一章 男爵家の三姉妹



一章 男爵家の三姉妹



「いい加減に……っ、しなさいよ、このお鹿! 何回言わせれば気が済むの!」

 ちゆうぼうのただ中で、フェルローレン男爵家の長女であるイザベラはせいを放っていた。

 短い夏を楽しむはずの男爵家べつそうから聞こえるのは、笑い声ではなくイザベラのしつせきだった。

「またスカートに灰がついてる。灰の中でねむるなんてきたな真似まねするからよ! そんなに燃えかすが好きだってんなら、あんたのことアツシユって呼ぶわよ、リーテ!」

 り上がった目でイザベラがにらみ下ろす先には、灰でくすんだ使用人服をまとう少女がゆかみがき用ブラシをにぎめて座り込んでいた。

 さんかくきんからこぼれ落ちるせんさいかみは白金にかがやき、イザベラの叱声にうるひとみは快晴の空のようにわたった色をしている。くちびるや鼻は小作りで、ひいでた額は美しい半円をえがいていた。細い手足はたよりなげで、守ってあげたくなるか弱さとれんさをあわせ持つ。

 フェルローレン男爵のむすめアシュトリーテは、ぼろを着てなお輝くばかりのぼうの持ち主だ。

「アッシュでも、構わないけど。……でも、イザベラ」

「でもなんて言い訳しないの! いったいいつからそこそうし続けてるの? どれだけのろなのよ。いつもそうやってやらなくてもいいことをぐずぐずと!」

 比してりつけるイザベラは、黒くごわつくごうもうを押さえつけるように、いくつもの髪留めを使って纏め上げている。黒い瞳は吊り気味で、いかりで険の目立つ表情は近寄りがたい。

 終わらないイザベラの説教に、リーテはうつむき言われるがまま。そんなじようきようのぞき見る使用人は、厨房の入り口で身を寄せ合い、たがいをひじき合っていた。

「ちょっと、だれか止めなさいよ。あれじゃアシュトリーテさまが可哀かわいそうよ」

「イザベラさまになんて言うんだ? 正妻の娘だぜ。歯向かったら俺らがめさせられちまう」

「なら、アシュトリーテさまこそ男爵家の一人娘じゃない! あっちは後妻の連れ子──!」

 声を大にした女使用人に、ほかの使用人はあわてて口の前に指を立てた。

「だからこそだよ。男爵さまの愛情がなくなったアシュトリーテさまは、こうしてままいじめされてても誰も助けられねぇんじゃないか……」

 くちしそうに、使用人はみする。家事をして怒鳴りつけられるリーテを助けるには、使用人では力不足だ。できるのは、リーテを見守り、イザベラの目をぬすんでなぐさめる程度のこと。

 イザベラは背後に集まる使用人に気づかず、リーテを睨み下ろした。

「そんな汚い格好で掃除するなんて、れいにしながらよごれ落として行ってるようなもんじゃない。だからいつまでってもゆか掃除一つ終わらないのよ!」

「だって……、新しい服ちょうだいって言っても──」

「あんたにあげるわけないでしょ、お馬鹿! 自分の立場わかってんの?」

 あつするイザベラに、リーテは両手で掃除用ブラシを握り締めて顔を上げた。

「うん、わかってる。……だから」

うそかないの! わかってないから、こんな所でぐずぐずしてるんでしょ。さっきあたしが言いつけたこと覚えてる? それとも覚えてるから、やりたくなくてここで床と睨めっこしてるの?」

