イレギュラー・レーズン・イン・ハート

坂水

イレギュラー・レーズン・イン・ハート

 ぐにょり、と。それはまったくイレギュラーな食感だった。


 どうして人はチーズケーキの中にレーズンを入れるのか。某検索エンジンで「チーズケーキ レーズン」と入力すれば「チーズケーキ レーズン なぜ」と上位候補に挙がるほどなのに。


 薄暗い照明の元、歯形の残るチーズケーキの中に黒い粒を認め、冷めたコーヒーで口の中のものを胃に流し込む。午後九時過ぎの人気のないオフィスで、佐々木早季子は弱弱しくむせた。

 残業するのも、夕食を食べに出るのも買いに行くのも億劫でやめたのも、空腹のあまりもらったケーキによく確かめもせずかぶりついたのも、概ね自分が悪い。だが、やりきれなさに溜息をついた。

 ふとフロアの四方を取り囲むガラス窓の外を見やれば、重たげな雲が空を塞いでいる。都会の夜は曇った日ほど漆黒にならない。街明かりを吸った雲がぼんやりとした薄紫色に広がっている。


 ぴかり、音も無く。ネオンよりもなお鮮烈な純白の亀裂が薄紫に走った。雷。


 ひ、と喉の奥が鳴った。スマートフォンを取り出して天気情報を呼び出せば、出勤時に確認したそれとは様変わりしている。

 今朝方、自分が立てた計画とはまったく違う一日になってしまった。今日は定時で帰って、傷む一歩手前のニラでニラ玉丼を作ろうと思っていたのに。

 もう、帰ってしまおうか。デスクの上に広げられた書類とモニターに映し出されたエクセルの表を恨めしく見やる。


 週の初め、月曜日。営業事務の自分にはイレギュラーな案件が少なくない。明日アポがとれたといえば急遽プレゼン資料を完成させなくてはならず、出張が入れば期日前に見積もりを打ち出して印をもらわねばならない。

 今、作成しているのは課長が明後日に有給を取るため、その前日――つまり明日までに必要となった資料だった。

 不意の来客、クレーム電話、後輩の体調不良と、今日はイレギュラーが多過ぎた。もちろん、ある程度は予見できたはずだし、問題解決能力に欠けているきらいがあるとは自覚しているけれど。

 きゅう、と腹の音が鳴る。中途半端に食べたので、空腹が刺激されたのだ。デスクに放置された一口齧られただけのケーキを見やる。

 昼休みにもらった手作りチーズケーキ。チーズケーキは嫌いじゃない。むしろ好物だ。


「あれ、佐々木さん」

 イレギュラー。その人物が入ってきた時、お帰りなさいでもお疲れ様でもなく、浮かんだのはその言葉だった。隣の課の営業職の主任。矢中貴志。どうしてこんな時間に。

「なにそれ、え、ゴキブリ並べてるの?」

「違います」

「ダンゴムシ?」

「違います!」

 つかつかと寄ってきた矢中に否定する。

 デスク上には月面クレーターもかくやというぼこぼこになったチーズケーキと、ティッシュペーパーの上に並べられた黒い粒々――ほじくり出されたレーズンがあった。

「小田原さんのこと嫌いなの? 大丈夫、おれ口堅いから」

 小田原とはこのケーキの生みの親であり、早季子の先輩である女性のことだ。

「違います」

「じゃあ好き?」

「好きではないですけど」

 思わず素直に言ってから失言だったと気付くが、矢中はそこには喰い付いてこなかった。

「レーズン嫌いなの?」

「いえ、はい、まあ」

「大人なのに?」

「好き嫌いに大人も子どももありません」

「いや、ほじくり返すほう」

 ぐっと返答に詰まる。いたたまれなくなって、捨ててしまおうと隠すように手で覆えば、

「捨てるの? だったらちょうだい」

 え、と戸惑う。惜しいものではない。けれど食べ残しを一応の先輩であり、しかも異性に譲るのは抵抗がある。逡巡しているうちに、矢中はこちらの手をかいくぐり、指先でレーズンを摘み出した。

