第1章 闇魔道士ダークレギオン

第1章 闇魔道士ダークレギオン

 重い闇が周囲を包みこんでいた。新月の晩に特有の、手脚にまとわりつくような質感を持った不気味な闇だ。

 月の明るい晩ならば、月夜にしか採れない薬草苔や美味しい星茸ほしたけを摘むために出かける村人もいる。だが、こんな新月の晩に家から出るような酔狂者はいなかった。かりに家から出ようとしても、重苦しい闇は手提げランプの幽かな灯など簡単に呑みこんで、すべてを暗黒のうちに包みこんでしまうことだろう。

「人の気配はなし、か……我が儀式には、おあつらえ向きの晩だな」

 村から少し離れた森のなかで、一人の男が呟きを漏らした。

 男は黒く長いローブをまとい、頭からすっぽりとフードをかぶっている。その身なりのせいで、すっかり闇に溶けこんでしまっているが、声音からして、まだ年若い男のようだ。

 ローブの男は、森のなかにぽっかりと開けた空き地の中央に立っていた。空き地の四隅には台が築かれ、篝火を焚く準備が調えられている。

「シャドウファング!」男は声を張り上げた。「何処にいる、シャドウファング! さっさと仕度にかかれ。じきに真夜中だぞ!」

 がさがさと樹々きぎの下生えをかき分ける音がし、やがて、空き地の東側──男の右手から一人の若者が顔を出す。空き地の中央ちかくへ出てきて全身にくっついている枝葉やゴミを払い落とすところを見れば、ローブの男よりも頭ひとつ分くらいは背が高く、体格も良いようだ。

 若者は、その大柄な体躯を丸めて上目づかいにローブの男を見た。

「本当にやるんですかぁ? ご主人さま」逞しい身体つきに似合わぬ、情けない口調である。「やめましょうよ、やっぱり。きっとロクな結果になりませんよ」

「黙れ!」ローブの男は苛々と若者を怒鳴りつけた。「いいから早く篝火を焚け。一日かかって組んだ薪木たきぎを無駄にしたいのか?」

「わかりました。わかりましたよ」

 若者は、ぶつぶつ言いながらも、空き地の四隅に組まれた薪木の一つ一つに火を入れていく。炎が燃えあがるにつれ、空き地の中央に立つ男の姿が、はっきりと浮かんできた。

「さて……俺もそろそろ仕度にかかるか」

 男はそう呟くと、ばさりとローブを脱ぎ捨てた。ぽいと放り出されたローブを、若者が慌てて受けとめる。

 四隅の篝火が男の姿を照らしだした。

 腰のあたりまで伸ばした、女と見まごうばかりに長い黒髪が、しなやかに波うっている。細身の肢体には腕力こそ期待できそうにないが、なかなかの瞬発力が秘められていそうだ。闇色の瞳と白い肌が篝火の炎に照らされて、禍々まがまがしい橙色に煌めいている。

 男は、ずいと手を出した。

「シャドウファング、墨壷すみつぼをよこせ」

「はいはい」

 ローブを畳んでいた若者は、背中に負っていた荷物を下ろし、ごそごそとかき回しはじめた。

 男に比べ、いかにも隆々とした肉体の持ち主なのだが、つぶらで丸い瞳のせいか、少しも恐ろしげには見えない。その焦茶色の瞳に不安そうな光が揺れている。

「ご主人さま、本当にやるんですかぁ?」荷物に顔を突っ込んでいる若者は、くぐもった声で尋ねた。「やめたほうがいいですよ。無理しなくても、ご主人さまには、ぼくがお仕えしてるじゃないですか。ぼく一人じゃ御不満なんですか?」

「適材適所、という言葉があるだろう」若者を振りむいた男の胸には、闇魔道を奉ずる者の証である銀色の護符が下げられている。「おまえは、闇魔道の仕事を手伝いたくはないと言う。だが、俺には下僕が必要なんだ。薬草だの蝙蝠の翼だのを採ってくるだけじゃなく、こういう儀式を手伝う下僕がな」

「ぼく、ご主人さまは闇魔道に向いてないと思うんだけどなぁ……」

 若者の小さな声は男の耳に届きはしなかった。男は神経質にあたりを歩きまわり、地面の様子などを点検しているようだ。

 若者は大きな溜息をつき、荷物の奥から小さな緋色の壷を取りだした。

「どうぞ」

「さっさと寄越せ」

 若者の手から壷をひったくった男は、懐から細くて白い棒のような物を引きだした。闇魔道では魔法陣を描くための道具や手順が、陣の使用目的ごとにきっちりと決められている。いま男が手にしているのは、魔物を召喚するための魔法陣を描くときの道具──磨きあげられた狂犬の骨だ。

 なめらかな骨の肌を愛おしげにさする男を見ていた若者は、肩をすくめて話しかけた。

「解ってるんでしょうね、ご主人さま。魔法陣を描いちゃったら、もう後戻りはできないんですよ」

「くどいぞ、シャドウファング!」男は壷の蓋を取り、骨を突っ込んだ。「俺を誰だと思ってる? 代々闇魔道を奉ずるグレイヴワード家のダークレギオンだぞ。見ろ、この赤黒い血を! これこそが闇魔道に生きる者の活力! 生命の源──」

 高揚していた男──ダークレギオンの言葉がいきなり途切れた。壷から骨を引き抜き、先端に付いた赤黒い物のにおいを、くんくんと嗅ぐ。そして、ぎろりと鋭い視線を若者に投げつけた。若者──シャドウファングは頭をかかえ、こそこそと森のなかへ逃げこもうとしている。

「待たんかっ!」ダークレギオンはシャドウファングを怒鳴りつけた。「俺は処女の血を集めておけと言ったんだぞ! なのに、これは何だ? この甘ったるい匂いは?」

「えぇと……」シャドウファングは、ぽりぽりと頭を掻いた。「処女の血を集めようと思うと、やっぱり人殺しをしなくちゃなりませんよね。ぼく、そういう野蛮な行為は苦手で……さいわい、台所の戸棚の奥に古くなった桜桃さくらんぼ蜜煮ジャムがあったんで、それを入れておきました。ほら、色も似てるし、ねっとり感もあるから、ちょうどいいかなと思って」

 ダークレギオンは、ぎりぎりと歯を噛み鳴らし、なおもシャドウファングに当たり散らそうとしたが、ふと空を仰いで文句を言うのを先送りにした。目印になる星が中天にかかろうとしているのが目に入ったのだ。ここでシャドウファングを責めていては、無駄に時が過ぎてしまう。闇魔道の儀式にもっとも適している時間は、新月の晩の真夜中──ほんの短い間だけなのだ。役立たずの下僕を責めている場合ではない。