 胸の下でうでを組み直すイザベラのささやかなふくらみに対して、ちがうと首をるリーテはせぎすのきらいはあっても出るところは出ている。

 容姿も体型も対照的な義理の姉妹を見比べて、男使用人が鼻を鳴らした。

「女のしつみにくいぜ。あぁいうこんじよう曲がりだから、もらい手もないんだろ」

「本当にどうして……。本物のおじようさまのアシュトリーテさまが服の一つもままならないなんて。奥さまも天国でおなげきでしょうに」

 老いた使用人が目元をぬぐえば、一度大声を出した女使用人がつめを嚙んで考え込んでいた。

「そうよ。別荘にいらしてから一度だって、アシュトリーテさまのドレス姿見てないわ。せっかくの社交期なのに、どうしてかざることも許されないの?」

 服も満足にあたえられず、としごろの少女が髪をかす間もしんで掃除にせんたくにといそしんでも、放たれるのはイザベラの怒声ばかり。

「もうまんできない! アシュトリーテさまをお助けしなきゃ!」

「おい、ケーテ。早まるな……っ」

 仲間の制止も聞かず、こぶしを握った使用人のケーテは厨房へ足をみ入れようとした。たんに背後で激しく手が打ち鳴らされ、使用人はかたね上げる。

 背後では、赤い縮れ毛の男爵家次女ヴィクトリアが半眼になってながめていた。

「いつまで仕事ほっぽり出してんの。さっさと持ち場にもどりなよ。……特にケーテ。余計なことするなら、まずは自分の仕事終わらせてからにしな」

 たけだかに命じるこわに、イザベラもようやく怒鳴るのをやめた。

「ヴィヴィ、びっくりするじゃない。なんなのよ、いきなり」

 蜘蛛くもの子散らすように解散する使用人にいちべつを向けて、ヴィヴィはイザベラへとあきれた視線をめぐらせる。

「気づかないとか……。ま、いいや。で、そっちもいつまでやってんの? せっかく別荘来たのに毎日ベラの怒鳴り声とか、いい加減にしてほしいんだけど」

 イザベラは肩をいからせ、じつまいにもようしやなく声をあらげた。

「そんなこと言うくらいならあんたも手伝いなさいよ! それに、そのことづかいもやめなさいって言ってるでしょ。はしたない!」

 一つしか年の違わないヴィヴィは、イザベラの怒声など左から右へと聞き流してリーテへ目を向ける。

「てか、リーテが言うこと聞けばいいだけでしょ。さっさと行きなよ」

 ヴィヴィの言葉に、リーテは手にした掃除用ブラシを見下ろしてまゆを下げた。

「えぇ? やだよ……。わたし、お風呂きらいなの、知ってるでしょ?」

 リーテの口から出た否定の言葉に、イザベラは全身を戦慄わななかせた。

「やだじゃないでしょ、このお馬鹿! 本当にアッシュって呼ぶわよ!」

「それはいいよ。わたし、灰好きだもの」

「そういうことじゃないの! あぁ、もう……」

 リーテの的外れな答えに、イザベラは額を押さえる。

 そんな両者に呆れたヴィヴィは、だらしなくかべもたれて肩をすくめてみせた。

「だから言ったじゃん。ほんていはなれた程度で変わるわけないって。散々使用人に協力してもらって無理だったのに、こっちでこうせいなんてできるわけないっしょ」

「何言ってんの、ヴィヴィ! まだここじゃ上手うまくやってるほうじゃない。三日に一回は髪を梳かすし、顔だって毎日洗ってるわ。土いじりもさせてないからまだ服も灰の汚れだけでしょ!」

「それ、ベラが怒鳴ってようやくじゃん。つうの男爵令嬢よりずっと下だからね。まだまだお嬢さまってわくには入らないから」

 ヴィヴィにきつけられた現実に、イザベラは言葉にまって目をらす。視線の先では、リーテがまた厨房の床についたあぶらよごれとのかくとうを再開していた。

「こら、リーテ! 掃除はもうやめなさいって言ってるでしょ。お風呂掃除のついででいいから、あんたの体のあかも落としてきなさい!」

「お掃除は好きだけど……。体洗うのはいやなの。めんどうなんだもん」

 誰もが守ってあげたくなるか弱さだが、言葉の内容にイザベラは眉を吊り上げる。いい加減、説教だけではリーテが動かないとわかっていた。

「あぁ、そう……っ。じゃあ、灰の好きなお馬鹿さんでもやれる仕事をあげようじゃないの!」

 引きったみをかべたイザベラは、リーテの腕をつかみ引き立たせる。無理矢理引っ張られたリーテは声をふるわせた。

「え、やだよ……。お風呂は、や、いや…………! 乱暴しないで……っ」

 掃除用ブラシを取り落とし、泣き言を口にするリーテに、ヴィヴィは目をすがめた。周囲には泣き声に反応した使用人の、心配やふんいろどられた目がある。

「……やっぱ、きようすぎ。顔ばっかでリーテの中身なんてお構いなしじゃん」

 イザベラはヴィヴィを振り返り、ついてくるだけの妹に声を上げた。

「ちょっと、ヴィヴィも手伝ってよ。こら、リーテ。ちゃんと歩きなさい」

「やだよ。リーテにかかわるとろくな目にわないって、一年前に学んだから」

 ヴィヴィはな言いようできよする。イザベラはちゆうぼうを後にしてろうを右に曲がり、ふんぜんと言い返した。

「だからって、誰も何もしないんじゃ、この子一生このままよ! 早くに母親をくして甘やかされて、使用人まで嫌がることは何もさせないままできたから、こんなぼうの持ちぐされになって。お義父とうさまもリーテをどう注意していいかわからなくて困ってたんじゃない!」

 初めてリーテと出会った日を、イザベラは忘れられない。住み込みの家庭教師としてやとわれた母と共におとずれただんしやく家で、気まずそうにしようかいされたのは、使用人よりも身なりが貧しい男爵令嬢だった。

 母は家庭教師、イザベラとヴィヴィは遊び相手として共に生活して一年。義理の姉妹となってまた一年が経ち、ようやく改善のきざしが見えてきたのだ。

 ちく小屋のわらかたまりにも似たもついたんだかみが、今では金糸のごとかがやいている。ここであきらめてしまえば、また元のさんじように戻るのは目に見えていた。

 イザベラが進む先には、洗濯の干し場につながる裏口。木戸を押し開けば、朝一番の洗濯物が木々の音に合わせてれている。

「で、リーテに何も言えなくなってた使用人説得して、お義父さまに造らせたリーテ専用厨房に乗り込んで、って言い聞かせて……ようやくこれ?」

 手を貸す気のないヴィヴィが指すのは、風呂は嫌だと大きなひとみからなみだこぼれんに泣くリーテ。どんなにきたない格好でわがままを言っても、元の顔の良さがすべてをおおい、なんの落ち度もないじゆんすいで清らかな存在に見せかけていた。

「割に合わないわぁ。一年かけてもリーテの意識、何も変わってないじゃん」

 本人に変わる気がないのに気力と体力を使うだけだと、ヴィヴィはしつしようする。生意気な妹の言葉にうなずく心中をおさえ込み、イザベラは前を向き直して言いつのった。

「それでも、このままってわけにはいかないでしょ。──少年老いやすく、学なりがたしって言うんだから。女の子なら……、少女老いやすく、りようえんなりがたしってところよ」

