二章 誰かのため、自分のため
二章 誰かのため、自分のため
初夏から始まる社交期は、
「もう、何やってんのよ! 本気でアッシュって呼んでほしいの? このお
そんなことも知らず、イザベラは灰の中から
「い……っ、痛い。イザベラ、わたしまだ動けない…………」
「何言ってるのよ。フリッツと会う約束があるって今朝から言ってたでしょ! それなのにこんな所で昼寝して、挙げ句の果てに灰まみれなんて……っ。もうフリッツ来てるのよ!」
「ほら、もう。ともかく灰だけでも落とすわよ」
言って、イザベラはリーテの体中から灰を
「や、いや……! だめ……、痛いの、やめて…………」
急ぐあまり乱暴になるイザベラに、リーテは泣き被りつつ、自らの
「……って、こらリーテ! これ
裾の
「声、大きいよ。いいの? またヴィクトリアに
言葉に
「自分の服着なさいって言ってるでしょ。ちゃんとあんたの分の部屋だって用意してあるし、ドレスや宝石だってあたしが管理してるんだから。言ったらいつでも出してあげるわよ……っ」
リーテのために持ち込んだ
「だって……、汚したら怒るでしょ?」
「怒るに決まってるでしょ……っ。男爵家の
イザベラが別荘に持ち込んだ前妻の形見の中には宝石やドレスもあるが、リーテは
「お母さまがいつもつけてた物は、お墓に入れてしまったもの。──それより、綺麗好きだったお母さまがしたように
きっと、本邸の使用人や義父にも同じことを言ったのだろう。幼くして
「……だからって、このままじゃ駄目なのよ」
「ところでリーテ。昼寝してたってことは、今朝
声を荒げないよう
「ちゃんと終わらせたよ。だからひと休みと思って、灰の中で──」
「ちょっと、まさか! ドレスに灰つけてないでしょうね!」
言葉の先を察してイザベラが
「もう、終わったならあたしに言いに来なさいよ! 本当にそういうところ
気が回らないと叱りつけるイザベラは、厨房を出た
「あのケーテって、いつも苦しそうな顔してるのよね。何処か悪いのかしら?」
心配を口にするイザベラに、リーテも首を
「そう? いつも元気に大きな声出してるよ?」
イザベラは物言いたげに見据えるケーテを思い
「ま、元気ならいいわ。それより、フリッツを待たせてるんだから、早く応接室に行くわよ」
「……あの人、どういう人なの?
勇んで
「
一心不乱に
同じ
顔合わせ五度目にしてようやくフリッツへ興味を持ったリーテに、イザベラは淑女教育の成果を見た気がして、
「フリッツはね、あたしが昔住んでいた場所に別邸を持ってた貴族の子供なの。七年前に国外に移されて別れて。それ以来会っていなかったんだけど、確か年はあたしより二つくらい上かな? 小さい
「……もしかして、イザベラあの人の家知らないの?
