第2話 ゴンドラに乗ってみた。

 重いペダルを必死にこぎながら、なんとか家に辿り着いたぼくは、すぐにお風呂に浸かった。

 「――っふ、ふぁぁ~~~あ、気持ちいい……」

 その時のお風呂は、今までに味わった事がないほどに気持ちよく、全身の疲れと緊張で凍りついていた心が、お湯に溶けてなくなるぐらい最高なお風呂であった。

 至福の時間を満喫したぼくは、部屋に戻り、マンガのアイデアを練ろうと、机に向かおうとしたが、視界の端にベッドを捉えた。その姿は、まるで無防備に横たわる女の子のように見えた。ぼくは、その女の子が眠っているのかを確認しようと、そっと近づいてみる。そして、気持ちよさそうに眠る女の子を覗き込んでみると、お日様の優しい匂いが鼻孔をくすぐり、もっと匂いを嗅ごうと近づく。すると、バランスを崩して、女の子の身体に倒れ込んでしまった。ぼくは慌てて起き上がるとした時、女の子は少し頬を赤く染め、伏せ目がちにぼくを見つめていた。その艶やかな姿に、ぼくの理性は吹き飛び、女の子の身体に覆いかぶさる――

 なんて、ベッドを女の子に見立てた妄想をしたぼくは、結局誘惑に負けて寝転がる。ちょっと休憩のつもりで寝転がったのだが、そういうものは得てして、ちょっとでは済まず、がっつりと寝てしまうと相場は決まっていた。

 ――お腹が悲鳴をあげたので、目を覚ます。部屋は真っ暗で、時計を見ると二十一時頃だった。ずっしりと重く鈍い頭のまま、リビングへ降り、空腹を満たす。その頃には、しっかり目覚め、机に向かい新しいマンガのアイデアを練る。

 しかし、まったく浮かばない。

 気分転換も兼ねて、キャラクターのイメージデザインをしてみる。その日は珍しくペンが進みがよく、一気にキャラクターを描きあげた。

 「……あれ、これってルイさんじゃ?」

 よく見なくても、すぐに描いたキャラクターが、ルイさんに似ているのが分かった。自分の描いた絵を見つめながら、ルイさんがガラスをきっている姿やロープを颯爽と降りる姿が思い出され、気が付くといろんなルイさんをデッサンしていた。


 「――これって恋かな?」

 「……夜中の十一時に電話してきて、何を言ってんだお前は?」

 この気持ちを誰かに伝えたくて、親友でありマンガのアドバイザー兼アシスタントである井上に、話を聞いてもらっていた。

 「だって、絵にまで描いてしまうなんて、もうこれって恋だよな?」

 「……はいはい恋です。それじゃおやすみなさい」

 「やっぱり恋かぁ……って、おい井上!? ちょっと……あいつマジで切ったよ」

 突然電話を切られたが、それでも今は気分がいいので、腹が立たない。それより、ルイさんのことを思い出して、明日も現場が一緒になれば良いなぁ、と考えながらいつまでも絵を描いていた。

 ――いつの間にか、机の上に大量の涎というため池を作って眠っていた。


 「――すみませんでしたあああ――あっ!?」

 生まれて初めて自分の寝言で目を覚ます。

 昨日立ち番で、男の人に因縁を付けられたことが相当堪えたようで、夢でも怒られていた。まさに、最悪の目覚めであった。徒労感が全身に圧し掛かった気分で、時計を見て、これまた、生まれて初めて絶句する。

 「……ええええ!? もう六時半!!」

 時間を見て、血の気が引く音が聞こえたように感じ、一気に目が醒めた。事務所に七時集合と言われていたのに、家から自転車をダッシュでこいで行っても、二十分はかかる。遅刻という絶望の二文字が目の前で点滅する。

 「やってしまった! やってしまった!」

 パニックになりながらも、服を着て家を出る。そこからは、ノンストップでペダルをこぎ続けた。何度か車に轢かれそうになったが、なんとか無事に事務所まで辿り着いた。

 「なんや自分寝起きか? 寝グセ凄いことになってるで」

 ルイさんが、元気に立っているぼくの寝ぐせを引っ張って遊ぶ。

 「――起きたら六時半で慌てましたよ」

 ぼくの言葉に、事務所にいる人たちからは一斉に、「あるあるやな」、と声をそろえて言われた。

 「うちと同じ班で遅刻したら、休憩のジュースはそいつの奢りってルールあるんやけど、助かったなぁ」

 ルイさんはケタケタと笑いながら事務所を出る。どうやら、今日もルイさんと同じ班のようで、内心「ヤッター」と喜んだ。

 ――せ、狭い……。

 意気揚々と乗ったハイエースの後部座席は、ぼくを含めた三人の男が密着した状態で座っていた。当然、新人のぼくが真ん中に座っているのだが、右隣には昨日お世話になった玉部さんが座り、左隣には稲葉さんていう二十代後半の人が座る。左右を先輩に挟まれ、どちらにももたれる事が出来ず辛かった。

 「全員乗った? いくで」

 運転は昨日に続いてルイさんで、助手席には山岸さんという長峰美装で一番の古株の人が座っていた。

 「今日の現場どこですか?」

 いつまでこの状態が続くのか気になったので、隣にいる玉部さんに訊いてみた。

 「京都のオフィスビルや、ここから一時間半ぐらいやな」

 「い、一時間半も……」本日二度目の絶句――

 一時間半もの間、この窮屈な状態が続くのかと思うと、それだけで、疲れが重く背中に圧し掛かり深いため息を漏らす。

 「まだましなほうやで、前に帰り道で渋滞にはまって、三時間荷台で座ってたこともあるからな」

 大笑いしながら稲葉さんが言うと、みんなその時の思い出話で盛り上がる。このあまり動きが取れない状態で三時間とか、エコノミー症候群になりかねないと、本気で心配になってしまう。

 しかし、こんな話題をしていたら、ラノベなどでよくある「フラグ」が立ったって事じゃないかと、本気で心配してしまった。

 

