三章 灰の中で眠る乙女_2


 湖面に映り込んだ月がかがやく夜。

 国王の別荘であるはくの城は、三晩におよぶ舞踏会の最終日をむかえていた。

 奥行きのある大広間には数えきれないろうそくが灯され、そうしよくねて飾られた鏡が光を反射し人々を照らしている。

 思い思いにかざった貴族は社交を繰り広げ、国王夫妻を始めとする王族の周囲から人がれることはない。貴婦人は転がるように話題を変えて笑声をひびかせ続け、老いも若きもしんあざやかなドレスに目移りし、きゆうてい楽団はよい最後と休まず曲をかなで続けた。

 ごうしやな大広間に相応ふさわしい、せいな柱頭飾りにいろどられた柱のかげで、イザベラは息をひそめる。何処どこを見ても煌びやかな舞踏会の中、誰よりも衆目を集めるひと組の男女を見つめていた。

 白を基調にを模した布飾りを配し、銀糸の刺繡をほどこしたドレスをまとうのはリーテ。向かい合う、黒を基調とした礼服に金糸の刺繡やきんぼたんで身を飾るのは、第二王子エリックその人だ。

 リーテよりもい金色のかみに、煌めくへきがん。鼻が高く額はひいで、理知的なまなしの下、微笑ほほえむ口元に見える白い歯がさわやかだ。

 熱く王子と見つめ合うリーテに逃げる気配はなく、イザベラはむねで下ろした。

「……まさか、リーテのぼうり合う人がいるなんて、思いもしなかったわ」

 甘く清らかなリーテの美貌に、エリックのりんと爽やかな美男ぶりはよく似合った。二人が並んでもどちらかがおとりすることはなく、二人でいるからこそ美しさがきわつようだ。

 かんたんの息を吐いたイザベラの横に、気配が立つ。首をめぐらせると、フリッツが苦笑をかべていた。知人らしい貴族に声をかけられはなれていたはずが、イザベラのもとへともどってきたのだ。

「フリッツ、もういいの? あたしのことは気にしないで、ごあいさつに回っていいのよ」

 無理を言ってフリッツにどうはんを頼んだ上、舞踏会の間までこうそくするつもりはない。

「リーテを追いかけたせいで、大広間に入るのもおくれたんだし。フリッツが来てること知らない人も多いんじゃない?」

 入城と同時に、リーテは馬車を飛び出し行方を暗ませた。追ったイザベラとフリッツはリーテを見失い、ちゆう参加の形で大広間へ入ったのだ。

 挨拶回りは社交の基本。二晩連続で逃げ出したリーテを見張るために参加したイザベラはともかく、フリッツはやるべきことがあるはずだった。

 辺りに視線だけを巡らせ、柱の陰に立つフリッツは悪戯いたずらっぽく片目をつむってみせる。

「俺も、アシュトリーテと第二王子のこいに興味があるんだ。つまらない挨拶回りで作り笑いしてるより、ベラといつしよにいるほうが気楽なんだよ」

 作り笑いをし続けていると、ほほが引きり、口も上手うまく回らなくなる。覚えのあるイザベラは、思わずき出した。

 やさしく微笑むと、フリッツはあごに指をえて考え込むように口を開く。

「見ている限り、両方ともひと目惚れなのにな。何故なぜアシュトリーテは逃げるんだ?」

「あたしもそこが気になったけど、言わないの。いやなことははっきり言う子だから、王子さまに会うためにとう会に出るのはいいみたい。けど、何かがリーテを逃げたいしようどうらせてる」

「で、その理由を自分で確かめるために、ようやくベラは舞踏会に参加する気になったわけか」

 残念そうなたんそくくフリッツに、イザベラはとある可能性に気づいた。

「もしかしてさそいたい人いた? だったらごめん……っ。でも、あたしの名前でリーテが来ているから、同伴がいないとお城に入れなかったの。フリッツ以外に頼める人思いつかなくて」

