MODEL

伽倶夜咲良

MODEL

 私は、どうかしている。


 私は、狂っている。


 いつから、こんなことを考えるようになったのか。

 この女のせいだ。

 目の前で、こちらに向かって、表情を変えずに微笑んでいる、この女のせいだ。

 この、あどけなさ。小作りの顔の中で、その三分の一を占領しているかに見える大きな瞳。その色は深く、日本人離れした色合いで、光の加減によって深いグレーに輝く。

 こうして、キャンバス越しに見つめているとその中へ引きずり込まれそうで、いや、蟻地獄だ。藻掻もがけば藻掻いた分だけ、その中へずぶずぶと落ちていく。

 私はもう腰のあたりまで潜っているのだろうか。

 少しふっくらとした肉厚の唇。半開きで、声もなく微笑んでいる。

 ああ、どうにかなりそうだ。

 しかし、私の手は憑かれたように色を塗りつけている。描かずにはいられない。

 どこまで本物の彼女をキャンバスに描き尽くせるだろうか。

 何十年、こうして絵を描いてきたことか。この世界でも名前も知られ、私の描いた作品を求めてくれる人たちもいる。そんな私が、このむすめの前で、なんて惨めなことか。

 文字どおり、まだ少女だ。女性としてのカラダにもまだなりきれていない。まだ、数年はかかるのだろう。

 そんなむすめの前で、なんてちっぽけなものか。

 この女の力におびやかされるように震えながら筆を動かしている。


 女が急に立ち上がった。座っていた椅子が不快な音を立てて後ろへずれる。

 「ねぇ、先生。どこまでかけたの?」

 「               」

 女が私に近づいてきて、キャンバスを覗き込む。背中まで届きそうな、つややかな黒髪が、ふわりと揺れた拍子に私の鼻先をかすめる。

 くすぐったくて、甘い香り。

 「なんだ、まだ、それだけ?」

 「            」

 「あたし、脱ごうかなぁ?

  ねぇ、どうかなぁ?

  脱いでもいい?」

 このむすめは何を言っている?

 あまりにも唐突な言葉だった。突然すぎて、彼女の言っている意味がわからず、一瞬その真意を探ろうと、その表情を覗き見て探ってみたが、無理だった。

 ただ、変わらずに、にこやかにこちらを見ているだけだった。

 「全部描いて。だめ?せ・ん・せ・い」

 甘えるような、いや、この私を試しているような、そんな響きのある言葉だった。

 にこやかに、涼しげな表情は変わらないまま……

 「そうしよう。いちばん素敵な君を描いてあげるよ」

 ばかな。そんな自信がどこにある。この娘の全てを描き尽くすなんて。できるはずがない。この娘の一番素敵なところなど想像もつかない。私の到底理解できないような深いところにあるんだ。きっと、そうに違いない。

 なのに、この娘は私の言葉を信じて喜んでいる。

 口元の両端を少し上げて、『ほんとに?あたし、うれしい』そう言って笑みを浮かべている。それが、さっきまでとはまた違う表情なのだ。同じこの娘から、同じこの顔から生まれてくる表情なのに、なぜこんなに受ける印象が変わってしまうんだろう。

