幕間

INTERMEZZO

 目の前に、緑があった。そして太陽の光が。そのまぶしさのせいか脳にひどい負荷を覚えて、アルミは光学センサーの感度を二段階下げた。


 緑は、通路の対岸に設けられた水気耕法プラントに過ぎない。食料供給と大気浄化の両方を兼ねて、何種類かの農作物がそこで栽培されている。

 太陽は、重力ブロックの天井を覆う高靭性ケイ素単分子ガラスキャンダイトのパネル越しに輝く、ピンの頭ほどの弱々しい光源でしかない。


 それでも――木星圏の暗闇の中、電力公社ステーションの冷たい壁に囲まれて育ったアルミにとっては、驚嘆すべき明るさと色合いだった。火星に降りて地表で活動したときにも、農業プラントの緑に目を瞠ったものだったが、ここではこんなにも近くに緑と光がある。


(キレイだな……みんなにも、見せてあげたかったな……)


 ステーションでの十年間で命を落としていった人々を想う。同年代の子供たち、絶望に打ちひしがれた大人たち。それに、コンテナにアルミを乗せて送り出してくれた三人。

 クレメンス爺さん、ラティマー女史――そして、グレッグ。


 それでようやく、アルミは脳にかかる負荷が何なのか気付いた。


(ああ。あたし、泣いてたんだね……)


 アルミはシルチス基地の重力ブロックに出て、通路沿いに置かれたベンチに腰掛けていた。

 全身義体のサイボーグに涙を流す機能はない。だが脳を浸すこの感傷――懐かしさと悲しみと感謝、そして一片のやましさがほとばしる状態を、ほかにどう言い換えればよいのか。


 アルミ・ロビンソンはいま、六億キロの彼方に思いをはせて、脳だけでひっそりと泣いていた。



 ――大丈夫ですか?


 女性のもののようだが抑揚にとぼしい声が、頭上から呼びかけた。アルミはうつむいていた顔を上げて、声の方を見た。


「とてもお疲れのようにお見受けします。ケアが必要なら予約の手続きをいたしますが。IDをお持ちですか?」


 奇妙なだった。


 体にぴったりと密着した水着めいた服に、頭には耳元から側頭部までを覆う、ヘッドセット様の物をつけている。髪の毛は薄く明るいエメラルドグリーンで、それを後頭部へ向かって涙滴形に撫でつけてある――アルミの目から見ても、明らかに普通の人間ではない。


「ウ、ウん、大丈夫よ……エっと、アなたは?」


「当基地所属の慰安用ガイノイドセクサロイド、N0030です。利用者の方からは『ミレイ』と呼ばれることが多いです」


「イアんヨウ……ガイノイド」


 知らない言葉だ。とにかく、このは基地の隊員や職員に何らかのケアをする役割を持っているようだが。


「スキャン完了、基地の人員データベースに該当なし。申し訳ありません、あなたは私のケア管轄外かもしれません」


 ――セキュリティに考慮して検索範囲を拡大、一時滞在者及び救助済み遭難者リストを含め再度チェック。


 ごく小さな音声でそうアナウンスするミレイの様子を、アルミは非常な興味をもって見守った。この幻想的な外見の女性は、つまりロボットの一種なのだ。どうやら本人自身に基地ネットワークの端末としての機能があるらしい。


「一件の該当者あり。アルミ・ロビンソン、木星圏からの脱出漂流者。公称十七歳、全身義体者フルボーグ――」


「ウん、それアたし」


「了解しました。女性向けサービス要員をお呼びするオプションも考慮しましたが、どうやら必要なさそうです。大変お邪魔――」


 ――アルミ!


 ミレイの肩越しに知っている声が聞こえた。アルミは作り物の顔を精一杯に動かしてそちらへ微笑んだ。


「ダルキースト中尉!」


 以前この重力ブロックで転んだところを助けてくれた――なによりもあの木星からの旅の最後に、決死の行動でヴィクトリクス号を守ってくれた人がそこにいた。

 軌道砲兵第三中隊の最先任パイロット、ジョナサン・ダルキースト中尉だ。アルミは今日ここで、彼と待ち合わせしていたのだった。


「やあ、アルミ。待たせたかな?」


「イエ、全然」


「タカムラ大尉経由で連絡を受けたから、ちょっとびっくりしたよ」


「すみません、アたしまだ、自分の端末とか、あカウントとかも持ってなくて」


 アルミはダルキーストに向かってぺこりと頭を下げた。


「仕方ない、上層部の方でも追加予算の名目をどうするかで頭を痛めてるらしいからなあ。まあ、端末はもうすぐ何とかなると――」


 そこまで言いかけて、ダルキーストは横に立っているガイノイドに気づいたようだった。


「ミレイ……!? なんでここに」


 愚問ではあった。ミレイたちセクサロイドは人間に準じる扱いで基地職員として登録され、ケア予約のアクセスを手続をものにするため、重力ブロック内を自由に歩き回るようにプログラムされているからだ。


