桜の舞う世界に
***
目覚めた時、視界は真っ暗な闇だった。
身体を起こそうとするが、堅い床にずっと寝そべっていたせいか、あちこちに痛みが走った。
同時に空間には明かりが灯される。俺の動きに反応して魔法が起動したのだろう。
暖かい色で空間が映し出される。無機質で静寂な場所。俺の後ろでは幽閉番人が呼吸でもしているかのように静かに回転していた。
どうやら、ミトラスの残照を飲み込み終わったところで、深層心理の世界から追い出されたみたいだ。ミトラス自体は無事に絆喰らいの中に封じ込めた。あとはマスグレイブが上手くやってくれるだろう。
長かった目的を果たしたのだ。
辿り着きたかった新しい道に入ったのだ。
視線を前に戻して階段の近くを見ると、倒れているオウカの姿が目に入った。
俺は痛みを無視して身体を起こし、慌ててオウカの下に駆け寄る。
「オウカ、オウカ!」
肩を揺らしながら声を掛けると、瞼が僅かに揺れてすぐに瞳が開かれた。
白い髪によく似合う青い瞳が俺を捉えて、しばし呆然と見つめてくる。
「大丈夫か?」
問いかけるが、瞳は揺れることはない。
記憶の結合は問題なく成功したはずだ。現に俺の記憶はここまでの旅と、この先に起こった出来事をすべて記憶している。
ただ意識だけが時を移動していた俺とは違い、オウカは実際に
そんな考えを巡らせていた時だった。
「ッ!」
オウカが飛び上がり俺に抱きついてきた。顔と両腕を俺の胸元に押し付けるような形で飛び込んできたので、後ろに支えるものがなかった俺は仰向けなって倒れた。
オウカは俺の上に乗って顔を押し付けてたままだ。それがどこか我儘な子どものように見えて、俺は無意識のうちにオウカの頭を撫でていた。
肩に触れるくらいまで伸びた白くてさらさらとした柔らかい髪。頭の上に生えた二つの大きな耳は、彼女をこの世界の歪みだと象徴するものでもあるし、アイデンティティの一つであるとも言える。いつもなら顔を隠しても耳の動きで大体の感情が読み取れるのだが、いまは少しも動くことなく大人しく撫でられていた。
「全部終わったよ」
告げるが、返事はない。
「あとのやることは変わらない。勇者になった光本に俺が一度倒されて幽閉番人を起動させる。俺はその席にオウカを加える。俺は転移の空間に入ったところで、すべての力をマスグレイブに渡すと同時に、ミトラスの使った道から元の世界に戻る」
「……ほんとうに、それで帰れるんですね」
やっと口を開いたオウカの言葉は問いかけだった。
「ああ、俺にとって元の世界。オウカにとっての異世界。
でも、いまのオウカなら、あの世界も元の世界と言えるのかな」
「……私は、あの世界でもひとりぼっちでした」
オウカは顔を伏せたまま、静かに語り始めた。
「ツムギ様が仰るよりも、皆さん優しかったです。
結ちゃんは居場所のない私を引き取ってくれました。
光本さんは何不自由なく暮らせるようにと私が死ぬまで援助してくれました。
セツナさんは私が多くの人と関わらなくても済むように政府に掛け合ってくれました」
優しいの域を越えている気がしなくもないな、というのが正直な感想である。
特に光本はしてることが異常に思えるが、あいつのことだから責任を感じてのことだろう。そう考えると悪いことをしてしまった。この後するんだけど。
「確かに厳しい言葉を投げかけてくる人、冷たい人、悪意を持った人など、悪い人たちにも出会いました。でもそれ以上にいろんな人が私を支えてくれて、だから私はあの世界で無事に一生を終えることができました。
だけど私は――皆さんの気持ちに向き合えなかった」
最後の言葉はやけに重く聞こえた。俺は促す様に頭を撫で続ける。
「怖かったんです。ツムギさまへの気持ちが薄れること、忘れてしまうこと。
時間が経つほど霞んでしまいそうで……怖かった。人の心は弱く脆いのを実感しそうでした。だけどそれは許せなかった。何があってもツムギ様への想いだけは失ってはならないと。
私の考えは行動にでてしまいました。皆さんはツムギ様が成してくれたことへのお返しとして、私に良くしてくれていたのに。
私は誰も愛することができなかった。誰かを愛してしまえばツムギ様への気持ちが薄れてしまうと思って。それが徐々に相手にも伝わり、結果として誰からも愛されなくなった」
俺の責任だ。