「仕方がない。今回はこれで済ますか」ダークレギオンは桜桃の蜜煮を使って地面に魔法陣を描きはじめた。「魔法陣を描くのに桜桃の蜜煮を使ってはならないという決まりはなかったはずだ……ただ単に、そんなものを使った奴が今までにいなかっただけだろうが」

 時ならぬ甘い香りが周囲に立ちこめ、蟻だの蠅だのがわらわらと群がってくる。ダークレギオンは舌打ちをして、虫の群れを追いはらいながら作業を続けた。

「ったく、これだから貴様は役に立たんと云うのだ。早いところ、この魔法陣を完成させ、闇わだかまる異界から俺にふさわしい下僕をびださねばならん」

 文句を言いながら、ダークレギオンは魔法陣を描きつづける。

 そのあいだ、シャドウファングは篝火に魚油を足して回っていた。自分を照らしだす炎が常に同じ明るさ、同じ勢いでないと、主人が不機嫌になるのが目に見えているからだ。

「よし、できたぞ」

 作業に没頭していたダークレギオンが嬉しそうな声を上げた。乱れた髪を手櫛でととのえ、衣服についた埃を払う。

「本当に、やっちゃうんですか……?」

 シャドウファングが荷物の中から蝋燭や香炉を取りだしながら、諦め顔で念を押した。

「くどい」ダークレギオンは香炉に練香ねりこうを放りこんで火を入れた。「ここまで来て止められるか。処女の血の代わりに蜜煮を持ちだすような下僕を、そうそう使ってはおれん!」

 ダークレギオンが魔法陣の中央に蝋燭を立てる。獣脂を固めて作った蝋燭に火を点けると、独特のにおいが立ちのぼり始めた。練香の濃厚な香りに獣脂の燃える臭い、そこに桜桃の蜜煮の甘ったるい匂いが混ざって、異様な臭気が魔法陣の周りにあふれ出す。

「たまんないなぁ」

 シャドウファングは、くしゅくしゅと鼻をこすって不快げに眉をひそめた。

 ダークレギオンはそんな臭いになど構ってはいない。首にかけていた護符をはずし、左手で高々と掲げて儀式の始まりを宣言した。

 

 異界に住まいせし存在ものよ。

 我が名はダークレギオン・グレイヴワード。

 我が言葉を耳にとどめ、

 我が喚びかけに応えよ!


 闇魔道士の言葉が質感を伴った重い空気となって空間を満たしてゆく。篝火の炎が心なしか暗くなったようだ。

 蝋燭の煙と練香の香りがダークレギオンの身体にまとわりついてゆくのが目に見える気がして、シャドウファングは固く両手を握りしめた。すぐにでも森のなかへ逃げこんでしまいたいのを必死でこらえる。

 ダークレギオンの召喚呪文は続いていた。


 我は、闇魔道を奉じ、これを修める者。

 我は、我が助けとなる存在を求めし者。

 聞け、異界の存在ども。

 我が言葉を聞きて、喚びかけに応えよ!


 魔法陣の中央に、どす黒い煙がわだかまり始めた。蝋燭から立ちのぼるのとは明らかに異なる煙だ。練香の香りが一段ときつくなる。

 ダークレギオンが喜色を浮かべた。

「来たな、異界の存在よ! シャドウファング、おまえがお払い箱になる日も近いぞ!」

「そんなぁ、ご主人さまぁ……」若者は実に情けない声を上げる。「子どものときから、ずっとお仕えしてきたぼくを、そんな簡単にクビにしないでくださいよぉ」

 ダークレギオンはシャドウファングの愚痴など、聞く耳を持たなかった。いかにも満足げな笑みを満面にたたえ、いよいよ黒さを増してゆく煙を見つめている。

 シャドウファングは溜息をつき、魔法陣の中央へと不安げな視線を向けた。

 どす黒い煙が大きく渦を巻いた。天空たかく昇った煙が闇に溶けこんだかと思うと、一気に地上へと駆けおりて収束する。

 

 来たれ! 異界の存在よ!

 我が足下あしもとへ其の膝を折れ!

 我が忠実なる下僕となれ!


 ダークレギオンの叫びが宙に消えるのと同時に、収束した煙は一つの明確な形を取って、魔法陣の中央に屹立した。

 一見、普通の人間の姿に見える。

 だが、その肌の色は周囲の闇よりも黒く、吊りあがった白い目の中央には鮮血よりも赤い瞳が丸く輝いていた。口元から覗くのは鋭く尖った牙で、その隙間からは細長い舌がチロチロと見え隠れしている。

夜魔やまだ……」シャドウファングは、ごくりと唾を呑みこんだ。「夜魔って云えば、異界でも上位の存在のはず。なのに何故、桜桃の蜜煮で描いた魔法陣なんかに……?」

 夜魔は周囲の状況を検分するかのように、ぐるりと首を回した。その視線が、ダークレギオンの上で留まった。

『人間の分際でありながら、吾輩を喚びだしたのは貴様か?』

 闇魔道士は相手の声も耳に入らない様子で、ぼんやりと夜魔を見上げていた。実のところ、ダークレギオン自身も、こんないいかげんな魔法陣で異界の存在を喚びだせるなどとは思ってもいなかったのだ。せいぜい邪悪な小妖精ゴブリンあたりが姿を見せてくれれば上等だ、と考えていたのである。

