ローラ・バスター

「いやあ、そんなつもりじゃなかったんだがね」

 緊迫したマルヴィンに対し、ジェラルドは特に焦る様子も見せなかった。ゆっくりと頭をかく。

「というよりも、誰だかわからなかったのか——俺はすぐわかったが」


「なんのことだ」


「ローラ・バスター。聖オズワルドの看護婦だよ」

 ——整形手術を受けた病院の名前を聞いて、マルヴィンが固まった。




「あ、あれ……、え、えーと」

 怒りが大きかった分、肩透かしを食らったような気分でマルヴィンは目を見開いた。

「顔を見せるも見せないもお前の顔なら百も承知だろう。手術にも立ち会ったんじゃないかね」

「……」

「お前が泣き言ひとつ言わずにキーツを暗唱していたのが忘れられなかったんだと」

「——キーツ」

 確かに、暗唱した。

 まだ自分の顔がどうなっているかわからなかった頃は、とにかく目先の痛みをどうやり過ごすかが、大変で、思い出せる詩をありったけ暗唱したのだ。

 そういえば、一緒に暗唱してくれた看護婦がいた。確かに——いた。まだ顔じゅう包帯でぐるぐる巻かれていた時期だったから顔も覚えていないが。

 ふいに、鼻をつくような消毒薬の匂いが記憶に蘇った。それから、真夜中小声でキーツを暗唱する自分の手にそっと触れてきた、暖かい手。


「従軍看護婦時代に目に傷を負ったとかで、視力がどんどん落ちてきて看護婦はもう無理なんだと」

 ジェラルドが淡々と説明する声がやけに遠くに聞こえる。

「どうしても一度会ってみたいって頼まれてね。まあ、この調子だとお前には余計なお世話だったのかもしれないが。よほどお前のことが気になっていたんだろう」

「……」

「……ローラ・バスターはどうした?」

 言われてマルヴィンは再び両手で頭を抱えた。

「面白半分に関わるな、見世物じゃないって……どなりつけちまった……」

「あー」

 友人は天井を眺めた。

「それであんな顔をしていたわけだ——まあ、音楽は代わりがいるからいいって言ったのは俺だが」

「早退したのか……」

 呆然と呟くと、無言で首肯された。

「……夜のシフトのジェームスが、今日はいろいろ用事があって早く来ているぞ」

 畳み掛けるようにジェラルドが言う。

「すまないが……俺も」

 自分の声がかすれているのに気づき、奇妙なことだ、とマルヴィンは思う。口の中がカチカチに乾いていた。何が言いたいのかは自分でもよくわからなかった。

「……ひでえツラだ」

 ふっ、っと口元に歪んだ笑みを浮かべると、ジェラルドは手元の紙に何かをサラサラ書いた。

「住所だよ。明日には弟さんが迎えに来て引っ越しだとさ。——謝ってこい」


 歩いて20分程度の、比較的貧しい区画の住所だった。





 マルヴィンは、走る。

 10月の歩道は、まだすれ違う相手の顔が見えるほどには明るい。行き交う人達の悲鳴が聞こえる。

 マルヴィンの視覚は健康だ。

 通り過ぎる人々のぎょっとした顔も、恐怖に歪んだ表情も、小さな紙に書かれた住所も、くっきりと見える。

 足も、また健康だ。

 大股に走っていくマルヴィンが近くに来るたびに人々が避けていく。地域の悪ガキどもが追いかけ始めたが、マルヴィンの健康な足は軽々と差を開けていく。

 かつてすっかり無くした鼻の骨も、頬も、医者が手を尽くして再生しようとしてくれた。とても人間の顔に見えない顔だが、少なくとも自分の頬には、もう穴は空いていない。耳らしい形の耳は左側にはないが、奇跡的に聴覚に異常なし、だ。

 心臓がばくばくと動き、息が荒くなり、ああ、生きている、とマルヴィンは思う。日の光の下に出たのは何ヶ月ぶりだろうか。


 ごみごみした通りの奥の方に、古ぼけたバイオリンケースを下げた女の背中をマルヴィンは認める。一瞬、立ち止まりたくなる誘惑にかられ——それからマルヴィンは走るスピードをあげた。


 あの背中に、追いつかなくてはならない。そして謝罪をして——





 もう一度、自分が人間であることを思い出すのだ。

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映画技師とヴァイオリン 赤坂 パトリシア @patricia_giddens

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