第6話 新しい夢を語ってみた。

 ――ついにこの日が来た! まさに怒涛の一週間だった。

 仕事とマンガの両立で極限まで寝る時間を削り、井上にも手伝ってもらって仕上げた投稿用マンガが、ついに完成したのだった。いつも思うのだが、夏休みの宿題や部屋の掃除やマンガの締め切りなど、どうして追い詰められるまで完成しないのだろうか? しっかり計画的にやっていれば、こんなに、心身共にボロボロにならなくて済むはずなのだが――なにか輪廻めいたメソッドでもあるのだろうかと、机にうつ伏せで倒れながらトロットロの脳みそで考えていた。

 「……おい、手伝ってもらった親友に何か言う事あるだろ」

 「ありがとうございます」

 「絶対に次は手伝わないからな……」

 「ちゃんと計画通り進めるよ」

 「頼むぜ……じゃ、俺は帰るわ」

 「今度給料はいったら飯奢るな」

 振り返ることもなく、ただ手を上げて井上は帰っていった。ぼくも仕事に行く準備をして家を出た。

 外に出ると、一気に寒くなっていた。薄暗い中を自転車をこいで事務所に向かう。

 「――うわ!? あんたどうしたんその顔……」

 今日も応援に来ていたルイが、酷いぼくの顔を見て驚いた声を上げる。

 「恥ずかしいから見んといてぇ~」

 女の子みたいなリアクションで誤魔化そうとしたが、「キショいねん」と一蹴されてしまった。

 「ようやくマンガ仕上がった」

 「おお、おめでとうさん! なんか賞に入ったらええな」

 「大賞でも取ったら高級料理でもご馳走するわ」

 「高級料理とかええわ、特上の焼き肉でええで」

 ルイらしい答えを聞いて、美味しそうに焼き肉を食べる姿を思い浮かべ、ニヤけてしまった。

 ――美味しいものを食べさせるのもいいが、もっとルイを幸せにしたいと思い何かないかと考えた。送別会の時に見せた弱い一面のルイを思い出して、やっぱり一緒に暮らすのがいいのかもと思った。そうすれば、近くでルイを支えてあげれるだろう。それにいつでもHができる――と自分の願望も叶って同棲は一石二鳥じゃないかと思った。そうなると住む場所に敷金など、考えることが多い。そもそもルイが一緒に住んでくれるのかも心配だった。

 ――もし、断られたらどうしよう……。

 それはそれでヘコみそうだと、思考を進めると胃がキリキリと痛みだす。それにどのタイミングで同棲を提案するかも悩みの種だった。告白の時もドーテー卒業の時も、なんとなく流れで来てしまった感があったので、今度こそは男らしくビシッと決めたいという思いは強かった。――とはいえ、いい雰囲気の作り方など皆目見当がつかない。ここはグーグル先生に聞いてみるのが一番だと、パソコンで「デートで良い雰囲気の作り方」で検索してみると、結構な数が出てきた。

 「……やっぱり場所が大事なのか……女性は夜景や景色の綺麗なところが好きと……でそれってどこや?」

 読み進める。

 「……あった! 人気のない公園や夜景の綺麗に見えるレストラン……ってベタベタやなぁ」

 人気のない公園なんて露骨すぎるし、ルイがそんなところを喜ぶイメージが湧かない。次に夜景の綺麗に見えるレストランに関しても、ルイが夜景を見てウットリしている姿なんて想像できない。

 「――だいたいルイの好きな場所って……あっ!」

 そういえば、前に高い所からの景色が好きやって言ってたのを思い出した。すぐに検索をかけてみると色々でてきた。

 やっぱり大阪で展望台といえば、最近できたあそこだろう――

 「阿倍野ハルカス――」

 日本一高い展望台を謳っているんだから、高い所が好きな人にとって、これ以上の場所はないだろう――ルイの喜ぶ姿が目に浮かび一人興奮する。――だけど、高い所が好きなルイのことだから、もしかしたら、すでに展望台に行ってるかもしれない可能性もあった。そこで、さりげなく聞いてみようと電話をしてみた。

 「どないしたん?」

 「ルイって、ハルカスって行ったことある?」

 それとなく聞くつもりが、ストレートに聞いていた。

 「ハルカスかぁ、知り合いの知り合いの応援でゴンドラ降りたことあるけど大変やったわぁ」

 ――そうだった! この仕事は展望台より高い所で仕事しているんだから、そりゃ行く可能性あるわな……。

 その可能性を失念していた自分に、文句を言いたくなった。

 「それがどうしたん?」

 「大変そうやなぁ、あんな高い所……ちょっと気になっただけやから」

 「変な奴やな」

 その後は、他愛無い会話をして電話を切った。他に良い雰囲気の作り方はないか調べる。

 次に目に留まったのがBGMだった。

 「なになに……音楽はその空間を作り出すひとつのスパイスです……か、なるほど」

 そこで、ルイはどんな音楽が好きか思い出そうとしたが……思い出せなかった。仕方なくいい雰囲気を作れる音楽で検索してみたら、これまた、とんでもない数がひっかかった。

 長い時間検索した音楽を試聴してみたが、どれもいい曲に思えて、選ぶことが出来なかった。

 「うわああああ、みんなどうやっていい雰囲気なんて作りだしているんだあああ」

 慣れない事をしたせいで、頭から煙が噴き出るんじゃないかと思うほど沸騰してきた。

 「困った時は、や、奴に相談……」

 井上に電話しようかとスマホに手を伸ばしたが、絶対に怒られると思い電話することを諦めた。知恵袋で相談しようかと思ったが、これも何か酷いことを書き込まれたら、立ち直るのに時間かかりそうだから止めた。

 「……とりあえずデートに誘って、その時の雰囲気で決めよう」

 あれこれ悩んだ挙句に出した結論は、いたって単純明快、行き当たりばったりなものとなった。


 「――おつかれさん」

 現れたルイは、黒を基調とした真っ赤なチェーン薔薇柄のパーカー付ジャージの上下セットを着て少し気怠そうだった。しかし、いつも思うがルイの服はどんなお店で買ているのだろうか――今度、ついて行ってみたいと思った。

 ルイと歩いていると最近気づいたのだが、普通の男はルイをあまり見ないようにしているのだが、柄の悪い男たちからは熱い視線を感じる。しかも、ぼくに対しては、なんでこんなショボイ男がこんないい女連れてるねん、といった驚きの視線を向けられているように感じる。それにも大分なれたと思う。

 今日は、居酒屋で食事をすることにした。お店に入り色々注文した後、独立してからいろんな現場に顔出すことで、色々な人と出会い苦労する話など、ぼくの知らない人の話をするルイが、なんだか遠く感じた。それに、やっぱりルイの周りは男だらけなのが、余計に不安を募らせる。