 ダークレギオンが返事をしないので、夜魔は明らかに立腹した様子で、ずいっと身を乗りだした。

『吾輩を喚んだのは貴様かと尋いておる!』

 居丈高に怒鳴りつけられたダークレギオンは、むっとなって夜魔を睨みつけた。

「いかにも、貴様を喚んだのは俺だ。俺が貴様の主人あるじとなるのだ!」

『主人、だと?』夜魔は横目で闇魔道士を見やった。『笑わせるな。この吾輩が、人間ごときの下僕になると本気で思ってるのか?』

「だが、貴様は俺の描いた魔法陣のなかへと現われたのだぞ」ダークレギオンが反論した。「俺の下僕になるためでなければ何故、わざわざ魔法陣へなど召喚されてきたのだ?」

 夜魔は、フンと鼻を鳴らした。

『ちょっとした気まぐれだ。魔法陣を描いて異界からの召喚を目論もくろむ馬鹿がいるようだから、顔ぐらいは拝んでやろうと思ってな』

 ダークレギオンの眉がひくひくと震えた。

「『気まぐれ』だとぉ……? おまけに、この俺を『馬鹿』呼ばわりか! おもしろい、その気まぐれ、今すぐ後悔させてやるわ!」

『ほほぉ!』

 夜魔が、にやりと笑った。いきなり腕を組み、全身に力を込め始める。

「ご主人さま、あぶない!」

 シャドウファングが叫びざま、ダークレギオンを突きとばした。同時に、今まで闇魔道士の頭があったあたりを、真っ黒な矢が幾筋も走りすぎる。

『吾輩の羽根を見切るとは天晴あっぱれな奴よ』

 夜魔が呟いた。その背中には、いつの間にか一対の黒い翼が拡げられていた。ダークレギオン主従を襲ったのは、その翼から放たれた無数の羽根だったのだ。

 シャドウファングはダークレギオンを助け起こした。

「ご主人さま、お怪我は?」

「大丈夫だ」

 ダークレギオンは勢いよく立ちあがった。あおりを喰らったシャドウファングが、ころんと転がる。

 それには構わず、ダークレギオンは右手の拳を夜魔の眼前に突きだし、親指だけを立てるや、ぐいっと左から右へと動かして見せた。

「夜魔の分際で、この俺に攻撃を仕掛けるとは片腹痛い。貴様なぞ今一度、異界へと叩きこんでくれるわ!」

「あぁ、やっぱり……」

 シャドウファングは、主人の耳には届かぬように小さく溜息をついた。

 いつも、こうなのだ。

 ダークレギオン自身は闇魔道を究め、邪悪な存在どもを使役し、悪の魔道師として大成することを夢みているのだが、やる事なす事すべてがその夢と相反してしまうのである。

 今回もそうだ。

 本気で闇魔道を奉ずる者なら、この夜魔ほど強力な異界の存在を見逃そうなどとは決して思わないだろう。自己おのれの魔力を見せつけ、膝を折らせようとするに違いない。それを、ダークレギオンは怒りにまかせて追いかえしてしまおうと云うのだから、何をかいわんや、である。

 シャドウファングの溜息にはかまわず、印を結んだダークレギオンは『退去』の呪文を唱えはじめていた。


 異界の存在よ、消え失せよ。

 汝が在りしは我が魔力あつめし場所なり!

 我が魔力にて汝の身体を縛りし場所なり!


 ダークレギオンの呪文が目に見えない力となって、夜魔の全身を束縛してゆく。

『くぅ……意外にやるな、貴様』夜魔は歯ぎしりして唸った。『人間ごときの魔法陣では、この吾輩を異界へ戻すことはおろか、縛ることもできはしないと思っていた……甘く見ていたというわけかっ!』

 夜魔は、いきなり猿臂を伸ばしてダークレギオンの襟首をつかもうとした。闇魔道士が飛び退がって避ける。

 だが、夜魔の腕は常識を無視した勢いで伸びつづけ、ダークレギオンの後を追った。脚が魔法陣に束縛されているため、腕だけで闇魔道士を捕らえようというのだ。

「ちぃ……っ!」

 ダークレギオンの頬を夜魔の爪がかすめた。端正な白い顔に一筋の傷が走る。

「いけない!」

 シャドウファングが悲鳴を上げた。異界の存在のうちでも、夜魔ほどに強力な魔物ともなると、たとえ血の一滴からでも、その持ち主を呪い、苦しめることができるはずだ。

 果たして、夜魔は勝ち誇った表情を浮かべた。爪の先に付いたダークレギオンの血を長い舌で、ぺろりと舐めとる。

『これで貴様の生命いのちも終わりだな』

 夜魔は舌先に乗せた血のしずくを、これ見よがしに転がしている。

「……どうする気だ?」

 ダークレギオンが低い声で問いかけた。

『そうだな……どうしてくれようか』夜魔は、くっくっと嘲笑わらい声を漏らした。『吾輩が、この血滴しずくを呑みこめば、貴様の生命はすぐにでも消える。だが、一度は吾輩に膝を折らせようとした身のほど知らずの魔道士を、そう簡単に始末してしまっては面白くないな』

「思いどおりにさせるか!」

 ダークレギオンは懐に携えていた短剣をすらりと抜くや、地を蹴った。夜魔の舌を斬りおとし、我が血を取り戻そうというのだ。

 だが、夜魔もダークレギオンの攻撃をただ待っているだけの間抜けではない。黒い翼をばさりと拡げ、闇魔道士めがけて一気に羽根を射出してくる。

「ご主人さま、伏せて!」

 シャドウファングがダークレギオンに体当たりした。ひとつになって転がった二人の身体をかすめ、何本もの羽根が続けざまに地面に突き立つ。

『忠実にして優秀な下僕を持っているではないか』夜魔が口唇を歪めた。『吾輩の羽根を二度までも見切り、すべてかわすことができるとはな』

 主人よりも一足早く起きあがったシャドウファングは腕を上げた。人差し指をびしぃっと夜魔の鼻先に突きつける。

「ご主人さまに危害を加えることは、このぼくが許さないぞ!」

『ゆるさないぞ、か』夜魔が愉快そうに繰りかえした。『では、どう許さないというのか、見せてもらおう!』

 夜魔が再び猿臂を伸ばし、今度はシャドウファングの首根っこをつかもうとした。若者は素早く横に転がって、その攻撃を避ける。

「逃げてるだけじゃ駄目だ」シャドウファングは油断なく夜魔の動きを観察していた。「なんとかして、ご主人さまの血を奪いかえさないと」

 シャドウファングが夜魔と睨みあっている間に、ダークレギオンは体勢を立てなおしていた。再び護符を掲げ、呪文を唱えだす。


 去れ、異界の存在よ!

 我が描きし魔法陣を異界への門と為して、

 去れ、異界の存在よ!


