第4章 村長の娘リザ

 翌朝、ポムス=シャドウファングは難しい表情で朝食の仕度を調えていた。

 ──昨夜ゆうべ、ご主人さまに一体、何があったんだろう?

 シャドウファングの頭の中は、その考えで占められていた。

 昨夜、森から帰ってきたシャドウファングの目に入ったのは、屋敷から村のほうへ少しばかり行ったところに倒れているダークレギオンの姿だったのだ。


 屋敷の近くまで戻ってきたシャドウファングは、草や風の香りのなかに魔道で使う薬の匂いを嗅ぎとって首を傾げた。普通なら気づかない程度の匂いだが、たぬきの姿を取っていた彼の鼻には、はっきりと判る匂いだ。

「おかしいなぁ……ご主人さまは家にいるはずだし、誰がこんな薬を……こっちから匂ってくるんだけど……」

 シャドウファングは自らの鼻に導かれるままに、屋敷の脇を通りすぎて村へ向かう道を歩みだした。匂いは次第に強くなってくる。

「あれ、誰か倒れてる……?」そう気づいたとき、彼の鋭敏な嗅覚は嗅ぎなれた主人の体臭を感知していた。「ご主人さま、しっかりしてください!」

 ワーの姿となって駆けよったシャドウファングは、急いでダークレギオンを抱き起こした。闇魔道士は、ぐったりとしているが怪我もなく、どうやら気を失っているだけのようだ。それを確かめたシャドウファングは、ひとまず一息ついた。

 それから、あらためて周囲を見まわす。

「いったい何があったんだ……?」

 シャドウファングは、そのあたりに散らばっている様々な物を見て何度か瞬きを繰りかえした。

 砕け散っているのは火油が入っていた壷らしい。よく見ると、地面のあちこちに油が焦げたあとのような染みが残っている。

 また、ほとんど風に散らされてしまっているが、かすかに痺れ薬の匂いも残っていた。最初に彼の鼻に届いたのは、この薬の匂いだったようだ。甘い香りのなかに独特のツンとくる匂いが混じっている。

「こんなの滅多に使う薬じゃないのに……くしゃみが出ちゃうよ」

 シャドウファングは、鼻をぐすぐす言わせながら、なおもそのあたりに落ちている物を観察した。そして、いつもダークレギオンが首からかけている銀製の護符が泥にまみれて地に落ちているのを見つけたのである。

 思わず目を見瞠みはったとき、ダークレギオンが「うぅ……」と呻いた。

「ご主人さま!」シャドウファングは、ぺしぺしと魔道士の頬を叩いた。「大丈夫ですか? ご主人さまってば!」

 ダークレギオンが、いきなりぱっちりと目を開く。

「うわぁ!」

 驚いてのけぞったシャドウファングを、ダークレギオンは睨みつけた。

「主人の頬を気安く叩くんじゃない!」

「す、すみません」シャドウファングはダークレギオンが身体を起こし、立ちあがるのに手を貸しながら言った。「でも、ぼくだって、びっくりしたんですよ。道の真ん中に倒れてるご主人さまを見つけたときは……いったい、どうなさったんですか?」

「倒れて……?」

 ダークレギオンは小さく呟いて、ゆっくりと首を回した。その目が落ちている護符の上で留まる。

「これですか?」シャドウファングは身をかがめて護符を拾いあげた。「珍しいですね、ご主人さまが、これを外すなんて……」

「うるさい」

 ダークレギオンは低い声で言うと、シャドウファングの手から護符をひったくった。いつものように首にかけようとして銀鎖が切れているのに気づき、不快げに舌打ちを漏らす。

「本当に、どうなさったんですか? ご主人さま」

 シャドウファングは、護符を握りしめて宙を睨みつけているダークレギオンの姿にただならぬものを感じとっていた。いつも自信に満ちあふれている主人の姿が、今夜は妙に萎縮しているように見える。

「うるさい!」

 苛々と繰りかえしたダークレギオンはローブの埃をばたばたと払い、屋敷に向かって歩きだした。

「うるさいって……そんな、ご主人さまぁ」

 おろおろと後を追おうとするシャドウファングの鼻先に、ダークレギオンのローブがばさりとひるがえった。思わず足を止めた若者に、闇魔道士は冷たい声で命じた。

「そのへんに散らかったものを片づけておけ。俺は帰って寝る」

「は? はぁ……」

 シャドウファングが返事をするのも待たず、ダークレギオンはすたすたと屋敷に帰ってしまった。


「あれから家へ帰ったら、ご主人さまはもう寝てたし……本当に何があったのかなぁ?」

 シャドウファングが、ぶつぶつと呟きながらサラダに入れる夏蜜柑を剥いているとき、ダークレギオンは、まだ寝台の中にいた。

 眠っていたわけではない。その目はカッと見開かれ、天井の一点を見据えていた。

 ──あの魔物め……こともあろうに、この俺に指図をするとは……。


 昨夜、村を突っ切り、南の岩山へ赴こうとしたダークレギオンの前に、その魔物は舞い降りたのだった。夜の闇のなかに浮かぶ緋色の魔物を目にしたとき、ダークレギオンは不覚にも恐怖を覚えた。

 そして、魔物のほうは、それを見逃さなかった。

 二対の翼を拡げ、自分を取りこもうとするかのように迫ってくる魔物の姿に、ダークレギオンは恐慌パニックに陥ってしまった。準備してきた革袋の中身をさぐり、手に触れた物を取りだして即座に投げつける。

『何だ? これは』魔物──邪竜人じゃりゅうどマリグナントは、肩先に当たって破裂した痺れ薬の粉末を鬱陶しげに手で払った。『まさか、この俺様を、こんな物で追い祓えると思ったのではあるまいな?』

 皮肉にも、その小馬鹿にしたような口調がダークレギオンの闘志に火を点けた。

「ならば、これでどうだ!」

 ダークレギオンは火油の壷を取りだし、カシッと音を立てて蓋を回した。火花が散り、中の油に火が移る。ごぉっと燃えあがるその壷を、ダークレギオンはマリグナントの顔めがけて思いきり投げつけた。

『笑わせるな』

 マリグナントの手が顔の前を右から左へと動き、壷は地面に叩き落とされる。ぼっ……と地面に炎が拡がり、一瞬マリグナントの視界が赤く染まった。

 ダークレギオンはその隙をつき、首にかけていた銀製の護符を引きちぎった。右手にしっかりと護符を握り、地面を蹴る。

「喰らえっ!」

 右手を思いきり振りあげたダークレギオンは、自分よりも頭三つ分ほども高いところにあるマリグナントの額に護符を押しつけた。

『うがあぁっ!』マリグナントは額を押さえ、よろよろと後退あとずさった。『貴様、何をした?』

 マリグナントの背後に着地したダークレギオンは素早く振り向くや呪文を唱えはじめた。


 魔力を秘めし印よ、

 我が言葉を聞きて、その魔力を示せ!


