第5話 可能性の所在

分からないことばかりなのは変わらないけれど、大切なことが分かった気がする。それが真実なのかどうかは確認できないし、もしかしたら、それも間違いなのかもしれない。ただ、少しだけ本当のことが知れた気がした。

自分が見ようとしていた部分。一穂にはそれ以外がまったく見えていないということ。


もし、あのときにこうしなければ。こんなことを言わなければ。そんな後悔。誰にも「過去は変えられない」。そんな前提があるこそ、誰もが「過去を受け入れる」選択をして生きている。一穂はそう信じていた。その前提を崩して過去を変えてどうだったのか。結果は一穂の望んだ未来にはならなかった。今なら理解できる気がしていた。


自分が「失敗」だったと認定した出来事に「失敗」でない意味があること。それは、自分にとっても、自分以外の人にとっても。「後悔」は望んだことが望んだ通りにならないから残るもの。けれどそれは、「誤った選択」をしたから残るのではない。「何を選択したとしても残る」のだ。そして、自分が間違いだと信じていた選択が「誰かの希望を繋いで」いて、「支えていた」のかもしれないということ。


自分がしたこと。誰かがしたこと。そこにどんな意図があったとしても、たとえ無意識だったとしても、決して想像していた通りになんてならない。そしてその結果に与えられると思っていた意味さえも、自分がそう感じているにすぎなくて……。


あまりにも、「見ようとしているように見ていた」のだと思う。過去は変えられないから受け入れるのではない。「良い」と信じてそのときの自分が選んだこと、「悪い」と思っていてもそうするしかなかったこと。そこに、実は絶対的な「良い」も「悪い」はないのかもしれない。

過去を変えた現実は一穂にとってまったく優しいものではなかった。とても凶暴で、なんの準備もなかった一穂には為す術もなかった。


であれば、できる準備を尽くして、現実に向き合うしかない。それは、今だからできること。


一穂はぼんやりと薄明かりの中で、自分のとりとめのない思考を泳がせていた。きっと部分削除イラゼルは現れる。一穂の最後の望みを叶えるために。それはイラゼルという存在にとっても望みなのだろうか。


窓側の空間に光がぼんやりと湧き上がった。

窓が開いているかのようにカーテンがひらひらと揺れる。室内の闇に無数の淡

い光が蛍のように現れて、次第に形になっていく。

幻覚。それは疲れ果てた自分に見える幻影だと思っている。

光の輪郭は次第にはっきりとしてきて、輝きを増す。そしてその眩い光の中に

人の姿が見える。はっきりと見える幻は、一穂にとって現実と何も変わらない。


「3つ目の望みを告げよ」


イラゼルはずっとそこにいたかのようだ。泰然とした態度とは裏腹に、瞬きした瞬間に消えてしまいそうなほどの存在感。


「あなたは、どうして……」


尋ねようとしてやめた。その幻影が一穂の質問に答えるかのかどうかは分からないけれど、イラゼルの望みが何であったとしても、それは一穂にどうにかできることだとは思えない。大切なことを気付かせてくれたこの存在に、できるなら何かを返せないかとも考えてみたけれど、おそらく会うのは今日が最後。だとしたら、今日の一穂にできることはわずかだ。3つ目の望みを告げること。それが一穂にできるイラゼルの望みに応えることにもなる。そう思うことにした。それが、たとえ部分削除イラゼルの存在を否定することになっても。


一穂は最後の望みを言葉にする。


「あなたと出会ったことを『無かったこと』にして欲しい。それがわたしの最善だから」


イラゼルは無言だった。相変わらず無表情で身動きひとつ無い。……はずだったけれど。


「……そうか、だからわたしは『堕ちた』のだな」


イラゼルは頷いて、はっきりと一穂の方を向いた。纏う光が白から少しずつ分かれて七色に滲んでいく。人の可視範囲外に輝きが溶けていくようで、神々しさも一緒に薄れていくような気がした。まるで、イラゼルが何かをを失っていくようにも見える。


「……『堕ちた』?」


言葉をなぞって意味を確かめる。一穂の目には、イラゼルが力なく微笑んでいるように見えた。


「人の子らを苦しみから救うことが、わたしの使命だと信じていた。いや、今でも信じている。しかし、過去を消し去ることが救いにならないと。そう、お前は言うのだな」


神秘性が失われていくその存在から、一穂は、まるで人が抱く憂いのような気配を感じた。


「……消し去れば救われる人がいるかもしれません。でも、わたしは、そうじゃなかった……それだけのことです」


一穂は静かにゆっくりと答えた。イラゼルはもう一度頷いた。纏っていた光が暗転して、その姿にノイズが混ざり、みるみるうちに存在が揺らいで欠けていく。

そうか。イラゼルの何かが終わろうとしているのだ。しかし表情は微笑みのまま。


「わたしができることは部分削除イラゼルの他にない。しかし、それは人の子を救うために与えられた力ではないのかもしれぬ。振るうことで生まれる苦しみをわたしは引き受けられないにも関わらずわたしは問い続けてきた。――わたしも罰を受けるとしよう。最後に、お前の願いを現実にする。それはわたしの償いのはじまりでもある」


イラゼルは存在に似つかわしくなく多弁だった。自分の最後の瞬間に一穂に何かを残そうとしているように。自身がしていることが「救い」にならないことがあると気付いていたのかもしれない。しかしきっと、見過ごせなかった……のではないかと思う。そう考えると、一穂はイラゼルを責めることはできないような気もした。どんな罰が必要なのだろう。


目の前には室内の景色。もう存在を感じない。書類の山はまた、生活ゴミの山に戻るのだろう。ただ決して、全てが元に戻るわけではない。一穂の中には、唯一無二の人生を引き受ける決意が残るだろう。それは、もしかしたら諦めることに近いのかもしれない。しかし、過去を捨てるつもりはなかった。また苦しむ未来が続いていることだって想像はできるけれど、見なかっただけで、そこには一穂の見たいものだってあると思うから。

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