自宅の安アパートに着いたときには、時刻は二十三時を過ぎていた。

 靴を脱いだときにふらついて、身体が靴箱にぶつかった。そこへ無造作にせていた酒瓶さかびんの一つが落下して、がりかまちで派手に割れたガラスの音が、冬の静寂せいじゃくを切りいた。芙由は一瞬びくりと驚き、やがて表情を消して嘆息たんそくする。

 またやってしまった。今月は三度目だ。酒瓶の破片はへんがおはじきのように散る床を、破れたストッキングをいた足で慎重にけて前へ進むと、酒と煙草たばこと生ゴミの臭気でせ返った。五分ほどで慣れてくるが、家に帰った時はいつも、この匂いで眩暈めまいがする。さらに数歩進めば居間と台所が一体となった居住スペースに到着し、こわれてひさしいテレビの前で、煎餅布団せんべいぶとん寝転ねころぶ男のくたびれた背中が、暗闇の中に見えてきた。

 変わらない生き方を選び続けた結果が、真夜中の一室に広がっていた。昨日までは、日常だった光景だ。今日も、何も感じないはずだった。

 ただ、高校三年生の頃には、まさか長年住んだ一軒家を売り払って、この男とここで二人暮らしをするなんて、夢にも思いはしなかった。ゆがんだレールを走る列車が、こんな終着駅を目指していると予見よけんできたら、十八歳の芙由はどんな行動を起こしただろう?

 決まっていた。何もしない。芙由という人間は、搾取さくしゅされて、浪費ろうひされて、中身が空っぽになるまで吸い尽くされて、出涸でがらしになって死ぬ瞬間まで、誰かのなぐさみ者なのだ。己の個性くらい知っている。この世の善悪ぜんあく清濁せいだくも知らないまま、われるままに初めて罪をおかした日も、何も感じはしなかった。そんな芙由のいびつさは、家族の誰もが知っている。高校生活最後の弁当を作ってくれた母だって、その弁当箱を芙由の顔に投げつけながら、半狂乱で叫んでいた。人でなし。死ね。あんたなんて産まなければよかった。そのまま大きなスーツケースと泣きじゃくる弟を引きって、母は家を出ていった。あれから、一度も会っていない。当時小学生だった弟にはいつか会いたいと思っていたが、今となっては家族を名乗ることさえ烏滸おこがましく、罪深いことだと分かっていた。

 腕が、微かにふるえ出した。恐怖による震えだった。恐れが心に芽生えたことが、己の変化の象徴しょうちょうだった。――今までの芙由は、やはり異常だったのだ。

「芙由、遅かったなぁ」

 だみ声が聞こえて、異臭が強くなった。また酒におぼれていたのだろうか。えた退廃たいはいの匂いが充満する部屋で、むくりと起き上がったせた男は、芙由を振り向いてニヤリとした。黄ばんだ歯列がき出しになり、白髪しらが交じりの髪が揺れる。

 芙由は「ただいま」と短く言った。そして、男の次の台詞せりふをいつものパターンから推測して、無為むい思索しさく見切みきりをつける。芙由はもう、覚悟を決めているからだ。

 男は、芙由をちらちらと意識していたが、ごろりと布団に寝そべると、再びこちらに背を向けた。芙由は男に近づきながら、台所の戸棚の隣を通過する。

 そして――戸棚を開けると、包丁をすらりと流れるように引き抜いて、バッグの陰にひそませた。

 こうすることは、今日決めた。小静と別れたときから決めていた。なぜなら芙由は思うからだ。この部屋はくさっている。ここは諦観ていかんと絶望をぐちゃぐちゃに混ぜた負の坩堝るつぼで、どんな命も休まらない。居つけば居つくほどに、一緒に腐敗ふはいするだけだ。こんな居場所を借りた自分も、いつしか腐り果てていた。

 そんな現実には、気づきたくなかった。居場所を借りるということは、それに見合うだけの対価がる。間借まがりとはそういうものだと、割り切っていた自分がいた。割り切れるわけがなかったのだ。誰にだって分かることだ。感情なんてらなかった。そんないたみやすい果実のようなものが存在するから、き出しの心が傷ついてしまう。痛みをつかさどる感覚さえ完全に捨てることができたなら、何不自由なく生きていける。