 護符が、ぱあっと輝きを増した。複雑な模様の銀細工がダークレギオンの呪文を受けて、むくむくとその大きさを増し、力強く輝き始める。

『ぐあぁっ!』

 マリグナントは苦痛の叫びを発し、護符を剥がし捨てようとした。だが、護符はマリグナントの額に食いこんだかのように、ぴったりと貼りついている。

 ダークレギオンはマリグナントから視線を外さず、呪文を続けた。


 魔力を秘めし印よ、その魔力を解き放て!

 我が言葉に導かれ、異界の存在ものをつつめ!


 ダークレギオンの言葉に呼応して、護符の輝きは四方へその光輪を拡げていった。光輪は巨大な網となってマリグナントを包みこもうとする。

『やってくれるわ!』邪竜人が不敵な笑みを浮かべた。『不意を突かれたとは云え、この俺様をこんな即席の結界で抑えこもうとはな。面白い! 面白いぞ!』

 マリグナントは光の網に取り囲まれながら、ばさりと翼を拡げた。そのまま、ふわりと浮きあがる。

「上へ逃げても無駄だ!」

 勝ち誇ったダークレギオンは、なおも護符の魔力を引き出しつづける。


 魔力を秘めし印よ、

 広がりて異界の存在を内に入れよ!

 我が言葉に導かれ、

 異界の存在を我が足下あしもとひざまづかせよ!


 光の網が急速にその大きさを縮めてゆく。マリグナントの姿は引き絞られる網の中に隠れていった。拡げていた翼が折りたたまれ、すっくりと伸ばされていた手脚も曲げざるを得なくなっていく。網は光る球体となって、マリグナントをその内部にしまいこもうとしていた。

『そこそこの魔力は持っているようだな、魔道士よ!』

 余裕ある口調でマリグナントが呼びかけたとき、魔物の姿は完全に球体の中に隠れてしまっていた。それでもなお光球は小さくなっていき、ついにはダークレギオンの両掌で包みこめるほどの大きさになって、彼の足下にごとりと転がった。

「俺の勝ちだな!」ダークレギオンが叫ぶ。「貴様は俺の下僕となるのだ!」

 闇魔道士が光球に手を伸ばす。

 同時に、緋色の腕が光球の内部から、ずいっと伸びた。五本の長い爪を備えた手が、ダークレギオンの手首をがっしりと捉えた。

「な、何だと!」闇魔道士は愕然となった。「俺の、この俺の結界を──!」

『人間にしては、なかなかよくやった、と褒めてやろう』じわじわと湧き出すように、光球の中からマリグナントが姿を現わす。『だが、俺様を閉じこめるにしては、少しばかり網の細工が甘かったようだな』

 マリグナントは翼を拡げ、夜空へと舞い上がった。ダークレギオンは手首をつかまれ、マリグナントに吊り下げられる格好になる。じたばたと空しく宙を蹴る彼の足下──炎で焦げた地面に銀製の護符がからりと落ちた。

「く……っ!」

 闇魔道士はぎりぎりと歯噛みをしたが、もはや状況を逆転させることは不可能だった。マリグナントがその気になれば、いつでも彼を地面に叩きつけることができるのだ。

「殺せ!」絶望したダークレギオンは悔しげに叫んだ。「俺の負けだ。好きにしろ!」

『殺すことはせん』マリグナントの翼は、ゆるやかに宙を打っている。『貴様には俺様の手助けをしてもらう』

「魔物の手助け、だと?」闇魔道士は、ふんと鼻で嘲笑わらった。「誰がそんなことをするものか。相手を見て物を言え!」

『鼻っ柱の強い奴だ』マリグナントは苦笑した。『だが、そういう奴は嫌いではない。なにしろ俺様は寛大だからな。それぐらい態度が大きい奴のほうが手下にするには面白い』

「誰が貴様なぞの──」

 手下になるものか、と言いかえしかけたダークレギオンは、いきなり、ぐぅんと身体が上昇するのを感じて、思わず息を呑んだ。足下に見えていた地面がみるみるうちに暗くなり、あっという間に空高く運ばれてしまったことが判る。

 ──この高さから落ちたら一巻の終わりだな……。

 流石に強気のダークレギオンも、目の前に死が迫っていることに気づくと平静ではいられなかった。額に冷や汗が浮いてくる。

『怖いか』

 ダークレギオンの怯えを見抜いたマリグナントが、切りつけるように言った。

「……!」

 反射的にうなずいてしまってから、ダークレギオンは「しまった!」と口唇くちびるを咬んだが、もう遅い。マリグナントは大袈裟に首を何度か振り、

『そうだろうとも』

 と鷹揚に言った。

「くそぉ……っ!」

 ダークレギオンは自分の全面的な敗北を認めざるを得なかった。自分の魔力が相手の呪力に及ばなかったことはともかく、気力でだけは負けたくなかったのだが、弱味を見せてしまっては、もうどうしようもない。

 闇魔道士は我が意に反して、邪竜人に屈服したこととなった。

『さて、と』マリグナントは余裕の表情だ。『こんな場所では、ゆっくり話もできん。貴様に仕事をさせるには、まず仕事の内容を説明する必要があるからな』

 次の瞬間、ダークレギオンの長い黒髪が上方向に、ぴぃんとなびいた。マリグナントが常軌を逸した速度で地面に向かって急降下を開始したのだ。

「うわぁっ!」

 ダークレギオンは恐怖に駆られて悲鳴を上げた。気づいたときには地面に放り出されており、目の前にマリグナントのあかい足がある。

「な……俺は……」

 起き上がり、ぶるぶると頭を振るダークレギオンの前に、マリグナントがぬっと顔を出した。

『気絶している間に主従の契約を交わしておいてやったからな』邪竜人は如何いかにも親切そうに言った。『ありがたく思え』

「……んだとぉ?」

 憤然となって乱れた髪をかき上げたダークレギオンは、自慢の黒髪のなかに一筋、緋いものが混じっていることに気がついた。

『それが契約の証だ』マリグナントは長い爪で、その緋い髪をつまみ上げた。『俺様の翼からできている。もし、貴様が俺様の不利になるような行為をしでかそうとしたときには、この髪が貴様を天高く運びあげるだろう』