 なぜ、こんな笑顔になれるんだろう。

 なぜ、こんなに喜べるんだろう。

 私はただ……ただこの娘の全てを見てみたいだけなのに。

 私の心の内を今にも悟られないかと、内心不安で不安でしかたなかった。

 けっして見透かされてはいけない。


 「ねぇ、先生、後ろ向いてて。恥ずかしいから」

 「ああ」

 私は、娘の言うままに後ろを向いてアトリエのドアを睨みつけるしかなかった。

 背後で衣ずれの音が聞こえる。

 彼女のために用意した、柔らかな生地の白いワンピースを今脱いでいるのだろう。

 前の部分に少し大きめのかわいらしいボタンが並んだワンピースだ。

 罰を受けてもいい。信じる神もいない私がそんなことを考えている。

 どうかしてしまったのだ。この女のせいだ。

 かすかにその音を変えながら衣ずれの音はまだ続いている。永遠にこの音を聞かされ続けるけるのではないかと不安に思えてくる。

 「ごめんなさい。もういいわよ。先生」

 またしても唐突な娘の声で、どきっと驚かされた。覚醒したような感覚を覚えた。

 恐る恐る私は後ろを振り向く。

 娘は、白くて華奢なその腕で胸元を隠しながら、大切なものをしっかりと抱きかかえるようにして斜めに構えている。

 思わず私は目を逸らして部屋の隅に視線をやると、娘が脱いでたたんだ衣服がそこに丁寧に置いてあった。

 彼女の魅力を引き立てるだろうとイメージして用意した衣装ではあったのだが……

 この娘を包み込んで閉じ込めておくなんて到底無理なことだったのだ。そう、そのすばらしさを覆い隠してしまう邪魔な布きれなど、彼女はいとも簡単にするりと抜け出してしまったのだ。

 娘はゆっくりとカラダをこちらへ向け、元の椅子のところへ戻ってゆく。恥じらいの様子を見せながら、うつむき加減に腰を下ろすと胸のところにあった腕をカラダの上を撫でるようにして下の方へ動かし、両の膝へ持って行った。

 全てがスローモーションで進んでいた。

 このアトリエだけが、ここの空間だけが、まわりの世界から隔絶され、少しずつ少しずつ時の流れがずれていっているのだ。

 娘は顔を上げた。

 一瞬、きっ、と私を睨みつけるような険しい表情を見せたが、すぐに元の微笑みを造っていた。背中にかかるつややかなまっすぐに伸びた黒髪が揺れている。

 「先生、きれいに描いてね」

 「           」

 私は、再びキャンバスに向かった。と、いうよりもキャンバスに隠れたという方が正しいかもしれない。

 私の身体は、その意識とは別に、素直に娘への欲求を誇示している。

 悟られてはならない。

 そんな屈辱的なところを見せるなど耐え難いことだ。

 私は震えながら、この女の力を振りほどこうと、藻掻もがくようにして精一杯筆を動かした。そうするしかなかった。

 娘の肌はどこまでも白く、まわりの空気とその境界線をはっきりさせないほど線は細く、しかもその弾力は、この距離から見ても感じるくらいに、弾けんばかりの力に充ち満ちている。信じられないようなバランスを保っている。

 天井に開口した明かり窓から白い陽光が差し込んできた。太陽が中天に差しかかる時間になっていたのだろう。光の粒子が白い光線となって彼女の上に降り注いだ。

 娘のカラダを包んだ光の粒は、透明なうっすらとした肌のうぶ毛にまとわりつき、きらきらと輝いている。まるで、彼女のカラダ全体が微かに発光しているようにも見えた。

 奇跡だ。今、この瞬間……

 どうしようもなく、まじまじと、彼女を見つめていた。

 彼女は私のそんな視線に感づいているだろうか。

 彼女のラインに沿って視線を上から下へと這わせていく。

 その端正な顎の輪郭を強調するようにまっすぐに伸びた細い首。一筋一筋が艶やかに輝く黒髪は首筋から、ふわりと肩にかぶさり、鎖骨は計算され尽くした直線で三角形を造形している。そして、その先端のくぼみから、微かに膨らみかけた胸の谷間へ緩やかなカーブを描いて娘のラインは続いていく。

 微かに膨らみかけた柔らかな胸。少女でもなく、女でもないmarginalな膨らみ。これだ。これがこの娘の力を完璧なものに仕上げているんだ。直感的に私はそう感じた。

 乳房は、色づき始めた桜色の花の蕾のようで、きゅっと引き締まって、かすかに上向きにつきだしている。

 腰のくびれ。少女の肉付きがわずかに残っている太もも。カラダを中心で支え、バランスを保っているかのように見えるへそ

 見ようによっては、どこか虚構的な、精密に人を模した人形のような、そんなイメージを与えさせる娘のカラダの中にあって、下腹部に生えた密やかな体毛だけが生身の実態感を感じさせる。

