比翼の鳥

葉月望

第1話 高層ビルの掃除をはじめてみた。

 空を飛ぶってどんな感覚なんだろう――高いところから見る景色ってどんなものだろう――誰もが一度は思うんじゃないだろうか――とぼくは思う。みなさんも考えたりした事ありませんか?

 ――ぼくの言葉を裏付けるように、人は高いビルを建てたり、空を飛ぶ乗り物を作ったりして、空への憧れを具現化しているのだから――そして、人が持つ空への憧れを商売に結びつけた人たちもいた。その代表的なものが、観覧車、展望台、スカイダイビングなどである。また、空への憧れは芸術方面でも反映された。それが、映画やアニメーションを使った映像テクニックによる飛行の疑似体験が施された作品である。――今述べたものは、ほんの一部である。それほど、人は空への憧れを強く抱いた生き物であるのだ。だからこそ、ぼくが、その浮遊感をマンガで表現できないかと思ったのも至極自然な流れであるだろう。しかし、空を飛ぶマンガを描こうとしている人間が実際に飛んだことがなく、想像だけで描いてもリアリティのある細かい描写を読み手に伝えることが果たして出来るのだろうか――いや、出来ないだろう。だったら、自分自身が空を飛ぶ体験をしないとダメだと思った。それには、飛行機や観覧者や展望台では、頬に当たる風の感じや空を浮く浮遊感などの感覚が味わえない。そんな感覚が味わえるものとなると、スカイダイビングやバンジージャンプだろう。――だが、それをやったとしても、一回だけの体験で忠実に表現できるだろうか? 時間が経てば、その感覚も薄らいでいくはず――

 ならば、何度もやればいいと思うのだが、スカイダイビングやバンジージャンプなるものは、お値段がかなり高く、しかも、近くのゲームセンターに行く感覚で行けるものでもなかった。そんな多額の軍資金は、ぼくにはない。今のぼくは、いわゆる、ニートと呼ばれるカテゴリーに最近配属された。

 高校卒業後、親を説得してマンガの専門学校に入学してからは、そこで、猛烈に勉強したが、結果を出すことができなかった。そのうえ、進路も決まらないまま卒業したのだった。

 二十歳になって無職というのは、家での居心地がとても悪かった。――かといって、将来、どう進んでいけばいいのかも分からず、人生の迷路に迷い込んでいた。

 途方に暮れていた時、資料集めと気分転換を兼ねて立ち寄った展望台で、ぼくの進むべき道を示す僥倖ぎょうこうが現れた。僥倖なんて目に見える物じゃないと思うだろうが、ぼくにとっては、まさに僥倖だといえる乗り物が目の前に現れたのだ。スマホで、その乗り物について調べるとすぐに見つかった。その乗り物はゴンドラと呼ばれるもので、さらに詳しく調べていくと、ゴンドラに関係するものは、ぼくが求めていた条件をすべて叶えてくれる夢のような箱だと分かった。嬉しさのあまり、展望台で小躍りしてしまい――変な目で見られた。


 「――今日からこちらにお世話になります西嶋勇雄にしじまいさおです。よろしくお願いします」

 ぼくは、長峰美装という会社に雇ってもらう事となった。この長峰美装は創業して三十年以上の老舗で、従業員はぼくを入れて七人の小さな会社だ。

 なぜ、長峰美装を選んだかというと、ネットで掃除の仕事にも色々ある事が分かった。まずは、一軒家やマンションの入居前や退去後に、キッチンや風呂場などを専門に清掃を行う作業があり、それらを総称して「ハウス」と呼ぶ業者があった。

 ――他にも、ビル、マンション、店舗などの床やカーペットの清掃を行う「ユカ屋」と呼ばれる業者や、さらには、店舗内の除塵作業を行う業者など、多種多様にわたって分類されていたのだった。その中で、ガラスの清掃というのもがあり、ぼくはそのガラス清掃に注目した。なぜなら、ガラス清掃には、ロープとブランコといわれる専用の椅子を使ったビルの外面のガラスを掃除するロープ作業と、高層ビルのガラスを清掃するゴンドラ作業と呼ばれるものがあるのだ。ゴンドラでの作業は展望台で見かけた高さでも行っていた。

 ――あんな高い場所で作業するって、どんな気分なんだろう……?

 それを知りたい、という欲求に駆られた。それに、そんな貴重な体験ができて、なおかつ、お金がもらえるなんて、まさに一石二鳥の見本というべき仕事である。ゴンドラとの運命的な出会いの後、すぐに求人雑誌を見たぼくは、高所作業のあるこの長峰美装に応募して、呆気なく受かったのだった。

 「西嶋君は、この仕事未経験なので、みんな親切に教えてあげるように」

 社長の長峰さんは六十五歳の老齢で、今はあんまり現場に出ていないようだった。

 「うい~」

 気怠そうに返事をする従業員たちを見渡して、驚いた。もっさりしたオッサン連中の中に、小柄な女性が混じっていた。

 「じゃルイちゃん、西嶋君の面倒頼むな」

 「――ういッス」

 ルイさんは、ショートにまとめた茶髪を無造作にかきあげ、眠そうな目で社長を一瞥した後、大きなあくびをしながら歩き出した。ルイさんはとても綺麗な顔立ちだが、一見して元ヤンな雰囲気があって、ちょっと近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。でも、今日はこの人が、ぼくの指導をしてくれるので付いていくしかない――なるべく怒らせないように心がけよう。

 「……あの、よろしくお願いします……」

 「ルイでええよ、行こうか」

 眠そうな目つきで一瞥すると、両手を白い作業ズボンにつっこみ歩き出した。ルイさんの後姿はベテラン職人のオーラが立ち込めていたが、ぼくとあまり年が変わらないようにも、見えるのだが……。