 横目にフリッツをうかがえば、何処かうれしげにまゆを上げ、気にしなくていいとけ負ってくれた。

「いいさ。ベラの手助けをすると言ったんだ。俺をたよってくれて嬉しいよ」

 フリッツはかくれているためか、だんよりも低めの声音でささやく。同時に、見つめる先で、エリックが顎を上げ、リーテの片手を取り歩き出した。

「あ、曲が変わる。踊るのかしら? 人だかりができる前に見張れる場所を取らなきゃ……っ」

 勢い込んで柱の陰から飛び出そうとするイザベラを、フリッツは押しとどめる。

「ベラ、二人を間近に見たいなら、いい方法がある。ほら、手を貸して」

 言われるままに、差し出されるフリッツのてのひらに手を重ねると、やわらかく握られる。何をするかわからないまま、イザベラは微笑むフリッツに先導された。行く先の人々は道をあけ、同じように手を取り合った男女が輪を作り始めている。

「え……? ちょっと、フリッツ。まさか、踊るの?」

 しりみするイザベラに、フリッツはかたしにり返ると柔らかく目を細めた。

「踊りの中心が第二王子の場所だ。そこから踊り手の輪ができて、観衆のひとがきができる。なら、一番近くで二人を見られる場所は、踊り手の輪の中だろう?」

 イザベラは落ち着かない胸のざわめきと頰の熱に、あせってていこうの言葉を連ねた。

「そ、それはそうだけど……。あたし、あんまり得意じゃな──」

「練習を見る限りそんなことないさ。だいじよう、俺がリードする」

 小声で言い合う間にも、フリッツはイザベラの手を引いて、踊り手の輪に並んだ。周りがき合うように準備をすると、イザベラももう引き返せず乱れる胸をしずめるように息を吐いた。

 宮廷楽団が、休む間もなく円舞曲を奏で始める。合わせて、踊り手の輪はリーテとエリックを中心に円をえがいて動き始めた。

「ベラ……、ごういんに引き込んだこと、おこってる?」

 踊り出してから問うフリッツに、イザベラは笑いをらした。ずかしさはあっても、怒るようなことではない。

「そんなことないわ。フリッツの言う通り、ここが一番よく見えるもの」

 イザベラはフリッツと円舞を踊りながら、リーテへ心配の視線を注いだ。踊る足取りは危なげなく、エリックの足をむ様子はない。

 イザベラの手を取って踊るフリッツは、横目に踊る進路をかくにんしつつつぶやいた。

「第二王子はこの三日、なぞに入れ込んで彼女以外とは踊らない。アシュトリーテの身元がわからなくて良かったかもしれないな……。でなきゃ、いまごろフェルローレンだんしやくは上流貴族からむすめを舞踏会に出すなと圧力をかけられていたはずだ」

 周りに聞こえないよう声を低めるフリッツに、イザベラはかたらした。

「ど、どういうこと……? おだやかじゃないわね」

「ベラ、あそこでしかめっつらしてるそうねんの男が見えるか? あれは行き遅れの娘を王子のよめにしたいこうしやく。そっちでひげ引っ張っていらってるのは、金に物を言わせて王族とえんつなぎたい領主。あっちはそれなりの容姿を持った娘を売り込むつもりだったはくしやくだ。ほかにもこの千載一遇の好機をつかもうとしていた貴族はいくらでもいる」

 イザベラがリーテの玉の輿こしを夢見たように、おのれの娘こそエリックのきさきにと望んだ者たちだ。

 自ら名乗らないリーテが、何処の家の娘なのかをエリック自身知らない。とつぜんげ出し、だれもその行方を追えなかったことから、謎の美姫と呼ばれるようになっていた。

 フリッツが教える貴族を確認したイザベラは、あやうく義父にめいわくをかけるところだったと胸を撫で下ろす。礼をしようと顔を上げると、笑みゆるむ茶色のひとみを間近に見て息を止めた。

「ようやくこっちを見たな、ベラ。これだけ近くにいるのに、ずっとアシュトリーテの心配ばかりで、全く目が合わなかった」

 はにかむように笑うフリッツは、いつも通りの穏やかな優しい眼差しをしていた。けれど普段とちがう豪奢な城の中、たかえりの礼服をまとい着飾ったフリッツは、王子にもおとらない貴公子のようで、イザベラはすぐに視線をらしてしまう。

