第4話 ロープにぶら下がって、清掃をしてみた。

 ――プライベートを垣間見た次の日から、ルイさんはいつも通り仕事をこなしていた。そんなわけだから、ぼくも何事もなかったように努めた。

 そんなある日――ついに、ロープデビューする日が決まった。心の準備はしていたつもりだが、実際にロープを降りる日を宣告されてからといもの、ずっと、食事が喉を通らず、前日は緊張で眠れなかった。

 ――そして、現場に向かう道中もキリキリと胃が痛み、吐きそうなほど気持ち悪く、逃げ出したい気分でハイエースに乗っていた。

 現場に着くと、見事な快晴でロープを降りるには最高だ! と、上機嫌いルイさんが呟く。そう、ゴンドラに続いて今回も、ルイさんからロープを教わることになっていたので、逃げ出すわけにはいかなかず、引きつった笑顔をぶらさげ強がって見せる。

 屋上に上がる前に、ルイさんから色々な注意事項を聞く。そして、今日から、ぼくが使う事となるロープ一式を渡された。

 それは、めちゃくちゃ重く、その重みと重圧で押し潰されそうになる。前にロープ三本を持ったことがあったが、そのうえ、ベンチとバケツを持ってみて、さらに重さが増す。これだけの量をいつも平気な顔で担ぎ、屋上まで行っていたのかと思うと、ルイさんと肩を並べる職人になるためには、まずは筋トレからだと思った。

 今日はロープデビュー戦なので、六階ほどの高さのビルで行われる。まずは、ロープセット一式を担いで、エレベーターに乗り最上階の六階まで行く。そこから非常階段で屋上まで昇るのだが、このワンフロア分の階段を、ロープセットを担いだ状態で昇るのは、かなりの苦行だった。

 「重たぁ~」

 息を切らせ、なんとか屋上まで辿り着いた。

 ここの屋上は、室外機以外の物は柵だけしかなく、とても見晴らしがよかった。ルイさんの案内でロープの降りる位置まで行くと、そこに丸環と呼ばれるビルの屋上に突き刺さった金属製の輪があった。この丸環の使用用途としては、外壁や窓の清掃・補修を作業員が行う際に、命綱として使用するロープを固定するために結び付けて利用するものである。

 「この丸環がうちらの命綱やから足で蹴ったり、手で引っ張りしてグラついていないか確認するように」

 そういうと、ルイさんは丸環に恨みでもあるのかというほど、思いっきり蹴り飛ばしていた。安全を確認したあとは、講習で教わったように結ぶだけだが……。

 「上から覗いて、自分の降りる場所を確認する」

 実際に、ルイさんがビルの屋上から上体を出して覗く。ぼくも習って覗こうとしたが、なにもない状態でビルの屋上から下を覗くと、まるで下に引き込まれるような感覚となり、とても恐ろしかった。ルイさんを見ると体の半分は外に出ていて、どの位置かしっかり把握しようとしていた。ぼくももう一度見ようと試みる。

 「場所分かったか?」

 ルイさんの声に驚き、バランスを崩しそうになった。臓器がふわりと浮く感覚を味わい、ヒヤリとした。そんなぼくの安全帯を、ルイさんが後ろから握り支えてくれた。

 「あ、ありがとうございます」

 自分の降りる場所を確認したら、次にロープを降ろしていく。

 「この時も下を気にしながら降ろすんやで、どこかにひっかるかもしれんし、少し風が強いと、それだけでロープが持っていかれて、バリケードの外にはみ出て通行人に当たる危険もからな」

 ルイさんに言われ、慎重にロープを降ろしていく。そして確認の為に下を覗く。するとロープの重みで身体が持っていかれそうになり、またまた、ヒヤリとする。心臓が、警鐘を鳴らすように激しく脈打つ。ロープを垂らすだけでも危険と恐怖が伴い、まるで五十メートルを、全力で走ったほどの疲労感を味わった。