 今日は作業現場が二つあり、ぼくはルイさんと玉部さんという三十代の男性と三人で一緒に仕事するようだ。事務所近くにある駐車場に行き、ルイさんが運転席に玉部さんが助手席に乗り込んだ。

 それについて、特に指示はされなかったが、ルイさんが乗ったのだから、ぼくも乗るんだと思い、おそるおそる後部座席に座る。扉を閉めると、無言でハイエースが動き出したので、後部座席で転びそうになる。すぐに座り直したが、なんとも居心地が悪く、心細くなる。

 ハイエースに乗って一分足らずで、帰りたくなった。

 車に乗っても、二人は無言で、何をするのか、どこへ連れていかれるのかも、一切の説明がなく、不安な気持ちが湧きあがり、ぼくの心を刻々と満たしていく。

 不安を生成するようなハイエースに乗ってすぐ、近くの倉庫で止まる。ルイさんと玉部さんは何も言わず降りたので、見よう見まねで降りる。玉部さんがジャッターを開けたころ、もう一台のハイエースが来た。そちらのチームもみんな無言で降りて、無言で荷物を積み始めた。ルイさんと玉部さんも、それぞれやることが分かっていて、次々と準備を進めていく。いまだ何の指示もされないぼくは、どうしていか分からず呆然としていた。それでも、みんな黙々と準備を進める。完全な放置プレーに、「近くにいても、心は離れている」と、言うカップルの気持ちが、この時分かったような気がした。年齢イコール彼女いない歴のぼくがいうのもなんだか――

 「自分の道具これ使ってな」

 ルイさんが差し出してくれたのは、ガラスを掃除する時に使う道具一式であった。ガラス清掃で使う道具は、安全帯といわれるベルトとタオルなどを入れる腰袋、ガラスに洗剤水を塗布するシャンプー、その水を落とす為に使う車のワイパーのようなスクイジーと呼ばれる道具、それら二つを入れておくバケットと呼ばれる筒状のものが、最低限ガラス清掃で使う道具らしい。

 「玉部さん忘れ物ないですかぁ?」

 「ああ大丈夫や」

 「そんなん言うて、この間も脚立忘れてたやん」

 「あははは、そんなんもあったな、今日は大丈夫や」

 「了解、行きましょうか」

 お互いに声を掛け合い忘れ物がないか確認しあってから、また、ハイエースに乗り込み、倉庫を出た。

 結局、今まで一度も指示は出されていない。なんとなく周りの様子を見ながら動いているのだが、ずっとこんな調子なのだろうかと思うと、ハイエースに乗りながら、心細くて胃がキリキリと痛くなってきた。しかも、ハイエースの中では、誰もしゃべらず、玉部さんはすぐにスマホをいじり、ルイさんは運転に集中していた。狭い空間での沈黙は、息苦しさを感じさせ、普段は自分から話しかけるタイプじゃないのだが、思い切って話しかけてみようと、身を乗り出し口を開きかけた時だった――

 「自分いくつなん?」

 カウンター気味に、ルイさんから質問がきたので、勢いのついたぼくは、運転席の方まで身体が乗りだし、二人は驚いたように振り返る。

 「ぼ、ぼくは、今年二十歳になります」

 「お、ルイちゃんより年下か~、やっと年下できたな」

 冷やかすような口調で玉部さんが言うのを、ルイさんは気にするそぶりも見せず運転をしていた。

 「ルイさんはおいくつですか?」

 「うちは二十一や」

 「ルイちゃんは若いけど、この会社で、社長と山岸さんの次に古株なんやで」

 玉部さんの言葉に驚いて訊き返しそうになった。二十一歳で古株なんて、一体いくつから働いているんだろうと思ったが、深く聞いていいものか分からず、「へぇ~」と答えるだけで精一杯だった。

 「リアクション薄いなぁ、西嶋は大阪人ちゃうんか?」

 「ぼくは生まれも育ちも大阪です」

 「コテコテの浪速っ子って感じには見えへんなぁ」

 「昔からよく言われてました」

 両親が関西人じゃないせいか、大阪の乗りツッコミにいまいち馴染めず、友達は少なかったが、マンガを通して井上という親友を持てたのは、ぼくの人生で一番の収穫だったと思う。

 「この仕事は朝早いし、高いところで作業するけど大丈夫か?」

 ルームミラー越しにルイさんが見てきた。ミラー越しに目が合い、照れくさくてすぐに目を逸らす。

 「朝は多分、大丈夫やと思います……高いところは……」

 高い所なんて、展望台などの安全なところしか経験がなく、実際にビルの屋上から下を覗いたことがないので、まったくイメージが湧かず、怖いのか平気なのか分からないのが事実だった。それに、この仕事を始めた理由がマンガの為だって正直に言うべきか迷った。自分のやっていることに誇りを持っているから、恥ずかしいとは思っていないけど、動機が不純だと怒られないかという心配があった。

 「……なんや、高いとこ苦手なん?」

 頭で色々考えている時間が長かったせいで、玉部さんが心配そうに見てきた。とりあえず、マンガのことは黙っていようと自分の中で結論を出して、面接のときに答えたことをそのまま言う。

 「……実は高いところに憧れて、この仕事に募集しました」

 玉部さんが二、三度瞬きをして、こいつ変わってるなぁ、って、表情で見てきたので、失敗したかな、と思った。

 「……あははは、おもろいな自分――まぁ、ケガせんようにな」

 ぼくの答えがツボに入ったのか、二人は大笑いしていた。大阪人らしくボケてみせたと思われたのは複雑な気分だが……。

 ――それからしばらく、ハイエースの中に沈黙の帳が降りる。流れる景色を見ながら「ドナドナ」という民謡にでてくる売られていく、子牛の憂鬱な気持ちが分かる様な気がした。

