったのはいいが、優勝はないな」

 水野 7

 持田 6

 斉木 4

 だった。

「斉木さんバーディなんだ!」

 思わず大声で叫んでしまった。

「このホールでバーディーを取るなんて信じられない」

「これこそ、プロの世界だな」

 斉木さんのシングルプレーヤーの凄さを見せつけられていた。

「それに比べて、僕はダメだったな」

 口惜しさと悲しさが込み上げてきた……。

 後半のスコアは

 伊佐木 54

 水野  54

 持田  45

 斉木  43

 であった。水野さんとは同スコアだったが斉木、持田のスコアは途轍もないスコアだった。

「さすが、シングルプレーヤー!!」

 想わず声を上げてしまった一喜であったが、彼等に吊られての54の一喜のスコアもハンデからして立派なスコアだった。

 うな垂れながらクラブハウスへ行き少し待つと。

 伊佐木一喜

 OUT 54

 IN 54

グロス 108

ハンデ 33.6

ネット  74.4

で、準優勝だった。

 優勝は同じ会社から出向していた営業の畑山で70.8だった。

「営業はやる回数が違うからな……」

「それにしても最後のホールは悔やまれるな」

 口惜しさが顔に現れている一喜だった。

「上手い人と廻ったのが良いスコアをもたらしのだ。シングルプレーヤーありがとう! こんな楽しかったゴルフはじめてだ……」



第2話 ゴルフの筆降ろしの時……。


 確かハーフで80台だった。場所も明確に覚えていないが……。

 箱根近辺のゴルフ場であった。箱根〇〇カントリークラブだった気がする。

 気持に余裕がなく。最初はホールインするか不安だった。最初のコースは勿論二桁であったが、正確の数字は覚えていない。

 はじめてのショートホールで当時はアイアンがまともに打てなかったので、ドライバーで打ってワンオンした記憶がする。これは奇跡に近かかった。ドライバーは何時も、素振りをして練習していたので、自信はあった。ウッド関係は上手くなってきたので、1番から5番まで揃えた。木の①②③④⑤番であったが、②番はなかなか、なかった。少し遣る内ににウッドだけでは安定しないことを悟り、一喜は寄せや、アイアンが打てないとスコアが纏まらないことに気が付いて、リン

クスのアイアンを買い。特に3番を中心に練習に明け暮れたが最初の内は想うように行かず苦労した……。

 3番がスムースに打てれるようになったからはスコアも安定してきた。筆降ろしの時には先輩のコピーライターから教わりながらのラウンドであったが、スキーの時と良く似ていた。まったく、ド素人だった一喜のデビューは人騒がせなラウンドだった……。

 その内にヘリコプターの轟音が響き。ゴルフ場にやってきたのは、キャディーに聞くと当時の政治家、田中角栄だったという。

「忙しいので、こうゆう遣り方もあるんだ」と一喜は吃驚仰天した。

「途中からラウンドしてるのか。セキュリティーもあるからな」

 と一喜も驚き、桃の木、桜の木だった記憶がある……。

 重なる仰天にゴルフのボールがホール(穴)にはいるのかなと不安は増大していった。

「コンペの邪魔をするのは政治家(権力者)以外にないのかな」

 と動揺しながらのゴルフはたまったモノではなかった。

 お尻も良く洗わなく急いでのラウンドしてしまい。パターの時に屈んだとたんに臭い匂いがしてきて、先輩に気がつかれないかなと心配しながらの情けないゴルフだった。

 伯父から譲り受けた山村聰のコマーシャルで有名だった白いクラウンを運転しながらのゴルフは散々だったと記憶している。

 年齢は30代の前半であった。まだ、新婚当時だったが、20代はスキーに明け暮れていたので、30代からのゴルフの成長も早かったのは基礎体力が付いていた証拠だった。

 ゴルフを練習していくとスキーとゴルフの筋肉の使い方に共通点があることに気が付いたのだった。足や腰をスキーで堪えていたので、下半身がしっかるりとしていたことは幸運だった。上半身だけで勝負するとスポーツはダメであって、下半身がキーポイントなんだと途中から気が付いたので上達は早かった。

 家の庭に芝生を植えて、穴を開けてパターの練習に明け暮れたので、パターには自信があった。

 練習も我孫子というゴルフの練習場に恵まれた場所に一軒家を買って、河川の打ちっぱなしで休日には練習したので、上達は割合と早かった。

 長い間、50台半ばをウロチョロしていたが、自宅近くに河川コースのニッソーゴルフ場の平日の会員権を買い。土曜日にできるので、良く行ったので、平のコースだったので、40台後半も出るようになった。九州単身赴任時代には、姪が浜にあるゴルフ練習場に休日には練習をしに行っていたので、スコアは纏まり出して、どんなコースでも50台前半で纏めていた。これだけ安定していたのはリンクスの3番アイアンを得意とするようになったアイアンの練習の入れ込みにあった。

 九州は冬でゴルフが出来。練習には十分だったが、ゴルフ場のラフは傷んでいてアイアンショットの穴がボコボコ開いて荒れているので、関東近辺の箱庭コースとは違ってトリッキーで難しくスコアは乱れる難しいコースだ……。

 九州での赴任最初のコンペは九州カントリー倶楽部、春日原ゴルフ場で行われた……。

 支社の営業からはじまって、全ての部が参加するゴルフ大会であったが、5月に赴任した一喜の歓迎会を含めたコンペであり、総勢50人の参加だった。

 場所は春日原と漢字で書いて『かすがばる』と読むそうだが、本州とは違った読み方に戸惑った。

 スコアカードには……。

 ローカル・ルールスというルールがあり……。

 本ローカル・ルールスに適用のない事項は全てJ・GAに依るものとする。

 と書いてあったので、彼は安心した。

「殆ど、本州と変わらないな!」

 と一安心した。

 OBは白杭、アンダー・リペアーは青杭又わは白線ウォーターパサートは境界は黄杭を以って示す。№10の第1打がOBとなった場合は次打を指定の場所より第4打としてうたねばならない等々……。殆ど本州と変わらないルールに一安心する一喜だった。

 メンバーは

 支社次長の畑間さん

 総務の松本さん

 営業の山崎さん

 マーケ・CRの伊佐木一喜

 だった。

「開けて吃驚、支社次長と同じグループか!」

「これは神経使うな!」

 と内心想ったが口には出さなかった。

 スタートは345メートル(本州ではヤードが多く、メートルは珍しい)の表示だった。

「メートルか? こういうところが違うんだな。ちょっと、厄介だな」

 口先でモゴモゴ言いながらのスタートだったが、無難に纏めて6だった。

 畑間 5

 松本 6

 山崎 6

 九州ではじめての割には落ち着いていた。

 ゴルフは、はじまってしまえば、地位も関係ないと割り切っていた……。

 一喜は勇気もあり、平気でプレイに集中していたが内心「勝負してやろう!」と、その気になっていた。天候も良くゴルフ日和でメンバーの多い大会の割にはスムースに進んでいった。

「芝は荒れているなあ、冬もゴルフができるから……」

 所々、アイアンショットの跡が残っていて本州では考えられないコースで気になったしょうがなかった。全体的にはトリッキーなホールが多く。いきなり池越えだったり、谷は深く。技術の要するコースだった。

 リンクスの3番が冴える一喜のゴルフはスコアは安定していた。

 ハンデ30を貰っていたので、気が気ではなかった。

「OB叩かなければいいや!」

一喜は気楽にスタートが切れたことで、楽しいゴルフになつてきた。

彼の表情も明るくニコニコ顔だった……。

 第2番ホールは414メートルの長めのミドルであった。

 一喜は無難に纏めて7だった。

 畑間 7

 松本 5

 山崎 6

 まあまあだったが、一喜は九州のゴルフ場の特徴が徐々に掴めてきた。

 支社次長と廻っているせいか支社の若い二人は口数は少なかった……。

 一喜は47歳で本社のクリエーティブ局25年の自信で、支社次長を憶することなく対等にあたった。

「支社に来て働いて遣るんだぞ!」との大きな気持でいた。クリエーティブもマーケとクリエーティブの集合体であったが、便利な面もあった。本社では考えられないことであった。真の企画と制作が同じ部という便利さは競合にも強さを出せるチャンスであり、小回りの利く組織だった。場所は1階と2階に分かれてはいたが、打ち合わせは会議室で行うので、あまり関係がなかった。支社のマーケもとらばーゆを考えたスタッフなどがいて強力だった。戦略的には揃ったスタッフであり、プレゼンには強力な味方だった。本社から何人かの営業も赴任していたが、本社の人たちでたむろすることだけは避けた。できるだけ早く地域に溶け込んで仕事をすることを心掛けた。制作費などの価格が安いのにはヘキエキしていた……。広告制作の料金が大阪支社の半分が九州であり、東京本社の半分が大阪支社の料金だということだった。

 支社の気質は明るく元気であり、男性的な雰囲気は一喜にピッタリしていた。

ゴルフも男性的で豪快ソノモノだった。一喜は寄せなども得意としていたが、パターもそれなりに上手くフェアーウエイの荒れには別に気にはならなかった。

 第3番目の328メートルで、一喜は7を叩いてしまった。

 畑間 4

 松本 6

 山崎 6

 畑間支社次長はパーを取ったが他のメンバーは普通のスコアだった。

「そこそこ、行けるな!」

 彼は自信を深めた……。

「……まぁ、気楽にいこう!」

 晴れ上がった天気のように一喜の気分も晴れやかであった。

「そこそこ、行けるな!」

 口には出さなかったが、そろそろ馴れてきていた。

「九州のゴルフも、そんなに変わらないな!」

 自己紹介を含めてのゴルフは遊びではなく。ビジネスそのものだった……。

 休日なのに出社と同じで、賃金なしの仕事だった。

「会社なんて、全てではない。人生のほんの一部であって、休日にギャラのない仕事じゃ、割が合わないな!!」

「会社人間にだけにはなりたくないと思いたいが、正に、会社人間だな」

「……でも、ゴルフも人生そのものなんだな」

 馴れるに従って、心に余裕が出来。実力以上の力が出てきた……。

 第4番目のホールはパー4を一喜は6で挙がった。

 畑間 5

 松本 3

 山崎 6

 であったが「松本さん、バーディーですね。凄いですね!」

 全員がスコアをそろえる中、一喜に自信が蘇ってきた。

 第5番目のホールは252メートルのパー4で、何と、はじめてのバーディーをとって3で上がった一喜だった。

 畑間 4

 松本 6

 山崎 4

 他のメンバーもスコアを纏めてきていた。

 それにしても一喜のはじめてのバーディーに

「……興奮しましたね。頭は真っ白になりましたよ!」

「最初の九州でのゴルフでバーディーが取れるなんて幸運だよな」

「伊佐木さんのハンデ本当なんですか」

 山崎から不満の声が上がった。

 年若き山崎が音を上げるぐらい一喜の調子は良かった。

「……40台だせそうだな!」過信したのがいけなかった。

 第6番目のホールは148メートルのショートで一喜は倍の6を大叩きをした。

 畑間 3

 松本 4

 山崎 4

「畑間さんパーですか。さすがですね!」

 過信がいけなかった。素早く平常心に戻れば、落ち着けたのに、勝ちを意識し過ぎて失敗。メンタルスポーツの怖さを知った一喜は反省していた。情けないゴルフに……。

 第7番目のホールは431メートルのロングミドルでパー5で一喜は8とまたまた、大叩きした。

 畑間 5

 松本 5

 山崎 7

「……もう、ダメだな!!」

 一喜の口から力ない呻き声が聞こえた。

「気分転換して勝負しなければ……」

 地元の連中はスコアを纏めてきたことはしょうがない自然の摂理だった。

「オレの力も、この程度かな……」

 明るく割り切ったら、スコアも上昇しtきた。

 フェアウエイのグリーンも鮮やかなイメージに変わり、小鳥たちの姿も見えるように、心が落ち着いてきた。平常心に戻った。

「自分の自信以外にゴルフはない!!」

 第8ホールは319メートルの短めなミドル、パ-4を一喜はボギーの5で纏めた。

 畑間 5

 松本 6

 山崎 6

 普段の実力が出てきた。

 第9番目のホールは136メートルのショート、パー3を一喜はボギーの4で上がった。

 畑間 4

 松本 3

 山崎 5

 「松本さんはパーでしたね」

 全員調子は上向いてきた。

 普段通りの実力が出てきた一喜はハンデが30なので、優勝候補であるとクラブハウスに戻ってから分かった。

 想ったよりもいいスコアだったので、ご機嫌だった……。

 昼食も簡単にして、後半のスタート地点に足を進めた。

 気分は爽快で晴れ晴れとして、自己紹介も兼ねたゴルフコンペとしては上々だった。

 スタート地点までの小道は勝利が近づいてくるような感じで生き生きと歩んでいた……。

 第10番目のホールは153メートルのショートホールであり、思い切って3番アイアンで思い切ってショットした。

「ナイス ショット!」一斉に声が上がった。

 難なく、フェアウエイをキープ。

 一喜は5で上がった。

 畑間 4

 松本 5

 山崎 7

 自分のゴルフが出来てご満悦だった。

 第11番ホールは465メートルのロング。

 得意なロングだったが、スライスして8の大叩きをしてしまった。

 畑間 6

 松本 6

 山崎 6

 地元、九州勢はバギーのオール6で一喜のみが蚊帳の外だった。

「他者に貢献しちゃったな!!」

 スバル・レックスコンビの軽を自宅より持参して一喜は九州のアクセスの悪い唯一の足として使った。ゴルフ場は辺鄙なところも多く。大いに役に立っていた……。

 九州カントリー倶楽部 春日原コースは、福岡から国道3号線で進み、航空自衛隊のある県道5号バイパスを大脇GSを右折して緩やかなカーブを走るとゴルフ場に出る。当時はナビが付いていなかったが、地図を頼りに間違いなく辿り着けることの出来る場所にあった。

 車に依る恩恵によって解る場所であって、会員数1,340名の立派なコースだった。キャディーは50名いて、アウトは男性的な山岳コースであって、一喜が苦戦するのも頷けた。フェアーウエイは広めであったが、上がり下がりの激しいコースで第一打の落下点が要求され、セカンドもホールごとに異なる特色があった。クラブを選ぶに相念しながらのラウンドだった。

 第12番ホールは310メートルのパー4であった、一喜はボギーの5で上がった。

 畑間 4

 松本 5

 山崎10

 畑間次長はパーであり、日頃のコース馴れでスコアが纏まってきていた。インに入り10番目のホールから池越えショートホールがはじまり池と立木でセパレートされフラットでありコントロールショットが易いがケガも多い。山崎さんのスコアが証明していた。

 畑間さんはコントロールショットが冴えてスコアは纏まり出していた。松本さんもそこそこに纏めていたが、一喜は波があり過ぎて慣れないゴルフ場の魔物の住む池にボールが吸い込まれることも多く。出入りの多いゴルフをしていた。

 アウトの山岳コースの方が楽だった一喜は苦手の池に苦戦していた……。

「……想うようにはいかないな! 大浪小波の繰り返しか」

ボヤキ捲る一喜だった。

 第13番目のホールは127メートルのショートホールでパー3、一喜はボギーの4だった。

 畑間 4

 松本 4

 山崎 6

 スコアが纏まり出したかなと思った矢先に……。

 第14番目のホールで倍以上の9を叩いてしまった一喜だった。

  畑間 4

  松本 5

  山崎 6

 池越えが苦手な一喜のスコアは纏まらず午前のスコアが嘘のように大波小波スコアに明け暮れてしまった彼の頭の中には優勝の2文字は消えていた……。

「早く、終わってくれないかな」という言葉ばかりが残ってしまい。池、池、池に敗れた悔しさだけが滲み出していた。明るかった前半とは別人のような表情にゴルフの難しさを表していた……。

14番は池越えもなく普通のコースだったのに、倍の9を叩いてしまったのは、インのスタートの10番ホールの池越えが影響していた。一喜は池越えは苦手意識があり、池にボールが落ちそうな気がしてビビることが多かった。苦手意識を忘れようとして、打つのであるが、脳の何処かに苦手という文字が残っているような気がしてならなかった。思い切って打つよりも安全を狙いすぎて、手がちじこまってしまうのだった。優勝の2文字はすっ飛び、うな垂れていた。

「もう、嫌だな! 池が多すぎて……」

 ボヤキながらのラウンドはスコアが良くなることはなかった。悪い方へ悪い方へと考えが傾き、自信がなくなったいた。

「伊佐木さんのハンデ、ほんとうに30ですか?」

 嫌味を度々言う山崎には参っていた。

 そういう山崎も営業なのに、苦戦を強いられていた。

「……ハンデは正確だよ。正しいハンデだよ!」

 何度もいう山崎の嫌味にヘキエキしていた。

「……でも、支社次長の畑間さんはインでパーペースじゃないですか」

「自分のコースだからね!」

「そうか、会員だったのか……」

「だから、スコアが特別いいんだな」

「それじゃぁ、仕方ないな……」

「負けて当たり前だな」

「はじめてのラウンドにしては立派なスコアですよね」

「アウトは良かったけど、インはダメだな」

「悪い癖が出てしまってね」

「僕も池は苦手ですよね」山崎も言った。

「池がないと思って打てばいいんだよな」

「でも、意識しますよね」

「実際あるんだからね」

「馴れだろうな」

「九州のコースはイン、アウトが違い過ぎるよな」

「関東の箱根のコースなんて、ここに比べれば、箱にはコースでやさしいよな」

「そうなんですか?」

「遥かにらくで、フェアーウエイがまるでグリーンなんだからんね」

「ほんとうに、そんな手入れをされているんですか」

「嘘つかないよ。一度、ご一緒しようよ」

「機会はないけども、いいですよ」

「九州のコースに揉まれれば上手くなるよな」

「冬も出来ますからね……。恵まれていますよね」

「だけど、そのために、フェアウエイが荒れているよな」

「アイアンでボコボコですよね」

「まあいいや、後のホール頑張ろうぜ!」

第15番目のホールは209メートルのパー4の短めのミドルであった。

 一喜はボギーの5だった。

 畑間 3

 松本 5

 山崎 4

 みんな同じようなスコアで纏めてきた。

「みなさんプロ並みのスコアですね!」

 と一喜は高めの声を張り上げた。

「全員調子はいいですね」

 山崎は応えた。

 フェアウエイの中央部は芝が黄色く変色していた。それ以外のグリーンは緑深い色で、五月晴れの空に映えて目が眩しいかった。男性的な九州の天候、ゴルフ場は烈しく難関を覆い被せていたので、プレーヤーは時々、悩まされていた。所々にある池に邪魔されて一喜のスコアは想ったよりも伸びなかったが、優勝を諦めてからはモヤモヤがなくなってプレーに集中してきた。

 技術があるのに、池に邪険にされた口惜しさはのっぺりとしてロクロック首のように目鼻立ちがなく能面のような表情でプレーする彼であった。

 池の杭が僅かに覗く方へとボールが誘われる一喜は腹立たしい思いをしながらプレーを続けていた。馴れない九州のコースに手を焼きながらのプレーは身体に良くはなかった。

「池に魔物が住んでいるんじゃないのかな」

 一喜は思わず叫んでしまった。

 彼の不安は浮き上がる自信のないゴルフが頭を持ち上げてきたが、自分より頼るモノがないので、信じてプレーをしていた。

 遠方の松らしい木にも眼中になく、只黙々とプレーに集中していた。

「ゴルフも思いどおりにいかなな!」

 嘆き節が聞こえてきそうな一喜だったが気を取り戻してプレーした。

「ボールがホールに入るのかな」自信のなさだけがプレーの邪魔をしたが

「スコアなんてどうでもいい。ゴルフを楽しもう!」

 まるで敗残兵のような気持になっていた。

 「勝負の世界は勝たなければしょうがない」

 支社次長の手前、試合を投げるわけにもいかず、只、プレーを続けていた。

 前半のゴルフが嘘のようになってしまい投げ出した気持だった。

「チキショウめ!」

 一喜以外のメンバーはスコアを上げて行く中一喜だけが孤独の旅を続けていた。

「最初が良かったので、舐めた結果だったな」

惨めなゴルフだったが自己紹介も兼ねているので、気を取り直してプレーしたが、メロメロだった。

「つまらないゴルフをしたな」

「……ハアァー」自然に溜息が出てきたのだった……。

 スポーツの世界でもゲームになると精神的なウエートが高くなる……。

頭で考えることになるのであるが、思うように身体が動いてくれない。特に勝負になると感情が入ってきて悔しさが倍加する。一喜は最後の望みをかけて攻めに攻めたが、それがかえって裏目に出た。

 池は守りのゴルフの方が怪我が少なくて済むが、攻めるとかえって池ポチャやOBになって倍返しの負傷になってしまうので痛い。

 バンカーだけのホールであれば、怪我は少ないが、池の多いコースはペナルティーなどの事故が出て、思ったよりもスコアが伸びない。

 惨めな試合になってしまった一喜であったが、まだ、終わったわけではない。

「このコースは極端ですね……」

「何がですか?」

「アウトとインが違い過ぎるね」

「それは言えますね!」

「アウトは山岳で……」

「インは池が多いね」

「変化を付けているのではないですか」

 山崎は冷たく応えた。

「確かに……。変化はあるんだけど……」

「……見た目よりも難しいコースですね」

「そうだろう!」

「スコアが纏まりにくいね」

それにしても畑間さんはスコア凄いですね」

「後半はパーペースだったね」

「この難コースでパーペースとはすごいことですよね」

 九州の連中の上手さは評判通りだった。

「僕は、今日は乱れていますけれどね」

「……でも、山崎さんも要所、要所で纏めてきてるじゃありませんか」

「そうでもないですよ。いつもは、こんなスコアではない!」

「営業の割には酷過ぎるよね」

「そんなこともないですよ」

「僕が足を引っ張っているからな」

「そうでもないですよ。伊佐木さんの方が好調ですよ」

 半分やる気が失せた一喜は他人事のように呟き、気のない返事をしていた。

 山崎も普段の力が出ないで苦労していた。

「池も何だか深いような感じがするね」

「……そんなようには感じませんが」

「いつも、見てるから解らんよな」

「人工の池のようですな」

「それはありますね。だけど年月が経っていて、分かりませんね」

「そんなに、池を気にするんですか? 気にし過ぎですよね」

 もう既に、アルバトロス(3打少ない打数でホール・インする)を連発する以外に勝利の女神がほほ笑むことはなかった……。

 第16番目のホールは432メートルのパー5のロングコースだ。一打目はドライバーがヒットしてフェアウエイのド真ん中にボールは転がっていた。二打目はアルバトロスを狙って、3番アイアンで勝負したが、ダフッてしまい林の中、このホールは一喜は7叩いてしまった。

 畑間 6

 松本 8

 山﨑 5

「山崎さんはパーですね!」

 一喜は、ホールの穴をモグラが大きく穴を広げて貰いたいぐらいな気分で、このホールを終えた。グリーンの穴に一つでも早く辿り着ける目論見は泡と消えた。いよいよ、追い詰められていった。

「ちくしょうめ。なかなか思い通りにいかないな」

 幾ら嘆いてもあとの祭りだった……。

「アルバトロスも難しいな」

「プロでもなかなか、出来ないからな」

 自分のゴルフの不甲斐なさに失望していた。

「……うむ、負けたな! 特に畑間さんには……」

 もう、後の言葉はでなかった。

「……後、2ホールだな」

 第17番、18番はミドルで

 一喜 7・8

 畑間 5.4

 松本 3.5

 山崎 6・5

 で全ては終わった。

 一喜はインで58で60を叩かなかったことを慰めとしたが、山崎さん以外のメンバーはスコアは良かった。

 畑間さんはトータルスコア82で優勝。これだけの大々的なコンペで優勝とは立派だった。

 松本さんは91で上位にだった。

一喜は110でハンデ30のために上位三分の一に入る健闘だった……

 松本さんは102だったがハンデにより一喜よりも低く下位に甘んじていた。

「伊佐木さんのハンデほんとうに30ですか?」

 山﨑は嫌味を最後に言って悔しがっていたのが印象的だった。

「ほんとうなんだよね」すまし顔で一喜は内心安心していた「まぁ、上位3分の1に入れれば上出来だったよな」

「営業の山崎さんよりも上位で悪かったね」

 と嫌味を言いながら山崎に応えた。

「後半が悪すぎたな。勿体無いことをしたな」

 後は、反省のみの言葉だった。

 畑間さんはクシャクシャの普段オフィスでは見せない笑顔だった。

「僕の自己紹介も上々だったな」

 一喜は畑間さんから紹介されて頭を下げた。

 



 第3話 ブルーに染まったクラブハウスまでは憂鬱さだけが残っていた……。


 盛大なパーティーであった。前に紹介さtれたのに、もう一度

紹介で「伊佐木一喜です。よろしくお願いいたします」と今度は丁寧に頭を下げた。短い挨拶であったが一喜は口先よりも実行だなと思い。頭だけ下げた簡単な挨拶だった。スコアも忘れて、これからの支社ではじまる希望と不安をかかえながらの出発だった……。

 座ってから前方を見ると、おおきなゴルフ場の一枚の絵が飾られていた。名前は忘れたが外国人の有名な作家の絵であることに気が付く一喜だった。

「いあやぁ! いい絵だなぁ! これは有名な絵だよな」

 独り言を言いながら、ゴルフの疲れを癒すのにはピッタリの絵だった。

「色は落ち着いているけど、構図は上手いなぁ」

 帰りは運転するからノンアルコールでのビールでの乾杯だったので、酔っぱらっていないはずだったのに……。

 その絵は騙し絵のように角度を変えるとある人物の顔が浮き上がる仕掛けになっているのに気が付く一喜だった。

「誰かに似ているなあ。誰だっけ?」

「誰だろうな?」

 なかなか想い出せなかった彼であったが、時間が立つうちに……>

「そうか、あの有名なアーノルドパーマー(フロリダ・オークランドにあるベイヒルクラブ&ロッジ所有)だ!」

「アンブレラーのマークの金髪のおじさん!」

「十八ホール回りきる集中力が必要だ!」

「日頃の脳のストレッチが必要だ!」

プレー前日にプレーするコースの18ホールを頭の中にシュミレーションすることで、当日も集中してプレーできると……」

「……達人は違うな!」

「やっぱり、コースを理解している人が有利なんだな」

「そういう意味では畑間さんの優勝は当然だし、一喜のスコアも満更でもないな」

「自己紹介ゴルフではいい位置につけたな」

 そう思って自分を慰めた。

「まあ、成績はどうでもいいや」

「これで支社の中で少しは顔を覚えて貰ったな」

 軽い気持ちにんっていた。

「いい音楽だな」

「誰の曲だろうか?」

「ひょっとしたら、オレの卒業制作のレコードジャケットのラヴェルじゃないかな」

「珍しいな、こんなところで、こんな曲が聞かれるなんて……」

 一喜の心は震えて感服しちた……。

 美大の卒業制作に現代音楽のドビッシーからはじまり、バルトーク、ラベルの中で、バルトークとラベルが好きだったので、レコードジャケットを制作することにした。

 一喜は大学3年の後期にリズムというテーマでレコードジャケットのデザインを提出して95点の最高点を取り、校内に展示されていたので、その自信がパワーの源になっていた。

 上野の文化会館の2階にクラシックを無料で聞ける場所があり、当時は何回となく通ったが、曲のイメージを叩きこんでから、何案もラフを考えてながら、制作にいそしんでいた。

 力強いイメージをどのように表現するか悩んでいたが、抽象のパターンが好きだったので、傾向としてはその方向で考えていた。

 角度によって見える、アーノルドパーマーはゲイリープレーヤー、ジャックニクラウスの当時は3羽カラスとして鳴らしていた。この世代に興味のある支配人はかなりの年配であるなと一喜は想像していた。「オレよりも10や20は年上だな」と思っていた。

 印刷ならば、専門家である彼はどのような手法か直ぐに、理解出来たが、油絵などの絵にかんしては専門外だったので、理解が足りなく。角度によって画像が変化するという技法まで理解するのは容易なことではなかった。

「……何でだろう?」

 一喜は首を捻りながら思案に暮れていた……>

 音楽が現代音楽。この支配人は美大卒のオレよりも音楽や美術に造詣が深い。

 実際に会って解明したい気持が湧いてきたが、会社のコンペだし、すぐには行動を起こせない状態だった。音楽もよっぽどの人でないと興味がない。「特に、ラベルなんて……」

 東京よりも文化面で劣っていると想像していた彼の脳裏には慌てた気持が起こってきていた。

「ここの支配人の趣味は高尚ですな」

「元々、ここの人ではないそうですよ」

 フルトベングラー指揮のベートーベンが好きな一喜はクラシックを打ち破った概念の作家の現代音楽に興味のあることは支配人のアートの先見性に対する興味を抱いている面に一喜は興味を持った。

 一喜自信はフランスの抽象作家ヴァズリーが好きだったので、卒業制作も抽象に決めていた。

「具象の方が解り易いんだがなあ」

 美大でも何人か集まってグループをつくっていた。

「新しいクラシックを造りたいな」

 希望に燃えた青春時代の一コマであったが、なかなか、優れた作品は出来ていなかった。その中の田山くんの作品が当時の日宣美に入選したと聞いてショックを隠せなかった一喜だった。

「同じ抽象クラブから入選が……」

「オレは負けたな!!」

「何でオレのはダメだったんだろうか」

「印画紙に焼いたブラックが暗かったんだろうか」

「田山くんの作品は確かに明るかったな」

 後悔しtもしょうがなかった。

「……人生付いていないなぁ」

「情けないなぁ」

 クラブハウスの絵はどうして、2つの要素を持っているのか?

