最終日 今度は客として来ますから

 今日まで本当にありがとう、ご苦労様でした。そんな朗らかな声と言葉を添えて渡されたのはずしりとした重みのある封筒と、その上に重ねられた給与明細だった。そういえば自分はここへアルバイトをしに来ていたのだったと舟雪は遅まきながら思い出す。そう、あくまで本屋のアルバイトである。決して万引き犯を取り押さえるための戦闘要員でもなければ陰陽師同士の諍いに割って入る他派の魔法使いとして来たわけでもない。ただの学生アルバイト店員である。それだけである。

 だからこの封筒に入っているだろう賃金は書店員としての労働にさらに昨日の業務外労働の分を上乗せした額なのだ。でなければたった数日のアルバイト代がこれほど分厚くなるはずがない。

「店長、ありがとうございます」

 舟雪が頭を下げると松山店長は少しばかり人の悪い笑みを浮かべながら「いやあ~」とわざとらしく肩をすくめてみせる。

「惜しいなあ、苗田君。君の仕事ぶりは申し分ないし、昨日の裏天津家撃退の手際も面白かったし、できることならもっと長く働いてもらいたいんだけどなあ」

「それは、謹んで全力でお断りします」

 だろうね、という顔をした松山店長の後ろで暦と栗栖が少しばかりしょんぼりとした表情を見せた。栗栖はすぐに気を取り直した様子で顔を上げ、舟雪に向かって笑顔を向ける。

「もし気が変わったらいつでも来てくださいね!」

「いや、多分それはないです。ここは天津さんがいれば大丈夫なんでしょう? オレがしゃしゃり出なくたって」

 そもそも問題は全て天津家……表天津家と裏天津家という傍迷惑な陰陽師の血統が発端になっているのだ。一般の魔法使いである舟雪が割って入ったところでこじれるだけである。それはそうですけど、とまた少し寂しそうにする栗栖と、その横で苦笑いしている暦を見ながら舟雪は少しだけ考えてこう告げた。

「オレはもう、ここでアルバイトをすることはありません」

 こういうことはきっぱりと言っておかなくてはならない。松山店長のような食わせ者が相手ならなおのことだ。彼は本気で嫌がる人間を無理やりに引き留めるような鬼畜ではない。万引き犯に対しては容赦など皆無だが、それを除けば情熱溢れる真っ当な書店店主なのだ、多分。

「苗田君」

 たまりかねた様子で暦が口を開いたのを見て、舟雪は思わず口元を綻ばせる。この人はどこまでも親切で良心的だな、と思いながら。

「今度は客として来ますから」

 舟雪が付け加えた言葉に、暦は一瞬虚を突かれたように小さく目を見開く。この人でもこんな表情をすることがあるのか、と舟雪は失礼と思いながらも少しだけ可笑しく感じた。いつも冷静で仕事に関してはこの上なく頼もしいアルバイトチーフもこんな風にはにかんで笑うことがあるのか、と。

「うん、待っているよ。またのご来店を」

 笑顔の暦が差し出した右手を少しぎこちない動きで握り返し、舟雪は音妙堂書店を後にしたのだった。


   *   *   *


「んじゃーとりあえずワンコの手柄で音妙堂さんの平和は守られたってぇわけか。ごっくろーさん」

「お疲れ様、苗田くん」

 その夜、学生寮の共用ホールで同学年の女子二人に捕まった舟雪はせがまれて音妙堂書店での出来事を話して聞かせた。労いの言葉をもらったはいいものの、何故か二人はいまひとつ納得していないという表情をしている。まあそうだろうな、とは舟雪も思う。

「……で、結局なんで音妙堂さんは魔法区域になってんだ? そこをなんとかしねぇとまた同じことの繰り返しなんじゃねぇの」

「その痛々しい陰陽師の人、前のときは逃がしちゃったけど一度は捕まえたんだよね? それなのに懲りずにまた同じ店を狙うっていうのもある意味すごいね」

「明園の言うのはもっともだけど大和瀬、あれは何ていうかもう意地の張り合いに近い」

「ふうん? じゃあ今回もまた逃げ出して、そのうち戻ってくるのかな」

「頼むからやめてくれ」

 いや、なんとなくあの調子なら怪盗よろしくまんまと逃げおおせた挙句に次は予告状のひとつでも寄越してから現れそうな相手ではあったが。それに大層迷惑な相手ではあったが結局のところあれは天津一族のいざこざである。せいぜい一般人を巻き込まない方法でやり合ってくれることを願うしかない。舟雪個人の意見としては本来まるで無関係なはずの暦を巻き込むのもやめてもらいたいところだが、栗栖の暦に対する信頼の様子を見ているとそれは難しそうだった。

