先生、生徒

aoiaoi

第1話

「天宮先生。この問題、家でもずっと考えてたんです……結局解けなくて」

「あんまり一つの問題にこだわりすぎると、大事な時間が無駄になるぞ。解けない問題は、適当なところで保留にするのも必要だ」

「うーん……気になっちゃうんですよね。気持ち悪いというか」


 とある個人指導塾の火曜、午後7時半。

 授業開始前の休み時間から、たちばな 美結みゆは講師の天宮あまみや 悠斗ゆうとに自分の数学ノートを突きつけ、質問責めにする。


 今は1月。美結は高2だ。もう間もなく3年生である。

 大学の工学部への進学を目指している美結にとって、苦手な数学は大きなネックになっている。しかし、高2の春に講師として入ってきた天宮の指導により、成績は順調に上がってきていた。


「負けん気が強いよな、橘は」

 悠斗は、そんな美結の様子を見てくすっと笑う。


 悠斗は、都内の私立大学薬学部1年だ。大学進学と同時に、理系の科目を担当する講師のアルバイト募集に応募し、採用となった。

 きめ細かく分かりやすい指導は生徒たちからも人気で、多くの生徒が悠斗の力で成績を伸ばしていた。


 ただ、悠斗の担当で高3になる生徒は美結だけだ。まだ講師経験も浅く、あまり多くの受験生を持つこともできない。そのため、来年度一年間は美結の大学受験を全力でサポートするつもりだった。


「先生、また教室の隅で中学の女の子たちが集まってきゃあきゃあ言ってますよ。なんか声かけてあげたらどうですか?」

「……それは俺の仕事の範疇外だろ」

「だって、アイドルが先生になったみたいって。すごい人気ですよ?笑顔は0円なんだし」

「そういうのは苦手なんだ。申し訳ないけど」

「……じゃ仕方ないか」

 そう言って、美結は悠斗の顔をちょっと覗くように微笑む。



 授業開始だ。美結は、女子の中では高めのすらりとした身長を屈めて席に着き、肩を越えて伸びた黒く艶やかな髪を耳にかけた。

 数学の参考書に向かうと、いつもより一層引き締まった凛々しい顔になる。

 中学時代は剣道部のエースだったという。その佇まいは、こういう場所でも漂うんだな……そんなことを悠斗は思う。


 1コマあたり3~4人の担当生徒のブースを回り、学習の進捗を順々にチェックする。その生徒ごとの能力や問題点に向き合うことができるのが、個人指導塾のメリットだ。

 ただ、これから山場を迎える美結の学習の指導には、つい熱が入る。先ほど美結が解けずに抱えていた入試問題に、悠斗も机の横について一緒に取り組む。



「ここで、どうしてもわからなくなるんです」

「……参考書のこのページに、ヒントがある。一見難解だが、この基本的な解き方を応用していけば……

 ここ、重要だ。マーカー貸してくれ」

 問題に夢中になり、思わず美結の手元のマーカーへ手を伸ばす。

 悠斗の言葉に反応して、美結もマーカーを取ろうとした。


 その瞬間——美結の手が、悠斗の手の甲に重なった。


「あ———ごめ……」



 白く柔らかな感触が、不意に強く自分の手に触れた。

 気づけば、自分の指は美結の胸元すれすれまで伸びている。

 悠斗の手に触れた美結が、一瞬ビクッとしたようにその手を引っ込めた。


 その拍子に、艶やかな髪が肩から崩れ、悠斗の指にサラサラとかかる。


 そこから起こる甘い香りが、一瞬悠斗を強く引き寄せた。



「———」

 現実に引き戻されたように、悠斗は机から素早く身を引いた。


 鼓動が、自分の中で激しく鳴り響く。



 今まで意識しなかった、教え子から漂う異性の匂い。

 それを、思わず間近で吸い込んだ自分がいた。



 確かに、美結は美しい。まっすぐで前向きな意欲を持つ、魅力的な女子生徒だ。

それでも……これまでは、彼女はあくまで自分の生徒の一人だった。


 ——そう思おうとしていた。



 失敗した。


 気づいてしまえば——それは強烈に甘く、止めようもなく悠斗の心臓を高鳴らせる。



 美結は、美しい頰を真っ赤にして俯いている。

 自分の両手を胸元に引き寄せ……その周囲に長い髪が落ち、影を作っている。



 ——彼女も、俺と同じだ。



 散らばった自分自身の思考を必死にまとめつつ、悠斗はそんなことを感じ取っていた。




            ✳︎




 悠斗の懸念通り、その日以降、数学の授業はこれまでと一変して気まずいものになった。


 これまでのように美結に近付こうとすると、あの時の手や髪の感触と甘い香りが蘇り、にわかに鼓動が早まる。


 ……彼女は、自分の生徒だぞ?

