三章 灰の中で眠る乙女_3


 イザベラが月明かりをたよりに足音の方向を見つめていると、三角に切りそろえられた庭木を回って、フリッツが姿を現した。

「ベラ、こんな所にいたのか。さがしたよ」

 あんみを浮かべるフリッツは、しゃがみ込んだイザベラに眉を寄せた。

「そんな所に座り込んで、どうしたんだ? まさか体調でも──」

「しぃ……っ。ちょっと、こっち来て座って」

 口に指を立てたイザベラは、あわててフリッツを手招きリーテとエリックの密会を指し示した。

「あぁ、大広間にいないと思ったら。こんな庭園の端にいたのか……」

 しようするフリッツは、イザベラのすぐとなりこしを下ろした。リーテとエリックを見るフリッツの横顔はれられるくらいに近い。

 しくしん然としたフリッツを、としごろの女性じんが放っておかないのは当たり前だ。妃探しをしているはずの第二王子が、すでにリーテしか眼中にないのなら、少しでもフリッツのような貴公子の目に留まろうとするのもわかる。

「……フリッツ、いいの? おどってほしいって人、いたんじゃない?」

 舞踏会をけ出していいのかと問うイザベラに、フリッツは迷うことなく首を横に振った。

「俺の相手はベラだけだよ。いつしよに舞踏会に参加したのはベラなんだから。あぁ、でもごめん。ベラを一人にさせてしまった。もう少し早く、あの包囲を抜けられていれば……」

 包囲という表現に、イザベラは笑いをらす。茶色いひとみゆるませて微笑ほほえむフリッツの表情を見て、淑女の囲いの中で浮かべていた綺麗な笑顔を思い出した。

 そうしてドレスを見下ろし、隣に立つにはおとりする姿に苦笑をむ。

「しょうがないわ。こんな格好じゃ、フリッツにり合わないし。あたしこそごめんね。もう少し、ずかしくないくらいにはかざってくれば良かった」

 ちようしたイザベラは、不意に初めて舞踏会へ参加した夜を思い出した。元こんやく者は、半日かけて用意したドレスにもしようにも、もっとましにできなかったのかと文句しか言わなかった。文句しか言われないならなんでもいい。そう思ってしまっていた。

 イザベラはおくればせながら、どうはんりようしようしてくれたフリッツに申し訳なさを覚える。ヴィヴィに苦言をていされるのも当たり前だと、フリッツへの思いやりのなさを反省した。

「ベラ、そんなにつかむとしわになる」

 言って、フリッツはいつの間にかスカートをにぎめていたイザベラの手をやさしく取った。

「……ベラにしては元気がないな。もしかして継子虐めの噂、聞いたのか?」

 思わぬフリッツの問いに、イザベラは視線をらし答えにきゆうした。何も言わずとも、行動が肯定を示している。

「ベラが落ち込んでるのは、それが理由か……」

「え、あたし落ち込んでるように見える? そんなに顔に出てるの?」

 おどろいてフリッツを見れば、やわらかな微笑みを返された。

「別に悪いことじゃない。なおな感情表現はベラらしい。笑う時もおこる時も、心の底からつつみ隠さずに。いつでもいつしようけんめいで、噓がないのは見ていてわかる」

 フリッツならわかってくれる。別の言い方をすれば、フリッツしかわかってくれない。他人は無責任な噂を広めていく。素直さも自分らしさも、イザベラの助けにはなっていなかった。

「でも、継子虐めをしてるって、言われるのよ。お義父とうさまにもめいわくかけるわ」

 思わず漏れた弱音に、イザベラはくちびるを嚙んだ。もっと上手うまく立ち回っていれば。らちもない思考をはらうため、イザベラは一度頭をった。

「ごめんね。あたしと踊ったせいで、フリッツも何か言われたんでしょ?」

 肯定も否定もせず、フリッツはイザベラを見つめて目を細めた。

「やっぱり、君は昔から優しい。直接話せば、誰でもわかることなのにな」

「そんなことないったら。それに、優しいのはフリッツじゃない。いきなり囲まれても笑ってたし。あたしなんて誰かと気安く話すこともできなかったのよ」

 会話もなかったのだから、わかってもらうこともできていない。フリッツの言う通り、直接話して誤解を解くべきだったかもしれない。けれどイザベラにはそこまでの社交性はなかった。