 白く輝く薄い皮膚の下地の上に、黒く細い線が集まり絡み合って造形しているその部分が、妙なコントラストとなって私の網膜の中へ飛び込んでくる。あまりにも鮮烈な刺激となって突き刺さってくるその力から、私は思わず逃げるように視線を逸らしてしまった。

 それほどまでに圧倒的な娘の力と対峙していた。

 それでも私は娘のカラダを追っていく。追わずにはいられない。

 軽く揃えて、ななめに傾けられた両の脚。華奢で、大切に扱わないと壊れてしまいそうな足首。フローリングの上にそっと乗せられた素足。上質なパールのような輝きを放っている愛らしく丸みを帯びた指先の爪。

 それら一つ一つが私の本能をかき乱す。どの部分をとってみても、細部に至るまで、彼女を構成する何かが、特別な空気を生成して私を包み込んでくる。私の画家としての技量を試そうとしているかのように。

 この身体の奥底からこみ上げてくる震えを、どのように表現すればいいのか。私の混乱は益々深みを増していくばかりだ。

 彼女の髪の色一つにしても、その色合いがどうしても出せなくて、先ほどから何本も何本も絵具えのぐをパレットの上に絞り出しては混ぜ合わせ、気に入らなくて、また次のチューブを探している。

 本当に彼女を描き上げられるのだろうか?

 この娘の全身から放たれる光沢の色合いは複雑で、微妙な色彩の融合によって成り立っている。

 瞳、唇、肌、爪、それらは、どの色と、どの色を何パーセントの割合で調合すれば表現できるのだろうか?

 いつもより多く使いすぎているテレピン油の臭いが立ち昇ってきて、私の嗅覚を麻痺させる。そのせいなのか、空気が陽炎のように揺らいで見える。

鼻孔から入り込んだそれは、末梢神経の先端に至るまで伝播し、麻痺が全身に伝わりそうで、身体の内から恐れにも似た不安な気持ちがこみ上げてくる。その不安は打ち消しても、打ち消しても、打ち消したそのわずかな隙間に滑り込むようにしてまたこみ上げてくる。


  絵画は写真とは違う。


 それが私の信念だった。私が長年かけてやってきたことは、被写体モチーフをそのまま写実することではなかったはずだ。そのの本質をいかに自分の中に取り込むか。そのの素材を通して、いかに自分自身の内面を表現できるか。キャンバスの上には常に自分自身があった。その時の自分の感情、自分の感性、インスピレーション、それらがモチーフと一体になってキャンバスの上に造形され、彩られ、紡がれていく。私が今まで描いてきたものは私そのものだった。

 そんな信念が、今、少しずつ、少しずつ崩れ落ちようとしている。剥がれ落ちた私の欠片が彼女の深淵の中に深く落ちていこうとしている。

 彼女を私の中へ取り込むことなどできるはずがない。完璧に彼女の前に屈服させられ、首根っこを押さえつけられて混濁した絵の具の中に顔を突っ込んでいるというのに。

 彼女をそのままに描き写す術も見つけられない。なんて惨めなものか。惨憺たるありさまではないか。

 年老いた私の感性など、彼女の若さは否定し、拒否して、受け付けてもくれはしないのか。許されないのだろうか。

 否。そんなはずはない。私にだって彼女と同じ頃はあった。彼女と同じものを見ていた時があった。あの頃の感動した想いや、感性を忘れてはいない。これまで、どれだけの感動を積み重ねてきたことか。いくつものすばらしい刺激を享受し、私の体内からはち切れんばかりにほとばしるものをキャンバスに注入してきた。

