旅立ちの日に
まだ少し薄暗い朝の通り。人影は少なく、歩くと風のせいもあって少し肌寒い。僕は外套の前を両手で合わせて先を急ぐ。
あの大雨の日の一件以来、街中を巡る水路は水を張るのをやめてしまったらしい。人が落ちて怪我をしないように網が張り巡らされたその景観は、どこか寒々しかった。
強い風に煽られ、目深に被ったフードがめくれそうになるのを慌てて手で押さえる。
ついでに、右目を覆った包帯が緩んでいないか確かめる。道端に屈みこんで土をいじっている小さな子供と目が合って、愛想笑いで誤魔化しながら通り過ぎた。
駅に着くと、一層人は少なく閑散としていた。魔法蒸気列車の始発をわざわざ利用する人はかなり限られると、事前に聞いていた通りだ。
待っていた人物は目ざとく僕の姿を見つけ、足早に近付いてくる。
「宿の主人には怪しまれなかったか?」
「多分。もう一、二泊していたらちょっと危なかったかもしれません」
「格好が目立つんだよ。なんだ、その襤褸は」
そう言われても、外套はこれしか持っていないのだから仕方がない。
「チックさんこそ、そのつけ髭は変ですよ」
「名前を呼ぶな。変装の意味が無いだろうが」
あくまで小声で、チックさんはしかめっ面で抗議した。頭巾で頭を覆って、珍しい黒いレンズの丸眼鏡。つけ髭はやたらと長くて立派で、身を隠したいのか目立ちたいのかよくわからない。
あの日。アイーダ先生が亡くなって少ししてからの事だった。ガーランドより前に一人、山中の僕を訪ねてきた人物が居た。それがチックさんだった。
僕を驚かせたのは、チックさんがあの場所を知っていた事よりも、雪の中をわざわざ山に登って会いに来たという事よりも、深々と僕に頭を下げた事だった。
それからチックさんは、自分が元々ガーランドの部下である事、ガーランドの命令で監視するためにアイーダ先生に近づいた事、先生の杖は売らずに破棄するように言われていた事を、全て打ち明けた。
僕は一度呆然として、それから思わずチックさんに殴りかかる所だった。正直に言われたところでそんな行いが許せるはずもない。
チックさんは僕に胸ぐらを掴まれた状態で慌てて付け加えた。
「杖は壊していない。海の向こうまで持って行って、そこで売っているんだ。ガーランドにも分からないように、遠くで!」
「どうして、そんな事を?」
当然の疑問だった。ガーランドの命令に背いた事が露見すれば、チックさんだって無事では済まないのではないか。
「物には、相応の価値ってもんがある」
どこか気まずそうに、しきりに頭を掻き、きょろきょろと目を泳がせながら、その時のチックさんは答えた。
「……売れば高く値の付く代物を、ただ壊して捨てるなんて事は、俺には出来なかったんだよ」
迷ったけれど、僕はその言葉を信じる事にした。
僕がダーネットの町に着いた時、行商人が運んでいたのは間違いなく先生の杖だった。あれがただ壊されるものだったとしたら、ぶつかって落とした事に怒られるはずもない。
それからチックさんは僕に、ガーランドが来る前に遠くへ離れるように勧めた。そのための手配もしてくれると言った。
けれど、僕はそれをしばらく待ってもらう事にしたのだ。
ガーランドとの対決を終え、旅支度を整えてこっそり町に入り、チックさんの手配した宿に泊めてもらったのは一昨日のことになる。
「切符だ。こっちは列車、こっちは船」
「ありがとうございます」
手渡された小さな紙片には、ここからずっと南にある港町と船の名が記されている。
「いちいち礼を言うこともない。代金はお前さん持ちだ」
「それでも、今、船の切符を用意するのは大変だったんじゃないですか。それも密航じゃなくて正規のやつ」
「そうでもないさ。ガーランドが急に居なくなったもんだから、唆されてた連中が泡食ってごたごたしてる。そこを利用させてもらったよ」
僕は目を細めて、遠く線路の先を眺めた。乗り込む列車は、まだその影もない。
「……戦争は、起きないですか?」
「いや。始まりは遅れるかもしれんがね、そう簡単に無くなりはしないだろ」
チックさんは渋面を作っている。
誰もが想定していたより、この国にとっては苦しい戦いになるのかもしれない。そのうちの何割かは、僕の行動の結果だ。
そう思うと少し目の前が暗くなる。
「お前が責任を感じる事じゃないぞ」
どこから取り出したのか、チックさんは煙管に火を点けて煙を吐き出していた。
