逆神

左安倍虎

逆神

 神無月さんが交通事故で亡くなったよ、と昼休みにクラスメイトから聞かされたその時、私は心臓が口から飛び出そうになった。


 いつもいつも、こんな風に現実は私の言葉の逆を行く。

 小学生の頃、お爺さんいつまでも長生きしてね──と誕生日に肩叩き券をプレゼントした翌日に祖父が急逝したり、一生友達でいようと約束した親友が転校してしまったり、成績も良く大学合格は間違いない、と断言した兄が浪人を繰り返したり……ということが、偶然とは思えない頻度で起きていた。両親は私を腫れ物に触るように扱い、学校でも多くのクラスメイトが私を化物と罵った。この呪わしい性質が、成長した後も私を容易に人を近づけない、孤独癖のある人間にしてしまったことは否めない。


 神無月芽衣は、私にとって唯一友達と言える存在だった。

 大学の人文学部で同じクラスである彼女とはいつも一緒に行動していたが、私が彼女をそばに置いていたのは、読書や映画の趣味が合うからということもあるが、第一に彼女が口数が少なく、それでいて気遣いのできる子だったという点にある。あまり言葉を交わさなくても良いからには、うっかり変なことを言って彼女を不幸に巻き込まずに済むだろう、と私は判断したのだ。


 そして、彼女もまた私同様人付き合いを苦手としているということも、少なからぬ安心感をもたらした。大学生活も二年目の夏に差し掛かろうというのに浮いた話ひとつない私でも、彼女になら劣等感を感じずに済んだのだ。華やいだ子が多く、すでに皆が売約済みの札を張られているクラスの人間関係の中にあって、芽衣だけが唯一独り身の孤独を共有できる仲間だったのだ。


──芽衣はきっと長生きするよ。芽衣はいい子だから、きっといい旦那さんに恵まれて、子供もたくさんできて、大勢の孫に囲まれて幸せな余生を送れるって。


 クラスの飲み会の席で、酔いが回ったせいか自分には一生恋人なんてできないんじゃないか、と低く呟いた彼女を、私はそう言って励ましたものだった。

 それは本心からの言葉だった。地味で冴えないけれど、人格に温かみがあり、時に包み込むような笑顔をみせてくれる彼女に幸せが訪れなければ、この世には神も仏もいないと考えなければいけない。


 でもそんな私の淡い期待は、見事に裏切られた。

 思えば、昔からいつもそうだった。

 私の口にする言葉は、いつだって真逆の現実を引き寄せ、傍にいる人を不幸にしてしまう。

 大学生活も二年目に入り、芽衣という親友も得て自分のこの忌まわしい性質を忘れかけていたのだが、彼女の死で私は自分が何も変わっていなかったことを思い知らされた。


 今までも自分の影響力を恐れて言葉少なになっていた私だったが、今回の事故は本当に心に堪えた。

 なぜ、現実はこんなにもままならないのだろう?

 泥の塊を飲み込んだような不快な感覚に胸を覆い尽くされ、その日の午後の授業はすべて私の耳を素通りしていった。


「佐久間さん、大丈夫?神無月さんのこと、本当に大変だったね」


 芽衣の訃報を聞いた翌日、学食で一人ランチに箸を付けようとしていた私の顔を、峯岸涼子が覗き込んできた。

 柑橘系の良い香りが鼻孔に忍び込んでくる。

 その香りにふさわしく端正な美貌の持ち主である彼女は、その恵まれた容姿を生かして学生モデルや人気ユーチューバーもこなす学内きっての有名人だ。それでいて、こうして私のようなさほど親しくない人物にも気さくに声をかけてくれるほど細やかな気配りをする人物でもあるのだ。

 もっとも、私はこれは自分をよく見せたいがための行動だと睨んでいる。その証拠に、彼女の隣にはすらりと背の高い、甘い顔立ちの男が佇んでいた。


「まさか、彼女があんなことになるなんて……酒飲んで車に乗る奴って、最低だよ」


 榎本和樹は拳を固め、芽衣を撥ねた相手を怒ってみせた。彼は人文学部二年では女子から一番人気の学生だ。学年一の美貌を持ち、学年一の人気者を恋人に持つ身とあっては、彼女も嫉妬で身を滅ぼさないためにこうして気配りをして回らなければいけないのだろう、と私は他人事ながら峯岸涼子の心中に思いを馳せた。