 今、こうして、彼女を描けないということは、これまでの私の存在(作品すべて)が無意味で、無価値なものに成り下がってしまう。私自身を否定してしまうことだ。

 今までで最も偉大で大きな感動を目の前にしているのに私にはなす術がない。

 彼女の放出する圧倒的な力は、私の感性の許容範囲を遙かに超えたものなのかもしれない。

 私の積み重ねてきたものは彼女を包み込むこともできないくらいに愚かしいことだったのだ。

 それに満足し、ほくそ笑んでいた滑稽な私が見える。甚だしく勘違いをした愉悦に浸っていた。逃げ出したい。

 このまま老いさらばえて益々感性は鈍り、何もできないまま、何も見えなくなってしまうのだろうか?

 しかし、彼女を描きたい。目の前の娘を描き尽くしたい。今感じている私の感動を表現したい。

 欲求が強まれば強まるほどに、彼女への感嘆と畏怖は私の体内でジレンマに陥り、焦燥へと移り変わってゆく。

 締め切ったアトリエの空気が澱んでいるせいなのか、少し息苦しくなってきた。

 咽のあたりから胸へかけて、もやもやとした重たいしこりのようなものが降りてくる。

 「窓、少し開けてもいいかな?」

 「うん。いいよ」

 私は、彼女の後ろへまわり、カーテンを少しずらせて、五センチほど窓を開けた。

 あまり大きく開けると、彼女を構成する細胞の組織が分解して湯気のように蒸発し、その開いた窓の隙間から逃げてしまう。そんなありえない光景が頭の中にふっ、と浮かんだのだ。

 何を、ばかな……。

 彼女はもとの姿勢で前を向いたまま動かない。

 「寒くはないかい?」

 窓に向かったまま、背中の彼女に問いかけた。

 「ううん。ぜんぜん、平気」

 彼女の声が心地よく私の中へみいってくる。

 部屋の外の緩やかな風の流れが心地いい。

 先ほどまで、締め切ったこの部屋に、きよく澄んだ白い日差しを届けてくれていた太陽が今は見えない。空には、水に溶いた絵の具のような重い色合いで、いろいろな灰色が幾層にも重なり合った雲が低く垂れ込めゆっくりと流れている。

 こんな場面をいつか夢の中で見たような気がする。

 大きく息を吸い込んで、無意味な既視感をふり払い、カーテンを引いて、くるりと振り返り、またキャンバスの前へ戻った。

 彼女の後ろで、薄手の生地で出来た生成り色のカーテンが風に吹かれて揺らいでいる。小刻みに震えていたかと思うと、急にふわりと大きく膨らんでみせる。その瞬間、風の姿を見たような気がした。彼女の背景として最もふさわしいもののように思えて、こんなことならもっと早く窓を少し開けて、こうしておけばよかった。


 雲が少し切れたのか、太陽の乳白色の日差しがまた差し込んできて、カーテンの揺れが微妙な陰影を造り、彼女の上へ投げかけている。

 うっすらとした、消え入りそうな光線が逆光となり彼女のカラダを柔らかく浮かび上がらせる。彼女の微かな動きに合わせて揺れる髪の毛の一筋一筋のわずかな隙間から漏れてくる光が、黒髪とコントラストを造ってまばゆくきらめいている。

 彼女のシルエット。

 薄い皮膚の下から透き通るように浮かび上がった血管の一筋、細部まで私のキャンバスに描き写したい。

 そのまばゆさに眩暈がして、私は思わず手にした筆を取り落としてしまった。

 ひどくゆっくりとした動きで筆は床の上に跳ねた。何か、ずれたようなタイミングで筆と床のぶつかる音が反響した。

 私は筆を拾おうとして、腰を曲げてしゃがみ込んだ。

 その時、くすっ、という彼女の笑い声が彼女の唇から漏れた。

 その声に誘われるままに、反射的に、私はしゃがんだ姿勢のまま、身体をねじらせて彼女を見上げる格好になっていた。

 そこに、小首をかしげて、大きなくりっとした目を細め、こちらに向いて微笑んでいる彼女がいた。わずかに唇を開き、口角を上げて、唇の両の端がきゅっと愛らしく上を向いている。