 固くめたコルセットの下、ねる胸の内に首をかしげた。

おどる時、目を見るのは基本だし、フリッツは何も変なこと言ってないわよね? …………踊りつかれた? でも息苦しくないし。うん、きっと気のせいね」

 自己完結するイザベラの頰に、フリッツの嘆息がかかる。

「近くにいる時くらい、話を聞かせてほしいな。それとも、会話してるゆうもないくらいダンスはきらいかい、ベラ?」

 しよう交じりにうフリッツに、イザベラはあわてて顔を上げた。

「別にフリッツと話したくないわけじゃ……っ」

 知っていると言わんばかりに深められるフリッツの笑みに、イザベラは心中をのぞかれたような気恥ずかしさを覚えた。

「…………っ。も、もうちょっと、リーテたちに近づきましょ……っ」

 わけもなく胸の底からく落ち着かなさに、イザベラは後先も考えず足を踏み出した。

「おい、ベラ。無理に動くと危な……っ」

 死角から踏み出した別の踊り手とイザベラがぶつかる寸前、フリッツは強くイザベラのこしを引き寄せしようとつかいする。

 またたきさえできないイザベラのすぐそばで、フリッツはあんの息を吐いた。

「ベラ、急にどうしたんだ? このじようきようでアシュトリーテに近づくのは無理だ」

 冷静なフリッツのてきに、イザベラはうつむいて小さく謝った。

「ごめん、その……あ、あの二人が何か話してたみたいだから、気になって」

 適当な言い訳を並べるイザベラは、フリッツに強く抱かれた腰が気になって仕方がない。本来の手の位置であるけんこうこつにフリッツの手が移動し始めると、余計に気が散ってしまう。

「ここからじゃ声は聞こえないけど、あの二人の表情を見てれば、何を言っているかは想像できそうじゃないか? それに、今はげ出す気配もない」

 苦笑交じりに言うフリッツの視線の先では、熱く見つめ合ったまま周りにはいちべつもくれないリーテとエリックの姿があった。

「でも、初日から王子と踊ったのに突然逃げ出して、二日目はまんざらでもなさそうに出かけたのに逃げ出したのよ。リーテは絶対、三回目もやらかすわ」

 確信をもって言い切るイザベラに、フリッツは苦笑をんだ。

 フリッツも王子に近づこうとするが、気になっているのはイザベラたちだけではない。周囲で踊る者みな、つかず離れず王子と謎の美姫をうかがい、声が聞き取れるきよまで近づくのは難しい。

 しんけんに行く先を見定めるフリッツの顔は、もう見慣れたと思っていた穏やかなおさなみのものではなかった。目覚ましい成長に今さら心乱されてどうすると、イザベラは自らをしつする。

 気を散らす自らをいましめるように、イザベラはリーテへの不安を口にした。

「今夜で最後なのよ。また見失うわけにはいかないの。気を引き締めなきゃ」

 誰と共に入城したかもわからないリーテは、身元がばれていないと同時に、王子であるエリックも何処どこの誰とも知らないひめを、国王夫妻にしようかいすることができずにいた。誰が見てもエリックが選んだのはリーテだが、妃にするためのこんやく宣言さえいまだにできていないのだ。

 瞳だけを動かして、フリッツはリーテと踊る第二王子に同情の視線を向けた。

「まぁ、ふらっと庭から大広間に現れたアシュトリーテを、ひと目で見つける王子だ。さすがに三回もだくだくと逃げられやしないさ……」

 リーテとエリックの踊りを見守るだけで、舞踏曲は終わりをむかえる。盛大なはくしゆと共に舞踏の輪は解散し、イザベラはフリッツに手を引かれ一度大広間の中央から退いた。

 リーテとエリックはと言えば、曲が終わってもなお二人だけの世界にひたり、周囲のこうの視線さえも意にかいさず、誰も声をかけられないふんかもしている。

 近くで見張ろうと足を踏み出しかけたイザベラの肩を、えんりよなく摑み止める手があった。

「ちょっと、ベラ。少しはもう一人妹がいること思い出してもいいんじゃない?」

 いやみを口にするのはべつそうを出て以来のヴィヴィだ。イザベラはフリッツの用意した馬車で入城し、馬車から飛び出したリーテを追ったので、ヴィヴィとは大広間に入った時間も別だった。