 「こんなところなんて安全な方やで、キャットウォークぐらいの狭い場所から、ロープを降ろして乗り込むような現場もあるからな」

 キャットウォークとは、劇場や工場施設の上部、ダムや橋梁などの高所などに設置される簡素な造りで、人一人がギリギリ通れるほどの狭い通路の総称をいう。それほど狭い場所で、ロープのセットをするなんて想像しただけで震えてくる。

 「最後にちゃんとロープが地面に届いているかを確認する。これを怠って地面まで届いてないこともたまにあったりするからな」

 「そんな時どうするんですか?」

 イメージができなさすぎて素朴に尋ねみた。

 「届いていない長さによるけど、脚立で助けてもらうか、二階の部屋に入れてもらうか、しかないけど、めっちゃ恰好悪いで」

 意地の悪い笑い方をする時のルイさんは、そんな現場を目撃したことのある場合が多い。

 「千石さんが一回やってな、二階のテナントに入ってうちが助けてたんや」

 最近はルイさんの笑い方で、どれだけ格好悪いことなのか分かるようにもなった。

 ぼくは、そんな恥ずかしい思いをしないよう、慎重にロープが届いているか確認をする。

 メインロープを降ろした後、万が一メインが切れたりほどけたり、何かアクシデントがあっても大丈夫なように、補助的なロープを垂らす。

 「この補助は絶対にメインと同じ所で結んだらあかんからな」

 それは、メインと補助を同じ丸環で結んでしまうと、その丸環に問題があった時には補助の意味をなさない。だから、補助はメインと違う所で結ぶ。

 「それじゃ、ベンチを吊ろうか」

 一度ルイさんが手本を見せてくれた。ぼくにもわかるようにゆっくりとやってくれた。そして、ぼくの番だが、わずかにロープを引き上げるだけでも重く、上手くベンチを引っ掛けることができなかった。

 「そんな時は、足でロープを踏んでやるんや」

 ルイさんに言われ、ロープを踏むと引っ張られる感じがなくなり楽に作業が出来た。そして、間違いなく下降機にロープを通し、ベンチを吊るすことが出来た。

 「ベンチを外に出す時、落ちないかドキドキしますね」

 「そやろう、こんなの落ちたら大変なことになるからな」

 こうして、ベンチが宙を浮いている事自体不思議な感覚だった。ルイさんの話ではロープの重みでベンチが落ちないらしい。

 「じゃ、乗り込もうか。安心し見といたるから!」

 胸を逸らしてルイさんが言い放つ。ぼくも覚悟を決めて行くことにした。まず、乗り込みに失敗した時に落ちないよう補助ロープにロリップをとりつける。このロリップというものは、昇降中の墜落防止に使用するもので、最終安全装置である。

 ルイさん曰く、「これを使うような場面にあったら、引退考えるわ」というほど、活躍の場面はないらしいが、それでもないよりはあるほうが、気分的に全然違うそうだ。

 そして、いよいよビルの外にあるベンチに乗り込むのだが、これはかなりの勇気がいる。なんといっても、身体をビルの外に出して宙ぶらりんのベンチに座るのだから、一歩間違えればまっさかさまに落ちる。下手なジェットコースターやバンジージャンプなんかより恐ろしい。

 「大丈夫や、補助もとってるから、万が一にも落ちることはない」

 真剣な顔だが、どこか楽しんでいる様子のルイさんに、少しの不安を覚えた。

 「ぼくが死んだらお葬式来てくださいね」

 「行ったる行ったる! めっちゃ線香焚いたるわ」

 「ルイさん楽しんでるでしょ!?」

 「楽しんでる訳ないやろ!」

 思いっきり背中を叩かれ、落ちるかと思った。

 「マジで、こんな所でやめてくださいよ!!」

 半分泣きそうに抗議をした。それを見たルイさんは、笑いを堪えるのに必死そうにしていた。そんなルイさんを少し睨みながら、ビルの縁に座る。よくビルの屋上から飛び降り自殺を図るとかいうのを聞いたりするが、実際にビルの縁に立って分かった――飛び降り自殺って、めっちゃ怖い。この高さは普通に怖気づくと心の底から思った。もし、自殺しようと思うことがあっても、飛び降りは選択しないと断定できた。

