最後の姫君の最後の晩餐

名瀬口にぼし

最後の姫君の最後の晩餐

「最後になさりたいことなどは、ありませんか?」

「……では、何かおいしいものが食べたいです。よい思い出になるような」

 重々しく向けられた問いに、イルヴァはなるべく当たり障りのない願いを答えた。食べることは好きであったが、心からの望みではない。だが相手が自分を気遣って尋ねてくれている以上、とりあえずそれらしいことを言わなくてはならないと思った。だから実現可能な適度なわがままになるように答えを選んだ。


「おいしいものですね。かしこまりました。明日の晩に、しかるべきものを用意させます」

 イルヴァに問いかけた若い城主――スティーグは、深々と頭を下げた。

「楽しみに待っています」

 イルヴァは微笑み、期待しているふりをした。

 こうして、イルヴァにとって人生最後となる晩餐の日取りは決まった。



 イルヴァは、ある王国の王女であった。齢は十三歳で、兄が二人と姉が一人、そして弟と妹が一人ずついた。容姿にはそれなりに恵まれたが、その他に秀でたものはなく歌や刺繍も人並み。そのため王族の中でも、地味で平凡な一人でしかなかった。

 だが東から異教徒が国に侵略してきたとき、イルヴァの人生は大きく変わった。凶悪な強さを持った騎馬民族である彼らは瞬く間に都に攻め込み、略奪と殺戮の限りを尽くした。イルヴァの国も懸命に戦ったが、その抵抗はあまりに無力だった。王族も貴族も平民も、皆平等に殺された。武官の一部と共に都から逃れることができた王族は、運よく救い出されたイルヴァだけである。イルヴァは親兄弟も何もかもを失った。


 イルヴァを連れ出した武官たちは、各地を転々としながら抗戦を続けた。異教徒が慣れていない山岳に逃げ込んだので、劣勢ではあるものの最初のうちは勝つこともあった。だが次第に局地的な勝利もなくなり、土地も人命も徐々に失われた。地方領に住んでいた従兄弟や叔父も、このころに死に絶えたと聞いた。


 そしてとうとうこの春に、残された城は一つになった。兵は疲弊し食料も乏しい上、他国の援助は絶望的である。敗北は時間の問題であった。

 残忍な蛮族による国の滅亡を前にして、武官たちはイルヴァにあることを望んだ。それは王族の最後の一人として、敵に名誉を汚されることなく死ぬことであった。城壁が破られる前に、イルヴァは臣下の手により殺されるのだ。


 だがそれは、イルヴァにとって決して不幸なことではない。



 翌日、イルヴァは人生が終わる日にふさわしい装いで晩餐を迎えた。きらめく金髪を編んでまとめ、まだ幼さが残る華奢な身体を翡翠色のドレスで包む。細やかな刺繍で縁取られたブラウスが覗く襟元は朱色のリボンが結ばれて、白く細い首を引き立てた。端正に整った顔には薄く化粧が施され、その紫色の瞳には大人びた美しさがあった。


「お待たせしました」

 城の上部にある大広間に足を踏み入れ、イルヴァは軽く挨拶をした。

「王女様。今ちょうど、食事の準備が済んだところです」

 宵闇の中いくつかの燭台に照らされた石造りの広間には、スティーグが大きな食卓を前にして侍従と共に立っていた。


 スティーグはこのただ一つ残った山奥の城の主であり、イルヴァの最後の晩餐の相手である。そしてその後イルヴァの命を絶つ者として遺臣たちの中から選ばれたのもまた、スティーグであった。

 ごく最近に父親を病で亡くし跡を継いだばかりのスティーグは若く、まだ二十歳そこそこである。短めに刈った黒髪に深く青い瞳を持った、精悍な顔立ちの美丈夫。だが祖国の滅亡に直面して、表情は沈鬱で暗かった。


「それでは、始めてよろしいですか?」

「はい。お願いします」

 スティーグの仕切りに従って、イルヴァは木製のやや大きめの椅子に座った。

 その反対側の席につき、スティーグは侍従に細々とした指示を出す。

 手持ち無沙汰なイルヴァは、黙ってその様子をじっと眺めた。


 スティーグは、鎖帷子に重ねて赤い上衣を身につけていた。軍事的指導者らしく、鍛えられた体をしている。腰に帯びた剣は古びて大きいもので、よく手入れされた輝きを持っていた。自分はこの剣で死ぬことになるのだろうかと、眺めながらイルヴァは思った。


 そんなことを考えているうちに、最初の料理が運ばれてきた。イルヴァはスティーグから目を離して、料理の方を向いた。

「こちらが前菜でございます」

 侍従が二人の前にそれぞれ丁重に置いたのは、薄切りのマッシュルームのサラダとキュウリとビーツのピクルスの飾り切りが載った、彩りのよい一皿であった。

「とても素敵な盛り付けですね」

 想像していたよりもずっと手の込んだ料理を前にして、イルヴァは心から称賛した。

 スティーグは小さく微笑みかえして、うなずいた。

「喜んでいただけて、ありがたいです。では、いただきましょう」

 そして二人は食前の祈りを済ませて、食べ始めた。

 城は籠城戦の真っ只中であったが、広間は戦の音が届かず静かである。そのため食器の音がよく響くので、注意が必要であった。


 イルヴァは銀のフォークで、まずマッシュルームのサラダを口に運んだ。それはほどよい茹で加減で、歯ざわりが良かった。まんべんなく和えられたクリームのソースも、レモンの風味がして爽やかだ。そして隣に添えられたピクルスがまた、酸味が効いていて食欲をそそる。