 ――光り輝くテールランプが、長蛇の列をなして暗がりをゆっくり、ゆっくりと、まるで牛歩の如く歩みで動いていく。その光景を、死んだ魚のような目で見つめていた。車の中も死臭が漂うような、じっとりとした空気が充満して、窓を開けたぐらいでは、その澱んだ空気を吹き飛ばす事は出来ないぐらい沈殿しているであろう。

 「――まさか、会議が長引くとはなぁ……」

 山岸さんが帰りの運転をしながら、遅々と進むテールランプを焦点の合ってないような目で見つめながら、ポツリと呟く。

 その日の仕事は、お昼まで順調に作業が進んでいたらしい。しかし、お昼開けに会議室の窓ガラスの清掃をやりに行くと、「会議中なので後にしてください」と、受付で言われ、とりあえずその会議室を飛ばして、順番に作業を進めていった。

 そして、最後にやり残していた会議室に行くと、まだ会議中とのことだったので待つしかなかった。

 ――そして、待つこと二時間。ようやく会議が終わり、全員で取りかかる。ものの数分で、作業は終わった。その数分の作業をやる為に、二時間も待ったのかと思うとやり切れない思いだった。ビルの管理に作業終了のサインをもらい現場を出たのは、十八時となっていた。この時間になると、帰宅ラッシュにぶつかり、高速道路はさきほどいったとおりの状態である。しかも、事故まで起きていたので、渋滞の列は三十キロにまで及んでいた。

 遅々として進まないハイエースの中で、全員が不機嫌そうにスマホをいじる。ぼくもスマホをいじっていたが、左右を挟まれ、身動きしずらい状態でスマホを長時間見るのも疲れ、埴輪のような表情を浮かべ、目の前の渋滞の列を見つめる。――が、急ブレーキを踏まれ、思わず前にのめり込んだ。その時、ルイさんと視線が合う。

 「悪い……」

 運転をしている山岸さんも疲れているのだろう、少しボンヤリすることが多くなっていた。

 そんなことより、さっきルイさんと目が合った時に、スマホの画面が視界に入った。ルイさんでもLINEをやっているのだろうかと気になったぼくは、後ろからルイさんのスマホを覗き込もうとした。

 ――ダメダメ、他人のスマホの画面を覗き見るなんて、しかも女性のを覗き見るなんて最低な行為だ。

 自分を強く戒めた。――だが、気にはなる。ゲームでもしているのかな? 買い物でもしているのかな? それとも……男とLINEとかしているのだろうか……。そういえば、ルイさんって彼氏いるのかな? 綺麗な人だからいても不思議じゃないけど……いたらショックだなぁ……。

 そんな心のザラつきが、ぼくを一匹の悪魔に変えた。こっそりとルイさんのスマホを覗き見ようと、少しずつ体をずらしていく。

 見えそうで見ない、この微妙な感じが、凄く背徳感があり、背筋にゾクリとするものを覚えた。

 「おい西嶋」

 ――ドキィィッ!! と口から心臓が飛び出すんじゃないかと思うほど、内臓全部が上がってきた。恐る恐る玉部さんの方を見る。

 「……な、なんですか?」

 「お前、こっち寄ってき過ぎや」

 玉部さんはスマホの画面から目を離さずに、肘でぼくを押し返す。

 「す、すいません」

 ――気づかれたんじゃなかたぁ、と一安心して顔を上げると、ルイさんと視線がぶつかった。覗こうとしたのがバレたのかと思い、二度も口から心臓が飛び出す感覚を味わった。

 「狭いんやったらうちの膝の上に来るか?」

 ルイさんの誘いに、ぼくの顔は一瞬でトマトのように真っ赤になる。

 「え……でも、そんなぁ……」

 「いや、冗談や……自分キモイな」

 ハイエースの中で、爆笑の渦が巻き起こる。冗談だろうとは思っていたが、もしかしたらなんて淡い期待を抱いていた自分がいたのは、悲しいかな否定できなかった。

 それからルイさんはスマホを見ることなく、運転している山岸さんと、掃除の道具の話や現場でのムカつく人間の話など仕事関係の話をしていた。どうやら運転している山岸さんに気を使っているようだった。ガサツっぽく見えるルイさんだが、そういう気配りのできる人でもあった。