 「――いつまで固まってんや!?」

 ルイさんの言葉で我に返る。そして、意を決して右足をベンチに伸ばす。右足がベンチに届いたのを確認すると、次に左足を伸ばしてベンチに辿り着く。これによって、ぼくは宙ぶらりんのベンチに立っている状態となった。これほど下半身が不安定で風が抜けるのを感じたのは、ゴンドラから落ちそうになった時以来だった。風が大事なところを優しく撫でると、キュッと縮こまった。

 「そこから、左右どっちの足でもええからベンチを後ろに下げて逆の足を通す」

 何を言っているか理解できず、言葉も発することが出来ないぼくは、何度も首を左右に振った。

 「はぁ~、講習で教わったやろ……それを思い出してみ」

 脳みその引き出は、真っ白なモヤがかかり、それを追い払い記憶の引き出しを探す。ようやく引き出しを見つけ開けてみると、確かに収まっていた。一度呼吸を整え、思い切ってその通りに足を動かしベンチに座った。

 「で、できた!」

 嬉しさのあまり、固く閉じた口から言葉が漏れた。

 「やっと座ったか、ちょっと待ってなうちも乗り込むから」

 ルイさんは、まるで動きの遅いカメを嘲笑うウサギの如く素早さで、準備をすませるとベンチに乗り込んだ。

 「それじゃ降りようか」

 講習で教わったように、ロープを上に持ち上げる。すると、急に体が落ちて、素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。

 「ええか、急に落ちんように右手でロープと下降機を軽く持ち、左手でゆっくりロープを引き上げたると大丈夫や」

 そう言うと、滑らかに降りていく。ルイさんのアドバイスと講習の経験を活かし、もう一度やってみると、ルイさんほど滑らかにではないが、安全に降りることが出来た。ちょっと嬉しくなりどんどんと降りていく。

 「ほら、ガラス現れたで掃除しいや」

 気が付いたら目の前にガラスがあったので、シャンプーを握り塗布した。そして、スクイジーに持ち替えガラスをきろうとしたが、体が不安定で上手くスクイジーを動かすことが出来なかった。その横で、ルイさんは左右に振りながらガラス清掃をしていく。

 「足を上手く使うんや」

 ルイさんがお手本を見せてくれた。それを見よう見真似でやってみると、さっきより体が固定されガラスをきることができた。

 「よっしゃ、次行こうか」

 ルイさんは、まるで落ちるように降りると、五階部分のガラスの清掃作業に入った。ぼくはゆっくり、ゆっくり目の前の壁を見つめながら降りる。ようやく五階部分のガラスに辿り着いた時に、部屋の中の人がこちらに注目しているのに気づいた。その視線が気になり、あたふたとしていると中の人が笑っていた。

 「さっき教えたように足を使って!」

 気が付くと、腕だけで作業をしていた。体全体を使ってバランスを取り作業をしないといけないんだと思い出した。終わった時には、中の人が微笑み手を振ってくれたので、小さく会釈をする。それだけでも、なんだか嬉しい気分になった。

 ――そんな作業を繰り返して、ようやく一本作業が終わり地面に辿り着く。その頃には、精神的にくる疲労と普段使わない筋肉を使い、体全体が疲労困憊していた。

 「お疲れさん」

 先に降りていたルイさんが、ジュースを買って待っていてくれた。

 「いや~見た目以上に疲れますねぇ」

 今にもその場に崩れ落ちそうになったが、男のプライドで支える。

 「こんなのも慣れやよ、それ飲みながら休憩してな」

 そういうと、ルイさんは自分のブランコを担いでビルの中へと消えていった。負けまいと後を追おうとしたが、ルイさんが見えなくなった途端、男のプライドがどこかに消えて、無様に片膝をついて座り込む。とりあえず貰ったジュースを飲んでから追いかけることにした。