「ベラ、そこは命短し、こいせよ乙女おとめでいいんじゃない?」

「このリーテが自分で恋してくれるならそれがいいわよ!」

 勢い怒鳴るイザベラのかんなど何処どこく風で、ヴィヴィはリーテを見た。

「あぁ、無理っぽいねぇ。アッシュなんて呼ばれて灰が好きだとか言っちゃうリーテと、だれがどうやったら恋に落ちるんだか」

 想像がつかないと全否定するヴィヴィに、イザベラはべつそうへい沿いを右手に進みつつ拳をにぎった。

「一つ二つの欠点なんてあいきようよ。リーテだったらいける! あたしは諦めないわよ!」

「諦めてよぉ……」

 嫌々ばかりのリーテは、イザベラの決意に不平をらす。

 うらめし気に見上げる姿も、愛らしさを失わないリーテを引きって、イザベラは別荘の角を曲がった。

「そうはいかないわよ! あんたが行きおくれたらお義父さまが困るの。むすめよめに出せないなんて、貴族の間じゃ笑われるのよ!」

「てか、ベラ何処いくの? ここ厨房の外じゃん。何もないでしょ」

 ヴィヴィの問いでようやく行き先が風呂場ではないと気づいたリーテは、目から涙をぬぐうと辺りを見回した。

 イザベラの目の前には、地面を覆うしきとその上に山と積まれたさや入りの豆。

 豆きの準備がばんたんに整えられた光景に、リーテの表情はいつしゆんで輝いた。

そうしてよごれてもお風呂は嫌なんて言うなら、せめて服を汚さない仕事しなさいよ」

 言ってイザベラが手を放すと、リーテは落ち着きなく豆の山とを見比べる。

「いいの? これ、全部剝いていいの?」

「いいわよ。……ただし、ちゃんと敷布の上でやること! 終わったら豆のくずはきちんとはらい落とすこと! これくらいは守りなさいよ」

 首を激しく上下に揺らしたリーテは、飛びつくように豆剝きに取りかかった。

 たんそくするイザベラのとなりで、ヴィヴィは莢から豆を取り出す様子にかたを竦める。

「あれ、何がおもしろいの? あんな量一人でこなせとか、くそつまんない重労働じゃん」

「豆を剝いた後に、中身の詰まったいい豆か悪い豆かを選別するでしょ? あれで水に豆を入れて、浮いてくるのを見るのが楽しいらしいわよ」

 ヴィヴィの問いに答えるイザベラも、リーテのしゆこうに理解がおよばず無意識に首をひねった。赤毛をいじり出したヴィヴィは、わからないとはっきり口にする。

「てか、あれだけの豆どうするの? どうせリーテは食べないじゃん。身のやわらかい川魚しか食べない上に、豆えたところでけるし」

 口角を下げたイザベラは、摑んだリーテのうでの細さを思い出しうなり声を上げた。

「うぅん、やっぱりもっと食べさせなきゃ。顔色も悪いし、元の色が白いから余計に傷も目立つし。昨日も何処かで打ち身作ってたし……」

 対策を練ろうとつぶやいたイザベラに、豆しか見ていなかったリーテは顔も上げず声を発した。

「やだよ、わたし。お肉も野菜もきらいなの、食べたくないの。お豆も土くさくていや。パンもむとあごつかれるから嫌い。ずっと言ってるのに、どうしてまだ食べさせようとするの?」

 わがまま放題の発言に、イザベラが怒鳴ろうと息を吸い込んだたん、ヴィヴィは口をはさんだ。

「そう言えばさ、ベラ。うわさになってんの知ってる?」

 みやくらくのない問いに、イザベラはしかりつける言葉を飲み込む。目でヴィヴィに先をうながすと、しつけに指を突きつけられた。

「フェルローレン男爵家では今、ままいじめが行われてるってやつ」

「……え、…………は? えぇぇええ! 何それ、信じられない。そんなでたらめ──!」

 イザベラが嚙みつくように声をあらげると、ヴィヴィは半眼でいちべつを投げた。

「だから、それ。あたしずっとうるさいって言ってたじゃん。ベラ怒鳴りすぎなんだよ。リーテも高い声で泣きさわぐし。別荘の外にまでひびいてんだよ? なのにベラはすぐかっとなって、ぎゃあ、ぎゃあさ。ねぇ、リーテ?」

 自覚すべきだと言うヴィヴィは、豆剝きに必死のリーテへ同意を求める。一も二もなく頷いたリーテは、興味ないような様子できちんと聞いていた。

「うん……、怒鳴りすぎだと思う。もっと、やさしくしてくれても、いいよ?」

「調子に乗らないの、お馬……っ、か」

 怒鳴りそうになる勢いを嚙み殺すイザベラに、ヴィヴィは意地の悪い笑みを向ける。姉としてのきようき集め、イザベラはのどせましつせいを飲み込んだ。

「わかったわよ……っ。怒鳴らないようにする。けどね、リーテ。あたしはこうせいの手をゆるめるつもりはないからね。絶対におには入ってもらいますから」

「えぇ? もうお風呂やだぁ……。顔は洗ってるのに、まだやるのぉ?」

 豆を剝きながらぶつぶつと不満を口にするリーテをながめて、ヴィヴィはかんがい深げに呟いた。

「昔はあわも立たないくらい汚かったのに、今じゃ一回の泡立てで済むようになってるし。お風呂に入る時間も短くて済むようにはなったじゃん」

 ヴィヴィのこうてい的な言葉に、イザベラは勢い込んで反応した。

「でしょ! やっぱり日々の積み重ねが大事なのよ。その内リーテも自分からお風呂に入るように──!」

「ならない! ならないからもうやめようよぉ……」

 青い瞳を豆かららして、リーテはうつたえる。そんな泣き落とし程度でもはやるぎもしないイザベラは、腕を組んでまいを見下ろした。

「ならなきゃなの。いい? 今は年に一回の社交期よ。この湖周辺に国中の貴族が集まってるの。だんはお近づきになれないような上流貴族とも出会える数少ない機会なのよ」

「わたしまだ社交界に出てないから、関係ないもん……」

 小さく反論するリーテに、イザベラは言い聞かせた。

「確かにリーテが社交界に出るのはまだ先よ。社交界に出てなきゃ子供あつかいだもの。どんな貴公子からも相手にされないわ。これは年功序列だから、リーテはどうしてもヴィヴィの後。今年は無理よ」

 けれどと続けようとしたイザベラに、ヴィヴィは茶々を入れる。

「別にリーテが先でもいいし。年功序列っても、あたしら養女だからリーテ優先してもいいっしょ」

「駄目なの……っ。順番も守れない、慣例をかろんじるなんて見られたらとつさきが減るわよ。何を言っても今年はあんたが社交界に出る番よ、ヴィヴィ」

 怒鳴りそうになるこわおさえて言い聞かせると、今度はリーテが口を挟んだ。

「やっぱり、わたしのだしなみとかお風呂とか、今はまだ関係ないよ」

「何言ってるの、お鹿さん。リーテなら湖でふなあそびでもすれば誰の目にだって留まるわ。そうすれば、来年でも再来年でも社交界に出た時のつかみがちがうのよ。……誰にも見向きもされないより、注目されるほうがいいんだから」