「唆したのはガーランドで、進めたのはお偉いさん方だ。あのまま行けば、周りの国がいくつか属国になって、搾取されるようになるだけだったろうさ」
「……ありがとうございます」
感謝の気持ちを込めてもう一度頭を下げると、チックさんはふんと鼻を鳴らした。
「礼なんか言うな、単純な奴だな。俺は悪党だぜ? 今は、開戦が遅れるならどう稼ぐかを考えてる所だ」
そういえば、先生もチックさんの事を悪党だと言っていた。でも、心底嫌悪している風でもなかった気がする。
「おい。何がおかしいんだ」
「いえ。別に」
思い出し笑いを誤魔化し笑いに変えながら、もう一つ、気になっていたことを尋ねてみる。
「ガーランド……さんは、どんな人だったんですか」
「わからんね。あの人は、過去の事を誰にも話さなかった。だから俺は自分で調べたが」
溜息と共に吐き出された煙が宙を彷徨う。
「元は小さな町で町長をやっていたらしい。魔女についても個人的に、あくまで学問として調べていた」
「その時に、何か起きたんですか?」
「ああ。ある年に、流行り病で町の住民の半数以上が死んじまったんだな。別にあの人に落ち度があったわけじゃないが」
珍しい話ではない。けれど、その出来事はあの人にどんな感情を齎したのだろうか。
「……魔女は出し惜しみをしていると。それが腹立たしいと、よく言っていたよ。少なくともあの人にはそう見えたんだろう」
彼はその怒りのままに、決意し、行動に移したのだと、そう結論付けてしまうのも乱暴な気はした。
「チックさんは、それを知っていても、付いていけませんでしたか」
「……魔女がな。あの人の言うほど、憎むべきものには思えなかったからな」
チックさんはチックさんで、先生との付き合いは長いのだ。互いに素性を明かさない間柄であっても、伝わるものがあったのかもしれない。
先生はどこまでこの人の事を知っていたのだろう。あるいは、全てお見通しだったのではないだろうかという気もする。
今となっては確かめようのない事だ。
「しかし、お前さん本当に一人で行くのか」
「はい。必要な事なので」
「言っておくが、渡した目録に載っているのは杖の最初の売り先だぞ。そこから他所に渡ってない保証はない」
「なんとか探します。便利な目もあるし」
包帯で覆った右目を指差し笑ってみせると、チックさんは頭を掻いて呆れたような表情。
「どうも危なっかしいな。大丈夫かよ」
「見たこともない杖もあるから……全部、知りたいんです。先生が残した、杖の作り方」
びりびりと肌が震えるような、大きな警笛の音。鉄の軋みを響かせながら、魔法蒸気列車がホームへ滑り込んで来る。
ガーランドの齎した変化は、本人が居なくとも消えて無くなるわけでもなく、僕自身もまたそれを利用する。いつの日か、またあの人と相見える事はあるだろうか。
「もう来たな。ほら、乗りな」
「あの。本当に、ありがとうございました」
「何回言う気だ。いいから早く乗れ」
頭を下げかけたところで、蹴り飛ばすような勢いで追いやられる。
車両に乗り込んで指定の座席に座ると、僕の他に乗客は無く、ほとんど貸し切りのような状態だった。
車窓の外でチックさんが手招きをしているのが見え、窓を開ける。
「どうしたんで……」
突然、横合いから僕の眼前に花束が突きつけられ、かすかに甘い香りが鼻をくすぐった。
視線を花束からその持ち主へと辿らせ、僕は呆然とする。
肩まである金色の髪、大きく膨らんだ袖とスカートが風に揺れる。
「……エマ?」
「久しぶり。ラスト」
僕に花束を差し出したエマは、少し首を傾げてそう応えた。僕は開いた口が塞がらなくなって、立つでもなく座るでもなく、中途半端な姿勢のまま固まっていた。
その様子を見たチックさんが、お腹を抱えて愉快そうに身をよじっている。
「チックさん!」
「だから、大声で名前を呼ぶな!」
笑いを堪え切れないまま怒って奇妙な表情になった後、チックさんは得意げに胸を逸らした。
「感謝しろよ。俺が居なけりゃ、この娘は危なかったんだ」
「……ずっと、ラストのこと探してたの。家族や町の人にも変な目で見られて……確かに、チックさんが気づいて止めてくれなかったら大事になっていたかも」
訳もわからず、何度も口を開け閉めして、僕はようやく質問を捻り出した。
「でも、だって、どうして? 僕は、僕は君に酷いことを」
「何もしていないでしょ?」
あっけらかんとそう言われて、僕は返事に困った。それは確かにその通りで、僕はエマに呪いをかけたと、そういう嘘をついただけだ。でも、何故エマがその事を知っているのか。