 アートのプロである一喜は相念した……。

「多分、最初の人物画の上に下塗りをしてから、ゴルフ場の絵を描いたのではないか」

「……だから、アーノルドパーマーの絵はシェリエット風に見えてくるのではないのか」

「……だが、不思議だ!」

「ゴルフ好きな作者がパーマーを描き。暫くしてから、その上に外国人作者風にゴルフ場を描いた」

 音楽はドボルザークでもドビッシーでもラヴェルでも誰でもも良かったのかもしれない。「現代音楽だったら」

「……きっと、クラシック音楽を肯定しながら、斬新にしたいので、現代音楽のラヴェルの曲を使ったのだ。彼の曲は全体に静かな曲で、ストラビンスキーの『火の鳥』のような激しい音楽ではなく。静かなゴルフ場に合った曲を……」

「九州の人は革新的であり、東京志向で文化が進んでいるようだな』

「でも、支配人もオレのように赴任者かもしれないな」

「それにしてもラヴェルの曲を知ってるなんて相当な通だよな」

「ラヴェルの母はピレネー山脈の西、スペイン、フランスの国境であるバスク地方にうまれたんだ」

「歌と踊りが好きな方だったが、そこに、鉄道技術者として赴任したスイス人技術者が父となって、ラヴェルを生んだのだ」

「雑木林などの自然の多い地方であり、長閑な地方であったので、ラヴェルの作品にも影響を及ばしているのかもしれない」

「……いや、影響を及ばしているにちがいない」

「新奇であり、本然であって、受け入れられる」

「森と湖に囲まれたヨーロッパの自然が表現されている」

 ラヴェルの域に達するには相当な努力と才能がなければ、誕生しない曲であって、他の音楽が稚拙に聞こえてくるような錯覚になる。

 バスクの土地は景勝地であり、聖地名所類が多い別天地であって、それがの環境が彼の曲に影響を与えている。

 ピレネー山脈が西の大西洋に向かって少しづつ傾斜しながら起伏する山と谷の地方からガスコーニュ湾にかけてをバスクろ呼ぶ。

 自然の景勝地に生まれて育った彼の曲を聴くとなんとなく解るような気がする一喜だった。

 ガスコーニュ業の繰り返しを行うようになった……>

 絵画においても自然環境の影響は大きく。

「所詮、人工的なものは、自然の力に適わないのであろう」

「脳裏に刻まれた生まれ故郷の空気は消えることがない」

 どんなに、普通の人間が頑張っても、凡人では、曲すらも理解することができないし、増してや作曲などという大それた行動はできる訳がない…….。

 高趣味のクラブハウスに興味を持った一喜は畑間支社次長に支配人を紹介して貰った。

「伊佐木です。はじめまして……」

 名刺を差し出すと支配人は野原実という名前の名刺をくれた。

「ここへ来て、かれこれ5年になります」

「それまでは、何処にいらっしゃいましたか?」

「霞が関ゴルフ場です」

「埼玉県にありますね」

「そうなんです……」

「名門のゴルフ場ですね。あそこは男性会員だけですね」

「良くご存じですね」

名門はだいたい、そうなんですね」

「野原さんは何で、ここへ来たんですか」

「妻の実家が博多にありますから」

「その関係で……」

「妻の両親も年を取ってしまいましてね。お世継ぎがいないんですよ」

「そうでしたか、それは大変ですね」

「女2人の姉妹ですから」

「話は変わりますが……。それのしても見事な絵ですね」

「もともと、音楽や絵画が好きなんですよ」

「そうですか。でも高尚な趣味でいいですね」

「普通はゴルフ場はクラシックなどの落ち着いた曲ですね」

「確かに、名門ゴルフ場はお年を召した方が多いですからね」

「名前が九州カントリー倶楽部ですからね」

「昭和34ねんにオープン致しました」

「もう、かれこれ30年近くになりますね」

「そうなんですよね」

「アウトは山岳で、インは池が多い。極端に違うコースなんですね」

「そのことを、最初に聞いてたら、参考になったのにね」

「社長が設計したんですよね」

「失礼ですけど、結構、趣味的ですね」

「これだけ、アウトとインが違うコースははじめてなんですよね」

「そうですね。だいたいは同じレイアウトが多いですね」

「そのコースの特徴が出やすいからね」

「僕も吃驚しましたよ。はじめてのラウンドですから……」

「最初の人は違和感がありますよね」

「2回目からは慣れますよ」

「もう、遅いですよ!」

「ゴルフ大会は終わってしまったから忘れますよ」

「ところで、失礼ですけども、あの絵の制作者は?」

「地元のゴルフ好きなグラフィックデザイナーの方ですよね」

「それにしても面白い絵ですよね」

「気が付かれましたか。ギミックを……」

「最初は外人の有名なゴルフ場ばかり描いている作家だと思いましたよ」

「ただ、寄付なんですよね」

「……そうなんですか。無料ですか。凄いことですね」

 もう一度、じっくりと、絵を見てから、裏地のキャンバスを見て、フナオカであることを知ったが、絵具のレンブラントと共に、ブランド品であることに気が付いた。特色ウルトマリンなど、レンブラントの色そのものだった。

 早速、作者を紹介して貰ったが以外に当社の社員だった。

「お宅の社員ですよ!」

 と言われて一喜は吃驚仰天。

「安藤勇作さんですよ」

「芸大卒のあの安藤か?」

「芸大はデッサン力はあるけども、この絵は外人作家にそっくりだよな」

「オーダーを出したのですか?」

「好きなんですよ! あの作家が……」

「それなら仕方がない面もありますが、似すぎていますよね」

「私もあの絵が大好きなんですよね」

「色の感じは少し違いますね」

「この絵には南国の明るさがありますね」

「落ち着いた色の原作とは違いますね」

「この明るさはレンブラントの絵具しか出ませんね」

「うちの家内はムサビの油絵科なんですけど、それで、絵具やキャンバスのことを知ったんですよね。僕はグラフィックデザインだから、分からない部分があるんですよね」

「そうでしたか、それでも絵に関してお強いですね」

「空の色が違いますね。ブルーが鮮やかですね」

「九州の気候にピッタリですえ」

 考えてみれば、安藤はデザインの方はまあまあだが、デッサン力は確かだな……」

「歓迎会の2次会でくだを捲かれたけどな」

「酔っぱらっていたからな」

「本社ズラしやがった……」

「支社には支社のやり方があるんだからな」

「それはそうだけどもね」

「オレも単身赴任で来たからにはうやることはやらなければな」

「……だって、お前ら、どうせ、引っ掻き回しに来たんだろうに」

「そんなこともないけどね」

 何を言われても本社の代表としての役目は果たす意欲で、本社を背負ってきてるんだからなという意地は見せておいた。

「でも、オレもここへ来てるんだから解らないこともないが……」

「オレはそんなこと、微塵も考えていなかったな」

「なんせ、煙たい存在なんだな」と認識したが、酒の上なので、ビビりもしんかった。

「……だけど、本社で20年活躍したからな」

「それに単身赴任した意味がない」

 キッパリと聞き流した一喜だった。

「変なところに来たな」

「排他的なんだな!ここは……」

 恐ろしさと空しさが込み上げてきた……。



 第4話 博多単身赴任の生活は……。


 スポーツ面ではゴルフにテニスで、文化面では英会話と法律をマスターすることだった……。

 英会話はブリタニカ系の英会話教室に決めた、那珂川沿いの東急ホテルのビルにあって、会社から歩いて5分とかからなかった。料金は50万円であったが、月賦にして、2年間で月に2万円であった。タバコも酒も飲まない一喜だったので、どうにか、捻出することが出来た。

 外人講師による小グループの授業であって、半年に一回マンツーマンの英語での面接テストがあった。一喜ははじめての外人に習うこととなって興味を持っていた。

 一喜の講師はヨーロッパ系の金髪女性で小柄だった。皓が愛らしく美人の部類に属し、「イサキさん、イサキさん」とイントネーションが少し可笑しい喋り方であった。彼の好みのタイプで気に入っていた……>

 自己紹介からはじまる最初のフレーズは「マイネイム イズ イサキ」からはじまって、各生徒の自己紹介を聞いてから、テーマによる授業がスタートした。

 卒業した大学、住まい、生まれ故郷などお決まりのパターンだった。自己紹介がこんなにも大切なのかと英語と日本語の違いに少し戸惑ったが、確かに名刺のない欧米では喋って、自己紹介をすることの重要性は大切なんだと学習した一喜だった。日本語と一番違うところは「イエス、ノー」をハッキリさせるということを常に講師は唱えていた。「日本語のような中間言葉はないのですよ!」

「イエスかノー以外に行動はないのですよ」と学んだ一喜は「自分も変わらなければいけないんだな」と激しく教育された。

 英会話にはパターンがあって、それを覚えてしまえば、楽しく会話ができるようになってきた。

 発音に関しては、「ア」でけで、5種類もあって、それを峻別できるように舌を噛んだり唇を咬んだりしてしっかり基本に忠実に発音することだった。このことを激しく指導された。

 顔は優しかったが授業内容はハードだった。日本の会話教育は間違ってるなと反省する一喜だった。

「通じない英語なんて、何をやっるんだろうな」

「こんな楽しい英語があったんだ」

「良かったな外人講師で……」

 文法を重んじる日本英語は間違っていた。

「コミュニケーションがすべただな」

「英語のすべを遣り直さなければな……」

 外人英会話講師は夫が日本人で、日本語を話せるので便利だった……。

便利な先生だった。一挙両得で、二刀流の会話は冴えているが、日本語の発音では、イントネーションが可笑しい程度だった。

「イサキさん」語尾を上げるのは独特であった。

「イサキさん、イサキさん」と呼ばれると身体がむず痒くなるようであったが別に不快感があるようではなかった。

「まぁ、イッカ」と痩せ我慢していた。

 瞳はブルーで素敵だった。笑顔が輝かしく可愛い感じであったが、一喜好みだった。少し慣れたら喫茶店に誘おうと心に決めていた。何人かのグループで誘って英会話の学習をすることは許されていたので好都合だった。

「自分を見てニコニコするので好意があるのだろうか?」と内心想っていたが、実際には分からなかった。「営業用の笑顔かもしれないな」一喜は自信もなく。授業に集中しちた。

「それにしtも、感じの良い先生だな」英会話が好きになる感じであった。

「年齢は20代後半か30代前半のような感じだな」欧米の婦人に年を聞くのは失礼にあたるので実際には聞けなった。「エチケットだからな……」

「イサキさんは英会話初めてですか」いきなり言われて答えようもなく。「イエス」と言ってしまったが、心にもないことだった。「少しは中学から学んでいるよな」「全然、英語が喋れない訳じゃによな」心に蟠りを残しながら、会話を続けた。「これからは、全て英語ですよ!」と言われてドキマキした。

 心に響く「イサキさん」という言葉を聞けないと想うと何となく寂しい気持ちがしてきた。

「プリーズ コール ミー ファーストネイム イッキ?」

 いきなりのストーレートパンチに身を構える一喜だった。

「オー イエス」というのがやっとだった。

「何処にお住まいですか?

「リブ イン トウキョウ」

 と素早く応えた。

「生まれは?」

「アイ ワズ ボーン イン トウキョウ」

本当は、一喜の英語力は外人モデルの撮影時に英語で応答するぐらいの実力を備えていた。勿論、英会話ははじめてではなかった。

「自己紹介なんて糞くらえであった……」

 講師に対して、ほんとうは「アイ ラブ ユウ」ぐらいいいたかった。 そのぐらい、女性講師に惚れていた……。

 ブルーの瞳輝く講師の目に吸い寄せられていたのだった。

 外人の割には線が細そうで小柄だったが、ファッションの中身は見ることができなかったので、想像する以外になかったが、ボリュームはありそうだった。

 学習の会話もスムースであって、一時間もあっという間に過ぎてしまった。

「また、学習しましょうね。この喫茶店で……」

 次が誘うチャンスだと想った一喜だった。心は五月晴れのように爽やかな気分だった。大空に舞うトンビを見て、これからの大いなる夢をみていた。

「これからの授業が楽しみだな」

 英会話も大分、馴れてきて、英語がスムーズに出るようになったころ……。

金髪講師を喫茶店に誘ってみた。

「英語が上達しないので、個人レッスンお願いします?」

「レッスン料は高いですよ!」と冗談が飛び出す程に上機嫌だった。

「イサキさんは大丈夫ですか?」

「これからの時間は空いています!」

 講師のギラツイた目に少し恐怖は感じた一喜だったが、ニコニコ顔に変わったので、安心して近くのホテルにチェックインした。

 直ぐさま唇を重ねる2人だった……。甘い香りに一喜はピンピンになっていた。「じゃぁ、個人レッスンはじめましょうか?」

 イントネーションが少し可笑しい日本語で言われると彼の気持もドキマギしてきた。講師は案の定、着やせしたタイプで、衣服を脱ぐとバストは大きく、ウエストが括れてヒップも大きめでバランスが取れていた。

 はじめて外人と接する一喜は戸惑いを感じた。

 何をしていいのか解らなかったが、まず、乳房を優しく舐めた……。

 小さな呻き声が漏れたので、「気持がいいのかな」と感じていた。

 足の脛毛に触れるとゴアゴアなかんじで、意外な感じであったが、見ためよりは柔らかくなかったのが第一印象だった。彼は内心驚きで一杯だった。

「…………」

 無言の中での抱擁は彼女の微かな呻き声が聞こえて静かに進行していた……。

小柄だが、均整のとれた身体を目の前にすると興奮して何もできないもどかしさが溢れてきた。顔よりも身体は若く感じてピチピチしていた……。

細かい花柄の付いたズロースは可愛らしく、前の小さなリボンがあって、センスのある雰囲気を醸し出していた。思わず、彼も一言漏らした。「いいセンスですね」と叫んでしまった一喜だったが、それ以上に彼女の反応は微笑みとして返ってきた。彼女の舌使いも英語と夫に耐えられて上手だった。

 彼女の乳首が立っているのが解った一喜は余計、興奮した……。

 尻の上にエクボがある身体で迫られると名器のしるしを想わさざるをえなかったが、美大卒の一喜だったがヌードモデルでもこれ以上の上玉はいなかったような気がしてきた。はじめてのヌードのデッサンのことを思い出しながら、興奮を倍加させていた。香水は確かシャネルの5番だった……。いい香りがして、尻の上のエクボは名器を証明してるように、現実だった。

 石膏デッサンの彫塑のような身体に……。一喜は2倍以上に興奮していた。

 一市まとわぬ真っ白の彫塑はピンク色に染まったほっぺの愛らしさが増して、白人特有の均整のとれた身体に圧倒されていた。「何時か、描いてみたいなぁ」

意識をしなかった言葉が出てしまったが……」「OKよ!」意外な言葉が返ってきた……。

早速、次の週の土曜日に、講師は西新手前にある白河今川ビルの一喜の住まいに来た。シャワーを浴びると、最初はぎごちなく突っ立ていたが、一喜の指導で真っ赤な布の上に寝そべるポーズをとらせた……。

 一喜は茶色のコンテを取り出してクロッキー(対象物を素早く描くこと)に集中した。バランスのいい身体だったので、思わず「いい線、行ってるね」と叫んでから、創作意欲が湧いてきて、一喜の一物も硬めになってくるのを意識していた。彼女の心を描出(心理的な状況まで描きだすこと)することを心掛けたことは、写真とは違って生身の人間を前にしては当然のことで、プロとして絵を学んだ一喜の鷲のような鋭い目で獲物を見つめるような感じでモデルを見つめていた。「イサキさんの目、怖い。今までに見たこともない目……」

 だが、一喜は「…………」無言だった。

 彼の集中力は凄く。炎が燃えるがごとく描写物に対して注ぎこまれていた。手の方は滑らかに動き廻っていた。

「眠くなりますね……」講師は眠そうな眼差しになってきたが、一喜は応答しようとはせず。いきなり10枚のクロッキーを描き上げた。

「次は立ちポーズにしようか」

「何ですか。もい一度!」

「スタンダップ プリーズ」

「OK!」勇ましい応えが返ってきた。

 英会話を含めてのコミュニケーションは一喜の英会話学習の助けにもなっていた。衣装を着た彼女とヌードの彼女とは別人のようだった。着てる時には、外人の割りには奥ゆかしさが感じたが、裸になると大胆で積極的にアッピールした。

括れたウエストとふくよかなヒップは絵としては申し分なかった。

「いいスタイルだな!」一喜の呟きが聞こえて彼女の顔は笑みに変わった。

 彼女は照れることなく大胆なポーズにもチャレンジしてくれていた。「やっぱ、違うね外人モデルは……」感激の面持ちだった彼の目は輝きどうしであった。白く透き通った肌は微かにピンクに染まり生きた人間の息使いを感じさせずにはいられなかった。「学校でも、こんな素晴らしいモデル見たことないな」

 一喜は感激の面持ちで眺めながらいっきにコンテを走らせていた。

 身体が暖まった講師はスムースにポーズをとりはじめた。一喜はヒップの見えるバックの寝姿のポーズを要求した。形のいいピップに驚嘆しながらコンテを走らせ……。「さすが、白人で長い脚だなぁ」と感激の眼だった。見事なポーズにいっきに10枚以上描き上げた。「これは展覧会にだせるな!」クロッキーの出来栄えは今までにない作品が出来ていた。

「モデルがいいと楽だな!」

「何ですか?」

「君が素敵なので、楽に絵を描けるんだよあな。感謝 感謝……」

「私も嬉しいです。期待しています」

「何をですか?」

「もちろん、仕上がりです」

「自信作が出来上がりました。サンキュー サンキュー ベリーマッチ」

 スケッチブック一冊を描き終えた一喜は、次の予約をした……。

「はじめてなので、このぐらいにしませんか……」

「もういいんですか?」

 講師は物足りないような感じで応えた。

「最初ですから、無理しない!」

「一週間後の土曜日は空いていますのよ」

「じゃぁ、申し訳ありませんが、いまた、1週間後にお願いします」

 終わった後のコーヒーはお互いに旨かった。

「今日は特別、エクワドル産にしましょう!」

コーヒーマニアの一喜の手元には産地別の豆が揃っていた……。

「これは美味しいですね!」

「今日は特別な日ですから……。スペシャルカーフィーをプレゼント!」

「オー イエス ベイリー テイスト!」

 英語と日本語のちゃんぽんのコミュニケーションで美味しさを誉めあげたのだった。

「気に入って貰って、ありがとう!」

 一喜は涙が出る程嬉しかった。

「……では、また、来週ね」

「オーケー オーケー!」



 土曜日がやって来た……。

「早いですね。一週間たちましたね」

「僕は期待して待ってましたよ」

「待ちに待っていましたよ。まだか、まだかと思ってね」

「そうですか。ごめんなさいね」

「今日は絵具でボディペインティングしますからね」

 さらりと講師はワンピースを脱いで、裸になった……。

「2回目で馴れましたね」

「そうですか! サンキュー」

「キレイですから、シャワーは後でいいですから……」

「いいですとも……」

「どう、しましか?」

「自然に立っていればいいんです」

「大分、慣れましたね」

「これでいいんでしょうか?」

 いきなり黄色の絵具が付いた筆で、バストから、おもむろにはじめた。

「冷たいですね。くすぐったいですね」

「…………」

 一喜はヒップに真っ赤な絵具を塗り手繰った。

「…………』講師は無言で恍惚の表情を浮かべていた。

 一喜の集中力は半端ではなかった……。



 第 5話 地元の抵抗に対する処方箋は……。


 安藤勇作の攻撃には切り返し(相撲の切り返しと同じように)た一喜は別に気にはしていなかった。地域のことを念頭に入れながら対処しなければならないが、地域の特徴を取らま得るよりも、斬新な東京センスを要求する得意の意向を大切にすることが、使命であり、わざわざ、東京本社から単身赴任までして来た意味がなかった。

「To turn back!で行こう」一喜の心は決まっていた……。地元の雑音を無視してやるしかない。

「雑音には気にしない!」心に決めた一喜の行動は強かった……。

「どうせ、オレは1匹狼だからな」

「怖いものなんて何にもないや!」

「酔った勢いで言ったんどろうが、安藤の一言は許せなかった」

「安藤もオレよりも歳は若いし、芸大卒だし、地元で燻っているのは勿体ないな」博覧会を3年後に控えた一喜は「明日に向かって切り返しだ!」と思い切り叫んでいた。

「本社も忙しいのに、支社の自分の仕事を支社だけでできないから本社へ助っ人を頼むなんて地元の奴らは何をやってんだろうな。文句ばかり言いやがって!」

「もっと仕事をしろ!」彼の怒りは収まらなかった。「給料は本社と同じなのに、働きは半分だぞ!」「楽をしてるのに、貰いすぎだぞ!」

 仕事量は集中して忙しくなるばかりだった……。「身体はもつかな……」

 不安ばかりが増大して一人で熟さなければならない作業の量にヘキエキしていた。「喧嘩なんかしている時間なんかないんだぞ!」じぶんに言い聞かせる一喜だった。一喜は気分を切り替えて仕事に没頭した……。そうでないと10社以上抱え込んでハードであり、安い地元の料金の中での作業はきつかった。

 昼休みには外人男性の英会話部に所属したが、部長の小野美枝子というスタンレーな美人社員だった。博多美人の典型であって、切れ長の目に女性としては長身で一喜好みだった。

「イサキです。」

「はじめまして、小野です」

 短い挨拶でったがお互いにこころの籠った言葉に、彼女の笑顔の第一印象に惹かれる一喜だった。

 外人の先生はプリントを用意していた。内容は一般の日常生活の会話であった。簡単な自己紹介からはじまって、いきなりの授業開始だった……。男性で米国系の先生で発音は分かりやすかった。一喜はほんとうは英国の英語を習いたかったがその思惑から外れていたのだった。

 一喜の英語は日本の中学での英語の授業は、どちらかというと米語中心だった。英国の英語はイントネーションの部分に独特なリズムがあって、米国語とは違った発音であった。「同じ英語でも違うんだな」

 合間に小野との会話は英語の難しさについてだった。

「イサキさんはご家族とご一緒なんですか?」

「……それが単身赴任なんだよ」

「大変ですね」

 直ぐに、一喜は切り返して話題を変えた……。

「英語の先生は男性で良かったですよ」

「今習ってる英会話スクールの先生は女性ですから」

「そうなんですか」

「英語には男性も女性も喋る言葉は同じと言われていますよね」

 美枝子に対する一喜の気持は少なからず気に入っていた……。

 黒い瞳、身体、顔のイメージ全体的に気に入り、目は太からずで奥二重の一喜好みだった。身長は女性としては長身で、163センチぐらいだった。ハイヒールを履くと一喜と同じぐらいになってしまっていた。声はハスキーな感じで、低めだったが、甲高い声ではなかったので、一喜のお気に入りだった。

 一喜は地下鉄の唐人町駅から歩いて5分のところにマンションを借りていた。彼女は西新の先の姪が浜駅から乗る美枝子は初恋の美帆子に何か似ているように感じていた。一喜に合わせてわざわざ、同じ車両に乗る美枝子のいじらしさに、一喜はゾッコンだった。

「小野さんのご家族は?」

「母一人、子一人の母子家庭です」

「あぁ、そうだったの!……でも明るいね。そんな感じには見えないよな」

「父は10年前になくなりました」

「そうだったの。お気の毒に……」

「全然、小野さんは感じさせなくて、明るいね」

「ネアカですから」

「そうだよな。その方がいいよな」

 一喜のような年齢はきっと、お父さんと同世代でファザコンなんだなと感じる一喜だった。

「英会話は何年目?」

「まだ、2,3年ですね」

「そうだったのこれから楽しみだよな」

「全然上手く喋れないでっすね」

「確かに、発音は難しいし、時間がかかるよね」

「難しいよな。英会話って……」

「そうですよね……」

 つくづく、お互いに英会話の苦労話に花が咲いていた……。

「結構、ヒヤリングが難しいし、」

「……でも、発音を正確に言おうとすると、唇や舌を使わなければならないし……」

「日本語にない発音があるからね」

「スピーキングもどもってしまって、モゴモゴしてると個人レッスンの時言われてショックだったよな」

「恥のかきどうしだぜ」

「社会人になってから、こんな屈辱的な目に合おうとは思わなかったよな」

「そうですか。月謝を出してのレッスンはそれだけ厳しいのですね」

「女性講師の前で恥をかくにだから堪らないよな」

 当時の美枝子の年齢は20代で入社3年目ということだった。

 兎に角フレッシュで支社のマドンナだった。

「博多は食べ物が美味しいですね」

「皆さん、そういいますよね」

「白身の魚の宝庫ですね」

「鯛や平目など、玄界灘育ちですから……」

「それにしても大きくて身が締まってるね」

「鯛茶漬けも美味しいですよ」

「今度、人が来たら食べに行こう!」

「単身赴任だけど、食べ物に苦労しないな」

「それは良かったですね」

南国の割には博多という地域は日本海側の気候のために、夏は涼しく。冬は曇りの多い日が続く。風花以外には雪の少ないコートのいらないところだった……。

 そのためか女性の肌は白く。宮崎や鹿児島のように日焼けをした人は少なく。美枝子もそんな中の一人だった。スタンレー型ではあったが、昼食には良くサンドイッチを食べていたが小食だなと感じる一喜だった。英会話の合間に食べているので、痩せているのかなと思う一喜だった。「あんな昼食で身体が持つのかなぁ」一喜も心配しちた。吹けば飛ぶような身体ではなかったが、スラリとしてカッコ良かった……。

 凝んな容姿でニッコリされると一喜も堪らなく可愛く感じていた。

 

 初恋の美帆子に似た感じが余計、一喜を虜にしていた。『敬天愛人』を座右の銘としている一喜にとって、人の気持を思いやるという意識が特に出ていた。

「美枝子さ~ん」と呼ぶとそこには、美帆子が立っていた。「美帆子どうしたの?」一喜が訊くと……。顔色の悪いスッピンの美帆子に「今日はどうしたの?」「私、椎間板ヘルニアになってしまって……」「あぁ、そう、呼び出して悪かったな」彼は申し訳なさそうに応えた。

「腰が痛かったけど、大分、良くなったのよ」

「それは良かったね」

「安静が必要なのに呼び出してごめんね」

「2週間ばかり寝ていたのよ」

「そうだったの……」

 顔色のことは彼女に告げなかった。

「今日は短めにしようね」

「いいのよ。治ったから……」

 心なしか、言葉も弱々元気がなかった。

「寝ているのが一番よね」

「2週間とは長かったね」

「直ぐに、経ってしまったけども……」

「気がつかないでごめんね」

 一喜は不安になってしまった。

 165センチの長身で、彼女の骨の発達が急で、病になってしまった欠陥に心配していた。

「こんな美帆子見たことないなぁ」

 不安は風船のように大きく膨らみ……>

「まぁ、結婚は無理かな」と言う思いが負担とんって覆いかぶさってきていた。

「今日は早目に済まそう!」

 こんな状態で出てきてくれたことに感謝したが、返って、不味かった思いに駆られていた。彼女を思いやる気持がデイトを早目に切り上げる結果になった。

 美帆子のイルージョン(幻覚で見える像)は割と鮮明だった。

 眠気から覚めると小野美枝子がそこにいた。

「今のは夢想だったんだろうか」一喜は瞬きをしながらもう一度美枝子を見ていたのだった……。

「今度、先生のお家でパーティーがありますの。行きませんか……」

 美枝子は忙しさな伊佐木の顔色を伺いながら誘った。

「休みだから、大丈夫だと思うけtれど……」

「マンション?」

「そうですね」

「駅のすぐ近くだし」

 閉ざされた地下鉄の中での会話は弾んでいた。

 短い朝のデートは終わってしまうけれども、昼休みにまた、会える2人はにこやかに支社を通って階が1階と2階に分かれれいるので、別れた……。


 休みの英会話の先生のマンションでの集まりを楽しみにしていた一喜だったが、直ぐに、その日が来た。既に、10人ぐらいが集まっていた。

「小野さん少し寝坊しちゃったよな。ご免ね!」

「普段は多忙だから、休みぐらい仕方ないわよね」

「目覚ましをかけていたんだけどね。寝過ごしてしまったよな……」

 音楽がかかっていたが、よく聞くとベーラ・バルトークの4重奏曲がかかっていた……。暗めの照明で雰囲気は民族的なハンガリー民謡のような曲であって、周りの雰囲気も東欧風であって、英会話の先生の趣味かなと一喜は疑っていた。

「暗いけど、面白い曲だな……」

「なんか高尚な趣味だね」

「いい感じじゃ、ありませんか」

「バルトークはひじめて! 小野さんは?」

「そうですね。はじめてですね」

「まるで、抽象画の世界みたいですね」

「良くご存じでしたね」

「曲をじっくり聴いているとまるで、抽象の世界で、宇宙空間に広がる感じですね」

「伊佐木さんはご存知でしたか?」

「偶然にも、この曲は僕の卒業制作のレコードジャケットのデザインを制作したんだ」

「アッ、そうでしたか」

「上野にある文化会館で何度も、何度も聴きましたよ」

「そうでしたか」

「奇遇ですね……」

「厭、懐かしいですよ」

「バルトークとラベルを選びましたよね」

「……そうね。写真で残すべきだったね」

 美枝子に催促されて写真をとっておくべきだったことを反省する一喜だった。

「見てみたかったですね」

「30年前の話だけどね」

「残っているわけがないですね……」

 バルトークの作曲された作品の中で、6つの弦楽四重奏が第1の傑作と言われているが、とくに4、5、6番が評価されている緻密なシンメトリーであって生涯の中で、一番の高評価だ。

『弦楽器、打楽器チェレスターのための音楽』代表的であり、民謡を採り入れて数学的な構成の中で印象主義の影響を受けた。独特のスタイルになっている。

 情熱豊かなピアノ協奏曲第3番は、彼の妻、パーストリー・ディッタに捧げるために晩年、作曲された。

 ベーラの唯一のオペラ作品『青ひげ公の城』は1911年に作曲された……。

 曲の内容は公爵が自分の妻を次々に殺してしまうという物語を基礎として、男女関係における男性側の感情を表現しているオペラだ。

 語りかけるようなリズム、バラード調、印象主義的、これらの3つの特徴付けられる曲だ。

『カンタータ・プロファーナ』テノールそろ・合唱・管弦楽曲だ。

 9人の若者が森へ行き、自由な世界が欲しかったために鹿に変身してしまったという物語の根源にベーラに共感し、音楽表現に生かした。この内容は、街の造られた世界対自然のままの綺麗な世界。制圧された世界対宇宙的な自由な世界。これらの対比を表現しているのだ。