 ふと顔を上げたリーテは、な表情で問いを投げた。

「それ、イザベラの経験?」

「……っ! …………い、いつぱん論、よ」

 言いよどむイザベラが声をしぼり出すと、ヴィヴィが失笑する。

「そんなこと言うなら、少しはお義父とうさまなぐさめれば? 下手へたな相手あてがったって、まだ気にしてんだから。ま、どうせ二人で謝り合戦して何も言うことなくなるんだろうけど」

「わかってるなら今は自分の心配してなさいよ! ドレスも自分で用意するとか言ってあたしに手出させないし!」

 気まずい思いをいかりに変えつつ、イザベラは片手で痛む胸を押さえた。

 社交界ではとうが鉄則。社交界に出るのなら、おどる相手とどうはんでなければならない。そして社交期の舞踏会は、貴族による貴族のための貴族のお見合いの場なのだ。

 こんやく者がいるなら結婚を前提とした付き合いのおになり、未婚者は兄やこんの男性にらいして踊ることになる。

 昨年社交界に出たイザベラには、義父となったフェルローレンだんしやくが婚約者を用意した。けれど春を前に、その婚約をしたのだ。相手に非があることとは言え、義父の交友関係にひびを入れる事態になったことが、胸の内に重くのしかかる。

「……お義父さまのためにも、あたしがリーテを更生させなきゃ」

 声にしない呟きは、隣のヴィヴィにも聞こえてはいない。

 婚約破棄で気落ちした義父を元気づけるには、まなむすめであるリーテを何処どこに出してもずかしくないしゆくじよにすること。そう思い決め、イザベラは胸に当てていた手でこぶしにぎった。

「別に、ドレスとかは自分でどうにかするけどさ……」

 呟くヴィヴィは赤毛の先をつまんで、べつそうを囲うれんべいを見つめていた。

「ね、ベラ。踊る相手ってさ、やっぱりお義父さまが決めてくるのかな?」

 ささやくようにかれた問いに、イザベラはさぐりつつ答えを口にする。

「そりゃ、フェルローレン男爵家の娘ってことで出るんだから、この家と交友のある家にたのむのが筋でしょ」

 口にして思い出すのは、義父の旧友の息子むすこであった、かつての婚約者の顔。イザベラはいて苦い舞踏会の思い出をめだし、元気づける言葉を口にした。

だいじようよ。あたしの時は相手が悪かったんだから。ヴィヴィのためにお義父さまも相手はよく考えてくれるはずよ。心配しなくても、ドーンみたいな人……そういないもの…………」

 ヴィヴィを元気づけようと口にした名前が、ひどく苦く感じる。

 元から下がった口角をさらに下げたイザベラに、ヴィヴィはあきれたように嘆息した。

「他人の心配より、自分のこと心配しなよ、ベラ。ドレス準備できてんの?」

「あたしはいいのよ。もうお披露目した後だもの。目立つ必要もないし」

 肩をすくめるイザベラを見上げて、リーテは声をはずませた。

「ドレス作りならわたし、手伝うよ。おさいほう好きだもの」

 おこられない家事を見つけたと言わんばかりのリーテを見下ろし、イザベラは片手をった。

「ヴィヴィの手伝いならあたしがするわよ。ほら、中にもどりましょ。──リーテ、疲れたらやめていいんだからね」

 いつまでも豆きをしていなくてもいいと言ってはみるものの、豆の山を消費するまでやめないだろうことは目に見えていた。

「お昼には様子見に来るから」

 豆剝きに戻ったリーテは生返事。肩を竦めたヴィヴィは、さっさと別荘の角を曲がっていく。

 後を追ったイザベラは、声をひそめたヴィヴィの呼びかけに足を止めた。

「ねぇ、ベラ。あれ、だれだろう……?」

 干し場の向こうを指差すヴィヴィに促され、れるリネン類をかし見たイザベラは、一人の青年が立ちくしている姿をとらえた。

 細身のがいとうを身にまとった青年は、またたきもせずはしばみの木を見上げている。鼻筋の通った横顔はたんせいで、静かなたたずまいは使用人の仕事場である裏口に似合わない上品さがあった。

 しんな視線に気づいたのか、不意に青年はイザベラとヴィヴィに首をめぐらせる。こくかつしよくかみやわらかく揺れ、細められる茶色のひとみは優しげに緩んだ。

「……イザベラ…………?」

 耳に心地ここち良い低い声音に、イザベラは身をかたくする。きよめる青年はごく自然にみをかべ、急ぐ様子ながら乱れた風情を感じさせない品があった。

「ベラ……、知り合い?」

 早口で囁くヴィヴィに、イザベラは全力で首を横に振る。

 近づく青年の服装をよく見れば、派手なそうしよくはないものの、模様の織り込まれた高級どうを外套の下に着込んでいた。足元に目を向ければ、かわぐつの照り一つとっても品質の良いものだとわかる。