俺がオウカをこの世界から切り離すことばかり考えていて、その先のことが見えていなかった。俺じゃない誰かと幸せになるのも構わないとさえ思っていた。
オウカが笑える場所にいられるならと。
甘かった。オウカの気持ちを考えてなさ過ぎた。結果、彼女の新たな人生を苦しめることになってしまった。
「……こんな言葉だけじゃ済まないかもだが……ごめんな」
「本当です。ツムギ様は考えが足りません。
私は最後の時に言いましたよ? ツムギ様の幸せの中にはツムギ様がいないと。
でもそれは、代わりに私を置いてくれていたからなんですね。
私も同じですよ。私の幸せの中に私はいないんです。私の幸せはツムギ様の幸せなんです。だから隣にいたいんです。隣で終わりたいんです」
オウカが顔を上げる、青い瞳はいまも泣きだしそうなくらい潤んでいた。
「私……行ったんです。桜を見に」
「ああ……約束したもんな」
別れの時、俺はオウカに桜の話をした。
名前を決める時、桃色の髪と金色の瞳が、昔見た美しい景色と重なったのだ。
だから見て欲しかった。彼女の名前の由来となった綺麗な花を。
「結ちゃんに場所を教えてもらって、丘の上の桜を、一人で見にいったんです。
初めて見た桜の景色。私は忘れません。あの美しい景色と、その時に抱いた想いは忘れることができません」
オウカの瞳から、涙が零れた。
「ツムギ様がくれた名前。大切な名前。この景色を見て、ツムギ様も綺麗だと思って私につけてくれたんだと。それがすごく嬉しくて。
だけど、その景色をツムギ様はもう見ることができない。私も、ツムギ様と一緒に見ることは叶わない。そんな現実が、ただひたすらに悲しかったんです」
オウカは声を震わせていた。
「だから、生まれ変わったら、絶対にまたツムギ様と出会おうと思いました。
この想いを忘れず、絶対にまた結ばれたいと思いました。
そして、ふたりで桜を見に行きたいと。私の小さな小さな、願いです」
その願いは叶うはずのないものだったし、彼女も十分に承知していた。
だがミトラスによってこの異世界に戻された彼女は、願いを叶えられる僅かな可能性を掴むため、ずっとひとりで戦った。
「ツムギ様……一緒に見に行きましょう。
一緒に、桜の下で笑い合いながら、これまでのお話をするんです」
心臓が張り裂けそうな気持だった。
俺の安易な言葉で彼女を苦しめていた後悔と、それでも歩み続けてくれたことへの感謝で、言葉は浮かばなくとも、気持ちだけはいっぱいだった。
「ああ、行こう。一緒に桜を見に行こう」
視界が歪み始める中で、俺は息が詰まりそうになりながら言った。
お互いにずっとすれ違っていた。
お互いの幸せのためにはお互いがいなきゃいけないのに、どっちも自分を犠牲にすることでしか道を見出せないでいた。
「ただ一緒にいる。本当にそれだけでよかったし、どうにでもなったんだな」
「そうですよ。私たちはずっと愚かな遠回りをしていたんです」
「愚か者だったな、俺たちは」
俺は上半身だけ起き上がった。オウカも胸元から離れて青い瞳で俺を見上げてくる。
その色はどこまでも透き通っているようで、吸い込まれてしまいそうなほど美しい。
「邪視ってのはほんと恐ろしいな」
「ツムギ様を魅了できるなら、この青色も悪くないかもしれません」
そんな返しに思わず笑ってしまい、つられたようにオウカも笑う。
「もう、ひとりぼっちじゃないんだな」
「はい、ツムギ様には私がいます、私にもツムギ様がいます。
最初からひとりぼっちなんかじゃなかったんです。
出会った時から、私たちはずっと一緒でした」
この異世界に来る前、俺は考えていた。
汚れてしまった手と黒くなってしまった感情を抱えて、どこまでひとりぼっちで。何もなく、何事もなく、ただ漠然とした道の上で人生の幕を閉じるのだろうと。
それが、たった一人の、最初は奴隷だった少女に出会ったことですべて救われてしまった。
俺の人生はあまりにも軽くて単純で。だけどそれでよかった。
オウカに出会うためにあったのなら、この人生のひとりぼっちの時間には意味があった。
愚か者でよかった。
「長かったけど……やっと辿り着いたんだ」
「はい……だから」
「そうだな……」
オウカと見つめ合う。
何千回と繰り返した時の中で、溜まっていた感情が押し寄せる。
絆喰らいでももはや抑えきれない、溢れるのは必至。
「オウカ……」
「ツムギ様……」
オウカの頬が紅くなる。