 邪竜人はそこまでしか言わなかったが、ダークレギオンにはその言葉の意味するところがはっきりと解った。

 天高く昇ったあとは地面に向かって一直線──そして「魔物に使役された挙句に殺された間抜けな闇魔道士」に成り下がってしまうことを、ダークレギオンは悟っていた。

「……で?」しばしの沈黙の後、ダークレギオンはマリグナントに向かって尋ねた。「俺に何をさせたいんだ?」

『ものわかりが良くて嬉しいぞ』マリグナントは口唇を歪めた。『貴様、名は?』

「ダークレギオン」

 闇魔道士は短く答える。

まことの名か?』

「真の名を名乗る魔道士など、いるはずがなかろう」ダークレギオンはうそぶいた。「魔道士たるもの、魔道に一生を捧げると決意したとき、それまでのすべてを捨て去っていて当たり前なのだ。俺も、真の名は捨てた」

『ふ……ん?』

 マリグナントは疑わしげな視線でダークレギオンを見た。

 真の名を知っていれば、相手のすべてを支配することができる。それゆえにダークレギオンの名前を尋ねたマリグナントだったが、契約の証があれば、真の名を知っていようがいまいが関係ない、と思ったのだろう。それ以上、闇魔道士を詰問しようとはしなかった。

「俺も雇い主の名ぐらいは知っておきたいんだがな」

 ダークレギオンが上目づかいにマリグナントを見る。

『そうだな。貴様にはそれを知る権利がある。俺様の名はマリグナントだ。邪竜人マリグナント』名乗った後で、緋い肌の魔物は微かな笑みを浮かべた。『教えておいてやるが、これは俺様の真の名だ。それを貴様が知っていたところで、どうしようもないだろうがな』

 ダークレギオンにも、それは解った。

 たしかに、この「世界」での音では「マリグナント」という発音がもっとも魔物の名前に近いのだろうが、「異界」では違う音で響いているはずなのだ。異界の存在の名前を、この世界の存在が正確に発音することは不可能に近いだろう。

「……で?」ダークレギオンは先の質問を繰りかえした。「俺に何をしろって?」

『難しいことじゃない』邪竜人は言った。『この村の何処かにある呪物じゅぶつを見つけろ』

「呪物?」ダークレギオンは眉をひそめた。「何に使う呪物だ?」

『判らん』邪竜人の答は簡潔を極めている。『判らんが、かなり強力な呪物だ』

「そんな呪物がこの村にあるというのか?」

 ダークレギオンには信じられなかった。もし、本当にそんな物があるのなら、今までに耳にしていてもおかしくないはずだが、そんな話は聞いたこともない。

 ダークレギオンがそう言うと、マリグナントは、

『そうかもしれんな』

 と肩をすくめた。

「そんな雲をつかむような話の真偽を、俺に確かめさせようというのか?」

 ダークレギオンの問いに、マリグナントはうなずいた。

『俺様に判るのは、この村の何処かに強い呪力を秘めた物がある、ということだけだ。先刻さっきから村の上を飛んで呪物の在処ありかを探ってはみているが、今ひとつ判らなくてな』

「そっちに判らんものが俺に判るわけがないだろう」

 ダークレギオンは思いきり皮肉を言ったつもりだったが、マリグナントは真面目な表情で『それはそうだ』と応えた。

「なら、俺にどうしろと言うんだ?」

 ダークレギオンは皮肉が不発に終わった不愉快さを隠そうともせずに尋ねた。

『俺様が呪物を見つけられない理由はただ一つ──その呪物に、異界の存在には判らぬような結界が施されているからだろう』

「そういうことか」ダークレギオンはうなずいた。「それで、俺に呪物を見つけてこい、と言うんだな」

『ついでにってこい』マリグナントは事もなげに言った。『俺様の呪力をもってしても見つけられないということは、呪物を隠している結界はそれなりに強力なものだろう。異界の存在にとっては破りづらいものに違いない。だが、この世界の存在であれば──』

「破れるかもしれん、ということか」

 ダークレギオンの言葉に、マリグナントは満足そうな笑みを浮かべた。

『その呪物があれば、俺様は一族のなかでも抜きんでた存在になれるに違いないからな。貴様が動きやすいよう、今しばらくは、この村を襲わずにおいてやる』

 そう言うと、マリグナントは翼を拡げ、たちまち闇の中に姿を消した。

「覚えていろ!」ダークレギオンは思わず叫んでいた。「俺は貴様の言いなりになど決してなら──」

 言い終わらないうちに、闇魔道士の身体は一筋の髪に引っ張られ、空高く運ばれていた。

『言っただろう? 貴様には、俺様の不利になるような行為はできないのだ。そういう契約だからな』

 ダークレギオンの身体はいきなり落下を始めた。ぐんぐんと速度を増して地面に近づいていく間に、マリグナントの声が響いた。

『よくおぼえておけ。貴様は俺様の言うことを聞くより仕方ないのだ、ということを──』

 眼前に地面を見た、と思った瞬間、ダークレギオンの意識は、ふっと遠くなっていた。


 ──あの野郎……。

 ダークレギオンは起きあがるや、悔しさのあまり、枕をつかんで壁に投げつけた。ぼすん、と鈍い音がして、枕に詰められていた羽根が何枚か宙に散る。

 ──この俺が、いつまでもおとなしく言いなりになっているなどと思うなよ。

 闇魔道士は、ぎりぎりと口唇を咬んだ。

 マリグナントが欲しがる「強力な呪物」が何なのか判ったら、自分がそれを利用してやる。呪物の力が手に入れば契約の証など何するものぞ、だ。

 そう決意したダークレギオンは、寝台から出ると大きく伸びをした。

「ご主人さまぁ」階下でシャドウファングが呼んでいる。「ご主人さま、朝ごはんができましたよぉ。召し上がりますかぁ?」

 返事の代わりに、ダークレギオンは音を立てて部屋の扉を開けた。部屋着のまま、すたすたと階段を下りてゆく。

「おはようございます、ご主人さま」

 シャドウファングの挨拶に、ダークレギオンは「ん」と一声返しただけで席に着いた。さし出されるがままにカップを受けとり、熱いハーブティーを口にする。

 シャドウファングは台所と食堂とを忙しく往復して、パンの籠やサラダの鉢、燻製肉を添えた目玉焼きの皿などを運んだ。彼が、ようやく自分の椅子に座ったとき、ダークレギオンはすでに三枚目のライ麦パンにかじりついていた。