 「やっぱり、食事誘われたりするの?」

 「それはよくあるなぁ」

 ――やっぱりあるんだ。

 「……二人での食事は断ってるけどな」

 ぼくが気にしていることを察したルイは、安心するように話してくれた。

 「信用してるから大丈夫やで」

 思いっきり見栄を張る。

 「ウソつかんでええわ、気にしてるオーラが全身から漂ってるで」

 「どんなオーラやねん」

 「灰色でドロドロジメジメした空気が全身の毛孔から吹き出てるで――ほら!」

 ぼくを指差して、その周りに負のオーラが見えるかのようになぞって示す。

 「あんたこそ他の女と……って、そんな甲斐性ないか、うちかあんたのおかんしか、女と話すことないやろうからな」

 ルイは自分の言ったセリフがハマったのだろう、机を叩き大爆笑していた。反論しようと思ったが、逆にツッコまれそうで止めた。

 まだお腹を抱え笑っているルイを見て、今更だが、こんな豪快な女とよく付き合えて、Hまでこぎつけたものだと感心する。ルイは見た目以外、男友達と変わらず、しかも、この女相手にいい雰囲気を作り、一緒に住もうと言わなければならないなんて、超ハードモードの恋愛ゲームに挑んでいるようなものだ。このラスボス級のヒロインをどう攻略しようか考えている時に、ぼくの電話が鳴った。

 「……知らない番号や」

 「どこかの現場からかもしれんで」

 ルイに言われ、とりあえず電話に出てみた。

 その電話の主は、マンガを送った出版社からだった。

 「なんやったん?」

 ルイがビールを飲みながら聞いてきた。

 「出版社からで、ぼくの作品が佳作にはいったって連絡やったわ」

 自分でも信じられなくて、まるで他人事のように話していた。

 「おおお、やったやんおめでとう!」

 ルイは大喜びしてくれて、ビールのジョッキを掲げ乾杯してくれた。電話の直後は実感が湧かなかったが、徐々に現実だと分かってくると、腹の底から喜びが込み上げてきた。

 「ありがとう! これで一緒に住もうて堂々と言えそうや!!」

 「――え?」

 「――あっ!?」

 喜びのあまり、また自然と口走っていた。しまったと思いつつルイを見ると、まっすぐぼくを見つめ、ビールを掲げたまま固まっていた。

 「……最近考えていて、今日もその話をしようと思って誘ったねん」

 「……ビ、ビックリや……」

 ルイは瞬きを忘れたようにぼくを見ていたが、急に噴き出したように笑い出す。

 「え? ええ? 笑うとこか?」

 「いや、あんた、いつもそうやん」

 ルイにそう言われても言い返せないほど同じ展開ばかりで、ドラマやマンガだったら「またか」と言われるだろう。

 「――本当はもっと雰囲気のあるとこで言うつもりやってんけど……ほんまに上手くいかんなぁ」

 頭を掻きむしる。そんなぼくをみて、ルイは更に大笑いする。

 「別にええ雰囲気なんていらんやろ」

 「告白の時もなんかようわからんうちやったから、一緒に住もうって言う時は恰好良く決めたかってん」

 「今の方があんたらしいけどな」

 ルイは笑い過ぎて苦しそうにしていた。

 「そ、それでどうやろう……?」

 「まぁええんちゃう」

 あっさりというか、他人事のように同棲を了承してくれた。

 「適当な返答やな」

 「そうか? 嫌やったら嫌って言うしな」

 確かに、ルイはお世辞や愛想よくなんてできるタイプじゃないのだが、それでも恥らいながら言ってくれてもいいようなものだと、勝手に期待していた。だが、了承を得たのは嬉しく、今日は人生で最高の日だと思った。

 「それじゃ、どの辺りに住もうか?」

 「う~ん、あんたの職場に近くて、うちの駐車場に近い場所が一番理想的かな」

 「そうやな、今度休みの日に一緒に不動産屋見て回ろうか」

 今にでも不動産屋を回りたいぐらい気分が上がっていたが、ルイは平常運転のように唐揚げを食べてビールを飲んでいた。その様子を見て少しガッカリしたが、あまり多くを望んでもしかたないと諦めた。

 それでもルイとの新しい生活を妄想して一人でニヤける。

 「……あんた、さっきからニヤけてキショいねん」

 「キショい言うな!」


 ――部屋探しは意外に難航していた。お互いのこだわりが違い過ぎて、合わせるのが大変だった。ぼくは二部屋欲しかった。一つは二人の仕事部屋として使いもう一つの部屋を寝室兼リビングにすればいいと思っていた。ルイはセパレートに絶対のこだわりをもっていた。やっぱりユニットバスと比べると若干家賃が高くなるみたいで、その辺りの兼ね合いも問題だった。――あと、態度の悪い不動産屋の接客にルイがキレるので、それも部屋探しが遅々として進まない理由でもあった。

 「そんなに慌てんでもええやろ」

 不動産屋めぐりに疲れ、喫茶店で休憩している時にルイがポツリと呟く。ぼくはすぐにでも一緒に住みたいと思っていた。だが、初めての同棲だから納得いく物件に住みたいと思う気持ちもあり、その両方でせめぎ合っていた。

 「まさか、こんなに見つからんもんやとはなぁ、やっぱりユニットバスはあかんの?」

 「絶対嫌や!」

 ルイは因縁を付けられた時のように、凄んだ顔で見つめてきた。

 「それやったらもうちょっと家賃高い物件も視野に入れようや」

 「そんな高いとこ住んでどないすんねん」

 ルイは家賃を抑えて、ハイエースを買うための軍資金を貯めたいようなので、ぼくもその気持ちは尊重したく、無理強いはしなかった。

 喫茶店で新居探しに行き詰っている時に、ぼくの電話が鳴る。見てみると出版社からだった。一体なんだろうと、なぜか不安な気持ちがよぎった。

 「さっさとでえや」

 ルイに促され、慌てて電話に出る――

 「――なんやて?」

 電話を切ると、すぐにルイが身を乗り出すように聞いてきた。

 「……なんか、賞の授賞式と今後について話し合いたいので、東京まで出てきて欲しいって言われた」

 「今後ってなんやろうな?」

 ルイの疑問も分かる。ぼく自身もそのことに疑問があったが、緊張のあまり電話で聞くのを忘れた。

 「ほんまあんたらしいな……で、いつ行くん東京?」

 「来週の土曜日に来てくださいって言われた」

 「それやったら、部屋探しも東京から帰ってきてからでええな」

 こうして、二人の新居探しは来週以降に持ち越しとなった。

 

 ――そして授賞式当日、成人式の時に着たスーツに腕を通し出版社の指定したホテルに着いた。そこは、イメージしていたよりも豪勢な会場で圧倒された。

 授賞式は粛々と進行して、ぼくも大きなドジをすることなく終わって、肩の荷が下りた。その後立食パーティーが催され、その時に編集者の人とゆっくり話す時間が出来た。その人の話によるとデビューに向け、まずはどこかのマンガ家さんのアシスタントとして働きながら勉強して欲しいとのことだった。そうなると一つの疑問が湧く。