俺の顔も紅いだろう。
もう我慢できない。
俺はオウカの肩に手を乗せて――
「うわあああああぁぁぁああああん!!」
「ふええぇぇえええええええええん!!」
思いっきり泣いた。
既に溢れていた涙が目元から顎を濁流のように流れていくのもお構いなしに、ひたすら大声で泣いた。
「オ゛ウ゛カ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
「ツ゛ム゛キ゛さ゛ま゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
汚い声で互いの名前を呼び、二人でぎゅっと抱き合って、なおも泣き続ける。
本当に辛かった。声を掛けることも、手を差し伸べることもできず。
失敗が見えている手順にも口を挟むことができずに見つめるだけの世界。
何百回、何千回と苦しむオウカを見続け、何百年と精神だけが置いていく感覚。
解放感とはまた別の、言葉にしがたい気持ちが泣き声に変わったようだった。
それからしばらく、二人でひたすら泣き続けて。
一か月後、俺とオウカは元の世界へと帰った。
***
春の暖かさは眠気を誘うものだ。
四季を失いつつあるこの世界では、心地のいい暖かさは数日で何処かへと去ってしまう。
公園のベンチに座り、気持ちのいいそよ風を感じていられるのも、今週いっぱいだろう。
俺は目を閉じて、瞼の裏で太陽の光を受ける。
視界が赤と黄色の混ざりあった明るい色で満たされる。熱を帯びた光が、俺の意識をとろとろと溶かし始めた時だった。
「お待たせしました」
そんな声が聞こえて、パッと目を開く。
視線の先にあったのは公園の時計塔だ。時間は十時ちょうど。
「いや、時間通りだよ。俺もちょうど来たところだ」
「その割には、心地よく寝ていたようですけど……?」
「ハハハ」
当然の反応に俺は無機質な笑いで誤魔化す。デートでよく使われるセリフを言ったのだが、それなら立って待っているべきだった。
そもそも、これはデートではないし、相手とは一緒に住んでいるから俺が先に出ていったのを知っている。
住んでいるボロアパートが狭すぎるのと、女の子の準備にはいろいろと時間が掛かる言う理由から、出掛ける時は俺が先に外に出て、近くの公園で待っているのだ。
「いつもそうやって寝てると、デートっぽい待ち合わせもできなそうですね」
はぁ、と大きなため息を吐かれる。どうやらそのうち待ち合わせデートをする気だったらしい。俺は知らぬ間に訓練を受けていたようだ。でも男らしいとか、洒落たデートも計画できない俺には無意味なことだぞと言いたい。
それに今日は制服で集合と言われているので、俺は白シャツとネクタイの上から紺色のベストを着て待っていた。放課後デートは趣味じゃない。
諦めてくれという気持ちの表情を向けたところで、彼女の恰好に俺は目を見開いた。
白のワイシャツにえんじ色のネクタイを結び、ネイビーベースのチェックスカートと、ここまでは学校指定の制服姿だし、黒のハイソックスとローファーも合わさって衣替え前なのにブレザーを勝手にやめた女子高生と言える。だが、春先はまだ少し寒い。彼女はブレザーの代わりに灰色のフード付きパーカーを羽織っていた。
「それ俺のだろ……」
「お古を頂いちゃいました」
黒い瞳を細めて笑うその姿に、思わずドキっとしてしまった。
肩まで伸びた艶やかな黒髪を春風で揺らした彼女は、乱れそうになった髪を左手で耳にかけなおす。異世界なら頭の上にあった大きな耳に髪をかけるなどできなかったが、いまの彼女に狐耳はついていないし、スカートから大きな尻尾が出ているなんてこともない。異世界にしかなかった種族を失って、彼女は人間としてこの世界に帰ってきた。
「まあいいけどさ……それじゃあ行くか、桜花」
「はい、紡希様」
立ち上がると、桜花の旋毛が見えるか見えないかくらいの高さ関係になる。異世界の頃なら耳の先端が顔を擽ってくる身長差だった。
奴隷の頃は中学生くらいの身長で、勇者の頃はお姉さんのような雰囲気だったのに、この世界に戻ってきた桜花は見事に女子高生の平均的身長に調整された。話を聞けば、初めてこの世界に来た時も同じ見た目だったらしい。ちゃんと仕上げてくる世界の修正力には驚かされる。
平均より少し劣るのは、胸のサイズくらいか。
「何か変なこと考えませんでした?」