 ──食欲はあるんだ。

 昨夜の様子からダークレギオンの体調を心配していたシャドウファングは、思いのほか元気そうな主人の姿に、ほっと胸を撫でおろした。同時に、昨夜から抱いていた疑問がむくむくと頭をもたげている。

「ご主人さま」シャドウファングは、つとめて何気ない口調で切り出した。「今朝はよく召し上がりますね」

「腹が減ったからな」

 ダークレギオンは木で鼻を括るような返事をした。

昨夜ゆうべそんなにお疲れになったんですか?」

 シャドウファングの問いに、闇魔道士は何も答えなかった。代わりにカップをつき出し、

「もう一杯」

 と言う。

 シャドウファングは新しいハーブティーを淹れながら、なおも言葉を重ねた。

「ぼく、びっくりしたんですよ昨夜は。ご主人さまが道に倒れてるなんて思わなかったし。よかったら、何をなさってたのか教えてください。火油の壷と痺れ薬を使われたことは判りましたけど、ほかにも使った道具があれば、補充しておかなきゃなりませんし」

「使ったのは、それだけだ」湯気を立てるカップを受けとってダークレギオンは言った。「魔物を下僕にするために新しい呪文を研究しているうちに、疲れて倒れたらしい。心配かけて、すまなかったな」

 ──……怪しい。

 シャドウファングは、あまりに素直なダークレギオンの言葉に本能的な疑いを抱いた。主人が幼いころから仕えてきた彼は、ダークレギオンが素直にものを言うときに限って何か裏がある、ということを経験的に悟っていたのだ。

 ──とんでもなく初歩的な失敗をしたとか、そういう事情なのかなぁ。ご主人さま、気位が高いから、きまり悪くて、そのへんを突っ込まれたくないのかも。

 ダークレギオンの行動ならば大概のことは読めるつもりのシャドウファングだったが、さすがに主人がすでに邪竜人と相見あいまみえているとは思わなかった。まして、魔物に隷属する身になっているとは想像もついていない。

 ──とりあえず、ご主人さまの調子は悪くなさそうだし、これ以上、何も尋かないほうがいいんだろうな。下手なこと言うと、口もきいてもらえなくなっちゃうし。

 そう思ったシャドウファングは、それ以上の質問は控えることにした。そんな彼に向かって、今度はダークレギオンが口を開いた。

「ところで、おまえは?」

「はい?」

 質問の意味をつかみきれず、シャドウファングは問いかえした。ダークレギオンは呆れたように言葉を足す。

「おまえはなんで昨夜、外に出たんだ? 俺が出かけたのに気づいて追ってきたのか?」

 シャドウファングは、ぷるぷると首を左右に振った。

「いいえ、ぼく、ご主人さまが出かけられたのは知らないんです。ちょっと出かけてて、帰ってきたとき、痺れ薬の匂いに気がついて、それで──」

何処どこへ行ってた?」自分のことは棚に上げ、ダークレギオンは鋭い目でシャドウファングを見た。「主人たる俺に黙って夜遊びか?」

「夜遊びなんて、とんでもない!」シャドウファングは慌てて両手を振りまわした。「森へ行ってたんです。森の仲間のほうが魔物のことには詳しいんじゃないかと思って話を聞いてきたんですよ」

「仲間ぁ?」ダークレギオンは胡散くさそうに眉をひそめた。「このへんの森に狼の群れなんて住んでるか?」

「狼はいませんけど……あの……」シャドウファングの声が、ちょっと小さくなった。「あの……狸、が」

「ああ、母方の親戚か」ダークレギオンはうなずいた。「で? 何か話は聞けたのか?」

 ──母方の親戚って……まぁ、そうなんだけど。

 シャドウファングは「物は言いよう」という諺の意味を身をもって知った気がした。

「どうなんだ?」ダークレギオンが、ぼーっとしているシャドウファングの様子に苛々して答を促した。「何か役に立つ話を聞くことができたのか?」

「あ、すみません」シャドウファングは慌ててダークレギオンのほうへ向きなおった。「えっと、狸の長老が言うには、

『クライス村の長の家に強力な呪物が伝わっていて、それを使って魔物を追い祓ったことがあるはずだ』

 って──ご主人さま?」

 シャドウファングは、ダークレギオンがぴくりと眉を寄せたきり、視線を宙に漂わせているのを見て、思わず呼びかけた。だが、闇魔道士は思考の海に身を沈めていて返事ひとつしない。

 ──強力な呪物、か……あのマリグナントとか云う奴が話していたのは、そいつのことだな。

「あの、ご主人さま?」シャドウファングがダークレギオンの鼻先でひらひらと手を振る。「ご主人さま、聞いてらっしゃいます?」

 いきなり、ダークレギオンが立ちあがった。

「行くぞ」

 と言うや、さっさと食堂を出ていく。

「待ってください、ご主人さま!」

 シャドウファングは急いでダークレギオンの後を追った。途中、昨夜のうちに火のしを当てておいたローブを洗濯部屋から持ち出す。階段の下の物置から靴磨きの道具も引っ張り出した。

「シャドウファング!」ダークレギオンの苛々した声が階上から降ってきた。「ローブがないぞ! それに靴が埃だらけだ!」

「はいはい、ただいま!」

 叫びながらダークレギオンの部屋へ飛びこんだシャドウファングは、脱ぎ散らかされた部屋着に足を取られ、危うくひっくり返りそうになった。

「何をしてるんだ」ダークレギオンはすでに身仕度を終え、靴を履いてローブを羽織ればいいだけという態勢になっている。「遅いぞ、まったく」

「どちらへいらっしゃるんですか? ご主人さま」

 靴にブラシをかけながら、シャドウファングが尋ねた。

「村長のところだ」ダークレギオンは自分でローブを羽織り、鏡を覗きこんでいる。「その呪物とやらがあれば、魔物を退治できるんだろう?」

「『追い祓った』って聞きましたよ、ぼくは」シャドウファングは主人の足元に、ぴかぴかになった靴をさし出して言った。「それに、魔物を簡単に退治できるような代物なら、どうして村長は、その呪物をベリス師なりご主人さまなりに託さないんでしょう。そう簡単に使えるような呪物じゃないってことなんじゃないですか?」

