二章 誰かのため、自分のため



二章 誰かのため、自分のため



 初夏から始まる社交期は、べつそう地帯へ移ったおうこう貴族がばんさんや舞踏に明け暮れる季節。有力貴族は趣向とぜいらして別荘を飾り、かざったしんしゆくじよが笑いさざめくのが毎年の光景だ。

 れん造りのフェルローレン男爵の別荘からは、半月がってもイザベラの怒声が聞こえた。

「もう、何やってんのよ! 本気でアッシュって呼んでほしいの? このお鹿!」

 ちゆうぼうに連なるしよくりようの一角には、厨房やりんせつする使用人の食堂から出た灰を集めて置いておく場所がある。その灰置き場の中に座り込んで、イザベラのしつせきを受けているのは、頭から灰をかぶってひるをしていたリーテだった。

 り返される光景に、使用人も仕事の手を止めてまで野次馬をすることはなくなったが、食糧庫で叫ぶ声は戸のない厨房にまでつつけ。使用人はリーテを案じて聞き耳を立てていた。

 そんなことも知らず、イザベラは灰の中からまいを引き立たせる。

「い……っ、痛い。イザベラ、わたしまだ動けない…………」

「何言ってるのよ。フリッツと会う約束があるって今朝から言ってたでしょ! それなのにこんな所で昼寝して、挙げ句の果てに灰まみれなんて……っ。もうフリッツ来てるのよ!」

 ぼけまなこまたたかせるリーテのうでを引き、イザベラは食糧庫から別荘の裏へ続く勝手口を押し開いた。昼をすぎた日差しの中で、イザベラは白くよごれたリーテに目をすがめる。

「ほら、もう。ともかく灰だけでも落とすわよ」

 言って、イザベラはリーテの体中から灰をたたき落とし始めた。たんえんまくのように灰がう。

「や、いや……! だめ……、痛いの、やめて…………」

 急ぐあまり乱暴になるイザベラに、リーテは泣き被りつつ、自らのむなもとから灰を落とした。

「……って、こらリーテ! これだれの服よ? なんでれいな服着てるの。使用人の服なんて着ちゃって言ってるでしょ!」

 裾のみがないことに気づいて、イザベラは声をあらげる。あたえていない新しい使用人の服は、以前着ていた物よりもまだ汚れが少ない。明らかに、リーテへ新しい服を用立てた者がいる。

 ついきゆうの声を上げようとしたイザベラに、リーテは指を一本くちびるに当てた。

「声、大きいよ。いいの? またヴィクトリアにおこられるよ?」

 言葉にまったイザベラは、声を低めてリーテをえた。

「自分の服着なさいって言ってるでしょ。ちゃんとあんたの分の部屋だって用意してあるし、ドレスや宝石だってあたしが管理してるんだから。言ったらいつでも出してあげるわよ……っ」

 リーテのために持ち込んだふくしよく品は、持ち主に代わってイザベラが部屋で管理している。

「だって……、汚したら怒るでしょ?」

 うわづかいに可愛かわいらしく小首をかしげるリーテに、イザベラは拳を握って声をしぼり出した。

「怒るに決まってるでしょ……っ。男爵家のむすめが使用人の服欲しがるだけでもおかしいのに。綺麗な格好して、お母さまの宝石を身に着けたいとか思わないわけ?」

 イザベラが別荘に持ち込んだ前妻の形見の中には宝石やドレスもあるが、リーテはほんていにいてもそれらの高価な遺品には興味を示さなかった。

「お母さまがいつもつけてた物は、お墓に入れてしまったもの。──それより、綺麗好きだったお母さまがしたようにそうしたり、い物してるほうがずっとお母さまを感じるよ」

 まえけについた灰をこすり落としながら、リーテは言いつのった。

 しかりつける意気をがれたイザベラは、たんそくを吐くとリーテを手招き屋内へともどる。

 きっと、本邸の使用人や義父にも同じことを言ったのだろう。幼くしてくした母のおもかげを追うリーテの心中を思えば、悪化するこうを誰も止められなかったのもわかる。

「……だからって、このままじゃ駄目なのよ」

 つぶやいたイザベラは、同情に流されそうになる心に活を入れてリーテをかえりみた。

「ところでリーテ。昼寝してたってことは、今朝たのんだドレスの裾直し終わってないんでしょ」

 声を荒げないようおさえるイザベラは、意地悪く揚げ足を取ろうとうかがうような口調になる。耳をませる使用人の中を歩きながら、リーテは首を横にった。

「ちゃんと終わらせたよ。だからひと休みと思って、灰の中で──」

「ちょっと、まさか! ドレスに灰つけてないでしょうね!」

 言葉の先を察してイザベラがきつもんすると、リーテはたぶんというあいまいな答えを返した。

「もう、終わったならあたしに言いに来なさいよ! 本当にそういうところのろなんだから!」

 気が回らないと叱りつけるイザベラは、厨房を出たろうでケーテとすれちがう。使用人として道をゆずり頭を下げるケーテだったが、イザベラに向けた表情は不服をによじつに表すものだった。