「佐久間さん、彼女には長生きして欲しいって願ってたのにね」


 彼女は涙で声を詰まらせた。どうやらあの飲み会の席での会話を聞いていたらしい。彼女レベルの人気者ともなると、その人気を維持していくためには私のような日陰者の心も掴まなければいけないと思っているのだろうか。


「ああ、私のことなら心配いらないから。ありがとう」


 私は手短に応対すると、黙々と目の前の和風ハンバーグを口に運び始めた。これ以上貴方達の相手をする気はない、という私の心中を敏感に察したのか、この学内では誰もが羨むカップルは軽く一礼すると私の前を去った。


(……別に、あの人達の悔やみなんていらないのに)


 何となく腹が立っていた。芽衣の死まで利用して、自分を良く見せたいのか。彼女をそんな風に利用するくらいなら、私のことなんて放っておいて欲しかった。どうせ私のような人間と峯岸涼子の世界が交わることなんてないのだから──という私の浅はかな予測は、しかし程なく裏切られることになった。


「ねえ、佐久間さんって小説が好きなんでしょ?」


 週が開け、重くふさぎ込んだ気分も幾分か和らいだ2限の歴史地理学の授業の後、峯岸涼子はそう声をかけてきた。


「好き、といえば好き……ではあるのかな」


 私は口ごもった。並の人間よりも読書量が多いという自負はある。でも自慢できるほど多いわけでもなく、自分で作品を書いたことは一度もない。


「私、今自分のユーチューブチャンネルでウェブ作家を目指す、って企画を始めたんだけど、誰かアドバイスしてくれる人が欲しくて。佐久間さんなら読書家だし、きっと良い助言をしてくれるんじゃないかと思ってるんだけど、迷惑かな?」


 峯岸涼子は小首を傾げた。こういう仕草がなんとも小憎らしいほどに可愛らしい。この動作の前に榎本和樹も陥落したのだろうか、などと愚にもつかない事を考えているうちに、彼女の口調が哀願調に変わった。


「ね、お願い!こういうこと、佐久間さん以外に頼める人がいないの」


 私だってそう言われれば悪い気はしない。でもここは冷静に考えてみるべきだ。

 モデルになれるほどの美貌を持ち、誰もが羨む恋人と付き合っていて、ユーチューバーとして人気を博していて……そんな彼女をさらに人気者にするために、この私が協力するというのか?


 芽衣がこの場にいたら何と言うだろう。彼女は峯岸涼子が持っているものを何一つ得ることができないまま逝ってしまったのに。すでに天から二物も三物も与えられている峯岸涼子をもっと幸せにするなんて、いくらなんでも不公平すぎやしないか?芽衣は私の言葉とは逆に、幸せになることなんてできなかったのに──


 そこまで考えて、私の頭の中を閃光が貫いた。

 そうだ、ここまで世の中が不公平なら、私の言葉で世界を公平に導けばいいじゃないか。これは願ってもないチャンスだ。自分の力で世界を変える千載一遇の機会が、今私の目の前に訪れているんじゃないか……?私には現実を自分の言葉とは逆に導くことができるのだから。


「うん、わかった。頼りになるかどうかわからないけど、精一杯アドバイスさせてもらうね」


 快諾した私を前に、峯岸涼子は歓喜でその目を大きく見開いた。感激のあまり私の手を握ってくるほっそりとした白い指に、私は心中で溜息をつく。彼女は私が持っていないものを何もかも持っているのだ。でも、私はこれから彼女が持っているものを奪う側になるのだ──というくらい喜びに胸が満たされ、口角が上がっていくのを抑えることができなかった。



 峯岸涼子の小説の弱点は、一読すれば明らかだった。文章力は並以上で、それなりに語彙も豊富だ。でもキャラクターが弱く、ストーリーにもあまり起伏がない。地の文が長すぎて冗長に過ぎ、読者を退屈させるのもマイナスだ。しかしそれをそのままに伝えるつもりはない。私はこの世界を公平に導くのだ。彼女の側に傾きすぎている幸福の天秤を、中央に戻さなければならない。