「そんなことは聞いてみなければ判るまい」ダークレギオンは履き心地を確かめるかのように、カンと靴の踵を鳴らした。「呪物が宝石か何かで出し惜しみしてるのかもしれん」

 ──そんな馬鹿な。

 シャドウファングは「それはないな」と確信した。

 リザの父──村長のカディムは、自分が治める村の危機を黙って見ているような人物ではない。呪物を使えない理由があるのか、あるいは、

 ──以前に呪物を使ったのがすごく昔の話で、存在自体が忘れ去られちゃってるか……。

 いずれにしても、ダークレギオンが邪竜人に勝てる可能性が、どんどん小さくなっていくことは確かだ、と思ったシャドウファングは小さく溜息をついた。

 いっぽう、ダークレギオンは、考えこんでいるシャドウファングには構わず部屋を出た。足早に階段を下りていく。

「あっ、ご主人さま!」

 シャドウファングが部屋を出たとき、ダークレギオンはすでに外へ出ていた。そのまま、さっさと村のほうへ向かう。その足取りは普段の彼に比べて数段速く、ようやくのことでシャドウファングが追いついたとき、そこはすでに村長の家の玄関先だった。

「おい」

 ダークレギオンは、肩で息をしているシャドウファングに合図した。おとないを入れろ、というのだ。

「は……はいぃ……」

 ようやくのことで息を整えたシャドウファングが、ノッカーに手を伸ばしたとき、扉が内側からバタンと開いた。

 そして、栗色の髪の少女が二人を出迎える。

「おはようございます、ダークレギオンさま、シャドウファングさん」

「おはようございます、リザお嬢さん」シャドウファングは目をぱちくりさせた。「ぼくたちが来ること、判ってらしたんですか?」

「ベリス師が、かなりの魔力の持ち主が我が家に近づいてくるから、おそらくダークレギオンさまだろうって」リザはにこにこ笑っている。「さすがはベリス師ですね」

 ──やっぱり、ご主人さま、本調子じゃないんじゃないか?

 口では「いきなり出てらっしゃるから、びっくりしましたよぉ」などと世間話をしながら、シャドウファングの神経は背後に立つダークレギオンに向けられていた。

 それなりの魔力を持つ魔道士ならば、自分の存在を安易に他者に気取けどられるような真似はしないものだ。ともすれば発散しようとする魔力を意識的に抑え、周囲の空気に溶けこむよう、心がける。

 ダークレギオンは、そういうことについて人一倍、神経を遣うほうだった。不必要に目立つことを嫌い、常に魔力を隠している。彼自身は「能ある鷹は爪を隠す」からだと主張しているが、本当の理由は自らを護るためだということを、シャドウファングは承知していた。強い魔力の持ち主だと判れば、異界の存在に狙われる確率が高くなる。異界の存在たちにとり、自分たちを隷属させる危険性のある存在は邪魔なだけだからだ。

 また、魔道士のなかには、強大な魔力の持ち主を倒すことで自分の魔力を高められる、と考えているやからも多い。迂闊に魔力を誇示すれば、闇討ちに遭う危険性も出てくる。

 ダークレギオンは、無意味な闘いで自分の生活を乱されることを嫌い、魔力が外に現われないよう、常に気を遣っていた。

 ──なのに、ベリス師に「魔力の持ち主が近づいてる」と判ったってことは、ご主人さまの魔力が外に漏れてるってことだ。ご主人さまが、自分で魔力を制御できなくなってるのか……? それとも……。

 ダークレギオンがシャドウファングの傍らをすり抜け、リザに導かれて村長の家に入っていく。闇魔道士の黒髪が、ふわりとシャドウファングの頬を撫でた。

 ──あれ?

 シャドウファングは、鼻先になびいた髪の先から主人のものとは異質の「におい」を嗅ぎとって、ふと首を傾げた。

 ──今の「におい」……何だ?

 何処かで嗅いだような気はするのだが、憶いだせない。何かが喉に引っかかったような不快感を覚え、がしがしと頭を掻きむしるシャドウファングの前に、リザがひょいと顔を出した。

「わぁ!」シャドウファングは文字どおり飛びあがった。「びっくりさせないでくださいよ、リザお嬢さん」

「だって、シャドウファングさんったら、何度お呼びしても入ってきてくださらないんですもの」

 リザは小さく頬をふくらませる。

「す、すみません」

 シャドウファングはあたふたとリザの後について、家の中へと入った。

 絨毯が敷かれた居間で、村長のカディム、呪い師のベリス、それにダークレギオンが車座になっている。

「何をしていた?」ダークレギオンが不機嫌そうに言った。「さっさと座れ。それから、おまえが母方の親戚から聞いてきた話を、この二人にも聞かせてやるんだ」

「は、はぁ……」

 シャドウファングは、カディムたちへの挨拶もそこそこに、きっちりと膝を揃えてダークレギオンの隣に座った。それから、たぬきの長老に聞いた話を披露する。

 シャドウファングが話し終えたとき、カディムが「うーむ」と唸り声を漏らした。

「どうだ? そんなような呪物に心当たりがあるか?」

 ダークレギオンは身を乗り出した。相手が村長だろうが誰だろうが、尊大な口のききかたを変えようとはしない。

 普通の若者がそんな態度を取ったら説教のひとつも始めるであろうカディムも、ダークレギオンに対しては文句を言おうとしなかった。彼の魔道士としての実力をそれだけ重く見ている、ということだ。

「心当たりはあります……しかし、役に立ちそうにない」

 カディムの悔しげな言葉に、呪い師と闇魔道士は怪訝な表情になった。

「何故です?」ベリスが村長を見る。「そんなに扱いが難しい呪物なのですか?」

「どんな代物だろうと、俺ならば、その能力を引き出してやることができると思うがな」

 ダークレギオンも口を出す。

 だが、カディムはゆっくりと首を左右に振った。

「我がクリスタル家に伝わる呪物は、クリスタル家の血を引く乙女にしか使うことはできない、と云われています。昔は、我が家にも魔力を持った者が度々生まれたようですから、シャドウファングさんが聞いてこられた話に出てくる『魔物を追い祓った娘』というのも、おそらくは、そうした一人だったのでしょう。しかし──」