 ――そんな調子で、ぼくが一本ロープ作業を終わる頃には、ルイさんは二本作業を終わらせていた。今あるこの差も、いつか必ず追いついてやると思いながらロープ作業を続けた。

 「疲れたぁ~」

 午前中を終えただけでこの疲労感はハンパなかった。足腰が笑って、無様な格好で歩きコンビニまで辿り着いて弁当を買う。ハイエースに戻ってきた頃には、弁当組は食べ終わっていた。

 「ロープ作業って、こんなに疲れるものなんですね」

 「普段使わん筋肉を使うからね」

 千石さんが、ぼくのボヤキに相槌をうってくれた。

 「ロープで大変な思い出ってあります?」

 「千さんは、ロープが届かなかった事件があるよね」

 ルイさんが話に加わってきた。

 「それどうだったんですか?」

 「あれは焦ったよ~。ロープが途中でなくなってるんだもん」

 笑いながら話す。

 「それでどうなったんですか?」

 「ルイちゃんが二階のオフィスに入ってそこから脱出できた」

 運転席でルイさんが忍び笑いをしていた。

 「うちもロープで焦ったことあったわ」

 「ルイさんが? どんなことですか」

 かなり興味があったので、乗り出し気味に聞き入った。

 「ロープで降りている時に髪の毛が下降機に絡まって、動けなくなった事があって、焦ったわ」

 「どうしたんですが?」

 「更に降りようとしたら、どんどん髪の毛が巻き込まれるから降りれないし、上に戻る事も出来ないから、最終的にケレンで髪の毛をゴッソリ切って助かった」

 「それ、大変でしたね……」

 女の人が髪の毛を切るなんて辛い事だろうなと思った。

 「見た目そんなに変わらへんかったから、しばらくそのままやったけどな」

 豪傑のように笑い声をあげるルイさんに、少し同情した気持ちを返して欲しいと思った。

 「前に社長から聞いたんだけど――消火栓にあるホースをロープ代わりに降りたことがあるって言ってたよ」

 「そんなことできるんですか!?」

 「さすがに嘘だろうけど、どこからそんな嘘がでてきたのか不思議でね」

 千石さんのいうとおりだ。ウソをつくにももっと上手くやるだろうし、そのウソはどこからでてきたのかもわからない。

 「あのじいさん、意味わからんからなぁ」

 「それ分かる気がします」

 いつも、なんの前触れもなくゴンドラ免許やロープ講習などをぶち込んでくる人だから、多分思い付きで生きているんではないだろうかと、勝手に思ってしまう。

 色々なロープの珍事件を聞いた後、作業を再開した。まだ疲れがとれきっていないが、頑張ってやるしかなかった。

 「昼一番の作業が事故率高いから気をつけてな、十分作業は終わるから焦らんとやりや西嶋」

 「分かりました」

 ルイさんが気を使って言ってくれた言葉は、ぼくの心の負担を軽くしてくれた。ここでぼくが、怪我をするわけにはいかない。十二分に注意を払い午後からの作業を頑張った。

 ――すべての作業が無事に終わり、ようやく拘束された感のある全身ハーネスを外し解放感に感動する。あとは、ロープの片づけに屋上へと上がる。ルイさんが先に片づけを進めていた。

 「どうでしたルイさん、ぼくのロープ作業?」

 仕事っぷりが心配になり、ルイさんの顔を見ると自然と口を開いて聞いていた。

 「初日にしてはようやったんちゃうか」

 ――やっぱりその程度の感想か……。

 分かっていたが、やっぱり悔しい思いが込み上がってきた。でも、実際ロープを降りてみて分かったことはあった。それは、他では味わえない浮遊感と生の高さを味わえる事で、最高に気持ちよかった。それに、ルイさんはやっぱり格好良かった。

 「憧れのロープやってみてどうやった? やっぱりええか?」

 「はい、やってみてロープもルイさんも好きです」

 ますますこの仕事が好きになった。それにルイさんの事が好きだと再確認できた。

 ――あれ、今、何を口に出した?