 「……東京に出ないといけないってことですか?」

 「そういうことになるね、住むところのサポートもさせてもらうから、安心してもらってもいいよ」

 柔和な笑顔で対応してくれるが、あまりにも突然な申し出に、困惑の色は隠せなかった。

 「今すぐ返事しなくてもいいけど、準備もあるから来週中には決めて欲しい」

 ぼくの表情を見て、そういってくれたのだろう。それまで保留という形として会場を後にした。

 ――パーティー会場から出て、見慣れない街並みをみつめながら、ぼんやりと駅に向かって歩く。とても嬉しい申し出だが、東京に出るということは、ルイと離ればなれになのだと思うと、心が締め付けられるように痛かった。

 このことをルイに言ったらどうするんだろうか、一緒について来てくれたら嬉しいが、ルイがそう言ってくれる自信はなかった。離ればなれになったら、ぼくたちは別れてしまうのだろうか――そう考えただけでも目の前が暗くなり、壁に手をつかないと立っていられないほど不安になった。

 「……なんて言おう……ぼくはどうしたらええんやろ……」

 出口のない迷路を彷徨うように、永遠と同じ所を回り続けていた。


 「――お前、本当に俺に頼り過ぎやぞ」

 気が付いたらスマホから井上の声が聞こえていた。電話越しでも分かるほどに井上が呆れているのが分かった。

 「もう、どうしてええかわからへんわ……」

 心が引き裂かれそうなほど苦しくて、激しい痛みが鼓動とともに脈打つ。とにかく、誰かに手を取って欲しかった。ぼくの声は聞こえていたと思うのだが、井上は何も言ってくれず長い沈黙が続いた。

 「――お前、何か勘違いしてないか?」

 長い沈黙の後、井上が発した言葉は意外なものだった。

 「……勘違い?」

 「それって、お前一人で決めることちゃうやろ」

 おもいっきり殴られたほどの衝撃が、全身を貫いた。井上の言う通り、これはぼく一人だけの問題じゃなかった。ルイとぼくの二人の問題だと、井上に言われてようやくその事に気づいた。いや、気づかせてもらえた。

 「――ありがとうな井上」

 「……ええかげん女紹介したるわ、ぐらいの電話でもしてこいよ」

 憎まれ口を叩きながらも、頼ればいつもそれに答えてくれる。井上は本当にかけがえのない友達だと心から感謝した。絶対に足を向けて寝れないなと、神のように崇め奉りたい気分だった。

 井上との電話を切った後、すぐにルイにLINEをする。

 ――明日、大切な話がある。と――

 すぐに、――了解。と返信があった。

 明日は、ぼくたちの将来を決める大切な日になるだろうと覚悟は決まった。

 ――胃が、キリキリと痛む。


 ――大阪に帰ってから、仕事終わりに近所の居酒屋でルイと合流した。

 今日のルイの服装は、黒を基調にしたボーダーカットソーとサルエルパンツに紺のデッキシューズを履いていた。そういえば、ルイがスカートを穿いているのを見たことがないと改めて思った。

 「どうやった東京?」

 「とくにかく人が多かったわぁ、どこも梅田並におったで」

 「それはウザいなぁ」

 他愛のない会話から始まって良かったと、胸を撫で下ろす。料理が運ばれて、まずはビールでお疲れさまとかわしてから、料理を食べる。

 ――話しだすきっかけが掴めないまま、食事がすすんでいく。

 「今日はあんまり飲まへんねんな」

 「明日も早くから仕事やからな、あんたは?」

 「ぼくも明日から仕事やわ」

 直前までシミュレーションをしていたが、やっぱり本番に弱く、考えていた段取りが全て台無しとなっていた。

 ――いつもいつもこうだ。大事なことになると尻込みしてしまう。

 「また、時間出来たら不動産屋回らんとなぁ」

 この言葉に、心はチクリと痛んだ。ルイが口にするって事は、二人の新生活を楽しみにしていてくれているんだと、最近になって分かってきた。そんな些細なことが少しずつ理解できてきたのに、別れるかもしれないなんて嫌だと、心の底から思った。しかし、ここで言わなければダメだと――二人の問題だから話し合うんだと、心を奮い立たせる。ここは、アルコールの力を借りようと、ビールを一気に飲み干した。

 「――さっきから黙って……東京でなんかあったん?」

 先に牽制されて、飲んだビールが逆流してむせ返った。

 「大丈夫か!?」

 「だ、大丈夫や……それより話があるねん」

 「そういえば、LINEでもそんなこと書いてたな」

 居酒屋の喧騒が響く中、ぼくたちのテーブルだけ沈黙の帳が降りた。その帳が重くのしかかる前に口を開いた。

 「出版社の人が、アシスタントしながらデビューに向け頑張っていこう――って言ってくれてん」

 「おお! よかったやん、おめでとうさん」

 ルイはジョッキを掲げ喜んでくれた。あまりに拍子抜けしそうな程のリアクションに、ぼくは逆に驚いた。

 「……アシスタントするってことは、東京行かなあかんってことやけど……」

 「そうやな」

 気にしてないというより、ほとんど無関心に近い態度に、ルイは絶対に事態を理解していないと確信した。はっきり言わなければ分かってもらえないと思ったぼくは、最後のハードルを越えようと加速して飛んだ。

 「ぼくと一緒に東京に行ってくれへんか!」

 突然の申し出に、ルイは串カツを食べる姿勢で固まった。

 「……なんやそれ?」

 「一緒に東京で暮らそう」

 「だからなんやねんそれ!!」

 ルイは声を荒げて、ぼくに食いつくかのように叫んだ。

 周りのお客が驚き、店が静まり返る。

 「もうちょっと声のトーン落とそうか」

 周りの視線が気になり、とにかく宥めようとしたが、ルイの顔はみるみる険しいものに変わっていく。

 「うちに仕事辞めて、ノコノコついて来いって言うんか!!」

 ルイは怒りに任せテーブルを殴る。倒れる物がなかったが、盛り付けていた料理が皿からこぼれたりした。

 「落ち着いてルイ! なにも仕事を辞めてくれって言ってるんやない。東京でも掃除屋の仕事あるやろ」

 「ふざけんな! うちが独立する時、いろんな人が助けてくれたんや! それを全部放って東京行くなんて、そんな不義理な事できるかボケェ!」

 まるで獰猛な犬が、今にも襲い掛からんばかりの勢いでぼくの胸倉を掴む。ルイの性格を考えればその答えは容易に想像できただろうに、完全に失念していた。自分の事だけしか見えていなかったのだ。

 「ごめん……でも、ルイと一緒にいたいねん」

 ぼくの言葉に、獰猛な犬のような形相をしていたルイの表情が、悲しいものへと変わった。

 「……うちも一緒にいたわ……楽しみにしてたんやからな……一緒に住むの」

 ぼくの胸倉を掴んでいた手を離して、体は横を向く。ルイの横顔はとても寂しそうで、ぼくの胸を強く締め付ける表情だった。最近少しずつ、ルイが弱いところを見せてくれるようになって、二人の距離が縮まったように感じていたのに、こんなことになって本当に残念で悔しかった。