 カディムは言葉を切って口唇を咬んだ。眉をしかめ、苦渋に満ちた表情を浮かべている。

「しかし──何だ?」

 ダークレギオンが促した。

「はっきり言って、リザには魔力のかけらもありません。それはベリス師もダークレギオンどのも、お解りになるでしょう」

「そうか……」ベリスが呟いた。「クリスタル家の血を引く乙女はリザだけだ……」

「はい」カディムがうなずく。「私ども夫婦の子はリザだけで、弟のところの子──リザには従兄弟にあたる三人は皆、男です」

 強力な力を秘めた呪物も、その力を引き出すことができなければ無用の長物だ。そして、呪物を使いこなすには、それなりの魔力が必要となってくる。

「クリスタル家の血を引く乙女にしか使えない、というのは確かなのか?」ダークレギオンが尋ねた。「ほかの者でも使えるという可能性はないのか」

「それも考えなくはなかったのですが……」

 カディムの言葉は何処となく歯切れが悪い。

「まぁ、いい」ダークレギオンは長い髪をかき上げて言った。「とにかく、一度その呪物を見せてくれ。俺なら何とかできるかもしれんからな」

「わかりました」

 カディムはうなずくと席を立った。入れ違いにリザが入ってきて、三人に茶を出し、何も言わずに奥へ引っこんだ。要らぬ差しで口をせぬよう、両親に念を押されたのだろう。

「ベリス師は御存知なかったんですか? その呪物のこと」

 シャドウファングは、心にあった疑問を口に出した。

 呪い師は苦笑して「そうなんですよ」と答えた。

「この家の血を引く乙女にしか使えない、という伝承を丸呑みにしてるわけか」ダークレギオンが鼻白む。「素人が自分だけで判断するなど、もってのほかだ」

「しかし、村が魔物に襲われようというときにも呪物のことを言い出されなかったのですから、村長には村長なりの確信がおありなのではないですかな」

 ベリスが、やんわりと言った。シャドウファングもその意見に賛成して、うんうんとうなずく。ダークレギオンだけが一人、そっぽを向いていた。

「お待たせしました」居間へ戻ってきた村長は小さな箱を手にしていた。「これが我が家に伝わる呪物です。“枯渇水晶こかつすいしょう”と呼ばれていますが」

 それは、一辺の長さが大人のてのひらの差し渡しほどの、何の変哲もない真四角な木箱に見えた。とても、魔物を追い祓うだけの呪物が入っているとは思えない。それだけの呪物が入っているのなら、厳重に封印されていてもおかしくはないはずなのに、蓋のところに紐を回して結んであるだけという簡潔さだ。

「“枯渇水晶”、か……」

 ダークレギオンが箱を受け取った。紐を解き、蓋を開ける。

 箱の中には厚い布に包まれた物が入っていた。ダークレギオンはそれを取り出し、傍らに置いた箱の蓋に乗せる。

「魔力の類をまったく感じない」ベリスが独り言のように呟いた。「本当に、これが呪物なのか……?」

 ダークレギオンは黙ったまま、布包みを開いた。正八面体に磨きあげられた無色透明の水晶が姿を見せる。ダークレギオンの掌に、すっぽりと収まってしまう程度の大きさだ。

「正八面体の水晶、か……珍しい磨きかたではあるな」

 ダークレギオンは水晶をめつすがめつしてみたが、ベリスの言うように、魔力のこもった呪物であるという感触はない。ちょっと変わった仕上げがしてある水晶、という他には見るべきところもないように思われる。

「私の曾祖母にあたる者が多少の魔力を持っていました」カディムが口を開いた。「まだ私が幼いころ、彼女がその水晶を手にしたところを見たことがあります。そのとき、水晶は虹色に輝いたのです」

「虹色に……?」

 ベリスは半信半疑という表情だ。

「しかし、私もそれ以来、この水晶がそんなふうに輝くところは見たことがありません。リザに持たせてみたこともあるのですが、変化は見られませんでした」

 カディムの言葉に、ダークレギオンは溜息をついた。

「腹立たしいことだが、俺にもどうしようもないかもしれん。だが」闇魔道士は探るような視線で村長を見た。「もうすこし調べてみたい。借り受けても構わんか?」

「ダークレギオンどのでしたら」

 カディムは微笑を浮かべてうなずいた。

 ダークレギオンは、きまり悪そうな表情になって、もう一度“枯渇水晶”を布で包み、丁寧に箱にしまった。

 それを見ていたベリスが、ふと思いついた、という視線を村長に向けた。

「長よ、この呪物について、何かほかに御存知のことは?」

「名前のとおり、相手の呪力なり魔力なりを吸い取る力がある、と聞いていますがね」カディムは答えた。「だが、それも本当のことかどうか……」

「確かめる方法もないわけですな」

 ベリスは難しい表情で二度三度とうなずく。

「呪力を吸い取る、か……」

 小さく呟いたダークレギオンは、すっくと立ちあがった。

「お帰りですか? ダークレギオンどの」

 村長の問いに、闇魔道士は軽くうなずいた。

「少しでも早く、魔物を何とかせねばならんのだろうが」

 そう言うと、ダークレギオンはすたすたと居間を出ていった。

 リザの「もうお帰りなんですか?」という慌てた声に続いて、玄関の扉が開き、そして閉まる音が響く。

「シャドウファングさん、ダークレギオンどのは魔物を退治してくださるのだろうか?」

 村長の問いに、シャドウファングは、

「はぁ、たぶん……」

 と煮えきらない返事をすることしかできなかった。

 ダークレギオンの態度からして何か考えがあるらしい、ということは判るものの、それが魔物退治につながるかどうかは、正直なところ、シャドウファングにも判らない。

 ──それに、どうも変なんだもんなぁ、ご主人さまの態度……。

 呪物の話を聞くや村長のところへ駆けつけた素早い行動、役に立たないと思われる呪物を取りこみ、さっさと帰ってしまった態度、それに、髪から匂った普段とは異質の「におい」──。

 ──おかしい。絶対に、おかしい!