「あんな上流貴族の知り合いなんて、いないわよ……っ」

 声を潜めて返したものの、イザベラはせまる青年貴族にかんを覚えた。

 身を寄せ合うイザベラとヴィヴィの前で足を止めた青年貴族は、なつかしげに目を細める。既知であると言わんばかりの表情に、イザベラはたまらず口を開いた。

「あ、あの! …………どなた、ですか?」

 しゆんかん、青年貴族の笑みが固まった。

 信じられないと言わんばかりにまゆを寄せた表情は、厳しく近寄りがたいふんになる。それでも不快さを覚えないのは、やはり元の顔が整っているためだろう。

「……俺を、覚えていない? ベラも、ヴィヴィも?」

 あいしようを呼ばれるほど親しい相手の中に、眼前の青年貴族はいない。妹とそろって呼ばれては、ひとちがいだとも思えないが、声にさえ聞き覚えはないのだ。

 不意にヴィヴィはにらみ上げるような角度で首をばすと、青年貴族をぎようした。

「あれ……? もしかしてフリッツ?」

「え、何処に? フリッツって、あの小さなフリッツよね。何処にいるの?」

 ヴィヴィの口から出た懐かしい名に、イザベラは反射的に声を出したが、じようきようを思い出し目をみはる。

 ゆっくりと視線を上げて目の前の青年貴族をうかがえば、自らの胸に指を差していた。

 聞き覚えのない声。あごを上げなければ目の合わない身長差。落ち着いたしんらしい立ち姿。何処をとっても七年前に別れたおさなみフリートヘルムの姿はない。

 ただ一つ、しように細められた瞳の色は、幼少から変わっていなかった。

「え、ほ、本当に、あの……フリッツ、なの…………?」

 信じられない思いがそのままこわいろとして出ているイザベラに、目覚ましい成長をげた幼馴染みは懐かしげに笑みを深める。

「ベラ、会いたかった。国に帰ってくるのに七年もかかったんだ。……覚えてないのは、その…………しょうがないさ」

「覚えてないわけないじゃない! でも、そんな……、わかるわけないでしょ!」

 さみしげに目をせられ、イザベラはあわてるあまりしかりつけるような声音を上げてしまう。フリッツは勢いに押され、つぶやくように謝ると、ヴィヴィへかくにんの視線を向けた。

「わかるわけないじゃん。フリッツって呼んだのも当てずっぽうだし。昔のおもかげどこよ? いっつも泣いて目赤くしてたし、ベラより小さかったし。おっきくなりすぎ」

 知った相手とわかったたん、ヴィヴィはえんりよなく言い放つ。まだフリッツだという実感のかないイザベラも、うなずきをり返した。

 七年前、国外へ行かなければならなくなったと泣いていた少年の面影と言えば、瞳の色くらいのものだ。髪さえ黒味が強くなっており、顔つきは泣きれた幼馴染みからはほど遠い。

「そんなに変わったかな? 確かに身長は伸びたけど……。──いいさ。こうしてちゃんと再会できたんだ」

 フリッツは黒褐色の髪をき回して気を取り直し微笑ほほえむ。物思う時のくせは昔と変わっておらず、イザベラもようやく目の前の青年貴族と幼馴染みがつながった。

「フリッツ、でもどうして、あたしたちがここにいるってわかったの?」

 別れたのは、まだ実父と共に暮らしていた時分のこと。七年も会っていなかったフリッツが、どうしてさいこん先のフェルローレン男爵家の別荘に現れたのか。

「それは、さがしたからさ。元の家の近くで聞き込みして、ベラたちの両親がこんしたのは聞いたから。フェルローレン男爵と再婚したのも調べて知った。毎年社交期には別荘に行くこともわかったから、会えるかなと思って」

 訪ねようとしたところで、塀の向こうから声がしたのだと言う。そうして裏門に回ったところで、折良くイザベラとヴィヴィが現れたのだ。

「わざわざ、そんな……。大変だったでしょ。帰ってくるのに七年ってことは、今年国に帰ったばかりなんじゃないの?」

 幼い日から七年もはなれていた故国で、落ち着くひまもなく労力を使って捜したと言うフリッツに、イザベラはおどろくばかりだ。

「誰よりもまず、ベラに会いたかったんだよ。俺はベラに──」

「そうだ! フリッツ、しようかいさせて。あたしたちの新しい妹なの。ちょうど向こうにいるから!」

 リーテを紹介しようと笑みを向ければ、何かを言いかけたフリッツは髪を搔き回して一つ頷いた。

 イザベラは勇んでべつそうの角に向かい、久しぶりに顔を合わせた幼馴染みを先導する。

 置いて行かれる形になったフリッツに、ヴィヴィは堪らずき出した。

「ぶふ……っ、間が、間が悪いって。フリッツ可哀かわいそう

 口をおおってしやべるヴィヴィに、フリッツはうらめし気な視線を向けた。

「ヴィヴィ、本当に同情してくれるなら、笑わないでくれないか?」

「会いにきたとか言ってたけど、あれ、絶対ベラに通じてないって。ぷぷ……っ」

「いいさ。再婚して一年だと聞いているし、生活が変わって大変なこともあるだろ? 七年ぶりなんだ。今さらあせるつもりはないよ」

「うわぁ、あの泣き虫が変わるもんだね……。うちの『お姉ちゃん』は変わってないよ。相変わらずおせつかいくちやかましいの。ちょっとは焦ったほうがいいんじゃない?」

「つまり、俺も小さいころのまま弟あつかいか? でもそうか、変わってないなら良かった。──ままいじめなんてうわさを聞いたけど、この様子なら何かのちがいなんだろう?」

「それ、聞く意味あんの? はなから信じてないって顔に書いてあんじゃん、フリッツ」

 半眼で向けられるヴィヴィのてきに、フリッツはまゆを上げて笑みを返した。


 変わらず豆きに専念するリーテを確かめて、イザベラは声を潜めて話す二人をかえりみた。七年ぶりの再会にもかかわらず、たがいにかたすくめて笑い合う親しげな雰囲気に首をかしげる。

「あら、二人ってそんなに仲良かったっけ? ……ま、いいわ。ほら、リーテ。ちょっと豆剝きやめなさい。あたしたちの幼馴染みのフリートヘルムよ。前住んでいた家が近所だったの」

「はい、どうも……。今いいところだから、わたしに構わないでいいよ。ここで大人しくしてるから、イザベラたちはゆっくりしてて」

 豆剝きをやめないどころか顔さえ上げないリーテに、イザベラは肩をいからせた。フリッツへのあいさつよりも、リーテにとっては豆剝きのほうが重要だと言わんばかりの無礼ないだ。

「リーテ! 挨拶一つまともにできなくてどうするの!」

 イザベラのしつせいに、フリッツの笑い声が重なった。振り返ると、フリッツは謝るように片手を挙げてせきばらいをする。

「なるほど……、ずいぶん変わったおじようさまだな。とてもれいな顔をしているのに。その服装も、もしかして本人の好み? ほとんど人前に出ないって聞いていたけど」

「そうなの。よく知ってるわね。家事がしゆで、お洒落しやれだしなみには全く興味がないの」

 変わっていると笑うフリッツの表情にけんがないことを見て、イザベラはあんする。リーテの格好に慣れていて忘れてしまっていたが、母が家庭教師にく前は、リーテのさんじように三人もの家庭教師がげ帰っていたのだ。