「そうね、うちの庭で
「じゃあ、まだずっと来るんだ。…………特訓とかしなくていいのに。
イザベラの
玄関広間に面した応接室の
「ベラ、うっさい。そんなとこで止まってないでさっさと来てよ」
いつまで待たせる気だと怒るヴィヴィの横を通り、応接室に入ったイザベラは、フリッツの
「呼んできてくれてありがとう、ベラ。アシュトリーテも、来てくれて
変わらず使用人の服を着て
「今日はダンスの練習をしよう。まず、どれくらい
視線を向けてくるフリッツに
客人のための部屋は今、
「ほら、リーテ。ダンスは小さい頃に習ったって言ってたでしょ。まずはゆっくりしたメヌエットからやるわよ。ステップ踏んでね」
向かい合わせでイザベラが曲を口ずさみ踏み出すと、リーテはまごつき同じ方向に足を出す。
「痛い! こら、同じほうに足踏み出してどうするのよ。相手の足を踏むに決まってるじゃない。踵からじゃなくて、
足元ばかりを見ているリーテは、イザベラの足を追うように踏みつけ続ける。
「おかしいなぁ……。お母さまと
「痛いって。こら! 一度止まりなさい!」
どうしても足を踏んでくるリーテに、イザベラは嘆息を
ヴィヴィと向かい合ったフリッツは、
「ヴィヴィ、
「ま、去年ベラの練習につき合ったからね。それに、ダンス
笑みを
「ベラ、交代しよう。──まずはステップを思い出そう、アシュトリーテ。ゆっくりでいいから、爪先で移動するところから」
リーテの
腕を組んで嘆息するイザベラの横に、ヴィヴィが半眼になって寄ってくる。
「ほぉら、
「うるさいわね。……わかってるわよ。でも、あと半月しかないの。お城の舞踏会で
フリッツの
「ねぇ、ステップなんてどうせドレスの
もうやめたいという心中の
「お
イザベラが怒鳴って練習を続行させると、リーテは泣き
そんなことを
「そうね、そろそろ
イザベラが注意しても、
「あの子は気にしないで。
「……
「だったら、リーテの分のケーキはいらないわ。下げてちょうだい」
イザベラが指示を出して背を向けると、ケーテは大きく息を吸い込む。言葉を発しようとした
「……? あら、カートは持って行ってしまったわね」
片づけの時はどうしようとイザベラは
「ベラ、どうしてアシュトリーテの分のケーキを下げさせたんだ? 何か、理由があるんだろ?」
紅茶を入れる準備を始めながら、イザベラは
「リーテったら
皿と
「固いパンは嫌いでも、こういうバターたっぷりのクッキーは好きなのよね。──最近は細すぎる体をどうにかするために、ご飯無理に食べさせてるし。お茶の時くらい好きな物食べさせようと思って」
バタークッキーに気づいたリーテは、床を
「こら、お馬鹿さん。ちゃんと椅子に座って食べなさいよ」
言いつけに頷いたリーテは、いそいそと椅子に
その様子を見ていたフリッツは、
「ふっ、こういう時にはちゃんと言うこと聞くんだな。──それにしても、さっきのは
フリッツの低い呟きに、イザベラはカップを
「あら、もしかしてフリッツ干し葡萄好きだった? ケーキ今からでももう一つ食べる?」
「ごほ……っ。ちょっ、ベラ! なんでそう頭の中、世話焼くことでいっぱいなの!」
「どういう意味よ? それより、ほら。口元
「そのまんまの意味。一日中、誰かの世話焼くことしか考えてないっしょ。だいたい、何あの
「べ、別にいいじゃない。リーテの顔なら派手なのも似合うと思って、考えたら止まらなくなったから書いただけで……、じゃなくて、ヴィヴィ! 何勝手に他人の日記見てんの!」
指を
不意にヴィヴィへ身を乗り出したフリッツは、手で口元を
「ヴィヴィ、俺のことは何か書いてあった?」
「あぁ……、少しね。だいたい舞踏会に向けての意気込みだとかに押されて、久しぶりに会ったわぁくらいなもん。なんで再会した当日にあんなに大きな情報伝えるかなぁ……」