 おどろいてイザベラが振り返ると、顔をそむけるようにケーテは厨房へときびすを返す。

「あのケーテって、いつも苦しそうな顔してるのよね。何処か悪いのかしら?」

 心配を口にするイザベラに、リーテも首をひねる。

「そう? いつも元気に大きな声出してるよ?」

 イザベラは物言いたげに見据えるケーテを思いえがき、リーテとのにんしきの違いに首を捻った。

「ま、元気ならいいわ。それより、フリッツを待たせてるんだから、早く応接室に行くわよ」

「……あの人、どういう人なの? 一昨日おとといも来たし、その前もずっと来てる」

 勇んでみ出した足を、イザベラは思わず止めて振り返った。

めずらしいじゃない、リーテが他人に興味持つなんて……」

 一心不乱にしゆに没頭する集中力とは対照的に、リーテは他人への興味関心がきよくたんに低い。他人へのこうを口にすることはなく、それだけ他人へ思うこともないという心情の表れだった。

 同じしきで暮らす家族や使用人なら見覚えているものの、しんせきや客人は三度会っても覚えないほどだ。他人との接し方を学ばずに育ったリーテは、しゆくじよとしての立ちる舞いに意義をいだせず、再教育するイザベラをてこずらせていた。

 顔合わせ五度目にしてようやくフリッツへ興味を持ったリーテに、イザベラは淑女教育の成果を見た気がして、あわてて問いに答えた。

「フリッツはね、あたしが昔住んでいた場所に別邸を持ってた貴族の子供なの。七年前に国外に移されて別れて。それ以来会っていなかったんだけど、確か年はあたしより二つくらい上かな? 小さいころはあたしのほうが大きくて、あんまり年上って気はしてなかったのよね……」

 なつかしんで目を細めるイザベラを見上げ、リーテは首を傾げた。

「……もしかして、イザベラあの人の家知らないの? しやくとか、家名とか」

「そうね、うちの庭でかくれて泣いてるばかりだったから。家の名前なんて聞いたことなかったわ。今は、お友達の所にまってるらしいけど、実家の別荘は湖周辺にあるんじゃないかしら」

 だまって聞いていたリーテは、れんに頰へ手をえるとうれい顔で呟いた。

「じゃあ、まだずっと来るんだ。…………特訓とかしなくていいのに。ひまなんだね、あの人」

 いやなことからげる機会を窺っての問いと知ったイザベラは、ようしやなくリーテを叱りつけた。

 イザベラのしつせいは、廊下からげんかん広間へと響きわたる。

 玄関広間に面した応接室のとびらが開き、半眼のヴィヴィが顔を出した。

「ベラ、うっさい。そんなとこで止まってないでさっさと来てよ」

 いつまで待たせる気だと怒るヴィヴィの横を通り、応接室に入ったイザベラは、フリッツのしようむかえられる。待たされた不快感などじんも見せず、フリッツはイザベラをねぎらった。