 結局、ルイさんに彼氏がいるのか確かめることが出来ず、三時間ハイエースの後部座席で、埴輪のように鎮座していた。


 ――季節が進み、冬服から夏服へと作業着が変わり、事務所まで行く三十分の道のりだけで汗だくになるほどの暑さに、ぼくは辟易としていた。

 「おはよう、まだ六月やのに暑いなぁ」

 玉部さんが作業着を着崩したまま事務所に現れる。

 「おはようございます。ぼくも自転車で来るのが辛いですよ」

 「そういえば西嶋は現場での夏は経験ないんだよな」

 この会社で三番目に若い稲葉さんが、団扇で仰ぎながら聞いてきたので、ないことを告げる。

 「この仕事の夏は、マジヤバイでぇ~」

 「そうそう、死にたいじゃないもんな――殺して! って思うぐらいヤバイ」

 その違いがよくわからなかったが、危険なほど暑いのは伝わってきた。

 「ゴンドラなんて逃げ場が無くて、特に南面になると後ろは太陽光、前はビルの窓の照り返しで、しっかり中まで焼ける両面焼きの魚の気分が味わえるでぇ」

 「聞いているだけで、うんざりしてきましたよ」

 「――それとルイちゃんには気を付けろよ」

 玉部さんが真面目な顔で言うと、みんなが一斉に頷く。

 「ど、どういうことですか……?」

 ゴクリと生唾を飲み込む。

 「夏場のルイちゃんは、二倍増しでキレやすくなるからな……当社比」

 「誰が二倍増しでキレるって!?」

 背後からルイさんの声が聞こえ、みんな百回肝試ししたぐらいの冷や汗をかく。

 「お、おはようございます!」

 「――うい」

 ルイさんは挨拶するのもだるそうに、まるで朝から駐禁を切られ、警官に職質され、エレベーターが止まっていたほどの不機嫌さと疲れを化粧に塗り込んだ顔で現れた。

 「西嶋、さっきから何みてんのじゃ!」

 いきなり胸倉を掴まれ絡まれたので、助けを求め周りを見たが、全員目を逸らす。

 「な、なんでもないです……ハハハ」

 「ヘラヘラすんなボケェ!」

 ――二倍どころじゃなかったぁーーーー。みんなが、「だろ」って、顔で見てきた。夏はおっかない。そんなことをしていると、社長が出社してきた。

 「おはようございます!」

 「おはようさん。そうや、西嶋くん、今日はルイちゃんとゴンドラ乗ってもらうから」

 社長の口調は、まるで、「ちょっとコンビニでたばこ買ってきて」って、ぐらいの気軽さで、ゴンドラに乗るよう言ってきた。

 「ゴンドラって、ビルの外から窓を拭くために使う機械のことですよね?」

 「そうや、そろそろ高い所にも慣れてもらおうと思っとってな。練習にはうってつけの現場やからルイちゃんにしっかり教わりや」

 「は、はい!」

 ついに高所作業ができると、身体の内から喜びが溢れてきた。

 「じゃ、ルイちゃんよろしくね」

 「ういッス」

 「ルイさんよろしくお願いします」

 「落ちんようにしてや」

 ルイさんに言われ、浮かれた気分でいる自分に気づき自重しなければと諌める。そして、いつものように倉庫へ向かい準備をしていたら、ニヤついた顔で、玉部さんが近づいてきた。

 「いよいよゴンドラデビューか! 俺が西嶋教えたかったぜ」

 悪巧みしているのが、丸分かりな表情をぶら下げ話す。

 「玉部さんは、遠慮しときたいですね」

 「なんや、俺はこの会社じゃ一番やさしいんやで、ルイなんて運転荒いからなぁ」

 わざとルイさんに聞こえるよう大きな声で言う。

 「玉部さんはチキンなだけや」

 「いやいや、お前の運転はめちゃくちゃやから怖いっちゅーねん」

 「ビビリ過ぎちゃいますか!?」

 「アホか! 前に下見んと開いてた窓にカゴが乗り上げて、ひっくり返りそうになった事あったやんけ! 死ぬかと思ったわ!」

 「ちょっと乗っただけで大袈裟やちゅーねんボケ!」

 倉庫前で激しく言い争う二人に、他の人たちは無関心を装い淡々と準備をしている。しかたないので、ぼくが仲裁に入る。

 「ぼくのゴンドラデビュー前にケンカはよしてください!」

 「チッ、西嶋に注意されるなんて、なんかむかつくけどな!」

 「どういう意味ですかルイさん」

 いつからか、ルイさんのぼくに対する二人称が、「自分」から「西嶋」に変わっていた。それって、ぼくのことを、少しは認めてくれたってことだと勝手に思い込んでいた。

 現場にはルイさんが運転して、助手席には玉部さんが座り、後部座席にぼくと千石さんが座り、この四人で現場へと向かう。

 隣に座っている千石さんは、五十代後半のおじさんで掃除屋の経験は社長の次に長いらしい。凄いベテランなのだが、どうも少し――かなり天然が入っているそうだ。遅刻はかなりの頻度でやらかし、現場を間違えて、違うビルの掃除をやったり、駐車違反の罰金を払うのに銀行の前に路駐していたら、また駐車禁止切符を切られたりと、とにかくすごい天然キャラだそうだ。

 ――現場に着くと、いつも通り準備を進める。今日は、ぼくとルイさんでゴンドラ作業を行い、千石さんは三本ほどロープ作業をしてから内部に合流、玉部さんは朝から内部の作業と、それぞれが別れ動く。今日のビルは十階建のオフィスビルである。まずはエレベーターで最上階まで行くと、そこから非常階段に出て、屋上へ続くタラップを登っていく。タラップはかなり傾斜がきつく昇るのが辛かったが、登り切った途端視界が開け、ぼくの顔を強風が叩きつけてきた。こんな高い所で、遮蔽物のない解放された景色を初めて見たぼくの心は、少し踊った。

 「こっちやで」

 ルイさんに案内され、屋上を進む。ビルの屋上は、意外に無骨な金属が剥き出したままで、大型の室外機が多数並んでいた。ルイさんは慣れた足取りで進んでいく。その後を追っていくと、目の前に濃いめの緑色の防水加工された布を被った大きな物体が鎮座していた。

 「ほな、この本体のカバーから取るで」

 紐でしっかり結ばれたカバーをはずすと、グレーの鉄の塊が、重厚感タップリにその姿を現す。

 「次はカゴのカバーや」

 本体のカバーを風に飛ばされないよう近くの鉄柵に結んだあと、カゴのカバーをはがしに掛かる。カゴは大人二人が入るのに適した大きさがあり、両サイドからワイヤーが伸び、その先は本体から延びたアームといわれる二本の腕へと続いていた。カゴのカバーを剥がしながら、疑問に思ったことをルイさんに聞いてみた。

 「この二本のワイヤーだけで、このカゴを支えるんですか?」

 「そやで」

 驚いたのはワイヤーが細い事である。多分ぼくの人差し指ぐらいの太さしかないようなワイヤーで、ぼくとルイさんを乗せた鉄の塊を支えることが出来るのだろうかと、本気で不安になった。しかも、よくみると表面は錆びている――本当に大丈夫なのだろうか。