「あの日は、びっくりして逃げ出しちゃったけど。落ち着いて考えたら分かった。ラストは嘘をついたんだって」
「だから、どうして!」
あの状況で信じてもらえるほど、エマは僕のことを知らなかったはずだ。何も知らなかったはずだ。それならば、何故。
「だってラスト、泣きそうな顔で、私に呪いをかけたなんて言うんだもの」
「え……」
自分なりに精一杯恐ろしげな表情を作ってエマを脅したつもりだった。酷い嘘をついてしまったつもりだった。きっと、傷つけたと思っていたのに。
「それにね。町の中にもね。何人か、ちゃんと見ていた人が居たんだよ」
「見てたって……何を」
鼓動が激しくなる。まさか、という気持ちと、もしかして、という気持ちがせめぎ合う。
「あの日。魔女が魔法を使って、そのおかげで溢れた川が元に戻ったこと。それから、誰かが魔女を捕まえようとして……男の子が、魔女を助けて逃げていったこと」
エマが僕を指差している。
「……そんな事あるはずない、っていう人の声の方が大きくて。みんなすぐに黙っちゃったけど」
今度こそ僕は何も言えなくなった。今でも思い出すだけで胸が苦しくなる、正しかったのかどうか分からない、あの時の光景が蘇る。
「だから……今は、みんなに分かってもらうのは無理だけど、せめて私だけでも見送りに来ようと思って。これを」
もう一度、僕に向かって花束が差し出された。僕はそれを震える手で受け取った。
不意打ちで受ける優しさ。きっと通じていないと思った心が通じていて、それが返ってきた事に耐えられなくなって。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになるのも構わずに、僕は泣いた。エマとチックさんの前だというのに、みっともなくしゃくり上げて、ただ声を出すのだけは我慢して、泣いた。
(無駄じゃなかった)
先生が命を懸けたこと、僕が必死にやったことが、無駄にはなっていなかった。たった一人にでも、きちんと伝わっていたのだ。こんなに嬉しいことはない。
「いつでもこんな風にうまく行くと思うなよ。信じようとしない奴なんか山ほど居る。あるいは全てを知っていて、自分の為に黙っている奴も大勢居る」
「気をつけます」
チックさんはもう笑ってはいなかった。真剣そのものの表情に、僕も涙を拭い、顔を引き締めて返事をする。
「いつか、帰って来るよね?」
「……うん」
「じゃあ、それまで、元気で」
差し出されたエマの手を握り、別れの挨拶を交わす。それが済むと、出発の合図が駅の構内に響き渡り、列車は生き物のように震え始めた。
ゆっくりと車体が動き出す。
エマは手を振り、チックさんは腕組みをしたまま。目で追う二人の姿は後方へ流れ、次第に遠くなって消えて行く。
座席に腰を下ろした僕は、手にした花束を横に並べて置いた。
やる事は山のようにあって、どれも簡単じゃない。
鞄を開き目録を広げる。先生が作り続けてきた魔法の杖は、世界のあちこちに散らばっている。
これらの杖を探す事。その作り方を知る事。もしもマナの流れがおかしくなっている場所を見つけられたら、大きな災害になる前にそれを止める事。
そして、有るのかどうかも分からない……魔女と人が、諍いなく暮らしている場所を見つけ出す事。
どれも、僕の目が両方とも金に染まる前に。出来ることなら戦争が始まってしまう前に。
その全てが済んだら、父さんと母さんの所にも帰ることができるだろう。
改めて考えると無茶が過ぎる。
もしかしたら、僕はまた躓いて、打ちひしがれて、涙を流したりするのかもしれない。
それでもきっと平気だ。思い出の中に、ずっとあの人が一緒に居てくれるから。
このレールの先、海の向こう、知らない空の下でも、きっと僕は生きていける。
そして僕は、自分の作った一本の杖を手にして強く握る。
望んだ形とは全然違ってしまったけれど、あの日の約束を果たしに行こう。異国の路を、見知らぬ草花が揺れる野を行こう。静かな砂丘を、波の寄せ返す海岸を行こう。
警笛の音が鳴る。軌条の上を車輪は滑り、魔法蒸気列車の黒い車体は風を切って進む。
車窓の外では一羽の鳥が鳴き声を上げ、高く、空へと舞い上がっていく。
旅は始まった。
魔法の杖の作り方 CAT(仁木克人) @popncat
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