高校の卒業式の日の放課後に、めいめいが記念撮影ではしゃいでいる教室を出た芙由は、校舎をふらふらと歩いた。

 早々に帰るつもりでいたが、セーラー服を着るのは今日が最後で、すなわちこの居場所を借りられるのは今日までだ。机と椅子が整然と並んだ教室も、この春で見納みおさめになる。ついに友達はできなかったが、漠然ばくぜんとした感傷かんしょうに引きめられて、なんとなく居残っていた。

 人影のまばらな廊下を一人で歩いていると、いつかの女子トイレ前を通り過ぎて、懐かしさが胸にきざした。脂汗あぶらあせを流しながらここに立ったあの日の芙由は、ひど形相ぎょうそうだっただろう。かわいた感慨かんがいと共に一瞥いちべつして、芙由は再び歩を進める。

 廊下を突き当りまでのんびり歩き、階段を振りあおいだときだった。窓を背にして立つ人物と目が合ったから、息をんだ。

 清野小静きよのこしずが、階段の踊り場に立っていた。

「……卒業、おめでとう」

 無人の階段から芙由を見下ろして、寡黙かもくな少女が口を開いた。初めて芙由に向けられた声は、その名の通りに小さく静かで、それでいて静寂に穏やかなエコーを与えた。

「ありがとう。清野さんも……おめでとう」

 芙由も、他人行儀な祝辞しゅくじを述べた。掠れた声は震えていて、夢を見ているのではないかと何度も思った。逆光ぎゃっこうで表情を隠した小静は、出し抜けに言った。

怪我けが、治ったんだね」

「え?」

「ほっぺた、絆創膏ばんそうこうっていたから」

「ああ……それは」

 芙由は、己の頬に手で触れる。冬休みが明けた頃に、しばらくのあいだ貼っていた。あざを隠していただけだが、些細ささいな怪我を小静が覚えていたとは意外だった。

 恥じらいながら俯くと、窓から桜の花びらを乗せた風が吹き抜けた。門出の日とは思えないほど、きんと冷えた風だった。電気もいていない午前の廊下を、日差しのスポットライトが照らしていて、ちらちらと舞い散るほこりを、光の雪に変えていた。階段の踊り場に立つ小静は、地上に舞い降りた天使のように神々こうごうしく、誰より美しく感じられた。まるで、出逢であいのあの日のように。

「玉岡さんは、大学に進学するの?」

「うん。県内の……」

 小静の言葉に、芙由はたどたどしく近場の大学の名前を口にした。「そう」と答えた小静は、くっと顔を上げて窓を見た。空の青色を映す瞳に、んだ光がまたたいた。

「私も県内だけど、短期大学」

「短期?」

 芙由は、目を見開いた。芙由の周囲の大半が、四年制の大学に進学する。小静のような進路を選ぶ者は、少しばかり珍しかった。

「うん。早く就職しようと思ったから」

「そっか……偉いね」

「偉いのかな。どうだろう。よく分からない」

「分からない? ……どうして?」

「さあ」

 拙く訊ねた芙由へ、小静は遠い目をして、呟いた。

「自分の感情のことなんて、世界で一番分からない。……いつか、あなたが教えてくれる?」

 圧倒された芙由は、答えられなかった。小静との出逢いから今までの記憶、そしてまだ見ぬ未来の光景が、閃光のように脳裏のうりめぐった気がして、白くはじけて眩暈めまいがした。ここで気持ちをふるい立たせて手を伸ばせば、何かを捕まえられる気がしたのに、それを実行に移すには、芙由には多くのものが足りなかった。勇気も、言葉も、それらを支えるに足る感情も、何より心が欠けていた。

 明確に、さとった。芙由は、魂に欠陥けっかんかかえている。心に堅牢けんろうかぎを掛けて、自己も世界も拒絶している。だから芙由は、小静に何も教えられない。芙由自身も、答えをまだ知らないからだ。芙由が今の芙由のままでいるなら、小静の言った「いつか」は永遠に来ないのだ。

「……さよなら。また、会えたらいいね」

 小静は淡い笑みを浮かべると、きびすを返した。二つに結った黒髪をさらりと揺らして、楚々そそと歩き去っていく。すぐに姿は見えなくなった。

 不思議と、悲しさはなかった。別れの挨拶あいさつをしそびれたことを少しくやしく思うくらいで、日だまりのような温かさが、芙由の胸を満たしていた。

 今日のことを、芙由は永遠に忘れない。この充足感と風の匂いと、小静が残してくれた温もりを魂に刻んでいれば、何も変わらないまま生きていける。

「うん……また、会えたらいいね」

 一人きりになった芙由は、もう小静には届かない返事を、それでも紡いで唇に乗せた。


     *


 電車のアナウンスが次に告げた駅名に、小静が反応した。

「私、次で降りる」

「……清野さんは、これからどうするの?」

 芙由は、顔を上げて小静に訊いた。泣き出しそうな顔を見られたくなかったが、しっかりと小静の顔を見なければ、一生の後悔になることは分かっていた。

「まだ、ちゃんと決めてない。でも、少し休むつもり。両親からも、そうしたほうがいいって言ってもらえたから。ちょっとだけ甘えようと思ってる」

 言葉を切った小静は、もう一度「でも」と言って、車窓に映るビル群の光に目を向けた。

「休んでから、また働く。どこかでもう一度、頑張ってみる」

「……そっか」

 芙由は、うっすらとだが笑みを作れた。小静は、本当に強い人だったのだ。

「玉岡さん、ごめんなさい。結局、私の話ばかりになってしまって」

「いいの。清野さんの話を聞けて、私も安心できたから……」

「そう? ……ねえ、玉岡さん」

「何?」

「また、会えたらいいね」

 芙由は、息をまらせた。

 電車が速度を徐々に落とし、車内アナウンスがまた流れる。何人かの乗客が、身じろぎした。小静と同様に、次の駅で降りるのだ。ホームに電車がすべり込む直前まで、芙由は口を利けなかった。小静の表情が、不安そうなものに変わっていく。感情の揺らぎの変遷へんせんを見届けた芙由は、覚悟を決めて、引きしぼった弓から矢を放つように、後戻りできない気持ちを胸の奥深くに押し込んで、笑った。

「うん……また、会えたらいいね」

 小静が、ほっと息をつくのが分かった。表情も、穏やかな微笑に戻っていく。

「それじゃあ、玉岡さん。おやすみなさい」

「おやすみなさい、清野さん」

 小静がシートを立つと、ちょうど扉が開いた。電車を降りていく小静を、芙由は手を振って送り出した。芙由の青春の思い出と、信仰の名残のきらめきをホームに残して、電車が緩やかに走り出す。立ち止まったままの小静は、車窓越しゃそうごしに芙由を見送ってくれた。なんだか悲しげな顔に見えたから、芙由は一抹いちまつの寂しさを覚えた。

 最後に見る小静の顔は、笑顔であればよかったのに。そんな未練みれんを感じたが、人生の岐路きろに立たされた自覚が、ままな望みと決別けつべつさせてくれた。

 ――会社を辞める小静は、この時間にこの電車を、当分は利用しないだろう。

 今日ここで出会えたのは、本当に運命だったのだ。

 一人きりになった芙由は、ストッキングに走った二本の伝線を見下ろして、考える。小静が示した二又ふたまたに分かれた道の手前で、芙由はどちらへ行くべきか、考える。

 そして、答えは、すぐに出た。

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