常夜

葦元狐雪

常夜

 千鶴はまた嘯いた。

 曰く、あの沈みゆく太陽を消してご覧にいれるという。

 十一階のマンションの屋上にて、私たちは向かい合っていた。日傘をさす千鶴は夕日を背負い、あたかも後光が差している仏様が如く、神々しく感ぜられる。そして、その顔は毅然として揺るぎない信念を湛えているかのように見える。

 私は彼女の欺瞞に対し、「馬鹿言わないで」とため息まじりに言った。

「マジックでも披露するつもりなの?」

「違うわ。本当に太陽を消すの」

「おかしいわ。つまらない冗談はよして」

「まあ、信じてくれないのね。いいわ、そこで見ていてよ」

 千鶴は右の頬をプウと膨らませて日傘を放ると、花柄のタックロングスカートのポケットから、黒いバンダナを取り出した。両端を摘んで大きく広げながら、パンパンとシワを伸ばした。ほどなくして、太陽は彼女の掲げる黒いバンダナに隠されてしまった。

「まさか、それで終わりなの?」と私が言った。

「お黙りなさい。そんなことより、目を離してはダメよ。瞬きも厳禁だから」

 今度は反対側の頬を膨らませて憤慨する千鶴はそう戒飭かいちょくすると、眼を瞑って黙り込んだ。

 ひぐらしの鳴き声や子供たちの叫声、豆腐屋の喇叭の音が気だるい夏の空気に揺曳ようえいしている。不意に吹いた涼風が、汗で張り付いた前髪をサラサラと梳かし、千鶴の蜂蜜色の長い髪もまた、風に遊ばれていた。

 そのときだった。千鶴のまなじりが決するや否や、彼女は掲げていたバンダナを降納した。

 太陽が消えていた。

 空には月や星々が瞬き、飛行機が赤いライトを明滅させながら飛んでいる。

 一瞬にして、夜と化したのである。

 モノの文色あいろもわからぬ中、千鶴は快哉を叫んだ。

 一方、私は怪力乱神を目の当たりにして周章狼狽し、ワケのわからぬまま叫んだ。



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 あれから一年が経ったけれど、太陽は帰らなかった。

 朝な夕なに夜なのはやはり問題があるらしく、やれ体内時計が狂ったとか、やれソーラーパネルが売れないや、鬱屈とした気分になる者が続出したなど、社会全体のフシダラな状態をどげんかせんといかんと、テレビ番組内でタレントが毎夜雄弁を奮っている。

 しかし不思議である。

 普通、太陽が消えたあとの地球は摂氏マイナス二百度を下回るため、自然、生物は死滅し、太陽の羈絆きはんから解き放たれた地球はさすらいの旅に出るはずだ。

 ところがどっこい、生きているではないか。それどころか、連日の熱帯夜にホトホト嫌気のさした人々が、「地球をキンキンに冷やしてしまえ」などと不謹慎なことを言いはじめる始末。

 かくいう私もその一人である。

 ある日の夜、効きの弱いエアコンを殴ったら、「ンヒョー」というエアコンにあるまじき奇怪な音とともに瞑目し、「あたら良き友を失ってしまいました」と空々しくシクシクと泣いたあと、憂さ晴らしに路上に転がる酔客を蹴散らしながら、市街地の路地裏にあるうどん屋『秋月』目掛けて駆け込んだ。

 私はこの店の常連客である。

 藍染の暖簾をくぐり、木の引き戸を開けてみるとむわっとした蒸気に眼鏡が曇り、遅れて冷気が蒸気を排した。

 私は一歩踏み入ったところで立ち止まり、店内をサッと目で掃いた。

 とうもろこし色の砂壁に浮世絵風のポスターが貼られている。歌謡曲が流れている。右手には、六人掛けのカウンター席があった。厨房で作業する店主の『オヤジさん』が見えた。左手には二人掛けのテーブル席が四つと、さらにその奥に座敷が二部屋あった。テーブル席の一角で文庫本を読みながら、ざるうどんをすする男性客がひとり居た。