 闇魔道士の呪文が目に見えない手となって夜魔を押さえつけにかかる。魔法陣を門として強引に異界へ送りかえそうとしているのだ。

『そうはさせん!』夜魔が舌先から指先へとダークレギオンの血滴を移した。『吾輩の呪力のすべてを賭け、この血の持ち主の生命いのちを絶ってやる!』

 呪詛のこもった言葉とともに、赤い血滴が鈍い光沢を帯びた紅玉へと変化してゆく。夜魔は、にやりと笑って紅玉をつまんだ指に力を加えた。

「やめろぉ!」

 夜魔の指先に力がこもるのと同時に、シャドウファングが地面を蹴った。夜魔の手元に飛びついて紅玉を奪い取ろうとする。

『えぇい、うっとうしい!』

 夜魔は腕を大きく振り、シャドウファングの横面を張り飛ばした。

 若者は悲鳴ひとつ上げる間もなく、空き地の隅へと吹っ飛ばされて篝火の台に叩きつけられる。台が崩れ、シャドウファングは全身に火の粉を浴びながら暗い森のなかへと転がっていった。

「シャドウファング!」ダークレギオンが顔色を変える。「貴様、よくも俺の下僕を!」

『ふん』夜魔は、つまらなさそうな表情になった。『その下僕が役に立たんから、吾輩のような異界の存在を喚びだそうとしたのだろう? 人間というのは、ころころ気分を変える、いいかげんな生き物なのだな』

「ぅるさいわっ!」図星をさされたダークレギオンは真っ赤になって怒りだした。「役に立とうが立つまいが、俺の下僕には違いない! 貴様の好き勝手にはさせん!」

 闇魔道士は護符を夜魔の鼻先に突きつけんばかりにして、呪文を続けた。


 去れ、異界の存在よ!

 我が描きし魔法陣は、

 異界への門となりて汝を退去せしめん!

 異界への門を通りてく異界へと去れ!


 ダークレギオンの怒りの呪文は渦を巻き、夜魔に襲いかかっていく。目に見えぬ鎖となって絡みついてくる呪文に、夜魔は激しく苛ついた。黒い翼を何度もはばたかせて、その鎖を断ち切り、打ちはらう。

『まったく鬱陶しい人間だ』夜魔は、ぶるっと全身を震わせた。『とっとと貴様を葬って自由の身になるとしよう』

 夜魔が指先に力を込めた。ダークレギオンの血滴から生まれた紅玉に、ぴしぴしとひびが入っていく。

「ぐうぅ……っ……」

 ダークレギオンは心臓のあたりに鋭い痛みを感じ、思わずその場にうずくまった。

『もろいものだな、人間とは』夜魔は傲慢な笑みを見せる。『たかだか心臓が砕け散るぐらいのことで簡単に死んでしまうのだから』

「くそぉ……シャドウファングっ……シャドウファング、何とかしろぉっ!」

 ぎりぎりと絞めつけてくる痛みに胸元をかきむしり、ダークレギオンは怒鳴った。彼のことを、役に立たないだの必要ないだのと評価したことなど、すっかり忘れている。

『いくら呼んでも無駄だと思うぞ』夜魔の口調は楽しそうだ。『吾輩の一撃をまともに喰らって吹っ飛んだのだ。今ごろはよくても気絶、悪くすれば息の根が絶えて──』

 夜魔の言葉が途切れた。紅玉をつまむ指先から注意が逸れ、力が抜ける。ダークレギオンは息を切らしながらも、よろよろと立ち上がった。

『あれは……何だ?』

 夜魔の意識は、森の奥から聞こえてくる奇妙な唸り声に向けられていた。犬の声にしては低く、猫の声にしては重い、いっぷう変わった唸り声だ。

「シャドウファング、か……」

 ダークレギオンはくらくらする頭を振り、あらためて護符を掲げなおした。

 唸り声が一際たかくなったかと思うと、真っ黒な獣が森のなかから飛びだしてきた。獣は弾丸のように一直線に宙を飛びすぎ、夜魔の手元に踊りかかる。

『き、貴様は!』

 夜魔が身構える隙もなかった。

 獣は白い牙を剥き、夜魔の指ごと血滴から生まれた紅玉を咥えこんだ。ごりり、という嫌な音とともに、夜魔の指が食いちぎられる。

「よくやった、シャドウファング!」

 ダークレギオンが、してやったり、という笑みを見せた。獣は夜魔の指と紅玉とを口中に含んだまま、再び森のなかへと姿を消す。

『何だったのだ? 今のは……』

 呆然と呟いた夜魔は、はっとなって闇魔道士のほうを見た。ダークレギオンはすでに呪文の詠唱に入っている。


 去れ、異界の存在よ!

 我が描きし魔法陣を、異界への門と為して、

 疾く、異界へと去れ!


『止めろ、その呪文を止めろぉ!』

 二本の指を失い、黒い血のしたたる手を押さえて夜魔が絶叫する。夜魔の一瞬の隙をつき、闇魔道士の呪文が、その場を席捲しつつあった。

「もう遅い! 貴様は異界へと戻るのだ。この俺様の呪文によってな!」

 ダークレギオンは護符を握りしめた手を一振りした。目に見えぬ呪文の渦が一点に集中し、魔法陣を通して異界へと夜魔を押しこんでゆく。

『何ということだ……この吾輩が……この吾輩が、まさか人間の魔道士ごときに……!』

 悔しさを隠しきれない無念の声を残し、夜魔は異界へと追いかえされていった。二本の指が欠けた、おぞましい手が最後まで未練がましく天空へ向けて伸ばされていたが、それも次第に異界へと引きずりこまれていく。

「やった……」

 夜魔の全身が完全に魔法陣へと吸いこまれたところで、ダークレギオンはようやく一息ついた。きょろきょろと辺りを見まわす。

 空き地の隅──倒れている篝火の台の近くで、茂みががさがさと音を立てた。

「シャドウファングか?」ダークレギオンは畳んであったローブを拡げて羽織りながら声をかけた。「ご苦労だったな。帰るぞ」

「そ、それじゃ、ご主人さま」茂みの陰から、ひょっこりと若者が顔を出した。「もう、異界から下僕を喚ぶのは止めるんですか?」

「今夜のところは、な」闇魔道士は面白くもなさそうな表情で言った。「この魔法陣はもう使えんし、いまさら新しく魔法陣を描く時間もない。つまり、次の新月までは何もできん、ということだ」

 ダークレギオンは、魔法陣を描くのに使った狂犬の骨を取りだし、描いたときとは逆の筆順で魔法陣をなぞり、その線を消していた。きっちりと手順を踏んで魔法陣を消しておかないと、魔法陣の魔力が描き手へと逆流し、悪影響をおよぼすことになるのだ。