 そう結論を出したシャドウファングは主人を追うように、さっと立ちあがった。カディムとベリスが驚いて彼を見あげる。

「どうしました? シャドウファングさん」

 村長の問いに、シャドウファングは「あ、すみません」と頭を下げた。

「ご主人さまが何をなさるつもりかは判りませんけど、助手がいたほうがいいかもしれないから、ぼくも帰ります。失礼します!」

 居間から飛びだしたシャドウファングは、盆を持ったリザと正面衝突しかけて危ういところで、たたらを踏んだ。

「シャドウファングさん」リザが目を丸くする。「もうお帰りなんですか? ダークレギオンさまも先刻さっき出ていかれましたけど……でも、何処どこへ行かれたのかしら?」

「へ?」シャドウファングは聞きかえした。「何処って……ご主人さま、屋敷へ帰られたんじゃないんですか?」

「お屋敷は村の北の外れでしょう? でも、ダークレギオンさま、南のほうへ歩いていかれたんですよ。何か御用事がおありだったのかしら」

「南のほうへ……?」

 シャドウファングの脳裏を嫌な予感がかすめる。それは、まさに「直感」としか言いようのないものだったが、シャドウファングはリザの肩をつかんで、彼女の顔を覗きこんだ。

「あ、あの……」

 どぎまぎするリザの目を見つめ、シャドウファングは真剣な表情で言った。

「家から出ちゃ駄目ですよ」

「え……?」

 リザが不思議そうに瞬きをする。

「家から出ちゃ駄目です。そして、できるだけベリス師と一緒にいてください。それがいちばん安全ですから。いいですね!」

 くどいほど念を押して、シャドウファングは村長の家を後にした。リザが何か呼びかけてくるのが聞こえたが、振り向く余裕はない。家の前の道を南に向かって一直線に走りだす。

 ──ご主人さまは昨夜のうちに魔物と遭ってたんだ! どうしてもっと早く気づかなかったんだろう!

 シャドウファングは、自分の間抜けさかげんに歯ぎしりしながら走った。昼間だけあって、すれ違う村人たちも多いから、たぬきの姿になって走るわけにはいかないのだ。四本足のほうが速く走れると判ってはいても、姿を変えるだけの余裕がなかった。

 ──ご主人さまから感じた、あの変な「におい」……あれは異界の「におい」だったんだ! 昨夜のうちに気づくべきだった。なんで気づかなかったんだ!

 村を抜け、岩山へと続く道を走るうち、人影はなくなってきた。村長とベリスとが相談して、南の岩山のほうへは近づかないよう、村人たちに触れを回していたからだ。

「ご主人さまぁ!」

 岩山に程近い路上に倒れている黒いローブ姿を見て、シャドウファングは悲鳴を上げた。急いで駆けよって抱き起こす。

「ご主人さま! ご主人さまっ!」

 ぐったりしているダークレギオンの頬を、遠慮会釈なく張り飛ばす。

「痛……っ!」ダークレギオンが跳ね起きた。「くそぉっ! マリグナントの奴!」

 シャドウファングの目が、きらりと光る。

「マリグナント? それが魔物の名前なんですね?」

「シャドウファングか……」ダークレギオンは、すでにいつもの表情を取り戻していた。「何をしに来た?」

「何を、じゃありません!」シャドウファングは、生まれて初めて怒気もあらわにダークレギオンに詰め寄った。「ご主人さま、邪竜人と遭ってたんですね? どうして、それを言ってくださらなかったんですか! ぼくのこと、そんなに信用できないんですか!」

 シャドウファングの勢いに、ダークレギオンは咄嗟に返事もできず、ぼんやりと相手を見つめていた。そんな主人の様子に苛々して、シャドウファングはなおも詰問した。

「しっかりしてください、ご主人さま! 昨夜も、それに今も邪竜人と遭ってたんですね? なんだって、そんなことを──」

 突然ダークレギオンが動いた。懐を探り、「しまった!」と叫ぶ。

「シャドウファング! リザは何処だ?」

「え?」シャドウファングは、いきなりの質問に目を白黒させた。「リザお嬢さんなら、お家にいるはずですよ。できるだけベリス師の傍にいるよう、言っておきましたけど」

 そのとき、二人の耳に絹を裂くような若い娘の悲鳴が届いた。

 リザの声だ。

「リザっ!」

「お嬢さん!」

 主従は村のほうへ取って返した。いくらもいかないうちに、緋色の翼が宙を打ち、空高く舞い上がるのが目に入る。

「マリグナント! リザを放せ!」

 ダークレギオンが怒鳴った。

 緋色の魔物は栗色の髪の少女を小脇に抱えている。気を失い、ぐったりと目を閉じているリザの顔が、痛々しいほど白く見えた。

『そうは行くか』邪竜人が、にやにや笑いを浮かべて言う。『こいつが村長の娘だろう? こいつがいれば、“枯渇水晶”の力を引き出せる』

 マリグナントは緋色の掌の上で、正八面体の水晶をこれ見よがしに転がして見せた。

「ご主人さま、あれは──」

 つい先刻、村長カディムが見せてくれたばかりの呪物が、すでに魔物の手に渡っているとはどういう意味なのか。シャドウファングは我が目を疑った。

「俺としたことが……」ダークレギオンは、ぎりぎりと歯を鳴らした。「“枯渇水晶”を手札に奴と取り引きするつもりが、札だけ奪われるとは間抜けな話もあったものだ」

 シャドウファングは愕然となって主人を見た。

「そ、それじゃ、ご主人さま、魔物と契約したんですか?」

「させられたんだ!」ダークレギオンは今にも泣き出しそうな声で答を返した。「一度は、あいつを従えたと思った……それが、あいつの策だとも気づかずにな! 俺を油断させて自分の支配下に置くのがあいつ──マリグナントの作戦だったんだよ!」

 おかげでこの有様だ、とダークレギオンは髪をはね上げた。黒髪のなかに一筋走っている緋い髪から、かすかに異界の「におい」が漂ってくる。

「ご主人さま……」

 シャドウファングは、かけるべき言葉を見つけられなかった。

 二度までも邪竜人にしてやられ、“枯渇水晶”とリザまで奪われてしまったことで、ダークレギオンの自尊心がずたずたに傷ついていることは、よく解ったからだ。生半可な慰めの言葉など何の役にも立たないだろう、とシャドウファングは思った。

『さて、では、俺様は行くからな』マリグナントは、ひらひらと手を振って見せた。『次に遭うときには貴様ら全員、俺様の下僕となることだろうよ』

 高らかな哄笑を響かせ、マリグナントが飛び去ってゆく。

「畜生っ!」

 ダークレギオンが叫ぶや、首にかけていた銀色の護符を引きちぎった。


 魔力を秘めし印よ、

 我が言葉を聞きて、その魔力を示せ!