 だが、年齢に比してあまりにも無垢なアルミの前で出くわすのは、いかにも避けたい相手だった。


「こんにちは、ダルキースト中尉。前回のご利用から八カ月と十一日になります。ケアのご予約はよろしかったですか?」


「い、いや……当分その必要はない――すまないが、ここは僕たちだけにしてくれ」


「かしこまりました。それでは」


 ミレイはセクサロイドに特有の優雅な足取りでその場を後にした。ダルキーストは深々と息をつくと、アルミの横に少し距離を開けて座った。

 セクサロイドに人間のような生の感情はない。ゆえにミレイの発言は何ら悪意のあるものではなく、純粋にプログラム上で発生する、事務的なものだ。


(だが、それだけにこの状況には致命的すぎる。立ち去ってくれて助かった――)


 今日は名目上、アルミからダルキーストへの「お礼」の意を込めたレクリエーションの提供、ということになっている。だが実際には、彼の方がいつかのようにアルミをエスコートして重力ブロックを歩き回り、彼女とのデートを楽しんで見せる、ということになる。


(やれやれ……クルベたちもひどい役回りを押し付けてくれるもんだ)


 ため息をつきつつも、傍らで嬉しそうな表情を作るサイボーグの少女を見ていると――なにやら浮きたった気持ちと、アルミに対する優しい感情がわいてくるのに気づいてしまう。


「さてと、まずはどこに行こうか?」


 そう水を向けたが、アルミ自身は、今しがた出会ったセクサロイド――自分の義体のベースともいうべき存在のもつ、役割と機能に興味津々といった感じだった。


「慰安用ガイノイドってイってましたけど、は皆さんにどんなケアをするんでしょうか?」


 勘弁してくれ、とダルキーストは内心で頭を抱えた。


 アルミは恋とか結婚とかの意義と意味を、恐ろしくまじめに真剣に捉えて、憧れている――クルベたちからそう聞いている。

 そんな少女に、その恋とか結婚に伴う性的な事柄や、成人男女の生理的なレベルでの欲求と、非情にもそれだけを切り分けて処理させる軍のやむにやまれぬ方策について、きちんと説明できる言葉もその自信も、ダルキーストには今のところなかった。


「まあ、あれだ……こんな風にデートをしたりして、寂しい気持ちやささくれた気持ち、悲しさを、少しだけ薄めてもらうのさ。だから――今日の僕にはミレイたちのケアは必要ないんだ」


「そっか」


「ああ、今日は君がいてくれるからね」


「よかった! ダルキースト中尉、今日はゆっくりオ散歩を楽しみましょウ」


「……もちろん。そうだな、例えば――その辺で何か食べてみるかい?」


「エへへ……アたし、ケーキってのを食べてみたイんですよ。タルシスキャンプでのパーティーには、そウイウのは出てなかったんです」


 お安い御用さ、と請け合って、ダルキーストはアルミを少し歩いたところにある喫茶店へ案内した。彼自身はあまり甘いものは好みでないが、ここのメニューでも砂糖を控えたココア生地のパンケーキくらいなら付き合える。


 アルミはと言えば、冷凍品の真っ赤なイチゴを飾った、スタンダードなショートケーキを注文した。

 イチゴショートに限らずだが、ここのケーキはスポンジ生地を手作りしている。フォークで押さえてもつぶれずにさくりと切れる堅牢さと、その反面に卵をふんだんに使った生地ならではの柔らかさと香ばしさが売り物だったはずだ。


「最初がここじゃあ、もう安物のケーキは食えなくなるかもな」


「そんなに違ウんですか」


「あまり詳しくないけど、店の数だけ違いがあるよ」


「だったらアたし、安イのも高イのも全部食べてみたイです」


 小さな声で「元の体に戻ったら、きっと」とアルミは付け加えた。


 どうにもいい受け答えが思いつかなくて、ダルキーストは店内に設置されたTVモニターに視線を向けた。

 丁度、ニュース番組をやっていた。地球の北米大陸、カリフォルニアで開かれている統合政府の議会の模様が映っている。


「あれ?」


 ダルキーストは画面の中に思いがけないものを見て、しばしそれを凝視した。一月にシルチスから月経由で地球へ向かった、ヴィクトリクス号の情報士官――ナサニエル・オースティン准尉が、議員バッジを付けた年配の東洋人のすぐそばに、目立たないように腰かけていたのだ。

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軌道砲兵ガンフリント 冴吹稔 @seabuki

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