「バックグラウンドが凄いですよね」

「そうですね。良く調べないと解らないかたね」

「新しいようで、印象は古さもある不思議な曲だね」

「新しいけど、自然に耳に入ってしまう……」

「そこが凄いんですよ」

 美枝子と美帆子がダブってしまう一喜の気持はどうかしていた。デジャー・ブーのような残像が残ることはベーラの曲はマッチしていた。

「ベーラは何を訴えようとしているのかな?」

「故国ハンガリーの抑圧された世界を解放させて民族の隆起を訴えたかったのじゃないの」

「マジャールの激しい情熱を表現したかったのじゃないの……」

「素敵なお話ですね」

 恋に燃える炎は消すことはできなかった。

 美枝子の輝いた目は一喜を凝視していた。

「…………」

 一喜は感情を目で応えた。

 美枝子の目は華麗に濡れているようだった。

「小野さんもこの曲気に入りました」

「エエ、気に入りました」

「お互いに、趣味が合って良かったですね」

「もちろんです!」

 2人は集中していた。他の人たちは目に入らなく。錯覚していた……。

 2人は軽く唇を合わせていた……。



 第6話 英会話講師とはどうなっていたのか……>


 まだ、付き合いは続いていた……。

 モデルとしても馴れて、小型な欧州美人に一喜はトウトウたる目で獲物を視るように眺めていた……。エクスクラメーションマークの連続だった。

 4Bの濃い鉛筆でデッサンを繰り返したが、パースペクティブ(透視図)のように人物を視てデフォルマシオンする新しい構図の発見に感激に咽んでいる一喜だった。

 小柄とはいえ165センチの身長で、頭のテッペンから爪先まで、かなりの距離があって迫力のあるデッサンが出来上がって満足げに視る一喜だった……。

 彼女の裸体をメタファーで表現すると正月の鏡餅を想わせるモチモチ感の出る身体で迫られると圧倒されて、一物も膨らみそうだった……。

 休憩時間にロイヤルミルクティーを飲んでいる時に……。

「ヨーロッパへ私帰るの」

 急に言われた一喜は「エッ! 何で?」と言ってキョトンとしていた。

「夫の転勤で……」

一喜は返す言葉も見つからず唖然として彼女の顔をじっと視ていた。

「…………」

 幾ばくかの時間の後、絞り出すような声で「残念だな……」

「私もよ!」

 一喜は想像もしていなかったことが起こったことにショックを隠せなかった。

「急だな……で、英会話講師やめるの?」

「もちろんよ!」

「日本にいないんだからな」

「イサキさんと別れるのは辛い!」

「折角、いいモデルが見つかったのにね」

「短かったな」

「ほんとうに、そうよね」

 彼女も涙目でから大粒の涙に変わっていた。

「辛い別れだなぁ」

「折角、会えたのにね」

「絵をこれで上達させてもらって、ありがとう!」

「ご免なさいね」

「謝ることはない!」

「日本を去るには君の所為ではないよ」

「…………」

 青天の霹靂だった……。

「講師との別れがこんなに早く来るなんて……」

 一喜は悲しみに暮れた衝撃で彼の心は破壊されそうだった。

「…………」

 これでけ突然に別れを考えたことがなかった一喜は……。自分は、これから、どのように行動していいのか分からなくなってしまった。

「どうすればいいんだろか」

 彼は急に喋りだしたり、黙ったりしていて、起伏が激しく。精神的に参ってしまっていた。

 空は晴れて秋空覗く自然のブルーが冴える季節になったが、それとは裏腹に心はどんよりと曇っていた……。

 「どうしたものかな」自分の悲しみを和らげるやり方を知らない一喜は初心な自分の心に負担が増大して怒涛のように攻めてくる悪の魂をどのような方向へ持って行っていいのか分からなかった。

「ちきしょうめ!」

誰に対する怒りかもしれない怨念が徐々に立ち上がってきてしょうがなかった。

「折角のモデルだったのに……。最上のモデルだったのに」

 想いは尽きなかったが、ストカーのように追えない自分の果敢なさを感じて悲しみは膨らんでいった。悲嘆にくれる哀れさが伝わり、見る影もなくゲッソリとしていた。「早く知らせてくれればいいのに……」でももう、遅かった。日本に居なくなる人のことを

何時までも思い悩んだところでどうしようもなかった。なかなか立ち上がることもできずに黙々としていた。

「何処の国へ行くの?」別れる時の会話を想い出しながら涙に暮れていた。

「ハンガリー……」絞り出すような声で囁く講師の声も沈んでいた。

「ベーラ。バルトークの生まれ故郷ではないか」

「今かかってる曲名は彼のオペラ作品で『青ひげ公の城』と言うんだ」

「私も知ってる」

「この曲のように暗いね……」

「悲しいな……」

「わたしもよ」

「折角会えたのにね」

「そうねぇ……」

「こんなに早く別れが来るなんて」

「考えてもいなかったよな」

「私も……」

「人生って、考えもしないことが起こるんだな」

「Good byは厭、So longじゃないと……」

「そうね。イサキさんも英語上手になったわね」

「先生のお陰さ!」

「また、会える余韻がほしいのよね」

「そうよ、また、会いましょうね」

「サヨウナラだけならいいたくない」

「そうよね。会える楽しみを心に刻みたいのよ」

「おんなことってあるんだな! 実際に……」

「想ってもいなかったわ!」

「不意に訪れるなんて……」

 2人は涙の中でキスして別れた……」

 心に大きな洞穴がポッカリと浮かんでしまった一喜だったが、少しずつ時間が癒してくれた。

 しかしながら、彼女のいない写生は、存在すらしなかったが、脳に刻まれたイメージで勝負する以外になかった。美大出身のために一喜は残像の具現化を得意としていた。

 モデルのいない部屋でキャンバスに向かう彼の姿は鬼気に迫り、この世にいないような形相でスケッチブックに向かっていたが、彼女の自然な姿を描けるようになっていった。

 彼女の残したスケッチの数々は、まるで生きているようであった。10冊以上を見返しながらの模写は彼女の亡骸とは違って生き生きとしていた。頭で描く彼女のポーズはリアルであった。

「今頃、どうしてるのかな」

 彼女を想い描く手はスムースに動いて、まるで目の前に彼女がいるようであった。「元気かな」

 心に焼き付いた彼女のラフはイキイキとして画面から飛び出しそうな感じだった。「東欧のハンガリーは遠いいなぁ。どういう街だろうか……」

 一喜は実際に会っていた時よりも愛は増していのだった。

「彼女がいないのに、絵が描けるなんて素晴らしい!」

「それだけモチーフが良かったんだな」

 油絵にしながら肌は真っ白に塗り手繰っていた。この絵が40~50年経ってから飴色に変わって本当の肌色に見えるようになるのだ。これは美大当時に格日会という絵描き集団のトップだった鳥籐一郎との交流の賜物だった。実際に根津にある彼の家でのモデルの裸婦は真っ白だったが、見せてくれて、これが後に肌色にねることを教えてくれたので、それがヒントになった。

「これはいい話を訊いたぞ! なかなか細かい技術まで教えてくれないな」と感謝していた一喜だった。親友だけに教えてくれた秘密だった。

「さすが、芸大を出たお父さんだな……」一喜は頭が自然に頭が下がった。

 一喜はその秘密を心に刻んていた……」

 一喜は絵を描く時には、ベーラのオペラ作品『青ひげ公の城』をかけていた……。バックミュージックとしては最適だった。この曲は1911年に作曲されたモノであったが、何回も繰り返すが、公爵が自分の妻を次々に殺してしまうという物語を基礎としていて、男女関係における男性側の感情を表現しているオペラであって、語りかけるようなリズム、バラード調、印書主義的、これらの特徴付けられる曲になっている。一喜はハンガリーに思いを馳せて聴いていたのだった。ベーラの曲を聴くたびに涙を貯めた。英会話講師の蒔いた種は広がり、残していった傷痕を辿りながらの巡礼の旅は続く。何故か余韻の温もりのある部屋で感じながらのデッサンは進み完成が近付いてくる気配を感じていた……。


 ベーラ・バルトークはハンガリーのナジセントミクローシュに生まれ、父親ベーラは、その地の農学校の校長であり、教師であった。母パウラは優れた音楽家でベーラは5歳の時、母から最初のピアノ教育を受けた……。

 父の死亡の後にピアノ教師として身を立てた。女教師として1889年にナジレセレ―シュに移った。

 1914年の夏に第1次世界大戦が勃発……。

「最近の不幸な事件が私を興奮させ、ついにはすべての精神的能動性を奪ってしまったようです……」

「戦争のために憂鬱症にかかっていました。時には憂鬱を越えて、もうどうでもいいという全くの無関心状態に陥りました」

 母の死と第2次世界大戦二重の打撃に黙々と耐え、ブタペスト‣チヤラン街27番地に隠ったまま『弦楽四重奏曲第6番』の完成につとめた。戦火が激しくなってベーラはアメリカに逃れたが、生活は苦しく。自然を愛した彼がコンクリートの墓場まで貧窮と病気と苦難の中で64歳の生涯の幕を閉じた。

2つの大戦に苦しめられたベーラは戦争がなかったら、もっと、多くの作品を残していただろうが、生涯に2度の世界大戦を体験した彼の運命は悲劇だった。芸術家にとっては戦争は悪であり、平和になあらないと音楽を聞く余裕ができない。混乱の中で生まれ育った生涯は故国ハンガリーの時代に自国の民謡などの影響を受け、若い時代には、ドビッシーの影響を受けた2世紀最大の作曲家ベーラ・バルトークの名声は民衆の心に刻まれて(2017年、日本の小澤征爾指揮による『青ひげ公の城』は音楽アカデミー賞と言われる賞を受賞するまでに成長している……)

 世界的になったこの日、歌劇『青ひげ公の城』は世界中で演奏されるようになったが、1989年当時はすでに世界の中でのバルトークとして音楽家のマニアには普及していたのだった。一喜もその内の1人であり、美大の卒業制作のテーマとして選んでレコードジャケットデザインの制作に役立ったのであった。

 暗く重厚なハンガリー民族音楽は今までのクラシックとは違った音色であり、異質であって、新しく、情熱的であって、印象派っぽい感じで、曲は流れているが、ハンガリーへ行った英会話講師のヌードを描く時には必ず曲を流していた。

「中世の建築様式が残る街並みを視ながら、何をしてるのかな……」

 一喜は頭に浮かぶ裸体を描く姿は悲しみというよりも楽しみに変化して時の流れの恐ろしさを感じていた。何もいない裸体を妄想で描く一喜の根性もたいしたモノだあが、彼女の強烈な印象に負けた画家の卵の抜け殻だった。

 ドガの踊り子のように動きのある描写もできるようになって作品は出来上がっていった。忘れることのできない身でありながら、彼の個性によって生み出される作品群は強烈な個性を放射能のように放っていた。

 涙も枯れて、もう、思い出になってしまった無休感の宇宙に描く裸体は3D迫力があって浮いているような感じで斜めに傾斜している姿は不安定ではあるが、今までに視たこともない世界を創造している……。「オレも元気にやってるぞ」

「オ―イ元気だろうが……」

 独り言の世界に没頭する一喜だった……。


 アルフレッド・アドラー(1870~1937年)の著書『人生の意味の心理学』あらゆる悩みは対人関係の悩みである。『すべての人は対等関係にある』と述べているが、心理学は英語でpsychologyと言われるがプッシュケー(psyche)とロゴス(logos)というギリシア語を組み合わせて出来た言葉『魂(精神、心)の理論という意味であると世間では言われている……。

 人に嫌われる勇気は大切であるという彼の教えには共鳴する部分もあるが、単身赴任でのはじめての地域での一喜はノー天気に行動して気にしないように努めたが、遅れた支社に対する教育の面もあることを本社の人間として自覚していた。安藤勇作もどきが何と言おうが本社の代表として指導するという目的に対して、忠実に、事に当たったが、仕事上は尊敬されて上手くいった。

 仕事においては本社の進んだ力量に対して支社としてはグーの根も出ず勝利に終わったが、それでも対人間関係では心から信頼できる人間は少なく苦労した。

 利益の面でも低いので、できるだけ儲けるように教育したが、負け犬根性で地元の人はなかなか言うこと聞かなかったが、博覧会中は普段赤字の支社だったがトントンになったことは本社からの強力な助っ人のお陰であった。

 対人関係においてはアドラーのいうように支社の人たちにも気を使って『すべての人は対等にある』という民主的な行動で行ったので、そんなに問題は起こらなかった。

 英会話講師とのことは意識の中で薄らいできていた。

 仕事中心の生活が進んでいった……。

 映像    1億円

 パビリオン 1億円

 運営    1億円

 合計    3億円

 というシンプルなプレゼンテーションの勝利は、何もない更地からの提案であって一喜の勲章となった。ソフトバンクなどの球場の発展も、ももち海岸の埋め立てからはじまって、博覧会の成功のお陰だった。ひとえにアジア太平洋博覧会の関係者の力によるところが大きい。

 野球の球場も西鉄球場からドームの現在の球場があるのも、博覧会の跡地を利用したことであった。一喜を先頭にする本社の精鋭によって築かれたお城であって、未来志向の繁栄を今思うと成功への道のりは厳しかった。終わってみると博覧会程、対人関係の重要さが大切な仕事はなかったのであるが、対人関係の宝庫といっても言い過ぎではない。人件費の塊であり、どれ程多くの人間が絡んでいるのか分からない程であった……。

 映像である世界で当時は、はじめての3Dによるアニメ『注文の多い料理店』はオーディオ・ビデオ賞の特別賞を受賞。アジア太平洋博覧会、第1位の人気館

『やまや明太子パビリオン』だった。明太子の直売も完売。等々。幸運な実績を残してケンブリッジ大学へと旅立つ一喜だった……。

 博覧会会場に父と自分の家族を東京より呼んで観てから市内の料亭で、芸界灘でそだったでっかい平目の刺身は骨まで食べられる天ぷらなど、勝利の乾杯だった。

 切り返しの早い一喜は、博覧会の開かれている夏休みを利用して英国へと旅立った。2年間の外人講師による英語研修がどれ程、効果が上がったのか知りたかった。

 時はEUのできる途上でのヨーロッパに向けて『英国の憲法』と『英国の近代社会』というテーマですべてケンブリッジ大学の教員による英語のみの授業に対しての学習のために……。



 第7話 ケンブリッジ大学インターナショナルサマースクールに参加……。

    

 University of Cambridge Board of Extra-mural Studies International Summer Schools 1989への道を模索していた一喜はすでに、締め切りを過ぎていることに気が付いた。

「もう、締め切りすぎてるぞ!」

「残念だな!」

「ダメもとでトライしてみるか?」

 会社の研修所で行ったメリーランド大学のビジネス英会話スクールの卒業証書と2年間通ったブリタニカ系の外人講師による英会話スクールInternational

Master Academyの卒業証書をファクスでいきなり送ったが、英国は真夜中であって、日本の昼間とは真逆であったことに気がついて、暫く、待つもとにしたが、

2,3日経ってから「OK」の返事が返ってきた。嬉しくなって、飛び上がるようにバンザイをしてしまった。

 世界一美しい大学ケンブリッジに憧れていたが、無理を承知で送ったファックスの応えはパスだった。慌てて、申込書を送って、ギリギリのセーフだったことは奇跡に近い状態だった……。

 一喜は何でも、ナンバーワンが好きであって、実力以上を狙ってしまう傾向が強かったので、まさか合格になるとは想ってもみなかった。英会話教室でもABCDEのクラスがあり、Aからはじまるのであるが、Dまでは楽だっが、最難関のクラスへはなかなか進めなかったが、勉強のためにクラスに進んでみたが、民ペラペラであった。外資系か帰国子女の集団であって、とても付いてきかれる代物ではなかったが、無理をして上がったら、先生は「イサキさんはまだ、無理よ!」っていわれてショックだった。その中の友人が英国のサザンプトンにある英会話スクールへ行くということで、それに刺激を受けて、もっと、難しいケンブリッジ大学の本校のサマースクールへの参加はレベルから言って無理を承知であったが勇気を出して申し込んでしまった。夢が現実になると、グズグズしないで、思い切って自分のやりたいことをやらなきゃ損だなと感じていた……。

 負けず嫌いの一喜の性格がいい方へ転んだが、難しい場面だった。

「どの位、英語にお金を注ぎこんだかな」と思う程、英語付けだった。休日は英会話スクールで会社の昼休みには、英語部の授業。家ではアンテナをかっての衛星放送で英語のニュースを聞くなど、英語だらけの生活だった。

 それにしても、最難関のケンブリッジ大学の本物の講師による授業とは思いもよらない単身赴任を乗り越えての勝利の女神だった。

 支社は博覧会の作業は終わって前の静かさが戻ったが、ケンブリッジの地に足を降ろすことになろうとは夢にも想っても見なかった。ドーバミンがドドッと流れてすべての苦労はすっ飛んでしまった……。

「人間は目標に向かってチャレンジすれば不可能も可能になる」と一喜は神に感謝した。夜中2時までの学習が実ったのだ。

 苦労に苦労を重ねて支社でのビジネスと経済的な苦労。額面60万円の給料が20万円の手取りで暮らせという日常生活を乗り越えての勝利だった……。

「家にろくすっぽ、給与もいれられなかったな」

 一喜は悦びの中に家族への苦労に感謝していた……。

「何故、英国なのか? しかもケンブリッジなのか?」

 その答えは日本の民主主義を手本とした議会制民主主義の本家を学びたかった一喜だった……。政治、経済、文化を学ぶこともあった。

 英語なんて只のコミュケーションツールに過ぎないと言ってしまえば、世話がなかった。英国における民主主義の民主的な教育を学ぶいい機会だった。

 この閉塞感のある日本における「これから歩むべき道は何か?」を探りながら日本の将来の道しるべを探す旅をしたかった。

 ただ、会社という小さな組織で20数年もはたらいていると、それだけでアカが溜まるので、出しっぱなしだったアイディアの補填も兼ねての英国行きだった。錆びついた日本刀では使い物にならなくなっていたのだった……。金属疲労を起こした身体を清める以外に新しい道を開くことが出来ないと一喜は感じていた。

「すべて、原点に返ってから、新しい道を手探りに学び直さなければならないのだ」

「憲法も……」

「教育も……」

「民主政治も……」

「経済も……」

 当時バブルに浮かれた1989年に、バブルが終わろうとしていた時に英国行は正解だった。これから日本に迫る苦難の道(失われた20年)を前にして、日本の崩壊がはじまる時期に英国に来たのは、先見の明があった一喜だった……。

 苦難の道が迫っているのに、日本のリーダーたちは何も感じず、なにも学ばないのでバブルの崩壊があるなんて思いもよらなかったに違いない。情けない輩に日本を預けるわけにいかない。

 「バブルはいつか破綻する」一喜はそう感じながら英国での研修を選んだのだ。「浮かれている場合か……」「グループの原点である家庭が日本では崩壊しているのだ。これは慣習を大切にしない戦後のリーダーたちの汚点である……」

「だいたい単身赴任させる企業は欧米ではあまり、考えられない事であった」

「妻ともコミュニケーションできないこのオレがリーダーになれる訳がない」

「子供とすら遊ばない……」「日本は、本当の民主主義ではない」「日本という封建的な民主主義でこれから生きて行けるのか」「単身赴任手当もなく」

  生きる原点を削ってまでの会社人間でいいのだろかと猛省しながら英国へと旅立った。こんな苦労の後のご褒美がケンブリッジ大学行きであった。

「人間って弱いモノで、ニンジンをぶらさげなけれな走れない動物なんだ」

「目標がなければ、人間は振るい立たないんだ」「ネガティブに考え行動するだけでは成長はない」一喜はポジティブによって仕事には成功したが、人生においては、家族の犠牲もあったことは確かだ。我慢、我慢、我慢の繰り返しが大切なんだ」

 成田空港から香港国際空港までの南回りのドバイ経由でのブリティッシュエアウェイズでの旅は孤独にも一人旅だった。不安と希望が入り混じった旅であり、日本人の隣の席の旅人とはなした……。

「これから何処へ行くの?」

「ソ連ですよ!」

「恐ろしいところへ行くんだな」

「前に行った時には1週間ごとに滞在の書類を書くんですよ」

「要は報告書だね」

「今度はペテルブルグにあるエルミタール美術館にゆきたいですな」

「そりゃ、羨ましいな」

「あそこは印象派などの絵の宝庫ですよね……」

 自分自身に対する単身赴任のお土産としての英国旅行だったが、単身赴任なんてやるもんではなく、非人道的な生活だった。

 最初の内は日当たりも良く、布団も干せて清潔だったが、隣に隣接する南側にギリギリにマンションが建ってしまい真っ暗になり布団も干せない状態になり不衛生になってしまった。

 朝起きると食パンを焼いて、牛乳を暖めてからの簡単な食事だった……。喫茶店のモーニングのようなゆで卵も付いていなく。ただ寂しいだけの朝食だった。

 1人でパク付く姿は人には見せられなかった。昼には、会社の近くの食堂でおおきな塩焼きのサバがでる家庭的な店を選んだ。夜は大抵、岩田屋のデパ地下での小分けのお惣菜を買ってから電気釜でご飯を炊いての夕食だった……。休日には西新で魚やワカメなどを買ってきて料理したが、ゴルフ練習をした後の買い物だった。1度だけ生の牡蠣を食べて下痢をした時は慌てて、東京の家に電話を入れたが恐怖に慄いていた。2度と生牡蠣は食べまいと心に誓った。

 女性の細やかな手料理ではなく男ヤモメの料理は味気なかった。失敗の繰り返しであって、苦労した。どうにか、3年半の赴任が出来たのは家族の協力と息子の私立一貫高校での勉学であり、その面では安心していたが、急に公立に行きたいと言って辞めて1週間で出戻りしたり、地元の中学校へ行きたいと言って、九州の中学校を見学したが、パパとの一緒にはなれず希望は叶えられなかった。しかしながら地方への医学部見学には途中で待ち合わせの見学に成功した面もあった。場所は岡山で家族は東京から、僕は博多からのスタートで岡山で合流した便利さはあった。ある面では博多の赴任もいい面はあったが、殆どは寂しい家族との別れであり、妻の大変さが浮き彫りになった。「何で、100回以上オレが飛行機にのらなければならないのか」という疑問も生じたが我慢、我慢の生活だった。

 欧米だったら家族のために転職してる可能性が大であって、日本の博チョンの哀れさが出ていた。単身赴任を避けて自分たちの生活を選んだに違いない。日本の働き蜂は哀れにも飛び回っていたが、航空写真家の越村さんとの出会いがあり、彼から風邪を引いた時に会ったら「フラフラしていましたよ」と言われて、後から何度も聞かされていた。そのぐらい仕事にかけていた一喜であったが、博覧会の成功の影ではいろいろな見えない苦労があった。何人かの友人ができたが楽しいこともあったが、大方悲しいことが多かった。味気ないマンション生活であり、たまの休日には遺跡巡りをしたが、九州が原点である。神社や寺院も多く。日本の文化の発祥地としての吉野ケ里などの遺跡も実際に視てきた。思ったよりも狭いかんじでとても集落と呼べるほどの大きさではなかった。地元のプロダクションの幹部とのコミニュケーションなど、本社の代表としての仕事も多かった。人的なコミュニケーションは多く。送別会ではD印刷の専務とのご招待もあって、膝附合わせて飲みあったこともあった。大手広告代理店の本社の代表として大切に扱ってくれたことに感謝し、有難く思った。博多でのせいかつはその後の人生にとって重要なウエートを占めるようななったこtであったが、その後の血となり肉となってた……。

 一喜の人間的な巾を広めた結果になった。しかしながら、遅れたマスコミ界に人事やローテーションが決まらないで社長などの好き嫌いだけでの感での日本的な経営が事件を起こす結果となったことを今に思えば仕方ない面もあるが古い経営の責務だった……。10人に一人ぐらいが懸命に働く会社では、どうしようもない。僕は学校推薦で入社したが、営業を含めて多くの社員がコネで入社してきてるのにヘキエキとしていた。組織力の弱さとワンマン経営による不安さは当時からであり、いままでの集積だった……。最初の一週間には出勤簿に印鑑を押すところもなく。支社と本社の格差を見せつけられた。

 前にも言ったように、額面60万円で手取り20万円の生活では東京にいる家族の生活を支える仕送りが出来なかった。自分のこずかいもないような状態が続いたが家ではアパートという不動産管理で生活していた。

 英会話のInternational Masters Academyへの入室を進めた営業の吉田さんはゆかしい方だった。ニコヤカでついつい一喜も入室したくなるような感じのいい方だったので、彼女の誘いに乗ってしまった面もあった。

 メンバーカードは番号は24034で、1986年10月12日IRCと印字された仮のカードを、まず、貰った。必ずこのカードをご持参下さいという文面が書かれていた。

 50万円弱の大金だったが、月賦で月2万円で2年間の外人講師による英会話教室であり、ひおやかな外人女性講師が新人養成講座の担当として紹介された。

 一喜はドギマギするくらいの美貌であり、心が嬉しくなるぐらいの先生だった。はじめの内は馴れないので、想うように口がうごかなかったが、だんだんに動くようになってきた。

 ゆめゆめペラペラになるぞという意気込みであったが、そんな心意気はなくなり授業の流れに任せることにした。その内に楽しさが込み上げてくるよな授業になって、一喜のやる気も出てきていた。英語の構文を覚えてしまってからの英語は楽に言葉が自然に出るようになっていった。今までの日本の喋れない英語とは真逆の授業は楽しく、これ程までに英語教育が楽しいとは思わなったのであった。日本の文法中心の英語教育じゃ、喋れないなと実感した。「何でもいいから恥じないあでしゃべりなさい。日本人は奥ゆかしいから、もっと、積極的にしなさい」と何度も言われた。「最初は言葉が間違ってもいいから、口にだしなさい!」と言われてから楽に言葉が自然に出るようになった。「文法なんてわすれて単語でもいいから口にだしなさい!」と言われて心つよく思って会話ができるようになっていった。構文を覚えて、『例えば』を言えば、なんでもコミュニケーションできる技術を習得することができるコツを教えてくれた。1年ぐらいやると自然に自己紹介からはじまって自然と口から言葉が漏れた。

 発音も厳しく基本どおりに何度も直されながら、舌や唇の使い方を指導された。そうすると成長は早く。喋ることも苦にならなくなっていった。いい加減な発音は一番いけない。ゆっくりでもいいから正確に発音しなさいと何度も教えられた。先生の唇の動きをみながら、それを真似することからはじまって、動かし喋る訓練を繰り返した。年季と寝れと繰り返しによって少しずつ流れるような英会話になっていった。後は英語ニュースなどを聴く。スピーピングの力を付けるようにした。国際放送などを聴き、自分の好きなスポーツなどの映像で英語の会話を覚えることにしていた。当時、ソウルオリンピックの衛星放送は英語解説やコミュニケーションの面で参考になった。欧米人の手振り、身振りを注意して、それらを真似るように言われた授業もあった。コミュニケーションは身体全体から受け取ることも大切であるとも教えられていた。「気楽に楽しく、継続すれば、きっと、喋れるようになる」と教えられていた。「英語を恐れるこてゃない慣れればいいんだ」と一喜も理解した。ケンブリッジへの道が開けたのも、2年間の外人講師による専門的な英会話訓練だった。彼の努力によるサプライズだった。「何回も……何回も、自己紹介すれば自然に言葉が出てくるし、英語付けの毎日を繰り返せば会話は簡単にできるんだ!!」一喜は勝ち組として言いたかったのであるが、執念によるケンブリッジ大学行きは気持が良かった……。

プライベートではいろいろあったが、仕事は順調だった……。

 東北博覧会の見学では松島まで、足を伸ばし、松尾芭蕉の『ああ、松島や松島や』の情景を実際に目にしてみるとたまゆらの間は癒しの心が表れて、今も昔も変わらない面影に触れた一喜は「ここがあの有名な松島だったのか。さすがだな」と感じていた。日本の原風景を前にして感激に浸る彼であった……。

 はじめての仙台は初期時のビックさで食べきれない夕食にヘキエキしていた……。雪避けのアーケードが連なる街はまるで、原宿のようであり、全然地方の感じがない地域差を感じさせないファッションはじめセンスの良さは忘れることが出来ない。この街づくりに一喜は親近感を持って気に入っていた。博覧会場での映像は優れていて、後のアジア太平洋博覧会の参考になった……。あるパビリオンでは地下のような下にある映像にキリスト像が出てくる個性豊かな宗教的な映像に刺激された一喜だった……。

 瀬戸大橋博にも行ったが、瀬戸内観の夕方の日没時の景色には、まるで万葉の世界を見せつけられたが一喜の脳裏に刻まれた忘れることの出来ない世界だった。朱鷺が日本中を飛び回っていたいにしえの時代を再現させてくれたような錯覚で見惚れていた自分に一喜は吃驚していた。「こんなセピアな世界を観る」に付け感謝の気持で一杯だった。万葉集が本当だったことが今の時代に蘇ることの感謝感激を覚える一喜だった。波間に映える太陽の光が眩しくてサングラスした目からみる万葉の世界は格別であった。写真では何回か見た景色が実際に眼前に現れるといたたまれない気持になってしまった。

 小さな航空会社の福岡~小松までの新しい路線誕生のパンフ造りに金沢へ旅したが、これまた、兼六園に庭には、吃驚した。冬支度のために木々に荒縄をかける作業中であったが、ラインの美しさに惚れ惚れしていた。日本庭園の力を眼前にして、ロープの巧みさと技術力に感激していた。写真をかなり撮ったが、その中の一枚は実際のパンフに使用された。カメラマンではない私の素人写真が実際に載るということに支社の業務は東京本社では考えられない事実だった。

 実際の庭園は盆栽の手本のようにキチンと整理された見事な出来栄えだった。植物好きな一喜を感激させた。

 はじめての能登半島もバスの窓から見える断崖絶壁の風景は、まるで日本画の世界だった……。川端龍子や小林古径の世界で合って「こんなそっくりな風景もあるんだな」何処かでみたような世界を見るにつけ感激に咽ぶ一喜だった。

 まるで、大和日本画見聞録のような雰囲気で日本巡りをする一喜だった……。

 九州においては宮崎、鹿児島、長崎、指宿、霧島、宇佐など、離島以外は殆ど廻ったが、九州の風景を好む一喜にとっては幸わせな一時だった。

 遺跡巡りも『志賀島』からはじまり、『宇佐大社』『柳川の川下り』等々。かりそめの旅にも出かけた。

 日本を知ってこそ、外国の旅が生きるのであって「日本の良さを解らないで日本を紹介できない」という信念で日本中を旅していた。

 東京近辺しか知らない世間知らずの一喜にとっては海外の旅と同時に日本の旅の大切さを心に想っている一喜だった。孤独なひとり旅も自分を知るためにいいもんだ。一抹の不安を感じながらの果てしない旅は続く……。