「峯岸さんの作品の一番の魅力は文章だと思う。まるで光景が目の前に浮かんでくるみたい。だから地の文をもっと長くしたほうが読者も喜ぶんじゃないかな。ただ、文章が良いのにちょっとキャラがコミカル過ぎて浮いて見えるから、そこはもう少し抑えたほうが小説全体のトーンが統一されていい感じになると思うよ」


 カケヨムの下書き共有機能で小説を見せてくれた峯岸涼子に、私はそう伝えた。心にもない言葉だった。しかし彼女はよほど純真なのか、私のアドバイスを忠実に実行してくれた。


 やがて峯岸涼子が公開した小説には☆が集まり始めた。星を入れているのは、大多数が彼女の取り巻きだ。峯岸涼子がユーチューブで小説を公開しますと宣言したため、ファンが大挙してアカウントを取り、わざわざ星を入れるためだけにやってきているのだ。


(馬鹿じゃないのか)


 私は心の中で吐き捨てた。カケヨムでの公開から3日も経たないうちに、すでに彼女の小説『心の声が聞きたくて』は150個以上もの星を集めていた。星を入れているのは大半が彼女のファンだ。これではただの人気投票じゃないか。この作品についている星はあくまで峯岸涼子という人物に対する評価であって、作品への評価ではない。少なくとも私にはそうとしか思えなかった。何しろ彼女は私のアドバイス通り、自作の欠点を伸ばし、長所を殺す作品を仕上げてきたのだから。


 しかし、私にはこの状況はむしろ好ましいものに思えた。

 峯岸涼子が自作にたくさん星がついたことを自分の実力と勘違いし、調子に乗れば、彼女の小説はますます間違った方向へと向かうだろう。私は彼女の自負心を煽り、さらに増長させるべきだ。ファンだっていつまでも未熟な小説に星を入れ続けたりはしないだろう。いずれ峯岸涼子の作品は見向きもされなくなる。天狗の鼻が伸び切ったところで叩き折ってやればいい──それが、この時の私の偽らざる願いだった。


「大丈夫、すごくよく書けてる。これなら峯岸さんは絶対に作家になれる」

 

 私はそう彼女に告げた。それは彼女への破滅の宣告のつもりだった。私がこう言ったからには、峯岸涼子の作品はもう二度と日の目を見ることなどない。私は心からそう信じた。


 だが、事態は私の願う方向へは進まなかった。

 峯岸涼子は私のアドバイス通りに地の文を研ぎ澄ませ、多くの読書を積み重ねて語彙力を増やし、その描写力は並み居る現代文学の担い手をも凌駕するほどに高くなった。その文章は人物を書けばその息遣いが間近に聞こえるほどに真に迫っており、花鳥風月を書けば風景が鮮やかに瞼の裏に浮かぶほどに精緻な描写力をそなえ、彼女の転落を願っていた私ですら時を忘れて読み耽ってしまうほどの高みに到達していた。


 そして、彼女の弱点と思えたキャラクターの弱さも、この豊穣な文章の中においてはかえって小説の喉越しの良さを補強する材料となった。登場人物に際立った個性がないことが寧ろ作品のリアリティを増しており、テンポの良い会話運びにも彼女の育ちの良さや鋭い観察力が顔を出していた。峯岸涼子は、私の予想を遥かに上回る逸材だった。


「これ、まだ誰にも話してないことなんだけど……今度S社で新しく立ち上げるバンリ文庫ってレーベルで、私の小説も出版させて欲しいって」


 涼子が目の前でワインをグラスに注ぎながら目を細める。

 執筆を初めて一年後、私はすっかり彼女と親しくなり、こうして私の部屋で酒を酌み交わすことも珍しくなくなっていた。涼子にしてみれば私は一番の恩人なのだから、作家デビューというこの上ない朗報をまず私に持ってきたのは当然のことだった。


「おめでとう、涼子。私なんかのアドバイスが役に立つとは思ってなかったけど」


 なぜ今度に限っては私の言葉が逆に働かなかったのだろう、と私は臍を噛んだ。

 結局、私は彼女の成功に手を貸してしまっただけじゃないか。彼女の転落を誰よりも強く願っていた私が、彼女を高みに押し上げてしまった。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。