 「……やっぱり東京行くの止めようかな」

 ルイの寂しげな横顔を見ると、放って行けない気持ちになりポツリと呟いた。その呟きに、ルイは先ほどよりもっと恐ろしい形相で睨んできた。

 「あんたの夢やったんやろ、その程度やったんか!!」

 「――あの、他のお客さんにご迷惑ですので、大きな声を出されるのはおやめください」

 見かねた店員さんが仲裁に現れた。

 「わかったから引っ込んどけ!」

 ルイは店員にさえ食って掛かり、自分の気持ちを持て余すようにそっぽを向き貧乏ゆすりをする。店員もこめかみの辺りをひくつかせながら引き下がってくれた。

 店員が下がった後、ルイの言葉を反芻していた。マンガ家になるのはぼくの夢だった。ルイの夢は独立して掃除屋をやっていくこと……ルイがぼくを好きになってくれたのは、同じように夢を持っていたからだろう。その夢を簡単に捨てるような男は嫌いだろうし、ルイは自分のせいでぼくの夢を諦めさせたなんてとても耐えられないだろう。

 その考えに至った時、ぼくは決心した。

 「――東京行って頑張るわ」

 「…………うん。頑張りや!」

 ルイは憮然とした表情で応援してくれた。

 ――その表情は、どこか寂びそうでもあった……。


 ――次の日、出版社の方に連絡をした。今の仕事の都合ですぐに行けない旨を伝えると了承してもらえ、一か月後を目途に準備をしてくれることとなった。

 出版社との話し合いが終わると、長峰美装の方にも話を通した。社長はぼくが辞めることを残念に思ってくれて、「いつでも帰っておいで」と言ってくださった。玉部さんや稲葉さんや千石さんも寂しくなると、少しセンチメンタルに話してくれた。

 倉庫にいる山岸さんにお世話になったことを告げに行くと、今まで見たことがない形相で睨んできた。

 「……ルイはどうするつもりや?」

 山岸さんは、内臓に響くほど低い声で、絞り出すように問うてきた。前にルイを任せたと頼まれ、景気よく返事をした経緯があるだけに、胃の辺りがピリピリと痛んだ。

 「……今はメールやLINEってものがあるからすぐに連絡とれるので、遠距離になりますが、付き合っていくつもりです」

 これは、ルイとしっかり話をして決めた事だった。

 「そやけど、ルイが辛い時や困った時に、お前傍にいてやれんやろうが」

 山岸さんの言葉は、ぼくの心臓を握りつぶさんばかりに責めてきて痛かった。それもルイと話して決めたことで、山岸さんにとやかく言われる事じゃないと思ったが、ルイを妹のように面倒見てきた山岸さんの心情を考えると、そんなことは決して言えなかった。

 「そんなことがないように、精一杯やっていこうと思います」

 言葉なんて薄っぺらいものだと分かっていても、そう言うしか山岸さんに納得してもらえないだろうと言葉を紡いだ。

 「……お前らが決めたことやから、俺が今更とやかくいうことやないんやろうけど……ルイを泣かせるなよ」

 「――はい」

 山岸さんが安心できるように力強く答えた。

 山岸さんは倉庫整理の続きに戻った。その後姿にお辞儀をして倉庫を後にした。

 ――それからクリスマスや年越しなどのイベントは、お互い忙しくてとくに変わったことはせずに過ぎた。

 大阪ではほとんど雪が積もらないのだが、今年は珍しく雪が積もった。東京に行く前に、井上に挨拶しようと雪を踏みしめながら歩いていたら転んだ。大阪人は雪に慣れていないので、注意が必要だと思った。

 「――今までありがとうな井上」

 「東京遊びに行ったときは、案内よろしくな!」

 他愛ない会話をしていたら井上が原稿用紙が入るぐらいの茶封筒を投げてきたので中を確認したら昔描いたマンガがでてきた。

 「懐かしいな……ヒドいなぁ、絵も話も」

 二人で笑いあう。

 「……彼女置いていくなんて、お前も変わったなぁ」

 「ぼくが変わったというより、背中を押してもらっただけや」

 一人だったら怖気づいて、東京になんて行かなかったかもしれない。そう思うとルイの存在はとても大きかった。

 「最後はいつ会うねん」

 「明日やな」

 「そうか……まぁ、永遠の別れってことやないからな。東京大阪間なんてのぞみやと二時間半ぐらいやから近い近い」

 「そうやな」

 励ましてくれようとしているのは分かったが、心はどこか網のように隙間だらけになっていて、言葉はすべて通り抜けていった。

 「それじゃあ、頑張ってこいよ!」

 「おう、今までありがとな!」

 拳を合わせ井上とは別れた。


 ――次の日、仕事終わりにルイの家の近所の飲み屋で会うことになっていた。結構早い時間について待っている間、この辺りにも随分慣れてきたと思った。見慣れたお店、見慣れた看板、見慣れた店員――ルイと出会わなければこの場所を知ることもなかったんだと思い、体の奥から熱いものが込み上がってきた。

 「早かってんなイサオ」

 相変わらずヤンキー風の服装で決めたルイが寒そうに背中を丸めながら歩いてきた。すぐにお店に入ると、全身に纏った氷が解けるように感じられた。

 「――なんかあっというまやったな」

 「そやな、もうバタバタして大変やったわ」

 元気に話すルイに、ぼくも元気よく答えた。

 「あんたは浮つくとすぐケガするから心配やったわ」

 「肝心なとこでドジるからなぁ、今回はちゃんと気張って仕事したで!」

 いつまでもルイに心配をかけれない。東京行っても大丈夫だというところを見せようと一か月頑張った。

 それから、ルイとは今まであった思い出を語り合った。そして、お店を出て帰り道――どちらからとなく自然な流れでラブホに入り、激しくお互いを求めあった。この手にルイの肌の感触、温もりを刻み、ルイにもぼくのことを忘れないように強く抱きしめ匂いや温もりを刻んだ。何度も何度も貪るように抱き合った。

 ――ルイの温もりや感触が消える前に、東京へ行く日が来た。ルイは仕事で見送りに来なかったが、LINEでメッセージが送られてきた。

 ――きばりや!