 ブラザーのワープロまで、パイロット・バックに積めて、あとはバスケットの選手hが使いそうな大きなバックにキャリアカーで運ぶ孤独な一喜の旅ははじまった「無事、帰ってこれるかな……」



第8話 香港でのホテルの名前はインぺアルホテルだった……。


 日本語に訳すと帝国ホテルであるので、高級感溢れるホテルのイメージを持っていたら、ホテルに着いて、中庭のカーテンを開けたら、雨曝しのゴミだらけに一喜は吃驚仰天。とても、あくる朝の朝食を食べられるホテルではないなと直感的に感じたので、足早に国際空港へと向かった。電車だっので、何処で降りていいのか分からず運転手に聞くと、同じ電車に空港へ行く人がいれから案内するように頼んでくれたので、一喜は助かった。

 空港はさすがに清潔であって、朝食を早速食べたが、紅茶が何杯も飲める香りのいい本場の紅茶であり、英国製だなと感じていた一喜だった。透明の急須のような入れ物はセンスが良く清潔で飲みやすかった。トーストも上出来だったが、玉子も旨く彼は気に入った。ガラス製で中の見える土瓶風の入れ物のの何杯も飲める紅茶に旅の疲れも忘れていた。「やっぱり、あんな不潔なホテルで食事をしなかったのは正解だったな」と思いつつ。歩きだしたら荷物が重いためにキャリアカーがボッキリと折れてしまった。空港だったので、直ぐに、土産店に行って頑丈なキャリアカーを買った。折れたモノは空港内のゴミ捨てに捨てて、すべての荷物を乗り換えてみたが、荷物の重さにヘキエキしていた。特にワープロが重く。前のキャリアカーは真っ二つに割れていた。はじめからのアクシデントにい厭な予感をしたが、英国での破損ではなく良かった気がしてきた。価格も適当で安かったので助かった。

 飲み水だけは生水をさけてペットボトルを買った。できるだけ火をとおしたモノを飲んでいたので、下痢の心配はなかった。南周りのブリティッシュエアーウエイは長旅だった……。ドバイでの給油をしたが、ドバイの夜の空港はまるでアラビアンナイトの世界だった。空港の滑走路の火は石油が燃え上がってるような火であった。これに吃驚したが、土産店でのアラビア色でのデザインに違和感があって、凄いところに着いてんだなと一喜は感じていた……。給油は少し待ったが、土産にも興味がなくただ時間の経つのを待っていた。トイレを使用してからは椅子に座って本を読んでいた。異国情緒に惑わされて、戸惑っていたがこういう国もあったんだと感じていた。あまりにも、日本の風情とは違っていたので、最初は吃驚していたが、段々に馴れてきた。「砂漠の中の空港ってはじめての経験だな」「それにしても別世界だな」見るモノ触るモノすべてが違うのでショックだった。カルチャーショックを起こしたが、あとは英国のガットウエイ空港への一直線の飛行旅だった。石油成金の街、ドバイは夜間だったので、高層ビルは見えなかった。漆黒な暗さの中での出発だったので、殆どのモノは見えない状態だった。後はこれまでの3分の1の距離だったので、ほっとする一喜だった。飛行機での長旅は想ったよりも早く過ぎようとしていた……。

 英国は昼間に着くので、街並みを視る楽しさが残っていた。空港からリムジンで鉄道近くのホテルを予約したので、後はチェックインするだけだった。

「舞ネーム イズ イサキ」

「リザベイション プリーズ」

はじめての英語での予約は簡単だった。実際に通じた悦びを噛みしめながら一喜の心はおどった。

「アイ ウッド ライク トー シングルルーム フォー トナイト プリーズ)発音もヒヤリングもスピーキングもすべて上手くいった。日頃訓練した有難味が心に湧いてきていた。「通じる英語をしゃべらないといけないな!」一喜は興奮しながら顔を赤らめていたのだった。今までの苦労が身を結んだ瞬間だった。ホテルへ着くといきなりカードを請求された。マメックスのゴールドカードを渡した。「現金よりもカードを信頼してるんだな」初めての体験だった……。

 ……でも、ヨーロッパではゴールドカードよりもビザカードの方が一般的には通用していた。

 英語が通じてグロスバーナーホテルはリムジン駅から降りてから、尋き尋きの状態で、ホテルを一周していたが、結局、駅の近くにあった。ホテルの周りを何回も何回も廻っているばかりで時間の無駄だった。スペルまで、しっかりと尋ねないと正確の名前が解らず苦労した。最初の失敗だった。ホテルに着いてからは備え付けのスペルの書いた鉛筆があり、それをタクシーの運ちゃんにも見せてから正確にホテルへ戻れるようになった。同じような名前のホテルが山ほどあって、見当がつかない状態であった。発音もしっかり言っても理解してくれない運ちゃんなどに出会うので、スペルのある証拠品を持つことがベターだった……。

「現地は厳しいな! 発音はしっかり言ってるつもりなのに伝わらない口惜しさに涙を飲んだ」ロンドンは方言の下町英語などで、そうは簡単にコミュニケーションできる訳がなく途方にくれていた。ホテルは室内はピンク系に纏め上げられた立派なホテルだった。「このホテルならいいや!」ただ、シャワーの水の活き良いはなくチョロチョロと水が出るくらいで、日本のホテルのシャワーとは豪い違いだった。物足りなさを感じた一喜だったが「これではシャワーといえないな」と呟く以外仕方がなかった。駅前なのでアクセスが良く。バス停も電車の駅も直ぐそこにあったのは正解だった。

 やっとこさ英国に着いた安堵感で昼寝をしたら頭はスッキリとしたので、ロンドンの赤い二階建てのバスはホテルの目の前に停留所があって、賑わっていたので、半日コースのロンドン巡りのコースに乗った。市内観光でテームズ河を中心に名所案内であった。夏休みなので、観光客でごった返していた……。コースはウエストミンスター寺院やロンドンブリッジなど有名な場所が中心であって、ロンドン観光の初歩であった。「まぁ、はじめてだからな」ロンドンのおおずかみな全体像は分かった。そのあとは書店巡りだったが、意外に小さい店が並んでいた。資料は揃えたが荷物が多いための程々にした。

 ロンドンからケンブリッジは鉄道よりもバスが便利だった。ロンドンに一泊してからのケンブリッジ行きは地方行きの専門の停留場があり、ホテルからまもなくの場所で、今度は直ぐに分かった。バスであると一時間弱の旅であることを掴んでいた一喜は鉄道のような乗り換えや待ち時間のロスのないのに調べておいたことが役だった。バス停から放射線状にばすは散るように運行されていた。食事はハンバーガーなどの一般的な食事を素早く済ませてからバス停に向かった。「味は普通だったな」「あまり美味しくないな」贅沢は言ってられない場面であったが、「食事はあまり期待しない方がいいな……」と思い悩んでいた。ケンブリッジ大学の研修料は食事つきで10万円であった。食事が付いていることで安心していた。解らない土地での食事はメニューしかり、分かりずらい面があり、面倒だったので、食事付というケンブリッジ大学での生活での心配はなくなっていた。それでも馴れてくれば町中にあるスタンドバーでの軽食をすることも出来た。ビールみ軽めに飲んだが格別だった。殆どはホットドックであり、一喜はハンバーガーよりもホットドックを好んで食べたので、後からの狂牛病の危険はなかった。自分からは、ホテルで出るハンバーガー以外は一切口にしなかった。一喜の用心深さと海外ロケの経験が生きていた。マクドナルドを食べた記憶もカナダでの一回きりだった。後はホットドックとビールだった。ハンバーガーは嫌いだったから……。

 海外へ行くと思いもよらない事件に巻き込まれる。一喜自身は馴れているので、あまり経験がないが、一緒のグループなどは盗難に合う確率が高い。日本の感覚で街をただ歩くと危険である。飲み水の問題、お金の問題、銃の問題など、日本では考えられないことが生じる。特にお金と食事には気負付けて行動したが、英語の国ではイエス、ノーをハッキリと区別することが大切だ……。

 あくる朝、ケンブリッジ大学へのバス停に向かった……。

 地図で調べていたので、直ぐに分かった。

 一喜はファッションはジーンズ中心の無国籍風であり、シャツもジーンズで、意識的にそうしていた。旅行者だと狙われやすいと感じていた。外国旅行の一人旅なは神経を使うべきであり、無国籍ファッションを一喜はお勧めするという主旨であった。盗難や置き引きには注意をしていたので、無事にケンブリッジ大学行きのバスに難なく乗れた……。バスの隣の席に偶然、T川大学の準教授が乗り合わせていた。オックスフォードの研修が終わり、今度はケンブリッジ大学への研修をするという欲張りなおばさんだった……。大学のクリアカレッジまで、一緒に案内するということだった。何度も来ているので、タクシーで行くのが一番と言っていた。

 丁度良い出逢いだった。花丸花子さんという名前で、顔は名前は体を表すと昔から言われるように団子鼻だった……。それに独身という困った関係だった。

 気楽に話せる先生であると最初は感じた。「たいへんですねオックスフォードから今度はケンブリッジですか……。総なめですね」

「毎年来ていますとも両行へ……」

「素晴らしいですね……。僕なんかはじめてなんですよ!」

「そうなんですか。ビジネスマンは珍しいですね。殆どは学生か教育関係者ですよ!」「それだけ、難関なんですね」「あまり普通の人は来ないですね」

「大変なところに来てしまったと後悔したが当たって砕けろだった」

「この歳じゃ怖いもんなしだよな」

「最初は日本人でないと思いましたよ」

「意識的にこの衣装なんですよ」

「賢いですね」

「何回も外国ロケなどをしてますからね」

「じゃ、英語に馴れているじゃありませんか」

「意識的に無国籍にしてるんですよね」

「旅馴れているから」

「そうでもないけど、旅行者を専門に狙うスリや置き引きがいますからね」

「そうなんですよね。私の旅行バックも小さめにして国内旅行と思わせているんですよね」「さすがに旅馴れていまうね」「外国旅行には盗難は付き物ですから」「カナダでCDを盗まれた人がいましたね」

「やっぱり旅馴れていますね」

「このバック確かに小さいですもの」

「パンツなんかも紙にして捨ててきますもの。段々軽くなるんですよね」

「さすがですね……」

「僕も、スポーツバックで盗まれてもいいようなものを持ってきましたよね」

「それが正解ですね」

「今、着てるモノが一番好きなんです」

「着ていれば盗まれませんからね」

「もう、着古したモノばかりですよね」

「お仕事の関係で、お馴れですね」

「……でも、日本とは違いますから」

「確かに、気を付けないと危険ですね」

「治安も悪いしね」

「そうですね。飛び道具を持っていますからね」

「グアムで撮影の時にタクシーの運ちゃんと客が喧嘩していて、大きな声で、パンパンパーンてい叫ぶんで、気が気ではありませんでしよね」

「ビビりどおしだったですよね」

「ピストルは厭ですね。何となく不安ですよね」

「それだけで、ストレスになりますね」

「……その点、日本は安全過ぎるぐらい無防備ですね」

 花丸花子先生は水先案内人としては便利だった……。

 我々が行くクリアカレッジまで、バス停からタクシー乗り場までは彼女の指示であった。はじめのの一喜は彼女に従った。「もう恐れることはないあ」

 ロンドンからケンブリッジまでのバスの中では花丸先生とは話を尽きなかった。英会話のこと、これからの授業内容のことすべてを聞き出した一喜には不安という二文字が吹き飛んでしまっていた……。

「先生に続けば大丈夫!」その代わりに、タクシー料金とチップは彼が払った。

「私が払いますよ!」先生は強く言ったが……。「いいんです。小銭の用意もしてありますから……」「大丈夫です。日本の東京銀行で両替してきてありますからドルに関しては万全ですがフランはやってこなかったので不安です」

「仕事のロケで馴れていますからね」

「そうですね。お仕事でしたら、厳しいですよね。準備とか、前もって、スタッフの分まで用意しなければならないからですね。食事なんか、僕がすべて払うんですよな」「膨大の金額でしょうね」「そうですね。グアムの時には20名のスタッフで一日20万円は飛んでしまうんですね」「それは大変ですね」「でも、馴れていますからね」「ロケは準備とかスタッフ表の作成とか忙しいですね」

「仕事は失敗は許されませんからね」「あらゆることを想定して準備するんです」「最後はスタッフの荷物番ですからね」「ロクに自分の土産も買えませんよね」「そうですか。それはご苦労ですね」「今度の旅はささやかな旅であって、プライベートな旅ですから気楽ですね」「そうですよね」「ゆめゆめ、将来は思い出になる旅ですよね」「あまねく、私的な旅は自由さがありますね」

「先生は公私が両方とも生きる研修旅行で羨ましいですね」

「……まぁ、毎年来ていますからね」「失礼ですけど、旅費は学校から出るんですか?」「えぇ、もちろんですよ」「……でも、それなりに苦労がありますね」

「それじゃ、たまらないな。羨ましいかぎりですよね」「後の処理と報告書などが大変なんですよね」「我々も会社のお金を使う時は、見積もりをだしてから、報告書も出しますね。後処理が大変ですね」「公費はそうですよね」花丸先生は気さくな人だったので、話が弾んだ。

「あっという間にケンブリッジですよね」

「1時間弱が30分ぐらいに感じましたよね」

「想ったよりも早く着いて良かったですね」

 駅に着いたので、タクシーを捕まえて「クリアカレッジ プリーズ」

カリキュラムはハードだった……。

 8月6日 日曜日チェックイン。

 8月7日 月曜日、午前9時半~3時半、午後は4時~5時半、夕方は8時~9時半

         最初なので、時間はイレギュラーだった。

 8月8日(火)  午前9時半~11時、午後、11時半から13時、夕方8時半~

         9時半まで……。

 8月9日(水)  火曜日と同じ時間割だった。夕方の8時半からは植えるカミン

         グ・パーティだった。

 最初の日に教室が解らなくてお互いの顔を合わせてからの会話だったが、マティオス・マーティンとの出逢いだった……。そのあとのウエルカミング・パーティーで本格的に会話を行った。出身はドイツで女子大生だということが分かった。日本人留学生とは勉強にならないので、できるだけ避けて、英会話の技術を磨くことに心掛けた。彼女との会話は彼女の美しい会話からはじまった……。

白いロングドレスの似合う彼女は大柄であり、一喜好みだった。最初の外国人との本格的な会話に緊張したが、スムースに会話は流れていった。「このオレの英語でも、言葉が通じるんだな」最初の彼女との出逢いによって自信を付けた一喜はその後のケンブリッジの中での女性との会話をスムースに行うことが出来る切っ掛けだった。その中に一喜だけがビジネスマンだった。中心は学生であり、将来、ケンブリッジ大学を受験する連中が一番多かった。高校生から女子大生まで多様であったが、きゅいく関係の教師も多い本格的な英語講習だったのに、一喜はショックを受けていた。「オレだけだなビジネスマンは……」イタリアの大学の教授までが研修するという専門的な英語研修であって、日本人では少々無理な感じな講習だった。

 例えば……。

フィンランドの先生(頭の回転がいい中年女性でメガネをかけていた)

ドバイの学生(唯一会ったアラブ人で向こうから話掛けて来たが男で小柄感じ)

スイスの女学生(華麗な感じで小柄だった育ちの良さそうで母親と一緒だった)

イタリアの高校生(鼻筋の通った女優のような感じの美人女学生だった長身)

ドイツの高校生(ベッカムのような金髪で英語の会話は欧米人のようだった)

フランスの女学生(小柄だったが笑みが可愛らしいくて、チャーミングだ)

スエーデンの男子高校生(ほっぺが赤い可愛らしい感じの男子学生だった)

スペインの女学生(2,3人のグループで来ていたが、ケバケバしかった)

台湾の女学生(色が黒くて南国的な方だったが、向こうから話しかけてきた)

 何故かロシアと中国本土からは来ていなかったのは、1989年時代はソ連であり、東西問題の真っ最中であって、東側の人間はまだ、来ていなかった時代だった。東欧の人々も見かけなかった。その中で、日本人の多さはめだったが、すべてがタムロしてグループで行動していたのが印象的だったが、一喜は「1人で行動できないのか!だから、英語が上手くならないんだよ」と怒りすら感じていた……。「情けない民族だな!」と激憤していた。一喜だけがビジネスマンであって、他の業種の人との交流は知識の巾を広げた。多くの将来を嘱望されている方々の中で一喜のビジネスマンという異色さが目立っていた。

 丁度、ヨーロッパ共同体の創成期であって、民族の違う方々とのコミュニケーションは大変ためになったが、「直接話すと人間の原点はそんなに違わないな」と感じる一喜だった。

 当時はバブルの後半期であって日本に関する興味があり、一喜のようなビジネスマンは人気の的だった……。人種が違ってもイエロー民族が経済において世界を制覇したことの意味は大きかったが、第2次世界大戦の廃墟から立ち上がった日本人の力に対する憧れの的として一喜がいたのは幸運だった。「物事を地球規模で解決しなければならないな。日本だけで固まっていても意味がない!」

「外に向けての発信が大切なんだ!」「島国根性保守的な考え方が、また、戦争にと駆り出させる」戦中派の一喜は「戦争だけは避けよう!」その一言であった。「経済は1流、政治は3流ではダメなんだよな」

 一喜は胸を張って交流した。スペイン語をならいはじめていた彼はスペインの女子学生に話しかけたが挨拶程度であって、女性名詞などのある英語とは違った文法に難しさを感じていた。「……でも、日本語が世界で一番難しいな。特に漢字の多さにはヘキエキするな」

 ケンブリッジとオクッスフォードを組み合わせたオックスブリッジという造語も初めて知ったのも、このインタナショナルサマースクールだった……。



 第9話 九州単身赴任時代には……。


 福岡の交差点での目に見えない人のための音曲は『とうりゃんせ』だった。


 とうりゃんせ とうりゃんせ

 ここはどこの ほそもちじゃ

 てんじんさまの ほそみちじゃ

 ………。


……だった。この天神様は、藤原氏によって都を飛ばされた菅原道真公のことであったが、彼の気持を掴むことができたのは一喜の同じような運命だった……。

一喜は彼の無念さと寂しさの中で暮らす羽目になった道真公の無念さを浮き彫りにしている音曲『とうりゃんせ』を聞くに付け、あまりいい感じがしなかった。

「このオレもこの地に埋もれないで這い上がるために頑張るぞ!」と心に決めていた。「会社の上層部は自分たちは支社に赴任したこともないのに、偉そうに言いやがって、何だろな」NHKのように地方周りをしてから本社に行くのだったらいら知らずローテイションもないのに、感だけの人事に反発する一喜だった。

「人事の遅れた会社に入ってしまったな」「自分が選んだ会社だから、仕方ないなぁ」腹立たしかった……。

 組織も好き嫌いで行うために。才能ある連中が潰れてしまうという危機感を感じていた。一喜は博覧会を行うという好機に恵まれての赴任だったが、アートディレクターとhしての専門職でありながらの本社ではセールスプロモーション局の範疇の仕事だった。支社には実際遣れるノウハウもなく。自分にお鉢が廻ってきたことに不満はあったが、幸運にもワンパビリオンのやまや明太子館のプレゼンに成功することができたのは偶然の幸運と実力のためであった。

 雁字搦めの本社の仕事よりも、自由な雰囲気で個人の力が生きる支社の仕事には感謝していた。「本社よりも個人プレイが出来るなぁ」一喜は水が合った博多に集中することができたのだった。実際に男性的な博多の風土が好きだった一喜は新婚旅行も最初に選んだ場所だった。江戸っ子だった一喜の性格に合った幸運の場所で、「勲章を持って帰るからな……」と心に誓った。

「ケンブリッジ行きの目標などを、自分のテーマを与えて仕事に集中したい」ともでっかい目標を掲げて勝負した。「今に視ていろ、本社の腰抜け管理職め!」一喜の反発心は常道ではなかった。

 出来上がった本社よりも未完成の支社で頑張ることに集中した。「人間って、やる気を出すと実力以上なモノがでるんだぞ!」と自分に言い聞かせながらプレゼンなどに所為を出した。殆どの成功は一喜を一回り大きくさせた。

「辺鄙なところに飛ばされてもへこたれるな」と言いたい一喜だった……。

 流刑は宗教の世界でもあった……。

 『建永の法難』あるいは『承元の法難』とも呼ばれ、法然上人は土佐から讃岐への丸亀沖の塩飽半島(四国)へ。親鸞は越後(新潟)へと流された……。

 専修念仏で『南無阿弥陀仏』を唱えればいい。という教えであり、人気を恐れた延暦寺の僧や奈良興福寺の僧たちが朝廷に訴えて島流しとなったが、法然上人の弟子4人は死罪だった……。

 流罪される人々は改革派であって、当時の権力者は保守の精神で現在の物事を守ろうとするので、衝突が生じて、しっくりいかなくなるのだ。体制派は改革で新しいことを起こすことを恐れて流罪にするというご都合主義であった、新しい芽を摘むことになる。「邪魔者は消せ!」という考え方で飛ばす。「かまびすしい奴らだ」と想い流罪にするのだ。権力者側のの都合で島流しになるのだから始末に悪い。権力者たちは新しい力を排除してできるだけ無能な自分たちの権力を保とうとする惨めな人種なのだ。

 庶民は菅原道真、法然上人、親鸞聖人などを選ぶ。権力者の名前すら残らない。新しいことをするのは難儀ではあるが、遣らなければ時代が渇望しているのに合わないことは何時の時代でも証明しているのだ。

「管理する側は楽をして管理したいから……」と一喜は自分の会社の古い体質と絡めながら嫌気をさしていた。

「我々世代が新しいことを遣らなければ……」

「組織は邪魔者を排除する」負けず嫌いの一喜はマスコミ関係の古い体質に失望していた。

「すべてが、いにしえの行動だな」

「何で新しいことがダメなんだ!」怒り狂い一喜の心は収まらなかった。

「元社長も摩擦を恐れるな!」と言ってるじゃないのか。

「自分の都合の良いように考える上層部への不満は鬱積していた。

「今に見ていろ! 切り返してやる!」一喜は冷静になれない自分に気がついていた。「途中入社の人間はゴマする人間ばかりだ」「O局長なんかその典型だ!」「実力もないからタムロする」「このオレは支社なんかで野垂れ死にしないぞ!」「それにしても道真公の気持は良く分かるなぁ」

「……天才とうたわれた道真公が天神様になるのは当然だな」

「日本にとっては藤原氏はガンだったかもしれないな」

「それにしても、聖徳太子は、何故、天皇になれなかったのかな」

「馬宿の王子と呼ばれてキリストみたいな伝説的な出産だっんだな……」

「仏教の伝来に力を発揮したというけらど、キリストもユダヤもイスラムも基は同じなんだな」広告代理店として一度は世界一になったことのある会社は自由な競争の社会の中で金メタルを取ったことと同じなんだな」と自分に言い聞かせていた。「プレゼンテーションに勝ち。競争に勝たないで、何が生まれるというのだ官僚共め!」「自分たちが管理し易いように法律を造るむくつけき族だ。

「日本のガンどもめ……」

 競争の社会には自由が必要だ……。

 労働組合の弱体化をはじめ日本の経済のバランスの良さは高度成長期が最高であった。現在は学閥、職種閥、ゴルフ閥、麻雀閥などの派閥による古い体質の経営がいろいろな問題を発生させている原因であり、伸びている時期と停滞している時期の違いが明確である。労働者の質も劣化した部分があり、打たれ弱い部分がある。日本経済の先行きを不安視するのは一喜だけではなく。高度成長期を支えてきた団塊の世代にとっては歯痒いことが続いている現在の日本は第2次世界大戦前の状況に近ずいてきているように見えるが……。

 政府が働き方の提案などすべきでなく。企業によって千差万別な業種があり、一塊ではくくれない状態であるのが現状である。世界経済の中で韓国や中国が追い迫る中での自由競争において、働いていないモノが働き時間を規定するのは可笑しいのである。家電の状態はめを覆う状態であり、労働者もやる気をだして立ち向かわなければ負け組でなってしまう。勝ち組になるにはそれなりの我慢や努力をして目標をクリアしねければ経済戦争に負けてしまう。政府や官僚の時間規制の問題はカール・ポランニーの本などを学習してほしい。各企業に委ねて任せるようにしなければ、働く人々もやる気を起こさない。

 トマ・ピケッティの格差問題をはじめとする世の中の動向は政治家の怠慢によるポピュニズムの台頭はかっての米国のモンロー主義のような封建的な時代遅れな世界に逆戻りしている。2国間協議は難しいので、多国間協議のTPPなどの協議をおこなってきたのに、政変になると国の方向が真逆になるなんて、世界から信用されない国になってしまう危険性がある。自分の国のみの発展を願って交渉しても相手は乗ってこない。自由競争の中で敗れつつあった米国の経済は立ち直るのは難しく、企業自身が多国籍企業になっている米国では、米国内のみを考えていたのでは勝負にならない。グローバリーゼーションの中で労働者の賃金の上昇で競争力が落ちてきている現状を考えないとコンサルティング作業を否定してもはじまらない。米国の経済競争に勝てる対策は労働者のやる気と経営者の高給取りになり過ぎた給料など多くの山積みの問題を解決させないで、他国の欠点のみを突いてきても価値すらない。アジアの経済の強さは安い賃金で良く働く労働者の気力があるからであり、楽をして儲けようとする時代は終わったのである。米国よるも努力と忍耐力で勝ち抜いてきたアジアパワーの前に米国経済はある面では敗れたのである。

 テロ対策という理由で共謀罪をごり押ししたところでこの法律をじっさいに使うことの難しさがある。戦前の治安維持法のような悪の法律との比較検討することは国民の自由と平等をどうしてゆくのかという問題とも兼ね合いながら施行しないと、戦後の自由さを殺すような法律はあまり造らない方がベターであろう。

 新自由主義の欲望の破綻は米国にも、日本にも、ヨーロッパにも見られ。これからの経済をどの様な方向へ進めて行くのか見当もついていないのが現状である

真のリーダーのいなかうなった世界で環境問題はじめどうやって、難問を進めて行ったらいいのか。誰も分からない。格差問題をはじめ多くのモヤモヤをなくすためにポスト新自由主義の考え方が重要になってくる。ポール・ポランニーの『大転換』を一喜は読んだが、いいヒントが隠されているように思える……。

 彼の唱える自由社会主義は、負け組のフォローであり、勝ち組だけがいい思いをしている社会では不味いのだということの重要性はセフティーネットをいかにするのか? その中で経済成長をどうさせるのか? ピケッティーは経済成長が赤字を救うと言ってるが、ポランニーは弱い人々のフォローが大切だと言っている。日本のデフレがなかなかインフレにならないのは、中産階級の減少である。戦後の高度成長を支えた中産階級の崩壊は、幾らマイナス金利が日銀がやったところで、お金を借りる人がいないのが現状であり、金利が低くても、喰うために精一杯の国民が多くなってしまい大企業は内部保留でお金が動いていない状態が今なのである。歌を忘れたカナリアのように日本の民族はお金を使えなくなった人々に成り下がってしまったがは、公的資金の使い方の問題が多い。共産主義の失敗は独裁主義になりすげたきらいがあり、国民の働く意欲ななくなってしまったところに原因があるが、日本の全体主義的な思想もこれからの世の中を灰色にさせであろう心配がある。一喜のように戦後の高度成長期を支えた人間にとって、現状は寂しすぎる。

 池田勇人のように所得倍増のような勇ましい政策を携えて、登場してくるスーパーマンを期待しているのだが、なかなか出てこない。

 一喜のような戦中派は現状の軟弱さを我慢しきれないでいる。力を振り縛って線路をもう一度、引かないと方向性すら見えてこない不安な社会になってしまう。「日本の社会大丈夫かな……」

 米国においても海外赴任者の業務が終わって、2年以内に4分の1の人が退社するという……。

 日本においても2年に多くの赴任者の多くが退社する面が多いというが、アジアを含めて100万人以上の人々が海外赴任をしている現状を経営者は深刻に考えているのか……。ローティーションを考えての赴任だったらまだしも、人事の面でも本社にいなかったリスクなどを考えての人事を行っているのだったら仕方がないが、昇給のハンデなどは歴然としている。海外時代よりもつまらない仕事などで、海外赴任時の活動が生かされないでは、折角、海外まで行って仕事をしてきた意味がない。今の経営者は自分たちは海外赴任の経験が少なく海外事情も分からないくせに口出しするという悪い癖ばどによって、赴任者のなる木を落とす原因の一つとなるが、本社中心の移動だけだった狭い見識で経営を行うのでどうしても海外せいかつの実感など分からず。失敗の原因を造りだしている無様な

経営者が多いが、広く世界を視ることは必要であり、今の日本の置かれている立場などを理解して経営を行えばいいのに、せれができない失格した島国根性の経営者が多いが、折角、海外に営業や製造所を移しても、あまり意味がない。本社の欠点も見えてきた赴任者は辞めてしまうのであって、海外経験が新しい業種の発見などによってコネクトされて、引っ張られるケースもあろう。視野を広げるチャンスを経営者も体験する必要があろう。

 日本のみの経験だけでは企業は生き残れないところまでにきている……。

 流罪で有名な俊寛は鬼界ヶ島へ流された歌舞伎の名場面であるが、一喜も旧歌舞伎座が取壊される前のラストの2月公演を中村勘三郎最後の公演を偶然観たが、波間の舞台に映える演技の勘三郎の渋い演技は心を打つモノであった。

 自分だけ残ってしまう流人の苦しさや悲しさの表現を天才勘三郎は命をかけて演技していたのを一喜は身体全体で感じていた。

 手を伸ばして出船に向けての無念さ、空しさは心が避けそうであり、誰もいない去った後で、自分に置き換えたら、その苦しさは耐えられるのかなと空しさは格別であり、ゆめゆめ帰れるだろうと期待したが、叶わなかった自分だけが刀残されてしまう悲劇は胸を打つ。

 島流しへの反感と昔の罪に関する対応の不味さは人間を苦しめることが本当にいいのかと一喜は感ずる。

『荒海や佐渡に横とう天の川』の句のように海の難所での場面は現代にも当てはめられることも多い。左遷や島流しには権力者の横暴な行動が時として自分に返って来るのであって口先だけで行動しているプロの政治家が昨今、負けるように権力者の行くへも民衆の一票に握られていることを忘れてはならない。