「呼んできてくれてありがとう、ベラ。アシュトリーテも、来てくれてうれしいよ」

 変わらず使用人の服を着てあいさつもしないリーテに、フリッツはひるみもせずみを向け続けた。

「今日はダンスの練習をしよう。まず、どれくらいおどれるかを知りたいところだな」

 視線を向けてくるフリッツにうなずき、イザベラは応接室の真ん中にリーテの手を引いて立つ。

 客人のための部屋は今、や机をかべぎわに寄せて空間を作ってあった。えんを踊るにはせまいが、とうを踏むには十分な広さがある。

「ほら、リーテ。ダンスは小さい頃に習ったって言ってたでしょ。まずはゆっくりしたメヌエットからやるわよ。ステップ踏んでね」

 向かい合わせでイザベラが曲を口ずさみ踏み出すと、リーテはまごつき同じ方向に足を出す。

「痛い! こら、同じほうに足踏み出してどうするのよ。相手の足を踏むに決まってるじゃない。踵からじゃなくて、つまさきから──って、逆だったら、ほらまた踏んだ!」

 足元ばかりを見ているリーテは、イザベラの足を追うように踏みつけ続ける。

「おかしいなぁ……。お母さまといつしよにやった時は、お父さま上手だってめてくれたのに」

「痛いって。こら! 一度止まりなさい!」

 どうしても足を踏んでくるリーテに、イザベラは嘆息をいてフリッツを振り返った。

 ヴィヴィと向かい合ったフリッツは、すべるようにくるくると同じステップで踊り続けている。

「ヴィヴィ、上手うまいじゃないか。指の先までしとやかに……、そうそう。これならだいじようだ」

「ま、去年ベラの練習につき合ったからね。それに、ダンスきらいじゃないし」

 笑みをわして頷き合ったフリッツとヴィヴィは、動きを止めるとリーテを窺った。

 ゆうに踊るフリッツに目をうばわれていたイザベラは、すぐには言葉が出ず首を横に振る。フリッツはヴィヴィの手を放すとリーテへと歩み寄った。

「ベラ、交代しよう。──まずはステップを思い出そう、アシュトリーテ。ゆっくりでいいから、爪先で移動するところから」

 リーテのとなりに並んだフリッツは、怒らずていねいに説明しつつ教えた。

 腕を組んで嘆息するイザベラの横に、ヴィヴィが半眼になって寄ってくる。

「ほぉら、らなくても教えることはできるんだよ。ベラ、結局毎日怒ってばっかでさ」

「うるさいわね。……わかってるわよ。でも、あと半月しかないの。お城の舞踏会できさき探しがあることはもううわさになってるし。みんなドレスにはしゆこうらして、ダンスだってみがきをかけてくるはずじゃない。いくら顔が良くても、あんなダンスじゃ王子さまにあきれられるわ」

 あせる思いがいかりにはくしやをかけ、せいとしてリーテに向いてしまう。イザベラはしん然として落ち着いたフリッツにせんぼうを覚えた。

 フリッツの真似まねをして足を踏み出していたリーテは、不意に動きを止めフリッツを見上げた。

「ねぇ、ステップなんてどうせドレスのすそで隠れるんだから、どうでも良くない?」

 もうやめたいという心中のけて見えるリーテに、イザベラはたまらず怒声を放った。

「お鹿! 足元が見えなくても、ステップが違えば体の動きでわかるのよ!」

 イザベラが怒鳴って練習を続行させると、リーテは泣きさわぎながら不平をらす。訪問が五回目にもなれば、フリッツも慣れた様子でイザベラをなだめ、リーテを説得して場を治めた。

 そんなことをり返していると、応接室の扉をたたく音がする。イザベラが応答すれば、使用人がしらが茶とを持ってきたと言った。

「そうね、そろそろきゆうけいにしましょう。こら、リーテ。いつまでゆかでいじけてるの」

 イザベラが注意しても、へそを曲げたリーテは部屋のすみひざかかえて動かない。茶の準備のために入室した使用人は、何か言いたげにリーテを見ていた。

「あの子は気にしないで。きゆうはこっちでやるわ。──あら、このお菓子は何?」

 ねこあしのテーブルに並べられる白磁の皿には、夏の草花が絵付けされている。イザベラは近くにいたケーテへと視線を向けた。

「……どうのケーキと、バタークッキーです。四人分、人数分ありますから……っ」

 きんちようした様子で答えるケーテに、イザベラは内心いぶかしみながら頷いた。

「だったら、リーテの分のケーキはいらないわ。下げてちょうだい」

 イザベラが指示を出して背を向けると、ケーテは大きく息を吸い込む。言葉を発しようとしたたんほかの使用人が口をふさいで慌ただしく応接室を後にした。

「……? あら、カートは持って行ってしまったわね」

 片づけの時はどうしようとイザベラはつぶやき、ほほに感じる視線に気づく。首をめぐらせた先では、あご先に手を当てたフリッツが見つめていた。

「ベラ、どうしてアシュトリーテの分のケーキを下げさせたんだ? 何か、理由があるんだろ?」

 紅茶を入れる準備を始めながら、イザベラはたんそくを吐く。

「リーテったらへんしよくがひどいの。お肉も野菜もきらいだし、干し葡萄も。だから、かんそうして不味まずくなるより、下げさせて使用人のだれかが食べたほうがいいと思って」

 皿とそろいの小花の模様がいろどるカップに紅茶を満たし、イザベラはフリッツへ受け皿ごとカップを渡した。茶は四人分用意し、リーテのカップの前にはバタークッキーを皿ごと置く。

「固いパンは嫌いでも、こういうバターたっぷりのクッキーは好きなのよね。──最近は細すぎる体をどうにかするために、ご飯無理に食べさせてるし。お茶の時くらい好きな物食べさせようと思って」