 ――倉庫を出て、だいたい三十分ぐらい走ったところで、ハイエースが止まる。どうやら、ここが、ぼくの初陣を飾る現場のようだ。それは、十階建てのオフィスビルで、その内面と外面のガラス清掃が今日の作業範囲である。ビルの前に車を止め、必要な道具を降ろしたのち、ルイさんは、入館の手続きとビルの管理に挨拶をする為にビルの中に入って行く。

 「西嶋は、ここで待っててな」

 そう言うと、玉部さんはハイエースを近くのコインパーキングへ停めにいった。ぼくは降ろされた道具と一緒に、ビルの前でポツンと待つ。ただ待っているのも暇なので、今日の作業をするビルを見上げる。今まで、ビルの高さなんて気にしたことがなかったけど、こうして見てみると十階建てでも結構な高さがあり、この高さのビルの屋上から外面のガラス清掃をするのだと思うと、それだけで少し足がすくんだ。

 ――この高さはゴンドラで作業なのかな? それともロープ?

 なんて事を考えていると、ルイさんが小走りで戻ってきた。

 「うちがロープで作業するから、自分はこれぐらいの幅でバリケード張って、通行人が入らんように立ち番しといてな」

 ルイさんの言ったバリケードとは、三角コーンを置いて、それをトラバーで囲い、ロープで作業をする範囲に人が入って、トラブルなどを起こさないようにするのである。その範囲をルイさんは、テキパキと指示を出してくれた。朝とうって変わって、しっかりと指示を出してくれたので、指示通り準備にとりかかる。

 その間にも、ルイさんはハーネスという万が一高所から落下しても身体に負担がかからないように設計されたものを着ていた。その上からガラス作業用の腰道具を巻き、ヘルメットをかぶる。その重装備な姿は、まさに仕事人って雰囲気があって、格好良かった。ぼくもいずれは、あんな恰好をしてロープ作業を行ったり、ゴンドラ作業を行うのかと思うと、少し気持ちが高揚する。

 「ルイさん、ぼくがロープ持ちますよ」

 言われた範囲の仕事が終わり手が余ったので、少しでも近くでルイさんを見たいという下心から駆け寄る。そして、置いてあるロープの束を、一度に持ち上げようとした。

 ――お、重……。

 思った以上にロープの束は重くて、動きが止まる。ハイエースからロープを降ろす時にルイさんから聞いた話では、ロープの太さは六ミリで、長さはおよそ六十メートルほどあるそうだ。ビルの高さによって、持ってくるロープの長さは違うらしい。それを三本使って作業するのが長峰美装のスタイルらしい。あとで聞いた話では、会社によっては、もう少し太いロープを使って、二本で降りるところもあるそうだ。

 「大丈夫や、それよりしっかり立ち番しといてや」

 ルイさんはロープ作業用のベンチを持ち、ぼくが持ち上げるのに苦労したロープを一気に持ち上げた。小柄で華奢な体つきに見えるルイさんだが、その辺にいる男より力があるんじゃないかと思った。すくなくとも、ぼくよりは力があるだろう。それらを担いでもよろけることなく、ビルの中へと歩いて行った。

 「凄いやろルイちゃん」

 背後から、ぼくを驚かせるつもりで玉部さんが話しかけてきた。

 「は、はい、……ぼくも、いつかあんな風になれるのかな?」

 「ルイちゃんは、ああみえて、この仕事五年目なんやで……俺より先輩」

 「え? 二十一歳で五年って、随分若い頃からこの仕事しているんですね」

 話からして、おそらく高校は行ってないのだろう。

 「ルイちゃんには気を付けや」

 玉部さんがニヤついた顔で言ってきた。何に気をつけたらいいのだろうか……?

 「やっぱり仕事に対して厳しいんでしょうか?」

 「厳しいというより、アレは狂犬そのものやで」

 玉部さんの顔は、ホラー映画などで主人公を驚かせようとする脇役のような表情と口調をしていた。

 「狂犬ってどういう意味ですか?」

 「そのうち解るわ。ほな、俺は内部の作業やってくるから立ち番がんばりや――ねぇーちゃんのケツばっかりに見とれんようにな」

 下品な笑い声を残して、玉部さんもガラス道具とバケツと脚立を持って、ビルの中に消えていった。そんなこと言われたら逆に道行く女の人のお尻が気になった。

 ――しばらくは、何もすることなく、ボー、と待っていると、ビルの屋上から二本のロープが垂れ下がってきた。それが地面に着くと、屋上から顔を出していたルイさんであろう人影が引っ込む。この高さになると、屋上から顔を出している人の人相までは分からなかった。そう思うと、やっぱり相当の高さがあるんだと思った。次に三本目のロープが垂れ下がってくる。やがて、地面に着くと、また人影が引っ込んだ。いよいよルイさんが降りてくるんだと思うと、自分が降りるわけじゃないのに、心臓が激しく脈打ちだした。下から見ているだけで、こんなにも動悸していたら、自分が降りる時には発作を起こすんじゃないかと一抹の不安がよぎった。

 ――じっと屋上を見ていると、横にバケツを吊ったベンチが姿を現した。

 「おお……」

 それを見ただけで、おもわず吐息が漏れる。次にルイさんの足が見え、そして全身が見えた。その時には、ぼくは呼吸を忘れ見守る。軽やかな動きで、ルイさんはベンチに乗り込んだ。それを目の当たりにしたぼくは、大きく息を吐いて、全身の力が抜ける。

 そこから、素早く降りてきたルイさんは、十階部分の窓ガラスの所で止まる。そして、身体を大きく横に振り、サッシにしがみついてガラスの清掃を始めた。その瞬間、ため息が漏れる。そんなぼくを、また驚かせるように、今度は反対側にロープを振ってサッシにしがみつき、窓ガラスの清掃をする。あんな高い所で左右に大きく動くなんて、サーカスの曲芸を見ているような感動があった。