「……甘いもの、好きなんですか?」

 止める間もなしに、あんぐりと開いた口の中にレーズンが吸い込まれるのを呆れ混じりに見送りつつ、訊く。

「いや、最近野菜不足だから」

「いえ、野菜じゃないですよ」

「レーズンって栄養価高いでしょ。で、植物だったら野菜でしょ」

 きゅうりの立場は? ギネスブックに載るほどの栄養が少ないとされる野菜を思い浮かべるが、黙っていた。これぜったい、ああいえばこういうになるやつだ。

 矢中はレーズンを口に投げ入れながら、

「レーズンって乳首っぽいよね。いや、乳首がレーズンっぽいのかな。でもレーズンがある前から乳首はあったわけだから、やっぱりレーズンが乳首っぽいんだよね」

「最悪です」

「え、佐々木さん乳首レーズンっぽかった? ごめん、デリカシー無かったね」

 そこじゃないし。ムキになって否定すれば、いいからいいから、重要なのは感度だから、とかなんとか返されてしまうやつだ。

 どうすれば良いの。今日一番のイレギュラーに、早季子は途方に暮れた。元来、矢中が苦手だ。不意に現れ、冗談とも本気ともつかない言葉で掻き乱す。


「その資料、飯島課長の案件でしょ。プレゼン来週になったらしいよ。うちの課長と話してた」


 え、と洩らせば、もう食べ終わったのか、矢中はティッシュペーパーを丸めてごみ箱に投げ入れる。そして自分のデスクに行き、引き出しから折り畳み傘を取り出した。

 出先から置き傘を取りに立ち寄ったのかと、彼がやってきた理由に気付く。理由がわかれば大抵のことは受け入れられるものだ。


「佐々木さんも仕事なんかうっちゃらかして帰んなよ」


 じゃ、と言うが早いが、矢中はオフィスから出て行く。あとには月面クレーターチーズケーキと、作りかけの資料と、呆然とした早季子が残された。


 どうして他課の人から、直属上司の、自分の仕事の動向を聞かされるのか。電話、メール、Line、なんなら手紙と、世に通信手段は溢れているのに。上司と気遣いが光年単位でかけ離れていることは、入社一週間で理解していたけれど。

 無性に込み上げてくるものがあって、すんと鼻を啜る。

 と、鼻先をくすぐる香りに気付く。ほこりっぽいような、眠くなるような、柔らかなそれ。

 矢中は雨の匂いを連れ込んでいた。



 ブルボン『ガトーレーズン』、ロッテ『ラミー』、ヤマザキ『レーズンゴールド(一斤)』、六花亭『マルセイバターサンド』、それから手作りレーズンスコーン。

 翌週から早季子のデスクにはレーズン菓子が供えられるようになった。一つ目は間違いなく、矢中の仕業だ、嫌がらせだ。

「佐々木、これ買ってきてやったぞ」

「……ありがとうございます、飯島課長」

 けれど、二個目以降は純粋な好意によるものも混じっているから厄介だった。一つ供えられたら、早季子がレーズン好きだと勘違いした人が外出のついでにと買ってきてくれる。二つ三つと増えれば、誘い水となるのか、次々増える。先日、知らずとはいえ小田原のレーズンチーズケーキを受け取った手前、今更嫌いとは言えなかった。

「資料、南区も揃えておいてくれ。来週午後イチ持ってくからな」

 ……今更。早季子は色々な意味で引きつった笑顔で、直属上司が差し出した東ハト『オールレーズン』を受け取った。



「なんでわざわざこんなこと」

「佐々木さんは夜食食べれる、おれは野菜食べれる。ウィンウィンでしょ」

 ――野菜を買えば良いだけじゃ。

 喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。

 金曜日の二十一時、早季子は飯島課長の資料を仕上げるために残業していた。月曜日以降、今週は連日残業をしている。課長が日に日に用意しなくてはならない資料の上乗せをするから。