 ごそごそと茂みをかき分け、シャドウファングが姿を見せた。身に着けているのは麻の肌着の上下だけだ。片手に先ほどまで身につけていた上着の類を丸めて抱えている。

「ご主人さま、これ、どうしましょう?」

 シャドウファングが手に持っていた紅玉をさし出した。

「ああ」

 身を起こしたダークレギオンは紅玉を受け取り、ぽいと口へ放りこんだ。そのまま、ごくりと呑みくだしてしまう。

「だ、大丈夫なんですか?」身繕いしていたシャドウファングが驚いて尋ねた。「それ、あの夜魔が作った紅玉なんですよ?」

「そのとおりだ」何を当然のことを、という口調でダークレギオンが応えた。「だが、元をただせば俺の血だ。俺が呑もうがどうしようが、何の問題もあるまいが」

「いや、そりゃそうですけどね」シャドウファングは鼻の頭に皺を寄せた。「でも、あの夜魔の呪力が加わってるんですよ?」

「だからこそ、だ」ダークレギオンは嬉しそうに言った。「強い呪力によって変化した自己おのれの血を呑むことで、俺の魔力はまた強くなるだろう。下僕は喚びだせなかったが、魔力を強化できたのは収穫だったな」

 闇魔道士は魔法陣の残りを手早く消して、さっさと空き地を後にする。

 残されたシャドウファングは自分の衣服を調え、荷物をまとめ、篝火を消して丁寧に火の始末をした。まとめた荷物を背負い、溜息をつく。じきに夜が明けてしまう時刻だが、急いで帰れば少しぐらいは眠ることができるだろう。

「まったく、うちのご主人さまは下僕使いが荒いんだから……どんな下僕を喚びだしても長続きはしないと思うな」

 独りごちたシャドウファングは、ふと森のなかへと視線を向けた。茂みが微かに揺れて、何者かがそこにいることを教えている。

「ごめん、今夜は疲れちゃったんだ」シャドウファングは申しわけなさそうに頭を下げた。「もう帰るよ。そのかわり、明日、時間を作って必ず来るから。ね?」

 茂みの向こうの何者かは、くふん……と獣が鼻を鳴らすときに似た音を立てた。その気配が去っていくのを確かめ、

「さて、と……」

 シャドウファングは火が完全に消えていることを確かめてから、主人と二人暮らしの屋敷へと帰っていったのだった──。

 

 闇魔道士ダークレギオンの住処すみかは村の外れにある。

 もともと村の物持ちが隠居所として建てた屋敷に闇魔道士が手を加えたもので、広いことと、造りがしっかりしていることだけが取り柄という建物だ。

 このだだっ広い屋敷に、ダークレギオンとシャドウファングの二人だけが住んでいる。もちろん、ダークレギオンは家事の「か」の字もしようとはしない。日常のこまごまとした雑用は云うに及ばず、季節ごとの衣服の入れ替えから食料庫やワイン蔵の管理、庭に放し飼いになっている鶏の世話から栽培している野菜やハーブの手入れまで、すべてをシャドウファング一人でこなしているのである。

 忍耐づよいシャドウファングも時々は家事が嫌になり、ダークレギオンの許可を得て助手になりそうな下男下女を雇い入れてみたりもした。だが、いずれも主人であるダークレギオンの我儘と吝嗇けちに呆れはて、一月ひとつきたずに出ていってしまう。何度かそれを繰りかえしてシャドウファングも諦めがついたのか、今では、たった一人で黙々とダークレギオンに仕えているのだった。

 だから、シャドウファングの朝は早い。

 儀式の翌朝も眠い目をこすりこすり、早くから起きだした。大きな手桶を二つ提げ、勝手口から裏庭へと出る。その日に使う井戸水を汲みあげるのが、毎日の最初の仕事なのだ。

 水の味にうるさいダークレギオンは、宵越しの汲み置き水の存在など許さない。そのため、勝手口から井戸端までの通路には、わざわざ屋根がしつらえてある。雨の日でも新しい井戸水を汲みに行けるよう、ダークレギオンが作らせたのだ。もちろん、シャドウファングのためではない。汲みたての井戸水に雨水が混じることを嫌っただけのことである。

「ふわぁ……眠いなぁ……」

 よっこらしょ、と井戸端に手桶を下ろしたシャドウファングは、大きく伸びをした。からからと井戸の釣瓶を下ろしながら、今日しなければならない仕事の段取りを考える。

 昨日摘んだブルーベリーを蜜煮にすること、儀式で使った魚油や蝋燭を買い足しておくこと、ダークレギオンのローブを洗って皺を取っておくこと──そうした雑事を頭のなかに並べていくうちに、シャドウファングは大切なことを思いだした。

「しまった……肝腎の今朝のパンがないや。村まで買いに行かなきゃ」

 いつもなら夜のうちにパン種を練っておき、朝起きてからパン窯に火を入れる、というのがシャドウファングの習慣なのだが、昨夜はダークレギオンの儀式につき合っていて、それどころではなかったのだ。しかも、いくら寝たのが遅いからと云って、昼まで眠っているような主人ではない。あれで規則正しい生活をするほうだから、ダークレギオンが起きる前にパンを買ってくる必要がある。

 シャドウファングは急いで手桶に水を満たしはじめた。

 ようやく片方の手桶が水でいっぱいになったとき、井戸端から見える裏木戸のところに人影が現われた。顔を上げたシャドウファングは、にっこり笑って挨拶する。

「おはようございます、リザお嬢さん。今日もいい天気ですね」

「おはようございます、シャドウファングさん。本当にいいお天気ね」

 村長むらおさの一人娘であるリザは、栗色の髪を二つに分けて、きっちりと束ねている美少女だ。白いリボンが背中の半ば──束ねた髪の先で蝶々のように揺れている。くりくりした瞳は髪と同じ色で、いつも明るい笑みを浮かべていた。

 シャドウファングにとっては不思議でならないことなのだが、リザはダークレギオンに想いを寄せているらしい。偏屈で我儘で、ぶっきらぼうな闇魔道士のどこが気に入ったのか、リザは何かと理由をつけては、この屋敷を訪ねてくる。そのたびに、食べ物や着る物など、男所帯では不自由しがちな品物を、さりげなく差し入れてくれるのだった。

 今朝もリザの手には大きなバスケットが提げられていた。

「ダークレギオンさまは、まだお休みなんですか?」

 リザが首を傾げた。

「ええ」シャドウファングはうなずいた。「昨夜ゆうべちょっと忙しかったもので」

「そう! それです!」リザが、ぱあっと顔を輝かせる。「あたし、昨夜のことでお礼を言いに来たんです。あ、これ、今朝がた焼いた葡萄ぶどうパンなんですけど、よければ、ご朝食に召しあがってくださいな」