 呪文とともに、マリグナントの翼めがけて護符を投げつける。ダークレギオンの呪文を受けた護符は、むくむくと大きくなり、光の網となって邪竜人を搦め捕ろうとした。

 マリグナントが怒りの咆哮を上げて身をひるがえす。

『同じ手を二度くらう俺様と思うか! 闇魔道士よ、自己おのれの愚かさを呪うがいい!』

 邪竜人の翼が大きく羽ばたいて護符を打ち落とした。

 それと同時に、ダークレギオンの身体がふわりと浮き上がる。緋色の髪が釣り糸のように闇魔道士を引きずり上げてゆくのだ。

「うわぁっ!」

 ダークレギオンが声を上げる。

「やめろぉ!」

 シャドウファングがダークレギオンの足に飛びつこうとした。

 緋色の髪は速度を上げ、天高く昇っていく。ダークレギオンの爪先がシャドウファングの指先をかすめ、なおも上昇していった。

「ご主人さまを返せ!」絶望的な面持ちでシャドウファングが叫んだ。「おまえは、呪物も、それを発動させるためのお嬢さんも、何もかも手に入れたじゃないか! ご主人さまに、ひどいことするなよぉ!」

『貴様こそ、俺様に指図をするなよぉ!』悠々と上空を旋回しながら、マリグナントがシャドウファングを揶揄からかう。『貴様の主人が宙吊りになっているのは、奴が自分で招いた結果だぞ。俺様の不利になるような行為はできないのだ、とあれほど言い聞かせておいたのに馬鹿な真似をするから、こんな目に遭うのだ』

 邪竜人は相当な高さまで吊り上げられたダークレギオンの姿を眺め、冷酷な笑みを頬に刻んだ。そして、ばさりと翼を動かし、そのまま南へ飛んで行こうとする。

「待て! ご主人さまを返せ!」

『おことわりだ』シャドウファングの懇願を、マリグナントは鼻先で嘲笑わらい捨てた。『この呪物さえ手に入れば、もうそいつに用はないからな』

 助けられるものなら助けてみろ、と捨て科白ぜりふを残し、邪竜人の姿は南の空へと消えていった。

「ご主人さま!」

 シャドウファングは空を振り仰いだ。ダークレギオンの身体は、まるで操り人形のように、雲を背景にして揺れ動いている。

「シャドウファングさん!」

 いきなり声をかけられ、若者は驚いて振り向いた。村長のカディム、まじない師のベリス、それに数人の村の男たちが手に手に得物を持って駆けつけてきたのだ。

「これは一体……」ベリスはシャドウファングの視線を追って息を呑んだ。「あれはダークレギオンどのですな? 何故あんな場所に?」

「邪竜人です!」シャドウファングは答えた。「ご主人さまが邪竜人を止めようとして、それで、あんな目に──お願いです、ご主人様を助けてください。あの高さから落ちたら、いくらご主人さまでも……!」

「解りました」地面に落ちていた銀製の護符を拾いあげ、村長は大きくうなずいた。「リザを救おうとしてくださったダークレギオンどのに何かあっては申しわけない! おまえたち、何か受けとめられるようなものを探してこい!」

 カディムの声に村人たちが散ったとき、いきなりダークレギオンの身体が大きく揺らいだ。次の瞬間には、真っ逆さまに地面に向かって落下を始める。

「ご主人さまぁ!」

 シャドウファングが真っ青になった。もう間に合わない──地面に激突して血潮を撒き散らす主人の姿を目の当たりにした気がして、へたへたと座りこんでしまう。

 だが、まだ諦めない者もいた。ベリスだ。

「長、その護符を!」

 呪い師はカディムが手にしていた銀製の護符をひったくると、落ちてくるダークレギオンめがけて投げつけた。


 魔力を秘めし印よ、

 汝が主人のために、その魔力を示せ!


 ベリスの呪文を受け、護符がきらきらと輝いた。ダークレギオンが命じるときのようにはいかないが、それでも護符は、じわじわと大きさを増していく。銀細工そのままの形をした網が空中に拡がった。網はダークレギオンの身体を受け止め、その落下速度を緩めていく。

「ベリス師……」

 シャドウファングは目をうるうるさせて呪い師を見つめた。

 魔道士としての修行など全然していないベリスには、こうした仕事は難しく、負担が大きいだろうに、呪い師は何の躊躇もなく護符を使った。

 シャドウファングにしてみれば、まさしく主人の命の恩人である。

 ベリスの額に脂汗あぶらあせが浮いている。魔力の使いかたが解らず、ひたすら放出しているだけなので、体力の消耗が激しいのだろう。

「ご主人さま! ご主人さまぁ!」

 ダークレギオン本人の協力があれば、ベリスの負担が少なくなるのではと考えたシャドウファングは、必死で主人を呼んだ。だが、ダークレギオンは落下の衝撃で気を失っているのか、護符の網に身をゆだねたまま、ぴくりとも動かない。

 じりじりと網が小さくなっていく。やはり、ベリスの魔力では網の大きさを保ちつづけられないのだ。

「おい、急げ!」カディムが叫んだ。「早く、こっちへ!」

 村長は「受けとめるもの」を探しに行った男たちが戻ってきたのを目ざとく見つけていた。男たちは干し草を満載した荷車を押してくる。シャドウファングも荷車に駆けより、押すのを手伝った。ベリスはもう限界に近い。

「早く早く!」

 カディムも走ってきて荷車を押す。

 男たちは、右だ左だと荷車を動かした。網は小さく頼りなくなって、ダークレギオンの身体をやっと引っかけている、という状態だ。

「よし、ここだ!」

 村長の合図で男たちは荷車を止めた。干し草の山が宙に浮くダークレギオンの真下に据えられる。

 そのとき、ベリスががっくりと膝をついた。すーっと網が消えていき、護符がからん……と地面に落ちる。

 一瞬後、ダークレギオンの身体が、どさりと干し草の山に突っ込んだ。

「ま、間に合った……」

 シャドウファングは、ほっと胸を撫で下ろした。潤んだ瞳から、ほろりと涙がこぼれ、ダークレギオンの頬に滴り落ちた──。

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