 バタークッキーに気づいたリーテは、床をって近づくと、イザベラを上目にうかがった。

「こら、お馬鹿さん。ちゃんと椅子に座って食べなさいよ」

 言いつけに頷いたリーテは、いそいそと椅子にこしかけバタークッキーに手をばした。

 その様子を見ていたフリッツは、のどを鳴らして笑い出す。

「ふっ、こういう時にはちゃんと言うこと聞くんだな。──それにしても、さっきのはしいな。もっと言い方があったはず……」

 フリッツの低い呟きに、イザベラはカップをつまんだ手を止めた。

「あら、もしかしてフリッツ干し葡萄好きだった? ケーキ今からでももう一つ食べる?」

 けんとうちがいなイザベラのづかいに、紅茶を口にふくんでいたヴィヴィが盛大にむせた。

「ごほ……っ。ちょっ、ベラ! なんでそう頭の中、世話焼くことでいっぱいなの!」

「どういう意味よ? それより、ほら。口元きなさい。服にこぼしたりしてない?」

 きんを渡すと、ヴィヴィは半眼になって受け取るが、返されたのはにくまれ口だった。

「そのまんまの意味。一日中、誰かの世話焼くことしか考えてないっしょ。だいたい、何あのほんだな? べつそうにあれだけの日記持ってくるってどういう神経? しかも書いてある内容、他人の世話のことしかないし。自分のこと書くのが日記じゃん。最近じゃリーテのことばっかで、ドレスだかみがただって、今からじゃあんな派手なの間に合わないっての」

「べ、別にいいじゃない。リーテの顔なら派手なのも似合うと思って、考えたら止まらなくなったから書いただけで……、じゃなくて、ヴィヴィ! 何勝手に他人の日記見てんの!」

 指をきつけて叱声を放っても、ヴィヴィは日記のぬすみ読みに罪悪感の欠片かけらいだかない様子。

 不意にヴィヴィへ身を乗り出したフリッツは、手で口元をおおうと低く問いをささやく。

「ヴィヴィ、俺のことは何か書いてあった?」

「あぁ……、少しね。だいたい舞踏会に向けての意気込みだとかに押されて、久しぶりに会ったわぁくらいなもん。なんで再会した当日にあんなに大きな情報伝えるかなぁ……」

 ぞんざいなヴィヴィの返答に、フリッツは苦笑をかべてかたすくめた。イザベラは漏れ聞こえる会話に、あわてて口をはさんだ。

「何こそこそ話してるの? 日記の内容なんてその時の気分なんだし、フリッツのことどうでもいいとかじゃないのよ。ただ時間がないし、リーテにも手伝ってもらってるけど、あたしの舞踏会用のドレスをリーテのたけに合わせて、少しでも目を引くようにしなきゃいけないの」

 当のリーテは、口の周りにクッキーのかすをつけたまま紅茶をあおりお代わりを要求してきた。イザベラがハンカチでまいの口周りをぬぐっていると、フリッツはまた笑いを漏らす。

 視線を向け、いつくしむように深められる微笑を正面からもくげきしイザベラは息をまらせた。

「ベラも大変だな。なのに、少しもへこたれない。自分のためにがんれる人間は多いけれど、ベラほど他人のためにいつしようけんめいになれるひとを、俺は他に知らないよ」

 かんがい深げにつむがれる賞賛の言葉に、イザベラはむずがゆさを覚える。こうていするにはずかしく、喜びを表すにはなおに受け入れがたい。そんな思いから出たのは否定の言葉だった。

「他人のためなんて、大げさなことじゃないのよ。その、リーテのかみの色やひとみの色なんか、歌劇に出てくるおひめさまそのものじゃない。それが放置され続けるなんてもつたいないし。リーテだったらあたしに似合わない明るい色も似合うから、ドレス考えるのも全然苦じゃないのよ」

 頰に上る熱をまぎらわせるように、イザベラはお代わりで注ぐ紅茶に視線を集中させしやべり続けた。

「それに、妹の世話をするのは姉として当たり前だもの。小さいころからお母さんにも、妹を守りなさいって言われてたし──っ」

 言って、イザベラは現状にそぐわない言葉に口を閉じた。

 妹を守れと言われたのは、実父の家庭内暴力によるがいを防ぐためだ。フェルローレン家の養女となってからは、身の危険など感じたことはない。義父はおだやかでやさしく、そのむすめであるリーテをおびやかす者などしきにはいない。

 守るという言葉は、リーテには当てはまらない。けれど、やはりリーテはすべき対象であるようにイザベラには思えた。

 思案しつつリーテを窺えば、青く丸い瞳がもの言いたげに見つめ返す。目顔でうながすと、紅茶を口に運びつつ、リーテは上目に問いを発した。

「イザベラ、小さい頃からこんなに口うるさかったの?」

 しつけな言いようにイザベラは頰をらせる。ヴィヴィは意地悪く笑って茶々を入れた。

「そう、そう。一つしかちがわないのに姉ぶってさ。フリッツなんてベラの二つ上なのに、弟あつかいでしかったりしてたの。だめよ、フリッツ。そんなに泣いたら目がけちゃうから! とか」