 今夜は黄色いドレス姿のヴィヴィは、そでとスカートに色調の違う黄色いうすぬのくくり上げ、さわやかな小花のがらを散らせている。

 改めて妹の姿にうなずいたイザベラとは対照的に、ヴィヴィは盛大にまゆひそめた。

「ちょっと、ベラ。やっぱりもっとどうにかしたほうが良かったんじゃない、そのドレス」

 ヴィヴィの苦言にイザベラは自身のドレスを見下ろした。

 深緑の布地にしゆうはなく、襟ぐりを深くする流行の型と違い、首元はまっている。袖から見える薄布のひだは簡素で、だんと変わらない。スカートにはどうまわりからびたすそはんな長さでおおっており、その下から覗くスカートも安い布地の典型であるたてじまの模様しかなかった。

「……しょうがないでしょ。あたしの持ってるドレスはリーテに合わせちゃったんだから。それに、他のドレスの使える所もリーテのドレスに切り張りしたし。これしかなかったのよ」

 とう会に参加する気のなかったイザベラは、フリッツにどうはんたのんだものの、着ていくドレスがなかったのだ。足には舞踏会初日にリーテに貸したくつを必死にみがいていて来たが、きらめく靴と地味なドレスではちぐはぐでしかなかった。

 大きくたんそくしたヴィヴィは自身のエメラルドのくびかざりを外すと、イザベラの後ろに回る。

「ちょっと、ヴィヴィ。これ、あんたがお義父とうさまに頼んで作ってもらった首飾りじゃない」

「しょうがないじゃん。こんなみすぼらしいのが姉だなんて、ずかしいっしょ。あたしはまだドレスってるからいいの。ベラ、少しはいつしよにいるフリッツのこと考えてやんなよ」

 首飾りを着け正面にもどったヴィヴィは頷き、ないよりはましとけなすような言葉を向ける。

「ほら、あたしに文句言ってるより、早くしないとフリッツ見失うよ」

 機先を制されたイザベラは、ヴィヴィの指の先を追って後ろをり返った。

 イザベラの真後ろには、季節の花をかざった他人の頭。フリッツがいたはずの場所に、いつの間にか色とりどりのドレスがかべのように広がっている。

 一歩引いてしゆくじよの壁をながめたイザベラは、い上げ盛ったかみの合間に、フリッツの微笑ほほえむ顔を見つけた。次々にかけられる声に応じるフリッツは、イザベラに目を向けるひまもない。

「へ……、どういうこと? フリッツいつの間にこんな…………」

「今の間に。あたしとベラが話してる内に、いつしゆんで囲まれちゃってんの。たいの幕を下ろすみたいにさっと現れて、フリッツ覆いかくしちゃってさ」

 おもしろがる口調のヴィヴィに、イザベラはあきおどろくばかりだ。

「隠すって言うか、完全に囲まれてるじゃない。これじゃ声もかけられ──」

「じゃ、ベラ。あたしは話したい人いるからもう行くわ」

 片手を挙げるヴィヴィに、イザベラは慌てた。

「ちょっと、ヴィヴィ。待ちなさいよ。あたし一人にな──」

 イザベラの制止も聞かず、ヴィヴィはきびすを返すとひとみの中へと消えていく。

 人々の笑い声と話し声が混じるにぎやかな舞踏会の中、イザベラは一人で立ちくした。

「……声、かけたとして、フリッツに聞こえるのかしら?」

 三重にフリッツを囲む淑女は、聞こえようと聞こえまいと構わず声を上げていた。

 はなやかなドレスをうかがいつつ、声をかけられるすきはないかと周囲を回ったイザベラは、同じように輪に入れずにいる女性じんがいることに気づく。

「いったいだれ? 目が肥えてらっしゃるから、理想が高くて誰も選ばないと聞いていたのに」

「本当。いきなり現れて何さまのつもりかしら? あんな取ってつけたようなドレスを着て」

 ま忌ましげにささやかれる会話に、イザベラは耳をそばだてる。フリッツに近寄れないなぐさみに、なぞであるリーテを批判しているのかと、耳に神経を集中させた。

「どんなにさそわれても誰ともお踊りにならなかったのに……っ。フリートヘルムさま」

 耳にした名前に、予想外だったイザベラは思考が止まってしまう。

「ん、フリートヘルムって……。踊った相手がって、あれ? もしかして…………、あたし?」

 リーテのうわさと思い違っていたイザベラが状況をとらえきるより早く、暇を持てあました淑女たちは不満を口にし続ける。

「ご覧になって。あのセンスのないドレスの型。柄だけでも安物だとわかるわ」

「見てるこっちが恥ずかしい。スカートもぺちゃんこ。重ねるだけの布地も買えない身分なの?」

「私だったら、あんな格好ではお城にも上れない。まして、フリートヘルムさまと並ぶなんて」

 ちようしようの混じるこわは、明らかにイザベラに聞こえているとわかっての嫌み。こっちにも事情があると心中で言い返していたイザベラに、かたをぶつけて通りすぎる淑女がいた。