 まともな育て方ではないと、義父は家庭教師たちから散々な言われようだったと聞く。

「あ、せっかく訪ねて来てくれたのに立ち話ばかりでごめん。すぐお茶れるから。フリッツ、裏口から入ってもらうわけにはいかないし、表に回ってくれる? リーテも、お茶飲まない?」

「ううん、いらない。ここにいる。豆剝きしてるから気にしないで」

 そくとうで返ってくる言葉に、イザベラはあきれて息をいた。

「……じゃあ、ヴィヴィはフリッツを客間まで案内してね。あたしはお茶持っていくから」

 たのむと、半眼になってフリッツに視線を投げたヴィヴィは、首を横に振った。

「あたしもいいや。フリッツ、のどかわいてないならベラと散歩でもしてくれば? 久し振りなんだし積もる話もあるっしょ?」

 とつぜんの提案にフリッツを窺うと、何故なぜかヴィヴィと頷き合い、通じ合っていた。

「ベラ、君がいいならはんまで歩かないか?」

 フリッツのさそいに答えを迷っていると、ヴィヴィは早く行けと言わんばかりに手を振る。イザベラはフリッツにうながされるまま、裏門から別荘を出て馬車道をわたった。

 目指す木立の向こうには、湖面が反射する日の光が銀色にれている。湖をへだてて白くきらめく城と、天をくようにそびえるせんとうが見えた。

 飛来する水鳥はゆうに湖面を揺らし、き始めた木々をかした光はあおく辺りをいろどる。

 ノルトヘイム王国の別荘地帯は大きな湖を中心に広がり、湖を見下ろすだんがいには国王の別荘であるはくの城が聳えていた。

 城の対岸は下級貴族のやかたが点在するだけで周囲にひとかげはなく、イザベラとフリッツのほかに散歩をする者はいない。

 十歳にも満たない頃、別れたフリッツを思いえがき、イザベラは木立の下草をみつつとなりあおいだ。忘れたわけではないが、長く思い出すことのなかった幼馴染みは、おくの中とはあまりにもちがいすぎていた。

「……あら? フリッツ、帰って来たってことは今何処どこにいるの。もしかしておうちに帰ったの?」

 聞いてから、イザベラはしゆを取り違えかねない言葉選びに気づく。聞きたかったのは、以前住んでいた家に帰ったのかということではなく、父親のいるほんていもどれたのかということ。

 言い直そうとした途端、しように細められたフリッツの目が、確かに質問の意図をとらえていることを物語った。

「あぁ、帰ったよ。本邸にね……。妹と、初めて顔を合わせた」

「妹? え、つまり、後妻さんが子供産んでたってこと?」

 頷くフリッツは、父親の再婚によりままきらった後妻の願いで別邸へと追いやられていた過去がある。使用人にも冷たくされ、さみしいと泣いていたのが七年前のこと。

 フリッツは同じ年頃の子供の中では身長が低かった。れいぐうされたよる当てもなく気弱だったフリッツを、幼い頃から気の強かったイザベラは弟のように相手していたのだ。

 年相応に成長したフリッツは茶色いひとみを湖面に向け、もんを描いて寄りつがいの鳥をながめる。

「妹は六年前に生まれていた。今思えば、突然国外行きを決められたのも、あの人がにんしんしたからだったんだろうな」

 かわいたこわかいするフリッツに、イザベラは思わず手をばした。思い出すのは、国外へ行かなければならなくなったと泣いていたフリッツが、父親に捨てられると悲しんでいたこと。

 当時もそうしてなぐさめたように、イザベラはこくかつしよくかみでる。やわらかく指先をすべざわりは幼い頃と変わらず、思わぬ部分に小さなフリッツのおもかげを感じた。

「ベ、ベラ……。さすがに、この年になって頭を撫でられるのは…………」

 突然のことに固まっていたフリッツは、耳まで赤くして言葉をしぼり出す。つられて、イザベラも自身の行いにずかしさを覚えて手を引いた。

「あ、ごめん! 別に今のフリッツを子供扱いしてるとかじゃなくて、その……」

「いいよ、わかってる。ベラは昔からやさしいから……。変わってないみたいで、うれしいよ」

 真っぐに見つめてくるフリッツは、目元をみにゆるめる。イザベラは知らないしんを前にしているようで何も言えず、賞賛の言葉も耳を通りける。

 ただ柔らかな声音ににじむ喜びに、イザベラのどうは強く鳴った。おどろいて胸を押さえても、いつもより速く感じる鼓動の意味がつかめない。まどい返答できなくなったイザベラのせいで、気まずくなりそうなふんも、フリッツはごく自然に流して話を変えた。

「ベラのほうの話も聞きたいな。俺がいなくなってから、今までのことを」

「話すほどのことなんてないわよ? お母さんと別れるまで、ずっとお父さんは変わらずるし、暴力振るうし、えらそうだったし」

 家庭内暴力を振るい偉ぶる実父のことは、フリッツも知っている。家庭かんきようめぐまれない者同士だからこそ、仲良くなったとも言えた。

 言葉を切ろうとしたイザベラに、フリッツは先を促して目を合わせる。散歩を切り上げるには早く、イザベラは湖畔を左に見て歩きながら口を開いた。

「……お義父とうさまとのさいこんは一年前だけど、出会いは二年前ね。最初にお義父さま見た時には、まさかお母さんが再婚するなんて思わなかったわ。子供どうはんかんげいの住み込み家庭教師なんて、いい職見つけたなってくらいで。連れ子のあたしたちまで受け入れてくれたお義父さまはすごくふところの深い人よ」