 おのれなさに息をくイザベラに、フリッツは思案する様子で口を開く。

「ベラは、そのままでいいよ。今夜はアシュトリーテを心配して来たんだろ。だったら、目的に注力するのは当たり前だ。自分を後回しにして一生懸命になれるのがベラの長所じゃないか」

 思わぬ肯定の言葉にイザベラは目をみはった。フリッツはずかしそうな様子で目をせる。

「それに、実を言うと俺も舞踏会は得意じゃないんだ」

 フリッツは自嘲気味にかたすくめてみせた。

「派手に着飾った女性は、得意じゃない。──覚えている? 父の後妻は、とても派手好きだと言ったのを。どうしても身をかざりすぎる女性を見ると、後妻を思い出してしまって、落ち着かない。子供っぽいだろ……?」

 昔受けた仕打ちがを引いているのだ。はげましを思いつけないイザベラは、ただフリッツの手を握り返し、首を横に振った。舞踏会が苦手で落ち着かないのは、イザベラも同じだ。

 見つめ合うフリッツは笑みを深める。

 落ちる沈黙にみようきんちようかんただよい、イザベラのてのひらにはあせが浮かんだ。フリッツから手を引こうとするが、引き留めるように指先に力が込められた。

 フリッツはイザベラの指先だけを優しく摑むと、かたひざを立てて体ごとイザベラに向き直る。

「これは、同伴を引き受けた時に言っておくべきだったかな……」

 悪戯いたずらに笑ったフリッツは、物語ののようにイザベラにひざまずく格好だ。じようきようがわからずまたたくイザベラに、フリッツは一度笑みを向けると、顔を伏せた。

 イザベラの手のこうに、熱く柔らかなかんしよくが降る。

 いつしゆんで去ったフリッツの唇は、低いささやきをこぼした。

「俺が、ベラといたかったんだ。今も昔も変わらず、飾らないベラのそばにいると、安心できる。ずっと……隣にいてほしかった」

 こんがんするようなこわまくらし、イザベラは背筋を上る落ち着かなさに息を飲んだ。フリッツは顔を上げると、真っぐにイザベラを見上げて不敵に微笑んだ。

「ベラ……、今夜君の隣をどくせんするえいを、俺にくれないか?」

 舞踏会への同伴を求める言葉に、イザベラはめていた息を吐く。次いで、フリッツのしばがかったやり方に、可笑おかしさを覚えた。

 見た目も所作も、フリッツは文句なしにたい上の騎士のようで、そのはまり具合がくさかげに潜む現状にそぐわず、喜劇的に思える。あの手この手で気を紛らわそうとしてくれるフリッツの優しさに、イザベラはたまらず笑いを漏らした。

「こんなのぞき見の最中に、格好がつかないわよ、フリッツ。それに、あたしの隣なんてフリッツ以外いないじゃない」

 栄誉にもならないと笑うイザベラは、切りえるようにうなずく。フリッツもリーテのために来たのだろうと言っていた。重要な目的をおろそかにしてまでうわさを相手にしているひまはない。