 現に、芙由はそうしてきた。学校や職場でどれほどけむたがられても、周りに配慮はいりょして自分を殺して、時には存在ごと消してみせて、なんとか呼吸を繋いできた。みにくく不器用なていたらくでも、芙由は芙由なりに物狂ものぐるいで生きてきた。

 それなのに、芙由は思い出してしまった。

 清野小静と、再び出逢であってしまったから。

 芙由が捨てきれなかった傷だらけの心に、信仰しんこうという支えを芽吹かせて、日陰で健気に育って枝分かれしたくきを、おのれの迷いもろとも断ち切るように手折たおった小静が、打ちひしがれる芙由に示したのだ。人は、変われるという希望を。りんと前を向いた姿勢は、痛々しいほどに清く正しく美しく、芙由の腐敗を照らし出した。

 ついにあばかれた闇の中に、己の姿を芙由は見る。そして、激しく絶望した。

 芙由には、もう無理だ。小静のように、変わることは。

 芙由は、あまりに汚れすぎた。何に対しても受け身の道を選び続けて、善悪ぜんあく清濁せいだくを知ってからも、摩耗まもうした精神で己の価値を消費して、こんなにも腐敗が進んだ部屋で、腐敗が進んだ男と寝て、翌日には何食わぬ顔で出社して、社会の中に紛れ込んで――なけなしの正気をなげうった声を張って、生まれたときからにじられていた尊厳そんげん産声うぶごえを上げるように、滅茶苦茶めちゃくちゃわめらしたくなった。

 なんて、グロテスクな女なのだ。どうして、自分は生きているのだ。知っていたのだ。あのときから。感情を知ればこうなると。卒業式の日の小静の問いが、頭の中でリフレインする。自分の感情なんて、世界で一番分からない。芙由は何も言えなかった。今なら、はっきり答えられる。

 そんなものは、知らなくていい。これからも永遠に、知らなくていいのだ。

 人間は、自分の感情なんて知ってはいけない。

 そんなものを、知ってしまったら――もう、人でなしになるしかない。

 ここでいつもの道を選んで、目の前の布団ふとんで夜を明かせば、やがて朝日がのぼる頃に、芙由はまた出社する。無味乾燥むみかんそうで、明らかにいびつで、腐蝕ふしょくの進んだ毎日が、明日もまた続いていく。死ぬまで永遠に続いていく。気がくるいそうだった。いな、もう狂っている。早く死にたい。今すぐ死のう。孤独な高校三年生の春に、女子トイレ前で知った衝動しょうどうは、まぎれもなく芙由の本心であり、今も魂をかけて思うのだ。芙由はもう、一秒だってえられない。――だが。


 一人で、死んでやるものか。


 包丁をバッグに隠しながら、芙由は一歩、一歩、歩を進める。人間として最後の歩みを、淡々と、静かに、進めていく。芙由は今日、人を辞める。背徳感はいとくかん全能感ぜんのうかんが、へびのようにからみ合い、頬の肉が痙攣けいれんし、かさかさにかわいた唇のが、微笑の顔を形作る。戻るなら、今しかない。小静の顔が、脳裏をかすめた。清らかな思い出に背中を押された気分になって、芙由はさらに歩を進めた。

 ――ありがとう。心の中で、小静に礼を言った。芙由も、小静がうらやましかった。

 そして、四度目の後悔をした。

 芙由が出したこの答えを、小静に伝えられなかった。

「芙由?」

 バッグが、布団ふとんに落下する。

 その音に、驚いた男が――芙由の父親が、寝返りを打って振り返った。

 間の抜けたニヤけ顔が、慄然りつぜんと白くなる。

「さよなら」

 芙由は、包丁を天高てんたかかかげると、躊躇ためらうことなく、振り下ろした。


<了>

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人でなしの終着駅 一初ゆずこ @yuzuko

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