「はぁ……ありがとうございます」

 バスケットを受け取りながら、今度はシャドウファングが首を傾げた。リザの言う『昨夜のこと』について、まったく心当たりがなかったからだ。

「本当に助かりました」リザは、目をぱちくりさせているシャドウファングには構わず、言葉を続けた。「鍛冶屋の娘のティアは、あたしの幼馴染なんです。すごく仲良しで……だから、彼女が夜魔に取り憑かれたって聞いたときには、もう心配で心配で」

「ちょ、ちょっと待ってください、お嬢さん」シャドウファングは慌ててリザの言葉を遮った。「夜魔が、どうしたんですって?」

「だから、昨夜、ダークレギオンさまが夜魔を祓ってくださったのでしょう?」

 リザはシャドウファングの問いに微笑で答え、シャドウファングは丸い目をますます丸くして、ぱちぱちと瞬きを繰りかえした。

 その様子に、今度はリザのほうが怪訝な表情になる。

「あの……昨夜、夜魔を自分のもとにおびき寄せて追い祓ってくださったのは、ダークレギオンさまなのでしょう?」

「えぇ、確かに」シャドウファングは、かくかくと首を上下に振った。「確かに、ご主人さまは昨夜、夜魔と闘いましたけど……?」

「ほら、やっぱり!」リザが両手を打ち合わせた。「ティアが助かったのも、ベリス師が無事だったのも、みんなダークレギオンさまのおかげですわ」

「?」シャドウファングは、ぽかんと口を開けた。「ベリス師がどうしたんですって?」

 彼には、いよいよ話が見えなくなっていた。

 ベリスというのは村長の家に住みこんでいるまじない師だ。

 呪い師は、人々に害を為す異界の存在を祓ったり、薬草の知識を活かして軽い病気や怪我を治したりするのを生業なりわいにしている。どこの村にも一人や二人はいるものだが、魔道士たちとは違い、大きな魔力を使えるわけではない。それでも、異界の存在を祓うだけではなく、知識と経験を重ねて魔物を倒すすべを身につけている者が中にはいて、ベリスもそうした呪い師の一人だった。

 すでに壮年の、熟練した呪い師であるベリスは、その知識ゆえに、とくに請われて村長の家に住みこんでいた。そして、村長一家ばかりではなく、村人たちの依頼にも応じて、呪い師としての仕事をこなしているのである。

「ですからね──」

 シャドウファングとの会話が、あまりにかみ合わないことに業を煮やしたらしいリザは、最初から説明を始めた。


 数日前のこと、鍛冶屋の親方がベリスのもとを訪れた。一人娘のティアの様子がおかしいと相談しに来たのだ。

「初めて『それ』に気がついたのは、かれこれ二十日ほど前のことなんですがね」

 一人娘が気がかりで、夜もろくに眠っていないのだろう。目の周りに隈を作り、足元も覚束ない感じの親方は、真剣な表情でベリスを前に話しはじめた。仲良しのティアのことと聞いて、リザも同席させてもらっている。

「夜中に娘の部屋で話し声がするんでさ。覗いてみても、ティアはよく眠ってるし、誰の姿もないんですよ。でも、部屋の扉を閉めると、確かに話し声がするんでさ」

 朝になってから、ティアにそれとなく尋ねてみても、ずっと眠っていた、と答えるばかりで話にならない。

 そのうちに、ティアの様子が目に見えておかしくなってきた。

 村でも評判のお針子だったのに、ぼんやりしているばかりで何ひとつ仕事をしなくなった。縫い物はもちろん、簡単な家事の手伝いすらしないのだ。父や母が話しかけても、うるさそうに睨みつけるだけで、返事もしない。そればかりか、食事も満足に摂らなくなり、次第にやつれてきた。

 そんな状態が続いているので、

「これは異界の存在が関係しているのではないだろうか」

 と考えた親方夫婦は、ベリスに相談に乗ってもらうことにした、と言うのである。

「話を聞くかぎり、何らかの魔物が関わっているのは間違いないでしょうね」ベリスは眉間に皺を寄せ、難しい表情になっている。「早くなんとかしないと、娘さんの生命に危険が及んでしまう」

「そ、そんな!」親方は顔色を変えた。「ベリス師、何とかしてください。ティアはまだ嫁入り前の身なんだ。なのに、魔物に目をつけられちまうなんて──」

「異界の存在が目をつけるのは、大概が嫁入り前の清浄な娘さんか、世間ずれしていない子どもたちですよ」ベリスは親方をなだめた。「娘さんが魔物に狙われたのは、彼女が清浄な乙女だという証明のようなものです」

「そ、そうなんですかい……」

 親方が複雑な表情になる。娘のことを褒められたのは嬉しいが、それゆえに魔物に狙われたとあっては、単純に喜べないだろう。

 そして、ベリスはリザを連れてティアの様子を見に行った。異界の存在が関わっているならば危険だから家にいるように、というベリスの忠告をおとなしく聞くようなリザではなかった。それほどに幼馴染のことが心配だったのである。

 ティアは、すっかり憔悴していた。あれほど仲良しだったリザが話しかけても返事ひとつせず、視線を宙に投げているばかりだ。

「ベリス師……」

 リザの、言葉を失った問いかけに、呪い師は溜息で答えた。

「間違いない。魔物に取り憑かれているようです。とにかく、今夜は様子を見ましょう。相手の正体が判らないことには祓うこともできませんからね」

 ベリスはその晩、物陰に隠れてティアを見張ることにした。異界の存在の正体を映しだすと云う、磨き抜かれた銀ながしの鏡を持って──。


「──そこに夜魔の姿が映ったのだそうです」リザが恐ろしげに身を震わせた。「それで、ベリス師は昨夜、ティアの部屋を聖水で清め、菩提樹の枝を持って待ちかまえてたんです。聖水に触れた夜魔の姿が見えるようになったまでは良かったんですが……」

「祓うまでには至らなかったのだろう」

 不機嫌な冷たい声音がリザの言葉を止めた。

「あ、ご主人さま!」

「ダークレギオンさま!」

 二人の声が重なった。

 寝起きの闇魔道士は長い黒髪をかき上げ、白い視線でリザを見やる。

「朝早くから、にぎやかですな、お嬢さん」

「すみません」リザが、ぺこりと頭を下げた。「お起こししちゃったんですね。あたし、少しでも早く、お礼が言いたかったものですから、ついつい──」

「俺の穏やかな眠りを邪魔してくれた、というわけですか?」

 ダークレギオンの機嫌は斜めのままだ。

「すみません……」

 リザは、しょんぼりとうつむいてしまった。

「あ、あの、ご主人さま」シャドウファングが場の雰囲気を明るくしようと、手にしていたバスケットをさし出した。「リザお嬢さんに、葡萄パンをいただいたんですよ。すぐ、朝ご飯にしますから」