「あら、あれってフリートヘルムさまとおどってた……」

 謝りもしない淑女の連れ合いは、片眉を上げてイザベラへ一瞥を投げる。

「わたくし存じてましてよ。去年の舞踏会で見ましたの」

 文句を言おうとしていたイザベラは、去年のという言葉に顔をらした。心中の気まずさとは裏腹に、耳は確かに言葉を拾う。

「ヘングスターだんしやく子息の婚約者。フェルローレン男爵の養女ですわ。……全く、どんな悪どい手を使ってフリートヘルムさまに近づいたのかしら」

「あぁ、私も覚えてますわ。あら、けれどその婚約者は何処? まさか……」

 いやな予感は当たり、イザベラはだまり込む。周りで聞き耳を立てていた淑女たちは、ひそめていないひそひそ声で囁きをわし始めた。

「まぁ、婚約者を乗りえたの? なんて節操がないんでしょ」

「あら、もしかしたら婚約をされたのではなくて? あんな格好だもの」

「そう、そう、私聞きましたの。フェルローレン男爵家のままいじめの噂」

 予想外の単語にイザベラが目を見開くと、聞いたという賛同の声が複数。継子虐めの噂があると聞いてはいたが、まさか広がっているとは思わなかった。

「まぁ、どうしてそんな相手をフリートヘルムさまは──」

「きっとご存じないのよ。婚約者のこともご存じない可能性もあるわ」

「つまり、だまされてるってこと? なんてしよういやしい人かしら」

「そんなことだから、きっと婚約破棄されたんでしょう」

「虐められる男爵家の継子も可哀かわいそうに。ヘングスター男爵子息もお気の毒」

 好き勝手なじやすいに、イザベラはたまらず言い返そうと振り返る。ドレスが用意できなかったのは事実だが、継子虐めはぎぬで、婚約破棄はドーンに責任があり、言いがかりもはなはだしい。

 にらむ勢いで振り返ったイザベラに、目の合った淑女たちは一様に肩をね上げる。言い返そうと口を開いたたん、寄り集まっていた淑女はおびえた表情であわてて去り始めた。

 すべるようなばやさは、舞踏のためにつちかったあしさばきのたまものか。

「あ、ちょっと……」

 イザベラのおそれをなし、何を言い返す前にげ去ってしまった。かたかしをらったが、気をく間もなく言葉もめいりようきよで悪意のあるうわさばなしが交わされている気配を察する。

 嫌な空気感ははだで感じられた。不特定多数から勝手にかんされているような心地ごこちの悪さが、イザベラにはやはり好きになれない。

 振り返るフリッツはいまだに淑女の囲いの向こう。

「……フリッツなら…………」

 理解してくれるのにという泣き言を、イザベラは飲み込んだ。何もちがったことはしていないという確信はあるが、噂を聞き流して胸を張ることのできない自身ののなさががゆい。

 しん然としたフリッツのとなりに並ぶには、みすぼらしいことはわかっている。イザベラは一度首を横に振ると、胸につかえたいらちのままに歩き出した。

 行く先は大広間に面した城の庭園。

「あたしと一緒にいるからって、フリッツまで悪く言われたら嫌だわ」

 イザベラはこうの視線を振り切るように、冷えた夜気の中へとみ出した。


 月明かりに照らされた庭園は、湖からく風に庭木がざわめく。風に乗って夏の花はかおり、ていねいり込まれた木々は、ゆうたいしようの美しい庭をいろどっていた。

 初夏とは言え、夜風ははだざむい。肩をふるわせたイザベラは、庭園を散策するらしいこいびとたちをけ、かげの深い壁沿いを歩いた。

「あ、こっちにも。どうして外に人が多いのかしら?」

 人目を避けて庭園のはしに足を延ばすと、はやきのの下に男女が向かい合って立っている。

 城のがいへきを背に、イザベラは月明かりを浴びる男女を見て、せんざいかげにしゃがみ込んだ。枝をき分け、見つめ合う男女を確かめれば、リーテとエリックが手を取り合っている。