 食事と一緒に用意された蜂蜜酒を飲み、イルヴァはさらに食べた。琥珀色に冷えた蜂蜜酒はすっきりと甘く、お酒に慣れていないイルヴァにも飲みやすい。

 イルヴァは上機嫌になって、おいしい食事をしたいと願ったのは適当に答えた結果であったことを忘れて楽しんだ。


 しかしスティーグの方は味わう余裕がないのか、心ここにあらずといった様子でただ機械的に食べていた。ときどき耐えきれなくなったようにイルヴァを見つめるのだが、結局何も言わずに目をそらした。


 暗い沈黙が、二人の間を流れる。

 イルヴァは何か話そうかと思ったが、よい話題が思いつかないので黙った。

 都で育ったイルヴァにとって、辺境の城主のスティーグはよく知らない人物である。生真面目な性格であることは何となくわかったが、最後を任せる相手としてはあまりうれしい人選ではない。だが長い戦争の中で多くの遺臣が死んだ結果、イルヴァと接するのに見合った地位を持っているのはスティーグだけになってしまったのだから仕方がなかった。


 会話を諦めたイルヴァは、二品目の料理である黄エンドウと塩漬け肉のスープを口にした。香辛料と一緒にじっくりと煮こまれた豆は柔らかく、塩漬け肉が入っているおかげでコクがよく出ていて味わい深かった。


 不思議なことに、もうすぐ自分は死んで国は完全に滅び去るのだとわかっていてもイルヴァは冷静だった。そもそもイルヴァにとっては、国家の名前や名誉という形のないもののために人が戦い死んでいくことが理解できなかった。武官たちが抗戦を主張していたときも、いっそ降伏してしまったほうが失われる命も少なく世のため人のためになるのではないだろうかと思っていた。

 もうほとんど滅んだ国の名前を存続させるため、本来は死ぬべきだった自分が生き延びて代わりに大勢の民が殺される。一部の人間の望みによって続くそんな戦いに、イルヴァは意味を見いだせずにいた。だから自分が死ぬことで国の歴史が終わり、不毛な争いの中で死ぬ人がいなくなるのならそれは好ましいことだと思った。


 だがスティーグはイルヴァとは違う考えを持っているようで、スープを食べ終えるとひどくつらそうな顔をして口を開いた。

「王女様。国を守れずあなたに犠牲を強いる私は、不忠の臣です。誠に、申し訳ありません……」

 どうやらスティーグは、先程からイルヴァに謝ろうとしていたらしかった。義務を果たせない自分を責めて、罰されることを望んでいた。


 その謝罪に居心地が悪くなったイルヴァは、無難な建前で逃げようとした。

「私は、あなたたちはよく頑張ってくれたと思いますけど」

「ですが私は結局、何も出来ませんでした」

 スティーグはうつむき、くちびるを引き結んだ。イルヴァが何を言ったところで、何もかもが自分の責任だと考えているようだった。


 国家というものへの崇敬の念が希薄なイルヴァとは対照的に、スティーグはすべてを国に捧げるのが当然であると信じていた。国を守護するのが義務であり、達成できないのは意思が弱い自分が不誠実なのだと考えるよう教育されていた。そしてその忠誠は今、国の主としてただ一人残ったイルヴァに対して向けられているのだ。

 イルヴァはスティーグに対して後ろめたさを感じた。だがその感情に、真っ直ぐに向き合うことは難しかった。


「それでも城主殿は、私の名誉を守ってくれますから」

 なるべく何でもない話題であるかのように、イルヴァは言った。イルヴァのために悩み迷っているスティーグに対して、どうあればいいのかわからなかった。

 だからイルヴァは、パンをスープにひたして食べて沈黙をごまかした。ライ麦で作られたパンはややすっぱいものの、ほんのり塩気があって食べやすかった。


 スープ皿が空になったところで、次の料理が運ばれてきた。

 侍従が持ってきたその白い大皿には、赤いソースのかかった厚切りの豚肉がタマネギのソテーと一緒に載っていた。肉の中央には果実が詰められていて、添えられた香草の緑が映える目にも鮮やかな一品である。

「中の果物はプラム、ですね」

 イルヴァは艶やかに蒸し焼かれた豚肉と果実のよい香りを吸い込み、つぶやいた。そして冷めないうちに切り分け、急いで食す。

 まず柔らかく火の通った熱々の豚肉が口の中でほどけ、肉汁が舌を包んだ。そして次の瞬間、果実の甘さが広がる。赤スグリでできたソースの酸味も、肉と果実の旨みを引き立てた。付け合わせのタマネギも胡椒が効いていて、飽きることなく食べることができる。