ぞんざいなヴィヴィの返答に、フリッツは苦笑を
「何こそこそ話してるの? 日記の内容なんてその時の気分なんだし、フリッツのことどうでもいいとかじゃないのよ。ただ時間がないし、リーテにも手伝ってもらってるけど、あたしの舞踏会用のドレスをリーテの
当のリーテは、口の周りにクッキーの
視線を向け、
「ベラも大変だな。なのに、少しもへこたれない。自分のために
「他人のためなんて、大げさなことじゃないのよ。その、リーテの
頰に上る熱を
「それに、妹の世話をするのは姉として当たり前だもの。小さい
言って、イザベラは現状にそぐわない言葉に口を閉じた。
妹を守れと言われたのは、実父の家庭内暴力による
守るという言葉は、リーテには当てはまらない。けれど、やはりリーテは
思案しつつリーテを窺えば、青く丸い瞳がもの言いたげに見つめ返す。目顔で
「イザベラ、小さい頃からこんなに口うるさかったの?」
「そう、そう。一つしか
「
そんな年上の
「い、今はそんなことより、リーテの特訓のほうが大事よ! ほら、食べたら続きをするわよ」
一人でバタークッキーを食べつくしたリーテは、泣きそうな顔で首を横に振る。
「えぇ? もう
「それはいいけど、今はダンス。どんな
不平を
「ベラ、
「……でも、
「
低く落ち着いた声で
「明日は午後から来てもいいか? 昼に用事があるんだ」
「明日も、来てくれるの? ……ありがとう。助かるわ」
言いながら、イザベラは気恥ずかしさとも違う胸の高鳴りに
弟のように思っていた幼馴染みの成長は、外見だけでなく内面にも至っていたようだ。大人の落ち着きと優しさを
昼の日差しは大地を温め始めてはいるが、湖面を
木の幹を背に低木の
ドレスはリーテの亡母の夜会服で、透かし編みの部分をリーテが着るドレスに転用するために縫い目を解いているのだ。
「……はぁ。いったいどうしたのかしら、ケーテったら」
疲れた息と共に
別荘で透かし編みを取る作業にかかろうとしたイザベラを、ケーテは
「ドレスに使うために飾りを取るって言ったのが何か気に
鋏を入れるには、まだまだ着られる状態のドレス。勿体ないと思う気持ちはイザベラにもあった。
「けど、これリーテのドレスに使うのよね……。なんて言えないわ。あたしと入れ
悪意なく邪魔をしてくるケーテを叱りつける気にもならず、イザベラは湖畔で寒さを
「
一人呟き寒さを
不意に、湖を渡る風が強くイザベラに吹きつける。風を受けて
上げた視線の先で、髪を
「噓……! 大変…………っ、あれはお
見えない所にまで飛ばされては
髪を引っ張られる感覚に手を伸ばせば、背にしていた低木の
「もう……っ。この
「だ、
髪を引っ張られた状態では、周囲を見回すこともできない。イザベラの問いに笑い声の主は横合いから正面へと移動してきた。
「
片方の口角だけを上げて笑うのは、二十代半ばほどの貴族だった。額の上で
けれど放たれる言葉に
目の前の相手はどう見ても上流貴族。
フリッツのような親しみやすさもない相手に、イザベラは
「ケーテのことといい、今日は悪いことばかり起こる日なのかしら……」
呟いて、イザベラは膝に置いた糸切り鋏を思い出した。見世物のように笑われているくらいなら、と鋏を取って絡んで丸まった
「待て。何をしている? 短気にもほどがあるぞ」
気づけば鋏を持つ手首を
「放して、失礼な人ね。鋏が当たっても知らないわよ」
「待てと言っているだろう。全く……」
「ちょっと、何してるの? あなた、いったい──?」
「クラウスだ。じっとしていろ、せっかちめ。今から解く。短気を起こして髪を切り取ろうなどと、
失礼な物言いに口を開きかけたイザベラだったが、髪から伝わる感覚は、折った枝から絡んだ部分を
身を
「名乗るくらいしたらどうだ?