 おもしろ半分で囁かれる噂なら、きれば消えていくだろう。そんなあいまいなものより、今はリーテとエリックの行方ゆくえのほうが重大事だった。

 を吐いて気分がじようしようしたイザベラは、フリッツのなぐさめに礼を言おうと首をめぐらせる。目を向けたフリッツは、片手で口元を隠すように横を向いていた。

「どうしたの、フリッツ?」

「いや……。ベラ、俺以外にいないって言うのは──」

 フリッツがうかがうように声をひそめたたんせんざいの向こうからきつもんするような声音が聞こえた。

「ちょっと、待ってフリッツ……」

 フリッツを制し握られていた手を取りもどしたイザベラは、慌てて木の枝をき分けリーテとエリックをうかがった。

 き寄せようとしたエリックを、リーテは振り払い身を返しの下から走り出す。

「あ……! やっぱりげたわ。リーテったら!」

 イザベラが声を上げるよりも早く、王子はリーテを追い始めた。それでもかさるドレスのすそを摑み上げて走るリーテの足のほうが速い。

「何やってるんだ。ちゃんとつかまえておけ……っ」

 前栽の陰から立ち上がったフリッツは、引きはなされる王子の背に舌打ちをした。その隣で、イザベラもドレスの裾を持ち上げ走り出す。

「追いましょ、フリッツ。見失わない内に!」

 イザベラとフリッツは、湖を右手に夜の庭園をけだした。

「フリッツ、お城の庭はどんな造りか知ってる?」

「城が高台の一番上にあって、庭園は三層の階段状に連なってる。城内を通る以外で庭園から外に出るには、庭園をつなぐ三つの階段のどれかを降りなきゃいけない」

 イザベラのとなりに並んだフリッツは、行く先が城に一番近い階段であることを教える。

 階段に向かい走る王子を確かめ、イザベラは右手の木々に仕切られた庭園へと方向を変えた。

「ベラ、何処どこに行くんだ? 王子は向こうに……」

「リーテは真っ直ぐ逃げないのよ。ちゆうで身をかくすか行き先を暗ませて、安全だと思う場所に向かって逃げるの」

 ほんていでもべつそうでも、日々リーテを追いかけ回していたイザベラは、経験から身を隠しやすそうな庭園へと行く先を変えた。

 高い植木がかべのように連なる庭園の中は、見通しの悪いめいになっている。

「フリッツ、こっちに下へ降りる階段はある?」

「この迷路はそんなに大きなものじゃない。けた先を右手に進めば、庭園中央の階段がある」

 先導するように前を行くフリッツは、勝手知ったる様子で迷路を進んだ。

「もし本当にアシュトリーテが王子をいてこっちに来ていたら、三度目の失敗になるな」

 しよう交じりのフリッツに、イザベラはその通りだと意気を上げた。

「あのお鹿。今夜が最後だって言うのに、どうしていきなり逃げ出すのよ。まだ十二時のかねは鳴ってないでしょ。今日をのがしたら次はないのに……っ」

 けつこんかされる第二王子が、一年後の社交期にまだ独身である可能性は低い。りようおもいであるなら、リーテがエリックから逃げ出す理由はないはずだ。

 あせる心中を持て余しながら、フリッツの背を追って木々の迷路を抜けると、行く手にドレスのきぬれらしい音を聞いた。

「当たりみたいだな。ん……? ベラ、いつたん止まってくれ」

 先を走っていたフリッツは、うでを横に広げて止まるよううながす。足を止めると肩をかれ、イザベラはしげみに隠れるようゆうどうされた。

 葉の間から月明かりに目をらせば、階段のりらしい石造りの人工物が見える。衣擦れの音は、階段前から。リーテともう一人だれかが、抱き合うような形で動いていた。

「え……、王子さま? まさか向こうの階段から降りて、上って来たの?」

「いや、ベラ。王子にしては体つきが太い気がする。それに、かみの色も黒っぽい」

 すらりとした高身長のエリックに比べて、リーテを抱くひとかげは骨太な様子。髪も月明かりにけるきんぱつには見えなかった。

 イザベラはきわめようとぎようするが、月光が影をくし判別を難しくする。

 ただ、抱き合う二人の姿をよく見れば、逃げようともがくリーテを、何者かがかかえ込んでらえているようだった。

 不意に、湖からの強い風が庭園をき抜けた。

「…………いや……っ!」

 風下にいたイザベラは、風に乗って届くかすかな声音に息を飲む。けんにじんだリーテの声に、考えるよりも先に体が動いた。

 迷わずみ合う二人へ駆け寄ると、イザベラはしつせいを放つ。

「こら、うちの妹に何してるの! いやがってるでしょ、その手を放しなさい!」

 イザベラのせいに、リーテを抱き込んだ相手は、めいわくそうな顔でり返った。

 かっちりとまとめた茶色の髪に、男らしく骨の張った美男顔。月光のかげになってわからないが、昼間ならひとみの緑色が見えただろう。久しぶりに見る顔に、イザベラは眩暈めまいを覚えた。

「あなた……、何やってるのよ、ドーン…………!」

 顔も見たくなかった元こんやく者は、まるであきれるように息をいた。ドーンは悪びれた様子もないどころか、堂々とあごを上げ、責めるような視線さえ向ける。

「また君か、イザベラ。僕たちのじやをするのはやめてくれないか。いい加減、君のしつ深さには飽き飽きするよ」

 ゆるく首を振るドーンの頭の痛くなる言動に、イザベラはほほらせる。

「しっ、嫉妬? またそんなまいごとを……。いい加減にしてほしいのはこっちだわ!」

 まなじりり上げておこるイザベラにも、ドーンは仕方ないやつだとでも言うように肩を竦めた。

「確かに僕は君の婚約者だった。だが、僕は真実の愛を知ってしまったんだ。君がどれだけ僕に愛を注ごうと、それは僕にとって本物ではない。残念だが、あきらめてくれ」

 ったような台詞せりふとうとうと語りつつも、逃すまいと抱きめたリーテを放す気配はない。

 相変わらず話の通じないドーンに、イザベラはいらちに身をふるわせた。フリッツは背後から声を潜め、ひかえめに説明を求める。

「ベラ、ドーンってまさか……?」

「そうよ、元婚約者のドーン。一年前に婚約して、すぐにリーテに心変わりしたの。ヘングスターだんしやく息子むすこはおかしいって、婚約を受け入れたくらい、ぶっ飛んだ奴なのよ」