 何べんもいうが何時の時代でも流罪される方は改革者であり、権力を守ろうとするものは崩壊してゆくのは世の流れであろう。管理者側の『邪魔者は消せ!』という深層心理によって改革者が一時的とばされるが、その後権力者側の敗北は決まって起こる。「……結局、了見が狭いんだな!」新しい時代には新しい権力者を選ぶのは当然であり、昨今の日本の経営者の挫折は柔軟さと本社以外には出たこともない自分たちの了見のなさがなす業であろう。狭い了見のなさがむくつべき事態になってしまうのであろう。

 中産階級が減少した日本のこれからは議員や官僚の高いギャラを抑えることが重要であろう。

 何時に時代でも、新しいモノが既存の勢力との闘いは続くであろうが、日本の昨今の悲劇はさやかに失政や経営判断ミスによって起こりる『井の中の蛙』であることが原因している。世界の中での荒波に曝されている日本の企業のピンチは何の世界でも、良きリーダー不足のためであろう。このままでは終わらないぞ。きっと……。

 カール・ポランニー(Karl Polanyi 1886~1964)

 2度の亡命を含みながえあ3度の海外移住を経験した。ハンガリーという東欧に生まれて流罪ではないけれど多くの国々を体験したことは、広い視野の上に立って幅広い分野で活躍は本人にとっては大変な生活であったであろうが……。


 ハンガリー時代(1886ー1919年)

 ウィーンの裕福なユダヤ人の家庭に生まれて子供たちは家庭で教育けた 

 英語、ドイツ語、ラテン語、ギリシア語を習得した。特に、英語に力を

 入れた。


 ウィーン時代(1919ー1933年)

 ウィーンは赤いウィーンと呼ばれ労働者階級の共同生活の都市形態の実

 験室だった。業界と労働者階級の妥協の事例としてポランニーの知的発

 展の糧となった。


 イギリス時代(1933-1947年)

 キリスト教徒による社会主義ネットワークの構築に取り組み、キリスト

 教社会主義の運動や研究会に積極的に関与した。


 北アメリカ時代(1947-1964年)

 60歳を越えたが、コロンビア大学経済学部の客員教授として招聘された

 人類の平和と人間の自由という目的を達成する手段としての経済を制度化

 し社会に埋め込むためのポランニーの知的格闘の軌跡であるのだ。


 著書『大転換』では自由社会主義を唱えた……。


 一喜も前述したように、一読したが、ポスト新自由主義時代の方向性を含

 んでいるような感じであり、これからの政治経済のヒントになるであろう

 ことは理解できた。


 いろいろなところを転々とした彼の幅広い思想は、これからの混迷高き世界

 経済のヒントを与えてくれるだろう……。


 流罪の話からポランニーまで、話が飛んでしまったが、日本だけでなく。多

 くの人々が戦争などによって転々とされた20世紀は世界大戦が2つもあり 

 第1次世界大戦、第2次世界大戦とに渡って、人々を苦しめたのであった。

 人間は苦労しないと成長しないといわれている動物ではあるが、ポランニー

 はじめ菅原道真、俊寛、法然上人、親鸞聖人などの名のある人々も権力者と

 の闘いによって自由や先見性を勝ち取ろうとして、苦労してきたのだと一喜

 は学習した。

 音楽家のベーラ・バルトークも、祖国ハンガリーを離れて米国に渡って苦労

 した。2つのせんそうによる弊害であり、20世紀は混乱の摩擦の多い時代

 であったとつくづく一喜も昭和の2桁生まれの人間として、実感として戦争

 だけは厭だなと想うのだが……。



 第10話 ケンブリッジに咲くマーティンとの恋……。


 奇しきゆかりのマティオス・マーティンとは5円玉のプレゼントから、はじまった……。

 彼女は金髪を靡かせて歩く大柄なドイツの女子大生だった。一喜の一目ぼれからはじまった。沢山に紐に結び付けられた5円玉。勿論、真ん中に穴が開いた例の日本のコインだった。会社の先輩からの助言で米国旅行で成功した穴の開いたコインは世界で珍しい存在だ。と言われて「それもそうだな」と納得ずめのプレゼントだった……。

 世界では珍しい穴の開いたコインの5円玉ぐらいで白人女性が好意を寄せるなんて考えもしなかった一喜だったが……。米国のデューズニー・ワールドで成功している一喜にとっては自信はあった。ヨーロッパでも悦ばれること請け合いであると信じていたのだった。見事にマーティンにも成功したが、後がいけなかった。「穴の開いたジャパニーズコインプレゼントするよ!』というと彼女の頬はピンク色に変わったかと思うと「サンキュー」と笑顔が返ってきた。調子に乗ったフランスやスイスの女子学生にプレゼントしたのがいけなかった。それを見てしまったマーティンの表情は急変した。欧米人にジェラシーをみたのははじめてだったが、目と手でダメだという風な態度をみせたのには一喜は驚きの表情を浮かべた。「悪いことをしたな!」反省した一喜だったが、もう、遅かった。幸先のいいプレゼントだったのに、嫉妬されるとは思いも寄らなった一喜は気まずい思いをした。「小説では読んだが、生で見る女性の嫉妬は恐ろしい……」「最初のプレゼントがまずかったんだな」みんなにあげると言えばよかったのに……」

「彼女だけのプレゼントと勘違いしてしまったのだ」情けないコミュニケーションの失敗が悪かったのだ。あれだけ悦んでくれたのに、その後はまったく、無視されてしまった。一喜は好き嫌いでプレゼントしているのではなく。「みんなに日本の変わったお金をプレゼントしているだけなのにな。残念で仕方ない」と後悔していた。英国の憲法の講義の時マーティンと一緒になったが、午後からの講義だっあので、逆工に映える金髪の美しさは忘れることが出来なかったが、真近で見る彼女の華麗さは忘れることはできない。金髪を靡かせての白いロングドレスは品があり、ヨーロッパの上流家庭の子女であることは間違いなかった。目の当たりにしてみる金髪のウs着くしさは輝きがあり、笑ったときにはピンク色に染まる美形のマスクには堪らない刺激があった……。

 授業内容はフォークランド(マルビナス)紛争をテーマにマーガレット・サッチャーの名前の連呼から始まった……。「マーガレット・サッチャー」といえば当時の首相だったなと一喜は感じながら、徐々に英語のスピードに馴れていった。日本で思っているよりも自国の地域紛争の過大評価は大きく。凄いことなんだなと関心しながらの聴講に胸は高鳴って質問までしてしまった一喜だった。

 自国の勝利は嬉しいのだろうが、アルゼンチンのことを考えれば、そうも言ってられないことなんだなぁと感じる以外になかった。「生で聞く、英語のスピードに最初は戸惑ったが、馴れてくると解るようになっていった」「想ったよりも憲法の話ではなく政治の歴史を講義してるのだなと分かるようになっていった。

すべてが英語であり、勿論、質問も英語だった。一喜も進んで英語にのめり込んで行った。「日本のように、TOIEICのテストでは、生きた英語の会話テストすることができないな」つくづく感じた一喜だった。「英国か、米国へ留学して生きた英語を現地で学ばないとダメなんだな」と感じる一喜だった。「日本の英語教育はこのままでいいなかな!」「流れるようなスピードで喋る講師の機関銃のような英語で逞しさがあり迫力があったいいなあぁ」「すべて、体験だよな」

「英語で喧嘩するようにならなければね……」

 「訛りがあり、方言があり教科書通りにはいかない英語が現地には、蔓延っているんだな」

「若い内に行動せよ……」

 5円玉のご縁で知り合えたマーティンとのコミュニケーションは想った程、捗らなかった……。

 お互いに教室が解らなかった出逢いから、はじまってウエルカミング・パーティーでの会話。5円玉プレゼントでの会話で終わってしまった。それから10日間は『英国の憲法』で顔を合わせるのだが会話は途絶えたままになってしまった。「中年男の失敗作だったかな……」

「折角、悦んでくれたのに、最初の内は……」

「もう少し、会話練習をしたかったのにな」 

 その内に、東大の佐藤弘という日本人の学生と仲良くなって、彼は英会話が全然ダメだったので、美大卒の一喜に聞きにきたのであった。「英会話はどうしたら、上手くなるのですか?」と言われ、一緒に授業を聞くことになった。

「それにしても、会話のペースがはやいですね」

「……とくに、この英国の憲法の先生は、まるで、機関銃のように喋りますね」

「ほんとうだよな、最初は全く、分からなかったけど、馴れてきたら少しづつ分かるようになったけど……」「早すぎるよな!」「そうですね」

「とても付いて行けませんよね」

「最初の内はマーガレット・サッチャーしかききとれなかったよ」

「興奮してサッチャー、サッチャーの連呼ですからね」

「サッチャーの時は大声になるんだよね」

「そうなんですよね」

「日本じゃ、それ程、評価してないけれどね」

「やっぱり、地元ですからね」

「過大評価されているのでしょう」

「歴史に残る人なんでうね」

「そうだねぇ~」

「それにしても凄い評価ですね」

「内容は良く分からないけれども……」

「その内、フォークランドという単語ふが出てきた」

「日本じゃ、相手のアルゼンチンびいきだからね」

「確かに、それもありますね」

「ほんとうに疲れるよな」

「英国の憲法の講義を期待していたら、英国には憲法がなくて慣習法で国を治めているんでしょ!」

「ほんとうに吃驚したよね」

「講義の内容は英国の政治史じゃないのか」

「まったく、そうですよね」

「これじゃ、機体外れだよな」

「僕なんて英国の憲法の参考本まで買ってきたのにね」

「期待外れだよな」

「そうなんですか?」

「予習してきたのに、これだからな」

「日本も英国のように歴史があるから憲法よりも慣習法を大事にしないとね」

「生活に結び付けられていますからね」

「日本らしさも戦後なくなってしまったよな。確かに……」

「そうでうすよね。英国のように慣習を、もっと、大切にしなければね」

「そういうことも分からないで、何が憲法改正ですかね」

「今の憲法は戦後のドサクサに紛れて造った割には立派な憲法だよね」

「そうですよね……」

「……でも、憲法改正は国民の方から盛り上がってこないとね」

「統治する側が国民を統制し易いようにするためだったら無駄だよな」

「英国の憲法の講義を聞いていると、あまり、憲法なんかいじり過ぎない方がいいみたいだね」

「あんまり、法律に振り回らせたくないからね」

「ほんとですよ! 人間の生きる権利の原点を抑えていればいいんだよな」

「静かに、普通に平和にくらhしたいね」

「また、戦争を繰り替えした昭和の二の前は繰り返したくないからね」

「そうね。自由を奪われたいないから……」

 小柄でメガネをかけている佐藤くんは純粋に語り続けた……。

「あんまり難しく考えない方がいいよね」

「普通は、あまり憲法の話なんかしないよな」

「人権とか差別とかがしっかりと抑えていればいいんだよね」

「ニューメディアなどの対応も考えてね」

「でもそれは行政法で出来るんじゃないの」

「日々の生活のことですからね」

「そうなんだ。原点だけ押さえて、後は国民に任せておけばいいんだ……」

「戦後、民主主義も占領軍から押し付けられた日本だもの……」

「ある面で、統治し易いように造られているかもしれないね」

「そうですよね。時代は変化するから、その対応はしっかりしないとな」

「英国は自由や民主主義の原点ですからね……」

「いい機会だよな」

「王室はあるけれど、自分たちで生活してるし、商売もしてるからえらいよな」

「議会と上手く分けているよな」

「日本も真似をしたんだけれども、何か違うね」

「何でしょうかね……」

「政治じゃないの。日本じゃ、貧弱だからね」

「そうかもしれないな」

「日本もどうしたらいいんだろうか」

「政治家に人材はいないし、経済界の優秀なひともあまり、政治家にはならないしね」

「カタチは真似したんだけども、中身の人材がいないんだよな」

「経済は1流、政治は3流と言われるからね」

「憲法のない国もあるということを知らないで憲法改正ですからね……」

「人間が平等に生きる環境づくりを憲法が保障してるからね」

「憲法改正を叫んでいる奴らほど憲法を知らないよね」

「英国の憲法がないと学んだからには日本にも参加にしないとね」

「そうですよね。政治家でも知らない人が多いんjないの」

「世界にはいろいろな国があるからね」

「ヨーロッパ共同体も情報や両替の時なんか便利だよな」

「オレもフランの両替をしてこなかったな」

「空港でしようと思ってね」

「僕もドルだけですよ」

「ヨーロッパは小さいけど、歴史があるからね。直ぐには纏まらないよな」

「日本のような極東のいなかじゃ、取り残されてしまうな」

「そんな感じですよね」

「日本にも問題が多いよな」

「これだという外交や防衛には信念がないんだよな」

「ほんとうにそうですね。傘の下だけでは独立国になれないよな」

「英国の民主主義の原点を学ぶべきだよな」

「議会制民主主義の原点である討論は教会で向き合って討論することから始まったんだって……」

「さすが、英国ですね」

「花丸花子先生に案内されて小さい教会を見学してきたよな……」

 ジェフリー・アーチャーといえば、英国の有名な政治家だった。

 彼の別荘を知っている花丸花子先生に案内されて見学したが、思ったよりもこじんまりとした邸宅だった。彼に興味があって一喜は感激で一杯だった。庭には小さいリンゴの木があったので、土産に一つ貰ってきた。その花子先生が盛んにケム川に浮かぶパンティング(小舟)を乗ろうと誘うのであったが、小型船舶4級の免許を持っている一喜はライフジャケットも着けるで危険な乗船に反対していた。それでもしつこく誘うので、困る果てていた。一喜が断ったので、今度は東大の佐藤くんを誘った。止せばいいのに彼はOKして乗ってしまった……。

案の定、舟は転覆して、メガネをなくしたし、レンズを片方なくしてしまったということが一喜の耳に入ってきた。

「水の怖さをしらないな。小さい川でも危ないぞ!」と内心想っていた一喜は佐藤くんに会って注意した。

「命知らずめが……」

「メガネが困ってしまいましたよ」と汚れた片方レンズのメガネを見せられた」

「こりゃぁ、酷いね。黒板がみえないでしょ!」

「困りましたよ。不便ですね」

「そうだろうに……」

「花丸先生のしつこい誘いに、断ったんだよな」

「僕にお鉢が廻ってきましたので、……」

「そうか、それは不味かったな」

「僕も最初は断ったんですけれど、乗ってしまいました」

「命が危なかったね」

「そうなんですよね」

「笑い話で済まされないよな」

「水は怖いですね。小さい川でもですね」

「そうなんだよな。大きい小さいは関係ないんだよな」

「前後の席を変わろうとして立ったら、ドボンですよね」

「バランスを崩したんjないの?」

「そうなんですよね」

「あんな小さな舟だから無理だよな」

「臭い水でしたし」

「立てる深さだったんですけれども……」

「花子先生が悪いんだよな」

「僕も乗りたかったんですけれどね」

「メガネを落とした瞬間水が濁ってるのに、懸命にさがしました」

「それでも良く見つかったな」

「やっと、あったんですけど、レンズが片方ないんですよね」

「情けないな。メガネのレンズは透明だから見つからないよな」

「不便だろうに……」

「そうなんですよ。ド近眼だからな」

「……でも、命あってのモノザネだぜ」

「本当で差うよ!一時はどうなるかと想いましたよ」

「命がけの思い出だったな」

「辞めれば良かった!」

「仕方ないよな。記念だな」

「今だから笑えるけらど……」

「そうだよな。危なかったよな」

「オレはあの先生を避けて正解だったよな」

「花子先生はしつこいだろう」

「そうなんですよ。最初は断ったんですけども……」

「最初にオレに声をかけてきたんだけど、断ったんだよな」

「僕も根負け島市と」

「それ以来、避けているんだよな」

「そうですか、それは正解ですよ!」

「まだ、独身らしいよ。気をつけろよ」

「そうでしたか。喜を付けます」

「あんなにしつこい人みたことない」

「……こんとうに厭ですね」

「誰も相手にしないんjないの。自分勝手だし……」

「そうなんですよね」

「……だから、伊佐木さんに声をかけるんですよね」

「オレは身震いするよな」

「オレ、ネチネチする人嫌いなんだよな」

「失礼ですけど、あの顔で迫られてもお笑いですよね」

「君もそう思うだろう」

「オレは厭で身震いするよな」

「……できるだけ、近ずかないんだよな」

「最近は寮の隣の人がカメラマンの奥さんで話が合うから、その人と話しているんだ」

「最初、手に包帯してるから、どうしたんですかと聞いたら、猫の咬まれたんだって……」

「そうですね。危ないですね」

「森が多くて、野生化しているらしいよ」

「可愛がって、手をだした途端、ガブって、遣られたらしいよ」

「それは危険ですね……」

「あまり、猫に手を出さん方がいいよ」

「僕も気を付けます」

「何の病原菌を持ってるかわからんしな」

「病院に行ったみたいだな」

「そりゃ、そうですよね」

「何が起こるか分からないよな」

「僕も、転覆なんて想いも寄らなかったですよね」

「海外旅行では気を付けないとな」

「アクシデントに会いますからね」

「……ほんとうに心配ですね」

「オレなんかできるだけ大人しくしてるんだよな」

「それが正解ですよね」

「危険と厭な奴からなるべく遠ざかるんだよな」

「花子先生も自分勝手すぎるから……」

「そうだな」



 第11話 支社の受付の女性の結婚式に招待される……。


 小野美枝子と受付の女の子の結婚式に招待された……。

 会費制であったが、ケヤキ通り(原宿のような感じの場所)にある洒落た喫茶店で行われた。

受付の子は笑顔が可愛い感じで小柄な女性だった。美枝子は赤のファッションで纏めていた。靴まで赤であったので、一喜も吃驚して、童謡の『赤い靴』を想い出していた。


 赤い靴履いてた女の子……。

 異人さんに連れられて行っちゃった。


 横浜の波止場から船に乗って

 異人のお国に行っちゃった。


寂しい唄を想い出したが、目出度い結婚式には合わなかったが、美枝子に気が合った一喜は彼女のファッションからイメージをしてしまって、受付の女の子にはあまり興味がなかった。しかしながら自分の置かれている立場を噛んげると、自分は『博ちょん』という寂しい立場は赤靴の女の子と一緒だった……。

「素敵なファッションじゃない……。君が花嫁さんみたいだね」

「ありがとうございます」

 都会的なセンスに、一喜はいつものビジネス服とは違ったイメージに美枝子の大人とhしての華麗さがあったことに驚嘆していた。

「今日は赤で纏めたね!」

「お目出度いから!」

「靴も赤だし!」

「凄いね! いつもとイメージが違うな」

「どう、違うんですか?」

「華やかで華麗だしね」

「2重にお目出度いね」

「そうですか、東京の方に褒められると嬉しいですよね」

「……でも、天神地下街なんて、この間行って見たけど、殆ど原宿などの支店が多いよね」

「私も良く行きますけど、そうなんですかね」

「ルイビドンバックなんか、本物が安いんだよな。吃驚仰天したよな」

「そうですか。伊佐木さんに褒められるなんて幸わせですわ」

「……何で?」

「だって、東京センスで、しかも、スタイリストなんかと一緒にお仕事してますからね」

「それもそうだけど、地域差がなくなったね。テレビや映画などの影響で東京も地方もあまり差がなくなったね」

「飛行機があるし、時間的にも、直ぐだしね」

「新幹線も大きいよな」

「僕の担当した明太子屋さんなんかも明太子戦争でブームになったしね」

「随分、昔の話ですね」

「そうだね。25年前かな……」

 美枝子は滔々と博多のことを話出した……。

ちょっと、鼻にかかった声で甘ったるい調子で……。

一喜は父性本能にビビビィときた。

 博多美人が滑らかな博多弁で……。

「おまか、っごたいばして、気は強うてがまだす」

「ソレ、なあに?」

「博多弁です」

「かまへん、かまへん」

「何時もは、標準語のくせに……」

「……でも、時々アクセントが変だよな!」

「そんなに気にならないけれどね」

「小学校の教科書は標準語ですから」

「ひゃくっと言われたっちゃ、おたえよーのなか」

「分からんな」

「よかよか……」

「あいらしか、君は……」

「えらいジョーもんだし」

「それくらいなら、わかるよな」

「……でも、方言って難しいな。いきなり言われもね」

「なまりが出てしまうんだな」

「あーねはーほい」

「はじまったな」

「ハッハッハっ……。一時高校生の間で流行ったな」

「風が吹いてきたばい」

「寒いよな!」

「博多弁は分かりますか?」

「結構、テレビで観るからね」

「馴れれば、状況判断でわかるよな」

「そうですね。英会話と想えばいい」

「オレも江戸っ子だから舌っ足らずなんだよな」

「そうでもないですよ」

「腕もこまか、胸も細か」

「着やせしてるんじゃないの?」

「今度、お見せしましうか」

「セクハラだよな」

「いんにゃ、うちは知らんばい」

「逃げられてしまったな」

「そげなことゆーたら、もーおもろいーけ辞めた」

「……でも、興味あるよ。中身を……」

「よかよかドンドン!」「よかドンドン」

「ほんとうに?」

 博多弁丸出しの美枝子だった……。

 受付嬢の厳かな結婚式とは対照的に美枝子との会話は博多仁和加(福岡市指定無形民族文化財。長い歴史と伝統をもつ郷土芸能)になってしまった。まるで掛け合い漫才であって、腹の底から笑える演芸会のようで、彼女の顔もクチャクチャになって悦んでいた。興笑劇であって、ほんとうはお面をかぶりながらの喜劇なのだ……。

「美枝子さん上手いですね。博多弁は……」

「当然ですよ。博多生まれの博多育ちですから」

「そういえば、切れ長の目といい。博多美人の典型ではありませんか」

「ありがとうございます」

「あごとなわたすですから……」

「何といいましたか?」

「おしゃべりな私ですからと言いました」

「了解!」

「いんじゃ」

「…………」

「いいえといいました」

「了解!」

「いさぎよ」

「何?」

「元気よかですよ!」

「了解!」

「あたきもかたしぇちゃrんなー」

「「それ、日本語ですか?」

「あたしも、仲間に入れてくれないかな」

「あーね、とうきび食べたかな」

「トウキビ? 砂糖の?」

「もろこしー」

「とうもろこしですね。まだ、今年は食べていませんね」

「すいとー」

「お好きですか?」

「勿論、大好きですよ」

「すらごとじゃないでしょうね」

「エッ! スラゴト?」

「ウソのことですよ」

「まるで英会話ですね」

「そうですバイ!」

「そうですか。それは良かった……」

「疲れますバイ!」

「オワリデゴワス!」

「拙い会話ですみません」

「いんにゃ、いんにゃ」

「きょうーはよかおひよりになったらすな」

「彼女の普段の行いが良かったんだよな」

「ぬっか、ぬっか」

「こっちにきんしゃい。お料理あるばってん」

「あろがとね」

「君の言葉が移ってしまったよな」

「英会話のシェンシェーはこなかったの?」

「来なかったバイ」

「受付嬢は英会話習っていないしね」

「よかよか……」

「小野さんの結婚は?」

「まだ、まだ、とつけむなか」

「さようですか。ごめんなさいね!」

「よかよかドンドンよかドンドン」

「なんのあーた」

「いそうだけれど、好きな人が……」

「まだ、まだ……」

 美枝子の可愛いホッペが赤くなる。

「………む、決まってるじゃないの?」

「まだだ……」

「ふとか人、好き」

「じゃ、おれはダメだな」

 身長の低い一喜は項垂れた。

「理想じゃけん!」

「そうあk何でもいいんだ」

「よかよか……。よごさっしょ」

「もう、いるんじゃないの?」

「まだ、まだ。つまらん、つまらん」

「アッ! また赤くなった」

「ずつない」

「自信を持ってくださいな」

「これだけは縁ですからね」

「永久就職だから慎重に!」

「てがわない……」

「エッ、何て言ったの?」

「からかわないでねって」

「そだったんだ。ご免ご免ね」

「何時か、エエ人現れるバイ」

「………で、ゴルフやるの?」

「ゴルフしきらんちゃんねー」

「そうかそれは残念!」

「好いとじゃけん」

「見るのは好きなんだ!」

「あんたバリバリうまいの?」

「まあ、まあ、だけれど……」

「会社のコンペ、どないしたと」

「上位3分の1に入ったけども、ハンデに救われた」

「よかよか」

「前半は良かったけど、後半は池が多くてダメだった……」

「酔ったとー」

「ワインでしょ」

「そうやけん」

「ペースが速いじゃんか」

「しゃあしか……」

「ほんとに酔ってきた」

「どげんもごげんも無かろうもん」

「あんまり、酔わないでね」

 美枝子の頬が赤くなる。

「あーね」

「難しいよな。こっちのコースはトリッキーだから」

「やけん言ったろうが」

「ま、地域地域で違うからね」

「春日原をカスガバルというんだから、吃驚したよな」

「うんだうんだ」

「本州と九州の違いだよな」

「まいまい、知っとる」

「もう、分かんねえな」

「カタツムリよね」

「アッ、そうなの」

「ますぼり、知っとる」

「分からんね」

「へそくりのこと」

「そうだったの」

「難しいな博多弁は……」

「どんたく。祇園山笠知っとるの」

「全国的だから知っとるよ」

「博多弁になってきた」

「このオレも移ってしむたよ……」



 第12話 アスペンデザイン会議に参加して……。


 ケンブリッジ大学で、民主主義の原点での教育を受けた一喜は、その後のビジネスや人生に置いて重要な大転換を迫られていた。それに遡ること3年前にアスペンに行った……。

「日本のようにコピーボーイを嫌い。出る杭を伸ばす教育は英国はお手の物だ」

「日本のような出る杭は打たれる社会では国が伸びていかないな……」

 米国のコロラド州で開かれたアスペンデザイン会議に参加した彼は英国の幼児教育の講義に感銘を受けた。アスペンの市長とも名刺交換した一喜は、その若さに、まず、驚いた。茶髪のフサフサの髪の毛の多さに30代を想わせる感じであったが、ニコヤカに簡単に英語で挨拶してから名刺交換を行った……。隣にいた若い奥さんを連れての参加者の挨拶周りをしていたのは印象的だった。

 その中の英国フェアーであって、テーマは英国中心であって、一喜は英国の幼児教育のテーマを選んで講義や映像を眺めた。当時は、チャールス王子とダイアナ妃の顔がデフォルメされたイラストがキャラクターとして会場に溢れていた。

 アスペンはハーバード・バイヤーなどの有名なデザイナーが集まって街の建築デザインを行ったところであり、高級別荘地としての地位があった……。昔は銅山のある廃坑であったg、寂れたところに別荘地を造ったことは彼等の先見性に敬意を表す一喜だった。アスペンは年に1回国際デザイン会議を行う程、文化程度の高い街に生まれ変わっていた。日本の夕張地方にも興味があった一喜は、このようなイベントを行えばいいのではないかと、ヒントを得ていた。それにしても素晴らしい建築物が並ぶ別荘地は外から見えても中まで個人所有のために見学できなかったが、外見だけでも一流の建築物が並んでいた。