 ルイさんの顔を見ると、口が大きく開き、目も落ちるんではないだろうかというほど見開かれていた。それで、好きだということを、口に出して言っていた事に気づいた。

 「――あああ、あの、その……」

 誤魔化す言葉が浮かばず、ルイさんと目を合わすこともできず、ただただ狼狽える。そんなぼくとは対照的に、ルイさんは寡黙にロープを引き上げだした。狼狽えていたぼくも、とりあえずロープを引き上げる。

 ロープをこする音と街の喧騒だけが響く屋上で、黙々とロープを片づけていく。

 片付け終わってもルイさんは、一言もしゃべらず、ましてやぼくと目も合わせずにロープを担いでさっさと降りていった。

 ――終わった……。

 ぼくの告白を無視するってことは、暗に断っているのだろう。目の前が真っ暗になり、消えてなくなりたい気分となった。

 帰りのハイエースの中では、疲労と絶望が混濁した気持ちで心が覆われ、後部座席でレム睡眠のような状態で座りながら、流れゆく景色を見送る。

 結局、倉庫でも事務所でも、ルイさんは一言もしゃべってくれなかった。家に帰りつき、自然とスマホに手が伸びて井上に電話をしていた。

 「――ルイさんに告白した」

 「おおマジでか!? で、どうだった?」

 無邪気に傷口をえぐろうとする井上に罪はないのだが、それでも気分は落ち込む。

 「無視された――ずっと無視されたんだよぉ」

 「なんやそれ? どんな告白したんや?」

 すべてを話し終えてからも、井上は黙ったままだった。

 「……聞いてるんかぁ?」

 「ああ、きいてたけど……それって最悪なタイミングやな」

 「自分でも分かってる……」

 口が滑ったとしかいいようがないミスでの告白だったのは、重々承知していた。

 「とにかく、今は様子見しかないんちゃうか」

 「いつまでやねん?」

 「しるか! ルイさんも急に言われて驚いたんやろ、近いうちに返事してくれるんちゃうか?」

 井上に宥められ、とりあえずルイさんから返事してくれるのを待つことにした。


 ――次の日、ルイさんとは現場が違い事務所で挨拶をかわすだけで、告白については何も言ってってくれなかった。仕事前に振られたら仕事どころではなくなると思って、ルイさんが気を使ってくれたのだろうと思っていたが、事務所に戻ってもルイさんは、一言どころか目も合わせてくれなかった。そして、次の日もルイさんと現場が違い、また次の日も現場が違った。――もう、これは、避けられてるとしか思えない。ダメならダメだと言って欲しい。なんだか気持ちの整理がつかず、しばらくマンガも手につかなかった。