 可愛いとか、綺麗だとかいうそんな言葉では形容しきれない何かがそこには存在した。

 今まで経験したこともない至福感が私の全身を包み込み、その包み込んだものはやがて帯のように形を変えて、身体にまとわりつき、ぐるぐると巻き付き、幾十にも縛り上げ、締め付けていく。体中の血液はこの上ない至福感で沸騰して濁流のように流れ出そうとしている。至福の血流と、至福の縛りとのせめぎ合いが私の中で葛藤を始めた。

 バツッ。

 その瞬間、大きな音を立てて私の頭の中で何かが切れた。


 先ほどからずっと、脳髄の片隅で発芽し成長し続けていた或イメージが今やもう、ピンク色の肉塊いっぱいに広がり根をはり、視神経から網膜に焼きつき、実像となって私の目の前に姿を現した。

 彼女の白い裸体の上に極彩色の強烈な赤を塗りつけたい。

 溶岩のような熱いどろどろとした液体でこの繊細な線を塗りつぶして破壊し、ずたずたに切り裂きたい。

 今まで積み重ねてきた価値観が崩れてゆく。

 乳白色の柔らかな光に包まれた彼女のカラダの上に、だぶるようにして、二重映しの映画のような混沌とした情景が私の前に幻出している。

 ミロのヴィーナスの均整の取れた曲線が、熱に焼かれブヨブヨと垂れ落ちていく。

 モナリザの微笑む表情が、時の流れに浸食され、皺がミミズ腫れのように広がり、剥がれ落ちていく。

 レンブラントの陰影が、更に鮮烈な光にさらされ光暈こううんの中にしらんで埋没していく。 

 ラファエロの聖母の慈愛の面持おももちが好奇の視線に冒涜ぼうとくされ、

 ゴッホのひまわりが枯れ果て、

 シャガールの色彩が滲み溶け出して、

 ダリの研ぎ澄まされた精密で繊細な線が絡み縺れて、

 ガウディの未完成の寺院が、老朽したマンハッタンの高層ビルのように、爆破され砂塵を巻き上げながら崩壊していく。

 最高に美しいものが破壊され、崩れ落ちていく様のなんて美しいことか。

 誰一人として見ることのできなかった美の本質、美の正体を、今、私だけが目の当たりにして垣間見ることを許されたのだ。

 誰も成し得なかった。美を理解したものは誰もいなかった。この領域に到達できたものはどこにもいなかった。私だけが、この私だけが、今まさに美に触れる瞬間を迎えることができたのだ。

 私の意識はこの空間に溶け出し、宇宙全体に拡散して……傍らにあったペインティングナイフを力一杯に握りしめていた。握りしめた指先の爪が掌の肉に食い込み、濁った深緋色こきひいろの血液と、指先に染みついた絵の具の色が混じり、ペインティングナイフの刃先に得体の知れない液体が滴るように垂れていく。