横目にクラウスを
「本当に失礼な人ね。……イザベラよ。挨拶っていうのは、親しくなるためにすることでしょ。あたしがあなたに挨拶する理由がある?」
親しくつき合う気などないと
はらりと
「
「言葉だけの礼に何の意味がある? 礼儀とは心情を行動で表すための所作だ。心の
返されるのは、言い返せない正論と面白がるらしい
「今度は何をするつもりだ? そんな乱れた髪で歩き回るつもりか、イザベラ?」
からかう心情の表れた声で名を呼ばれ、イザベラはクラウスを見もせずに答えた。
「お気になさらず、どうぞ散策の続きでもなさって。道に迷われたなら、湖沿いに歩けば、その内お城のほうに行けましてよ」
回り道をしてでも帰れと
登るという
「なんだ、あれもイザベラの物か? ……まさか、いい年をして木登りでもするつもりか?」
「ちょっと、さっきから笑いすぎじゃない……っ?」
堪らず隣を見ると、クラウスは
手近な横枝に
乱れた髪に視界を
「きゃ……っ。ちょっと、クラウス!」
激しくなる枝葉の音に、イザベラは不安を
髪を押さえて視界を開けると、クラウスが飛び降りたらしく
「
言い募ろうとするイザベラへ、クラウスは臙脂色の絹のリボンを差し出した。
「ほら、これだろう? 全く、登ったのが俺だったから良かったものの、リボン程度で危ないことをしようとするな」
「そ、そんなの、どれくらい大切かなんて程度を決めるのはあたしでしょ。他人にとやかく言われる筋合いないわ……だから、その…………」
向けられる
「あたしにとっては、大切な物なのよ、あ、ありがとう」
イザベラは
「やだ、さっきの木登りで怪我したの……っ?」
クラウスの手を摑み止めたイザベラは、ハンカチを取り出すと血の
「あぁ、これか。あっちの低木で切っただけだ。
怪我して当たり前とでも言うようなクラウスに、イザベラのほうが慌てた。
「そんな、気づかなかったわ。ごめんなさい。服に血はついてない? これ、ハンカチを応急処置で巻くわね。きつかったら言って」
ハンカチを手の甲に巻くと、
「なんで笑ってるの? 小さな傷でも
怪我をしてまでふざけている場合かと言えば、クラウスは碧眼を細めて笑みを深めた。
「イザベラ、お前は面白いな。いつもそんなに表情を変えているのか?
「愛想がなくて悪かったわね。けど、あたしなんて珍しくないわよ。笑ったって別に……」
不意に、笑顔が
赤くなっているだろう顔を
「作り笑いなど三日も見れば
顎の下の指から顔を
「こんな所で悪かったわね。その失礼な物言いはあなたの性格なの、クラウス? まぁ、いいわ。うちの
何が面白いのか、また
「その必要はない。そろそろ
湖の向こうへ視線を投げたクラウスは、ふと
「あの古い型のドレスは、城での
「今度会う時には、ハンカチを返そう。それまでに、もう少しドレスの形を考え直しておけ」
「な……、なんなの、あの人? 上流貴族って、やっぱり住む世界が
乱れた
湖畔から馬車道へ出ると、イザベラは馬車が来ないことを確かめる。馬車道の向こうへ
「フリッツ。早かったのね。午後になると言っていたから、もっと
「あぁ。早く来るために、用事を切り上げてきたんだ」
「あら、そうなの? ありがとう。リーテの
ドレスを
「ところで、ベラ。湖畔で
「えぇ、まぁ……。思ったより風が強くて、あんまり進まないから戻ろうと思って。──そうだわ、フリッツ。クラウスっていう人知ってる?
フリッツは茶色の
「ベラ……? その、クラウスという人が、どうしたんだ?」
「ひと言余計な人だったけど、怪我させちゃったし、お礼しなきゃいけないと思うの」
知っていたら教えてほしいともう一度
「まさか……、いや、こんな所に…………。でもクラウスで金髪
「あら、やっぱり知ってる人? この辺じゃ、碧眼なんて珍しいものね。
思案を止めたフリッツは、一度口を閉じると首を横に振った。
「いや、たぶん違う人だと思う……。けど、もし俺の知っている人だとするなら、ベラは、
思わぬ忠告にイザベラが驚いていると、フリッツは話を切り上げ馬車道を渡り始める。
「ちょっと、フリッツ? 関わらないほうがいいって、どういうこと?」
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