第9話 夕暮れ
一時間後、教会前の広場に再び静寂が訪れた。
ジョゼは日没までに隣町に到着できるよう、既にロバと空の荷台を連れ、来た道を戻って行った。去り際のジョゼはいつにも増して朗らかだった。ルシタニウスも、次に彼に会うのが楽しみに思えた。
ジョゼが教会を発った後、神父はすぐに母屋に向かった。イベーラに彼が帰ったことを報告しようと思ったのだ。しかし、普段イベーラが使っている屋根裏部屋はもぬけの殻だった。母屋の食堂や故ガルベール神父の部屋に入っても、彼女の姿はどこにも無い。礼拝堂に戻っても、屋上の鐘のドームを覗いても、そこには誰もいなかった。
神父は逡巡した。彼女はどこに居るんだろうか。彼女はこの教会の精霊だから、敷地内のどこかにいるはずだ。しかし、いくら考えても見当が付かなかった。
ルシタニウスは仕方なく、先に神父としての作業を終わらせることにした。倉庫から新品の蠟燭を取り出し、また礼拝堂に向かう。ジョゼを案内している最中、祭壇の蠟燭が何本か燃え尽きているのを見つけたのだ。
神父は蠟のこびりついた燭台を磨きながら、今日ジョゼと話した列聖会議の噂話をふと思い出した。馬鹿話も沢山したが、その話はひどく衝撃的で、考えれば考えるほど嫌気がさす話だった。
戒律では「恩恵は人々と分かち合い、独占してはならない」とされているが、それを守ろうとしない聖職者はとても多い。確かにそれは今に始まった話ではない。世間に露見しないよう私利私欲を貪る聖職者はずっと昔からいた。しかし、列聖会議でラモン司教が聖人に選ばれる事は、腐敗し切った教会の内情を暴露するような事だ。聖職者がそんな有様と知った信徒達は、果たして律儀に教義を守ってくれるのだろうか?辺境の無力な神父がこんな事を考えても仕方ないと思いつつ、ルシタニウスは漠然とした不安を感じた。
諸々の作業を終えた頃、太陽はもう西の空に傾いていた。日没と同時に、夕刻の鐘を鳴らさなくてはならない。神父は礼拝堂の外に出ると、また壁面の梯子をそろりそろりと登った。
屋上の鐘のドームに入ると、ドームの壁の隙間から、西日がいつもより濃く差し込んでいた。昼間かかっていた雲は切れ切れになり、薄橙の太陽がぼんやりと顔を覗かせていた。西の壁の穴から漏れた光が反対の壁の印に掛かったのを見て、神父は鐘の舌を強く揺らす。古びた鐘はいつも通り、カラカラと音を響かせた。
外に出ると、まだ空は明るかった。沈みかけの太陽が遠い地平から大地を照らし、オレンジ色に染め上げていた。色は教会の西の墓地にも広がり、墓石が幾つもの細長い影の線を作っている。
荒れ地の中に点のように群がる墓石。点は大部分は整然と並んでいるが、一部に乱雑で無秩序な一角がある。流行病の時、何人もの人が立て続けに亡くなり、急いで埋葬を行ったからだ。当時、墓穴掘りが主な仕事だったルシタニウスは、墓地を見ると嫌でもその記憶が蘇る。
――廃墟といい、墓場といい、礼拝堂の上からはろくなものが見えないな…。
顔をしかめていると、神父は不意に「あっ!」と声を上げた。墓石の影の中に一つ、墓石ではないものを見つけたからだ。神父は梯子をギシギシ軋ませて降りた。
足早に母屋の一室に入ると、壁に掛けてあった黒いマントを肩にかけ、鳥面のマスクと革手袋を装着した。墓地に近寄るには、これらを装着する必要がある。流行病の犠牲者に近づくのは危険と考えられているからだ。
もう一式の三点セットを引っ掴むと、神父は矢のように母屋を出た。教会の裏から、小走りで墓地に入る。窮屈なマスクの中が蒸れて息苦しい。
不気味な墓石がずらりと並ぶ墓地の只中に、見覚えのあるオレンジ色の服が座っていた。彼女は墓石の前で、三角座りの膝に顔をすっぽり埋めていた。
「イベーラさん!?」
神父が肩を揺らすと、イベーラは小さく呻き、静かに顔を上げた。夕日が彼女の顔をぼんやりと照り付け、眩しそうに目を擦った。
「こんな所でよく寝られますね!?」
「んぁ、おはよ~」
呑気に欠伸をするイベーラに、神父は呆れた。
「おはよ~じゃないですよ!!マスクも何も着けてないじゃないですか!?」
「着けてるよ~?ほら、見える~?」
イベーラは体を起こして、両手を左右に広げ、神父の方に向けた。よく見ると、彼女の体の表面を光沢のある膜のようなものが覆ってる。
それはイベーラが霊力で作り出した疫病用の防護膜だった。重いマントやマスクよりも確実に病の穢れを祓うことができ、全身をきっちり保護できる優れモノだと彼女は言う。
