5
高校の卒業式の日の放課後に、めいめいが記念撮影ではしゃいでいる教室を出た芙由は、校舎をふらふらと歩いた。
早々に帰るつもりでいたが、セーラー服を着るのは今日が最後で、すなわちこの居場所を借りられるのは今日までだ。机と椅子が整然と並んだ教室も、この春で
人影の
廊下を突き当りまでのんびり歩き、階段を振り
「……卒業、おめでとう」
無人の階段から芙由を見下ろして、
「ありがとう。清野さんも……おめでとう」
芙由も、他人行儀な
「
「え?」
「ほっぺた、
「ああ……それは」
芙由は、己の頬に手で触れる。冬休みが明けた頃に、しばらくのあいだ貼っていた。
恥じらいながら俯くと、窓から桜の花びらを乗せた風が吹き抜けた。門出の日とは思えないほど、きんと冷えた風だった。電気も
「玉岡さんは、大学に進学するの?」
「うん。県内の……」
小静の言葉に、芙由はたどたどしく近場の大学の名前を口にした。「そう」と答えた小静は、くっと顔を上げて窓を見た。空の青色を映す瞳に、
「私も県内だけど、短期大学」
「短期?」
芙由は、目を見開いた。芙由の周囲の大半が、四年制の大学に進学する。小静のような進路を選ぶ者は、少しばかり珍しかった。
「うん。早く就職しようと思ったから」
「そっか……偉いね」
「偉いのかな。どうだろう。よく分からない」
「分からない? ……どうして?」
「さあ」
拙く訊ねた芙由へ、小静は遠い目をして、呟いた。
「自分の感情のことなんて、世界で一番分からない。……いつか、あなたが教えてくれる?」
圧倒された芙由は、答えられなかった。小静との出逢いから今までの記憶、そしてまだ見ぬ未来の光景が、閃光のように
明確に、
「……さよなら。また、会えたらいいね」
小静は淡い笑みを浮かべると、
不思議と、悲しさはなかった。別れの
今日のことを、芙由は永遠に忘れない。この充足感と風の匂いと、小静が残してくれた温もりを魂に刻んでいれば、何も変わらないまま生きていける。
「うん……また、会えたらいいね」
一人きりになった芙由は、もう小静には届かない返事を、それでも紡いで唇に乗せた。
*
電車のアナウンスが次に告げた駅名に、小静が反応した。
「私、次で降りる」
「……清野さんは、これからどうするの?」
芙由は、顔を上げて小静に訊いた。泣き出しそうな顔を見られたくなかったが、しっかりと小静の顔を見なければ、一生の後悔になることは分かっていた。
「まだ、ちゃんと決めてない。でも、少し休むつもり。両親からも、そうしたほうがいいって言ってもらえたから。ちょっとだけ甘えようと思ってる」
言葉を切った小静は、もう一度「でも」と言って、車窓に映るビル群の光に目を向けた。
「休んでから、また働く。どこかでもう一度、頑張ってみる」
「……そっか」
芙由は、うっすらとだが笑みを作れた。小静は、本当に強い人だったのだ。
「玉岡さん、ごめんなさい。結局、私の話ばかりになってしまって」
「いいの。清野さんの話を聞けて、私も安心できたから……」
「そう? ……ねえ、玉岡さん」
「何?」
「また、会えたらいいね」
芙由は、息を
電車が速度を徐々に落とし、車内アナウンスがまた流れる。何人かの乗客が、身じろぎした。小静と同様に、次の駅で降りるのだ。ホームに電車が
「うん……また、会えたらいいね」
小静が、ほっと息をつくのが分かった。表情も、穏やかな微笑に戻っていく。
「それじゃあ、玉岡さん。おやすみなさい」
「おやすみなさい、清野さん」
小静がシートを立つと、ちょうど扉が開いた。電車を降りていく小静を、芙由は手を振って送り出した。芙由の青春の思い出と、信仰の名残の
最後に見る小静の顔は、笑顔であればよかったのに。そんな
――会社を辞める小静は、この時間にこの電車を、当分は利用しないだろう。
今日ここで出会えたのは、本当に運命だったのだ。
一人きりになった芙由は、ストッキングに走った二本の伝線を見下ろして、考える。小静が示した
そして、答えは、すぐに出た。
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