「いいえなにも」
ジトっと睨まれたので笑顔で誤魔化す。
ジト目も可愛い桜花は、顔の作りが異世界の頃より少し成長したくらいといった感じで特別変わったわけではない。言い換えれば異世界基準で美人さん。こっちの世界では超美人さんに入ってしまう。そんな彼女は身長差が縮み上目遣いで微笑むようになったのだから、可愛さ増し増しである。未だ慣れないで顔をそらしてしまう俺を、桜花が楽しそうにクスクスと笑うのが日頃のやり取りになりつつあった。
***
桜花との約束通り、今日は花見をしに行く。
ただ何故か妹が一緒に行くと言いだし、嫌そうな顔を返したら、「じゃあ準備全部するから!」と言って先に現地で待っているという。
桜花も構わないと言ってくれたので渋々承知したが、本当は二人きりでのんびりと見たかった。
集合場所はシンプルに言えば丘の上である。住宅街から少し離れた場所で、墓地を通り過ぎてしばらく長い坂道を登っていくと、小さな古墳がある。言わば人工的に作られた丘だ。
そこは俺と妹の隠れ花見スポットとなっている。周囲の桜よりも咲くのが少し遅く、坂道が非常に面倒なうえ墓地も近いために近寄らないのか、知っている人があまりいないのだ。小さいころは嫌なことがあると結がよくその丘に一人で行って泣いていたのを迎えに行ったりした。
約束の時間まではまだ余裕があるし、桜花も「お日様をゆっくり浴びたい」というので、急ぐことなく坂道を登っていく。
「そう言えば、ラスト一か月の時にも、こうやって坂道を上ることがあったな」
「クラビーさんのですか?」
「あれは酷かった……」
ミトラスを倒した後、一か月の時間が余った。最初の通りであれば俺は感情を失って要介護状態になってしまい、桜花とエル王女が世話をしてくれたのだが、その必要もなくなった。
代わりに俺たちはやり残したことを終わらせに向かった。
それは、オールゼロによって眠りにつかされたクラビーの救出だ。
こっそりと王都に戻って情報を集めていると、なんと眠りについたクラビーが勇者扱いされており、勇敢に戦った末、永遠の眠りについた聖女ということで聖女たちの集う正殿に移されたという話を聞いた。その正殿が南のめちゃくちゃ高い山の上にあり既にクラビーはそこに納められてるとのことで、魔王として大暴れしたわけだ。
ミトラスとの戦いの影響で本領を発揮できない俺は、クラビーを抱えて山を登るわ下るわの地獄を見たのだが……ともあれ、クラビーは無事に回収し、復活を成功させた。オールゼロから人格が残るか分からないみたいなことを言われていたのだが、起きて早々「アイラブツムギー!」と言われて頭を叩いたのはいい思い出だ。
「別れの時も泥棒猫だのとぎゃいぎゃい騒いでいたいな。猫は自分なのに」
「私は狐だったんですけどね……でも、もう会えないのはやっぱり寂しいですね」
最後まで騒がしくて、そして俺たちのムードメーカーでもあったクラビーだ。元気でやっているとは思うが、会えないというのはやはり寂しいし、その寂しさを俺と桜花は知りすぎている。
「紡希様のおかげです。私だけでは、クラビーさんすら救うことはできませんでした。紡希様がいてくれたからこそ、クラビーさんも救えて、いま私たちはここにいられるんです」
俺は足を止めて後ろへ振り返る。ついてきていた桜花が首を傾げたところを、
「こら」
「ぴぇ!?」
彼女の額を人差し指でツンと突く。
不意を突かれた桜花が変な声を出して数歩後ろによろめいた。
「公園の時からそうだが、また前の癖が出てるぞ。
俺はもうご主人様じゃないし、桜花も奴隷じゃないんだ。様付けはやめてくれ」
「すいません……」
「デフォで敬語は百歩譲っていいとしてもな、俺たちの関係は変わったんだ。そうだろ?」
それが何かを口で言うのが恥ずかしくて濁してしまう。それが彼女の様付けを直しきれない原因になっている気がして心が痛い。でも直して貰わないと世間の目が冷たい。
「あとな、クラビーのことも、それ以外も俺だけの力じゃない。二人で何千回と時間を巡ったからこそ、成し遂げることができたんだ。俺一人じゃ時間すら戻れなかったんだぜ?」
「そうかもしれませんが……」
「そうなんだよ。二人居たからこそ、二人で想い続けられたからこそ成し遂げられたんだ。
あまり俺を過剰評価しないでくれよ? 期待されたってもう何もでない。
これからは二人で並んで歩いていくんだ」