 十階部分のガラス清掃を終えると、また、スルスルと軽やかに降りていく。ルイさんが動くたびに、地面まで降りているロープが激しく揺れるので、思わずロープを強く握る。するとルイさんの動きが止まった。どうしたのかと思い見上げる。

 「ロープ強く握り過ぎや、軽くでええ!」

 頭上から、ルイさんの声が降り注いできた。慌てて手を放すと、ルイさんがまた動き出す。

 ――なるほど、強く握っていたせいで、動けなかったのだと分かった。そういうことなら、強く握らず、軽く触る程度に持っていればいいのだと思いそうした。予想通り、軽く持っているだけだったら、ルイさんの動きの邪魔はしないようだ。

 華麗に、ロープを左右に振りながら仕事をするルイさんを見ていると、感嘆の溜息しかでなかった。

 ――二十分ほどで、一階まで降りてきたルイさんに駆け寄る。

 「凄いです! めっちゃ恰好よかったですルイさん」

 感動が込み上がり、興奮したまま話しかける。ルイさんはヘルメットのゆがみを直しながら、ぼくをチラリと見た。

 「普通やこれぐらい……それより、女ばっかり見とかんと、ちゃんと立ち番しといてや」

 「み、見てないですよ!」

 掃除屋では、立ち番イコール女の人を見るっていうのは、お約束なのだろうかと思ってしまった。ルイさんは軽口だけを言って、すぐにベンチを担ぎビルの中へと入っていった。その後ろ姿を見ながら、早くルイさんと一緒にロープを降りたいという衝動に駆られた。

 ――しばらく、何もする事がなかったので、ボンヤリと細いロープを眺めていたら、背後から女性の声が聞こえ振り向くと、出勤途中であろう女性二人が楽しそうに歩いていた。随分暖かくなってきたので、薄着の女性が増えてきたぁと思いながら眺めていた。

 ――こいうことか! と、立ち番イコール女の人を見るという図式を理解した。気を付けようと思った。そして、上を見上げるとロープが動き出す。次の場所にロープをセットし終えたルイさんは、先ほどと同じように、華麗にロープを左右に振りながら作業を始めた。

 「オー、ニンジャ!!」

 片言の日本語が聞こえ振り向くと、観光に来ているのであろう外国人数名がルイさんのロープ作業を見て喜んでいた。

 ――ニンジャかぁ、外国人にしたらニンジャに見えるんだ。とその時ボンヤリと考えていた。そんなぼくの横を、人影が通り過ぎる。

 「あ、すいません、今入れま――」

 慌てて止めようとしたが、その人はバリケードをまたぎ中へと入った。

 「ちょっとー」

 その時だった――上から水が落ちてきて、それが無理に入った男の人にかかる。

 「なんやねんこれーーー!?」

 洗剤入りの水だったので、男の人の頭や肩などに泡がついていた。男はそれを拭おうと、袖で顔や頭を拭きながら眉間に皺をよせぼくに迫ってきた。

 「すみません、すみません」

 頭の中はパニック状態だったが、とにかく謝る。しかし、男の人は謝られたぐらいでは気が済まないようで、少し濡れた前髪の間からギロリとした目で、ぼくを睨み胸倉を掴んで凄んできた。

 「どうしてくれるねんこれ!?」

 「すみませんでした」

 「すみませんですむと思ってるんか!!」

 怒鳴る声が大きくて、周りの人が何事かと見てきた。そんな事も気にせず、男は恫喝の唸り声をあげながら、ぼくをバリケードの端まで追い詰める。

 「……で、でも、ここバリケードしていたんですが」

 「お前立っててなんにも言ってこんかったやないか!」

 ぼくの言葉を聞こうとはせず、自分の意見だけを一方的に言い捲し立てる。そして、あくまでも全ての責任がぼくにあるように、声を荒げて怒鳴ってきた。その騒ぎは上で作業をしていたルイさんにも聞こえたのだろう――スルスルと降りて駆け寄ってくれた。

 「どうしたんや?」

 ルイさんは、男とぼくの間に入って事情を訊く。急いで説明しようとすると、男はそれを遮るように割り込んできた。

 「歩いとったら水がかかったんやこれ!!」

 男は頭と肩の濡れている箇所をルイさんに見えるよう前屈みになって示した。

 「うちの不注意で水がかかってすみませんでした」

 濡れているのを確認したルイさんは、深々と頭を下げた。立ち番をしていたのはぼくで、不注意だったのもぼくなのに、ルイさんが代わりに謝ってくれている。そのことに驚きつつも感動してしまった。

 「――いえ、ぼ、ぼくの不注意でしたすみませんでした」

 ルイさんが頭を下げて謝ってくれているのに、ぼくが頭を下げなくてどうするんだ。その思いで、ぼくもルイさんの横に並んで頭を下げた。

 「だから、謝ってすむんやったら警察はいらんやろが!」

 男はどうにも腹の虫が収まらないのか、頭を下げたぼくらの後頭部に罵声を浴びせかける。

 「今後、このようなことがないように気をつけます」

 ルイさんは頭を下げたまま、男の罵声を堪えている様子だった。こんな状況に、ルイさんを追い込んでしまったぼくは、自分自身が本当に許せなかった。

 「今後やないねん、今どうすんねんって話やろ!」

 今の言葉で、男がお金を具申しているのは明白になった。そうだと分かると、男はお金をもらうまで引き下がらないだろう――一体いくら渡せば赦してもらえるのかを考え、今財布にいくら入っているのか思い出す。

 「そう言われても、うちらはとにかく謝って赦してもらうしかないです」

 男の不当な要求に、ルイさんは拒絶を示すように、しっかりと男の顔を見つめる。でも、男はお金をもらうまで引き下がらないのも明白なので、ルイさんと相談してお金を渡して、事なきを得るべきだと提案しようと思った。