うそ! あたしそんなこと言ってた?」

 おくにない発言に声をあらげると、当のフリッツも苦笑しつつしゆこうしてみせた。幼少は愛らしかったフリッツも今では年相応となり、決して弟扱いはできない品と落ち着きをまとっている。

 そんな年上のおさなみに、いったいどれくらい不躾な発言をしたのだろう。イザベラは過去の記憶をはらうように立ち上がった。

「い、今はそんなことより、リーテの特訓のほうが大事よ! ほら、食べたら続きをするわよ」

 一人でバタークッキーを食べつくしたリーテは、泣きそうな顔で首を横に振る。

「えぇ? もうつかれたよぉ。明日あしたにしよう、明日。わたし、ドレスにつけるぬのかざり作りたいの。お花の形になるようにって、裾に飾ったらいいと思わない?」

「それはいいけど、今はダンス。どんなれいなドレス着ていても、ダンス一つまともにおどれなきゃ笑いものよ。──後であたしのさいほう道具と糸を貸してあげるから。さ、やるわよ!」

 不平をらすリーテを見下ろし勢い込む。はやるイザベラをたしなめたのは、フリッツだった。

「ベラ、きゆうけいも特訓の内だ。反復練習なら時間をかけたほうがいいけれど、まずアシュトリーテは基本を覚えていくことから始めなきゃいけない。集中力が続くようにするには、こまめに休むのがいいんだ」

「……でも、とう会まであと半月しかないのよ?」

だいじよう。さっき教えた感じでは、ダンスが苦手な様子はない。舞踏会までダンスは俺も手伝う。ベラは……、少し肩の力をいてもいいんじゃないか? きみが気負いすぎてつぶれてしまったら、それこそ間に合わない。俺もできる限り手を貸す。だからあせらなくても大丈夫だ」

 低く落ち着いた声でさとされ、イザベラはすとんと腰を下ろした。フリッツに視線を向けると、うなずきと共に微笑まれる。

「明日は午後から来てもいいか? 昼に用事があるんだ」

「明日も、来てくれるの? ……ありがとう。助かるわ」

 言いながら、イザベラは気恥ずかしさとも違う胸の高鳴りにまどう。

 弟のように思っていた幼馴染みの成長は、外見だけでなく内面にも至っていたようだ。大人の落ち着きと優しさをの当たりにして、イザベラはまた頰に熱が集まるのを感じていた。




 昼の日差しは大地を温め始めてはいるが、湖面をわたる風ははだざむくイザベラは肩をふるわせた。

 木の幹を背に低木のかげかくれるように座り込んだイザベラは、はながら可愛かわいらしいドレスをひざに広げている。糸切りばさみ片手に、はんで一人かしみのすそかざりをドレスから切り取っていた。

 ドレスはリーテの亡母の夜会服で、透かし編みの部分をリーテが着るドレスに転用するために縫い目を解いているのだ。

「……はぁ。いったいどうしたのかしら、ケーテったら」

 疲れた息と共につぶやいたイザベラは、今朝のひともんちやくを思い出す。

 別荘で透かし編みを取る作業にかかろうとしたイザベラを、ケーテはそうなどに理由をつけててつてい的にじやしてきたのだ。

「ドレスに使うために飾りを取るって言ったのが何か気にさわったのかしら? びてるとか言って鋏取られそうになったし」

 鋏を入れるには、まだまだ着られる状態のドレス。勿体ないと思う気持ちはイザベラにもあった。

「けど、これリーテのドレスに使うのよね……。なんて言えないわ。あたしと入れわってまだ社交界に出てないリーテを送り込むんだもの。そんなずるいことするなんて、ふいちようするわけにはいかないし……。ケーテに悪気はないんでしょうし…………」

 悪意なく邪魔をしてくるケーテを叱りつける気にもならず、イザベラは湖畔で寒さをえながら作業を続けていた。

しなうすで、もう新しく布や透かし編みを買うこともできないし。うでのいいお針子も上流貴族がやとい込んでしまったし。自分でやるしかないのよね。やっぱり王子さまのきさき探しだから、みんな力入れてドレス仕立ててるもの。もう少し見られるようにしなきゃ。……遺品に鋏を入れるのは心苦しいけど、リーテのため。先妻の方も許してくれるわ」

