第2話

 悠斗と思わず手を触れ合った瞬間、美結の心の形は大きく変わってしまった。



 教えるのが上手で、いつも暖かく心を汲み取りながら、静かな笑顔で授業を見てくれる素敵な先生。

美結の中で、悠斗はそんな存在だった。


 優秀な頭脳とその人柄だけでなく、爽やかに整った容姿も、彼の人気の一つだった。

 全てを兼ね備えた、多くの生徒から慕われる先生に教えてもらえることは、美結にとっても大きな喜びだった。


 大好きな先生と一緒に問題を考え、解く時間。

 それは、美結を前向きに数学に取り組ませる原動力になった。


 高3への進級が近づき、授業に熱が入っていくに従い——その気持ちも、どこか熱を帯びていったような気がする。



 そして、あの日——

 これまでになく間近で感じた悠斗は……美結の中で、突然先生から男性に変わった。



 不意に自分の顔のすぐ側まで近づいた髪の、ほのかに爽やかな香り。

 間近に寄せられた肩の逞しさ。頰を掠めた息の温かさ。

 胸元へ伸びてきた、美しい指先。

 思わず触れてしまった手の甲の、少し骨ばった滑らかさ——。



 数学のことだけだった意識に不意に飛び込んできた、温度や匂いを伴う感覚。

 ——そんな、異性としての悠斗に、美結は大きく動揺した。


 これまでも好きな人はいたし、付き合った経験も多少はある。

 けれど——

 先生という立場の、魅力に溢れた年上の男性を間近で感じ……こんなふうに掻き乱されるような気持ちを抱いてしまった自分自身が、どうしても受け入れられなかった。


 私は、こんなにも先生が好きなんだ——。

 そんなことを否応なく突きつけられ、逃れることができない。



 そして——美結は、悠斗の顔をまっすぐに見られなくなった。

 ちゃんと顔を見せたら、悠斗に心を読まれてしまう気がして、怖かった。


 数学にも、集中して向き合えなくなった。

 数学に取り組み始めると、彼がどうしても心に浮かび……開きかけた参考書を閉じてしまう。



 これでは、だめなのに——

 そう思っても、自分ではもうどうすることもできなかった。




            ✳︎




「橘さん。今日からあなたの数学を受け持つことになりました。よろしくね」

 4月最初の火曜日。

 数学の時間に現れたのは、若い女性の講師だった。


 頭脳明晰だが少し冷ややかなその女性の印象は、授業の最中も変わらなかった。

 数学の勉強で悩んだ経験がないのかもしれない。彼女は、数学の苦手な生徒が苦しむポイントを汲み取ろうとはせず、ただサラサラと問題を解説する。

 ひとしきり説明を終えて、「わかったかしら?」と冷たい微笑を浮かべる彼女に、美結はそれ以上質問する気持ちにはなれなかった。



 これまでとは、あまりにも違いすぎる授業。

 そして、担当が変わることを悠斗から一言も聞けないままだった悲しさが、美結を一層深く落胆させた。




「橘さん、待って」

 授業時間を終え、茫然としたような表情で帰ろうとする美結を、室長の清水が引き止めた。


「……はい」

 落ち込みを隠せないでいる美結の顔を、清水は優しく見つめた。

「天宮先生ね……都合で、曜日を変わらなきゃならなくなったのよ。あなたには、言ってなかったのね。

 本当に申し訳ないって伝えてくれって。……それから」

 彼女は、デスクの引き出しから一冊のノートを取り出した。


「これ、彼からよ。

 もしも、どうしても理解できない数学の問題や質問があれば、このノートに書いてほしいって。できるだけ早く回答して返すからって言ってたわ。

 あなたと先生のノートのやり取りは、私が間に立つわ。なんと言っても、大事な生徒の大学合格がかかってるんですものね。

 でも……あなたがこれを必要としないなら、ノートは捨ててしまっていいからって……先生、そう言ってた」

 清水は、美結にノートを渡しながらさらりとそんな説明だけすると、明るく笑った。


「受験をサポートするつもりだったあなたを支えたいのね、彼は。

 ……さあ、遅くなるからもう帰りなさい」



「……清水先生……

 あの、私…………。ありがとうございます……」



 まともな言葉も出ないまま——少しだけ潤んだような瞳で、美結は清水に微笑んだ。



            ✳︎



 受験生の日々は、飛ぶように過ぎていく。


 悠斗と美結のノートのやり取りは、頻繁に繰り返された。

 悠斗は、火曜と金曜に塾へ来る美結ができるだけ早くノートを受け取れるよう、自分がシフトに入っていない日にも塾へ寄り、清水とノートの受け渡しをしていた。

 美結は、その都度的確な解説やたくさんのアドバイスと共に返ってくるノートを頼りに、数学の勉強を進めた。




 梅雨明け間近の、7月の火曜。


「天宮先生、夏風邪ひいたみたいでね。熱上がっちゃったって、昨日の授業はお休みしたの。でもね、ノートだけはここへ届けにきてくれたのよ。