 「頭悪いなぁねえちゃん、謝って済むことと済まんことあるやろうが、だいたい、こんなところで作業してるのが悪いねん!」

 男はカラーコーンを蹴飛ばす。態度の悪い男に内心腹が立ったが、怖くて何も言い返せず、ただ、下を向いて嵐が過ぎるのを待った。

 「――なぁ自分……」

 「……」

 「なぁ自分って!」

 「……」

 ルイさんが声を少し荒げている。なんだろう、男とケンカでもするのだろうかと心配になったが、頭を上げる勇気がなく、じっと下を見つめていた。

 「返事せいや!!」

 ――パコーン。とぼくのヘルメットが殴られ、その音が鼓膜を激しく揺さぶった。慌てて顔を上げると、目の前には鬼のような形相でぼくを睨むルイさんの顔があった。この状況が一瞬理解が出来ず、目を何度も瞬かせた。恫喝していた男も、ぼくと同じリアクションをとっていた。

 「な、なんですか!?」

 「このオッサン、バリケードの中に入ったんか?」

 このオッサンって――急に言葉使いが荒くなったルイさんに、目を丸くして見つめる。そして、どういう意図があって聞いてきたのか考えてしまっていた。

 「入ったんかって聞いてるんや!」

 もう一度ヘルメットを叩かれる。それで思考の迷路から戻れたぼくは、慌てて言葉を紡いだ。

 「は、はい! ぼく止めたんですが、そのまま入って行かれて……」

 ぼくの言葉を聞いた途端、ルイさんの表情が、ものほんのヤクザみたいになり、そして、男の胸倉を掴む。

 「おいオッサン、バリケード張ってる所勝手に入ってきて何を因縁つけてんねん」

 小柄なルイさんは、男の胸ぐらいの身長を一杯に伸ばして凄んで見せた。さっきまで一緒に頭を下げていたルイさんとは別人のようになっていた。男とルイさんは、まさに一触即発のような睨み合いをしていて、ぼくはどうする事も出来ず、睨み合う二人の間で右往左往していた。

 「こんな所にあるもん見えるか!」

 男がまたカラーコーンを蹴り飛ばす。

 「ええかげんにせいよオッサン! しばくぞボケがぁ」

 ルイさんは男の胸倉をつかみ締め上げる。

 「上等じゃ! 女やから手だせへんと思うなよ」

 男もルイさんの胸倉を掴み、今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気となっていた。ぼくは止めなくちゃと思いながらも、怖くて一歩も動けなかった。しばらく二人はお互いの胸倉をつかみながら、激しい文句の応酬を繰り広げる。そこに、ビルの警備の人が現れ、掴み合う二人の間に入って止めようとした。

 「かかってこいやコラアアアア!!」

 警備が来てもルイさんは止まらず、怒鳴り散らしながら襲い掛かろうとしていた。さらにビルの管理も現れて、ようやくその場が収まる。

 ビルの管理は、ぼくとルイさんと男の人を事務所にくるよう言う。

 ――事務所で事情を訊いたビルの管理は、男の人がバリケードに入ったことを注意する。すると、男は意外なほど大人しく矛を収めた。次にビルの管理は、ルイさんが男の胸倉をつかんで、ケンカ腰だったのを注意して謝るように促した。普通なら謝る所だろうが、ルイさんはあくまでも男が悪いと言い張り譲らなかった。ビルの管理も溜息をつき、ルイさんを別室に連れて行った。

 管理室に、ぼくと男の人の二人っきりになって、なんだか、気まずい空気が漂う。

 「……あの、すみませんでした」

 「もうええわ、俺も熱くなってたからな……それより、あの女恐ろしいなぁ、自分も大変やろ」

 なんだか、逆に同情されて複雑な気分になった。

 ――しばらくして、ルイさんとビルの管理が戻ってくると、ようやくルイさんが謝り、それで事なきを得た。

 この事件で、ぼくの胃はキリキリと痛み、人生で最高にブルーな気分となった。本当にこの仕事続くのか、不安を覚える。

 「――ったく、あのビル管もうるさいねん! 相手が悪いのになんでうちが謝らなあかんねん!」

 ぼくたちは、ビルの近くの自動販売機でジュースを買って、座りながら飲んでいた。

 ルイさんの話によると、ビルの管理に別室に連れていかれた時、謝らなかったら長峰美装との契約を破棄すると脅されたそうだ。それで、ルイさんは渋々頭を下げたらしい。――でも、最初はぼくと一緒に頭を下げてくれたのは何故だろうと思った。やっぱり、こちらが一方的に悪かったからだと思っていたからなのだろうか? それともぼくの為に――などと都合のいい想像をして、一人ほくそ笑んでいたのをルイさんに見つかる。

 「なんや自分、笑ってるんか?」

 「そんなことないですよ……それより、すみませんぼくのせいでこんなことになってしもうて」

 「あーん? そうや! 自分ももっとしっかり言わなあかんで、あんなんに舐められたら負けやからな」

 勝ち負けなんだろうかと思ったが、とりあえず頷いておくことにしよう。

 「……でも、ルイさんは恰好良かったです!」

 「自分はビビリ過ぎやけどな」

 「……ルイさんは怖くないんですか?」

 その問いに、ルイさんはブラックの缶コーヒーを飲みながら遠くを見つめる。

 「頭に血が上ると周りがみえへんようになるだけや、ガキの頃から」

 「ぼくなんか、子供の頃から臆病やったから少し羨ましいですよ」

 「そうやな、弱弱しさが滲み出てるもんなぁ、だからバリケードの中に入られたりするねん」

 今度は軽く頭を叩かれた。

 「すいません」

 「……女のケツでも見てたんか?」

 「そそそそんなん見てませんよ!」

 女の人に、その手の冗談を言われたことがなかったのでめちゃくちゃ焦った。

 「なんや自分はオッパイ派か?」

 「ちゃ、ちゃいますよ!」

 恥ずかしくなり目を逸らしたが、無邪気な笑顔を浮かべ、からかってくるルイさんが、可愛く見えた。

 「まぁ、どっちでもいいけどな」

 ルイさんはロープ作業の続きに戻ろうと立ち上がる。

 「――真面目な話、この仕事は死人も出るぐらいにマジで危ないから……さっきは汚水が人に掛かっただけですんだけど、もし固いものやったらあの人死んでたかもしれんのやで、その事をしっかり頭と体に叩き込んでおきや!」