 女性にしては身長が高く、骨ばった体をしている母は、自身とは真逆の異性にかれた。フェルローレンだんしやくは、低身長で顔が丸く同じくらいおなかも丸い温和な好人物だ。

「あたしのこともむすめだからって、社交界に出すために心をくだいてドレスや馬車を準備して、送り出してくれたの。もつたいないくらいの婚約者までしようかいしてもらって…………」

 のうよぎる自信じような美男づらに、イザベラは思わず口を引き結ぶ。湖を渡る風が、ひときわ強く木立を揺らした。

「…………婚約者?」

 背後に聞こえるつぶやきに振り返ったイザベラは、いつの間にかフリッツが立ち止まっていたことに気づいた。

 目が合ったフリッツは、急ぐ足取りで追いつくと、またたくイザベラを見つめた。

「驚いたな。ベラが、そんなに早く婚約していたなんて。いや、とう会という晴れたいだからこそか。社交界に出ると同時に、婚約した?」

 察しの良いフリッツに、イザベラはうなずき視線を下げた。

「えぇ、そうよ。去年社交界に初めて出た時に、おも、ねて……。そ、そんなに意外? あたしに婚約者がいたらおかしいかしら?」

 義父に対する罪悪感と、一年たずに婚約した外聞の悪さで、イザベラはやみこうげき的になる。フリッツにそんなつもりではないと謝られ、さらに居たたまれなくなって押しだまった。

「ベラ、他意はなかったんだ。──勿体ないと言うくらい、義父になったフェルローレン男爵は、よほどベラにいい人を選んだんだね」

 言葉を選ぶフリッツのづかいに、イザベラはおのれような態度を改めなければといて答える。

「そう、お義父さまはあたしのこと考えてくれたの。評判の美男だし、年も上の大人で。お洒落しやれにも気を遣う人だったわ」

 生まれ持った顔は整っており、年長者にはれい正しく、自信にあふれた態度が高評価を受けていた。義父は好青年だという周囲の評価をんで婚約を取り決めたのだ。

 ドーンとの婚約破棄をこうかいはしていないが、義父の交友に傷をつけた負い目が、イザベラの表情をかたくする。ドーンを思い出してしやべる言葉も舌に苦く、自然口数も少なくなった。

 不意に顔をのぞき込んできたフリッツは、気遣わしげに目を細める。

「ベラ……、さっきからけんに力が入りっぱなしだ。──もしかして、婚約者とは上手うまくいってないのか?」

 案じる思いの滲むフリッツの問いに、イザベラはたんそくを吐いた。かくしてもしょうがない。ひと月後に行われる城での舞踏会には、同じ年頃の若い貴族が集まるのだから、フリッツに婚約破棄の事実が知れるのも時間の問題だった。

「実は、もう婚約は破棄してるの。相手はヘングスター男爵家の長男、ドミニク。……ドーンの心変わりが、婚約破棄の理由よ」

 ドーン本人に未練などはない。どころか、ドーンといつしよにいても息苦しさしか感じなかったため、婚約破棄が決まった時にはあんさえした。

 けれど、やはり口にした事実に気が重くなる。優しい義父の心遣いを無下にしてしまったと思えばなおさらだ。

「心変わりなんて……。不実な婚約者が最初の舞踏会の相手だなんて。…………くちしいな」

 あわれむよりいきどおりをみせるフリッツに、イザベラはかたの力が抜ける気がした。

 ドーンが心変わりをしたことで、婚約破棄を申し入れたのはイザベラからだが、実質的にはられたようなもの。何処か自身をみじめに思っていたものの、本当は不義理な己をじんも悪いとは思っていないドーンに、とてもおこっていたのだと気づかされた。

 息をいたイザベラは、フリッツにしようを向ける。

「そうね、相手が悪かったわ。おかげで舞踏会嫌いになったもの。まぁ、もともとあたしには社交界の雰囲気がはだに合わなかったんだけど」

 女としてかざることも、美しくしようすることも嫌いではない。けれど、どうしてもえのいい子や元の顔がいい子にだれしも目が行く。婚約者がほかに心変わりしてしまったことを考えれば、着飾って美しさをきそい合う舞踏会が、イザベラにはちがいに思えるのだ。

「それに、おどってる時とか相手と顔近いじゃない? どんな表情していいのかわからないのよね。じっと見つめるだけじゃ、まりだし」

 イザベラが気を持ち直したことで、安堵に笑みをこぼしたフリッツは緩く首を横に振った。

「ベラはそのままでいいよ。落ち込んでいるよりも笑っているほうがいい。ベラの笑顔は今も昔もとても温かくて、どんな表情よりもてきだ」

 さらりと台詞せりふを口にするフリッツに、イザベラは気恥ずかしくて、湖を眺めるふりをして顔をそむけた。

「そ、そんなこと、初めて言われたわ……っ。あたしなんて──」

 上ずる声音を笑ってそうとするイザベラに、フリッツはしんけんな様子で否定する。

「そんなことないさ。ベラの笑顔は十分りよく的だ」

 うそじようだんなら笑って流せるが、フリッツの声からただよしんさに、イザベラは居た堪れなく感じる。真正面から魅力的だなどと言われた経験がないのだ。どんな返しをすればいいのかさえかばない。

 イザベラのちんもくをどう取ったのか、フリッツの声音が低くなった。

「ヘングスター男爵家のドミニクには、とんでもなく見る目がなかったんだな。そんな相手と一緒に参加したんじゃ、舞踏会がきらいになるのも当たり前だ」

 断言するフリッツをかえりみると、まゆひそめて己のことのように怒っている。イザベラは、家族からの慰めとは違うくすぐったさに、思わず笑いをらした。

「ふふ、ありがとフリッツ。でも、舞踏会で気が重いのはそれだけじゃないの。──今年ヴィヴィが社交界に出るんだけど、そっちにお金かけるじゃない。去年お世話になったあたしがまた、な出費させるのも、心苦しいのよ」