 「大丈夫や、作業前にはゴンドラ屋が入って点検してくれてるからな」

 ルイさんの言葉に、とりあえずは安心した。

 「でも、あいつらの点検テキトーやから、ホンマに大丈夫か分かったもんやないけどな」

 ゴンドラを動かす準備をしながら、ぼくをビビらせようとルイさんが口を紡ぐ。

 「冗談でしょ?」

 「マジマジ、点検入っているはずやのに、たまに動かんかったり、異音がしたり、うちが一番怖かったのは、ゴンドラが止まらんようになったことや」

 「そんな訳ないでしょう?」

 ぼくをビビらせようとするルイさんの作り話だと疑う。

 「普通はそう思うわな……でも、事実で、下降ボタンから手を離してもずっと降り続けるんや」

 まるで、ホラー話でもするように、神妙な顔で語り続ける。

 「カゴには非常停止ボタンもあるんやけど、それを押しても止まらんねん。上昇ボタンや他のボタン押しても止まらんと、延々とゆっくり下降していったんや」

 「でも、地面に着床するだけで助かるんちゃいますの?」

 常識的に考えて、カゴは地面に降りるだけでたいしたことはなさそうに思えた。

 「……そうやったらええんやけどな……そのビルは複合ビルで、四階部分から下は飲食店が入っていて、しかも四階部分は明り取り窓となっていて斜めに広がってたんや」

 「そ、それじゃ……」

 ルイさんの言う事の意味は分かった。四階部分が斜めに広がってるってことは、カゴは地面に着床することが出来ず、斜めに傾き最悪上下逆転して、乗っている人を落としてしまう可能性があったのだ。そうなったら大惨事となる。

 「屋上に社長がおったから電話して、元の電源から落としてもらって、ようやく止まったんやけどな……」

 話だけで、ぼくの心臓は早くなり、背筋が凍る思いがした。

 「――でも、電源入れたらまた下に降りるんじゃ?」

 「それが大丈夫やったんやけどな……すぐにあがってその日は中止になったわ」

 「結局原因はなんやったんですか?」

 「わからん」

 「わからんってことあるんですか!?」

 分からないってことは、またそんなことが起こる可能性があるってことではと、ゴンドラが怖くなってきた。

 「そんな感じで、うちはゴンドラ屋の点検を全面的には信用してない」

 色々経験している人の言葉は、いつも重みがあると感心してしまうが、これから乗るゴンドラが心配になってきた。

 「あ、あの~ルイさん……」

 「これは大丈夫や――と思う。下は平らな地面やしな」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべ、準備ができたゴンドラを動かしだした。

 ルイさんは怖い話ばかりじゃなく、ゴンドラについても簡単に話してくれた。

 このゴンドラも、大まかに分けて二種類らしい。一つは仮設ゴンドラというもので、ビルの外壁などの工事で使うことができるどこでもゴンドラみたいなものらしい。それと、ビルの屋上に常設しているゴンドラだそうだ。その常設ゴンドラも大まかに分けると二種類あるらしく、一つは自走式ゴンドラと呼ばれる運転ハンドルがあって、自由に動かせるものと、屋上に敷かれたレールの上を走るゴンドラの二種類があるそうだ。今日はレールの上を走るタイプであった。

 「――それじゃ、ゴンドラに乗り込む前に注意点をいくつか言うから、しっかり頭に叩き込むんやで」

 ルイさんはこういった危険な作業を行う前には、必ず注意点を説明してくれてとても助かる。

 「落下物に注意するのが最重要や、万が一落下物が人に当たったら死んでまうかもしれん」

 この高さからシャンプーやスクイジーが落ちて、人の頭に当たったら大怪我では済まない。落とさないようにカールコードというものをシャンプーとスクイジーにつけて落下防止とする。

 「そして、作業員の落下も注意やで、今までゴンドラから落ちたってのは、うちは聞いたことないけど、油断はしたらあかん。カゴに乗り込むときは落ちないように安全帯をカゴにつけてから乗り込む。降りる時も安全帯をつけたままカゴから降りて、それからはずすように」

 ルイさんの言葉を訊いて下を覗き見ると、歩く人が小指ほどの大きさに見えた。その途端足がすくみ、全身の力が抜けそうになる。

 「ほな乗り込むで」

 ルイさんは軽やかな身のこなしで、ビルの外面に出したカゴへと乗り込んだ。

 「ほら、西嶋もきいや」

 ルイさんはカゴが動かないように、ビルのパラペット部分に手をかけ固定してくれていた。意を決して乗り込もうとした時、ちょっとした風が吹く。地上ではなんてことのない風だったが、十階という高さと不安定な場所で吹かれると、それはもう台風レベルの狂風に感じられ、尻込みして、一旦屋上へと体を戻す。

 「大丈夫やうちがしっかりもってるから」

 励ましてくれるルイさんの声に、男らしいところを見せようと思い切って一歩踏み出した。乗り込んだだけでカゴは不安定に揺れ、足元が心許なく感じた。その恐怖で、ぼくが震えると、そのたびにカゴも揺れた。その揺れに怯えて震えると、カゴはずっと揺れ続ける。――とにかく震えを止めようと、違うことを考える。ルイさんとデートするところやドライブするところやキスするところやHするところまで妄想して、ようやく震えは収まった。

 「大丈夫か?」

 ぼくの震えが収まるまで、ルイさんは待っていてくれていた。そんな優しいルイさんに卑猥な妄想して申し訳なく思って、目を合わせる事が出来なかった。

 「……ありがとうございます。もう大丈夫やと思います」

 「それじゃいくよ」

 ルイさんの合図でカゴが下降する――動く一瞬、身体が浮く感覚があったが、それだけで身体が反応して震える。それに合わせてカゴも震えた。その時点で心が折れそうになったが、ルイさんにチキン野郎と思われたくない一心で耐える。

 じわりじわりと目の前の壁が流れていくので、それをじっと見つめていると、少しだけ気が紛れた。それが分かると、ずっと流れる壁を見ている事にした。はたから見るとノイローゼの人のように見えるだろうな――なんてことを考える余裕が、少し生まれる。そうなると、少し怖いもの見たさで下を覗こうとするのは、人の性だろう。つい下を覗いてみたが、それは無謀な挑戦だった。歩いている人が小さく見え、自分のいる高さが如実に分かり、足の力がゴンドラから零れ落ちるように感じて、膝から崩れ落ちそうになる。すぐに、目の前を通る壁を見つめ、気持ちをリセットしようとした。