「いらっしゃい」

 カウンター越しからオヤジさんの声がした。

 私は左から二番目のカウンター席につくと、「キンキンに冷えた飲み物をちょうだい」と言った。

「はいよ」

 言うが早いか、冷酒が出てきた。

 グラスに注いでぐいと飲むと、氷のような冷たさのあとに、胃の腑がカッと熱くなった。

「はあ、暑い暑い」

 ガラガラと引き戸が開き、白皙はくせきの頬を桃色に上気させた千鶴が入ってきた。

 花柄の赤い着物を召した彼女の肩は大きくはだけ、胸元を大胆に露出している。紫陽花が描かれたうちわを扇いでいる。

 どうやら、既に出来上がっているらしい。

「まあ、こんなところにいたの。灯台下暗し、ね」

「何よ、その格好。花魁みたいよ」

「花魁ではなくてよ」

 千鶴は私から徳利をひったくり、

「立てば芍薬座れば牡丹。歩く姿は百合の花。其は幽玄の傾国にして四荒八極を睥睨へいげいする霊神なり」

 と詠うようにそらんじては、冷酒を一気に飲み干してしまった。

 千鶴は呆然としている私の眼鏡をそっと取り外すと、「私と付き合いなさい」と言った。

「逃げるわよ」



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 私と千鶴は時を同じくして、この世に生を受けた。双子ではない。血の繋がりもない。しかし、双子のように睦まじやかだった。

 物心つく前から居るこの人は、きっと私の姉妹であるに相違ないと思い込んでいた時分があり、彼女と暇乞いをする度に泣き喚いては鼠花火のごとく暴れ回ったので、ママ上とパパ上を大いに困らせた。それに反し、千鶴は幼い頃から思慮分別のある秀才だった。美人だった。

 勉学、運動、恋愛などのことごとくをことも無げにやってのける千鶴に憧憬の念を抱いたことは自明の理である。しこうして、嫉妬の情にかかずらうことも自明の理である。

「アナタは世界で一番素敵よ」

 これは千鶴の私に対して用いる常套句のようなものだ。よしんば毎々御嘯きの致すところであるにせよ、其の節、切歯扼腕全盛の小娘ゆえ、差し出された千鶴の手を冷然と払い退け、思いつく限りの罵声を浴びせてやった。彼女は終始困惑の表情を浮かべていた。ひいては、その態度が私の多感なハートに油を注ぐことになり、火の原をくが若し勢いで燃え広がる嫉妬の炎は町内を席巻し、パパ上のHAYABUSAに跨りながら吠え猛る女子高校生の姿は、地元の珍走団面目なからしめ、畏敬の念を植え込んだという。

 やがて大学生になると、千鶴の卓抜した容姿はいや増しに輝きを放ち、仙姿玉質たる彼女の蠱惑的魅力にとり憑かれた男性は皆、傀儡かいらいと化した。

 晴れて大学内での確固たる地位を築いた白眉はくびはまず、傀儡を百二十九体こしらえた。彼らを深夜の公園に呼び出し、「戦いなさい。最後まで立っていた男を愛してあげる」を嚆矢こうしに『我利我利バトルロワイアル』が催された。如実に阿呆であるといえよう。