 言って、イザベラは無理に笑みを作った。表情を作るのが得意ではなく、口元の引きったはんな笑顔になる。

 下手へたな作り笑いに、フリッツは息を吐くと口を開いた。

「勿体ないな。今年の舞踏会は、世の女性なら誰でも興味を惹かれるだろうしゆこうがあるのに」

 思わぬ言葉に茶色のひとみを見上げれば、フリッツは悪戯いたずらに笑って続きを口にした。

「実は、今回の城での舞踏会は第二王子のお披露目の場でもあるんだ」

 得意げに告げられた言葉に、イザベラはかたかしをらう。

「春先にていの留学からもどってきた王子さま? それなら知ってるわ。第二王子のお披露目くらいなら、貴族の間でうわさになってるもの」

 動じないフリッツはみを深めて、もう一つ、と指を立てた。

「舞踏会には第二王子のお披露目以外に、もう一つの目的がある。──今年の舞踏会で、第二王子のきさき探しが行われるんだ」

「えぇ……? 噓だぁ」

 予想外の言葉を耳にして、イザベラは半端な反応を示す。

 ここノルトヘイム王国は決して大きな国ではない。国や領地が寄り集まってこうていに治められる帝国の一部だ。とは言え、一国の王子の妃を舞踏会で選ぼうというのはとつすぎる。

 社交期に城で行われる舞踏会は、ヴィヴィのようなお披露目のためだけに参加する下級貴族も混ざっているのだ。国王のいんせきになる貴族が男爵家では身分が違いすぎる。

「第二王子はとても女性の好みにうるさい方で、母であるおう陛下が身分相応の見合いをいくつも用意していたんだが、すべてをってしまった。どう説得しても頷かない王子に、王妃陛下もさじを投げて、自ら妃を探すように言ったんだ」

 それらしい説明をするフリッツだが、イザベラはやはりなつとくできない。

「別に、どうしても今年お妃を決める必要なんてないでしょ? 第二王子ってあたしたちと年変わらないって聞いてるわよ。好みがうるさいにしても、時間をかけて説得するべきじゃない。人が集まるからって、何も今年の舞踏会で妃を選ぶ必要はないはずでしょ?」

 イザベラも、フリッツが噓を吐いているとは思っていない。ただ、しやくぜんとしないのだ。フリッツも心中を察してか、話のほこさきを変えた。

「ベラは、第一王子のことは知ってるか?」

「常識程度だけど、ご立派な方と聞いているわ。……そう言えば、まだ第一王子もけつこんされてないわね。あら? 婚約者っていたかしら?」

 イザベラの疑問に、そこだとフリッツは言った。

「第一王子と第二王子ははらちがいの兄弟だ。王妃陛下は第二王子の母。第一王子はあいしようの子だ。すでに成人して国の中でも立場を確立している第一王子は、今すぐ皇太子になってもつつがなく政務をり行える。比べて第二王子は王妃と親族の後ろだては厚いが、まだ留学から戻ったばかりで国内のばんが弱い」

 話の流れがつかめないイザベラはなおに頷き、フリッツの言葉に集中した。

「それに第一王子の周辺には、若く勢いのある勢力が形成されつつある。あせった王妃陛下は、後ろ盾を厚くしようと見合いを組んだが当の第二王子に蹴られた。そこで、国内の支持者を得る足場、求心力として第二王子の結婚を使おうと方針てんかんしたんだ」

 第二王子の王妃探しを急ぐ理由は、国内で影響力の弱い王子の地盤を築くためであり、結婚というけいの話題で人々の関心を第二王子に向かわせるねらいがあるとフリッツは語る。

「……つまり皇太子争いの、いつかん? 第二王子の結婚で大々的に国民へお。それで話題を作って好感度を狙うってこと?」

「ざっくり言うと、そういうことだ。王妃の息子むすこないがしろにして第一王子を皇太子にはできないが、第二王子が皇太子になるには国内での立場が弱いのが難点だ」

「だから国民の好感度上げようってのね。──妃探しをとう会でやる理由はわかったわ。確かに貴族の中でも第二王子への注目度は強まるでしょうね。けど、そんな事情があるならやっぱりあたしみたいな身分じゃ、関係ない話よ。でも聞けておもしろかったわ、ありがとう、フリッツ」

 明るい話題ではあるが、舞踏会に興味をかれるほどの話ではない。選ばれるはずのないイザベラからすれば、なんの得にもならない情報だ。

 フリッツは何処どこか安堵する様子でしようを刻んだ。

「いや、第二王子の妃になれる条件はたった一つなんだ。城の舞踏会に招かれるしやくがあれば誰でもいい。第二王子のお眼鏡めがねかなぼうがあればね。それだけなのさ」

 美貌さえあれば王子の妃になれる。関係ないと聞き流しかけたイザベラは、ふと気づいて息を止めた。フリッツの言葉を理解し始めると、指先にじわじわと熱が広がり興奮がせり上がる。

 二人の頭上を、水鳥が羽音を立てて飛び立っていった。湖に目を向けたフリッツは、総毛立って思考にぼつとうするイザベラに気づかない。

「何それ……! すっごいことじゃない!」

 おくれて声を上ずらせてさけんだイザベラに、フリッツは身をこわらせる。

「舞踏会に行けば王子さまにお会いできるんでしょ? だったら、会いさえすればいいのよ! 会いさえすれば……、リーテなら絶対にお妃になれるわ!」

 こぶしにぎってほほを紅潮させるイザベラは、満面の笑みでフリッツを見つめた。

「ありがとう、フリッツ! 素敵な情報よ。玉の輿こしなんて夢物語だと思ってたけど、いけるわ。……あたしの代わりにリーテを舞踏会に行かせればいいのよ!」

 あつに取られていたフリッツは、イザベラに制止の声をかけるが聞いてはいない。

「そうと決まれば、豆きなんかさせてる場合じゃないわ! すぐにリーテに言い聞かせて、舞踏会に間に合うように再教育しなきゃ!」

 言うが早いか、イザベラは長いすそを摑み上げると、全速力で木立をけ出した。

 七年ぶりの再会にもかかわらず、フリッツはイザベラの勢いに置いて行かれる。追いついたフリッツは、男爵家のべつそうからひびせいと泣き声を聞くことになった。

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