「そうか……。リーテたちを追って野次馬が庭園に出てたのね」

 ぐうぜんリーテとエリックの密会に行き合ったのは幸運だが、身を潜められる場所が目の前の前栽以外になく、二人の会話は聞き取れない。

 月明かりの中動くくちびるに視線を注ぎ、耳に神経を集中して、イザベラは息をめた。

「……おい、そこで何をしているんだ、イザベラ」

「…………っ!」

 とつぜんの呼びかけに肩を跳ね上げたイザベラは、息を詰めた。慌てて左右に首を振るが、人影はない。聞き間違いにしてははっきりと呼ばれた声を思い出し、覚えがあることに気づく。

「くく……っ、毛を逆立てたねこのようだな。こっちだ、上を見ろ」

 背後から聞こえる声を辿たどってあごを上げれば、城の壁の高い位置に窓が開いている。石積みのわくほおづえいて見下ろしているのは、意地悪く口の端を上げたクラウスだった。

「クラウス……。驚かさないでよ。何? 今いそがしいから後にしてくれない」

 リーテとエリックに気づかれていないかをかくにんして、イザベラは声を潜め早口に言いつのる。顎を支える手と顔しか見えないクラウスは、第二王子にいちべつをくれて呆れた声を向けた。

「他人のいろこいに首を突っ込んでいる場合か。──噂になっているぞ。お前は継子虐めをして、こんやくを破棄されたそうだな」

「はぁ……っ? そんなわけないでしょ。とんだ思いちがいよ」

 さけびそうになる声を押し込め、イザベラはこぶしにぎってクラウスを睨み上げた。月明かりでいんえいくなったクラウスは、おもしろがる様子で顎をり先をうながす。

「婚約破棄は本当だけど継子虐めに関係ないし、継子虐め自体がかんちがいなのよ。あたしが、ちょっとおこりっぽいから……、勘違いされただけで。虐めだなんて」

 誤解だと説明する間、クラウスは口をはさまず聞いてくれる。

「すごくれいでずっと大事に育てられたおじようさまなのに、変わったしゆのあるまいだからつい力を入れすぎてったりしてたら、そんな噂になっちゃってて。まさかこんな所にまで広まってるなんて思わないじゃない」

 噂を広げるだけ広げて、しんも確かめずに逃げたしゆくじよたちを思い出し、イザベラは息をく。言葉がれたことを確認して、クラウスは口を開いた。

「甘いばかり食べていると、甘いという感覚がする。たまにはからい物も食べたくなるが、舌をさいなむほどの辛味はいらない。──それと同じだ。自分には害がなく、自らを上に置ける他人の不幸。男爵家での継子虐めは、真偽に関係なくかつこうじきだっただけだろう」