 これが最後の食事なのだと思うと、本当に何もかもが美味しく感じられた。


 イルヴァは、頬張った肉をゆっくりと噛みしめた。

 するとスティーグがじっとイルヴァを見つめ、震える声で問いかけた。

「私たちは理屈を並べたて、本当はもっと長く続くはずのあなたの人生を終わらせる。それなのになぜ、あなたは笑ってくださるのでしょうか。あなたを殺す私への気遣いですか?」

 燭台の光が、スティーグの顔に暗く影を落とす。その深く青い瞳は、危うげに涙で潤んでいた。年上の男性がこんなにも泣き出しそうな顔をしているのを見たのは、イルヴァにとって初めてのことであった。


 スティーグはイルヴァが想像していたよりもずっと、イルヴァを幼い子供のまま殺すことを罪深く考えているらしかった。また、イルヴァがまったく弱音を吐かないことに、不安を感じているようだ。スティーグは為政者側の人間であるが、その考え方は素朴で善良で、この戦乱の世においては無力で役に立たないものだった。しかしイルヴァは、それに価値がないとは思わなかった。


 だがスティーグの気持ちがよりよくわかっても、イルヴァにはどうしようもなかった。スティーグを救うことができるのは主の自分だけである気もしたが、それでも言うべき言葉が見つからない。


 迷ったイルヴァは、仕方がなく自分の正直な気持ちを話すことにした。イルヴァはよく考えて、ゆっくりと口を開いた。

「私は幸せですよ、城主殿。敵に苦しめられることなく、こうやっておいしいものを食べて死ねるのですから」

 静まりかえった広間に、イルヴァの澄んだ声がよく響く。


 それこそが、イルヴァの本当の心あった。

 イルヴァは、異教徒に捕らえられた姉や妹がどう殺されたのかを聞いていた。また、彼らが攻め込んだ土地で略奪する際に女子供に対して何を行うのかも知っていた。

 だからたとえ強いられた死だったとしても、一国の王女としての尊厳を守ってもらえるのは本当にありがたいことだと思った。その他大勢として殺されていった人々に対して申し訳ないほどに、そう感じていた。


 このイルヴァの率直な答えに、スティーグは痛ましげに目を伏せた。どうしてもスティーグには、イルヴァが不幸を背負わされた子供に見えるらしい。


 大人びた紫色の瞳で、イルヴァはスティーグをじっと見つめた。イルヴァにとっては、やはりスティーグは遠く知らない人だった。だがこれほどまでに心を砕いてくれる人のことを、嫌うことはできない。


 イルヴァは幼いまま、国の名前を守るために殺される。しかし理由は何であれ、スティーグのような良心のある人に大切にされて死ぬのなら、それはきっと幸せなことなのだろうと思った。

 王女として誰かと結ばれて子孫を残すことが、イルヴァに期待されていた未来だった。連れ添う相手を得ることなく終わるイルヴァの人生は、傍から見れば悲劇的なのかもしれない。だがイルヴァはスティーグの手によってもたらされる結末に、厳かな意味を見出していた。これほどまでに尽してもらえることも、その死が無意味ではないことも、イルヴァが最後の一人だからこそである。自分にだけに与えられた幸福に、イルヴァは深く感謝した。


 そしてとうとう終わりの一品になった料理を、侍従が重々しく運んできた。

「デザートのリンゴの氷菓でございます」

 侍従は藍色の丸い陶器をイルヴァとスティーグの前にそれぞれ置いた。その中には白く凍ったムースが可愛らしく入っていた。

「おいしそうですね。溶けないうちに食べましょう」

 イルヴァは、机の上のデザートを見ることなく思い悩んでいるスティーグに呼びかけた。そしてそっと銀のスプーンでムースをすくい、口に運んだ。やわらかく凍ったリンゴのムースは、口に含んだ瞬間に淡雪のようにさらりと消えた。やさしいリンゴの風味が、上にかけられていたシナモンの香りと重なり広がる。イルヴァはその繊細な冷たさをじっくりと楽しんだ。

 こうしてイルヴァが氷菓を食べている今も、誰かがこの城を守って死んでいる。そう思うと、そのおいしさも重く感じられた。


 これを食べ終えれば、今この目の前にいる男――スティーグがイルヴァを殺すのである。

 その後でスティーグがどうするのかは知らない。もしかしたら異教徒と戦って死ぬのかもしれないし、もしくは捕らえられて処刑されるのかもしれなかった。だが何にせよここで死ぬことを定められたイルヴァと違って、スティーグには彼の城と領民の行く末を見届けるという役目があるのだ。


 覚悟が決まったのか、スティーグはためらいながらもイルヴァを見上げた。

「王女様。私はあなたの最後を守ってみせます」

「はい。そうしてください」

 スティーグを信じて、イルヴァはうなずいた。


 イルヴァの国は、イルヴァの死とともに終わる。イルヴァはやっと許された終末に安心して、デザートをゆっくりと味わった。

 残された義務はもう、王女らしく崇高に死ぬことだけなのだ。

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