 そのメッセージを見て、泣きだしてしまった。これが別れじゃないんだと言い聞かせ、ぼくは新幹線に乗って、新たな仕事場のある東京へ向かった。


 ――東京に来て季節が進み、また暑い夏がやってきた。東京も大阪も暑さはそれほど変わらなかったが、半年いてもまだ東京の生活に馴染めずにいた。仕事は毎日なにかに追い立てられるように忙しく、家には寝に帰るぐらいのものだった。それでも最初の頃はルイと頻繁にLINEや電話をしていたが、最近はお互い忙しくてすれ違いが続いていた。

 朝から夜までマンガを描く生活は、ぼくの憧れていた生活だった。先生から色々な事を教わり、アシスタント仲間と情報交換したりと毎日が充実しているはずだった――だが、一日中狭い部屋に閉じ篭って、毎日同じ場所に通う生活に、どこか物足りなさを感じていた。

 休憩で、外の空気を吸いに出ると向かいのビルの窓ガラスを見て、掃除をしていた頃の事を思い出す。あの頃は、いろんな現場に行っては、高い場所から景色を眺めて気持ち良かったと思った。今思うとマンガの為に始めた掃除屋だったが、惹かれるように掃除屋をやったんじゃないかと思うようになっていた。

 ――今頃は、みんなガンガンとガラスをきっているんだろうなぁ。

 空を見上げながら、そんなことを考え一人でニヤけていた。

 ――仕事を終えてマンションに帰る頃には、二十二時を回っていた。未だに、電気の消えた部屋に戻る寂しさに慣れなかった。

 コンビニで温めてもらった弁当を食べながら、録画していたアニメを観るといった生活を繰り返していた。

 「風呂でも入るか」

 風呂にはいるといってもユニットバスなので、湯船に浸かることができなかった。ルイがユニットバスを嫌った理由がよくわかった。風呂から上が、ベッドで横になってスマホゲームをしながら適当に寝て――起きる。そして、仕事に向かう。

 そんな日々の暮らしを繰り返していた。

 ――そんな日常の中で、いつものように休憩をしようと外に出た。すると、向かいのビルにゴンドラが降りているのを見かける。懐かしくなり、近くまで見に行った。しっかりバリケードを張って、新人ぽい男が立っていた。それを見て、初めて立ち番をした時の事を思い出す。バリケードを越えて汚水がかかりめちゃくちゃ怒られて、ルイが降りてきて一緒に謝ってくれた。でも、男がバリケードの中に入ったと知ると殴らんばかりに胸倉を掴み怒ったこともあった。ゴンドラでは、何度も止めてぼくをビビらせたり、落ちそうになったぼくを必死に助けてくれたりと、ルイとの思い出が次々と溢れてきた。

 ――その時、嫌な現実へ引き戻すように電話が鳴る。休憩が長かったのかと思って慌ててスマホを見た。だが、そこに表示されていたのは山岸さんだった。珍しい人からの電話に驚きつつも出た。

 「もしもし!?」

 「西嶋か! ルイが、ルイが怪我をした」

 山岸さんの電話を切って、すぐに仕事場に戻り事情を説明して帰らさせてもらった。最小限の荷物を持って新幹線に飛び乗って大阪へ、ルイの元へ急いで戻った。

 新幹線の中、あのルイがケガをしたなんて信じられず、気持ちばかりが焦る。やっぱり傍にいるべきだったと、自責と後悔の念に心が押し潰されそうになる。


 「――ルイ大丈夫か!?」

 息を切らせ、ルイのいる病室に着くなり叫んだ。

 「イ、イサオ!?」

 ぼくがいきなり現れて、ルイは目を丸くして驚いていた。そんなルイにかまわず駆け寄る。ルイの両足は真っ白なギブスで固定されていた。

 「な、なんで……東京にいたんじゃ?」

 「山岸さんから電話をもらって、慌てて戻ってきたんや」

 「――あのオッサン余計な事しやがってぇ……」

 ルイは布団を握りしめ、口汚く山岸さんを罵る言葉を並べる。

 「何言ってんねんわざわざ連絡してくれたんやで」

 「それが迷惑やねん……恥ずかしい所みられたくなかったのに」

 逃げることが出来ず、ルイは顔だけ横を向く。

 「恥ずかしいとか、そんな場合ちゃうやろ!」

 「……そんな大きな声ださんでもええやろ」

 「ご、ごめん……でも心配したんやからな」

 「……うん……あんた、仕事は大丈夫なんか?」

 「大丈夫やから安心して療養しいや」

 両足骨折とは凄いケガだが、どうなってケガをしたか聞いた時には、よくそれですんだものだと逆に感心をした。

 ベッドの横の椅子に腰かけ、ルイから一部始終を聞いた。

 その現場は、一部分乗り出して表のガラスを清掃しなければならない箇所があるそうで、ルイが五階から乗り出して順番に降りていっていたのだが、三階部分で足を滑らせ落ちた。運よく落ちたところが花壇で、草がクッションとなり足の骨折だけで済んだそうだ。

 「意外に落ちても頭はしっかり働くもんやな」

 いたずらが見つかった子供のような笑顔を浮かべて語る。

 「ぼくも落ちたことあるから分かるわ」

 「あの尾骨骨折の時やな」

 二人の思い出話に盛り上がった。半年ぶりに見るルイは、どこか疲れた様子が見えたが、問い質したところで、正直に話さないだろうと思い聞くのは止めた。

 ひとしきり喋ると、見舞いの時間が終了した。

 「ほな、明日も来るな」

 「大丈夫やから、あんたは自分の仕事頑張りや」

 心配をかけまいと気丈に振る舞うルイを見て、胸に大きな棘が刺さった気分になった。病院を出て、ぼくは山岸さんに電話をした。

 「お疲れ様です。西嶋ですが今大丈夫ですか?」

 「大丈夫や」

 ルイの入院している病院に行って、様子を見てきた報告と連絡をもらったことの礼を述べた。

 「……山岸さん、ルイの事なんですが最近どうでした?」

 ぼくの質問に、山岸さんはしばらく沈黙していたが、長い沈黙の後、重い口を開いてくれた。

 「二人の問題やから黙っとくつもりやったけど……ルイのやつ、お前が東京行ってからアホみたいに仕事を入れてたんや」

 山岸さんの話だと昼夜昼夜の連勤を繰り返し、多い月だと五十日は働いていたそうだ。それを聞いた時に、我が耳を疑ったが、それが事実のようだった。それでルイの顔が疲れ切っているのだと得心がいった。

 「お前と離れたのが相当辛かったんやろうな……それであんなに仕事詰め込んだんやろ」

 「……電話では何も言ってなかったのに」

 「そんな弱音を吐く奴やないのは、西嶋が一番知ってるやろ」

 山岸さんの言葉に、心に刺さった棘が、深く深く潜っていく。

 「――余計なお世話かもしれんが、あいつの傍にいてやれんか?」

 病室で、疲れた笑顔に両足に白いギブスをしたルイを見た時には、胸が締め付けられた思いになった。でも、ルイに夢を追いかけろとハッパをかけられ東京に行ったのに、手ぶらで戻ってくることを許してくれるはずはなかった。

 お茶を濁すように山岸さんとの電話を切ってから、実家に帰る道すがらどうすればいいか、無い知恵を絞って考えてみた。

 ――気が付くとハルカスの展望室に来ていた。ここから見る大阪の景色は半年前と少しも変わっていなかった。初めてコンドラに乗った場所は、この高さの十分の一ぐらいだったのに、怖がっていたぼくにルイが手を差し伸べてくれたことを思い出し、一人でニヤけていたので、咳払いして誤魔化す。