俺は手を桜花に向けて伸ばす。
桜花は少しだけ目を見開くと、嬉しそうにはにかんで手を取ってくれた。
そして俺の横に並んでくれたと思いきや、腕を組んで肩が触れ合うくらいまで密着してくる。
「ふふ」
「どうした?」
「いえ、前に結ちゃんにも言われたのを思い出したんです。
その時に考えたんですよ、私はどう呼びたいのかって。まだ心にっぽかり穴が開いていて、奴隷だったころの意識が強すぎて、私はご主人様を追いかければいいと思っていた時期です。
でもいまは全然違います。いまはこうやって隣で肩を並べていたい。
この人の大切な人でありたいし、一緒に生きていきたいと思えます。
だから、私のことも大切にしてくださいね――紡希くん」
***
「あ、やっと来た!」
もうすぐ桜が見えてきそうなところまで来ると、道のど真ん中で結が仁王立ちして待っていた。二つ結びを支えるシュシュは花見に合わせてか桃色である。
「遅いよ! もう来てるのに!」
「まだ時間じゃねえだろ……もう来てるって?」
「ほら、早く行こ!」
俺の問いかけを無視した結は、桜花と逆側の腕に抱きついてくる。これから花見なのに両手に花とはこれ一体。
三人で石段を登りきると――視界が一面の桜に埋め尽くされた。
「やっぱここはすげえな」
遠くに見える街も山もすべて隠してしまうように桜の木々が立ち並び、そのすべてが美しく咲き誇っていた。
昔に見た景色と変わりなく、この場所の桜は本当に綺麗に咲いてくれる。
「で、なんだあれは」
桜の根元に視線を向けると、たくさん広げられたブルーシートの上にクラスメイト達が座って騒いでいた。各々ジュースの入った紙コップとスナックを手にしている。
「花見は皆でするものだよ、紡希お兄ちゃん?」
「呼ぶなんて聞いてないんだがぁ?」
「言ったらお兄ちゃんが来ないじゃん」
当然だ。俺は少人数派なのでクラス行事レベルなど仮病で欠席するに決まっている。畜生さすが妹よくわかっていやがる。
「って、桜花も知っていたな?」
「ごめんね紡希くん。でも皆さんで見るのも悪くないかなって思ったから」
それに、と桜花は耳元に顔を近づけて囁いた。
「皆さんに、私たちのラブラブっぷりを見せつけたかったんです。数百年分の」
だから腕を組んで登ってきたのか。
計画はうまくいったようで、俺たちに気付いたクラスメイトから「見せるねぇ!」なんて言葉が指笛と共に聞こえてきた。
「怒りました?」
眉尻を下げて上目遣いで聞いてくる桜花に怒れるはずもないし、実際に気分がいいので怒っていない。
ただその組み合わせは永遠に叱ることもできなさそうなので、
「それはずるい」
とだけ指摘しておいた。
***
全員集まったところで、光本が桜の前に立つ。
光本光希がクラスのリーダー的存在のいわゆるアレなのか変わりないので、彼に任せるのも召喚された頃から変わらない。
「メディアの追っかけや国の事情聴取やらいっぱいありましたが、やっと落ち着いてきたかなと言う感じです。僕たちは長い間異世界に居ましたが、こっちでは二週間程度しか経過していないということなので、勉強なんかも遅れをすぐ取り戻せました。
そんなわけで、諸々が落ち着いてきたので改めて異世界からの帰還を祝したパーティーをしましょう。乾杯!」
全員の「カンパーイ」という声が響く。さっきからすでに飲んでただろうに元気な奴らだ。
異世界の冒険は無事に終わったが、俺の立場は殆ど変わっていない。光本にはめちゃくちゃ感謝されたが、他のクラスメイトの理解までは得られなかった。
それも仕方がない話だ。まず幽閉番人の存在を知らないといけないし、計画は俺一人で立ち上げたものだった。理解を得られると思ってもいなかったし、説明をすれば光本は本気で戦えなくなるだろうから隠す必要があった。加えて、メインの戦場に立たせてもらえずクィに弄ばれて悔しい思いをした奴らも多いのだろう。
学校では相変わらず絡まれることはない。クラスで静かにしている一人としているだけだ。
俺自身はそうなのだが――
「で? で? その後どうなの?」
「聞きたい!」
「えーっと……」
戸惑う桜花に詰め寄っているのはクラスの女子たちだ。
異世界からやってきた桜花は国の配慮で戸籍を貰い、俺と同じ高校に通うことになった。