「男ってホントお馬鹿さんね」

 丘の上にあるベンチから静観する千鶴は、恍惚とした表情を浮かべて言った。

「でも、そこが可愛いの」

「どこが可愛いのよ。まるで獣じゃない」

 千鶴の隣に座る私はみっくちゅじゅーちゅを片手に、傀儡たちが大童に殴り合う様を見ながら、吐き捨てるように言った。

 午前一時頃に千鶴から、「今世紀最大の面白きモノをご覧に入れませう」というメールが届いたので、参上つかまつった次第である。

 案の定、面白くない。

「そう? 必死に頑張ってるところとか、最高に愛らしいと思うのだけれど」

 と千鶴は言った。

 傀儡の数は三分の一くらいまで減っている。ジャイアントスイングで敵を蹴散らしている猛者がいる。

「アナタなんかの為に頑張るなんて、可哀想だわ」

「愛してその醜を忘る、よ」

 千鶴はおもむろに煙草を一本咥えると、ライターで火をつけた。

 煙草の煙が湿気た夜気に混ざり、私は思わず咽せた。

「タバコ、吸ってたの?」

「今夜だけよ。これは、必要なことだから」

「意味がわからないわ」

「そのうちわかるわよ」

 千鶴はそう言うと、しばし黙した。

 我利我利バトルロワイアル開始から一時間が経ったところで、勝者たる傀儡がひとり、満身創痍で丘を登ってきた。ジャイアントスイングの男である。

 男は千鶴の足元に跪くと、恭しく頭を垂れた。千鶴は男の頭をそっと優しく撫でた。

「よく頑張ったわね。えらい、えらい」

 千鶴は私を見遣ると、「その缶ジュースをこの子にあげてくれるかしら」と言った。

 飲みさしで申し訳ないわ。

 私は缶の飲み口を一瞥してから、男の前に差し出した。男はにべもなく受け取ると、一気に飲み干した。

 その瞬間、平手打ちが飛んだ。男は左頬を抑えて俯いている。千鶴は怒気を孕んだ声音で「感謝しなさい」と喝破した。

「感謝感激雨霰!」

 男は額を地面に擦りつけるようにして謝辞を述べた。

 千鶴は膝をつき、彼を抱きしめて、「彼女のことは私と同等以上に扱いなさい。なんたって、世界で一番素敵なんだから」と囁いた。



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 私は千鶴の傀儡のベンツに放り込まれ、宮地獄神社へとやってきた。ここは、千鶴の住んでいる、十一階建てのマンションの付近にある。

 秋祭りが催されている。

 表参道を挟むようにして出店が列をなしており、浴衣を着た人々で賑わしい。赤い提灯の淡い光がそこここに揺蕩ようとうしている。祭り特有の、様々な美味しい匂いが混然として漂っている。

 この神社は幼少の頃から千鶴とよく来たものだ。駆け比べやかくれんぼをしたり、境内を散策したり、ただ逍遥しょうようしてみたり、祭りがあれば少ない小遣いを握りしめて綿アメを買ったりした。

 私が郷愁に耽けながらチョコバナナを食べている最中、千鶴は綿アメ、フライドポテト、タコ焼き、リンゴ飴、イカ焼きを平らげた。

「嗚呼、美味しい」

 口元についたソースを舌で舐め取って、千鶴は感歎の声を上げた。

 その仕草が妙に色っぽく見えて、千鶴がやるからこそ趣があるのだろうなと思い、私は出しかけた舌を引っ込めた。

「あら、お口にチョコがついてるわ」

 ふとこちらに顔を向けた千鶴が、嬉々とした声音で言った。

 私が「ああ、お構いなく」と言う暇もなく、彼女の艶かしい舌は、私の口角あたりにあったチョコを奪い去った。まだ酒精が抜けていないのだろうなと、思いながら口元を腕で拭うと、鮮血が赤い線を引いていた。

 ギョッとして千鶴を見ると、口端から血を流して青白い顔をしていた。

「あいつが来た」



 私たちは人目を避けつつ本殿の裏手へと回り、紙垂の巻かれた御神木へたどり着くや、千鶴は御神木にもたれ掛かるようにして座り込んだ。

 気息奄々衰耗して、先ほどまでの活発轆池かっぱつろくちたる彼女の面影はごうもない。

 いったい、どうして。

「ちょっと、しっかりしてよ。さっきまで、あんなに元気だったじゃないのよ」

 私は千鶴に出店で買った飲料水を飲ませたり、ハンカチで汗を拭いたりしてみたけれど、さして効果はないように思えた。それどころか、時間の経過に伴っていよいよ捗々はかばかしくない状態になる。

 千鶴は胸元に手を滑り込ませると、茶封筒を取り出した。

「......受け取りなさい」

「これは、なに」と私が訊いた。

「いいから。はやく受け取りなさい」と千鶴は確乎不抜に言う。

「もう黙って。今、救急車を呼ぶから——」

 すると、携帯電話を持つ手が氷のように冷たくなった。千鶴が私の手首を掴んでいたのだ。

 彼女はゆっくり頭を振ると、穏やかな微笑を口許に湛えたままこと切れた。



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 千鶴の死後、太陽が帰ってきた。

やはり、彼女には怪力乱神的な力があったのだと思い知らされた。

 かくして千鶴の葬式は快晴の空の下、粛々と執り行われた。存外、参列者は少なく、大学の白眉なる彼女の権威はこんなものだったのかと、ちょっと寂しい気持ちになった。

 葬儀が終わりひと段落ついた頃、私は秋月のカウンター席にて、ようやく茶封筒を解いた。封筒の裏に、「封切りは葬儀のあとで」と書いてあったからである。

 結果、手紙の内容は惨憺さんたんたるものであった。そのほとんどが私に対する愛のセンテンスで埋め尽くされており、千鶴の怪死の原因や、『あいつ』とやらについての叙述は皆目見られなかった。