 「――ほら、ガラスきたよ」

 ルイさんに言われるまで、目の前に窓ガラスがきているの事に気がつかなかった。とにかく、目の前の作業にのめり込もうとした。そうすることで、自分の置かれている状況を忘れる事ができる。

 そうして、目の前にガラスがきたら清掃をするといった作業を繰り返して、およそ三十分ほどかけて、一本分の作業が終わった。

 「仕上がりの悪いところがないかチェックしながら上がるよ」

 ルイさんに声を出して返事しようとしたけど、自分の意志に逆らい上の歯と下の歯が、まるで別れを惜しむ恋人同士のようにくっついて離れようとしなかった。しかたなく、頷くだけで答える。そんなぼくを見て、ルイさんが微笑を浮かべたように見えたが、それどころではなく、カゴが登りだす。降りる時はガラスを掃除するという作業があったので、少しは気が紛れたのだが、登るだけだと気の紛らわしようがなく、じっと目の前を見つめていた。

 「西嶋、そこキリ残している」

 カゴが急に止まったので驚いた。目の前にあるキリ残しを乾拭きタオルで拭いてやると、また昇り始めた――すると、急にカゴが止まり大きく揺れる。なにか機械に不具合でもあったのかと、心配してルイさんの顔を見る。

 「手が離れただけやから」

 ニコリと微笑むルイさんの表情を見て、安堵のため息を漏らす。そして、またカゴが昇りはじめる――すると、また、カゴが急に止まる。今度こそ、なにか機械に不具合が生じたのかと思いルイさんを見ると、明らかに笑いを堪えている表情をしていた。――なるほど、ぼくをからかっているのだと、その時分かった。今度は何も言わずカゴが昇りだす。しばらく上昇していくと、また急停止した。

 「ル、ルイさん!?」

 自分でも、声がうわずっているのが分かった。

 「あはははは、ごめんごめん、もうせえへんから」

 大爆笑するルイさんに、若干の怒りが湧く。その後は、何事もなく上昇していき、屋上面が見えた時には、自分がどれだけ強張っていたのか分かる程に力が抜けた。

 「西嶋はそのまま乗っときな」

 ルイさんは軽やかな動きでカゴから降りると、ゴンドラを移動させる。その動きに合わせるようにカゴも動き出したが、とても不安定に揺れるので、縁に力一杯しがみつく。

 そして、本体が止まると慣性の法則で、カゴのほうは大きく揺れる。

 「あわあわわわ」

 「おっと、行き過ぎたかな?」

 そういうと本体を少し戻す。それは本当に少しだったのだろうが、さらに反動が大きくなり、カゴは大きく揺れて転びそうになった。

 「あれ、また行き過ぎたかな?」

 また本体を前進させる。そうなると波のように大きな揺れとなって、本気で危ないぐらい揺れた。

 「ルイさんんん遊んでるでしょう~~~~」

 揺れまくるカゴにしがみつき、なんとか抗議の声を上げることが出来た。

 「あははは、やっとしゃべったか西嶋!」

 弾けるような笑い声を屋上に響かせ、揺れるカゴを止めて、ルイさんが軽やかに乗り込んできた。

 「マジで怖いんですから……」

 「ごめんごめん、でも、こんなのは慣れやからな」

 慣れる前にトラウマになりそうだ。ぼくの心が落ち着く前にカゴは下降を始めた。動くたびに、内臓が口から出て来そうな感覚を味わいながらゴンドラに乗り続けた。

 ――本当にこんなの慣れるんだろうか?

 そんな不安を抱えながら、作業を続ける。そして、神経がすり減り限界が近づいた頃、休憩に入ってくれた。

 カゴから降りると、力なくその場にへたり込んでしまった。

 「ジュース買ってくるよ」

 「――いや、ぼ、ぼくが行きますよ」

 立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

 「まだまだ頑張ってもらわなアカンから、そこで休んでな」

 牛若丸のような軽い足取りで、屋上を歩いていくルイさんの後姿を見ながら、早く肩を並べれる掃除屋になりたいと切実に思った。

 ルイさんが買ってきてくれたコーヒーを飲んで、ようやく人心地着けた。ルイさんはビルの縁になるパラペットに腰かけ、景色を眺めていた。それに驚いたが、ぼくもつられて周りを見渡す。すると、仕切りがなくて、どこまでも広がる町並みと空に、凄く感動した。

 「景色いいですねルイさん」

 「そうか?」

 まさかの否定に驚く。

 「あれ、綺麗じゃないですか?」

 「この程度の高さやとビルが多くて大阪を一望できひんやろ」

 「なるほど」

 ルイさんに言われて見渡してみたが、十階以上の高さのビルやマンションが多くて、視界は悪かった。

 「あの高層マンションの屋上から見る景色は、凄いけどな」

 ルイさんの指し示したマンションは、五十階の高さがあり大阪で一番高いそうだ。そんな所から見える景色はどんなのだろうかと、想像してみたが――今は怖さが先に立つ。

 「あそこから見る景色ってどんな感じですか?」

 「すべてがちっぽけに思えるで、大坂城も下に見えるからな」

 天下を取った豊臣秀吉が見た景色より高い所の景色が見えるのかと思うと、なんだか凄く得した気分になった。

 「……うちも西嶋と同じで、高い所に憧れてこの仕事はじめてん」

 そんな話をルイさんがするのは初めてで驚いた。そして、ルイさんと共通点があることが嬉しかった。

 「ぼく、実はマンガを描くためにこの仕事はじめたんです」

 自然と言葉が出た。

 「西嶋はマンガ家目指してるんか!?」

 「はい! ぼくの夢なんです」

 「そうかぁ夢かぁ――頑張りや!」

 豪快に背中を叩かれ、乱暴な頑張れを頂いた。

 「頑張って夢を叶えます!」

 興味なさそうにされるかと思ったが、意外にもルイさんから応援の言葉をもらって、驚きつつも嬉しさが心を満たす。

 「――さて、お昼までもうひと頑張りといこうか」

 「はい!」

 ルイさんは、軽やかな足取りでカゴに乗り込んだ。ぼくはまだ恐る恐る乗り込むのが精一杯であった。それでも、少しは慣れてきたのか、初めほどの怖さはなかった。この調子でいけば、作業が終わる頃には克服できるんじゃないかと調子に乗っていた。