「オリジナルがすべてだ!」

 かなり日本の中では有名な一喜だったが、この一言がボディーブローのように効いてきた。

「日本もオリジナルを大切にしなきゃー」

「これからの国際化に勝負できない……」

「出る杭はうたれるし……」

「ただの足の引っ張り合いだな」

「もっと、伸び伸びとやらないあと……」

「希望が持てないな」

「市長も若いし、奥さんも金髪で綺麗だし、羨ましいな」

「狭い島国の日本じゃ、無理があるなぁ!」

 一緒に同行した滋賀県庁の課長の中込さんといろいろ話した。

「ほんまやで!」

「コピーボーイが嫌われる社会じゃないとね」

「日本ではでけんな!」

 方言に吊られて一喜も喋った。

「じちからと、やるバイ!」

「嘆かわしな日本の教育は……」

「じょーだい、こんなもんやろ」

「そうですね。これからは、どうにかしないとね……」

「うまくさい」

「何の匂いですかね」

「ファーストフードかな?」

「ホットドックだったらいいんだけども……」

「ほーけ、ほな、おまいとみにいこけ」

「旨そうな匂いですね。行きましょう。腹は減ってるし」

「ぞーさんことだがな」

「なんばって、コーンのことやろ」

「そうかもろこしの焼く匂いじゃんか」

「……安いな」

「アスペンのマック店じゃないのかな」

「何処でもありますね。マクドナルドは……」

「じゃがいもの、匂いですね」

「そうだ。ポテトだよな」

「フリーって書いてありますね。飲み物は自由に選べるんだよね。きっと……」

「サイズはミディアムにしまうあか」

「グレイトテイストのためのグッドタイムとうたっているな」

「マクドナルドのスローガンですね」

「そうそう、そうなんだ」

「会場のこんな近くにマック店があるんですね」

「ほんとうだよな」

「サウスミルストリート406ですね」

「そうだね……」

「自転車を借りてきて良かったね」

「パスポートを預かるなんて考えましあtね」

「こっちは不安だよな」

「貸す方は相手が逃げられないからいいよな」

「一番、弱いですね」

「海外じゃ、パスポートがなければ、どうしようもないな」

「動けないんだから……」

「……いいアイディアですね」

「早く、自転車返さないとな」

「それにしても自転車の高さが高すぎますよね」」

「大きいんだよな」

「オレなんか、身長が低いから、足が付かないでフラフラだよな」

「確かに、パスポートを抑えられていると不安ですね……」

「ここは米だし、コロラドのアスペンだからな」

「……でも、、別荘地巡りはできますね」

「だけど、自動車には気を付けないとね」

「スピードを出しているから危険だよな」

「足が地面に付かないから不安だし!」

「交通標識もシンプルですね」

「ほんとうに、地図がなければ分かりませんよね」

「ほんまやで、何処が、何処だかさっぱりわからんもんね」

「そうですよ。立派な別荘は立ち並んでいるんですけれども、何処のどの人の家かさっぱりわからん!」

「案内所があったんで、聞いてみましょうか?」

「そうするか!」

「それにしても凄い別荘ですね。デザインが素晴らしい……」

「日本にはないデザインばかりだね」

「ハーバード・バイヤーの作品群だすからね」

「どっか、違いますね」

「全体に大きいですしね」

「ほんとに、デッカイよな」

「殆ど、住民は白人系らしいですよ」

「やっぱり、お金持ちの別荘だね」

「こんな家に住んでみたいですね」

「ほんとうだよな」

「日本の別荘が兎小屋に見えますね」

「案内所で見たけれど、昔は銅山だったらしいけど、今な様変わりしていますよね」

「そうだよな。銅山の廃坑とは思えんよな」

「日本でもアスペンのデザイン会議のような事業をやりたいですね」

「そうだね。滋賀だから琵琶湖辺りでどうかな……」

「北海道辺りがアスペンに似てるから、スキーも冬にはできるし、一緒やね」

「そうですね。夏に遣るわけですね!」

「冬は雪で閉ざされているからな」

「さむそうですね」

「山の上だしね」

「零下20度以下になりますよ。きっと……」

「オレ寒いのきらいなんだよな」

「アスペンまでのコロラド山脈では恐いぐらいに揺れましたね」

「そうだったよな……」

「小型機だったので、どうしようかと想いましたよ」

「隣に米国人のオッサンが乗り合わせて、何処から来たんだと聞かれました」

「ジャパンというとニッコリと挨拶しましたよ」

「殆ど、乗客は白人でアジア系も少なかったですね」

「こんな所までこないよね。アジア人は……」

「少ないですよね」

「あんまり揺れるじから、助けを求めようとしても無駄ですよな」

「出来るだけ俯いていて、静かにしていたけれど……。恐かったな」

「こんな辺鄙な場所までこんせんよな」

「そうですね」

「別荘地ですから、夏の避暑に来てるんですね」

「ビジネスマンは少なかったよな」

「乗客は20~30名ぐらい乗ってたよな」

「乗組員はお年よりが多いですね」

「ほんまやね。日本と違ってスチュワーデスは年寄りが多かったですね」

「もっと、若ければ良かったのにな」

「話しかけて英会話の訓練をしたかったですね」

「話しかける気分にもならないね」

「ほんとにそうですね」

「オレなんか降りたかったよな」

「揺れるし、助けは求められないし……」

「僕も逃げ出したい程でしたよね」

「飛行場で遠くまで歩いていったので、厭な予感がしたんですね」

「今までのジャンボ、ジャンボみたいな大きな飛行機からいきなり小型機だろ!」「これは大丈夫だろうかと疑問が生じましたよね」

「コロラドの山岳地帯に入ったらいきなり、揺れて落ちるんだからな」

「日本じゃ、経験したこともない揺れと下降だろう」

「もういい加減にしてくれよなという感じだっただろう」

「僕は、窓側の席じゃなかったので助かりましたよね」

「200~300メートル落ちるんだからね」

「飛行機の中も綺麗じゃないし、出発も遅れたぜ」

「出発時間はいい加減ですよね」

「もう、早く着きたいとばかり祈っていましたよね」

「僕も目をずっと、瞑ってましたよね。生きた心地もしなかったですよ」

「オレなんかイスにしがみついていたよな。ガタガタ落ちるんだからね……」

「小型機だから余計動きが敏感に分かるんだよね」

「そうなんだよな。300メートルぐらい落ちるともろに体感に響くんだよな」

「スチュワーデスは呼べないし、どうしょうよと目を瞑っていると余計怖さを感じるね」

「助けてって叫びたいけど、叫べべない辛さ!」

「ほんとだよね。落下のときには手に汗がせるんですよね」

「手を握るというけど、握るんじゃなくてギューと結ぶんだな」

「相手が女性だったr、折れちゃうよな」

「安全ベルトよりも掴まるところが欲しいんだよね」

「悲鳴に近い声が聞こえてきて、恐怖感の塊だよな」

「日本のYS-11機よりもはるかに小さいし、安全性も分からないからね」

「船酔い状態になってしまった」

「飛行機なのにね」

「早く、早く空港につかなかいかなって祈ったよな」

「気分の悪さは最高でした」

「観光で、こんな目に合うなんて……」

「……来なければ良かったと一瞬思ったね」

「ほんとうに脂汗が出てきたんだよな」

「隣のビジネスマンは馴れてる所為か平気なんだよな」

「あんな思いして、別荘に行きたくないよな」

「落っこちる時に、翼が見えるんですよね」

「小さいから見渡しが自由なんだな。視界も広いしね」

「南無阿弥陀仏と手を合わせたんですよ」

「怖くて、足は振るえるし、オッシッコも出そうだし、参ったな」

「逃げ場がないから、耐えるしかなく困ったもんだよな」

「あの揺れじゃぁ、乗務員も立っていられなくて、シートベルトをしてたんだな」

「呼んでもこれないな座席まで……」

「食事も飴もないしね」

「米国ではバスと同じなんだわな」

「下駄ばきで乗ってる感じで食事はおろか、お茶やコーヒーなんか出ないよな」

「日本とサービスが違うな」

「目的地に着けばそれで終わりじゃないの」

「そうなんですね」

「合理的と言えば、聞こえがいいが、サービスがないいんだな」

「人を運べば、それでおしまいなんじゃないの」

「チケットも安いんじゃないの」

「こんな調子だと、そう、思えるよ」

「コロラドの山々なんか、殆ど怖くて見ていられないんだよな」

「……山があったんですかという感じだね」

「あれじゃ、怖くて居眠りも出来やしないぜ」

「寝られないですね……」

「観光というよりも、重労働に近かかったな」

「心臓に悪かったな」

「ドキドキでしたよ」

「帰りが心配ですね……」

「帰りのことなんて考える余裕がないじゃんか……」



 第13話 ケンブリッジ大学インターナショナルサマースクール……。


 ケンブリッジ大学インターナショナルサマースクール1989年の講習は過酷だった……。

前述したように、8月6日(日)にチェックインしてから7日(月)は午後からの授業だったが、8日(火)から午前9時半からはじまって、授業は午後までだったg、夜の8時から9時半までシェイクスピアの朗読やハープシコードの演奏など中世を想わせる雰囲気の中で文化的な教養の行事を行い。遊ばせないスケジュールで埋まっていた。8月16日(水)には、午後5時まで、エッセイの提出があり、これが人泣かせの作業だった……。

 英語の文章を辞書なしでは書けない一喜にとってはケンブリッジ大学付近の本屋で資料探しをしたが、『英国の憲法』の参考書を日本で買ったので良かったが

『英国の近代社会』は範囲が広すぎて、これこそが人並みの作業であり、ケルト文化が講師が多く時間を割いていたのです、探したがおもうような参考書は見つからなかった。

「日本でもっと、予習しておくべきだったな」

「それにしても、短めな参考書がないな」

「特に、ケルト文化についての教科書が……」

 花丸花子先生は毎年来てるから出さないという話だった。

「公費で来てるのに、サボっているな」

 と一喜は不真面目な先生のレジャーには付き合い切れないと出来るだけ避けていた。

「ヘンテコな先生だな。何の目的でここまで来てるんだろうな」

「遊びに来やがって……。教わる生徒がかわいそうだな」

 佐藤くんも避けた方がいいとサジェションしたのに……。

「何しに来たんだろうにね」

「サボる花子先生へ酷過ぎるよな」

「ボートの転覆以来、僕も避けていますよ……」

「……オレなんか、もう、顔を見るのも厭だな」

「団子鼻で喋られると身震いするよな」

「奥ゆかしさがないんだよな」

「ほんとに図々しいんだからな」

「オレが断ったら佐藤くんだろう。困ったもんだよね」

「僕の誘いに乗ったのは不味かったですけども……」

「それで転覆じゃ、割に合わないな」

「メガネは不便ですよね」

「それじゃ、気の毒だな」

「不便で勉強になえいませんよな」

「オレは老眼だから、分からないけれども、近眼も遠くが見えないで大変だよな」

「遠くの黒板は見えませんね」

「そうじゃ、気の毒だよな」

「片方レンズのないメガネですから」

「どうにかならないのかな。随分汚れているし、傷だらけだしね」

「命あっての物種だな」

「そうですね。水が恐かったですね。見ているのと大違い!」

「安全装置のライジャケも付けてないし……」

「確かに、事故になりますね」

「安全面のことを何も考えていないもんね」

「何もですね」

「笑い話にはなりますがね」

「……でも、フランスの女学生は可愛らしかったでしょ」

「何だ!急に話題を変えて……」

「まぁ、そうなんだけど」

「ドイツの女子大生には悪かったな。ジェラシーを感じさせて……」

「5円玉の件で……」

「エッ! それは知りませんでしたね」

「えらい目に合ったんだよな」

「真っ赤な顔して睨みつけられたんだな」

「そうですか!ホッホッ……」

「嫉妬の目が恐かったな」

「欧米人の嫉妬されたのははじめてなんだよな」

「日本じゃ、なかかったし、初体験だよな」

「そうだよな。ここはインターナショナルだからな」

「いい経験になったよな。白人のジャラシーの恐さを知ったよな」

「でも、心臓に良くないな」

「そうですか。相手は伊佐木さんのことを本当は好きなんですよね」

「そうかな。それは気がつかなかったね」

「自分にだけプレゼントしてくれということだよな」

「あの怒った目は恐かったな」

 あまり佐藤が煽るのでマーティンに悪いことをしたなと反省していた。

「でも、あおのフランスの女学生は悦んでいたね」

「オレもそう思ったよ」

「可愛かったよな。このオレも惚れたよな」

「小柄がいいでしょ」

「佐藤くん好み?」

「まぁ、そうですね」

「……顔が真っ赤だよな」

「伊佐木さんも、ドイツ女子大生好きでしょ」

「オレはチビだから、大柄な女性が好みなんだよな」

「されでも、まさか、嫉妬されるとは思わなったね」

「人種は違うけど、人間の中身は一緒なんでね」

「そうでうね。だから、ここへきたかいがあるんだよな」

「足の長さに惚れたよ」

「ちがいますよ。肌の白さに参ったんじゃないですか」

「確かに、抜けるように白いね」

「嫉妬に狂ったときもピンク色だったよ」

「太腿も白いでしょうな」

「そりゃ、そうともな。真っ白さ……」

「あのロングスカートの中身が見たいな」

「……ほんとうですよね」

「足は長いし、肉感的だからね」

「ボリュームが違いますよね」

「冗談だけど、5円玉をあげて見せてよと頼みますか」

「アッハハハ! それはいいアイデアだけど、誰が頼むの」

「先輩ですよ」

「オレはもう、怒られているからね……」

「それはそうですけど、見返りは大きいですよ」

「……でも、佐藤くんには逃げられるからな」

「伊佐木さんなら、大丈夫ですよ。惚れた弱みですよね」

「冗談じゃないよ! また、真っ赤な怒ったマーティンの顔はコリゴリだよな」

「そなこといわずに、決行ですよ」

「それ行け!突撃か」

「オレは自信ないな」

「でも、経験は豊ですからね」

「人生の経験は豊でも恋愛の経験はすくないんだよな」

「中年だからと言いたいんだろうに……」

「そうじゃ、ありませんよ。相手が気があるからですよ」

「白いおおきなヒップはみたいけれどね」

「ストリップじゃあるまいし、そんなに簡単に見せてくれないよな」

「男は度胸で勇気あるのみですよ」

「そうか、君に言われればそう思うけれど……」

「でも、頃われたら恥ずかしいし……」

「断りませんよ。きっと!」

「……でも、リスクはあるぜ」

「しかしながら、失敗を恐れたら何も出来ませんよね」

「じゃ、佐藤くんやってくれるかな」

「伊佐木さんのモノだとバレバレですね」

「それでもいいじゃないか」

「オレには度胸がないから……」

「見返りは大きいですよ。ブラックタイガーのように大物ですよ」

「それは分かるけど……」

「アッハハハ、変な例えですね」

「目の前にいるんですから」

「チャンスはあるよな」

「そうでしょ! 行きましょうよ」

「佐藤くんでいいんじゃないの」

「伊佐木さんのベテランの度胸ですよね」

「オレも睨まれたくないんどよな。この歳して……」

「……でけれども、何回もいいますけども、伊佐木さんの5円玉ですからね」

「そ、それはそうだけどね。嫉妬の顔を何回も見たくないんだよな」

「自信なくしましたね……」

「僕が声をかけますから、伊佐木さんが聞いて下さい」

「トホホホ!この歳して情けないな」

「何せベテランですから……」

「確かに人生ではベテランだけど、女性ひは初心なんだよな」

「嘘でしょ!」

「真っ先に、5円玉プレゼントしたじゃありませんか」

「……でけど、それは感情なしにプレゼントしただけなんだ。好きとか嫌いの話じゃないんだよな」

「ほんとうにそうなんですか?」

「本当だよ」

「じゃ、僕が勇気を出して呼んできますから。後な行動してくださいね」

「やだなぁ、また、睨まれちゃうな!」

「男は度胸でしょう」

「でもな、厭なものは厭なんだな」

「あまり興味ないんだよな」

「逃げる気ですか」

「そ・う・で・す・か。信じられませんね」

「内輪モメしてもしょうがない」

「思い切って行動しましょうよ」

「じゃ、呼んできますから」

「あれ、もう連れてきたの?」

「…………」

「ソリーソリー」

「………」

「まだ、怒ってるんだ」

「………」

「応えてくれないの」

「プリーズ ギブ アゲイン」

「ノー プリーズ」

「これじゃ、英会話の訓練にもならないな」

「………」

「エッ、受け取ってくれないの」

「佐藤くん何とかしてよな」

「僕は連れてきましたから……」

「冷たいよな、若い癖にな」

「だから、女性の嫉妬は恐いと言ったでしょ」

「今からじゃ、遅いよ!」

 マーティンを目の当たりにした一喜はドギマギして会話がシドロモドロになってしまった。佐藤くんも助けてくれない孤独な戦いに戦意を喪失していた……。

「何か言ってよ佐藤くん!」

 弱気な彼の態度に知らんぷりだった。

「こんなに態度が変わるものかな」

 一遍に、恋も冷めてしまい、只の豚に見えた。

「ノー プレゼント コイン」

 首を振りながらの行動は5円玉を一喜目掛けて投げ返してきた。

「オーノー」

 両手を広げてのオーバーなポーズで一喜は暗い表情に変わった。

 ピンク色に染まった彼女の顔は怒りを露わにしていた。

「佐藤くん逃げないで……」

 佐藤は薄笑いを浮かべながら立ち去ろうとしていたので、一喜は片手で彼の肩を掴んで逃げないようにした。

「失礼します!」

尚も、逃げようとすつ佐藤くんの腰にしがみ付いて離そうとはしないので、佐藤くんは大人しくなった。

「マーティン ソリー」

 彼女は暗く後ろを向きながら涙の溜まった顔で手で口をおさえながら、立ち去ろうとしていた。「行っちゃうの。行かないで!」

 必死になって止めたが逃げるように走りさって行った……。

「もう、終わりだな。彼女とのことは……」

 寂しそうな一喜の表情は、まるで敗残兵のようであった。

「佐藤くん悲しいよな……」

「僕もですよ。伊佐木さんがもっと、積極的に攻めるかと想いましたが残念ですね」

「悪かった。このオレのミスだな」

「……どうして?どうして上手くいかなかったんだろうね」

「折角のチャンスだったのに……」

「……何で?」

「分からないんですか。彼女は伊佐木さんのことを好きなんですよ」

「そうかな、それは気がつかなかったな」

「そうじゃ、ありませんよ」

「僕が出ないのは、それが解っていたからでうよ」

「佐藤くんは、さすがに読みが深いね」

「エッヘヘ、そんなこともないですけども」

「彼女の気持を読んでやらなければね」

「そうだったか、遅かったのかい……」

「君のことを好きになるのが遅かったのかい!」

「気楽に歌なんあか歌ってる場合じゃないですよ」

「悪かったマーティン!」



 第14話 アジア太平洋博覧会イン福岡……。


 アジア太平洋博覧会は九州の福岡県モモチ海岸の埋め立て地で行われた……。

 大いに海との関係が深い博覧会であって、地政学的に東アジアを中心とした客層を期待していた。一喜は広島に兄と赴任中の父を招待し、夏休みだった息子と妻を福岡に呼んで、自分が関係したやまや明太子館を訪れたのであった。

 夏の太陽が照りつける中での観覧であったが、暑い中、クーラーの効いたパリリオンでは宮澤賢治の『注文の多い料理店』の上映を親子3人と父とで観覧していた。受付にはプロダクションの社長に会ってしまい。「作業は大変でしたよ」とぼやかれたが、映像は世界ではじめての3D(立体)アニメであった……。

 赤と緑の違うレンズが入ったメガネをかけての見る方式だった。出来栄えは上々であり、実際に目の前に食べ物が登場してくりうと歓声が上がって、実際に立体的な食べ物が出てくるような錯覚をするのであった。臨場感ある食べ物は一喜の目の前に現れた時には、成功だなという確信に変わっていた……。

「パパ頑張ったね……」

「まぁ、そうでもないけど……」

 照れくさそうに一喜は頭をかきかき否定したが満更嘘でもなかった。

「いい出来栄えだな」内心は自信に満ちていた。

「いい出来ね」妻も賛同した。

「親父はどうなの?」

「………」

 親父はボケが入ってきそうな年齢だったので、直ぐには応えられなかった。

「今までに、みたことない映像だね」

「そりゃ、オリジナルだからね」

「僕の目の前に料理が出てきたよ」

「そうだろう! そこがみそなんだな」

「メガネをかけるのは面倒だけどね」

「……でも、面白いよな」

「お前に言われれば音モノだぜ。ファミコンボーイだからね」

「………だから、勉強の方はイマイチなんだな」

「ゲームより進んでいるよな」

「お前に言われれば本物だよな」

「ファミコン2台も潰しているんだから、煙が出たのよ」

「火事になるぜ」

「そうだよね。危なかったよな」

「ママは何時も辞めろってうるさいんだからネ」

「でも……。これは傑作じゃないの」

「医学部への推薦むずかしそうだな」

「そりゃ、困ったな」

「何とかなるさ」

「もっと、自分から勉強しないとな。欲を出さないとな」

「………でも、博覧会場でのアトラクションでゴムボートで流れる水に乗って恐いぐらいのスピードが出るんだけど、恐かったな」

「気負付けろよ! 事故で子供さんが亡くなっているからな」

「そうだったの!」

「ファミコンは、まだ、3Dじゃ,ないんだろう!」

「東京に戻った時、一緒に遣ったでしょ」

「人を殴るやつな」

「決闘シーンだよな」

「あれは、お前に負けたよな」

「全然、勝てなかったよな」

「そうでしょ!」

「あれは確か、平面的だっね」

「その内に3Dになるよな」

「でも、メガネが邪魔だよな」

「メガネなしで3Dになるもたいよ」

「それは凄いな!」

「そうだな、この映像は世界はじめての3Dなんだからな」

「そうだろう! 苦労したんだから。プロダクションの社長も言ってただろう」

「これは、力作だよな」

「お前にそう言われれば自信つくよな」

「観ていて吃驚仰天の連続だぜ!」

「ママは何も言わないけど、どうだった。

「さっき言ったように傑作でしょうよ」

「そうだよ。一番の人気館だって……」

「地元の西日本新聞に取り上げられていたんだよな」

「そうだね。社会面全体だったよな」

「凄いじゃなにの。良かったじゃないの」

「人気パビリオンだから人が集まるものね」

「そうだろう! オレもあの記事で安心したよな」

「ドーム型にしたのも、オレが後楽園ドームの真似じゃないけど、ドームにしたんだよな」

「そうよね。単身赴任で頑張ってきたんだからね」

「栄冠涙ありだね」

「息子の受験期なのにね」

「ビジネスマンは辛いよな」

「得意の我がままを聞かなければならないし……」

「オレも、これをやる前には全国の博覧会場を跳び回ってよな」

「仙台だろう、瀬戸大橋だろう、金沢までロケをしたんだからね……」

「全国跳び回ったじゃないの」

「飛行機には100回以上、もう乗ったよな」

「良く働いたじゃないの」

「羽田に着く度に本社へ帰りたかったよな」

「……でも、これだけの仕事残したじゃないの」

「本社じゃ、無理だったよな」

「まぁ、それもそうだっtんだけれどなぁ……」

「いい仕事したからよかったじゃないの」

「単身赴任は拷問と同じだぜ!」

「何で?」

「精神的にきついよな……」

「家庭生活が異常だよな。破壊してるからな」

「まぁ、そうでしょうね」

「厭だったら、会社辞めればいいんだけれどね」

「生活がかかってるから、そうもいかないよな」

「単身者だったら、自殺モノだよな」

「そうね。別れ別れに暮らして、新婚さんだったら耐えられないもんな。しかも、2つの家庭でしょ」

「単身赴任手当もなかったしね」

「家計の崩壊だよな」

「オレだって、上層部に対する意地があるぜ。辞めるのは簡単だけれどさな」

「飛ばしたやつらを見返したいね」

「そんなの無理よ」

「上に盾突くなんてね」

「下校上になちゃうもんね」

「切り返すぐらいはできるぜ」

「お前たちも博覧会見終わったら帰るだろう」

「そうよね。どっかで食事してからね」

「長浜のラーメンでも喰いにいかない」

「豚骨ラーメンで全国的に有名だし」

「もっと、良いところないの?」

「平目の刺身とお吸い物と骨まで食べれる天ぷらだけれどもね」

「いいじゃんか」

「それにしましょうよ」

「お前たちが帰ると寂しいな!」

「それは仕方ないでしょ」

「そうはいうけど、一人暮らしは、もう、飽きたよな」

「3年もやってるんだからな」

「サラリーマンの悲劇ね」

「そうね。単身赴任なんて昔の軍隊と同じだわね」

「そうだよな。こんな平和の時に単身赴任だって、米国だったら、訴訟モノだぜ」

「日本の働き蜂じゃ、通用しないのね」

「まあねぇ。組織というところは辛いところもあるんだよな」

「サラーリマンは気楽な稼業じゃないよな。昔の話だぜ」

「そうよ。労働者の犠牲の上に成り立っているのよね」

「リーダーは呑気な行動をしてるけど、下は頗る難儀なんだよな」

「軍隊だからね。組織は……」

「所詮、組織なんて、軍隊の真似さ!」

「上からの命令は絶対だし……」

「下は戦地に行けと言われれば、行かなければならない」

「支社も戦地も変わらない」

「さおうだとも、福岡に博覧会がなかったらオレもここへ来ることなかったんじゃないの」

「市制100周年だから全国で博覧会ブームなんだよな」

「それだから、東北まで博覧会なのね」

「瀬戸大橋だってそうだよな」

「金沢は地方の航空会社の新しい路線ができるんで、パンフ造りだよな」

「福岡-小松路線だよな……」

「福岡も便利になるわよな」

「金沢まで、ひとっ飛びさ」

「それはいいわよな」

「小松空港から市内までは30分ぐらいかかるからな」

「ちょっと、不便だわね」

「大抵はタクシーだけどね」

「結構、かかるのね……」

「福岡は特別に近いからな」

「福岡は昔の軍の空港で伊丹空港といったのよ。便利よね」

「そうだよな。軍関係の飛行場だからね……」

「車で20分もかからないもんね」

「福岡は便利な部類に入るよな」

「……白魚の踊り食いを喰うか?」

「川で捕れる白い小さな魚なんだよね」

「何かの稚魚だよな」

「回虫がいるんじゃないの……」

「……まぁ、大丈夫だよな」

「気持ち悪いから、私は食べないわ」

「じゃ、男どもだけだな」

「怖いじゃんか……」

「喰って見なければ分からないよな」

「まぁ、そうだけど、どうぞ!」

「親父喰う?」

「…………」

「お前も喰ってみるか?」

「食べる。食べる!」

「よしなさいよ。無理強いするのは良くないわよ」

「そうだけれどもさ……」

「……だけど、良い面もあったぜ。各自が自立心も強くなったしな」

「特にパパね。大学時代も家から通っていて、下宿したことないんじゃないの」

「それはそうだけど、子供もな……」

「ファミコンで遊びまわっているのね」

「……でも、いたまには、息抜きしないとな」

「そうじゃないのよ。しょっちゅうなのよね」

「それはいけないな」

「だけど、その時間以外は塾と家庭教師だぜ!」

「そうだよな。お前だって苦しいよな」

「そんなこと言ってる場合じゃないのよね」

「いい大学へ入らないとね」

「それは分かるけど、オレたちに比べれば勉強のし過ぎだよな」

「オレ等は焼け野原で遊びぱなしだったものな」

「あんたの受験じゃないのよ。この子の受験なんだから、黙っていてね」

「すまんすまん!」

「昔、東大、今は医学部というでしょ!」

「東京と福岡の中間点、岡山で見学して来たんのじゃないのか」

「それは丁度良かったけれど……」

「そんなことよりも日々の日常生活が大変なのよね」

「それは分かるけれど、どうしようもないじゃないの」

「息子もいろいろな経験で大人になったよな」

「それは自然な成長なのよね」

「でも、人間的な成長の基は苦労だよな」

「精神的なはそうだけれども、実際はいろいろあるわね」

「我が儘は消えたし!」

「いい傾向ではあるんだけれども……」

「3年って早いなぁ!」

「来てしまえば。そうだけど!」

「泣きたい時もあったわよ!」

「アスベストが厭だ。と言って学校辞めちゃうんだからね」

「そうだよな。お前には苦労かけたよな」

「オレも吃驚したよな」

「九州の学校へ転校したいと言ったのでオレが見学して来たよな」

「とでも、無理だと思ったよな」

「全然、環境なんか違うからな」

「公立の学校へ行きたいと言ってアパート探しだからね」

「そうだっわね」

「今じゃ、笑い話だけれども、当時は必至だったよな」

「公立行ったら、食事時にソースを頭からかけられたというじゃないか」

「可哀想に……」

「イジメだな」

「良く我慢したな」

「それで、出戻りしたんだろ!校長に頼んで……」

「綱渡りの生活だったわね」



 第15話 ケンブリッジの森は深かった……。


 ケム川沿いの緑も深く。合間にイングリッシュガーデンがあり、長閑な雰囲気を醸し出していた……。

さすが、自然の庭園は行き届いた造園であり、ていれは見事だった。

 まさしく、ケンブリッジ大学のクリアカレッジの庭園は見事に手入れが行き届いていて、芝生は刈り込んであった。そこには1つの金属製のオブジェがただ済み

高尚な庭園づくりをしていた。一喜は頭が疲れている時に窓の外の庭園を視るとこころが休まった。

 真夏なのに木々の木漏れ日は爽やかであった。さらに秋を想わせる風が吹けぬけて夏なのに革ジャンを着ている地元の連中を視ると、ここは北海道と同じ緯度だったことを認識させる。

 彼は寝ころびながら、青空をみると、ここが英国なのか、日本なのか、分からない自然だけの世界であって、伸び伸びとして空気感に下りながらうっとりとしている。

 「隣のカメラマンの奥さんの傷はどうなったのかな」と想いながらエッセイの英文を描き上げている。作業に没頭すると時を忘れてしまい食事の時間を忘れてしまいそうになるが、お腹がグウグウといえば、食事に出かける。締め切りも迫る状態で焦りすら感じる。

 とりわけ花丸花子先生のことを想うと、エッセイを提出拒否などして、勿体ない話である。ことさら彼女の話題には触れたくない一喜だった。花子先生は研修のサクラだ。いかさまな物売りに協力するお客のそうなサクラであり、ケンブリッジのサクラであった。