 一人呟き寒さをしながら、イザベラは細かな糸目に鋏を入れ続けた。

 不意に、湖を渡る風が強くイザベラに吹きつける。風を受けてひるがえる遺品のドレスをかかえ込むと、髪がゆるかんしよくに目をみはった。

 上げた視線の先で、髪をい上げていたえんいろの絹のリボンが翻る。慌ててイザベラは腕をばすが、風にほんろうされたリボンは高くい上がり高い木の枝にからみついてしまった。

「噓……! 大変…………っ、あれはお義父とうさまからいただいた、痛──!」

 見えない所にまで飛ばされてはたまらない。リボンを追おうと足に力を入れたイザベラは、頭皮に走る痛みに声を上げた。

 髪を引っ張られる感覚に手を伸ばせば、背にしていた低木のとがった枝に髪が絡んでしまっている。少しれただけでも、四方八方に伸びる細いとげが指先をした。頭の後ろを見ることもできず、解こうと四苦八苦するが、髪はより固く枝に絡みつくばかり。

「もう……っ。このごうもうったら本当にいやになる! すぐ絡むし、うねるし、ふくらむし。毎日どれだけ苦労して纏めてると思ってるのよ。リボン一つ取れたくらいでほどけるとか、反発力強すぎるじゃない。──って、ほかの髪留めも全部髪に絡んでるの? もう、どうしたらそうなるの!」

 いらちと焦りのまま口と手を動かしていたイザベラは、のどを鳴らして笑う低いこわかたね上げた。

「だ、だれ……? 誰かいるの?」

 髪を引っ張られた状態では、周囲を見回すこともできない。イザベラの問いに笑い声の主は横合いから正面へと移動してきた。

ひどいありさまだな。もつれやすい髪だとわかっているなら、もっと座る場所に留意すべきだろう、くく……っ」

 片方の口角だけを上げて笑うのは、二十代半ばほどの貴族だった。額の上でれる髪はなめらかなきんぱつみどりいろの瞳は自信をたたえており、伸び上がったまゆや通った鼻筋は男性らしいしさがあった。

 けれど放たれる言葉にづかいなどなく、困っているイザベラを見ても笑って見下ろしているばかり。何より、盛大な独り言を聞かれていたずかしさから、イザベラは口を引き結んでけんを険しくした。

 目の前の相手はどう見ても上流貴族。たけの長いがいとうには金色のふちりがされており、首に巻いたえりきにはせいな透かし編みがほどこされている。くつした一つにも細やかなしゆうがされ、下草の生えた湖畔ではなく、みがき上げられたしきを歩くための格好だ。

 フリッツのような親しみやすさもない相手に、イザベラはちがいに対する不信感しかいだけない。何より最初から今まで、おもしろがるように上げられた口角が気に食わなかった。

「ケーテのことといい、今日は悪いことばかり起こる日なのかしら……」

 呟いて、イザベラは膝に置いた糸切り鋏を思い出した。見世物のように笑われているくらいなら、と鋏を取って絡んで丸まったかみにあてがう。

 たんに笑って見ていた貴族は目をすがめ、イザベラときよめた。近づかれたしゆんかん、深くこうをくすぐるこうすいにおい立つ。やわらかく広がりながら、確かにかおる上質なほうこうに、イザベラは意識をうばわれ動きを止めた。

「待て。何をしている? 短気にもほどがあるぞ」

 気づけば鋏を持つ手首をつかみ止められ、イザベラは無礼なせつしよくに相手をにらみ上げた。

「放して、失礼な人ね。鋏が当たっても知らないわよ」

「待てと言っているだろう。全く……」

 あきれた様子で息をいた相手は、手を伸ばしたかと思うと低木を揺らす。後ろで何が起きているかわからないイザベラは、耳元で枝が折られる音を聞いた。

「ちょっと、何してるの? あなた、いったい──?」

「クラウスだ。じっとしていろ、せっかちめ。今から解く。短気を起こして髪を切り取ろうなどと、しゆくじよのすることか。……すでに引っ張ったな。これ以上髪をいためたくなければ、そのまま動くな」

 失礼な物言いに口を開きかけたイザベラだったが、髪から伝わる感覚は、折った枝から絡んだ部分をていねいに解くらしい気配。後ろが見えず乱暴に引っ張ってしまったイザベラは、言いたい文句を飲み込むしかなかった。

