小静こしずの存在が芙由ふゆの中で大きくなった運命の日から、芙由の高校生活に変化が生まれた。相変わらず友達はできなかったが、登校に付随ふずいする緊張や苦痛が薄れたのだ。

 孤独と折り合いをつけた春も、教室で本を読むのが日常になった夏も、文化祭の準備で雑用を割り振られた秋も、受験に向けて皆が机にかじりつくようになった冬も、季節は単調に過ぎていった。孤独だがいじめにうこともなく、芙由は現状を今度こそ受け入れた。環境の変化で揺れた心があるべき場所に収まって、今までのように学校と家の往復をこなす自分に、きちんと戻れた気がしていた。

 それでも、時には不意打ちの寂しさにおそわれた。不安や恐怖、それから名を与えることすら恐ろしい情念は、芙由が一人きりの瞬間を狙い澄まして膨れ上がり、何もかも投げ出したくなる衝動しょうどうを、日常から完全に消し去ることはできなかった。

 自分が自分ではなくなるような、不安の発作に襲われたときは――芙由は、風景の中からこっそりと小静の姿をさがすのだった。

 授業を受ける小静の横顔を、芙由は何度も盗み見た。空気が蒸した梅雨の朝に、乾いた夏の風に前髪を揺らして、金木犀きんもくせいの香りを感じながら、やがてこごえる寒さの中で、芙由は小静を目で追った。小静は取り立てて美人というわけではなかったが、おっとりとした面差おもざしが柔和にゅうわで、春には耳にした陰口かげぐちも、日を追うごとになくなった。難癖なんくせをつけるところがないからだ。それが芙由には我がことのように嬉しかったが、陰口がゼロになっても小静は変わらず一人だった。休み時間も、昼食を取るときも、誰とも群れずに過ごしている。

 芙由はそんな小静の行為を、奇妙だとは思わない。むしろそれこそが自然であり、世界のあるべき姿だと感じたから、声は決して掛けなかった。もし小静に話しかけてしまったら、芙由が小静に抱いた憧憬しょうけいが、全て伝わってしまう気がしたのだ。

 そんなことは、望んでいない。芙由は、ただ見ているだけでいい。

 小静と出逢うまで、芙由の世界は無人だった。学校を多くの生徒が行き交っても、誰もが透明人間であるかのように、芙由に関心を払わない。果たしてどちらが透明人間だったのだろう。それは芙由のほうかもしれなかった。生きているのか、死んでいるのか、実感が曖昧なモノクロの世界に、小静は色をともしたのだ。日差しの欠片かけらの虹色に、ひどくよく似たヒトガタの光は、俗世ぞくせあふれる不条理ふじょうりをものともせずに、清く正しく美しく、教室の廊下側に座していた。芙由にとって小静は灯台の光であり、神聖な道標みちしるべそのものとなっていた。

 誰かと一緒にいなければ、ここに居てはいけない。そんな自縄自縛じじょうじばくの強固なおきてを、小静は燦然さんぜんと取り払ってくれた。孤独でも生きていいのだと、芙由にゆるしを与えてくれた神様を崇拝すうはいしている間だけは、強張こわばっていた心がほぐれて安らいだ。

 この先に何が起こっても、高校を卒業して芙由たちの進路が分かたれても、たとえ小静と二度と会えなくなる日がやって来ても、小静だけはいつまでも変わらない。

 背筋を伸ばしたなぎの姿勢を脳裏のうりえがけば、きっと芙由はこの世界を生きていける。そう信じて疑っていなかった。


     *


「今から一年前に、上司から食事に誘われるようになったの。二人で会うのは気が引けたけど、会社の付き合いだと思って一回だけ行ったら、誘われる回数が増えて……優しい上司だったけど、その一件があってから、私は上司が怖くなった。その上司が既婚者だということを、私は最初から知っていたから……」

 小静の淡々とした打ち明け話を、芙由は愕然がくぜんと聞いていた。

 呼吸が、苦しい。胸に、圧迫感がある。小静のうなじの白さから、片時かたときも目がらせない。この柔肌やわはだに、異性の手が伸びたのだ。そう勘繰かんぐるだけで、目の前が暗くなった。