桜花くらいの美人で尚且つ異世界転生者ということで学校でもネットでも大騒ぎになった。いまは落ち着いているが、登校初日は語る気にもならないほど疲弊したのを覚えている。
「暇そうね」
ぼーっと桜花のことを見ていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると両木が相変わらずつまらなそうな表情でジュースを口にしていた。
「あれだけ美人な恋人なら鑑賞も飽きなさそうね」
「なんかの嫌味か?」
「一人だけ嫁を手にいれて幸せな人には、こんな言葉じゃ足りないわね」
両木は心の内側を共有できる数少ない相手だと思っていたんだが。こっちに戻ってきてから態度に冷たさが増してしまった。俺は悲しいよ。
「なに悲しそうな顔をしてるのよ。こっちは大切な友人の笑顔を失ったのよ」
そう言って彼女が見つめるのは飛野だ。
飛野はアビリティでクラスメイトを洗脳していた。俺もアビリティを受けて一時期隷属化していたし、彼女の能力は強力なものだった。
それも最終的に竜の力で破られた挙句に殴られまくることになってしまい、いまでは光本の後ろでおどおどとする子になってしまったのだ。
「紡車のせいじゃないのはわかっている。あれはひよりの自業自得だった。
でもね、あれがなければ彼女はいまでも元気で明るい顔を見せてくれたんじゃないかって思うと……ついね」
「構わないさ。勝手に恨む分には俺に何の影響もないしな」
「ほんと、紡車らしいわね。そういうとこ、好きよ」
「はいはい」
冗談を軽く流していると、桜花の話を一通り聞き終えた女子たちが満足げな顔で両木を呼びに来た。どうやらみんなでゲームを始めるらしい。
「紡車もやる?」
「わかってるだろ」
「うん、知ってた」
そう言って両木と女子たちは男子の塊の中に入っていく。その様子を眺めていると、隣に桜花が座ってきた。
「お疲れ様」
「いろいろ聞かれちゃいました」
疲れたように言っているが、表情は楽しそうなものだ。やはり女子は恋バナが好きなのだろう。
「まあ、あとはゆっくり休んでるといいさ」
「はい、そうしますね」
そう言って桜花が俺の頭を掴んできた。
状況を理解する前に、頭を引っ張られて桜花の膝の上に載せられる。
「……なぜ俺が休む体勢なんだ?」
「紡希くんを膝枕している状態が、私の休める状態なんですよ」
初めて聞いたよそんな特殊なリラックス状態。
でも本人がそれでいいというのだから逆らえない。クラスメイトがちらちら見ているので恥ずかしいが我慢だ。
「綺麗ですね」
そんな言葉に視線を戻すと、桜花が桜を見ていた。
「ああ、やっと二人で見れたな」
「はい、この日をずっと待っていました」
涙が落ちてくることはなかったが、彼女の声は少し震えていた。
「これから、毎年見に来れるさ」
俺たちはこの世界で生きていく。
クラスメイトの声が少しだけ騒がしく、でもこんな日常がこれからも続いてくれるのだろう。
大きく変わってしまった人生だが、日常のひとつひとつは変わらない。
「六十五年」
桜花の膝の上で桜を眺めていると、ふと彼女がそんな言葉を口にした。
「この世界に十七歳として転生し、私は八十二歳で死にました」
それは俺と一度別れて、俺のいない世界で一生を終えた桜花のことだ。
「毎年この時期になると、私は家の中でずっと泣いていました。
どうすることもできない、変わらない日常が怖かったんです」
でも、と桜花は続ける。
「紡希くんと一緒の日常は、毎日が楽しみで仕方ないんです。
寝るのも惜しくなって、毎朝が楽しみになって、起きた時に紡希くんの寝顔を見て嬉しくなっちゃうんです」
そう言いながら俺を見下ろす彼女の頬は紅くなっていた。
大切なものを見つめるように細められた瞳を、俺は恥ずかしさを忘れて見つめ返していた。
「ねえ、紡希くん」
「なんだ……?」
「この世界に帰ってきてから――まだ一回も言ってくれてないですよね?」
その言葉に、時が止まったような錯覚を受ける。
背中に嫌な汗が流れ始めて、春の風が吹雪のような冷たさに感じた。
やっぱり、ばれていた。
実を言えば、俺は桜花にまともな告白をしていない。
二度目の勇者戦は彼女も流れを承知していたので、涙を流して別れるような会話はしていない。
だから気持ちを高めて告白するような場面はなかったのだ。
流れで同棲しているが、桜花は大事なことを見落としていなかった。
膝枕も、俺を逃がさないための罠か!