「魔法区域についてはな……本木さん、アルバイトチーフの大学生の人から聞いた話だけど、そもそも陰陽師の天津さんが店の本に万引き犯用トラップとして式神召喚の呪符を仕掛けて、それが発動したのがきっかけなんだとか」

「なんだそりゃ」

 修威が顔をしかめている。無理もない。この説明だけで納得されると舟雪としてもいささか物足りない。

「魔法区域ってのは、火山の噴火後なんかにできる特異的に魔法を使うことができる天然のスポット。でもうちの学校みたいに任意の時間だけそこを魔法区域にすることもできる。それはいいよな」

「まあそれは分かる」

「それが音妙堂書店でも起こっていたんだよ。しかも時間限定なしの野放し状態で」

 陰陽道というものは風水にも似ている。土地や方角の吉凶を司る学問的な側面も持つそれは、地中に眠るらしい魔法区域の素に作用することもおそらく可能なのだろう。天津家の人間は政府に認定された魔法使いではないためそれが魔法区域と呼ばれることを知らないかもしれないが。

「具体的な方法は知らないけど。昔でいうところのパワースポットの超強力バージョンみたいなのが陰陽師たちの手で作られていた。人の負の感情を操作し、集め、発散させる……または古来の呪いを使ってとにかくそういうネガティブなものをじわじわとそこに集めていたんだよ。そこに明確な発動条件と形を持った式神が召喚されたことで魔法区域としての力場が完成されちまった、と」

「うん、全然分かんねぇ」

「ちょっとくらい理解しようとしろよ!」

 舟雪としてはできる限りの説明をしたつもりだったが、修威には伝わらなかったようだ。隣で苦笑を浮かべる真奈貴はおそらく理解しているのだろう。ただし彼女は口を開かない。代わりにしかめ面の修威が腕組みをしながら首を傾げる。

「理屈は分からんけど、その魔法区域はいつか消えるもんなのか?」

「溜まってるネガティブエネルギーがなくなればいつかは消滅するんじゃねえか」

 その辺りは舟雪にもはっきりしたことは分からない。ただ、肝心の天津家裏表の争いになんらかの決着がつかない限り、あの店はまだしばらくの間戦いの舞台として使われそうな気配である。少なくともそうである間はあそこはずっと魔法区域のままなのだろう。

 厄介な話である。

「まーでも、しばらくは魔法区域のままなんだな。それはそれで興味あるぜ」

 修威がそう嘯いた。にやり、と笑う修威はそのまま少しばかり楽しそうな口調で舟雪にこう誘い掛けた。

「なあワンコ、今度またあの本屋に行かねぇか? 俺も式神発動の瞬間とか見てみてぇ」

「あのなあ……だからって自分で万引きするなよ。あそこの店長の説教はヤバいらしいから」

「もちろん無駄なリスクを負う気はねぇ! 俺はあくまでただの通りすがりの無害な客だ!」

「客は客でも見物客じゃねえか」

 せめて本屋の客として行ってくれ。そう願いながらも舟雪は修威の誘いを断ることはしない。いつか、そう遠くない未来……たとえば一週間後くらいにはまた音妙堂書店に、今度は客として行くことになるのだろう。そう考えると舟雪も決して悪い気持ちはしないのだった。彼自身、案外あの店が好きになっていたのかもしれない。

 まあ、もう二度とあそこに勤めたくはないが。そして修威の望みどおりに万引き犯が現れて式神が召喚されれば嫌でも事態に巻き込まれそうで悪い予感しかしないのだが。


 それでもまあいいか。舟雪は胸の中で独りごちるとソファの背もたれに身体を預けて高い天井を仰ぐのだった。



   終

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