余話 ひとつの可能性

「……おい、狭山。こぼれてるぞ」

「え……。えっ?!」


手元の容器が傾いて中身が出ていた。垂れて水たまりを作っている。視線の先が気になるあまり一穂は手に持っているものから注意がそれていた。傾ければこぼれるものが入っていることをすっかり忘れていた。


「……す、すみませんっ!」


一穂はひとまずそれを近くの台に置いて、床を拭けるものを探す。こんな場所で何かをこぼすことなんて想定されていないので、そんなものはない。辺りに目をやってから、ない理由に気付いた。


「……あのなぁ、新人が気になるのは分かるけど、自分のこと、ちゃんとしろって……。それに、ドアの影から覗いてるとか普通に怖いだろ。……うっとうしいって言われないか?」

「え、そんなこと……。『大丈夫ですから』とは、言われましたけど」

「それは、『うっとうしい』っていう意味だろ……」


なんとなくは分かっていたけれど、そんなにはっきりと言われると……。確かに、新入社員だからといって、一穂とは違う。ちゃんと説明すれば、何度も同じ失敗をしたりはしない。つい自分の基準で相手を見てしまうクセ。一穂は指摘をもらうまで、またそれを忘れていた。そして床に何かを撒いて汚している現状。どちらが新人なのか分からない。


ドアの前でのやり取り。一穂と、その上司の久志本。もうすぐ着任してから2年になる。こんなふうでも久志本との相性は良い……と一穂は思っている。相手を選ばないはっきりとした物言いは、はっきりしない自分には助かっていた。

ドアの向こうの新入社員が気付いたようでこちらを不思議そうに見ている。一穂は笑顔を作って手を振っておいた。元気よく手を振り返してくれている。たぶん、まだ、怖がられてはいないと思うけれど……。


「狭山って、気が弱そうに見えるけど、ほんっと頑固なやつだよな」

「……そ、そうですか?」


本人の意向をくまずに、そんなに強硬な意志を持って監視していたつもりではないけれど、そう見えるなら少し意識した方がいいのかもしれない。一穂は久志本の顔を見上げて表情を確認する。怒っているという感じはしない。


「いや、『高崎』のこともそうだしさ」


蒼太のこと。誰かからその名前が出るのは今では珍しかった。もう誰も名前を聞かなくなったからだと思うし、多くの人が、きっといたことも忘れかけている。

高崎蒼太はもうここにはいない。けれど。


あの日。部分削除イラゼルと出会ったことの削除を願い、それ以外の出来事を取り戻した日。一穂は滞留して溺れそうになっていたものごとを、また動かし始めた。たくさん連絡して、人にもあった。頭を下げることは謝罪の意思表明だけれど、失った何かを補ったことにはならない。幸いだったのは、欠勤が解雇にならずに有給休暇で処理されていたこと。事情を知っていた所属長が心を砕いてくれたのだと思う。


出来事に「成功」や「失敗」とラベルを付けて、あぶれてしまった意味。それを追いかけようと決めた。あったかもしれない過去には手が届かなかった。けれど、あるかもしれない未来にならまだ手が届くかもしれない。一穂が求める可能性の在処。


「帰ってくるの待ってるんだろ? 相手なら他にもいると思うし、そうなるのが、まあ俺が見てきた普通だけどなー」

「そうですね。蒼太が帰ってくるのは待ってます。でも、約束してるとかじゃなくて……。どうなるかは、そのときに決まればいいかな……って」

「うん? それは、ずっと保留になってるってことか?」

「……そうでもなくて、わたしは相手を変えてまで誰かとそういう未来を望んでない……のかもしれないです」


一穂にとっての「大切な誰かがいるときの気持ち」は、あのとき「蒼太が好きだったときの気持ち」と同じ。それはこれからも。


「なんか、よくわからないけど、一途なんだなー……」

「えー、久志本さん、『一途』とは違いますよ! わたし、そういうことなくてもけっこう楽しいんです」


今は、蒼太に相応しい自分であろうとは思わない。それを決めるのは蒼太だと思うから。ありたい自分であって、それを蒼太がいいといってくれるならそうしようと思うだけ。誰かと共に歩む時間には幸せことがたくさんあるのかもしれない。でも、ひとりで歩くときや、仲間と歩く時間にだって幸せはたくさんあることが分かったから。


『帰ってきたときに、ふたりの目指す方向が重なっていたら、そうしよう』


それがいつなのかは、一穂も、蒼太も知らない。それが分かっていたら、蒼太が帰ってくることだけを心待ちにしてしまったのかもしれない。けれどそうではなかった。だから一穂は待っているだけではない。今の自分がやりたいことを見つけていく。


「それは、いいなっ!」

「いいですよね!」


久志本がどんなふうに受け取ったのかは分からないけれど、笑っているのだから、笑えばいいのだと思う。それが一穂にはとても楽しいことのように思えた。一穂の靴が何かを踏んで音を立てる。床にできた水たまりに見事にはまっていた。


「……楽しそうだな」

「……た、楽しいですよ?」


久志本は苦笑している。まあ、うまくいかないこともたくさんあるけれど、ずっと笑えなくなるほどのことは滅多にない。それだけでとてもしあわせなことだと思う。うまくいかなくて、うまくいって、楽しい。だから今、一穂は笑っていられるのだと思う。

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願いをかさねて なるゆら @yurai-narusawa

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