「私は、お誘いを断った。私たちの間に何もなくても、周りはそうは見ないから。でも、断りきれなくて何度か応じてしまった。それが、いけなかった。いつか、大変なことになる。分かっていたのに、私は応じた。……先月の夜、会社を出て帰ろうとする私を、一人の女性が引きとめた。年上の女性で、知らない人だったけれど、私には彼女が上司の奥さんだとすぐに分かった」

 ひざせた両の手を、爪が食い込むほど握り込んだ。これ以上は、聞きたくない。だが、神様に等しい存在の声を、芙由に拒絶できるわけがない。道標みちしるべの光を見失った迷子の芙由に、無慈悲な現実が突きつけられた。

「その人に私は、頬を思いきり叩かれた。あんなに強く叩かれたのは、生まれて初めてのことだった。親にも叩かれたことはなかったから、私は今まで大事にされていたんだって、子どもみたいに思った。上司の奥さんには、悲しいことをさせてしまった。あの人だって、他人に暴力を振るいたいわけではなかったはずで、でも、そうしないともう生きていけないくらいに、強い思いがあったことが、分かったから……私は」

 一呼吸を置いた小静は、睫毛まつげせた。

「そんな感情を、彼女の中に育ててしまった、責任を取るべきだと思う」

「だから、会社を……辞めるの? 清野さんは、悪くないのに!」

 芙由は聞くに耐えなくなって、叩きつけるように叫んでいた。静かだった車内の空気に、緊張の電流がぴりりと走る。はっと口をつぐんだ芙由に、小静は「いいの」と落ち着き払った声で言った。

「それに、いい機会だと思ったから」

「いい機会……?」

 意味が理解できない芙由に、小静は微笑を向けた。積年せきねんわだかまりのくさりを断ち切ったような、清々すがすがしい笑みだった。

玉岡たまおかさん。私は、昔から一人で過ごすことが多い子だった。みんなと何を話せばいいのか分からなくて、気づけば一人ぼっちだった。でも、それがつらいことだとは思わなかった。学校には勉強のために通っている認識でいたから、両親はそんな私にあきれてた。でも、少しは強がりもあったかな。陰口を言われると、やっぱり寂しかったから。変だよね、玉岡さん。私自身の話なのに、他人事のように言っていて。私のそういう部分はきっと、社会に上手うまく適応できない、感情の欠陥けっかんなんだと思う」

「欠陥だなんて……私は、そうは思わない」

 芙由は、必死に擁護ようごした。小静の言葉は、おかしかった。確かに、小静は学生時代を誰とも群れずに過ごしたが、そんな小静をしたう者は、あのクラスに増えていた。ノートを貸した女子生徒だってそうだ。それに、ここにも一人いる。だから、どうか自分を卑下ひげしないでほしい。そう切実に願う一方で、誤った道を進んでいるような居心地の悪さが消えなかった。

 学生時代に孤高をつらぬき、正しい己のり方をりんと示してくれたはずの小静が、妻帯者さいたいしゃさそいを拒めずに、上司の妻の逆鱗げきりんに触れた。結果として、居場所を奪われる悪循環の泥沼どろぬまから抜け出せなかったという事実を、まだ認めたくない自分がいた。

「……ありがとう」

 小静は、淡く笑った。達観たっかんの微笑を見せられた芙由は、もう何度目か分からない戸惑いのうずに引き込まれる。

 ――芙由の知る清野小静は、こんなに笑う子では、なかった。

「でも、私だけがそう思っているわけじゃないと思う。会社の人も私に対して、そういう評価をくだしていると思う。もっとたくさんの人たちと、親しく話せたらいいのにね。そうしたいって思うのに、どうしてできないんだろう」

 小静は「難しいね」とささやくと、芙由の顔を真っ直ぐ見た。

「あれから、私はとても悩んだ。もし私が会社を辞めたら、あの人たちの前から消えてあげることはできるかもしれない。でも、私の日常が大きく変わってしまうから」

 消えてあげるという台詞せりふに、どきりとした。まるで身を引くような殊勝しゅしょうさは、学生時代に弁当箱を抱いて廊下を彷徨さまよった己の姿を、まざまざと芙由に思い出させた。