「大学の先生だから、もxと、真面目に遣ったらどうどろうかな」

「先生にも言い分はあるだろうが、そんなことどうでもいいや」

「彼女の好きにさせたら。オレには興味ないよな。あの先生のことは……」

「毎年、同じ研修で公費で来てんだろうに」

「度胸はあるな」

「論文を出さないんだkらな。学校に嘘の報告をしてるんだな」

「……でも、所詮、サクラはサクラだよな」

「ただの見物人じゃないような気がしてしょうがないな」

「あんな不真面目な人間に構っていられないな」

「じゃぁ、ここへ来なければいいのにな」

「みんなの邪魔をしなけたっていいじゃないか」

「他の生徒は真面目だものな」

「先生だけが浮いてるよな」

「だから、あの先生避けているんだろうに……」

「邪魔者は消せだよな」

「怖いこというな」

「ハクだけを付けたいんだよな。先生も……」

「オレに言った言葉を先生に返したいよな」

「どうしようもないですね」

「フザケンジャないよな」

「軽いからね……」

「英語以外なにも出来ないんだよな。多分……」

「そう思いますよ!」

「とりわけオレなんか英会話の研修に50万円掛けただろう。英国行だって自腹だし、アメリカのアスペンとカナダのバンクーバーで行われた交通博覧会も自費だぜ……」

「佐藤くんだって自費だろう!」

「そりゃ、そうですよ!」

「学生は親がかりだら、殆ど自費だろう」

「花丸花子先生なんて公費でしかも、遊びだぜ! 許せないよな」

「あれは、立派なサクラなんだよな」

「いかさま商品にたかる客だろう」

「アッハハハ! あります。あります。子供の時に騙されました」

「オレも、金属の丸い容器に張ったコインが解るというんだよな」

「学校の前で、人だかりで売ってるんだよ」

「ほんとうかなと想って買ったんだよな」

「中を開けて分解したら、鳥の羽が入ってるんだ。それで二重にみえるんであって、別に、コインが見えるわけではないんだよな。騙されたと思ったね」

「花丸花子先生だって、ケンブリッジからお金を貰って、サクラやってんじゃないよな」

「そうかもしれませんよ」

「そんなことないだろうに……」

「ひっと、したら雇われマダムじゃないの?」

「冗談だけどな」

「そんな訳あるわけないじゃないですか」

「まぁ、それはそうだけど……」

「油断も空きもあったもんじゃないよな」

「敵の間者じゃないの?」

「そうかもしれませんね」

「注意しましょう」

「佐藤くんも舟誘われたしな……」

「もう、よしましょうよ。その話、へどがでそうですよ」

「花子先生の顔が浮かんで来るのですから」

「気持わるい!」

「悪かった! 悪かったな」

「僕もあれ以来逃げ回っているんですよね」

「オレと一緒じゃないか」

「出来るだけ、近ずかないようにしていますから」

「それは正解だね!」

「オレなんか見るのも厭だよな」

「中年のオバサンってしつこいんだよな」

「断っても、断っても誘うんだからね」

「まぁ、逃げるが勝ちですよね」

「君もそう思う!」

「オレはあれ以来会っていないんだ1>

「それは奇遇ですね……」

「もっぱら、会わないように努力しているからね」

「立派ですよね。気分がいいですからね」

「厭な想いをしないで済んでいるよな」

「もはやオレなんか顔も忘れたよな」

「ご冗談でしょ」

「そんなことないよな。鼻が丸かったかなと想い出せないんだな」

「冗談もキツイですね」

「ほんとうなんだよな。冗談じゃないんだよな」

「ひたひたと佐藤くんに近ずいて来ているよ」

「驚かささせないでくださいよ」

「花丸花子先生若い時には恋愛して、トラウマになったんでしょうね」

「どういうことですか?」

「おそらく失恋して、心に傷が深~くついてしまったんだろうね」

「さしずめ、そんなことってあるんですか?」

「もともと人生には悦びも悲しみもあるからね」

「もっともオレだって、若い時には女性不信になったことはあるよな」

「なるほど、そうですか。すべて上手く行くとはかぎりませんね」

「おそらく、そうなんだなぁ」

「あの先生は男を追っかけ過ぎるんだな」

「たまには引けばいいんだよな」

「引いたらだけも寄ってきませんよ!」

「そうか佐藤くんの言う通りだね」

「真の恋愛を経験してないんじゃないんですか」

「経験不足なのはそうですけれども、誰も寄り付きませんよね」

「……そうかもしれないね」

「人間って追われれば、逃げたくなるんだよな」

「駆け引きが重要ですね

「あのように全ての男に声をかけちゃうんじゃ、はじまりませんよね」

「おそらく初心なんじゃない。以外とね」

「そうですか?身体の線が崩れていますけどね」

「身体と気持はちがうんだよな」

「外見に似合わず、心は初心なんだよな」

「気持悪いほどね……」

「辞めてくださいよ!聞くだけで気持悪いですからね」

「たまには、切り返さないとな!」

「人生面白くないよな」

「とにかく肩透かしをかけるんだよな」

「そうすれば、相手も驚くよな」

「そんなことして大丈夫なんですかねぇ」

「いろいろ、テクニックを変えてやらなければね

「人生って大変なんでうね」

「常に何事も努力だよな」

「先生は心の傷が深すぎるんだよね」

「あの顔では無理ですよね」

「顔は悪くても、気持がよければね」

「両方悪ければどうしようもないじゃありませんか」

「あの団子鼻じゃ、珍しいですよね」

「機能してればいいのじゃないの」

「それは気の毒ですよね」

「女性の顔のことをいうのは失礼ですけどね」

「仕方ないな。男は逃げるんだからね」

「女の追っかけはみっともないよな」

「僕も飽き飽きですよね」

「そりゃ、そうだろう!」

「ちょっと、楽しくないよな」

「あの先生と観光旅行してもな」

「トラウマが残っていますね」

「オレ等にも選ぶ権利があるんだからね」

「むろん、それは確かですね」

「だから、たいてい逃げるんだよな」

「おおむね、逃げるが勝ちですかね」

「花丸花子先生はケンブリッジ大学へ来た目的は何だったでしょうかねぇ」

「あんまり知らないから難問だねぇ」

「本来の自分の意思ではなく。命令で来たのかな」

「それだったら、エッセイを出さないのは可笑しいですよね」

「やっぱり、そうだな……」

「偽りの心ですかね」

「目的がズレているよな」

「自分の遊び心が芽生えたかな」

「そんな単純な話じゃありませんよ」

「そうだけど、オレのことをここで、学んで簡単に免状貰うのはいいじゃないですかと皮肉をいうんだな」

「ちきしょうめって想ったよな。余計なこというなってね」

「……だから嫌われるんですよ」

「そうなんだな」

「口が悪いんだよな」

「だいたい、相手の気持なんか読まないからね」

「その通りですよね」

「ほんとうに失礼ですね」

「あの花丸の奴め。揺れせないよな」

「敵意を抱くよな」

「自分だけが可愛いにじゃないかね」

「少なくとも、ひとの心が読めんやつよ」

「想ったことをズケズケ言うしな」

「ますます不愉快になりますね」

「……だから、男に逃げられるんだよな」

「だいた一緒にいたくないよな」

「そうですね。とても世間知らずですね。あの歳でね」

「学校の先生はみんな、そうだよ。子供相手だからね」

「周囲の状況が読めないし、情報不足なんだよな」

「学校という組織が小さいからね」

「仕方がない面もあるんだよな」

「子供には嘘で誤魔化せるけど、大人にはそうはいかないからね」

「サクラに引っ掛かるんだからね子供時代はね」

「自分の殻に閉じこもってしまっているんだよな」

「民間会社じゃ通用しないな」

「そうですね。割と幼稚なんですね」

「子供染みているんだよな」

「ワーワー騒ぐけどね。中身はたいしたことじゃないいんだよな」

「花丸花子先生はも実は、自分を変えてしまいたいと思っているかもしれませんね」

「ほんとうに、そうかな。疑問だよな」

「あの先生はそんなことじゃないんじゃないの」

「そうですかねぇ」

「ほんとうに、そうだったら、立派だよな」

「見返してやるのにな」

「みんな嫌われたくないんですよ!」

「確かに、みんなから可愛がられたいもんな」

「そうだな、未来志向でいかないとな」

「過去にばかりこだわっているとロクなことないな」

「お隣の国のようにね」

「過去を忘れないと前進がないんだよな」

「先生は自分を変えるということすら気ずいていないんじゃないの」

「そうかもしれませんね」

「だから、嫌われるんだよな」

「前向きじゃ、ないいだよね」

「遊びなら遊びでもっと、集中すればいいのに、中途半端なんだよな」

「英文書けないんじゃないの」

「アッハハハ、そうかもしれませんね」

「何も出来やしないんだよな」

「ペラペラカナ?疑問ですね」

「ヘナヘナですね。きっと……」

「自分を変えるということは簡単じゃないよ」

「自己犠牲の精神がなきゃならないもんね」

「あの先生じゃ、無理だよな」

「まず、コミュニケーションだよな」

「そう言えば、あんまり、聞いたことないですね」

「全然、聞いたことないな」

「英語喋れないんじゃないの」

「それはないですよね」

「関門がありますからね」

「冗談だよな」

「先生は顔かもしれないな」

「マフィアじゃあるまいし……」

「自分の置かれている立場や状態を自分で知ることだね」

「それはなかなか難しいですね」

「男のケツばかり追っかけていてもな」

「逃げられるだけだよな」

「佐藤くんは掴まったけどな」

「よしてくださいよ。悪い冗談はね……」

「嫌われる勇気と言っても先生だったら、ほんとうに嫌われてしまうんじゃないですか」

「返って哀れだよな」

「ほんとうだよな! アッハハハ、」

「ほら、佐藤くんの後ろにいるじゃんか」

「KY(空気を読む)が読めないんだから仕方ないな」

「周囲を全く意識しないからね」

「それにしても酷過ぎますよね」

「井の中の蛙なんだよな……。お気の毒さまだね」



 第16話 一喜のデザイン人生での大転換は……。


 一喜のデザインにおける大転換は1986年6月9日からのアスペン国際デザイン会議研修旅行だった。

 10日間だった……。

 日程は、

  9日 (月)成田からシアトル。

  10日 (火)バンクーバーEXPO‣86(交通博)見学。

  11日 (水)〃

  12日 (木)シカゴ経由でオーランド。

  13日 (金)オーランドでウォルトディズニーワールドとエプコット   

        センター見学。

  14日(土)オーランドからデンバー経由でアスペン。

  15日(日)アスペンデザイン会議に出席。

  16日(月)〃(ジャパンセッション開催)

  17日(火)〃

  18日(水)アスペン空路、デンバー経由シアトル。

  19日(木)成田着

 ……の旅であった。

 仕事ではサイパン、グアムの撮影立ち合いぐらいしかしなかった一喜は本格的な海外旅行でアメリカ本土への旅行ははじめてだった。

 特に、カナダのバンクーバーで行われた交通博覧会・86とディニーワールドとエプコットセンターの見学。アスペン国際デザイン会議への出席は一喜はこれまでの日本国内での知識のみであった経験で20年以上アイディアを出し続けていた脳はパンクして金座疲労のような状態では先行きを想いやられたが、幸運にも、自分のデザイン力を大転換させるいい機会だった。

 世界のデザインに触れると今までの自分のつくるデザインがちゃっちく見えてしょうがなかった。この機会を取らま得るのに好都合な旅だった。デザイン力の再構築をして、本社ではクリエーティブ局は行われず、セールスプローモーション局で行っているイベント作業の研修には好都合な旅であった。あらかじめ準備して行ったお陰で、研修旅行は生きた。

イベントというはじめての作業においての準備は怠りなく進めた結果だったので、大成功だった。福岡赴任で会社を辞めるよりも、逆に自分を磨くいいチャンスだと観念しての旅立ちは良かった。すべて自費で自分の想い通りの旅は一喜の今後の仕事や人生にどれ程、影響を及ばすか図り知れない事実であった。

 一喜が勝利を収めたのも、海外まで研修にいった努力の賜物だった。途中では投げ出したいこともあったが、我慢、我慢の連続で乗り越えることができた。

 彼は妻の反対を押し切っての研修海外旅行だったが、随分、随所で、役に立つことが多く。博覧会を成功へ導いた大きな原動力だった。

「本社では遣る部署が違うのに、博覧会をやれだぜ。上層部は何も解っていないんだぜ。無能の集団だよな」

「だから、後に事件を起こすんんだよな」

「個人的な好き嫌いの人事であって、成果主義を取り入れても、人事は変わらなかったよな。自分たちの閥づくりのために会社は落ち込んでくるんだよな」

「じゃ、どうすればいいのかよ!」

「ピンチがチャンスなんだよな!」

「みんな忘れるなよな。人生ピンチの時がチャンスなんだよな」

「今までの狭い本社の知識だけじゃ、今後ダメになってしまうからね」

「20年も同じ職場で同じ仕事じゃ使い物にならなくなってしまうんだよな」

「環境が変われば、分からないこともあるけれど、新しい仕事にありつけるチャンスなんだよな」

「自分を変えるチャンスなんだよな!」

「絶対に、行かないで……」

「だいたい、今頃、何を言ってるんだ」

「家族を置いて行くの?」

「だって、仕事だよ!」

「私は塾や家庭教師で仕事だらけなんだからね」

「オレだって、遊びに行くんじゃなくて、仕事だからね」

「イベントや博覧会の作業は本社じゃ遣らないんだからな」

「じゃ、別れるの?」

「今更、何を言ってるんだよ」

「こっちだって命がけなんだからな」

「子供と私はどうするのよ!」

「更に、危険なのよね」

「……でも、オレだって勇気を出して頑張っているんだからな」

「会社を辞めれば済むけれど、そうも行くまい」

「何度も言うけど、額面60万円で手取り20万円の生活だしな」

「だったら、食べていけないわよね。ふたつの家庭なんだからね」

「私の貸しアパート業で食べているんだからね」

「そうだよ。感謝してるよな」

「今更、仕方ないだろ。オレの借家代も払わなければならないし……」

「二重生活は大変なんだよな」

「給料の手取りは少ないけど、安定はしてるだろ」

「……だから、海外は余計なのよね」

「博覧会何てチンプンカンプンだからな。基礎から勉強しなければね」

「日本国内でもできるでしょ!」

「ずいぶんと違うんだな」

「オレもマンネリだからリフレッシュしてくるんだよな」

「さんなこと自分勝手でしょ」

「もう、申し込んでしまったからな」

「そんなのないわよ。知らないからね」

「でも、真剣だぜ!」

「オレだって、これから単身赴任で辛いよな」

「それは分かるけど」

「心配なのよ」

「…………」

「オレだって、限界だから、自分を変えようと想うんだ」

「この際、大変身したいんだよな」

「狭い本社の部分的な仕事じゃ、スケールの大きな仕事をしたいんだよな」

「そんなこと分からないけど、家のことも考えてよね」

「それは忘れないさ」

「じゃ、行ってらっしゃい!」

「もう、帰ってこなくていいからね」

「何オー……」

「好き勝手にしたら……」

「まだ、ご機嫌斜めだな」

「勉強しにいくんだよな」

「また、調子のいいこと言って」

「……悪いなあ、いつも、ママに迷惑かけているからね」

「そんなこと言って誤魔化すの?」

「日程表を書いて置くからね」

「仕事だから……」

「もういいわよ。勝手に行ってよね」

「自分探しの旅だからな」

「今までに、アイディアを出しっぱなしだからね」

「それもそうね。今のままじゃ、使い門ならないわね」

「オレもドセンスを磨いてくるからね」

「下町のドセンスじゃ、もう、通用しないわよね」

「どうせ、遊びでしょ!」

「遊びじゃないよ。絶対に!」

「じゃ、何なのさ!」

「研修だよな」

「アッハハハ! 研修?」

「今更、ちゃんちゃら可笑しいわね」

「何でみいいじゃんか」

「良くないわよ!」

「……でも、このままじゃ、あんたのセンス通用しないわね」

「それもそうだな!」

「すべて変えて出直しだよな」

「自分のことしか考えないもんね」

「自分が良くならなければ、他の人も良くならないよな」

「息子の受験のことも考えてよね」

「それは考えてるよな」

「忘れているんでしょ!」

「そんなことないない」

「ちゃんと、顔に出ているんだからね」

「私も指輪買うからね」

「どうぞ!」

「あんたも好きにやるんだから私も遣るわ」

「じゃ、好きにすれば……」

「絶対に買うからね!」

「そんなお金何処にあるの?」

「なくったって、買っちゃうからね」

「好きにしたら!」

「地方へ飛ばされたという劣等感の塊なんだよな」

「そんなことないわよ!」

「支社の方が人数が少ないから、1人ひとりのパワーは必要よ」

「お前いいこと言うじゃないか」

「ほんとうはそうなんだよね」

「だけど、オレは単身赴任だからな」

「ピンチがチャンス蛇ないの?あなたもショッチュウ言ってるじゃないの」

「それは、何時も言ってるけれども、実際になるとなぁ。自信がないな」

「あなたの弱気なのは珍しいじゃないの」

「それだけ覚悟はしてるけどね」

「支社じゃ、3人が定年退職で辞めるのと博覧会だぜ」

「オレ1人でできるかな!」

「みんなで分ければいいじゃないの」

「まぁ、組織だからな」

「できるかな。オレ1人で……」

「何とかなるんじゃないの」

「お前は割と楽観的だな」

「そうよ。深刻に考えないからね」

「……でも、実際は劣等感だらけだよな」

「だから、戦略を考えないとな」

「どいう風に?」

「押してばかりいないで、切り返すんだよな」

「フェイントね!」

「そうだと、真面に当たらないじゃないの」

「支社は敵だからね」

「パートナーシップで行ったら!」

「そうだよな! 上下じゃなくて左右でいかなければね」

「友好的にコミュニケーションを取るのよ」

「オレは喧嘩はしないけどね」

「仲良くやるさ!」

「オレも6人兄弟だから、その点は上手いよな」

「そうね。パパは大丈夫」

「気さくだからね」

「江戸っ子だから」

「浅草の雷門のオコシを土産にしたんだよな」

「いいアイディアね」

「東京は土産が少ないからな」

「地方の方が特徴があるけどね」

「東京らしさで勝負だよな」

「その意地よ!」

「負けるもんか……」

「……喧嘩上手だからね」

「喧嘩はしない!」

「それもそうね」

「親父にはお金と女に気を付けろよって言われたよな」

「いいサジェスションだわね」

「たまには、親父もいいこと言うね」

「まだ、ボケてないんだろうな……」

「北九州の小倉の得意と福岡の明太子の博覧会出展との仕事では物理的に両立は難しいので、両立は不可能だと上司に勇気を持って代えてくれと言いましたよ」

「それは当然でしょ!」

「でも、組織の中では難しいんだよな。組織の中では……」

「オレは勇気を出して一方を断ったよ!」

「パパも言う時は言うのね」

「それはそうだよ。身体が持たないもんな」

「福岡から博多まで、新幹線で30分はかかるんだよな」

「一方、博覧会の打ち合わせは毎日だし、オレがプレゼンして3億円の扱いを頂いたんだからな」

「それは凄いことよね。

「普段はないが、博覧会に参加するということはイレギラーだけど、後は続くからね」

「それもそうね。日本中で、今じゃ明太子を売っているしね」

「博多の明太子は知らない人はいないからね」

「……全国的だし、人気パビリオンだし、ドームのカタチにしろ、映像やポスター、ちゃらし、新聞広告、すべてオレの作品になるからね」

「しかも、映像はオーディオ・ビデオ賞でNHKの作品が大賞で、やまやの明太子の注文の多い料理店は特別賞を頂いたからね。

「全国的じゃないの」

「そうだよ。その年の全国からの作品なんだよ」

「物凄いじゃないの」

「……名誉だよな」

「おれの今までの作品の中でも勲章モノだぜ」

「そうだわね。電通賞で銀のスプーンを貰っているしね」

「広告の殆どの賞は取ったよ」

「パパやるじゃんか」

「単身赴任のご褒美さ!」

「まぁ、苦労したからね」

「最後は風邪を引いてしまってフラフラだっちょな」

「友人の航空写真家の越村さんから電話で聞いたわ」

「……そうだろう。オレの全精力を注ぎ込んだんだよな」

「だから、あんないい作品が出来上がったんだ」

「良かったよな」

「人は見方で変わるよな」

「最初は敵だと想っていた人も仲間に変わったよな。自分の態度や考え方なんだよな」

「それと、断る勇気が必要なんだな」

「かならずしも、与えられたすべtの仕事の全てをこなすこてゃできないからな」

「1から順番に優先順位をつけて出来ないモノには断る勇気が必要なんだよな」

「結局、自分しか自分の仕事は分からないからね。自分で判断してから相談するんだな」

「殆どが『サクラ』で実際に仕事をやっているフリをしてるんだな、組織というものは……」

「本物の社員は10人に1人ぐらいだよな……」



    あとがき


単体広告代理店として、1973年の取扱高が世界で第1位となった。(米アド・エイジ誌発表)ことは、記念すべきことであるが、どちらかというと、組織よりは個人のプレイ動く会社は、辞めて行く人材のノウハウを伝えることが困難である。世界一位ということは経済界においてはオリンピックの金メタルに相当するのだッた……。

 一喜も枯れ木のにぎわいとして、企業の一員として仕えたが、組織における過渡期だった。入社当時は800億円の取扱高だったのが、定年退職時には2兆円に膨れ上がり、その成長力の中で歪が浮かんでいったことは否定できない。

 昨今の新入社員の自殺などの件で、その真っ只中にいた一喜は反省をしなければならない部分があったことを実際に事件になってしまった事実が証明している。

 組織という中にいると、いろいろが起こるが、アウトソーシングの進んだ会社であるので、自分が犯した事故でないのに、責任は取らなければならない場面が多かった。一喜も、某電気メーカーの撮影時に、新商品を傷つけたしたった運送会社の責任を取らせれた形での支社行きであったが、仕事の責任は自分が取らなければ廻っていかない。

 仕事とは組織だけでは解決できない得意という大きな存在があるから、スケジュール管理もお金の管理も実際は得意が握っているのであって、社内問題では解決できない問題が多く存在する……。

 意地の悪い得意に当たると、5月の連休や正月休みもなく。仕事を入れられる。ある得意ではお出入り禁止などの処置などがあり、社員は苦労するのであるが、当時は、日本一の給与を貰っていた代償であって、仕方のないこtだった。

 高いギャラを貰うということは、厭なことでも得意の要求だったら応えるのであるが、特に営業はそういう傾向が強い。

 一喜は43年間、クリエーティブ局にいたという、ある面では伝説的な人間であったが、膨張する中で、会社という企業が対処できない面が多すぎた結果、歪が大きくなってしまった。

 労働時間の問題は、一喜は全国代議員選挙で300票以上で選ばれて、全国代議員大会に参加したが、会社の流れは良く理解できた。一喜のような労働組合を経験した人たちはサービス残業はさせないが、元社長などはスト破りなどを行っていた若き管理職時代があったので、どうしても、組合を否定する方向だったのが今回の新入社員の自殺問題の背景があった。平気でサービス残業をさせる今の管理職の問題と彼女をかばってやれなかった組合問題が大きかったと一喜は感じている。

 企業というものは、幾ら大きくなっても、そこに働く労働者の人間性までも否定するこてゃできない。

 東芝の問題もそうであるが、働く社員には考えられない行動を経営者が起こしていることはシャープでも日本の経営者が可笑しくなってきているのが証明している。幾ら社員や労働者に働けと言っても。リーダーに能力がない連中で占められているのでは、これからの日本経済は危ない。

 しかしながら、管理する官僚側が残業時間を管理するということも出過ぎている。五輪はじめ期日の決まったイベントには残業は付き物であり、特にこれから行おうとする博覧会は一喜の経験で、多くの人件費がかかってトントンに行けばいい方であるのだ。

 イベントで一番必要なのは予算の管理であり、これは実際にイベントを行った一喜などの専門家集団でなければ、解らないのであるのだ。

 五輪の組織委員会のド素人さが競技場のバカ高い見積もりとして上がってくるが、それをカットしたり、足したりするのがプロ集団なのであって、組織委員会のようなド素人集団で予算が莫大に膨らんだのは情けない。トップが政治家上がりではなく経済界の人間だったら、もっと、予算も安くすんだであろう。公的資金を無駄にした責任は誰が取るのであろうか。

 代々木の競技場も聖火台のない案に決まってしまったし、何か可笑しい感じがしてならなかった一喜だった。

 マークの問題もド素人集団の失敗であって、審査するのにはグラフィックデザイナーの集団に頭をさげ実際に決まったマークは専門外の建築家だったことは情けない。マーク自体もフランスの抽象作家で有名だったVASARELYの抽象パターンにそっくりだ。委員長だった元芸大のMさんは文化庁長官だったが、受けた委員長自身が、日本のグラフィックデザイナー集団に審査をして貰うために頭を下げてきたということであった。

 一喜は私立の美大卒であったが、学生時代から抽象パターンに興味があった。何人かでグループを造り研究した。その中で一番進んでいたのが、VASARELY

だった。彼の作品に憧れていたが、これ以上のパターン作品はできないなと感じていた。それでも、卒業制作には、バルトークとラベルのレコードジャケットの

作品を造った。その後、まだ、VASARELY 2の画集をかったが、2~3万円する正方形の形の画集を買って研究したので、東京オリンピックのマークは細かすぎてテレビや映像向きでなく。しかも盗用であることを感じた一喜の怒りは頂点に達した。ましてや黒という陰気なデザインには堪らない不安感がある。最後まで、プロ集団に任せるべきであった。名刺などの細かいデザインでは潰れてしまうようなデザインでは失格であろう。

 アートディレクターになるのにも、最低10年はかかる。一喜もT社初め100社以上の広報を担当してプロになったが、天から和尚にはなれない。人間は悲しいかな積み重ねの経験によって、組み合わせていって初めて仕事のアイディアが出てくるのであって、新入社員からいきなりプロになるということはない。

 仕事は信頼が大切であって、コミュニケーションの積み重ねによって、段々に信頼関係が出来てくるのである。一夜にして出来るモノではなく。最低2~3年の付き合いによって出来上がってくるものなのだ。

 特に、新しい地域での仕事は半年ぐらいで力を出さないと認められない。一喜も福岡の単身赴任の時には上司から半年は見てから、それから仕事に本腰を入れたが、出来るだけ早くからベテランになればなる程に実力を出した方が良いと一喜は感じた。本社においてはスーパースターだった一喜であったが、支社では最初から認められているとはいえなかった。徐々に力を発揮して本社の実力を見せ付けたのは正解だった……。

 仕事とはゲーム感覚で遣らないと面白くない。あまり深刻に考えては成功は覚束ない。肩に力が入らないあで自然体で想いっきるバットを振ればいいのだ。ビビることはない。ことさら、肩にちからが入り過ぎると三振である。普段の練習のような力を出すのには、精神を統一して、自信を持って、当たるんだぞ……。当るんだぞと案じをかけるのは当然であって、ゴルフのパットと同じで自信が大切である。入らないだろうな。打てないだろなと想って打席やパットをするなと一喜は言いたい。平常心でプレーすれば、ソコソコの成績が待っている。

 しかしながら。過信はいけない。常に欲張らず普段の実力を出せればめっけものである。勝とうとするな! 負けることも考えるな。只、自然体で欲張らず仕事をするのには百戦錬磨の仕事をしてから能書きを言った方がいい。焦らず、威張らず。肩の力を入れず。思いっきり振れ。そうすれば、逆転満塁ホームランも出るかもしれない。目と脳と各器官の勝負だ。耐える力、我慢する力を発揮するば、勝てるものなのである。勝とうとするな。負けを意識するな。一喜からの仕事に対するサジェスションのプレゼントである。仕事に勝ち続けよ!負けることなんか考えるな。そうすれば、栄冠涙ありだ。

 しかしながら、新入社員として人生のスタートを切った女性社員の自殺は痛ましかった。同じ会社での一喜の新入社員当時の話は参考になるかもしれないので、語らせて欲しい……。

 今から52年前の1965年当時の銀座オフィスからはじまった人生のスタートだった。

 伊佐木一喜は、まるで宇宙人のようだった……。

 顔は小さく全体的に小柄な感じで男の成人として、体重は50㎏を切ったガリガリな体型だった。猫背ぎみであって、弱々しく、あまり女性にはもてそうもないタイプだった。口を尖らせながら早口で喋る姿は、面白くないようだったが、ユーモアのある男で男性には好かれるタイプで男友達は多かった。

 美大当時は教職課程を取らないで大学の4年次には、大学へは殆ど行かなく。家で卒業制作や卒論を制作しながら過ごしていた。

 会社へ入った時は苦しい生活をよぎされた。学生時代からは大転換であって、朝は7時起きで、新入社員の生活は、はじめる。家は日本橋浜町にあったので、街いざまでは、日比谷線の人形町駅から銀座までで、通勤には楽であった。学生時代から激変した生活が待っていた。職場と家が近いということは一喜にとっては良かったが、自分の時間はなくなるし、働き給料を貰うというこっとは大変なことであると想った。

 入社は、学校推薦で10名に選考され、その内の5名が同じ美大から合格した。

親父は日本橋浜町で手書き友禅の染色図案家(模様師)であり、その次男として生まれ、都立工芸高校のデザイン科をトップで入学。当時の都立のテストでは、900満点中840点であって、統一テスト830点で日比谷高校に入学できる点数だったので、当然、都立工芸はトップの入学だった。美大は家の関係で染織科へ合格したが10数名の生徒であるために、二年次に成績がトップクラスだったために、グラフィックデザイン科へ変更した。1年次はデザイン科は全て同じ授業だったので、二年次にはスムースにいけた。中には、授業をサボる連中も出ていたが、一喜は懸命に高校での力以上に実力を発揮させていた。基礎を高校で遣った有利さは、一喜の自信となり、美大も3年時のコンテストは優が80点以上だったが、それも難なくクリアできた。当然、会社の方も入れるだろうと予測したが、入社テストが新聞広告でアサヒスタイニーのテーマが出たが、大学の課題で遣ったテーマだったので、難なく合格できた。

 入社も技術系の中で2番目で合格できたが、電話での三次の面接テストでの合格を知り、嬉しさにバンザイをしたことを記憶している。

 しかしながら、入社してからのハードさはなまじではなかった。

 特に、はじめての正月迎える暮れから正月にけけての作業は悲惨でした。大晦日に、当時、銀座にあった日航ホテルから。会社への歩いての15分ぐらいかかる距離を惨めな想いだった。アマンド、ウエストなどの喫茶店がホースで水かけ掃除をしている中をトボトボと大きな製図版を抱えながらの歩きであり、これ程までに遠いと想ったことがなかった道のりを力なく歩くのは銀ブラとしては暗かった。

「……エライ会社に入ったな!」

 やる気を折られた気持で心の葛藤はモヤモヤしていた。

「こんな会社に入らなければ良かったな」

「自己責任ではあるけど、自分で選んでしまった」ので、自責に慕っていた。

 後悔先に立たずだったg、心は難破船のように揺れに揺れていた……。

 外面的はニコニコしていたが、腹の中は煮えくり返るぐらい沸騰していた

「このままで、いいのかな!」

 反省の言葉が出たが心と反対に身体は動き廻っていた。後悔先に立たずではあるが、後悔せずにはいられない状況に自分で腹を立てていた。

「ヒデイ会社に入ってしまったな)

「辞めようかなぁ。でも、合格の時には悦びでバンザイしたしな」

「このままでは、辞めれないな」我慢、我慢だった。

 そうこうする内にオフィスに着いて全ての苦労を忘れていた……。

「明日は元旦出社だからな」

 気分を入れ替えて、後かたずけをして明日に備えた。

 一喜は疎開世代だったので、見掛けよりは精神的に強く耐えることは得意としていた。外見は弱々しいかったが、内心はパワーがあった。負けず嫌いで6人兄弟の真ん中で、次男だったので、兄との将棋などの遊びで負けると悔しがって将棋盤に駒を投げ捨てるぐらい悔しがり屋だった。

「負けて、悔しい! オレに勝たせろ!」

 勝負なのに、負けることがあるのは当然なので、「今度は勝つよ」という兄からの慰め言葉に対して反抗的になり「今度は負かすぞ! 絶対に……」

「お前は負けると異常だん」

 兄の皮肉に反発する一喜だった。

「もう、懲りたよな!」

「負けるもんか! 今度は勝つぞ!」

 一喜のプリミティブな時代から負けず嫌いであった。将棋というゲームは勝ちと負けしたなく。後は引き分けがあることもたまにあるかもしれない。勝負に負けて駒を投げるとは将棋道に反するが、子供時代では、どうすることも出来なかった。情けないがそうれが実情であって、今までに誰にも伝えたことはない。

「お前、もっと、強くなれよな!」

「余計なお世話だ!」

 真っ赤な顔が冷めて行くに従って冷静さを取り戻していったが、その後は1回も兄とは勝負しなかった。

「将棋ぐらいで起こっても仕方ないな」

「これが勉強だったら……」

 その後の悔しがり屋の性格は増していった。負けず嫌いのプリミティブな心での少年時代だった。その後の人生に影響を及ぼす行動の原点が表れたのだった。

 口惜しさが顔に出ることは、まだ、子供だったが、この悔しさをバネに、その後のいい方向へと導けば大成に繋がるであろうと期待を感じていた一喜であった。「今に見ていろ俺だって立派な侍になるんだぞ!」