「まぁ、噂話なんてそんなもんでしょうけど……。誰もリーテに会ったことないのに可哀想とか失礼じゃない」

 もう一度息を吐いたイザベラは、何処どこか胸が軽くなっている気がした。逃げた淑女たちに言えなかった言葉を吐き出せたのが、良かったのかもしれない。

 につき合ってくれた礼を言うためクラウスを見ると、意味ありげに白い布を持っていた。

「なんだその顔は。もう忘れたのか? お前のハンカチだ。次に会ったら返すと言っただろう」

「あぁ、別に良かったのに。それより、だいじようなの?」

「もうふさがった。イザベラ、こっちに取りに来い。──大広間にもどってすぐ左の、カーテンのかかったかべの中にとびらがある。番の者に俺に呼ばれたと言えば……」

「わざわざ戻るなんて、めんどうくさい。それに言ったでしょ。あたし今忙しいの。ほら、そこから投げてよ。受け取るから」

 手をばしてみせるイザベラに、クラウスはあきれた様子でまゆを上げた。

「本当に淑女の自覚があるのか、お前は。だいたい、はんはさみを入れていたドレスはどうした? 似合わぬ上に型も古かったが、その服よりましだろう」

 相変わらず失礼な物言いに、イザベラは半眼でクラウスを見上げた。

「うるさいわね。あれはもともと、あたしのドレスじゃないの。いいわよ、ハンカチくらい返さなくても。もう静かにしてて」

「お前のイニシャルが入ったハンカチを、俺に持っておけと言うのか?」

 姉妹三人の持ち物が見分けられるよう、ハンカチにはイザベラのかしらしゆうされている。明らかに他人のハンカチでは使い勝手は悪いだろう。

「捨てていいわよ。あげるから、好きに使って」

 おざなりに手を振ったイザベラに、クラウスは不服そうに目をすがめた。

「まさか、イザベラ。お前も第二王子のきさきの座をねらっているのか? さすがにその服装でなぞいどむのはぼうにもほどがあるぞ」

「本当にひと言多いわね、クラウス。別にあたしが妃になれるなんて思ってないわよ。あたしはただ、あの子が心配なだけなの……っ」

 ひどい邪推に言い返せば、途端にクラウスの目の色が変わった。

「イザベラ、あの謎の美姫を知っているのか?」

「あ……。知ってるって言うか、その…………」

 イザベラは答えを迷った。フリッツは上流貴族に身元が割れれば、義父に圧力がかかるだろうと言っている。上流貴族のクラウスにリーテが義妹だと告げていいものか。

 適当にそうかと視線を上げると、クラウスは思案顔をやめ、口の端を上げて、からかうようなこわを向けてきた。

「なんだ、謎の美姫と第二王子のおうのぞき見る、ただの野次馬か。心配などと言っておいて、たんにうわさの種をさぐっているだけだろう」

 あざわらうように鼻を鳴らされ、イザベラはあまりのじよく戦慄わなないた。

「違うわよ……っ。あたしはリーテの──」

 言いかけて、イザベラは口を引き結ぶ。そろりと目だけを上げてうかがえば、クラウスはぎんするようにちんもくし、けんに力を込めていた。

「……リーテというのは、義妹のことだな。だがそうなると…………。さすがに無理があるだろう。うそを吐くなら少しは現実味のある内容にすべきだ。お前とでは雪とすみほどに似ていない」

「うるさいわね。血はつながってないんだからいいでしょ。雪と墨だなんてわかってるわよ。湖畔で作ってたのも、あの子のドレスよ。あんな可愛かわいがら、あたしに似合うわけないじゃない」

 クラウスのしつけさに、イザベラは勢いで言い返した。

 ふと、クラウスはリーテと顔を合わせていないことに気づく。謎の美姫という言葉を使っていないだけで、イザベラはクラウスの疑問をこうていする答えを返してしまっていた。

「謎の美姫が、イザベラの義妹……。そうか、人前に出ないという噂が本当なら、だれもあの謎の美姫を知らないのもなつとくがいく」

 今さらこうかいしてもおそいが、イザベラはやみしやべらないよう、自らの手で口にふたをした。

「イザベラ、何故なぜあの義妹は第二王子の前からげた?」

 見下ろしてくるクラウスは、他人に命じ慣れたたけだかさがある。言いえれば、あらがってはいけないと思わせる、げんがあった。

「……そんなの、あたしだって知りたいわよ」

 そのために来たくもないとう会へ参加し、庭園の前栽の陰にかくれているのだ。

ままいじめはないのだろう? まい仲が悪くないなら、聞いているだろう」

 クラウスの言い返したくなる言葉選びに、イザベラは口を押さえた手に力を込めてていこうする。無言でにらみ合うせいじやくの中、近づく足音が聞こえた。

 クラウスも気づいたらしく、耳をかたむける様子をみせる。いらちをかべて細められるへきがんとは対照的に、クラウスはすぐにその場を去るべく動き出した。

「ハンカチは、またの機会にしておこう。──イザベラ、覗き見もほどほどにしておけ。この庭園は湖からき上がる風で夜は冷える」

「え、クラウス? ちょっと、このことは秘密に……行っちゃった」

 窓からはなれたクラウスが何処へ消えたのか、イザベラに知るすべはない。

 誰もいなくなった窓辺を見上げ、イザベラはまた一人になったことを実感した。会話することでまぎれていた夜風の冷たさを思い出し、身をふるわせる。

 かすかなきぬれの音に、辺りを彷徨さまようようだった足音が、イザベラのひそむ前栽に近づいてきた。

 大広間からの明かりも届かない庭園のはしに、いったい誰が来るのか。

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