 ――思えば、あのときの芙由もそうだった。たまれなくなって逃げたつもりでいただけで、当時の芙由の本心という真実を、小静は正確に言い当てた。

 芙由はただ、消えてあげようと思ったのだ。芙由の存在そのものが、周囲に迷惑を掛けたから。あの教室という水槽から、狭い社会から、世界から。

「本当にそれでもいいのか、私はとても悩んだ。そのときに、私は……玉岡さん。あなたを思い出していたの」

「私?」

 芙由は、驚いた。どうして、高校の同級生の一人に過ぎなくて、しかも会話をろくに交わしていない、芙由を。小静は、照れ臭そうに口角を少し上げると、とっておきの秘密を打ち明けるように、小声で言った。

「玉岡さんは、私の憧れだったから」

 息が、止まった。

「高校三年生の教室で、私はいつも一人だった。三年生になったらみんな、仲良しの相手は決まっているから。優しくしてくれる子もいたけれど、特別な相手はできなかった。――でも、玉岡さん。あなたは、私とは違っていた。特定の誰かを無理して作らなくても、教室で過ごしていけることを、あなたの姿が教えてくれた。あなたには、社会に順応する力が備わってる。そんなところが、眩しかった。……私から、声を掛けたらよかったよね。でも、私はそんな玉岡さんの姿を見かけるだけで、がんばろうって思えたから、一人で満足していたの。今さらこんなことを言われても、困るよね」

 唇を震わせた芙由は、なんとかかぶりを振った。小静は、芙由を誤解している。爽やかな青天のような親愛からは、健全な日向ひなたの匂いがした。この光をどんなに崇拝しても、芙由は小静にはなれないのだ。膝の上で強張っていた握り拳を開いた芙由は、己の身体を抱きしめた。こうして抑えつけていなければ、喉元にまで迫った情動に、歯止めが利かなくなる気がした。

玉岡たまおかさん。今日ここで会えて、本当にびっくりした。まさか、今の会社で働く最後の日に、あなたに会えるなんて思わなかった」

「私は……何も、してないよ」

「でも、あなたに背中を押してもらった気がするから」

 小静は、また笑った。今までのどんなときよりも、力強い笑みだった。

「私、変わろうと思う。自分を変えるための、いい転機てんきだと思うから。――ありがとう。玉岡さん。私、あなたのことがうらやましかった」

 車窓でまたた街灯まちあかりの星々が、小静の頬のラインを輝かせる。絶句する芙由が見た笑みは、まごうことなき光だった。どんな闇をもあぶり出して照らし尽くす閃光せんこうは、芙由と現実をへだてるまくき、押し隠してきた生傷だらけの心をあばき、遠い昔に忘れてしまった化石のような感情を焼いた。ああ、とうめきにも似た感嘆かんたんが、のどから血反吐ちへどのようにこぼれ落ちた。

 かつて、不変のおのれを持っていたなぎの人は、もうどこにもいないのだ。瓦解がかいした信仰を前にして、芙由は絶望の闇に沈みながら、認識の誤りに気づいていた。

 そもそも最初から、芙由は小静を理解していなかった。小静は暗闇でうずくまる芙由とは違い、自らの意思で日向ひなたを歩いていこうとしている。世界の不条理に耐え忍ぶ生き方を捨てて、変えられないと諦めていた現実を叩き壊して、変化を受け入れる道を選んだのだ。

 そんな行動は、芙由が今までの人生で一度たりとも、しようとしなかったことだった。

 新たな生き方を提示された芙由は、冷や汗を流しながら、自問する。

 ――芙由に、こんな生き方ができるだろうか?

 小静に憧れて、小静のように生きようとして、居場所の間借りを繰り返して、なんとか呼吸を繋いで生きながらえてきた芙由も、小静と同じ道を選べるだろうか? 小静でさえも変化の波に抗えずにまれた世界で、現在の芙由が生きていけるわけがない。人生を悲観した芙由を今まで守ってくれた信仰は、もう芙由を二度と救わない。

 ――芙由は、小静のように変化を受け入れて、世界の理不尽に耐え忍ぶ生き方を捨てて、変えられないと諦めていた現実を叩き壊して、日向を歩いていけるだろうか?

 今からでも、生き方を変えられるだろうか?

 小静のように、なれるだろうか?

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