 赤黒く、鈍く光るものを握りしめて私は一歩、娘の方に踏み出した。


 イーゼルが倒れる。

 キャンバスが床にはじけ飛んだ。

 描きかけの娘の絵が歪んでねじれた。

 不思議なことに音はなかった。

 無音の世界……


 娘は何が起きているのかわからない風で、大きな瞳を一層大きく見開いてぽかんとした表情でこちらを見つめている。

 また、一歩踏み出す。

 娘がはじけるように立ち上がった。

 その拍子で今まで座っていた椅子が後ろに跳ねて倒れた。

 この世のものとも思えないほど大きな音が響き渡った。

 私のいる世界と、娘がいる世界は違う。

 その違いをまざまざと突きつけられたような気がして、胸の奥が鋭利なものを押しつけられたように疼いた。

 椅子の倒れた音がまだ頭の中で反響している。

 もうすぐだ。もうすぐだ。


 娘の顔が歪む。苦痛の表情を見せながら、背にした窓の方へゆっくりと後ずさっていく。

 その表情だ。

 その表情が見たかったんだよ。

 やっと、わかってくれたんだね。

 私のこの身の内にあるものが、君に伝わったんだね。

 私と一体になれるよ。もうすぐ。

 また、一歩踏み出す。


 娘は、倒れた椅子に足を取られ、不自然な形にカラダをねじ曲げてその上に倒れ込んだ。

 彼女の裸体と、椅子と、髪の毛が絡み合って奇妙な形の美しいobjetに見える。

 そして、もぞもぞと動きながら、そのobjetとの絡みはしだいにほどけて、また、別々の物体に再造形され、娘は四つん這いになって這うようにして横へ逃れた。


 私はどうかしている。私は狂っている。

 私はどうかしている。私は狂っている。

 私はどうかしている。私は狂っている。

 私はどうかしている。私は狂っている。


 自らの行いを正当化するためなのか。自分自身を納得させるためなのか。元の愚直な画家に引き戻すためなのか。その言葉を意味もわからないままに何度も何度も口の中で反芻してつぶやいていた。なぜつぶやいているのか?何をつぶやいているのか?何もわからなままにつぶやいていた。

 また、一歩踏み出して、更に娘の方へ近づいていった。

 もう、逃げられない。

 彼女の上に覆い被さっていく。

 険しい目つきで、最後の抵抗をみせながら、きっ、と私を睨みつけている。

 娘はもう動かない。

 彼女の首筋から赤く熱い液体がどろどろと流れ出している。

 流れ出した液体は、鎖骨から胸の谷間を伝いへそのくぼみに向かってゆるやかな弧を描きながら娘のラインをなぞってゆく。

 臍に溜まった液体はすぐに溢れ出し、またカラダの低い部分へ向かって流れ出す。

 後から後から流れ出す液体で、そのうち、娘の白くまぶしいカラダは深紅に染め上げられることだろう。

 両の足が変な格好でだらしなく開いている。

 その間から、うっすらと桜色に色づいた唇が私に向かって微笑んでいる。

 まるで、隠れんぼを楽しんでいる小さな子供が、必死で探し回っている鬼を、隠れた物陰からこっそりと覗き見て微笑んでいるような、そんな風にも見えた。

 そう、先ほどまで、声もなく微笑んでいた、ふっくらとした肉厚の唇と同じ表情を私に見せている。

 美しい。

 この色合いのコントラスト。

 無垢の完璧さが私の掌の中で崩壊していく。

 少女と女の境界にある。どちらにも属さないこの未完成さが彼女の美しさに力を与え、表現することさえ許さない圧倒的な魅力を完璧なものに仕上げていたことを、今、私は確信した。