 しかし、最後の一文に私の目は釘付けになった。

<私と再び相見えたければ、アナタは私になりなさい>

 千鶴はまた嘯いた。曰く、死んだ人間が蘇るという。

 私は彼女の欺瞞に対し、「馬鹿言わないで」とひとりごちた。

 おかしいわ。つまらない冗談はよして。

 そぞろ封筒を逆さにしてみると、煙草が一本、卓子の上に転がった。

 その瞬間、私は携帯電話を取り出して電話をかけていた。やがて、三回目のコールで繋がった。

「もしもし、私です。ちょっと、頼みたいことがあるの」



 一ヶ月後の深夜二時、私は公園の丘の上にあるベンチに仁王立ちし、眼下に集う百二十九人の元珍走団の面々を見下ろしていた。

 私の隣には、飲みさしのみっくちゅじゅーちゅを持った千鶴の傀儡が屹然と立っている。彼に珍走団の招集を頼んだのだ。

 私は眼鏡を外すと、空高く放り投げた。そして腕を組み、

「立てば爆薬座れば蘇鉄そてつ! 歩く姿は鬼の様! 其は蛮勇の暴戻ぼうれいにして四荒八極を狂奔するHAYABUSAなり! さあ、戦いなさい! 最後まで立っていたおとこを、私のHAYABUSAのタンデムシートに乗せてやる!」

 叫ぶように言い放った。

 『第二回・我利我利バトルロワイヤル』の開幕である。

 元珍走団めいめい鬨の声をあげるや、曾遊そうゆうの地はあたかも合戦場のように荒れた。

 私は漢たちの戦いを眺めながら煙草を一本取り出すと、傀儡の差し出したライターで火をつけた。ほぞを固めて威勢良く吸い込むと、派手にせ返った。涙をボロボロとこぼしながら、「よくもこんな不味いモノを」と悪態をつく私はタバコ処女である。

「これでいいのよね、千鶴」

 誰にも聞こえないか細い声で呟いた。

 紫煙が涼しい夜気に溶けて眼に沁みた。

 火がフィルターに届いたことに気がつくまで、涙が止まらなかった。



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 勝者にみっくちゅじゅーちゅと平手打ちを賜与そよし、「感謝感激雨霰!」と言わしめた次の日、私は千鶴の住んでいた十一階建てのマンションの屋上へとやってきた。

 入相の頃、赫赫かくかくと燃える夕日が西に映える。

 あの日と同じである。

 なぞるように、私は花柄のタックロングスカートのポケットから黒いバンダナを取り出すと、夕日を隠してみせた。

 目を瞑った。

 子供たちの叫声や、豆腐屋の喇叭の音が新涼の空気に揺曳している。不意に吹いた秋の初風が頬を撫でる。

 意を決してバンダナを降納しようとしたそのとき、何者かが「待て」と言った。

 やおら目を開くと、眼前には、千鶴を抱きかかえた長身痩躯の男が立っていた。

 秋月で文庫本を片手に、ざるうどんをすすっていた客人だった。

「我は宮地獄神社の神である。此奴は禁忌とされる『常夜の儀』を挙行した。ゆえに、罰として魂を頂戴した」

 と白いシャツにジーンズを召した神は言った。

 太陽を蛇蝎のように嫌う彼女は、永遠の夜を欲したという。

「だから止せ。さもなくば、お主の魂も奪ってしまうぞ」

 答えは一つ。私の意志は、ただ一つ。

「結構。千鶴のいない世界に、価値なんてないのよ」

 逡巡することなく反駁はんばくした私は、果断にバンダナを降納した。

 瞬間、太陽が去った。

 代わって、夜が訪れた。世は再び常夜と化した。

 愚かなり、愚かなり、愚かなり。我は戒飭したというのに。

 ——罰だ。

 モノの文色もわからぬ中、私の意識は一縷の紫煙が如く薄れはじめた。

 その渦中、千鶴の声を聞いた。その声音は、歓喜の色を帯びていた。

 嗚呼、やっぱり。アナタは世界で一番素敵よ。



                                   <了>

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常夜 葦元狐雪 @ashimotokoyuki

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