 身をかたくしたイザベラに、クラウスと名乗った貴族は心底呆れた様子で息を吐いた。

「名乗るくらいしたらどうだ? あいさつは基本だろう。それとも、そんなことも教えられていない程度の家の者か?」

 横目にクラウスをえると、へきがんが答えをうながすように細められる。他人に命令し慣れたたけだかさに、イザベラは半眼になった。

「本当に失礼な人ね。……イザベラよ。挨拶っていうのは、親しくなるためにすることでしょ。あたしがあなたに挨拶する理由がある?」

 親しくつき合う気などないとけんごしで応じれば、クラウスは予想外の反応らしく目を瞠った。

 はらりとかたぐちからこぼれる髪を押さえて、イザベラは枝から髪が解かれたことを知る。

れいとして言っておくわ。──ありがとうございました」

「言葉だけの礼に何の意味がある? 礼儀とは心情を行動で表すための所作だ。心のこもらない礼などほんまつてんとうだな」

 返されるのは、言い返せない正論と面白がるらしいみ。

 くやしい思いをめながら、イザベラは髪に引っかかった髪留めを三つ手早く取り外した。ドレスをしきものの上に置いて立ち上がり、左手の木を見上げる。枝にはまだ、風にさらわれた臙脂色のリボンが揺れていた。

「今度は何をするつもりだ? そんな乱れた髪で歩き回るつもりか、イザベラ?」

 からかう心情の表れた声で名を呼ばれ、イザベラはクラウスを見もせずに答えた。

「お気になさらず、どうぞ散策の続きでもなさって。道に迷われたなら、湖沿いに歩けば、その内お城のほうに行けましてよ」

 回り道をしてでも帰れといやみを向けて、イザベラは木の根元から臙脂色のリボンを見上げる。リボンの引っかかった枝は、人間二人を重ねたよりも高い位置。新芽の生え始めたばかりの木の枝は見通しがいいものの、イザベラがび上がったところで一番下の横枝にさえ指が届くかどうか。

 登るというせんたくさえあやうい高さにちゆうちよしていると、クラウスはイザベラのとなりに並んで木の枝を見上げた。

「なんだ、あれもイザベラの物か? ……まさか、いい年をして木登りでもするつもりか?」

 すそを摑み上げていたイザベラは、図星を突かれてだまり込む。クラウスはまた喉を鳴らして笑い出した。

「ちょっと、さっきから笑いすぎじゃない……っ?」

 堪らず隣を見ると、クラウスはそでまくり上げて木へと歩み寄った。

 手近な横枝にねらいをつけたクラウスは、ひと息に横枝へ跳び上がりぶら下がる。りよううでで体を引き上げ枝の上に乗ると、危なげなく立ち上がり、高い枝に絡んだリボンへ手を伸ばした。

 またたく間のできごとに、イザベラはぼうぜんとクラウスを見上げる。途端、湖からの風がけ木々を揺らした。

 乱れた髪に視界をおおわれ、イザベラは不安定な足場にいるクラウスの姿を見失う。

「きゃ……っ。ちょっと、クラウス!」

 激しくなる枝葉の音に、イザベラは不安をつのらせ声を上げた。

 髪を押さえて視界を開けると、クラウスが飛び降りたらしくうずくまるようにして着地する。あわてて近寄るイザベラに、クラウスはこともなげに立ち上がった。

だいじよう? 落ちたの? はな──」

 言い募ろうとするイザベラへ、クラウスは臙脂色の絹のリボンを差し出した。

「ほら、これだろう? 全く、登ったのが俺だったから良かったものの、リボン程度で危ないことをしようとするな」

「そ、そんなの、どれくらい大切かなんて程度を決めるのはあたしでしょ。他人にとやかく言われる筋合いないわ……だから、その…………」

 向けられるにくまれ口に、クラウスは片眉を上げて呆れるよう。ただ、口元には心中のゆうを物語る笑みがかんでいた。

「あたしにとっては、大切な物なのよ、あ、ありがとう」

 イザベラはなおになれず、礼の言葉をしぼり出す。リボンを受け取りあんの息を吐くと、離れるクラウスの手のこうに赤い色を見つけた。

「やだ、さっきの木登りで怪我したの……っ?」

 クラウスの手を摑み止めたイザベラは、ハンカチを取り出すと血のにじむ傷口を押さえるようにしてぬぐう。深い傷ではないが、枝で切ったのか真っぐに走った傷からは血がいてくる。

