私はこの作品を通して、三人の人物を見ている。三重の層。
大正時代に儚く生きた、金魚邸の果穂子。
果穂子の日記を読み解く、図書館司書の六花。
そして二人の話を綴る、作者のモノ カキコさん。
果穂子と六花は似ていて、作者の彼女もまた
小さな頃から憂いを含んだ心と向き合ってきた人。そんな気がして。
残したい。言葉で、感情で、何かを時代を超えて。
そんな声が聴こえてくる気がして、耳を澄ます。
物書きならば、この先書く一行一行にもっと心をこめよう。
私も姿勢を正して、内情を見つめたくなった。
昔の人の話を読むと
「この時代に生きた人は大変だ。願わくば時代を選べたら良かったのに」
なんて、私は現代に生まれてきたことに安堵していた。
でも、それはただの驕りだと気づいたんだ。
あの時代に生きた人に「今と交換しよう」と持ち掛けたとしても
たとえ悲劇的な結末が待っていようとも、短い人生だっとしても
誰もそれを望んでいないのではないかと。
自分がいた時代を生きる、ということは当たり前のようで
大切なことだったのだと、この作品を読んで強く思った。その「時」に。
まるでこの小説は、美しい塗りの重箱だ。
蓋を開けると、金平糖があって、ひとつ齧る。きらりと落ちる。探す。
二段目には花びらやリボンが入っていて、少女の心は踊る。
すきだったあの人との思い出。髪を撫でられるような温もり。
その重箱には、実は隠し扉まであって、容易くは開かない。
そして、ひんやりとした図書館の匂いがして、奥へと誘われる。
どうしても知りたいと願った人だけに、そっと花咲かすように。
大机の裏にびっしりと書かれた日記。
古い時代のものと思われるそれを書いた人物は一体誰なのか。
なぜ、わざわざ机の裏に書いたのか。
そんな疑問からこの物語は始まります。
現代を生きる六花と大正時代を生きる果穂子。
時代を行き来しながら、少しずつ紐解かれていく日記の秘密。
日常に溶け込むようにして存在する秘密を紐解く感覚は、六花だけでなく読み手もドキドキさせます。
日記の秘密もそうですが、秘密を調べるうちに知り合う人々。それによって本の世界にのめり込んでいた内気な六花が、少しずつ視野を広めていく様も心が温まりました。
同時に果穂子の願いは、間違いなく現代へと繋がり、未来にもつながる。そう確信させてくれる展開に、安心感と切なさと、そして美しさを感じました。
大正時代、図書館、洋館、金魚。
要素だけでもトキメキを覚えるものがたくさんあります。
惹かれた方、ぜひとも読んでみてください。
一行目を目にした途端、これは好きだ、と直感しました。
ほんとうに力のある、そして好みにあうお話を見つけたときは、だいたいこのような天啓に打たれている気がします。
その直感に違わず、心を揺さぶられるお話でした。最初は文章そのもののうつくしさもあり、じっくり拝見するつもりだったのですが、いつの間にやらその「つもり」も忘れて一気読み。涙が出そうになりました。
少し先の現代と、百年前にそれぞれ生きる(た)女性たち。どこか似た性質を持つ彼女たちの生が不思議な縁で交わり、共鳴し、そして次の時代へつづいてゆく(たとえば図書館そのものの存続であったり、果音ちゃんの未来であったり)。
その脈々としたひとの営み、はかなくも強いそのうつくしさに胸が震え、からだの奥底から、なにかが溢れてくるようなたまらない気持ちになりました。
ここに描かれた女性たちは、小さくかよわく、それでいてしなやかに激しい。そのさまがこれから芽吹きゆく晩冬のつぼみに見え、そっと手の内に包み込みたくなりました。
まばゆく清らかに、なんといういとおしい物語。拝見させて頂き、ありがとうございました。
魅力的な道具立て。
ノスタルジックな大正時代。旧家の邸宅を改装した図書館。
導入も秀逸。
きっかけは誰もいない夜の図書館。
閲覧用の大きなテーブルの天板の裏一面に書かれた文字。一体誰が書いたものなのか。
それを見つけるのは子供の視点。大人では決して気付かない痕跡。
導き手となるのは、図書館に勤める女性。他者と距離を置き、読書という行為を通して書物と思考の領域へと潜行することに耽溺する。
そして、百年前の少女が自らを封印するかのように潜ませた、図書館に息づく美しき仕掛け、その真実に一歩一歩近づいていく。
物語の中を游ぐ金魚は、小さく儚く、そうでありながら鮮やかに記憶に焼き付く。
美しくも哀しい、そして優しい物語に、静かに心打たれました。