 想像しただけでも背筋が凍る思いになった。男の人がバリケードの中に入ったから、ルイさんはあんなに怒ったのだと分かった。それだけに、この仕事って本当に危険なんだと思い知らされ、立ち番だからっておろそかにしないようにしなければならない。

 「そういえば自分、ロープやりたいって言ってたな?」

 ベンチを担ぎビルの中へ行こうとした時に、ルイさんが振り向いて聞いてきた。

 「はい……」

 「それやったら早い段階で言っとくけど、ロープ作業は命がけやし他人の命も危険にさらす作業やって覚えとき、ハンパな気持ちやったらやらん方がええからな」

 「分かりました」

 まるで、ぼくの浮ついた気持ちを見透かしたかのような、ルイさんの言葉に気持ちが引き締まる。

 「……それと、あんまりやらしい眼でねえちゃん見過ぎて出禁にならんようにな!」

 今までの格好いいセリフが台無しになるぐらいの冗談と笑い声を残して、ルイさんはビルの中に入っていった。大阪人はとにかく最後はボケないと気が済まない性分なのだと、改めて思い知らされた。大阪人の性分はともかく、早くルイさんのように恰好良くロープを降りて、責任を持てる大人になりたい。

 それから、バリケードに人を近づけないよう、辺りに気を配り立ち番をする。そのせいで、お昼を前にして、目は血走り足は棒のようになっていた。

 「――飯にしようかぁ~」

 ロープを降りてきたルイさんが、声をかけてくれた。

 「自分お昼弁当か?」

 「いえ、何も持ってきてないです」

 「うちコンビニやけどどうする?」

 「じゃ、ぼくもコンビニ行きます」

 お昼休憩は車でするのが基本らしかった。二人でコンビニ弁当を買いハイエースへ戻ると、玉部さんは奥さんが作った弁当を食べていた。

 「――それは大変やったなぁ……」

 今日起きた事件を玉部さんに話すと、口では心配してくれていたが、ニタニタと笑った表情を浮かべていたので、絶対に本心は大変だったとは思っていないのが窺えた。ルイさんは運転席で弁当を食べながら、散々男とビルの管理について文句を言っていた。

 「――あ、そうや、自分もう立ち番いいから、昼から玉部さんについて内部一緒に回ってな」

 「……はい、分かりました」

 立ち番は任せられないと言われている気がして、なんだか悔しく割り箸が折れそうなほど強く握る。せっかく覚えた仕事なので、最後までやり遂げたかった。ぼくじゃ頼りないかもしれないが、もっと頑張って立ち番をするつもりだと伝えるべきだと思い――

 「ぼく、頑張って立ち番やりますよ!」

 その言葉を聞いた玉部さんが、ひょこ、と振り向く。

 「――昼からのロープ作業は裏面で、人通りないからバリケードしてるだけでええんや、西嶋も早くガラスきれるようになってもらわんとな」

 ――なるほど、そう言う事か……。

 ぼくが立ち番で使えないんじゃなくて、立ち番は必要ないんだと玉部さんから聞かされ、なんだか気分も晴れた。昼からの仕事も頑張ろうと、お弁当をしっかり食べた。

 ――お昼休憩も終わり、ぼくは玉部さんに付いてビルの専用部である事務所の中に入り、外に面するガラスの清掃をする。どこもしっかりとしたオフィスで、受付で、ガラス清掃であることを伝えてから入室する。オフィスによっては、どこの会社で何の用件かも記入して、入館証みたいなものを渡されてから入る所もあった。中に入ると、奥にあるガラスに向かって、机の間を縫うように進む。ガラス面に辿り着くと面台部分に荷物が置かれている場合があり、そのまま作業をすると濡らしてしまう恐れがあるので、荷物をよけたりタオルなどで養生してからガラスを綺麗にするなど、やり方は色々あるそうだ。

 「言うの忘れてたけど、ブラインド開ける時に紐が切れやすいのがあるから、気をつけてな」

 玉部さんが傍に来て、小声で話してくれた。そういわれて、ブラインドを開ける時に紐を注意して見ると、確かに繋ぎ目が経年劣化していて、脆くなっているものもあった。そういうものは優しく開けてあげるのがコツらしい。場合によっては無理に開けずブラインドの中に潜ってガラスを清掃したり、もう一人にブラインドを持ってもらい作業するなどのやり方があるそうだ。――後で教わったことだが、紐が切れた場合はライターなどの火であぶり溶かしてから、くっつける技があるらしい。その場合、溶かし過ぎると玉が大きくなって穴を通らなくなるから気をつける必要があるそうだ。

 玉部さん曰く、「二十一世紀にもなるのに、ブラインドを開ける紐が進化しないのはどうなってんねん」なんてボヤいていた。そういえば、傘も江戸時代から基本の形は変わっていない。そう考えると、傘はすでに最終形態まで辿り着いた物なのかと思った。