 やっと、この娘に触れることができる。

 どぎまぎしながら、そっと、彼女の顔を覗き込む。

 こんな心境は久々だ。いつしか忘却していた感情だ。

 今となっては、新鮮な感情と言っても間違いではない。

 涙で潤んだ、彼女の不思議色の瞳の中に、閉じ込められて身動きできずに藻掻もがいている、ちっぽけな私が見えた。




 原稿用紙にして三十三枚。

 一気にそこまで書き上げて私は愛用の“WATERMAN”を置いた。

 あと、最後の気の利いた一文を書き足せばこの小説のプロローグは完成する。

 万年筆を置いて大きく息を吸い込んだ私を見て、女が私に近づいてきた。

 「ねぇ、ほんとに、あたしをモデルにした小説を書いてくれてるの?」

 「ああ、そうだよ。そう約束しただろ」

 「だって、先生みたいな人、信用していいのか、まだわからないんですもの」

 女は、そう言いながら目を細めて微笑んでいる。

 甘えるような、いや、この私を試しているような、そんな響きのある言葉だった。

 似合うからと言って、私が買ってやった白いワンピースが窓からの日差しの中で眩しい。

 前の部分に少し大きめのかわいらしいボタンが並んだ、やわらかい生地の涼やかそうなワンピースだ。

 このむすめと知り合ったのも変ないきさつではあったが、私はそのことに感謝している。

 事実、このむすめを知った瞬間、世間一般の常識やら、道徳心とは、きれいさっぱり縁を切ったも同然なのだが、そのことを私は後悔などしていない。

 後悔どころか、かけがえのないものを私は得ることができたのだ。このむすめの存在と引換えにできるほど、価値のあるものなどこの世にはあり得ない。そのぐらいに私はこの娘のことを思っているのだ。

 道徳などくそくらえだ。

 とにかく、素材としても最高だ。

 今までの私の作風とは、まったく違うものが書けそうな気がする。

 作中の少女も、このむすめに年齢を合わせて設定した。

 私も結婚して、もし子供でもいればちょうどこのむすめぐらいの年齢かもしれない。

 自分の娘みたいなこのむすめの前で、緊張を意識している私はひどく滑稽に映っていることだろう。

 「ねぇ。どこまで書けたの?読ませてぇ」

 娘が近づいてくる。

 「だめだよ。全部、書き終えてからでないと。途中はあんあまり他人ひとには読ませたくないんだ」

 「けち。いいでしょ、少しぐらい。あたしが主人公なんだから、主役のいうこと聞いてよ」

 「だめだよ」

 「あぁ、あたしのこと、今、他人あつかいした!ひどくない?それ。あたしと、先生、他人でしたっけ?」

 娘の最後の言葉が胸にチクリと突き刺さった。痛みを覚えるのは私自身、まだ吹っ切れていないということか。

 娘がゆっくりと近づいてくる。

 窓からの逆光で、白いワンピースの上から彼女のカラダのシルエットがうっすらと見て取れる。

 彼女が動くたびにそのシルエットが揺らいで、彼女の中身が実在していないもののような、儚げで幻想的な影を造っている。

 「ねぇ、いいでしょ?ちょっとくらい。ね、せ・ん・せ・い」

 娘が、じゃれるようにして私の腕に寄りかかりながら、机の上の原稿を覗き込もうとしてくる。

 背中まで届きそうな、つややかな黒髪が、ふわりと揺れた拍子に私の鼻先をかすめる。

 くすぐったくて、甘い香り。

 彼女のふっくらとした胸の感触が、腕から伝わって、私の全身の神経を麻痺させていくようだ。

 娘が寄りかかって私の視線がずれたせいなのか、天井に開口した明かり取りの窓から差し込む強い日差しが、机の上に置かれたペーパーナイフの刃をギラリと光らせて、私の目の中に飛び込んできた。

 思わず目が眩んだ。

 その瞬間、

 「もう、どうなってもいい」

 そんな一つの考えが私の頭の中を走り抜けた。

 天啓を受けた気がした。信じる神もいない私がそんなことを考えている。

 今、原稿を書き上げたばかりで、作中の老画家の内面にのめり込みすぎていたのかもしれない。

 私の意識はこの空間に溶け出し、宇宙全体に拡散して……傍らにあったギラギラと輝くペーパーナイフに手を伸ばしていた。

 二重にも三重にも日輪が重なったような強烈な熱い日差しに焼かれた蝉の声だけが、私の狂気とシンクロして、けたたましくいつまでも鳴き続けている。

 重さを感じるほどの日差しと、狂ったように鳴く蝉の声、癇に障るこの夏が私のすべてを包み込んで……その目映まばゆい真っ白な光の中に私は一人ぽつりと取り残されていた。

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