 ——こんなに応援してもらえて、橘さんも頑張らなきゃね」

 清水は、授業を終えた美結にノートを渡すと、柔らかく微笑んだ。


「……そうですか……」

 美結は、手の中のノートにじっと目を落とした。



 帰宅するとすぐに、美結は自分の机でノートを広げた。

 彼の文字が、いつものようにぎっしり並んでいる。


『ここは必ず出る重要ポイント!』

『ここで引っかからなければ、あとは楽勝!』


『頑張れ』



 彼の、赤ペンの文字。


 彼の筆圧でわずかにくぼんだそのざらつきを、指でなぞった。

 熱の身体を起こして書いたのだろう。

 あまり上手くない、その一文字一文字。



 ——顔が見たい。

 声が聞きたい。



 思わず、涙が溢れた。



 いや——今は泣いている時じゃない。



 今、先生に会ってしまったら……自分の決意が、ガタガタと崩れてしまう。

 受験が終わるまでは、彼のことを思わない——そんな、固い決意が。



 それに——


 顔が見えなくても。

 声が聞けなくても。

 先生は、いつも自分のすぐそばにいてくれる。


 こうして、決して消えない文字で——自分をこんなにも励ましてくれる。



 書き始めたら、きっと止まらなくなってしまうから——そのページの空白に、青のペンで一言だけ答える。


『頑張ります』



 美結は、涙を手の甲でぐっと拭くと、悠斗のアドバイスに集中した。




            ✳︎




 秋が過ぎ、冬が来た。

 受験まで、あと少しだ。


 美結は、いつものように自転車を止め、マフラーを外しながら塾へと入っていく。

 まっすぐに伸びた姿勢。しっかり前を向いた凛々しい瞳と、引き締まった表情。

 充実した空気が、そこから伝わってくる。



 塾のすぐ横のコンビニの窓際で立ち読みをしていた青年が、本を少しだけずらして、その様子を見ている。



「——大丈夫そうだ」

 そう小さく呟くと、彼は優しく微笑んだ。




            ✳︎




 3月。

 悠斗とやりとりを重ねたノートも、もう3冊めになった。



 美結は、第一志望の大学の工学部に合格した。


 発表を確認し、美結はすぐに塾へも連絡を入れた。

「清水先生——合格しました!!」

『橘さん、おめでとう。本当によく頑張ったわね。

 ——天宮先生にも、伝えておくね』


 清水は、朗らかな声でそう一言添えてくれた。






 そして——この塾へ通う、最後の日。


 授業を終えた美結は、清水室長とお世話になった先生方へ深い感謝の言葉を伝え、教室を後にした。



 通い慣れた夜の街。

 自転車を押しながら、美結はさまざまなことを思う。


 今まで支えてくれた先生方。清水先生。

 そして——天宮先生。



 彼には、とうとう会えなかったけれど——。


「——ありがとうございました——」


 気づけば、そんな言葉が声になっていた。



 これまでのことを振り返り——堰を切ったように、涙が溢れ出した。


「ああ、もう……」

 手の甲で涙をぐしぐしと拭う。




 その瞬間——



「——俺は、ここ」


 後ろから、軽く肩を叩かれた。




 どきんっと心臓が跳ね上がる。


 夢が覚めないように……そんな思いで、恐る恐る振り向いた。



 彼が微笑んでいた。

 ずっと、会いたくてたまらなかった、その人が。



「おめでとう。——よく頑張った」


「——————」


 もう、涙を堪えることができない。



 泣きじゃくる美結の頭に、悠斗の手がそっと乗る。


「ごめん……急にいなくなって。悪かった」



「いいえ……

 先生は、いつも側にいてくれて……だから私、頑張れました」


 思いが、うまくまとまらない。



 そうやって溢れ出る美結の思いを静かに受け止め、悠斗は答えた。


「でも——もう、君の前から何も言わずにいなくなったりしない」



「……え……?」

 美結は、驚いたように悠斗の顔を見る。



「だって……君はたった今、この塾を卒業した。

 ——もう君は、俺の生徒じゃない。

 俺も、君の先生じゃない」



 まだ飲み込めずにいる美結を見つめ、悠斗は少し照れたような顔をする。


「……もう、先生とは呼ばないでほしい。

 俺は、悠斗だ」



「……あの…………」



 少しずつ、意味がわかったように頰を赤らめる美結からふいと目を逸らし、悠斗は少しぶっきらぼうに呟く。


「——ほら。

 なんか奢るから。合格祝い」




 並んで歩く二人の後ろ姿を、仄白い街灯が繰り返し照らしていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先生、生徒 aoiaoi @aoiaoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