 また、井上に電話して相談に乗ってもらおうかと思ったが、きっと自分で考えろと言われるだろうと思ったし、自分でもそうしなければならないと思った。

 ――次の日も適当な雑誌を買って、ルイの病室に行った。

 「まだおったんか、さっさと東京戻って頑張りや」

 言葉とは裏腹に、満面の笑顔を浮かべるルイの姿に、胸が張り裂けそうな程の痛みを味わった。

 「こんなルイをみれることなんて、めったにないからじっくり拝ませてもらっとかんとな」

 「アホなこと言わんと、さっさと東京戻れ!」

 枕を投げつけられた。――その後は、とくにしゃべることもなく、二人してお見舞いの雑誌やらマンガを読んでいた。

 「――あんた、ほんまにうちは心配ないから東京戻って頑張って」

 雑誌を見ながらルイがポツリと呟いた。

 「月に五十日も働くようなやつは、心配やわ」

 「だ、誰から聞いたんや!?」

 ルイはあからさまに狼狽えていた。

 「誰でもええやん――それより、そんなに働かんでもええやろ」

 「そ、そんなんうちの勝手や!」

 雑誌を放り出して、ぼくに背中を向けて横になった。

 「そんな無茶したら心配やで……」

 ルイは背中を向けたまま、ぼくの言葉に答えようとしなかった。

 「ぼくな……大阪に戻ってこようと思ってんねん」

 「はあぁ!? 何も結果出てないのに戻ってくるつもりか!?」

 眉間に皺をよせながら、ようやくぼくを見てくれた。

 「そんなんどうでもよくなってん」

 「うちは大丈夫やって言ってるやろが!」

 「ぼくが大丈夫やないかもしれんのや」

 「はあぁ?」

 意味が解らないといった表情で、ルイが睨みつけてきた。

 「ずっと同じ狭い所で仕事してるんが窮屈でな……休憩のたびに掃除屋の仕事が懐かしくなっててん」

 これはウソではなかった。最近はよくそんなことを考えていた。

 「ウソつけ! うちに気を使ってそんな事言ってるんやろ」

 「ウソやないほんまや」

 「……うちは、そんな根性なしは嫌いや」

 またルイはそっぽを向いて横になった。

 「それを言われると辛いけどな……でも、ルイと仕事していた時の方が何十倍も楽しかった」

 「なんやそれ!? あんたの夢はその程度のもんやったんか?」

 「ルイって、子供の頃の夢ってなんやった?」

 「はあぁ? どうでもええやろ」

 「子供の頃の夢をずっと追いかけている人って、何人ぐらいいるんやろうな?」

 「そんなやつほとんどおらんやろ」

 「やろうな……夢なんてどんどん変わっていってもええんやと思うんや」

 ぼくも小さい頃は船長に憧れたりした。そして、ドラマの影響を受けて探偵になりたかったり、そして最近はマンガ家に憧れていた。他の人も小さい頃に憧れていた職業を、そのまま就いた人はあまりいないだろうと思う。だから夢や目標は変わっていってもいいんだと思う。

 「――あんた、新しい夢でも見つけたんか?」

 「うん」

 「……な、なんやねん?」

 ようやくこっちに顔を向けてくれたルイは、少女のような少し照れた表情を浮かべていた。

 「実はな……ぼくの新しい夢は――」

 「あああああああ、言わんでええ、聞きたくないわああああ」

 ルイは急に耳を塞いで喚き散らしだした。

 「ちょ!? はじめていい雰囲気にもっていけたのに、何してくれてんねん!!」

 「あんたには似合わへんねん! キショいねん!」

 ルイは枕を投げ喚き散らしすので、他の患者さんの迷惑になりはじめていた。

 「ちょっと、周りにうるさいから」

 「聞こえへん聞こえへん!」

 暴れるので両手を抑え、ぼくの唇でルイの唇を塞いだ。その行為に、ルイは目を見開き驚いた表情を浮かべる。

 「いてっ!?」

 唇をちょっとキツめに噛まれた。

 「なななな、何すんねん」

 「静かにさせようとしたんやけど……普通噛みつくかぁ」

 「急に……あんなことするからや」

 珍しく赤面をして照れてみせるルイの表情に驚いた。

 「ツンデレキターーー!」

 「誰がツンデレや!!」

 病室内に、頬をぶつ乾いた音が響いた。看護師さんが慌ててやってきて、めちゃくちゃ怒られた。

 どうにかルイの興奮状態は収まり、ゆっくりと話し合えることが出来るようになった。

 「――それでさっきの続きやけど……」

 「うちは……うちのせいであんたに夢を諦めて欲しくないんや……」

 呟くような小さな声だが、そこには固い決意が込められているように感じられた。

 「夢を諦めるんやない、新しい夢を見つけたんや」

 ルイの手を握った。

 「ちょっと、あんた、東京行って変わったんちゃうか!?」

 それはこっちのセリフだと思った。しばらく見ない間に、女らしくなったように思えた。それを口に出して言う勇気ははなかったが。

 「ぼくにとって、何が大切かようやく分かった」

 じっと、ルイの目を覗き込む。

 「あかんあかん! キャラじゃなさすぎて無理やぁ!」

 ぼくの手を振りほどいて枕で殴ってきた。二度目のいい雰囲気をぶち壊された。

 「どうしたらええねん」

 「あんたらしく、恰好悪くしてくれた方がええわ!」

 「ぼくの新しい夢はルイと結婚する事や!」

 そこまで言われたら、格好つけるのは止めて勢いで告白した。ぼくのプロポーズにルイは顔を真っ赤にして、怒っているのか、泣き出しそうなのか、恥ずかしがっているのか、分からない複雑な表情を浮かべ、口を魚のようにパクパクさせていた。

 「やったなにいちゃん!」

 「じれったかったわぁ」

 「へたなテレビより面白かったわよ」

 「おめでとうさん!」

 病室内のあちこちで、祝辞と喝采が沸き起こった。どうやらすべて聞こえていたらしい――まぁ、あれだけ大騒ぎしていたら聞こえるのは当然だろう。

 ぼくはカーテンから顔を出して、みんなに頭を下げた。ルイは恥ずかしがって布団を頭から被って隠れてしまった。

 「さっきからうるさいですよ静かに!」

 看護師長らしい人が来て怒鳴られたが、病室にいるのは大阪のおばちゃん連中なので、看護師長を巻き込みぼくたちの顛末を面白おかしく話して聞かせて、大いに盛り上がっていた。

 「――ルイ……」

 布団の中から顔を出さないルイに声をかけた。

 「帰れ……帰れ!」

 布団越しにルイの叫び声が聞こえ、これ以上は藪蛇だと思い一旦帰ることにした。病室のおばちゃんから散々冷やかされながら病室を出た。

 ――次の日、果物とマンガを買ってルイの病室に顔を出したが、すぐにカーテンを閉められた。

 「果物とマンガ買ってきたんやけど……」

 「いらんから帰れ!」

 カーテン越しに拒否られると、周りのおばちゃん連中も苦笑いを浮かべるだけだった。無理に心をこじ開けようとしたら傷が深くなりそうなので止めておくことにした。果物は病室のおばちゃん連中に配って、ぼくは帰った。