 姉と婚約していたのに、妹に心変わりしたなど、どちらの男爵家にとってもていさいの悪い話だ。事実をふいちようすることなく、たがいに家のつき合いを絶ちへいおんを手に入れたはずが、婚約破棄後もドーンはリーテを諦めていなかったらしい。

 にらむイザベラには目もくれず、ドーンはていこうを続けるリーテに愛をささやいた。

「待たせてすまない。王子なんかにつかまって、今日まで僕に会えなかったんだろう? でも、こうして走ってきてくれるなんて何よりの愛のあかしだ。ふふ……」

 ドーンの言葉に、聞いているイザベラはとりはだを立てる。耳元で聞かされるリーテは、総毛立った様子で抵抗を強めた。

「いや……っ、放して! やめて…………!」

 逃げ出そうと腕を振るリーテだが、男であるドーンの力にかなうわけもない。

 とうすいした様子で目を細めるドーンにまんならず、イザベラは一番嫌がる言葉を口にした。

「リーテ放さないなら、またヘングスター男爵に言いつけるわよ、ドーン!」

 親の名前に、リーテのドレス姿でにやけていたドーンもようやく狼狽うろたえた。

「親は関係ないだろう。こうして僕が待つ庭園までアシュトリーテも会いに来てくれたじゃないか。僕たちの思いは通じ合ってる。誰も僕たちの真実の愛を引きけるわけがないんだ!」

 興奮して声を大きくするドーンに、負けじとリーテもきよぜつさけんだ。

「嫌……、わたし好きでこんな格好してるわけじゃないの! 放して、痛いの!」

 リーテの声には心中のせつぱくが表れている。どれだけ強い力で摑まれているのか、イザベラも不安になって声をあらげた。

「ほら、リーテも嫌がってるでしょ! 全部あんたのもうそうよ。いい加減、放しなさいよドーン!」

 だんすれば、夜にしずんだ緑色の瞳でドーンはイザベラを睨みつけた。

「これは言わされているんだ……っ。何をねする必要があるんだい? 親の反対なんて気にしなくていい。どうせ先に死んでいく奴らだ。さぁ、心にもないことを言わないで」

 ねこで声でリーテを説得しようとするドーンの、婚約破棄時から変わらないきようたい

 ドーンをちからくで引きがそうと思案するイザベラを、フリッツは静かに押しとどめる。

「これ以上興奮させると、君に危害を加える可能性がある。ちょっと俺に任せてくれないか?」

 かたを優しくたたいたフリッツは、一歩前に出てドーンと相対した。

「さて、ヘングスター男爵家のドミニク。よく事情はわからないが、そんな俺から見たそつちよくな感想を聞いてもらえるかな?」

 フリッツは気さくな様子ながら、背筋をばし堂々とした姿勢で声をかける。問いかけの形をとっているが、答えも聞かず言葉をいだ。

「どう見てもこれは、婦女暴行の現場なんだが。異論は?」

「何を……っ。僕たちの愛のかいこうけがすな。なんなんだ君は?」

「ふむ、それは失礼。だとすれば、アシュトリーテを引き留める必要なんてないだろう。まして、婦女子にそんな強い力をかけては、愛とやらを汚す行いになるんじゃないのか?」