 ――今は仕事中なので、集中しなくてはと思い、ゆっくりとブラインドを開ける。

 ガラス清掃の基本は、洗剤水を含んだシャンプーでガラスの表面をこすり汚れを浮かせる。この洗剤水だが、玉部さんに、洗剤は何を使っているのかと聞くと、意外な答えが返ってきた。台所で使う食器用洗剤を使っているそうだ。いわゆる中性洗剤である。昔と違ってオフィスでの禁煙や分煙が進み、それほど汚れていないそうだ。だけど、指紋などの油汚れは、簡単には落ちないので、見つけたらしっかり擦らないと残るので注意が必要のとこだった。

 シャンプーで擦り終わると、ガラス面に付いた汚れを含んだ水を、スクイジーという車のワイパーのようなもので、ガラスに塗布された汚水を集めて下に落とす。その時、シャンプーで受けながらやるのがコツらしいが、玉部さんのように上手くスクイジーを動かしながらシャンプーで受けることが出来なかった。ぼくが作業した後の面台は、水たまりが出来ていた。最後は、面台に溜まった汚水を腰袋に入れているタオルで吸い取り終了――それが一連の動作だ。

 ぼくが一枚作業終わる頃に、玉部さんは三枚四枚と作業を終わらせていた。どうやらぼくは、ロープを覚える前にこのガラスをきるという作業ができるようにならなければと実感した。

 色々な事務所の中に入るのは、新しい友達の家に行く緊張感と高揚感に似た気持ちだった。各事務所ごとに特色があり、中で働いている人も個性的であったりする。休憩時に、玉部さんから事務所内で経験したことを聞いてみた。

 「そやなぁ、俺があったのはブラインドを開けると光が入ってパソコンが見ずらくなるやろ、そしたら舌打ちされたり、見にくいねん――なんて、ボソっとボヤかれたりしたことあったなぁ」

 「それ怖いッスね」

 「あと、土足厳禁やて知らずに入ったらめちゃくちゃ怒られたりしたわ。西嶋も気を付けや」

 「入り口でしっかり見とかんとダメですね」

 「特に怖いのは物損やな……ガラスの近くに花瓶とかあったりしたら要注意やブラインド開ける時に当たって落として割ったりするからな」

 「玉部さんは物損経験あるんですか?」

 「いや、俺はないけどな」

 平然と言い放っていたが、なんとなく、物損経験があるように見えた。

 「内部入るの怖いですね……」

 「そんなことないで、面台の荷物をよけてくれたり、たまにお茶もらえたりするからなぁ、笑顔でお茶なんて貰ったら、ホレてまうやろー、って叫びそうになるけどな」

 「それは分かります」

 男は基本単純で、ちょっとしたことでホレてしまう生き物なのである。色々な事を教えてもらい、休憩後作業を再開して事務所内に入ると、また違う観点で見えてしまう。

 「そうそう、西嶋来てからやろうと思って置いててんけどな」

 「……?」

 共用部で、玉部さんが改まって言ってきた。

 「それは女子トイレのガラス清掃や……」

 確かに、トイレにもガラスはあるのだから当然やらなくちゃいけないのだろうが、女子トイレに入るのは、かなりの抵抗がある。小さい頃に男と女は違うトイレに入り、決して男は女子トイレに入ってはいけないと教わってきたのだから――その女子トイレに入るなんて、凄く抵抗があったが、仕事では仕方がないのだと自分自身に言い聞かせる。

 「……で、どうするんですか玉部さん?」

 なぜか声のトーンを落として、心なしか小声になっていた。

 「今日はルイちゃんがいるから任せといたらええねんけど……」

 「ああ、そうですよね」

 単純な答えがあり、拍子抜けしてしまった。

 「しかし……常にルイちゃんがいるわけやない……そこでお前にミッションや」

 だんだんと小声になり、なんだか悪巧みをしているような絵図らとなっているが、普通に仕事の話をしているのを強調しておきたい。

 「俺が女子トイレに入るから、お前は見張っていてくれ……これは大切な任務やぞ」

 「玉部さん、顔が変態ぽくなっていますよ」

 「誰が変態や! これは仕事や勘違いするなよ」

 ムキに否定するところが怪しかったが、仕事といえば仕事なので、仕方なく見張りの任務を引き受けた。

 「心配するな西嶋、お前にも入る機会をやるからな」

 「結構です!」

 玉部さんは、ぼくも共犯にしようとしているように見えた。だけど、見張りをしている地点で共犯のだが――

 そして、ぼくたちは女子トイレの前に来た。

 「……本当にガラス清掃で入るんですよね?」

 「当たり前や、いくら俺でもそんな変態なマネするか!」

 もし、変なことしていて見つかったらタダじゃあ済まないのは、玉部さんも分かっているだろうから、そこは信用することにした。まずは、女子トイレの扉をノックしてから誰もいないのを確認して、「失礼します」、と声をかけ中に入っていく。その後姿に、めちゃくちゃドキドキする。なんだか悪いことをしている気分に、胸が痛くなってきた。すぐに玉部さんが出てきたので、確かに何も悪い事はしてないのは分かった。

 そんな調子で、次々と女子トイレのガラス清掃を進めていった。

 階も進み、残っている女子トイレの数も少なくなってきた頃――

 「そろそろ西嶋もやるか!」

 玉部さんはエデンの園で、イヴに知恵のリンゴを食べさせようとするヘビのような、誘惑の言葉を投げかけてきた。

 「ぼ、ぼくはいいですよ」

 「アホか、いつかはお前もやらなあかんねんぞ……今やらんでいつやるんや」

 どこぞの講師みたいなセリフで、熱く語る玉部さんの勢いに飲まれそうになる。

 「でも、まだぼくには早いような気がします」

 「早いも遅いもない! 据え膳食わぬは男の恥だぞ」

 なんか使う所を間違っているような気がしたが、ここまで言うのだから、ぼくも覚悟を決めて女子トイレに入ろうとした。

 「――あんたら、女子トイレの前で何やってんの?」

 全身の毛穴が開き、一斉に汗が噴き出したような感覚を味わう。振り向くと、汚物を見る様な目つきでルイさんが、ぼくたちを睨みつけていた。

 「ちゃうんやルイちゃん、女子トイレのガラス清掃をしようと思っただけやで」

 玉部さんの言い訳に、全力で頷いて生き延びようと試みた。

 「……いや、女子トイレの前でめっちゃ怪しいから」

 その後、玉部さんとぼくは、ルイさんにメチャクチャ叱られ平謝りした。この事件で、女子トイレに対するトラウマが植えつけられた。

 ――全フロアの作業を終え、一階ロビーに降りるとルイさんが玄関のガラスを清掃していた。ルイさんのスクイジー捌きはとても綺麗で、流れるように動いていた。ぼくはその姿に見惚れてしまっていた。