 そして今週は矢中もしばしば残っており、今はデスクに向かっていた。仕事は手早く、営業先から直帰することが多いのに珍しい。


「レーズンほじるの、結構な手間なんですけど」

「食べるのに手間を惜しんじゃいけない」

「いえ、レーズン食べないし」

「次、オールレーズン開けてよ」

「聞いてないですね、人の話。オールレーズンは生地に練り込んであるので物理的に不可能です」


「なんでレーズン嫌いなの」

 キャスター付きの椅子に座ったまま、矢中が移動してくる。改めて訊かれて、早季子はしばし考えた。

「……一番嫌なのは食感ですね。レーズンが入っていると知らずに食べた時のイレギュラー感というか、異物感っぽいのが」

「味は嫌いじゃない?」

「そうですね。ラムレーズン味とか別に嫌いでは」

「乳首の形してないもんね」

 そういう意味じゃない、と言おうとして口を噤んだ。

 思いの外、距離が近かったから。ぎりぎりスカートに覆われた膝と、スーツの布地が擦れ合う。

「イレギュラーが嫌なわけ?」

「……厳密に言葉の用法として合ってるかわかりませんけど。そうですね、不意打ちに弱いです」

「じゃあ、イレギュラーがあることが、レギュラーな場合は?」

「は?」

「オールレーズンは全部オールレーズンで、レーズンなのが当然でしょ。これはイレギュラー、レギュラー、どっち?」

 混乱した。オールレーズンはオールレーズンだ。イレギュラーかレギュラーかなんて考えたことない。

「変ですよ」

「うん」

 矢中は後ろ向きに座って、背もたれを抱く姿勢になっている。椅子の背に顎を乗せて話題を変えてきた。

「ササキサキコって、カタカナにすると冗談みたいな名前だよね」

「やめてください。全国のササキサキコさんに失礼です。小学校の頃も言われてすごく嫌でした」

「嫌いな人に言われたからむかついただけでしょ。好きな人なら嬉しいもんだよ」

 極論だと思った。面倒臭くてもこれは否定しなくてはならない。全国のササキサキコのためにも。だが。


「飯島課長にササキサキコササコサキコサキコサキコ呼ばれても嫌な気しないでしょ」


 ムシロウレシイでしょ、という彼にすぐに反応できなかった。矢中はいつも通りの無表情。にやつきもからかう調子もない。


「佐々木さんの初恋の相手、当ててみせようか」

「……はい?」

「小学校の先生。次が部活かサークルの先輩。直近でバイト先の店長」

「…………」

「で、現在進行形で職場の上司なんて、あんまりにもレールに敷かれた人生で次の駅名までわかっちゃうよ」

「…………なんですか」

「不倫で退職。で、結婚適齢期逃して終着駅は老人独居」


 ぽとり、と。レーズンスコーンからほじくり出したレーズンがフロアに落ちた。


「捨てます」


 拾うために椅子から下りてかがんだ瞬間、涙が落ちた。この角度なら見えなかっただろう。

 レーズンをゴミ箱に入れようと手を伸ばすと、その手首を捕まれた。


「三秒内だから、大丈夫」

「でも」

「片恋だから、セーフ」

「うそ」 

「ばれてないから、おれ以外」


「……滑稽でしたか?」


 俯かせていた顔を上げる。泣き顔を見られるのも構わなかった。好きな相手に気に入られたくて一人残業する姿はさぞかし愉快だったろう。だが。


「君にとっておれがイレギュラーだから、そういうふうにとるんでしょ」

「……?」 

「おれにとってはイレギュラーじゃないのに」


 矢中は悲しげな表情を浮かべていた。散歩愛好家の実家の犬がガラス戸越しに土砂降りの空を見上げる時のような。

 こんな表情、予測できなかった。イレギュラー。

 でもこの人はイレギュラーではないという。自分を見る時、いつもこんなふうなのだろうか。それは、どういう。


 指先からレーズンが落ちる。矢中の視線が伏せられてレーズンを追い、拾い上げる。

 ――駄目。

 考えるよりも先に動いていた。

 この人に、床に二度も落ちたレーズンを食べさせてはいけない。矢中の腕を両手で押し止めれば、使える道具はいくつも残っていなかった。