 ——そう思えば思うほど、言動は不自然になった。

 思うように、口から言葉が出てこない。


 美結も、固く緊張したように、必要最低限の言葉を小さく呟くばかりだ。



 ——目の前の数学だけに意識を注ぐことが、できなくなった。

 俺も、彼女も。



「——ありがとうございました」

 授業時間を終え、俯きながら教室を出て行く美結の背を、悠斗は息の詰まるような思いで見つめた。




 ——だめだ。

 今、これではだめなのに。



 講師と生徒。

 だが、男と女だ。



 気持ちが通い合うことに、制限や壁などを作ることは決してできない。


 なのに——

「先生」と「生徒」という壁は、こうしてある日突然目の前に現れる。




「——いつもそうだ」


 悠斗は、帰り道の冷えた夜空を仰ぎ、そう呟いた。




            ✳︎




 悠斗が高校2年の頃。

 週に1度、家庭教師が英語を教えに来ていた。


 その時大学2年だった彼女は、優秀で、美しい人だった。

 授業のわかりやすさと同時に、悠斗はその美しさと温かい人柄に、純粋に惹かれていった。


 高校2年の男子に、していい恋としてはいけない恋の区別など、わからない。 ——分かったとしても、一体それが何なのだろう。

 その思いをコントロールなどできるわけもない。


 そのことを、やがて彼女も感じ取った。

 英語の話ばかりで終わりたくない自分を、悠斗自身、どうすることもできなかった。



 そして——

 悠斗の思いが少しずつ、ますます高まる頃に……彼女はふつと来なくなった。

 何も言わずに。


「先生、もう来られなくなってしまったようなの。急な事情で、どうしても都合がつかなくなってしまったって、連絡があったわ——残念ね。

 あなたの英語の成績も上がってきていたし、とても優秀な先生だったのに」


 母親は、ため息交じりに悠斗に呟いた。

 

 母の前では、黙ってそれを聞いていたが——悠斗の中には、複雑な思いが入り混じって溢れた。



 恋とも憧れともつかない、その想い。

 それをどこかへ流し去るかのように、突然自分の前から消えてしまった彼女。


 卑怯だ——逃げるように、一方的にいなくなるなんて。

 何の言葉も残してくれないなんて。

 俺がどう思おうが、どんなに嘆こうが——彼女には、どうでもいいことだったのだろうか?


 彼女に会いたい。

 身を切られるように、辛い時間が続いた。



 だが——

 だからこそ、自分は大学受験を乗り越えられたのかもしれない。

 高校を卒業し、振り返れば、どこかでそんな気もしていた。



 あのままでは、自分の心は、勉強へは向かなくなっていっただろう。

 大きくなる彼女への思いで、何も見えなくなっていたかもしれない。




 ——彼女は、家庭教師を続けることで俺に与える悪影響を、本気で考えてくれたのかもしれない。

 そして……教師として、そうする以外になかったのかもしれない。



 今、同じような立場に立ってみて、改めて悠斗はそう感じた。




 美結が、今一番大切なことを見失わないためには——

 俺は、これまでのように彼女の目の前にいてはいけない。




 けれど……

 あの時の家庭教師と同じように、俺が突然いなくなったら……

 美結はどうなるだろう。


 支えを失う彼女を、黙って見ているのか?

 ——見捨てるのか?




 自分の部屋のベッドへ仰向けに倒れたまま、悠斗はそればかりを考え続けた。




    



 それから一週間後。

 悠斗は、生徒達の来る前の早い時間に教室へ向かった。

 手には、一冊のノートの入った袋を提げている。



 3月の下旬。空は、これからやってくる明るい季節の準備をするように、暖かな色に変わりつつある。



「お疲れ様です」

「あら、天宮先生。どうしたんですか?こんな早い時間に」

 室長の清水が、忙しない顔でデスクから顔を上げた。


 清水は、塾長としてのキャリアの長いベテランだ。子育ても落ち着いた年齢の、人格的にも豊かで信頼できる女性である。そのふくよかな体つきに、おおらかな暖かさが漂う。


「清水先生。お忙しい時に、済みません。

 ——実は、ちょっとご相談があって……」


「……あら。あなたみたいに優秀な先生から、そんな真面目な顔で相談なんて。ちょっと緊張するわね」

 清水は、そんなふうに柔らかく答えて微笑む。



 悠斗は、壁際にある丸椅子を一つ運ぶと、清水の向かい側へ座った。





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