 ドーンのもうげんを受け入れるような言葉を口にしつつ、フリッツは言葉と共に一歩ずつきよめる。けいかいを強めるドーンの視線は、フリッツに固定された。

「知ったようなことを言って……っ。お前も僕たちの仲を引き裂くつもりか。僕とアシュトリーテは思い合っているんだ。よこれんなんてはしたないぞ!」

 鼻先に指をきつけられたフリッツは、茶色い瞳を細めて声を低めた。

「はしたない……。婦女子を力尽くで押さえつけて泣かせる奴はなんと言うんだ? しんの風上にも置けないはじらずじゃないのか?」

 ちようはつ的な言葉を向けるフリッツを、ドーンはいかりをたたえた目で睨みつけた。いつしよくそくはつの張りつめた空気に、イザベラはフリッツを案じてその背を見つめる。

 不意に、フリッツが背中にかくした手で指示を出した。横に振られる指先の意図に気づき、イザベラはばやく視線を走らせる。

 ふんげきするドーンは、フリッツしか見ていない。イザベラは息を詰めて一気に動いた。

 緩んだドーンの手を引き剝がし、リーテの腕を引く。リーテもあらがい、ドーンのこうそくからけ出すと、イザベラの胸へと飛び込んできた。

「あ……っ、アシュトリーテ! イザベラ、なんて乱暴なことを!」

 腕を伸ばすドーンの前に、フリッツは足をみ出しけんせいする。イザベラもリーテを背後にかばい込んでドーンを睨みつけた。

「ドーン、二度と近寄らないでって言ったでしょ!」

 るイザベラにみしたドーンは、ふと気づいた様子で息を吐いた。ひと筋額に落ちた髪をでつけると、首を横に振る。

「あぁ、そうか。僕としたことがづかいが足りなかったね、アシュトリーテ。奥ゆかしい君が元婚約者のの前でなおになんてなれるわけがないんだ。僕と君の愛を見せつけては、イザベラがみじめになるだけ……。ふふ、今度は二人だけでひそやかなおうをしようじゃないか」

 イザベラのかたしに、ドーンはリーテへと片目をつむってみせる。悪びれもせず、さつそうと去っていくドーンを引き留める者はいない。

 ドーンの姿が完全に消えるのを待って、イザベラはリーテを振り返った。

「リーテ! このお鹿。どうしていきなりげ出すのよ。王子さまから逃げ出さなきゃ、ドーンにつかまることもなかったのに!」

 ドーンと顔を合わせてしまった苛立ちから、イザベラのこわには険が宿る。不服気にくちびるとがらせたリーテに、イザベラはさらにしつせきを向けた。

「王子さまはリーテを選んだのよ。だったら自分でちゃんと名乗って、好意にこたえなきゃ。今夜がとう会最後だっていうのに、わかってるの?」

 階段わきで向かい合ったイザベラは、乱れたリーテのかみを耳にかけてやる。遺品のくびかざりもずれてしまっているのに気づき、しくだしなみを整えるが、口からは説教が続いていた。

「リーテ、なぞって呼ばれてるのよ。美姫よ、美しいってみんな認めてるのよ。これだけのぼうらがない男なんていないんだから、逃げる必要なんてないのに……っ」

 だんからは想像もできないほどのしゆくじよに仕立てたリーテが、美姫と呼ばれるのはイザベラとしても鼻が高い。努力が結実したと思ったのに、当のリーテが逃げ出しては意味がなかった。

「あんたは基本的に素直で家事も良くこなすんだから、何処どこでも上手うまくやれるわ。身嗜みさえ自分で気遣えるようになれば、家を出たってちゃんと一人でやっていけるはずよ」

 ドーンにきつかれ、ゆがんでしまったを模したぬのかざりを直そうとしていたイザベラは、とつぜんリーテにはらけられた。

「……わたし、家にいちゃいけないの…………?」

 目をみはったイザベラにいちべつもくれず、リーテはすそを持ち上げるときびすを返して走り出す。

 向かう先には庭園のふちを囲う石のり。け寄ったリーテは、迷うことなく白い裾をてて手摺りをえ、庭園から飛び降りた。

「……っ、リーテ! リーテ…………!」

 全身の血が引いていく。叫びながらイザベラは足を踏み出した。泳ぐようにうでいて、リーテが越えた手摺りにすがりつく。

 手摺りの向こうは、下の庭園へと向けてくだしばの急な斜面だった。月光で陰になった斜面の中、白いドレスが風をはらみ、リーテは器用に立った状態で芝生の斜面をすべり降りていく。