 そんなぼくの油断を戒めるように、試練が訪れる。

 八階部分のガラスに到着したので、今までのようにガラス清掃をやっていると突然横風が吹きつけ、カゴがガラスから離れた。

 「うおおおお!?」

 一瞬でビルから離れ、驚いたぼくは固まって何もできなかった。――だが、ルイさんはすぐにサッシを握り、カゴが開くのを止める。

 「前押さえて!」

 ルイさんの誰何すいかに、身体が反応して手を突き出した。カゴが元の態勢に戻ろうと、凄い勢いでビルに戻っていく。そのままの勢いでガラスにぶつかれば、下手をしたらガラスが割れていたかもしれないほどの衝撃が、ぼくの腕に伝わり、多少ガラスに加わる衝撃を吸収することが出来た。カゴの揺れが収まる頃、心臓が爆発するんじゃないかと思うほど激しく慟哭どうこくしていた。

 「――いくで」

 「……!?」

 ルイさんは、何事もなかったかのように作業を再開する。あまりの大胆不敵さに、新人類を見るよな目でルイさんを見た。それすら気にするそぶりも見せず、ルイさんは黙々と作業を続けていく。

 「……ルイさんは、怖くないんですか?」

 「はあ? あんなんでビビってたらこの仕事やってられへんわ」

 ちょっと怒られぎみに言われて焦ったが、あんなのは普通の事なんだと、驚きつつ作業を続けた。それでも風が吹くたびに、先ほどの恐怖が頭をよぎり、ぼくだけ作業が止まる。高さの恐怖と風の恐怖が、作業に支障をきたしたせいで、午前中に六本しか作業ができなかった。

 ルイさん曰く、いつもより四本ほど遅いそうだ。

 「――さーメシにしようか」

 午前中の作業が終わりカゴから降りると、屋上面に足が着くなり崩れ落ちた。

 「大丈夫かぁーー西嶋?」

 「だ、大丈夫ですハハ……」

 言葉と裏腹に、フラフラな足取りでルイさんの後をついて歩く。よろめきながらもコンビニに向かう道、ルイさんがハイエースへと向かっていた。

 「ルイさん、今日はコンビニじゃないんですか?」

 「うちは今日から弁当や」

 「ええ、お弁当つくれたんですかああ!?」

 「失礼やな!」

 「あ、いや、そういう意味じゃないです」

 今までお弁当なんて作ってきたことなかったルイさんが、急にお弁当を作ってくるなんて……。まさか、男ができたんじゃないだろうかと焦った。そういえば、ルイさんに彼氏がいるか、ずっと確認できないままであった。

 「急にどうしたんですか?」

 「お金貯めようと思ってな」

 「何か買うんですか?」

 「まぁな」とそれだけ言って、ルイさんはハイエースへと向かった。

 ――お金を貯めて何を買うんだろう。結婚資金とかだろうか?

 コンビニへ向かいながら、色々考えネガティブな方に思考が進み、落ち込んでいく。

 ハイエースに戻ると、玉部さんが開口一番、初めてのゴンドラ作業についての感想を求めてきた。

 「風が吹いてきた時には、めちゃくちゃビビりましたよ」

 「初めてやと怖いわなぁ」

 「あんなんで怖いゆってたら、山さんとゴンドラ乗ったらチビるで西嶋」

 ルイさんが、かわいい弁当箱でご飯を食べながら話に加わってきた。

 「そんなに怖いんですか?」

 「絶対作業やったらあかんような強風の中でもゴンドラ降りるから」

 あんな風でも平気にしていたルイさんが怯える程の強風って、どんなものか、まったくイメージが湧かなかった。

 「俺もあるわ、とてもじゃないけどガラスの掃除なんてしてられない風で、ずっとサッシにしがみついてないとひっくり返りそうな強風の中でも降りはるからな」

 「そうそう、一瞬風が止んだ隙をついて降りていくとか、鬼のような人やで」

 「あの強風はヤバかった。作業中止にしても、昇るにはサッシから手を離さなあかん、でも離したら強風にあおられてひっくり返りそうになる。早く屋上に逃げたいけど逃げれないというジレンマの中で、じっとサッシにしがみつく恐怖……もうコリゴリやな」

 「なんでそこまでやるんですか?」

 普通に感じる疑問をぶつけてみた。

 「日程もあるんやけど、道路使用許可証の関係もあるからな」

 ゴンドラ作業で、ビルの外面部分が公道にかかる場合は、通行人の安全を考えて塞がなければならない。そういう時には、警察署長等の許可が必要となり、それを取る為に二千五百円払うそうだ。そして、その有効期限が七日しかないのであった。道路使用許可証についてルイさんが教えてくれた。

 「たった二千五百円をケチる為に、うちら命がけでガラス清掃してるんやと思うと安い命やと思うで」

 「まったくやなぁ」

 半分冗談ぽくいっているが、確かに理不尽な話である。

 「西嶋も山さんとゴンドラ乗るときは、覚悟しといたほうがええで」

 ガラス清掃って、そんな覚悟を決めてやらないといけないものかと疑問に思ったが、ルイさんとだったらいいかと、一人ほくそ笑む。

 ――お昼休憩も終わり、玉部さんと千石さんはビルの内部作業に向かい、ぼくとルイさんは、ゴンドラ作業の続きで屋上へと向かう。エレベーターの中で、昼からは少しペース上げないと日が暮れる、とハッパをかけられた。