 そして、気が付けば、告白から一週間が過ぎていた。


 「――そりゃ、ダメやな……」

 「もっと優しい言葉ないんかい」

 「俺が代わりに引導を渡してやろうとおもってな」

 死亡フラグが立っている道を、延々と歩く鬱蒼とした気分を紛らわせようと井上に電話してみたが、やはり気分は晴れなかった。

 「ルイさんに直接引導渡されたいわ」

 「無視ってことは、同じ職場でゴチャゴチャするのも嫌やったんちゃうか?」

 井上の言っている意味は分かるが、それでもダメならダメとはっきり言って欲しい。そうじゃないと心の整理ができない。

 「あきらめた方がええんやろうか……」

 「マンガ描くためのいい経験ができたと思ったらええやん」

 本当に他人事のように言う井上に、電話越しに睨みつけてやった。

 「こんなんやったらヒロイン変えんと辛いわ」

 今描いているマンガのヒロインは、ルイさんに似ているので、描くたびに思い出して辛くなる。

 「ヒロインをめちゃくちゃにするってストーリーに変更してもええんちゃう」

 電話の向こうで、イヤらしい笑い声をあげる井上に怒りが込み上がった。

 「一緒に働いている先輩を、そんな惨い目に合わせるなんてできんわ」

 「冗談や」

 ――絶対冗談やなかったはずや。

 「それで、マンガどうするねん、もう一度はじめっからやり直すんか?」

 「……やり直すにしても時間ないしなぁ」

 目指している出版社の締め切りが、二か月しかなく、ネームもほとんどできている状態だった。これをボツにして新しく始めるとなると、また時間と労力がかかりそうだった。それに、このアイデアよりいいアイデアが浮かぶ自信もなかった。

 「今までの作品の中では最高やからなぁ、確かにボツるのはもったいないわ」

 「とにかく、マンガの方はもう少し頑張ってみるわ、ありがとな」

 「告白の方は残念やったけど、元気出せまた良い出会いはあるからな」

 最後に優しい言葉をかけてもらって、少しは気持ちが軽くなった気がした。――しかし、机の上に広がったネームを見ると、今までいかに自分が浮かれていたのか思い出され、それが滑稽に思えた。

 次の日、事務所に行きルイさんの姿を見たが、相変わらず目は合してもらえず気まずかった。

 「――今日は、うちと一緒や西嶋」

 夏の雷のように、唐突にルイさんから声をかけられ、弾けるように顔を上げた。目の前にはルイさんの輝く笑顔があった。何年も砂漠を歩き、ようやく見つけたオアシスのように、ルイさんの笑顔はぼくの心を潤してくれた。やっぱり、この女の人が好きなんだと改めて思った。そう思った時、フラれても仕事仲間として色々教えてもらったり普通に喋ったり、前みたいに戻れるものなら戻りたかった。だからこそ、このチャンスを活かして果敢に話していこうと試みる。

 「久しぶりですね」

 「そやな」

 「……二人現場なんてはじめてですね」

 「そやな」

 「……今日晴れてよかったですね」

 「そやな」

 ――会話が続かない。

 引き出しに収めている会話の量の少なさに、驚き絶望した。現場に向かうハイエースの中はルイさんと二人っきり、そのチャンスを活かすことが出来ず、重い沈黙が続いた。

 「……ロープ少しは慣れたか?」

 話題を頭で検索している最中に、ルイさんから話しかけられ、驚いて身体ごと運転席に向ける。

 「は、はい……でも、まだまだ緊張して動けませんが……」

 「数をこなせばそんなんも平気になるわ。でも、慣れた頃が一番危ないからきいつけや」

 「は、はい!」

 なんだか告白する前と変わらず接してくれるルイさん――それは、前と同じ先輩と後輩って関係ってことをルイさんが求めているんだろうと認めざるおえないのだと、この時はっきりとわかった。でも、それでも良かった。ルイさんの笑顔や普通に話ができるだけで、幸せなのだから――

 現場についてからも淡々と作業は進んだ。休憩中も普通に会話できた。そして、予定通り作業を終える。――これでいいんだと、何度も何度も自分自身に言い聞かせながら――

 帰りのハイエースの中、心に空いた穴の大きさに戸惑い、この穴を埋めるには相当時間がかかりそうだと感じた。そして、ぼくは、マンガのアイデアをボツにしようと思った。

 「――ちょっと寄り道してええ?」

 「は、はい……」

 今までそんなことを言ったことのないルイさんが、急にどうしたのだろうと思いながら助手席から流れる見慣れない景色を眺める。

 ――しばらく走ると、ある店の駐車場に止まった。

 「西嶋はどうする? 車にいるか?」

 「い、いきます」

 条件反射的に答えた。ルイさんについてお店に入ると、そこは清掃道具などを取り扱うお店だった。ルイさんは、慣れた足取りで店員の元へ行き、二言三言話すと店員は奥へと姿を消した。