ああ、見下ろしてくる笑顔が怖い!!
「言わないと分からない、わけじゃないだろ……?」
「はっきり言葉にしないといけないことも、あるんですよ?」
ですよね。無様な言い訳をしました。
逃げることはできない。
「私、不安なんですよ」
桜花の表情が少し寂しそうなものに変わる。
「また召喚されるんじゃないかとか、か?」
「いえ、きっともう大丈夫だと思います。
私が不安なのは、私自身のことです」
真面目な話なのだろうと悟り、俺は身体を起こして桜花の隣に座り直す。不安が和らぐわけじゃないだろうが、肩をくっつけて俺よりも小さな手を握った。
二人で桜を見上げる。
「紡希くん、ずっと私の意識の中にいたんですよね?」
「ああ」
「私は何千回と繰り返しました。一周まわってこの時間に戻って来れましたが、私の精神はかなりおばあちゃんです」
「なんだそんなことか。なら俺だっておじいちゃんだ」
「それに、紡希くんは繰り返す中でおかしくなっていく私を見ていたんですよね。
転生した後の私の行動も見たんですよね。
私のあんなことや、こんなことしていたのを、ずっと見ていたんですよね」
「……う、うん……」
「私、ここで紡希くんに捨てられたら、もうどこにも行けません。
汚い部分も晒し、醜い姿も見せてしまった私はお嫁にいけません」
「そんなことはないっ!」
思わず叫んだ俺は桜花の肩を掴んでこちらに向けさせた。
叫び声に気付いたクラスメイトたちが一斉にこっちを見た。
桜花の口角が少しだけ上がった。
やられた。このための流れか。
何が真剣な話だ。なんでまた嵌められてるんだ俺。
「いまの気持ちは本当ですよ。ちゃんと言って欲しいんです」
どこでそんな魔性の女スキルを手に入れたのか。長年の人生から得たのか。
ともかく、俺は男を見せないといけない時がきてしまったようだ。
言いたいことは決まっている、というか一度言っている。
ベリルとの戦いの時、別れたあの時の言葉が本物だ。
俺は一度深呼吸をし、そして桜花を見つめる。
「桜花、俺はお前を愛している。
どれだけ感情を失っても、この気持ちだけはちゃんと残してきた。
本能で愛していた。
俺の傍にいてくれ」
「――嫌です」
心臓が止まったかと思った。
しかし桜花は微笑んだままだ。
「言葉だけじゃ、嫌です。紡希くんは嘘つきだから。
ちゃんと、行動で伝えてください」
思考が止まる。つまり……?
「皆さんの前で、私が紡希くんのものだって、ちゃんと示してください」
そう言って彼女は瞳を閉じた。
それで何をすべきか分かった。
とにかく俺がベタ惚れであることを、ここにいる全員に分からせてやれということだ。
「まったく、ほんと、可愛くなってくれたよ」
数百年、数千回歩んだ道の先にあった答え。
女子の黄色い声も、男子の驚きの声も全部無視して――
桜の舞う世界に、ハッピーエンドを見せつけた。
異世界ぼっちにフレンド機能は必要ない 沙漠みらい @sabakumirai
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