 屋上に行きルイさんがカゴに乗り込み、続いてぼくが乗り込もうとした時、パラペットで足が滑り前後不覚となった。

 ――気が付くと、ぼくの身体はビルの外に出ていた。

 「うわあああああ!?」

 足が宙に浮き、身体が不安定に揺れている状況に、目の前が暗くなりパニック状態となった。

 「暴れるな西嶋!」

 その声に顔を上げると、ルイさんがカゴから半分身体を乗り出して、ぼくを捕まえていてくれた。

 「ルイさん! ルイさん!」

 落ちたくない一心で、ルイさんの腕を力一杯握りしめる。恐怖なんて生易しい言葉では言い表せない怖さが、全身を駆け抜け、胃液が逆流してきそうな気持ち悪さが、内臓を激しく揺さぶる。よく映画やドラマやアニメなどでこういう場面を見たりするが、知識として知っているのと、実際に体験するのとではまったく別物だということが、このときはじめて分かった。

 「……絶対助けるからがんばれ!」

 ルイさんはお腹が圧迫され、苦しそうに声を絞り出しながらも励ましてくれた。

 「ゴンドラ操作できたらええんやけど……」

 そうなのだ。ゴンドラを動かしてカゴを中に入れれば、ぼくを引き上げる必要はないのだが、ぼくを掴んでいる状態では操作ができないから困っていた。何かいい方法はないか考えている間にも、徐々に、ルイさんの身体が引っ張られるよう乗り出してきた。このままだとルイさんまで落ちてしまう。

 「……ルイさん放してください」

 震えた声で絞り出すように言っう。死ぬのが怖くないわけじゃないが、ルイさんまで道連れにはしたくない。

 「……アホか……目覚め悪なるわ」

 そういうと、ルイさんはさらに強く捕まえてくれた。

 「でも……ぼくルイさんを巻き込みたくないです」

 「……しっかり巻き込まれてるちゅーねん……」

 風が吹くたびに股間がスースーして、こんなに縮こまったのは初めてじゃないかと感じるほど、背筋が凍りつく。

 「ルイさん、もういいですありがとうございました!」

 「縁起でもないこと言うな! ……それより死ぬ気があるんやったら一分、いや三十秒、一人でカゴに捕まってれるか?」

 ルイさんは何か思いついたのだろう――ぼくは理由も聞かずにそれに乗ろうと思った。そして、どこか持てるところはないか見てみると、側面にちょっとしたでっぱりがあるのを見つける。そこを持っておけば、三十秒ぐらいなら持ち堪えれそうだった。それを伝えると、そこに捕まってろと言われる。実際持ってみたが、思ったほどのでっぱりではなくて、すぐに手が離れそうなほど、心許なかった。

 「じゃ、うちは手を離すで」

 「いつでもどうぞ」

 「絶対助けるから諦めんなよ!」

 「はい!」

 とにかくルイさんに迷惑かけたくない一心で、でっぱりに捕まる。ルイさんが手を離す。その瞬間、両腕に自分の体重がずしりと乗しかかり、身体が下に引っ張られた。自分だけで捕まっているのは思ったよりきつく、すぐに限界を迎えそうな気がした。このままじゃ三十秒も捕まっていられないかも――いや、無理だ。と諦めが、ぼくに頬ずりしてきた。

 「……もう落ちそう!」

 「もうちょっと頑張れ!」

 ルイさんの声だけが聞こえ、その声を励みにしがみつく。それはまさに、生への執着であり、ルイさんの為にも食らいついてでも生きてやるという思いが、限界を迎えているだろう腕に力を与え続けた。

 「動かす、しっかり持って!」

 振動と共にカゴが動く。その振動は限界を超えていたぼくの腕に、さらなる負荷を与えた。手が剥がれそうになり、慌てて握り直そうとしたが、振動がぼくの手を振りほどこうとするように動く。

 ――――手が離れた。

 心臓を、氷の手で鷲掴みされたような冷たさと苦しさを同時に味わい、死が頭をよぎった。

 ――体を打ち付ける音と衝撃が全身を突き抜け、目の前が真っ暗になるのを感じた。

 「――大丈夫か西嶋!?」

 頭上からルイさんの悲鳴に近い声が聞こえた。一体何が起きたか分からず、呆然としていたが、聴覚は機能していて、ゴンドラが動く機械音が鼓膜へと届いていた。

 ――生きてる?

 そう思った途端、止まっていた呼吸が再開し、身体が激しく酸素を欲する。ぼくは急いで酸素を取り入れると、心臓も未だかつてないほど激しく脈打っていた。

 「頭打ってないか? どこか痛いところあるか?」

 ルイさんが心配そうに見つめていた。ぼくはルイさんの顔を見て、ようやく自分が助かったのだと理解した。安堵の気持ちが広がると同時に、恐ろしかった思いも込み上げ全身が震えだした。

 「立てそうか?」

 ルイさんの言葉に、首を振るだけで精一杯だった。足に力が入らず、震えすら自分で止めることができない有様だ。それでもぼくは、生きていると助かったんだという気持ちがジワリと湧き上がってくる。

 「よかったぁ~」

 ルイさんもその場にへたり込み、安堵の吐息を深く吐き出した。

 「……す、すみませんでした」

 ようやく声を出せたが、その声も消え入るような小さなものであった。

 「しっかり面倒見てなかったうちが悪かった」

 申し訳ない表情を浮かべるルイさんに、全力で首を振って否定する。それを見たルイさんは、疲れた笑顔を浮かべる。

 「――西嶋はそこで休んどき」

 ルイさんは立ち上がると、カゴに乗り込もうとしていた。ぼくも作業に戻ろうと立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。

 「ちょっと待ってください、ぼくもいきます」

 なんとか立ち上がろうと、近くにある鉄のレールに手をかけて身体を起こそうとしたが、それでもダメだった。

 「ええから、ゆっくりしとき!」

 ルイさんはちょっと強めに言うと、カゴに乗り込み動かしだした。

 悔しいが、今のぼくでは足手まといでしかないと思いルイさんを見送る。

 ルイさんが見えなくなった途端、涙が溢れだしてきた。慌てて涙をぬぐったが、それでも次々と涙が溢れてきた。

 ――本当に怖かった。

 高い所は危ないと認識していたが、どこか慢心していたのだろう。そんな自分が腹立たかった。ぼくだけならまだしも、ルイさんまで巻き込んで、死なすところだったと考えると悔しくて、情けなくて、涙がとめどなく溢れてきた。