 「何を買いに来たんですか?」

 「頼んでいたロープを取りに来たんや」

 ――なるほど、そういうことだったんだ。

 急に寄り道するっていうから何事かと思ったが、ただ荷物を取りに来ただけだった。少し何かを期待していたぼくは、うなだれるように展示されている道具を見ていた。

 「――どういうつもりやったんや?」

 色々な道具を見ていると、背後からルイさんが突然質問してきた。一体何について言っているのか分からず、記憶を辿っていると一つの答えに辿り着く。

 ――あの告白の事について聞いているのだと分かった。

 「ど、どうゆうつもりも……好きやから好きと言っただけです!」

 この時は、半ばヤケに似た気分で答えていた。

 「ちょ、バカ――」

 「おまたせしましたー」

 奥から店員が、赤いロープを抱え出てきた。ルイさんは慌ててそれを受け取ると、ぼくをせかしてハイエースに向かった。

 「あんなところで何を言いだすんや」

 「す、すみません」

 落ち着くと恥ずかしくなり、全身から冷や汗をかく気分を味わった。

 それからロープをハイエースに積み込んだあと、ルイさんが、ぼくの顔を見てボツリと呟く。

 「ジュースでも買いにいかへん」

 近くにある自販機へと、二人で並んで歩いた。

 「……そんなストレートに言われたん始めてやから、ビックリしたわ」

 自販機の横でジュースを飲みながら話す。

 「ぼくも告白みたいなことするのはじめてなんで……」

 「そやろうな、あんな雰囲気もへったくれもない場所で言うんやもんな」

 肩を小さく揺らしながらルイさんは笑う。ぼくもつられて笑った。

 「驚かせてしまってすみません」

 「ほんまや……でも、ちゃんとした場所で言われるより、なんぼかましやったわ、お蔭で考える事できたからな」

 ――考えるって、ぼくの告白に対する答えを今まで考えていたのだろうか? その結論がでたからこうして話をしているのだろうか――そう思うとジュースを飲んでいるはずなのに、口の中が砂漠の砂のようにどんどん水分を吸収して、カラカラに乾き、心臓は早鐘を打つように高らかと鳴って、ルイさんに聞こえるんじゃないかと心配になった。

 「前にも話したけど、うちみたいなもんでも彼氏がおったんやけど、このとおりの性格やろ、ようケンカばかりして、それが原因で別れたんや……」

 ルイさんは、どこか一点を見つめ、重々しく言葉を紡いだ。黙ってそれに耳を傾ける。

 「別れた時はめちゃくちゃへこんでしんどかったわ……。それで、この仕事に就いてからは、がむしゃらに頑張ってきた」

 恋愛ぐらいで落ち込むような人ではないと勝手に思い込んでいた。そのルイさんが、落ち込むほど元彼を好きだったのかと思うと、その男が羨ましくて妬ましかった。

 「――ルイさん……ぼく、まだまだ頼りないかもしれないですけど、絶対に幸せにします」

 「……プッ、なんやプロポーズみたいなセリフやな」

 確かに、そんなセリフだったと思い顔が熱くなるのを感じた。

 「で、でも、気持ちはそんな気持ちです!」

 後には引けず、突っ走ることに決めた。

 「……気が弱い癖に肝心なところでは男らしく、仕事もドジやけど、真面目にとりくんでるもなぁ西嶋は……」

 「ありがとう……ございます?」

 褒められたのか、小馬鹿にされたのか分からず疑問形で答えていた。

 「うちなんて、知ってるとおりケンカっぱやいし、女らしい事できひんし、年上やしそんなんでもええの?」

 夕焼けが、ルイさんの顔を赤く染める。そんなルイさんが可愛く見えて、愛おしく思えた。

 「ぼくこそ頼りないし、仕事も一人前やないし、年下やし……」

 「……うちがあんたのそういうとこが嫌や言たらあきらめるんか!?」

 厳しい目でルイさんが見てきた。それに対して、今までにないほどはっきりとした口調で答えた。

 「諦めません!」とまっすぐにルイさんの目を見つめた。

 その言葉にルイさんは満足してくれたように微笑を浮かべ、そっと唇を重ねてくれた。

 「ルルルルル、ルイさん!?」

 「オタオタすんな、こっちも恥ずかしくなるやろ!」

 ルイさんは、ぼくに背を向ける。急な出来事に、唇の感触を確かめたり、キスってどうやればいいのかと葛藤する前に終わっていた。残ったのは微かな柔らかい感触と缶コーヒーの味だった。