「起きてすぐに飯を食えるわけがなかろう」

 ダークレギオンは不服そうに鼻を鳴らしたが、それでも焼きたての葡萄パンの香りには抵抗しがたかったようで、首を伸ばしてバスケットを覗きこんでいる。

「あの、あたし、お手伝いします」

 リザの言葉を、シャドウファングは手を振ってそれを断わった。

「それよりも昨夜の顛末を、ご主人さまに話してあげてください」

 リザは、そっとダークレギオンの表情をうかがってから、いいんですか、というようにシャドウファングを見た。若者は、にこにこ笑って、うなずきを返す。

 闇魔道士はリザの話になど少しも興味はないように装っているだけなのだ。それぐらいのこと、長いつき合いのシャドウファングには簡単に見破れるのだった。

「夜魔はティアの生命力そのものが目当てだったらしいんです」水汲みを再開したシャドウファングの背後で、リザがダークレギオンに話しかけている。「だから、ティアの影に隠れて彼女の生命力を吸っていたんだろう、と今朝になってベリス師がおっしゃってました。ベリス師は昨夜、夜魔を影から引きずり出すことには成功されたんですけど、祓おうとしたところで反撃を受けてしまわれて」

「さもあろう」ダークレギオンが、ふんふんとうなずく。「あの夜魔は強い呪力の持ち主だった。なにしろ、この俺を呪縛し、殺そうとしたほどの魔物なのだからな」

「まぁ、そんなに?」リザの顔色が蒼ざめる。「それではベリス師が倒されそうになってしまったのも無理はないことですね。あのとき、夜魔がいきなり──」

 シャドウファングは、その後の展開を聞くことができなかった。水を汲み終わってしまったので、朝食の準備のために屋敷に入らなければならなくなったからだ。

 新鮮な卵を使ったココット、中庭の畑で採ったばかりのレタスや人参を切り混ぜて落花生と胡桃でアクセントをつけたサラダ、カリカリに焼きあげたベーコンなどを食卓に並べ、リザが持ってきてくれた葡萄パンに、蜂蜜の壷や杏の蜜煮の瓶を添える。

 そして、ハーブティーが周囲に芳香をまき散らしはじめたところへ、ダークレギオンがやって来た。なにやら満足げな表情だ。

「あれ、ご主人さま。いま呼びに行こうとしてたんですよ。リザお嬢さんは?」

「帰った」

 ダークレギオンは早速、食卓に着いてサラダの鉢を引き寄せる。

「なぁんだ」シャドウファングは残念そうに、手にした二つのカップを見た。「お嬢さんの分もお茶、淹れちゃいましたよ」

「おまえが飲めばいいだろう」ダークレギオンは冷たく応える。「朝食前に来たから、急いで帰らなきゃならんそうだ。ちゃんと飯を食ってから来れば良いものを、粗忽な娘よ」

 ──そりゃ、ご主人さまに早く逢いたかったんですよ。

 シャドウファングはそう言ってやろうかとも思ったが、根性曲がりのダークレギオンのこと、そんな言葉に感銘を受けるはずもない。言うだけ損だと判断したシャドウファングは、自分も食事にかかった。

 食べながら様子をうかがうと、ダークレギオンはどこか浮かれている。サラダに粉チーズをあしらってかき回したり、ココットに塩を振ったりする動作が、いちいち軽快なのだ。

「あの、ご主人さま」

「なんだ? ハーブティーをもう一杯」

「はいはい」

 シャドウファングは、すぐにポットを手にする。

美味うまいな、このパンは」

 ダークレギオンはことのほか、葡萄パンが気に入ったようだ。蜂蜜も蜜煮も付けず、一口大にちぎっては口に放りこみ、パンそのものの味を楽しんでいる。

「ねぇ、ご主人さま」シャドウファングはダークレギオンのカップにハーブティーを満たし、上目づかいに主人を見た。「それで結局、ご主人さまは昨夜なにをなさったことになってるんですか?」

「なってる、とは何だ、なってる、とは」ダークレギオンは不愉快そうに眉をしかめる。「俺は昨夜、ティアとかいう娘に取り憑き、呪い師のベリスまで手にかけようとした夜魔を我が身を呈して召喚し、魔力のかぎりを尽くして倒したのだ。村長の娘が俺に感謝するのも当然だな」

 これで、ダークレギオンの浮かれている理由がシャドウファングにも解った。自分のしたことが──偶然とは云え──讃辞の対象となったことが嬉しくて仕方ないのだ。

『それにしても、自分の志とは違う方向に話が行っちゃってることを自覚してるのかな、この人』

 シャドウファングは内心で呟いて、じっと闇魔道士を見つめた。ダークレギオンは若者の気持ちなど知りもせず、二杯目のハーブティーを片手に新しい葡萄パンをかじっている。上品にちぎる手間も惜しくなったらしい。

『やっぱり闇魔道に向いてないよ、ご主人さまは』シャドウファングは、そっと肩を落とした。『他人様に恐怖を感じさせてなんぼ、の闇魔道士志願者が、お礼言われて喜んでちゃ話にならない』

 もっとも、そういう事情があったのなら、あのいいかげんな魔法陣と、闇魔道士としては強力とは云えないダークレギオンの魔力でも、あれほどの夜魔が召喚できた理由が納得できるというものだ。

 ダークレギオンは遠き異界から夜魔を喚んだわけではない。すでに、この世界にやって来ていた夜魔が、ダークレギオンの行なった、いいかげんな召喚の儀式に興味を持ち、自分から来てくれただけのことだったのである。

『情けないなぁ、もう』

 シャドウファングは、一段と肩を落とした。

 そのとき、誰かが玄関の扉を叩いた。

 ダークレギオンもシャドウファングも、もっぱら勝手口から出入りしているので、この家の玄関は普段から閉めきったままだ。もちろん、丁寧に玄関から訪れてくるような者も滅多にはいない。ダークレギオンを「上等な呪い師」ぐらいに認識している村人が薬草をもらいに来たりするときでも、まず勝手口から声をかけてくる。