 飛びねるようにたたらを踏んだものの、リーテは転ぶことなく下の庭園へと着地した。走り出す背中を確かめ、イザベラは手摺りに縋りひざを突く。

「し……心臓に悪いわ。…………良かったぁ」

 耳元で鳴りひびく脈の音に、眩暈めまいがする。震える息をいたイザベラの肩を、フリッツは落ち着けるように叩いた。

「歩けるか、ベラ? アシュトリーテを追うんだろ?」

 うなずけば、フリッツはイザベラの手を取り立たせる。イザベラは上手く足に力が入らず、たたらを踏んで目の前の胸に手を突いた。るぎもしないフリッツに息を飲む。

「あ、はは、膝が震えてるの……。ヴィヴィがいたら指差して笑われるわね。……帰ったら、リーテに危ないことしないように言わなくちゃ」

 荒ぶる心臓を押さえ、イザベラはフリッツからはなれて階段に向かった。

「ベラ、待ってくれ。階段は俺が先に──」

 フリッツが差し出す手も見ず、イザベラはおのれを奮い立たせるように長い裾を持ち上げる。

だいじよう、階段くらい一人で降りられるわ。ありがとう、フリッツ」

 かかとを鳴らし階段を降り始めると、風に乗って鼻へとげきしゆうが届いた。

 いぶかりながらも急ぐ思いで足を踏み出すが、イザベラはいやな予感がして次の一歩を躊躇ためらう。先に出した足の裏に、石段ではないかんしよくがあった。

 イザベラが長い裾をけて足元を確かめると、鼻の奥をにおいにまゆひそめる。下ろした片足を引こうとしたが、べたつく感触と共にくつの裏が階段から全く離れなくなっていた。

「え……、何よこれ? うそ、取れない…………」

「ベラ、どうしたんだ? ……なんだ、何か階段にってある?」

 イザベラの肩越しにのぞき込んだフリッツは、月光に黒光りする石段に眉を顰める。黒いのは五段ほどで、ほかの段は白く夜にかんでいた。

「く……っ、動かないぃ! どうなってるのよ?」

 靴がこわれるというほどイザベラが力を込めても、足は階段にくっついて動かせない。詰めていた息を吐き出し呼吸すると、こうを突く臭気に覚えがあった。

「……この臭い、もしかしてタール? なんでぼうざいが階段に塗ってあるのよ。いったいだれ悪戯いたずら? タールってのはかべや屋根に塗るものでしょ」

 イザベラのとなりこしをかがめたフリッツは、不意に耳をませた。

けんたいの金具の音がする……。近くに衛兵が来てるみたいだ。ベラ、ちょっと引っ張るよ」

 言って、フリッツはイザベラの足に手をかけ、直視しないよう顔をそむけた。だんかくれた足首は、下着に近い存在。裾を持ち上げて走るなど淑女としては言語道断、れんな所業だった。

 あられもない格好であることを自覚したイザベラは、心持ちつかみ上げていた裾を下ろす。

 フリッツはつちまずのすきに手を入れて強く引く。イザベラも力がかかっているのは感じられるが、くつぞこがタールから離れる気配はない。

「これは、ちからくだと無理だな。火か油でタールをかさなきゃ」

「そんな……。一昨日おととい、リーテが汚したのをいつしようけんめい洗ってれいにしたのに」

 気に入っているのにとイザベラがなげいたたん、下の庭園から衛兵の具足の音が聞こえてきた。

「大変……っ。見つかっちゃう。こんな格好、けすぎじゃない」

 何より、リーテがイザベラの名前で入城しているのだ。衛兵にり葉掘りさぐられては、入れわりがばれてしまうかもしれない。

 靴底は体重を受けてぴったりとタールにりついてしまっていた。イザベラが抜け出そうとがんる間に、衛兵は声まで聞こえるほど近づいている。

 髪を搔き回したフリッツは、イザベラに身を寄せた。

「……しょうがない。こうなったら、一度俺たちも逃げよう」

「え……? フリッツ、どうやって──」

 言うや、フリッツはイザベラの膝の裏に腕を通し、ひと息にかかえ上げる。片足は靴がげ、タールの中に置き去りになってしまった。

「ベラ、しっかり摑まってくれ」

「ちょ……っ、ちょっとフリッツ。危な…………っ」

 不安定な体勢に、イザベラはおどろきときようでフリッツの首に縋った。気づけばおどるよりも近いきよいきづかいに、いつしゆんで胸は大きく高鳴り、ほほは熱くなる。

 イザベラは置き去る靴をかえりみるゆうもないまま、フリッツに抱かれ逃げ出すことになった。


 イザベラとフリッツが去った階段に、第二王子のエリックが衛兵に呼ばれ着いた時には、靴が一つ残されているだけだった。

ひめ……、私は、あなたの答えを聞くまであきらめません!」

 決意するエリックの目の前には、硝子ガラスそうしよくされた靴が一つ、月明かりの中できらめいていた。

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