 「――帰ろうか」

 「……はい」

 こうしてぼくたちは、付き合うことになった。



 「――で、お前は仕事帰りに独り者の家で自慢話をしたいわけだな」

 「いや~、幸せの御裾分けしようと思ってな」

 自分でもしまらない顔をしているのが分かるぐらいニヤけていた。

 「……それで、今までルイさんがお前の告白から時間を置いたのはなんでや?」

 「あ、あれか……ルイさん曰く、同じ職場でみんなにバレて冷やかされるのが嫌やったのと自分の気持ちを確認するためやったらしい」

 「自分の気持ちの確認?」

 ルイさんは、少し離れることで、ぼくに対する自分の気持ちの動きを確認していたそうで、同情や寂しいだけで付き合うんじゃないという確かな気持ちが欲しかったそうだった。そして、自分の中での結論がついたところで、ぼくと話して最終確認をしたそうだ。

 「それはようござんしたね」

 「それはよかったんだけどな……」

 「……で、なんでお前は浮かない顔してんだよ?」

 さすがに、露骨に沈んだ顔をしていたら気づいたようだ。

 「帰りの車でルイさんが言ったんだ――」


 「――え? 今なんて言いました?」

 「うち来月に独立するから」

 ルイさんと付き合うことになって、人生のピークを味わっていると、後ろから背中を押され、崖から落とされたような発言を聞き、青ざめた顔でルイさんを見た。ルイさんの横顔は、独立に期待したまっすぐな表情をしていた。

 「……それって、ぼくと付き合うからですか?」

 しぼりだした言葉が、こんな情けないものに、自分でも嫌気がさしたが、でも聞かずにはいられなかった。

 「半分はそうやな……でも、西嶋も知ってると思うけど、うちは元々独立希望やったから、それは変わらんで」

 それは知っていたが、それでも半分はぼくのせいかと思うと、複雑な気分だ。

 「そりゃそうやろ、彼氏に敬語使われるなんて、うちは耐えられへんわ」

 ルイさんに笑顔で彼氏だと言われた事は嬉しかったが、離れるのは寂しかった。だけど、付き合っていくのにこのまま敬語ってのも変だと思った。

 「そ、そうですよねぇ……」

 「そうそれ、付き合ってる雰囲気あらへんわ」

 少し憮然とした表情のルイさんに、いつものように恐縮してしまう。

 「男やねんやからもっとしっかりしいや! 今から敬語禁止、呼び捨てで呼ぶように、分かった!」

 「わかりま――いたッ!? わかった」

 また敬語を使いそうになった途端、頭を叩かれた。これから何発叩かれるんだろうかと、本気で心配になった。

 「でも、仕事の時も敬語禁止なん?」

 「そんな器用なことできるんか?」

 「……自信ないわぁ」

 「やろ! まぁ、みんなに隠す事やないから敬語なしでいこうやイサオ」

 ルイさんが、ぼくの下の名前を呼んでくれたのはめちゃくちゃ嬉しかった。

 「もう一回呼んでくれへん?」

 「調子に乗るな!」

 また頭を叩かれた――


 「――そういうわけで、ルイと同じ職場じゃなくなるのが寂しくてな……」

 井上の部屋で、ルイが独立する事で寂しくなるぼくの気持ちを聞いてもらった。

 「……独り者の立場から言わせてもらうと――死ね!」

 「それ酷くね?」

 「アホか! 独り者に何を延々とノロケ話してくれてんねん、お前の方が酷いわ! さっさと帰れ」

 井上を怒らせ、追い出されるように帰途に就いた。

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