ルシタニウスは一しきり目をぱちくりさせた後、特大の溜息を吐いて膝に手を付いた。確かに彼女なら、そういう事が出来ても不思議ではない。
「なんだ…それならそうと、予め教えて下さいよ!びっくりして、屋上から大急ぎで駆け付けたんですから!」
「あはは~ごめんごめん~」
「はぁ……。いつからここにいたんですか?」
「キミ達が表でご飯食べてる間に、そそっとね~」
「道理で見つからない訳です。まさか墓地にいるとは思いませんでした…」
「いぇ~い」
にへらと笑って人差し指と中指を立てて見せる精霊に、神父は革手袋の掌を額に当てた。急いで駆け付けた疲れがどっと押し寄せた。
「もう日没です。すぐに暗くなりますよ」
「そっか~、もうそんな時間か~」
そう言うとイベーラは、おもむろに目の前の墓石に向き直り、名残惜しそうに再び膝を抱えた。
「…今更だけどさ、キミには感謝してるんだ」
「ふぁい!?」
神父は素っ頓狂な声を上げた。慣れない感謝をされると、彼は反射的にびくりとしてしまう。
イベーラは、すっと目の前の墓石を指さした。よく見ると、それはガルベール神父の墓石だった。
「皆の埋葬、キミがやってくれたんでしょ?」
「ええ…最初は穴掘りだけでしたけど、神父が亡くなってからは、簡単な葬儀もやって…」
「全部ひとりでやるの、大変だった?」
「それは大変でしたけど…。」
神父は頭を掻きながら、当時の事を思い出していた。
犠牲者が山のように出た都市部では、大勢の遺体を火葬したそうだが、この街では一人ひとり律儀に埋葬を行った。教義では、棺に入っていない魂は終末の審判の対象になれない可能性が高いと言われている。ガルベール神父はそれを憂慮し、故人の魂のために埋葬は必ず行うという方針を立てたのだ。
日に日に増える犠牲者、ガルベール神父の怒号。そして、自分も感染するかもしれないという恐怖。一人で墓穴一つ掘るには、本来は丸一日かかる。しかし当時のルシタニウスは、それを半日で行っていた。兎に角、早く作業を終わらせたかった。人々の死を悲しむ心の余裕など、最早無かった。
「亡くなった人達は皆いい人だったからさ、皆天国に行って欲しいなって。だから、キミが頑張って皆をお墓に入れてくれて、アタシはとっても嬉しいんだ。ホントにありがとうね」
「そ、そんな!…僕はただ、馬鹿真面目にガルベール神父の言いつけを守って、無心で穴を掘っていただけで…」
「…キミらしい反応だね」
必死になって謙遜する神父を見て、静かにクスリと笑う精霊。
「でも、今言ったのは全部ホントの気持ちなんだよ?だって…」
そう言うと、精霊は膝を抱える力をぎゅっと強めた。
「あの時、アタシは何も出来なかったから…」
神父の心臓が鈍い音を立てた。何か思いつめるように、視線を下に落とす彼女の表情に、神父は並々ならぬ何かを感じた。いつも明るく笑顔な彼女の、こんなに深刻な表情を見るのは初めてだ。
深くなっていく影が、座り込む精霊の体をじわりじわりと包み込んでいく。
ルシタニウスが声をかけあぐねていると、イベーラは突然ガバリと体を起こした。
「あ!そうだ!お友達にお堂見せた!?」
「…え、ええ。びっくりしてましたけど……。」
ぽかんとした頭のまま、神父は辛うじて言葉を返す。
「どうだった!?喜んでくれてた!?」
グイと身を乗り出して尋ねる精霊に、神父は気圧された。
「それはもう…」
「よかった~!!」
そう叫んで、彼女はすっくと立ちあがった。そして、思い切り伸びをした。
精霊の嬉しそうな表情が、オレンジの夕日に輝いていた。それはいつもの彼女の顔だった。今の今まで滲み出ていた黒は、まるで嘘だったかのように消えている。
「さて!そろそろ戻ろうかね~」
「…は、はい」
神父は釈然としないまま、元気よく歩き出す精霊の後をトボトボと着いていく。
「ねぇ!」
精霊が振り返ったので、神父は足を止めた。
「これからアタシも、キミのことルーシィって呼んでもい~い?」
「ブっふァ!!?!??」
ルシタニウスは悲鳴じみた声を上げた。
けらけら笑いながら逃げる精霊を、顔を真っ赤にして追い掛け回す神父。
鬼ごっこは、辺りが暗くなるまで続いた。
ピエタの残骸 伊場 敬@あれんすみっしー @McIver5cs
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