 「……自分ボサっとしてないでさっさとやりや」

 「あ、はい!」

 慌てて玄関の作業に加わったが、どうしてもルイさんから目が離せず、横目でチラチラと盗み見る。

 「なにルイちゃんに見惚れてんねん」

 完璧にぼくを驚かせるつもりで、玉部さんが耳元で話しかけてきた。

 「いや、ぼ、ぼくは……」

 「冗談や! 先輩の作業を良く見て、盗めるものがあったら盗んだらええからな」

 ぼくがルイさんに見惚れていたのを、良いように誤解をしてくれたようだった。でも、玉部さんの言う通り、先輩の技を見て覚えるのも大切だと、堂々とルイさんを見つめる。

 「…………いや、やりにくいから」

 「す、すみません……」


 ――玄関の作業も終わり、玉部さんがハイエースをとりに行っている間に、SKと呼ばれる日常清掃の人が使う洗い場で、みんなの道具を洗う。それからカラーコーンやトラバーなどの今日使った道具をビルの玄関先に集める。

 「――おつかれさん、どうやった初日は?」

 ビルの管理に作業の終了を報告してきたルイさんが、道具をかためるのを手伝いながら聞いてきた。

 「色々ありすぎて、よくわからんうちに終わったって感じです」

 「初日にしては色々あったなぁ……どう、続きそう?」

 「……そうですね、頑張りたいと思います」

 初日でこんなにもいろんなことが起こって、不安な気持ちはあったが、当初の目的であるゴンドラやロープで空中を浮く感覚を経験したい気持ちだけは、今も強くあった。それに、ルイさんのように恰好良くロープを降りれる職人になりたいという気持ちも湧き上がっていた。

 「まぁ、頑張りな」

 ――でも、この仕事が続きそうな最大の理由は、ルイさんともっと一緒にいたいと思ったからだった。

 倉庫に戻ると、明日使う道具をハイエースに積み込んでから駐車場に戻る。そして、事務所へ挨拶に行く。

 「――お帰り西嶋くん」

 事務所には、社長と面接のときにもいた事務員の女性がいた。

 「どうやった仕事?」

 みんなに同じことを聞かれる度に、同じことを言うだけだった。社長は、「そうかそうか」、と薄っすら笑顔を浮かべながら何度も頷いた。

 「ただいまです」

 「ルイちゃん、ご苦労様――ちょっとええか」

 社長はルイさんを奥のソファーへと誘い、そこで何か話をしていた。おそらく、今日男の人と揉めたことで注意を受けているのだろう。その件に関しては、ぼくに責任があるのであって、ルイさんは悪くないと社長に言いたかった。

 「西嶋くんちょっと」

 事務員のおばちゃんが手招きで呼ぶ。

 「なんですか?」

 「今日の事はそんなに気にせんでええよ、よくあることやから」

 「よくあることですか?」

 よくあったらダメだろうと、心の中で呟き社長とルイさんを見た。

 「ルイちゃん本当にケンカっ早くて、時々揉めるのよ」

 「そうなんですか……」

 確か、玉部さんもそんな事を言っていたのを思い出す。

 「でも、今回の事はぼくが悪いんであって、ルイさんは助けてくれようとしただけです」

 「……あら意外に恰好ええこと言うんやね西嶋くん――でも、心配せんでもええで」

 事務員のおばちゃんはそう言ってくれたが、やっぱり心配だった。今度は、ぼくがルイさんを援護しようと近づこうとした。

 「あはははは、しばいたったらよかったのに!」

 突然社長が笑い出すと、物騒な言葉が耳に飛び込んできた。

 「……いつもいつもすみません社長」

 「ええ、いつもルイちゃんは悪くないんやから、筋の通らんことは許せんっていうその心意気をワシは買ってるんやからな」

 「ありがとうございます」

 なんだか、思っていたのと違い和やかな雰囲気に呆然としてしまう。

 「――ん? どうしたんや西嶋くん」

 ぼくに気づいた社長が声をかけてきた。しかし、何を話していいか分からなくなり、頭が真っ白となってオドオドとしてしまう。

 「ルイちゃんが、怒られていると思って助けようとしたんやよ」

 「――なっ!?」

 事務員のおばちゃんが口走り、誤魔化そうとして、あたふたと変な踊りみたいなことをしてしまった。

 「ルイちゃんを怒ってたんやないから心配せんでええで、西嶋くんもしっかりルイちゃんに仕事教えてもらいな、そしたら間違いなくええ職人になれるからな」

 「うちなんてまだまだです」

 少し照れたように答えるルイさんは、可愛かった。

 「――それじゃ、失礼しました」

 「おつかれさん」

 雑談の続く事務所を出たのは、十七時頃だった。気が張っていたせいか、それほど疲れている感じはしなかったのだが、事務所を出て自転車のペダルをこぎ出した時に、疲れが津波の如く押し寄せてきた。自転車のペダルがこんなに重く感じたことはなく、家までの道のりが遠く感じられた。

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