 ――次の日も果物とマンガを持って病室に行くと、またカーテンを閉められ拒否られた。

 「ルイ、果物とマンガ持ってきたんやけど……」

 「いらん言うてるやろ帰れ!」

 取りつく島もない程に拒否られてしまった。肩を落としていると隣のおばちゃんが手招きしてぼくを呼んだ。

 「おねえちゃん、ああやって拗ねてるけどな、おにいちゃん来るのをカーテン開けて待ってるから頑張りや」

 おばちゃんのウインクを頂き、周りのおばちゃん連中も含み笑いを浮かべ、ぼくたちの行方を昼ドラでも観る感覚でいた。その期待に応えるつもりでやるんじゃないが、ルイに伝えなければならないことがあった。

 「ルイ、ぼくは明日東京に一旦戻るよ」

 「…………」

 「出版社と先生に話して、段取り着いたら大阪に帰ってくるから」

 「……お前なんか帰ってこんでええわ!」

 「そうかぁ…………とりあえず行ってくるわ」

 もう少し心が軟化しているかと期待していたが、やっぱりルイは一筋縄ではいかない恋愛ゲームのラスボスキャラであった。

 肩が腰まで下がっているんじゃないかと思うほど気を落として病室を出ようとした。

 「…………気をつけて行ってきいや」

 カーテン越しだが、ルイが気を使って声をかけてくれた。それだけで気分は最高に盛り上がった。

 「うん、行ってくるわ」

 嬉しさのあまりスキップで病室を出た。

 「病院内でスキップはしない!」

 看護師さんに怒鳴られてしまった。


 ――次の日、東京に戻ると出版社の方へは事情を説明して、大阪に戻ることを伝えると、あっけないほど簡単に了承された。ぼくなんて、所詮その程度のものなんだと思うと落胆の気持ちより、清々しい気持ちが勝った。そして、アシスタント先の先生の仕事の段取りが落ち着くのに、二週間ほどあったので、それまでは手伝いをして、それから大阪に帰るとルイにメールで知らせたが――返信はなかった。

 東京に戻って一週間経ったある日、スマホにメールが入っていた。ルイからだと期待してみてみると井上からだった。

 「――お前にしては思いっきりのいい決断をしたな! 彼女に捨てられることに賭けてたのに残念や」

 冷やかしなのか、励ましなのかよく分からないメールだった。しかし、今回は井上に頼らず決めた事には、自分も成長したように感じ自信が持てた。そして、もう一通メールがきていた。それはルイからだった。

 「――暇やマンガ持ってきて!」

 無茶な事を言うルイに、微笑を浮かべて返信した。

 「来週には持っていくわ」

 「――待ってるわ」

 この返信は凄く嬉しかった。ルイがぼくの帰りを待っていてくれている。そう思うと、一日も早くルイの元へ帰りたくなった。

 そして、長いようで短かった一週間が過ぎて、先生やアシスタント仲間に挨拶をする。出版社にも顔を出して、今回の事をしっかり詫びてから東京を後にした。


 大阪に着くとその足でルイのいる病院へと向かった。

 早くルイに会いたいと思う気持ちが先走り、病院内を走りそうになったが、また看護師に怒られると思い、ぐっと堪えて早歩きで移動した。

 「ルイただいま!」

 「マンガ買うてきた?」

 ルイの開口一番が、「マンガ買うてきた?」だったのが、いい雰囲気にならないぼくたちのこれが因果かと思った。

 「わ、忘れた……」

 「使えん奴やな……」

 ルイは首を左右に振り呆れ顔をする。それを見て、帰ってきたんだと心の底から思い笑顔が零れた。

 「ルイちゃん、昨日からソワソワしてて、身体拭いてもらったり散髪までしてたんやでぇ~」

 ルイも同じ病室のおばちゃん連中と仲良くなっていたようで、冷やかされるまでの仲になっていた。

 「うっさいねん!!」

 ルイが叫ぶとおばちゃん連中から爆笑が起こった。

 「イサオここはうるさいおばはんいるからよそいこうか」

 「ああ」

 「ボサっとせんと手貸しや!」

 ルイはまだ両足のギブスが取れていなかったので、自由に動けなかった。車いすに乗せるように促がされ、ルイの身体を支えた。久しぶりのルイの温もりと香りに下半身が元気になった。

 「何考えてんねん!」

 それに気付いたルイは、腹にパンチを叩き込んできた。痛む腹をさすりながらルイを乗せた車いすを押して通路に出た。

 「どこいきたい?」

 「見晴らしのいいところ」

 ルイらしい言葉だと思た。ぼくもアシスタントをしていた頃は、息苦しさを感じていた。掃除の仕事を一年もしていないぼくでもそう感じるのだから、ルイのような野生児が長時間同じ所に閉じ込められるのは死ぬほど辛いだろうと容易に想像できた。ルイを病院の屋上へと案内した。それほど高くなかったが、風が気持ちよく、解放感が堪らなく最高だった。

 「やっぱり外は気持ちええなぁルイ」

 ルイはそんな当たり前な事には答えず、ただ大きく深呼吸をする。フェンス際まで車いすを持っていくと、結構遠くまで景色が見渡せた。

 「――イサオ、あそこゴンドラ降りてる!」

 ルイの指差す先で、二人乗りのゴンドラが降りていた。

 「こうやって見てると動き遅いなぁ」

 「そうやなぁ」

 ルイが笑いながらゴンドラを見る。

 「早く仕事戻らんとなぁ」

 真剣な表情でポツリと呟く。ルイは独立してやっているので、あまり長期間仕事に穴を空けると、次回から依頼がなくなる場合もあった。それが心配なのだろう。

 「大丈夫やって、みんなルイが戻ってくるのを待ってくれてるから」

 「…………あんたもか?」

 「え?」

 ルイの言葉の意味が解らず、つい聞き返してしまった。

 「あんたもうちの返事待ってるんかってことや」

 ――そうだった。ルイにプロポーズをして、そのまま返事がまだだった。

 「もちろんやけど……まぁ気長に待つよ」

 ルイは顔を赤らめながら憮然とした表情で遠くを見ていた。

 「…………うちが入院した時に言ったあんたの新しい夢ってなんなん?」

 あの時、最高にいい雰囲気を作ったのに、ルイによって潰されてうやむやになった夢の話を、今ここで聞きたいと無茶を言ってきた。あの時は勢いで言えそうだったが、はいどうぞ! という感じで言われても照れくさかった。

 「今やないとあかん?」

 「いややったら一生言わんかったらええ……うちも一生あんたに返事せえへんから」

 完全に脅しだった。これは言わざる負えない状況に追い込まれた。しかたなく、何度も深呼吸をして心の準備をした。

 「……ぼくの新しい夢は――ルイと一緒に掃除屋をやって、結婚して、子供を二人ぐらい持った家庭を作ることや」

 目をつぶり、なけなしの勇気を総動員して夢を語った。ぼくの勇気を振り絞った夢の話をルイは無視していた。

 「……あのぉ、ルイさん……どうかしましたか?」

 「あんたやっぱりキモイ! 子供二人とかどこまで妄想してんねん」

 言葉のドメスティックバイオレンスをもろに受け、派手な音を立てて心が壊れるのを聞いた。

 「だいたい一緒に掃除屋やるって、うちが親方であんたはただの従業員に決まってんねんで、分かってる?」

 壊れたハートを更に踏み砕くような言葉を浴びせてきた。素直に了承してくれるとは思っていなかったが、ここまでボロカスに言われるとは思っていなかったので、気分は深淵へと飲み込まれそうになった。