「あぁ、これか。あっちの低木で切っただけだ。とげが入り組んでいたからな」

 怪我して当たり前とでも言うようなクラウスに、イザベラのほうが慌てた。

「そんな、気づかなかったわ。ごめんなさい。服に血はついてない? これ、ハンカチを応急処置で巻くわね。きつかったら言って」

 ハンカチを手の甲に巻くと、何故なぜかまたクラウスは面白がる様子で口のはしを上げていた。

「なんで笑ってるの? 小さな傷でものうしたら熱出てむことになるんですからね」

 怪我をしてまでふざけている場合かと言えば、クラウスは碧眼を細めて笑みを深めた。

「イザベラ、お前は面白いな。いつもそんなに表情を変えているのか? あい笑い一つせず、ここまで感情のままにう者もめずらしい」

「愛想がなくて悪かったわね。けど、あたしなんて珍しくないわよ。笑ったって別に……」

 不意に、笑顔がりよく的だとめたフリッツの言葉を思い出し、ほほに熱が宿った。お世辞だったとしても、褒められてうれしく思うのは女心の常だ。

 赤くなっているだろう顔をかくうつむくイザベラに、クラウスは指をばしてあごを持ち上げた。

 とつぜんのことに動けないイザベラへ、クラウスはかんがい深げなこわらす。

「作り笑いなど三日も見ればきがくる。……こんな所にまで足を延ばしたがあったな。おもしろいものが見られた」

 顎の下の指から顔をそむけ、イザベラは呆れた。

「こんな所で悪かったわね。その失礼な物言いはあなたの性格なの、クラウス? まぁ、いいわ。うちのべつそうが近くだから来て。ちゃんと手当てするから」

 何が面白いのか、またのどを鳴らして笑い始めたクラウスは、イザベラの顎から手を引いた。

「その必要はない。そろそろもどらねばならないしな……」

 湖の向こうへ視線を投げたクラウスは、ふとくちびるを引いて笑みを作る。

「あの古い型のドレスは、城でのとう会に着ていくのだろう? ならば──」

 しつけな物言いに半眼になるイザベラへ顔を近づけると、クラウスは耳元に唇を寄せて低くささやいた。イザベラはクラウスからただよほうじゆんな香りに包まれるようなさつかくを覚え、息を詰める。

「今度会う時には、ハンカチを返そう。それまでに、もう少しドレスの形を考え直しておけ」

 いきと共に耳にかかる笑い声。思わぬ近さにおどろいてイザベラが身を引くと、笑いながらクラウスはきびすを返した。

「な……、なんなの、あの人? 上流貴族って、やっぱり住む世界がちがうのかしら?」

 こんやく者であったドーンにさえ、れそうなほど顔を寄せられた覚えはない。速くなるどうと胸中のまどいをなだめるため、イザベラは深呼吸をり返した。

 乱れたかみを肩口でまとめたイザベラは、気ががれて片づけを始める。風の吹くはんで、髪を乱したまま作業するのは無理だとあきらめた。

 湖畔から馬車道へ出ると、イザベラは馬車が来ないことを確かめる。馬車道の向こうへわたろうとした時、右手から歩いてくるひとかげが、片手を挙げているのに気づいた。

 こくかつしよくの髪に品は良いが目立たない色合いのがいとう。見慣れたフリッツの姿に、イザベラは笑みを零した。

「フリッツ。早かったのね。午後になると言っていたから、もっとおそいと思っていたわ」

「あぁ。早く来るために、用事を切り上げてきたんだ」

「あら、そうなの? ありがとう。リーテのこうせいがんりましょうね」

 ドレスをかかえていないほうの手でこぶしにぎれば、フリッツはしようしつつ髪をき回した。

「ところで、ベラ。湖畔でさいほうかい? い物なら室内でやったほうがいいだろう?」

「えぇ、まぁ……。思ったより風が強くて、あんまり進まないから戻ろうと思って。──そうだわ、フリッツ。クラウスっていう人知ってる? きんぱつで碧眼の、年は二十代半ばくらいかしら。身なりが良かったから上流貴族だと思うんだけど」

 いつしよに馬車道を渡ろうとしたイザベラは、隣のフリッツが動かないことに気づき振り返る。

 フリッツは茶色のひとみを細め、信じられないとでも言うような表情で固まっていた。

「ベラ……? その、クラウスという人が、どうしたんだ?」

 かたいフリッツの声音に首をかしげながら、イザベラは湖畔で髪がほどけてしまったことを搔いつまんで話した。

「ひと言余計な人だったけど、怪我させちゃったし、お礼しなきゃいけないと思うの」

 知っていたら教えてほしいともう一度たのむと、フリッツは顎に指をかけて思案し始めた。

「まさか……、いや、こんな所に…………。でもクラウスで金髪へきがんなんてそういるわけ……」

「あら、やっぱり知ってる人? この辺じゃ、碧眼なんて珍しいものね。何処どこのおうちか教えてくれない?」

 思案を止めたフリッツは、一度口を閉じると首を横に振った。

「いや、たぶん違う人だと思う……。けど、もし俺の知っている人だとするなら、ベラは、かかわらないほうがいい」

 思わぬ忠告にイザベラが驚いていると、フリッツは話を切り上げ馬車道を渡り始める。

「ちょっと、フリッツ? 関わらないほうがいいって、どういうこと?」

 後を追ってくわしい説明を求めるイザベラだったが、フリッツから明確な答えを得ることはできなかった。

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