 がぶり、と。摘んだ彼の指先ごとレーズンに噛みついた。


 唇の先が、指に触れる。骨張った意外にも大きな手。乾いていたのは、唇か、指先か、レーズンか。

 自ら口に入れたレーズンは、ほとんど丸呑みしてしまって、食感も味もなにもあったものではない。ただひどく熱かった。

 矢中は噛み付かれた指先を胸の辺りでもう一方の手で押さえ、襲われた乙女のようなポーズをしていた。実際、襲ったのだが。


「あ、すみま、せん」


 己の行動にたまげた。

 早季子は立ち上がり、できる限りの速さでデスクを片付け、資料を書庫にしまい、パソコンを落とし、お先に失礼します、と宣言して会社を出た。未だ石化した乙女の呪いがとけない矢中を置いて。





 週明け、早季子は土曜出勤して仕上げた資料を飯島課長のデスクに置いた。未開封のオールレーズンも添えて丁重に返却する。要らないのかと問う課長にご家族で食べてくださいと答える。

 ……別段、嫌いになったわけではないのだが。


 矢中の姿は無い。ホワイトボードを確認すれば、明日まで出張との記載があった。思いがけず執行猶予がついたが、溜息は熱い。丸飲みしたレーズンがまだ腹の底でくすぶっている。

 土曜出勤中、もしか矢中が来るのではと身構えていたが、彼は姿を現さなかった。その日は天気予報どおり終日快晴で、雷はおろか、雨の降る気配は皆無。夕映えに沈むビル群のシルエットを眺めながら考えた。

 ――あの日、彼は本当に傘を持っていなかったのだろうか。




 女子社員の多くは、昼食を会議室でとる。会議室といっても、パーテーションで区切った、フロア内の一画だ。火曜、月末で懐具合に余裕が無い早季子もお弁当を持参していた。

 早々に食べ終えて、給湯室で珈琲を淹れて戻ると、何やら騒がしい。

 面倒そうならこのままデスクに戻ろう、そう考えつつもパーテーションの間から様子を窺えば、小田原がいつも通りお手製の焼き菓子を配っているのだった。そしてその中には、肩から鞄を提げた、出張から戻ったばかりであろう矢中もいた。入れ違いになったらしい。

 小田原がパウンドケーキ――おそらくはレーズンもたっぷり入った――を切り分ける。特に分厚く切られたそれを矢中が受け取る、と。


「でも矢中さん、甘いもの嫌いって言ってましたよね」


 言ったのは社内一女子力が高い後輩で、小田原に対しての牽制と優越が練り込まれていたと感じるのは勘ぐり過ぎか。同時に、矢中がこの先輩後輩の社内番付で好評価だったことを思い出す。


「うん、あんまり好きじゃないね」


 してやったりの後輩とショックを受けた先輩のコントラストは見物だったけれど。身を乗り出したためパーテーションを揺らしてしまう。

 矢中とまともに目が合った。三日ぶり。


「でも、小田原さんが作るのレーズンいっぱい入ってるから」


 小田原が顔を赤らめ、後輩が顔をしかめる。矢中はこちらに目線を合わせたまま。誰に向けての台詞なのか、この人は。

 腹の底が熱い。二十六年生きてきて、その意味がわからないわけではない。矢中は、もうイレギュラーではない。執行猶予の三日間、考え続けたから。言うべき言葉はもう決まっている。


「私も小田原さんが作ったお菓子、好きです」


 唐突に会話に加わった早季子に、小田原は少し怪訝そうにした。それでも褒められてあらそうと満更でもない。

 パーテーションの隙間から、目線をほどかぬまま、告げる。



「……また作ってきてください。レーズンいっぱい入っているやつ」



 矢中の目尻が幾分下がる。実家の犬そっくりに。そして、自分の顔はやたらと熱くなる。

 それはもう、イレギュラーな反応ではない。

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イレギュラー・レーズン・イン・ハート 坂水 @sakamizu

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