 「独りよがりな夢でごめん……」

 「……別に一緒にやるんが嫌ってことじゃない」

 ルイの言葉に、深淵に落ちていた心に一条の光が射しこんだ。そして、嬉しさのあまりルイに近づきキスをする。ルイも拒むことなく受け入れてくれた。

 「いてっ!?」

 「調子に乗って胸揉んでんじゃない!」

 豪快な腹パンチをくらい胃液が逆流しそうになった。


 ――果てしなく広がる蒼穹を独り占めしたような高さから空を眺め、ぼくは至上の喜びを噛みしめていた。籠から放たれた鳥や狭い檻から解き放たれた動物の気持ちが少し分かったような気分だった。

 「本日は晴天なり、風は微風、最高のゴンドラ日和!」

 ぼくは解放された心のままに高層マンションの屋上で叫んだ。

 「何を言ってんのイサオ……午前中が勝負なんやからさっさとやるわよ」

 今日はルイの復帰初日の現場だった。

 「了解!」

 素早くゴンドラの準備を進める。長峰美装の社長が、ルイの復帰に合わせて現場を用意していてくれていた。ぼくはとりあえず、長峰美装の方に在籍して修行を積むことにした。その方がいいとのルイのアドバイスがあったからだが、今はルイもケガの影響で仕事が減っていたので、二人して独立するのはリスクが大きかった。

 「今日はぼくが操作するよ。ルイは勘が鈍っているやろうから」

 「はあぁ~? いくら休んでいてもイサオに負けるわけないやろ!」

 睨みを利かせたルイの目を見て、いつものルイに戻ったと心から嬉しくなった。だが、ぼくも引き下がるわけにはいかなかった。

 なぜなら――

 「ここは旦那に任せなさい!」

 「調子乗るなボケ!」

 ぼくのヘルメットを叩くルイの左手の薬指には銀色に輝く指輪が光っていた。そして、ぼくの左手の薬指にも同じように指輪が光っていた。

 いずれ一緒に仕事をすることを認めてくれたルイをさらに説得して、結婚を約束させた。婚約についてはそれにはそれほど苦労はしなかったのだが、結婚式については未だに揉めていた。

 ぼくはゴンドラに乗りながら、結婚式の話に決着を付けようと息巻いていた。

 「嫌やって言ってるやろしつこいなぁ」

 「絶対やってたほうがええって」

 世間一般では女性の方がやりたがり、男の方が面倒くさがるっていうのが定番らしいが、ぼくとルイとでは立場が逆転していた。ルイは恥ずかしくて絶対にやりたくないと駄々をこねているのであった。

 「結婚式なんてただの見世物やん……お金もかかるしもったいないわ」

 どこまでも男性目線で話すルイを、どう説得したものか悩みどころであった。

 「身内だけでやるってのはどう?」

 「身内だけぇ……」

 あからさまに嫌そうな表情を浮かべるルイの気持ちは分かっている。身内と言えば一応ルイの親父さんも入るのだからそれが不満のようだ。

 「親父さん呼ばんでもええから、とりあえず仲間内だけで写真だけでも撮ろうや」

 「写真だけなぁ……」

 ようやくルイの心が少し動くのが見えた。――しかし、こんな話をしながらでもゴンドラでガラスを清掃できるようになったのは、自分でも成長したように思えて嬉しかった。初めの頃は目の前のガラスを清掃するだけで精一杯だったが、下を警戒したり周りにも気を配れた。

 「なぁええやろ……お願いや」

 乗っている間、ルイに殴られるまで言い続けてやろうと思っていたが、ついにルイが折れてくれた。

 「しゃ、写真だけやからな」

 「うんうん、写真だけでいいから!」

 「……本当にしつこくなったなイサオは……分かった写真だけやで!」

 「よっしゃーーー!」

 ゴンドラの中で勝鬨を上げた。


 ――それから、一か月後に新居も決まり、ルイの希望通りバストイレが別のセパレートのワンルームとなった。二部屋欲しかったが、結婚の写真でわがままを通したので、新居では折れることをよぎなくされた。

 そして、長峰美装の人たちとルイのお母さんと弟が出席した。ぼくの方は両親と弟が出席した。

 ルイのウエディングドレス姿はとても綺麗だった。

 「そういえば、ルイのスカート姿初めて見たわ」

 「うるさい、二度とスカートなんて穿かんからな!」

 眉間に皺をよせながら赤面顔で宣言する。

 「そんなこと言わんと、これからはどんどん穿いてくれてええで」

 「絶対に穿かん!!」

 「――それじゃ、写真撮るんでみなさん集まってください」

 従業員の指示に従い、まるでお人形さんのように並ばされた。みんなが並び終わるまで、ぼくは緊張で口の中がカラカラになっていた。

 「ビビってるやろ!?」

 「――ビビってへんわ!」

 ルイが横目でぼくをからかったので、ムキになって言い返した時に、ヴェール越しに見えたルイの横顔は息をのむほど美しかった。純白のウエディングドレスもよく似合い、ぼくにはもったいないほど綺麗なルイに、一生賭けて守っていこうと心で誓った。


 ――十月の風は冬の匂いをわずかに含んでいた。

 夏服でもいけそうな気温に長袖を捲り、ガラスに塗布したシャンプーの水がすぐに水蒸気を上げて乾いていく。

 「乾くの早いなぁ」

 「あんたが遅いからや」

 今日も十階建てのビルからロープを垂らし、ルイと二人並んでガラス清掃をしている。

 明日も、明後日も、ぼくたちはどこかのビルの窓ガラスの清掃をしている――

 「新婚旅行一泊二日でええんか?」

 「ええよ」

 見上げてみたら、あなたの近くでもロープやゴンドラが降りているかもしれませんよ――

 「どうせやったら海外旅行でもしたかったなぁ」

 「海外に行くぐらいやったら美味しいもの腹一杯食べる方がええ」

 「食ってばっかりやったら太るで!」

 「二人分の栄養取らなあかんからな」

 「――え? それって、子供できたんか!?」

 「…………」

 「マジかあああやったああああ!」

 「――ウソや! あははははは騙されよったああああ!」

 ビルの外から――頭上から――ぼくたちの声が聞こえるかもしれません――ぼくたちはあなたたちの街にいて、物語はいつまでも続いているのだから――

 「最悪なウソつくなルイのアホ!」

 「誰がアホやボケェ!」


                           ――終わり。

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比翼の鳥 葉月望 @hadukinozomu

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