 ――それから、内部の作業が終わった玉部さんと千石さんが合流して、三人が交代でカゴに乗り込み、今日の作業を終わらせてくれた。


 「……すみませんでした」

 四人でゴンドラの片づけをしながら、ようやく謝ることが出来た。

 「うちも初心者相手に不注意やったわ……」

 ルイさんが申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 「ぼくが不注意やったんです。ルイさんは悪くないです」

 その言葉にルイさんは何も答えてくれなかった。

 「無事やったからよかったやないか」

 玉部さんに軽くヘルメットを二回叩かれた。その後は、みんな黙々と片づけを終わらせ、ハイエースに乗り込み事務所へと戻った。

 「――社長ちょっといいですか」

 ルイさんは倉庫で、「うちが社長には話すから」と言い、今、社長と奥のソファーで話をしている。

 「西嶋君こっちきて」

 社長に呼ばれ、ぼくもソファーに座った。

 「この仕事は危険なことが多いから気を付けなあかんって、口が酸っぱくなるほど言ったよね……今回は大きなケガはなかったからいいけど……」

 社長の口調は穏やかだが、眉間に皺をよせ、かなり怒っている様子が窺えた。

 「うちがついていながらすみませんでした」

 隣に座るルイさんが深々と頭を下げるのを見て、ぼくは胸が苦しめられるような気持ちになり、自然と言葉がこぼれた。

 「ルイさんは悪くないです。すべてはぼくの不注意です。すみませんでした」

 「うちが社長から任されたのに、こんな事が起こったんやからうちのせいや!」

 「いや、ルイさんはよく面倒を見てくれてます。それを聞かなかったぼくが悪いんです」

 ここは絶対に譲ることはできないと、睨んでくるルイさんを真っ直ぐに睨み返す。

 「うちが今日の責任者や、下の者の責任はうちの責任なんや!」

 「不注意やったんはぼくなんやから、ぼくの責任です!」

 「いい加減にせいよ! うちの所為せいやゆうたらうちの所為やボケ!」

 ルイさんはぼくの胸倉をつかみ、脅すように言ってきた。それでも引かなかった。ここで引いたら、男として情けなさすぎると最後の意地でルイさんを睨み返した。

 「なんと言われても、ぼくは引き下がりませんよ!」

 「上等や!」

 「ストップストップ!」

 今にも殴りかかりそうだったルイさんを、社長が止めてくれた。

 「新人のクセに生意気言いやがって……」

 社長に止められてもルイさんは、不満をタラタラと零しながら横目で睨んできた。めちゃくちゃ怖かったので、目を逸らす。帰りに殴られるんじゃないかと、本気で心配になった。

 「まぁ、二人ともいい経験になったみたいやし、この失敗を今後に生かしてくれたらええからな」

 「……わかりました」

 ぼくとルイさんは異口同音に発した。

 「西嶋君はどうや?」

 立ち上がろうとしたぼくを、社長は意味不明な言葉で呼び止める。

 「どうとは?」

 「ゴンドラ乗れそうか?」

 ゴンドラという言葉だけでも、過剰に体が反応を示す。多分、今すぐにはゴンドラに乗れないだろう――でも、このまま乗れなければ、自分の責任だとルイさんは思うかもしれない。そんな負い目をルイさんには持って欲しくなかった。だからこそ、ここは毅然と言わなければならないという思いが、ぼくを衝き動かした。

 「……今すぐには無理かもしれませんが――慣れていけば大丈夫だと思います」

 「そっかそっか……慌てんとゆっくり慣れていけばええからな」

 社長は笑顔を浮かべ、ぼくの肩を叩いて応援してくれた。


 ――無事に家に帰れてホッとした。

 ベッドに横になれた、それだけで感動し胸を一杯にした。今回はいい経験が出来たとポジティブに考え、この体験をマンガに活かせないかとアイデアを練った。そこで辿り着いたのが、掃除屋で働く主人公を描く物語であった。実体験を基にしたストーリーなので、リアルに描けそうだと思った。そうなると、ルイさんを出さないわけにはいかない――ルイさんをどのポジションで描くかが重要であった。しばらく頭を悩ませていたが、一つしか思い浮かばず、それが良いのか悪いのか、最後の判断は、やはり奴しかいないと電話を手にする。

 「お前、またくだらん恋愛相談だったら切るからな!」

 電話に出るなり、井上は脅し文句を吐く。

 「大丈夫やマンガのアイデアの相談だよ」

 「それじゃ聞こうか」

 思いついたことを、とにかく手当たり次第話して聞かせた。それを黙って聞いていた井上は、長い沈黙の後ようやく口を開いた。

 「ベタにいくなら掃除屋を舞台にした恋愛もの、他は掃除屋の日常を面白おかしく描くコメディーもの、掃除屋の暗部を通して会社の闇を描く社会派ものなどかな……お前の話聞いてるぶんじゃ、恋愛ものが妥当じゃないか」

 「やっぱりそうかぁ」

 「なにがやっぱりそうかぁだ! それしか頭にないって話しっぷりだったぞ、しかもお前の好きな先輩を出したいだけの気持ち悪い妄想垂れ流しのマンガだろうが!」

 自分でも気づいていたが、そこまではっきりと言われると深く傷つく。

 「そんなに気持ち悪くないやろう?」

 「めちゃくちゃ気持ち悪りぃよ! 犯罪者予備軍だよ! ――だけど、その分思いが強く伝わるんじゃないか」

 思いもよらぬ言葉に驚いた。

 「逆に気持ち悪いわ……」

 「失礼やな! 寝る!」

 あっさり切られてしまった。

 それでも、井上の言葉でなにか手応えのようなものを感じたぼくは、掃除屋と恋愛ものをコラボさせたマンガを描き進めようと決めた。

 ――それからマンガのアイデアを練り込み、仕事では、お昼休みなどに屋上へ上がり、高い所に対する恐怖を克服する特訓を繰り返した。

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