 つまり、この訪問者は村の者ではないのだ。

「シャドウファング」ダークレギオンがパンを口に入れたままで言った。「誰か来たぞ」

 だが、シャドウファングは自分の考えに没頭していて、主人の声に気づく様子はない。

「シャドウファング!」ダークレギオンが怒鳴った。「誰か来た、と言ってるだろう! この俺に門番までやらせる気か?」

「す、すみません!」

 シャドウファングは慌てて立ち上がり、日頃は近づくことさえ滅多にない玄関ホールへと走っていった。

 訪問者は埃にまみれた旅人だった。ここが魔道士ダークレギオンの屋敷であることを何度も確かめてから、油紙に包まれた紙の束をシャドウファングに渡す。旅の途中にことづかってきたのだろう。シャドウファングは、銅貨を何枚か、急いで紙に包み、村のほうへと歩いてゆく旅人の手に押しこんだ。

 一息ついて食堂へ戻ったシャドウファングは、その包みを主人の前に置いた。

「ご主人さま、お手紙ですよ。旅の人が運んできてくれたんです」

「手紙だと?」ダークレギオンはパンを飲みくだして包みを見た。「誰からだ?」

 シャドウファングは油紙の包みを開いて確かめてから答える。

「ご実家からです」

 闇魔道士は包みを見ていた視線をさっと逸らした。がたりと音を立てて椅子を蹴り、そのまますたすたと食堂を出ていこうとする。

「美味かったぞ」

 そう言い捨てたダークレギオンの上着の裾を、シャドウファングが素早く捉えた。

「だから、ご主人さま。ご実家からのお手紙ですってば」

「要らん」

「要らんったって、ぼくが読むわけにもいきませんし」

「かまわん。おまえが読んで適当に返事を書いておけ」

「そんな、無茶ですよ、ご主人さま」シャドウファングは口を尖らせた。「こないだから一通もお返事を出してないじゃないですか。いいかげんに何か送らないと、奥さまなんか、ここまでいらっしゃっちゃいますよ。それでもいいんですか?」

 ダークレギオンは苦虫を噛みつぶしたような表情になった。

「……それは……困る……」

「でしょう?」

 シャドウファングが、ずいっと手紙の束をつき出した。

 怖いもの知らずのダークレギオンが唯一苦手としているのが、実の母親のアンナなのだ。強大な闇魔道士である父・ダークスカルにさえ、「ただの説教好きの親父」という評価を下すくせに、何故か母親には頭が上がらない。

 溜息をついたダークレギオンは、あきらめたように再び手を出した。

「……で? 手紙は誰からだ?」

 一口に「ダークレギオンの実家」と云っても、そこから手紙を寄越す人物は数多い。ダークレギオンいわく、「説教のたれながし」である父親からの手紙、いつまでもダークレギオンを子ども扱いする母親からの手紙、自慢話ばかりしている兄からの手紙、枚数こそ多いが近況報告ばかりの姉からの手紙──そのほかにも乳母だの旧友だの様々な人物が手紙を送ってくる。

 ダークレギオンの実家は闇魔道士ばかりが集まって住んでいる集落にある。迂闊に他人の噂などしようものなら、次の新月の晩には間違いなく呪われていると云う土地柄だ。したがって、ダークレギオンのところへ来る手紙には、そうした「地元では口にしづらい噂」の類が書かれていることも多い。要するに、体の良い「愚痴の聞き役」として使われているわけだ。

 また、口では嫌そうなことを言ってはいても、いざとなるとダークレギオンの仕事は丁寧で、親身な返事を送ってしまうものだから、貰った側は嬉しくてたまらない。また次の手紙を貰いたくて便りを送ってくる、というダークレギオンにとってはありがたくない状況が、自分の尻尾を呑んだ蛇のごとく、延々と続くことになるのだった。

「これは旦那さまからですね」シャドウファングは一番上にあった薄っぺらい封筒をダークレギオンに渡した。「こっちは奥様から」

 二通目の封筒はおそろしく分厚かった。ダークレギオンは、げんなりとなってその封筒を受け取る。

「ほかのは?」

 シャドウファングは手紙の束をめくった。

「これは兄上さまから、これは姉上さまから。あとは隣家のイグルさまと乳母のミューラさまからですね」

「あいつら、また自慢話と茶飲み話と愚痴を送ってきやがったな」

 ダークレギオンは溜息まじりに手紙の束を受け取り、何気なくシャドウファングの手元を見た。若者の手には、まだ二通ほど手紙が残っている。

 シャドウファングが、その視線に気づいた。

「あ、これはぼく宛てです。こっちが父からで、こっちは奥様から」

「ブレードファングか」ダークレギオンはうなずいた。「相変わらず、親父にこき使われているんだろうな、気の毒に」

「父は旦那さまを尊敬していますから」

「あのクソ親父のどこが尊敬できるんだか」面白くなさそうに呟いたダークレギオンは、はたと気づいてシャドウファングを見た。「おい、母上がおまえに何の用だ? よく手紙が来てるみたいだが……まさか、二人して俺の悪口を言ってるんじゃないだろうな」

 じろりと白い視線で睨まれ、シャドウファングは慌てて両手を振りまわした。

「ち、違います違います。奥様は季節ごとに旬の野菜や果物を使った料理のレシピを送ってきてくださるんですよ。ぼく、料理は苦手なので、助けていただいてるんです」

「どうも、その慌てぶりが怪しいが……」ダークレギオンは横目でシャドウファングを睨みつけたままだ。「まぁいい。部屋へハーブティーを持ってこい。今日一日、こもる」

「わかりました」

 ダークレギオンは手紙を持って、さっさと二階へ上がっていった。文句を言いながらも、届いた手紙に返事を書くつもりなのだろう。

 そうと知ったシャドウファングは、まずダークレギオンの部屋にティーセットを運んだ。それから、大車輪で「本日の仕事」を片づけにかかる。予定していた仕事をすべて済ませたころには、もう昼近くになっていた。

 食卓にサンドイッチを準備して、保温用の布をかぶせたポットを並べておく。ダークレギオンのことだから、空腹になれば下りてきて適当に食べてくれるだろう。昼間の食事にはあまり興味を抱かない主人だから、この程度の昼食でも文句を言われることはない。

 これで夕食までの時間が確保できた。

「昨夜おそかった分、今夜は早く寝ちゃいそうだから、森へ行くなら早めに行かなくちゃ」シャドウファングは、うんうんと自分にうなずいた。「行くって約束したんだし。ぼくのお昼は葡萄パンの残りを持っていこう」

「シャドウファングは、濃く淹れたハーブティーを詰めた瓶と葡萄パン、それに自分あての二通の手紙をバスケットに入れた。

 そして、食卓に『夕食の仕度に間に合うように帰ります』と書き置きを残し、玄関と勝手口には『仕事中につき、声をかけないでください』という札をかけると、とっておきの帽子をかぶり、バスケットを提げて森へと出かけたのだった。

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