「何言ってるの。恵がアドバイスしてくれなかったら、私は絶対にここまで来れなかったよ。ありがとう」


 涼子の黒目がちの潤んだ瞳で見つめられると、女の私ですら胸が高鳴る。私は胸の中に熾った火を消し止めるように、一気にワインをグラスの半分まであおった。


「ねえ、大丈夫?」


 涼子の邪気のない視線から目を逸らしつつ、私は酒気の混じった吐息を吐く。


「大丈夫なわけないでしょ」


 目の前の景色がぐらつき始めていた。酒に弱い私の理性のたがが、少しづつ外れ始めていた。


「涼子さ、私が本気でああいうアドバイスをしたって思ってる?」

「どういうこと?」


 きょとんとした表情で私を見つめる涼子に、私はさらに畳み掛ける。


「いい?本当はね、私は貴方に失敗して欲しくてああいうアドバイスをしたの。私は貴方の小説は文章が冗長で、キャラが弱いと思った。だから欠点を伸ばすようなアドバイスをしたのよ」


 それまで心の奥底に溜めていた言葉が、堰を切ったように一気に溢れ出した。しかし涼子は驚く様子もなく、軽く微笑んだだけだった。


「でも、結局私は作家デビューまでこぎつけられたんだし、やっぱり恵のおかげじゃない」

「それはただの結果論よ。貴方に才能があるから、たまたま私のアドバイスがいい方向に作用しただけ。本当は、貴方を貶めるためにやったことなの」

「ねえ恵、貴方酔ってるんじゃないの?」


 たしかに私は酔っている。しかしだからこそ忌憚のない本音を語っているのだ。


「私はね、貴方のことがずっと嫌いだった。美人で人付き合いも良くて、榎本君みたいな格好いい彼氏もいて。その上小説まで上手く書けたら、貴方はこの世の幸せを一人で独占してるようなものじゃない!そんなの、私は絶対に許せなかったのよ」


 一気にまくし立てる私を前に、涼子は黙り込んでしまった。


「貴方は知らないと思うけど、私、関わる人を言葉で不幸にしてしまうの。私と親しい人間は、私が口にしたのと逆の人生を送ることになってしまう。だから涼子の成功を願うことで、貴方が作家として失敗するように仕向けたのよ。どいういうわけかそうはならなかったけどね」

「……恵、貴方は勘違いしてる。貴方の力は、ちゃんと働いてるよ」


 涼子はゆっくりとかぶりを振った。


「私の力が働いてるって、どういうこと?」

「ねえメグ、まだ思い出さない?貴方、誰よりもだったっしょ?」


 急に訛りを混ぜ、昔の仇名を呼んだ涼子の眼差しの奥に、懐かしい光が見えた。

 急いで記憶の奥底をまさぐると、小学一年生の頃に一生友達でいよう、と約束した太った女の子の姿が立ち現れ、やがてその影が眼の前の涼子と一つに重なった。


「スズコ……だったのね」


 私は彼女の昔の仇名を呼んだ。遠い記憶の底から掘り起こした転校生は、確かに峯岸涼子という名前だった。あまりにも淡い記憶だったため、私は彼女の名前すら忘れかけていたのだ。


「ねえメグ、人の気持ちってね、。私が転校するあの日、メグは泣いてばかりいて何も言えなかったけど、そっと私の手を握ってきたあの時、私と離れたくないって気持ちは十分届いてた」


 心臓が跳ねた。たとえ言葉にしなくても、私の涼子と離れたくない、という強い思いは逆の形で実現していたのだ。私が経験してきた現実は私の言葉ではなく、思いを反映したものだったのではないか。涼子が作家になることのできた現実も全て……


「あの頃、メグは私と約束したよね?一生友達でいようって。その願いは叶わなかった。貴方の願いが本物だったから。でも


 私はもう、蛇に睨まれた蛙だ。涼子の瞳は獲物を眼前に捉えた猛禽類のように爛爛らんらんと光っている。


「私達、一生友達でいましょうね」


 涼子の柔らかな笑みが、この時だけは夜叉の獰猛さを湛えていた。私の視界がぐらぐらと揺れ、早鐘のように打つ心臓の音だけが心の中に響き──やがて私の意識は途切れた。

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