 時代は違うが心意気は同じだった。彼は集中力と根性は生まれながらのプリミティブな原石を周囲から期待されていた……。

 勉強はあまりしなかったが、小学校1年はオール優だった。学芸会にも選ばれたし、声も良く学校の合唱団にも選ばれた。

 太平洋戦争で全てが焼き尽くされたしまった焼け跡で遊ぶことが少年時代のアスペクトであり、みんなと一緒に立ち上がろうとする意欲の中で遣る気だけはあった。

 給食の飲料は脱し粉乳であった。青いズックのランドセルが小さな両肩にかかったアスペクトは惨め過ぎたのだった。布製のランドセルは軽かったがすぐに擦り切れるという弱点があり、恵まれなかった人生のスタートだったが、戦後の経済の復興のお陰で、自分も成長することができた。

 明治座のある金座通りには戦争の焼け爛れた残骸があり、行く手をふさいでいた。瓦礫の山は対抗の道路は全く見えず、戦争の爪痕が残っていたが、誰の責任で戦争が行われたことを忘れてはならない。戦争の知らない世代には理解できにくいことではあるが、その焼け野原の跡に木造バラックが立ち並んでいたのだった。子供心に「このゴミの山は何時勝たず組んだろうか」と想っていた。

 戦争の責任者は逃れ、哀れな市民だけの力で復興を担ってきたのであったが、軍部や官僚、財閥などの責任者は皆無だった。焼け跡にはコンクリートの枠組みだけが残る空き地で「ここがトイレだったよ!」などと、想わせるブロックが残されていた。

 一喜は疎開したが、小学校の1年の1学期まで、信州の父の実家に疎開していた。戦火の東京から難を逃れての疎開だっが、焼夷弾の音だがけが耳に残っている状態だった。東京では米軍の落とす焼夷弾の音が防空壕に逃れても、音だけは響き渡り、子供心に怖さを体験した。

 将軍たちはぬくぬくと逃れているのに、なぜ、オレたちがこんな目にあわなければならないのだ!」

 敗戦後の東京は隙間だらけのバラックで家の中にいても、信州の寒さに耐える本建築の建物の方がましであった……。

 終戦直後の小学校は酷かった。講堂兼体育館は錆びた鉄骨が剥き出しになり、雨曝しの状態で放置されていた。勿論、生徒は近ずいたり、出入り禁止だった。

 2階までは板張りであったが、3階と屋上に出る廊下は鉄筋の鉄骨が剥き出しになっていて、歩くのにも危険な状態であり、立ち入り禁止だった。

 そんな中での狭い校庭での遊びは追っかけごっこぐらいしかなく。生徒がヒシメキ合った状態で窮屈であった。遊び道具もあまりなく。相撲や鬼ごっこや缶蹴りなどのプリミティブな遊びであったが、一喜は追っかけごっこで後ろから突かれて、顎を強打して血が流れたので近所の医者へ行ったら、もう少し傷が大きかったら縫うことになったと驚かされて、ビビった。

 戦後の成長を支えたのは民間の企業努力によって、世界一流の経済大国になったが、国や官僚の力ではなく。血のにじむような民間企業の努力の賜物だった。

 一喜の会社も情報産業の中核として名前を上げてきたが、社員の壮絶な作業の連続の中で、休みは土日はなく元旦も出社であって、5月の連休もなく。日本の復興の礎として働き蜂であったが、世界一になったノウハウは解っているつもりである。日本の戦後の高度成長の中核企業としての働きは、只事ではなく。自らの力で猛烈社員として働いた結果であった。

 一喜たちは、戦後の復興を支えたが民主教育のはじめての世代であり、軍部に抑えられていた軍国主義の国から戦後の民主主義の国に生まれ変わった真髄を忘れることはできない。

 明治時代からはじまった富国強兵政策が第2次世界大戦を招いたと言っても過言ではなく。明治から昭和にかけての軍部の独裁が敗戦という悲劇の結果を生んだ。誰もが望まなかった世界大戦を一部の悪しきリーダーたちによって、はじめての敗戦という悲劇のプレゼントを貰ったことに対する代償は誰が責任を取るのか。第2次世界大戦の検証もせず。敗戦の中での市民の苦労を忘れた軍人上がりの政治家やそれに協力した官僚、特に、満州国をデッチ上げた官僚どもを許してはならない。東京大空襲も戦時国際法に違反したナパーム型の焼夷弾をB29から落とした米軍を許してはならない。一喜の祖母の実家は浜町3丁目の隅田川沿いにあったが、一家全滅の憂き目に合い。お墓を守る人さえいない。

 今の日本の悲劇は慣習法の欠如による日本のアイデンティティーの無さである。日本をこのままにして、憲法改正などと言って、ほんとうにいいのか一喜は怒りすら感じて仕方がない。

 実際の戦争から経済戦争に切り替えた日本人の叡智は計り知れない。高度成長期の熟練労働者は当時は世界最強であったことを忘れてはばらない。一喜も名の仲間たちとの苦労と楽しさの中で戦った戦友としての戦後の経済成長の有志を忘れてはならない。今の日本があるのも、高度成長時代の蓄えがあったからであるが、これからはそうは行かない。人口の減少が経済成長の足かせとなって、一向に冴えないGDPは世界経済の中で苦戦している現状は成長産業に対する投資が不足している。成長無き経済の繁栄がないということはトマ・ピケッティも格差問題の中で語っているが、日本のこれからを憂うのである。

 年金までも税金をかけ、減額までもする現政府の政策は何ぞやと不安に感じる今日この頃の一喜であるが、70歳までも貰えない世代も出てくる年金政策でほんとうにいいのか。一喜も不安に感じる。貰える内はまだいいが、貰えなくなる日がくるのではないのかという不安がよぎる……。

 政治家の給与もたったの2~3か月の働きで1億円も貰うという年収の多さは、最低2割は減額して行った方が良く。官僚も含めて、人件費を民間並みにすべきであろう。

 人口も減り出した日本の将来をほんとうに政治家たちは考えているのだろうか……。

 汗水たらして働いた民間企業のお零れによって、なされた公的資金の使い道を考える時期に来ているのではないのかと一喜は感じている。

 リーダーは太鼓持ちのような行動は慎んでもらいたい。そろそろ日本は真の独立国として立ち上がる責任は政治家の責任ではないのか。戦後、70年も過ぎて日本の空は米軍によって制空権を握られている状態も可笑しいと一喜も感じている。

 栄枯盛衰、波乱万丈、伊佐木一喜の新入社員の時代に戻して観ると……。

 仕事の面では前述したように厳しいスタートであったが、楽しみの面でも、美大時代には味わえなかったこともあった。

 会社の先輩、月夜野昭英から勧められたスキーだった。

 第1回の東京五輪が終わった昭和40年代はスキーブームであり、会社でもスキーの販売をしているとの月夜野からの紹介で、本社の大会議室でスキーの予約販売をしていた。一喜は一番安い当時割と有名なニシザワのスキー板を購入した。靴のサイズと合わせて加工するスキー靴も一緒に買わなければならなかった。先輩の助言で、当時有名メーカーのコフラックではなく。紐状の国産の靴がピッタリだったから、その靴を買って加工を頼んだが2週間ぐらいかかるということだった。完成したものは2週間後にきたが、予約通りに素晴らしい出来栄えのスキー板になっていた。

お金は給料引きができるということで、一喜にとっては待ち遠しい2週間だった。

 濃紺の地色に白で英文字でNISHIZAWAと入った優れものだった。カッコはいいしデザインも気に入った一喜は喜々面々だった。真っ白な2本戦が輪郭にデザインしてあり、お気に入りだった。一目ぼれした一喜は感覚的であって、一目で解ってしまうデザインの良さは最高であった。タクシーで日本橋浜町の自宅へと急いだが、長すぎて助手席までの長さがタップリとあった。2メートル以上の長さで邪魔臭い感じであったが、軽々と家まで運んだ。ストックはグラスファイバー製で軽く色は黒であった。

「カッコいいな!」自己満足顔の一喜だった。満足感溢れる板にスキー場のイメージを頭び描いて想像の世界に浸っていた。

「これで、白銀の世界で走れるかな……」

 当時はスキーバスが会社の前まで来てくれて便利だった。銀座の夜は夜の蝶が舞う中での集合であり、若さに溢れたファッション姿で会社前を彩っていた。

 一喜はまっくろの地味なキルティングのヤッケ風のファッションであって帽子は尖がり帽で茶色だった。スキーパンツはブルーに纏めていた。とても女性を意識したファッションではなく。先輩の真似で山男風であった。

 土日のスキーバスで楽しむ程度であったが、最初は志賀高原であった。この場所も先輩の助言を聞いていた。

「……パウダー雪で雪質がとてもいいんだな」

「ベタ雪だと滑りにくいからね!」

「はじめての一喜には何が何だかサッパリ分からなかった」

「何も分かりませんから、よろしく、お願いします」

「まぁ、若いから直ぐに滑れるよ」

「そうですか。不安ですけどね」

「行けばどうにかねるよ!」

 先輩にhしては舌ッ足らずな喋りであって、なんとなく簡単そうに喋った。

 小学校時代にスキー教室があり、参加しなかった付けが廻ってきたことであった。後悔している一喜だったが、今、行かれる嬉しさが込み上げてきた」

「何でも経験、小さい内にやるべきだったな」

 後悔先に立たずのことわざのごとく不安は増大していった。胸はドキドキと高鳴っていて壊れそうであった。

 スキー場は連邦と樹氷で被われていた無彩色の眺望は下界では見られない絶景であり、ゲレンデのスキーヤーの衣装とhさ違って対照的な色彩学の世界だった。一喜は美大で色彩学を学んだが教科書にでも出てくるような模範の風光に感奮していた。

「こんな世界もあるんだな……」

「雄大な連邦と樹氷には色彩はないけれど……」

 激しい仕事の内面的な病葉が癒えて気分はスッキリしていた。

 雪の無彩色とは対称的なスキー板のデザインは下界で見るのとは違って、まるで生き物のように生きたデザインだった。一喜のファッションは山男のようだと前述したが、初心者の割には地味であった。白い2本の線も生きて、ニシザワの英文字もクッキリと雪に映えた。その理由は濃紺のバックだった。内面的な疲労感は幽霊のように消えていた。太陽が昇っている間は汗をかいたが、夕暮れ時になると寒さが込み上げてきた。スポーツの筋肉の動きと共に躍動感溢れる気持も同時に奮い立って気分は爽快だった。

 ゲレンデは赤や黄色のファッションで花が咲いたような感じで、一喜の目を楽しませてくれていた。上手い人程地味な、いで立ちだっtがそれを真似た一喜はスキーは下手だったが、意気込みだけは同程度だった。

 はじめてのスキーでは先輩の忠告でスキー教室に入ったが、基礎は頭の中で理解できるようになったがボーゲンからはじまった。どんな山スキーでもボーゲンができれば苦労しないで済んだ。ボーゲンは誰でもできる技術であって、カタカナのハのようにスキー板を揃えるこtであり、スピードをセーブするのには便利な技術だった。ボーゲンは半日で覚えたしまったが、それからの技術が大変だと先輩から聞かされていた。確かにスキーには急ブレーキをかけるにはストックを付いてから、方向返還して止めるのであるが、この技術は上級であってそうは簡単にできる代物ではなかった。

 樹氷は光線を受けて眩しくゴーグルをかけているのに、輝いていた……。

 パンパンに張った太腿と腕の内側の筋肉の使い方は激しくとても一日で耐えられるようなモノでもなかった。

 ストックを持たないでボ-ゲンを繰り返したが、これもハードだった。エッジの立て方を覚えてしまえば、ボーゲンも楽に滑ることができた。新しいスキー板とパウダーの雪質によって上手くなったと錯覚した一喜はボーゲンを繰り返して

徹底的に練習を繰り返したのは幸いだった。只、曲がることの技術は緩やかなカーブであって。急なスラロームは期待できなかった。ジャイアント・コースでは上級のストックをつかっての切り返しができないと真面に滑れないコースだった。頭で考えるよりも実践してからの勝負だった……。

 月夜野先輩からはジャイアント・コースを進められたが、技術が伴わないので、最初は躊躇していたが、「難しいところで滑れば、ゲレンデでのスキーが楽になるよ」と言われて、迷いに迷っていた。

 ゲレンデはまさに現代の墨絵の世界だった……。

 現前に開かれるモノクロの自然と人間どもとが折なす錦絵のせかいであり、対照的な色はマッチしていた。目を瞑って耳をすますと、女性たちの華やかな声が木霊して、都会と変わらない音の世界を創造していた。その中を一喜はストックを両脇にかかえながら1服するのは堪らない贅沢であった。ハードな筋肉を使用した後の疲労の後は目を開けると無彩色に浮かぶ極彩色の点の世界であり、運動感を休めるいい機会だった。

 モダンな日本画の中での安らぎは都会の雑踏から逃れて、人間の原点である自然との調和は心をすべて洗ってくれた。スポーツ感覚を繰り返すことは脳に刻印しながらスキーの動きを脳に染み込ませていた。一度覚えた身体は忘れることのできない快感によって、仕事をまったく忘れての運動はストレス解消としては最高だった。人間は仕事だけ遣っていればいいもんだというわけにはいかない。精神的な疲れは、ハードな仕事の後の遊びを繰り返すことによって、生きる力を取り戻す。仕事と遊びの繰り返すを繰り返すノウハウを学んだ一喜は自分のペースを掴むコツを覚えた。日常とは違った別世界での行動が次のステップを促し、厭なことを全て忘れる切っ掛けを掴む術を学んだ。

「そろそろスキー教室にはいろうかな……」

 流れる汗を拭こうともせず、一喜は少しは自信が付いたスキーを基礎から学ぶ勇気を感じていた。雪にも馴れて、身体の動きも自己流に学んだが、どうしても分からない論理的なスキーを学ぶ時期にきていると悟った。「これ以上自己流で滑っても上達しないな」自分のイメージを大切にする一喜はスキー教室に思い切って入った。

 ゲレンデの下部にある申込み所へとスキーで下り、お金を払うとゼッケンをくれて、首からかけた。番号の入ったゼッケンで、これからは番号で呼ばれるんだなと自覚しながら、コーチがグループを引率した。最初はエッジを効かせた山登りからはじまった。今まで感じなかったエッジの重要さが解るように身体に染みついていった。「エッジがブレーキの役目をするのだな……」何度も何度も繰り返して行くうちに「なるほど、エッジはスキーにとっては重要な役目があるのだ」

一喜はスキーの基礎を学習して、理論も解るような気がしてきた。只滑っていた今までよりも、スキーの各部分の役目の重要さを頭に叩き込んで覚えていった。

 ストックを使って急斜面での操作は疲れを生んだ。吐く息は白く。若い女性の生徒にカッコ良さを見せようとする一喜の心意気も疲労感で一杯だった。グループで行動することの難しさと他の生徒をみることの重要さを学び。今まで感じてもいなかったエッジの機能を認識した。他の女性に笑われないようにすることの難しさは集中力で解決させた。

 コーチの大声で番号を叫んでの指摘はもっともであるが、幾分恥ずかしさがあり、一喜の心を委縮させた。

 次はボーゲンになった。「ボーゲンはスキーを滑らす基本だよ!」とコーチの叫びと同時に、ボーゲンだけはマスターしたという自信は崩れた。「物凄く綺麗な曲線で回るんだな」これぞボーゲンという滑りを見せ付けられると一喜はいっきに自身を失ってしまった。「ボーゲンってこんなに綺麗に曲がれるんだ!」

「いままでのオレのバーゲンは何だったのかな」風船のように大きかった自信は急に縮んでしまった。雪に刻まれたシュプレーの後を見せ付けられた一喜は真のボーゲンの姿を学び。自分が出来なかったことの不甲斐なさを知った。

 次は斜面をエッジを利かせながらの滑りだった。斜面を登る時に覚えたエッジの感触を大切にすれば楽に滑ることが出来た。

 真っ黒に日焼けし、サングラスをかけたコーチは鬼のように見えた……。外見のように厳しく、生徒が出来ないと何回も何回も繰り返らされた。斜面での滑りでは膝の使い方の重要性を学んだが難しい面もあった。膝と腰の捻りのバランスを考えないと上手く滑れない。体重の移動が全てだった。口では言うのは楽だが、実際に滑ると想うように行かなかった。危ないと思ったら、尻もちを付くことも学び。あまり無理をしない方が足などの骨折を免れるということも学んだ。

「危ないとおもったら尻もちを付くんだ!」コーチの大声が耳に残り続けた。

「足はスキーと平行を保ち身体は捻って谷側に向ける勇気が必要なんだ!」

コーチの叫びに、一喜は斜面であり、谷側を向く勇気が必要であるが、怖さを感じることとなった。手に汗が流れた。

「スキーは急に止まれないと思え! エッジを利かせてターンするになるのは上級じゃないと無理なんだ! 危ないと思ったら初心者は尻もちを付くこと!」

その一言が一喜の脳裏を刻んでいた。動いているものに乗る感覚はやってみないと解らない。「何回も滑って覚えなければな!」と感じていた一喜だった。

「身体で覚える以外に道はなんな……」「これがスキーの大変さなんだな」

もう、女性の生徒もいることも忘れてスキーに集中する一喜だった。

 今度は長い板をターンする方法を視てから同じポーズを繰り返せという命令がくだった。下の部分がつっかえて動きがままにならないもどかしさを感じる一喜だった。「こんなに長くて扱いずらいスキーをターンさせるには靱帯を思い切り伸ばして、太腿の筋肉を伸ばして一機にターンするのだ」言うのは簡単であるが実際に行うのは難しくヨタヨタした。ボヤキながらのスキー教室も基本が解れば怖くはなかった。生徒の列で景色が見えるようになってきたので本物になってきた。

 両方のスキー板を平行に位置させた状態をパラレルというが、パラレルポジションともとも言われているが、、その状態で行う技術をパラレルターンという。これが、できるようになると本格的なスキーヤーとなる。ボーゲンは初心者でもベテランでも行えるが、パラレルターンは上級者しかできない技術であって、一喜もスキー教室ぐらいではマスターできなかった。

 ボーゲンは重心を靴の位置の内側にとるが、パラレルは重心を板全体にとってバランスをとることは小難しい。ターンは板を平行にしているため急にジャンプをしながらストックを突く技術は前方へ行っている勢いを身軽にストックを突きながらのポーズで流れを急変させる子tであるが、タイミングとジャンプ力を瞬時に読み取らなければならないので上級者でないとなかなかできない技術であった。

 スキー教室が終わると先輩は蓮池スキー場連絡用コースロープトで行けるジャイアントゲレンデで滑ろうと誘ったが、一喜は自信がなかった。

「難しいコースを経験すると一般のコースを楽に滑るから……」

 という安易な言葉に乗せられて、ジャイアントゲレンデに立ってみたが、ラクダのコブのように表面がボコボコで着く先が見えない急な斜面だった。これではボーゲンではとても無理であり、斜面を真っすぐにすべってターンする以外に道は残っていなかった。上級者はストックを突きながら斜面を滑り下りて行くが、一喜にとってはとても無理だった。パラレルでも危険だし、迷いに迷っていたが、尻もちをつきながらの滑りで何が何だか分からなかった。下が見えない恐怖感と転んだ耳元に上級者の滑る音が鳴り響き。恐怖感の塊となってしまった。

 危ないと思うと尻もちをつきながら、上級者の通行を視ながら、斜め横断を繰り返し、角にきたらターンして、何とか滑り降りた。その恐怖感は想いも寄らないモノで、ほとんどお尻で滑っているような状態であった。

「それにしても、先輩のイジメに等しいサジェスションだな」腹を立てた一喜だった。負けず嫌いだっが、技術の伴わないスキーの滑りは難しさと困難さを覚えて、危険を感じていた。「2度とこのゲレンデにはこないからな」捨て台詞えおいう一喜だっtがあとの祭りだった。「一生、ジャイアントゲレンデからおさらばだ!」「途中で下まで行けるかな」という不安感が持ち上がって困ってしまった。「先輩も酷いですね!」ニヤニヤ顔の先輩の顔が今でも忘れられなかった。

 生々主義の一喜だっが、このジャイアントゲレンデでのゲームは一本先輩に取られてしまった。「無知程、恐いものはない」肝に銘じる一喜だった。流れる汗は冷や汗ばかりだった……。太陽に曝されていたが、ちっとも暖かくなく寒さが込み上げてきた。

「このリベンジはするからな!先輩」

 口惜しさを心に刻んで意地悪な先輩との付き合い方を考えなければならないと猛虎伏草という気持で今は我慢した……。 

 スキーは好きだ……。

 ボーゲンはストックなしで滑ると上達が早いと前述したが、集中してエッジの使い方が微妙に解る。一喜はスキーにのめり込んでしまった。脳からの命令が直に届かないスポーツのように感じて、なかなk思うようにはいかないところに面白さがある。今までに使ったことのない筋肉を使うので、健康的だ。とくに太腿の内側なんてところはあまり普段は使わない筋肉であって、あくる日は必ず痛くなる。特に腸が丈夫になり、下痢もしなくなる。ハードさは疲れるが直ぐに疲れは抜けてしまう。「それにしてもジャイアントゲレンデは物凄かった」自分が、

想像していたよりも滑ってみると恐怖感があり、他の上手い連中のスキーの滑る(シュー、シュー)という音が耳に残って恐い。怪我がなかったことが幸いであったが、現実には危険であり、無謀であった気がする一喜だった。

「アリャー上手くなってから行くコースなんだな」

スキー教室では上手い人の真似をしながら上手になって行くのであるが、思うようにいかない長いスキー板をどう、コントロールするかが勝負だった。

「蓮池スキー場は難なく滑れるようになったのはジャイアント・コースのお陰かな」と先輩の助言は嘘ではなかったのかなという感じにもなっていた。

 直線を滑ることをチョッカリと呼ぶが一喜は得意だっtが、危険であるので、程々のスピードに抑えた方げベターである。「スキーで骨折した会社の連中を視るにつけ。怪我だけはしまい」と心に誓った一喜だった。

「ジャイアント・コースでは命拾いしたよな」と一喜は吹いたがお尻で滑ったことは誰にも言えなかった。「恥ずかしくてしょうがない」志賀高原の滑らかなスキー場でパウダー雪に新しい道具は一喜を上級者扱いにしたが、実際には腕が上がったというわけではなかった。道具と環境に助けられたスキー技術であってほんとうの実力ではなkったことは後のスキー場へ行ってみて感じた。

「オレも一応は滑れるようになったんだな」満足感溢れる表情は豊であり、リフトとゲレンデとを何回も何回も繰り返して練習に励んでいた。ストックによって両手の脇の下もあくる日に筋肉が傷んでいた。恐さによりストックの使い過ぎであって、上手い証拠ではなkった。フラストレーションの解消としてはスキーは好適だった。汗にまみれてすべてのことを忘れて無になれるスポーツであり、頑強な肉体造りには適していた。ハードな仕事も難なく熟せる体力と精神力が付いて自信となつた。スキー後の食事の旨さを忘れることはできない。何を食べても旨かった。「野沢菜などの漬物とみそ汁は信州の地域性が出て、特に旨かった……」白米は白銀のように見えて、真っ白で味も最高だった。「さすが、疎開した信州だな……」疎開した場所は松本郊外の南安曇郡で大妻という地名だった。一喜は疎開を思い出しながら「戦争はやだな。やっぱり、平和な社会がいいな」とレジャーできる悦びを噛みしめていた。「戦争って何だったんだろうか」

「馬鹿な戦争をしたな」「スキーのひずみ込などはすべてのスポーツに使えるな」という感じで足腰の鍛錬にはなっていた。特にゴルフにおける膝の曲げ方には影響するし、どうアキレス腱を使うかというヒントは隠されているようだった。ゴルフやテニスにはスキーは休養期間であるスポーツ選手の冬のシーズンにはうってつけだった。電車の中のトレーニングはつり革を使わないで動くモノに乗っている感じとることも大切であった。動いているものに乗りながらの操作であり、すべての人間の器官に分からせる工夫を電車内でもできる練習だった。

 切り返す技術も自転車や車の運転にも影響できるようだった。

 英語で明日を切り返すということは『Switch back tomorrow』というが、まさにスキーの技術を応用するこtであった。一喜は自分のキャッフレーズとしていた。

 相撲においても、切り返しという手があるが相手の力を利用しての技でありいかにも日本的な技であった。柔道でもそれに似た技が存在するが、日本のお家芸を日本人の一喜は自分の言葉に選んだ。人の力を利用して、逆襲する。いかにも日本的な技だった。豪快な無彩色の自然の中での人間が織りなすゲームは、これからもブームとして復活するであろうし、スキーの醍醐味を忘れることはできない。「スキーはスキーだ。スキーは好きだ!」

 ゲレンデに咲く人間の花はこれからも咲くであろう。

 アルペンスキーの完全な姿ではなかったが、曲がる時に板の後方部を少し開けるようにして、なだらかな斜面を曲げるような技術は拾得出来た。これも少しジャイアント・コースの経験が生きていた。先輩のお陰であったが、普通の斜面は気にならなくなった。

むごめのイジメはいい方へ転べばいいが、心に残るイジメは良くない。スキーの技術にとっては少々ためになった程度であり、恐いことには変わりがない。スラロームを描く技術はまだだったが、大蛇風の雪に爪痕をのこしてのエッジ跡は癖のないモノであったら最高である。一喜のスラロームは本物ではなく。まがい物だった。エッジで彫られてゆく曲線は滑らかなほど上級者であるが、彼のはそうもいかない。ビンディングもかなり良くなって転んだりした時には足を折ったりしないように直ぐに外れる優れものであった。板にしっかりと取り付けられてスキーとブーツをガッチリと繋げて、転倒時の事故を防ぐ。この用具の改良が近代スキーの進歩を促して、みんなが上手く滑れるように」なった要素であった。ストックは昔は竹や木など重くて折れやすい素材で造られていたグラスファイバーは軽くて丈夫であっtが、傷つきやすいという欠点がある。用具の進歩によって、スキーは初日から上手く滑ることができるようになっtが、板が長い程、転がり摩擦のためにスピードが出る。

 エッジの使い方と膝の上げ下げ、身体の捻り、動くモノに乗る技術をマスターすれば一喜のように白銀の舞う中でスキーを楽しむことができる。冷たい風を切る爽快感は忘れることができない。何回か転んだが、お尻が濡れないパウダースキーを楽しむことができるのはさすが志賀高原の雪質であった。スキーで転んで骨折すれば、2~3ケ月は棒に振ることになるのだが、そんな危険の中で尻もちをつく転ぶ技術の習得も柔道の受け身のように必要であろう。いずれにしても無理をしないことが大切である。雪中松伯、松のように緑を称えて、志を強くしっかりと持って、これからの仕事や人生に対処しようと一喜は誓った。

「スキーは人生の手本だな」

 スキーから学ぶことの多いことに感謝しながら1泊2日のスキーバスでのささやかな旅を楽しんだ。夕景になると途端に冷えてきて早目に宿舎に引き上げた。夕食は前述したように今までにない旨さだった。「ご飯を喰う楽しさが解った!」

同僚との語らい後、直ぐに、床に就いた。熟睡だった。「もう、何が何だか分からない」夢の国だった。

 帰りのバスの中で一喜は反省していた。

 ジャイアント・コースでの滑りはともかくとして、なだらかな斜面でのスラロームの美しさと、ある程度急斜面でのターンの不味さは気になっていた。

「何でスラロームが上手くできないだろうか?」エッジと腰の上げ下げのタイミングが繋がっていないもどかしさを感じていた。

 動体物質に乗る身体全体の細かい筋肉の動きも、あまり良くなく。小さい時から遣らなかった代償がきていた。スポーツ感覚のなさが致命傷に思えてきていた。

 自分の脳から発する命令に対して、スキー技術の未熟さにより、伝わりにくさがあることは解っていたが、身体が思うようにいかなかった。「訓練以外に解決への道はないな!」と猛省したが、1日で全てをマスターするのは無理のような気がしてきた。長いすきー板が自分の足のように使えないもどかしさがあり、今の自分の実力であることを理解した。多くの課題を抱えてしまったが、次のスキーの時は、最初の技術を脳が忘れてしまい午前中は元に戻ることの練習だろうと思っているが、その繰り返しによって少しずつステップアップゆくのだろう。

 永いスキーとの闘いがはじまったばかりだ。挫けることはない。「スキーは好きだが生半可なスポーツではないな」

 一喜は腕の上部と太腿は張ったかんじであったので、トクホンを張って対処した。準備は万端だったが、こんなにも痛くなるとは想像もしてなかった。

 帰りのバスは怪我もなかったことに感謝しながら明るい感じのバスツアーの車内だった。行きのような漆黒の暗闇の中でのバスとは違って窓の外の景色は様変わりしていた。山肌の雪も、都会に近ずくに従って雪が少なくなり山肌を剥ぎ出した黒っぽい木々になって、枯れ果てた寂しい情景だった。

 身体全体にだるさが残っていたが気分はスッキリとしていた。

 上信道、吏埴JCTから

 長野道、岡谷JCTに入り

 上信、越道更埴を下り

 関越道、練馬I・C

 首都高でのスキーバスツアーはコンクリートジャングルの都会の雑踏へと向かっていた。「これじゃ、人間の住むところでは、ないなぁ」3時間半で銀座の本社前に着いた。「スキー場とは対称的なコンクリート街の中で働くということはストレスになるんだなぁ」一喜は現実に返ると雑踏の中で自然が少ないオフィスを眺めると不信感が湧いてきた。

「仕事は程々に……」

「たかが、喰うための手段だな仕事なんて!」

「身体を壊すまで、やるもんじゃないな」

 と悟った。

 一喜のその後に与えた影響は大きく。全てが新入社員のスキーからはじまった。

 最近、一喜は茶色の狆を飼った……。

 胴長で茶狆らしくないが、犬専門店では50万円もする本物の狆だ。

 そこで、一喜は一句を詠んだ……。

「狆いわく サクラじゃないよ 本物だ!」

                  《了》

 












  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サクラ 中川ハシル @hashirunakagawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