タタン、タタンと電車が次の駅を目指す音が、両者の間を駆けていく。小静こしずが目線で隣のシートを示したので、芙由はようやく決心して、小静の隣に腰かけた。薄く化粧をするようになった小静からは、ほのかに花の香りがして、芙由ふゆの胸は重くふさいだ。

玉岡たまおかさん、地元に残ってたんだ」

「あ……うん」

 芙由は、しどろもどろに答えた。覇気はきがない言い方だったにも関わらず、小静は「そう」と相槌あいづちを打って、表情をほころばせた。

「私たちの同級生は、進学で地元を離れて、そのまま向こうで就職する子が多いみたい。玉岡さんもそうだと思ってた」

「私は、大学もこっちだから。……そう、あのときに言ったでしょう?」

 ぎこちなく告げると、小静は「うん。聞いた」と返事をして、車窓の闇を見つめた。

「聞いたけど、あなたはいつか、遠くに出ていく気がしたから」

「……私は、どこにも行けないよ」

 零れた台詞せりふは言い訳のようで、三度目の後悔をした芙由は、パンプスの爪先に視線を落とした。芙由は昔の同級生に、一体何を求めているのだろう。

「玉岡さん。その怪我、どうしたの?」

 不意打ちの指摘を受けて振り向くと、小静の視線は芙由の膝に注がれていた。ストッキングの伝線を見られて恥ずかしいという感情が、まだ己の中で息をしていたことに、思いのほか動揺してしまった。

「これは……会社を出ようとしたときに、もう遅い時間だから、早く家に戻らなきゃって、思ったら……お腹が痛くなって、転んで……」

「大丈夫?」

「……うん。いつものことだから……」

 声音が、また一段と暗くなった。小静は、芙由の自己嫌悪を察したようで「仕事が終わったら、電車はいつもこの時間?」と話題を変えてくれた。この質問にも上手く答えられる自信はなかったが、少しだけ胸が温まった。あの頃は感情表現が希薄きはくだった小静が、芙由の身を案じてくれた。そんな奇跡のような現実が、芙由の口をなめらかにした。

「うん。事務の仕事なんだけど、いつもなかなか終わらなくて……」

 説明しながら、職場の上司と同僚の顔を思い出す。会社に勤め始めたばかりの頃は、周囲の顔色を過剰にうかがい、定時の帰宅はできなかった。そして業務を多少かじった今は、居残ることで片付く雑務もあるために、以前に増して帰れない。社会とはそういうものだと思っているので、特に何も感じていない。芙由に大量の書類を押しつけて晴れやかに帰る同僚にも、うらみはいだいていなかった。

「ご家族が、心配してるんじゃない?」

 つらそうに囁く小静に、芙由は慌てて「それは、大丈夫だから」と弁解した。せっかく話題が変わっても、これでは元の木阿弥もくあみだ。芙由は、小静の同情を強請ゆすってばかりいる。そんなことをしたいわけではなく、この弁解だって虚勢きょせいではなく真実だ。芙由が何時に帰ろうとも、芙由の家族は心配しない。もし芙由が病気にでも掛かれば話は別だろうが、身体を壊さない限り、何も思わないに決まっている。

「じゃあ、弟さんは? 遅い時間まで働いているお姉さんを、気にしてるんじゃない?」

「……私、一人っ子だから」

「あれ、そうだった? 高三のときのクラスメイトで、玉岡さんと出身中学校が一緒だって言ってた子から、ご兄弟がいるって聞いた気がしたけど……他の人のことだったかも。変なことを言ってごめんなさい」

「ううん。気遣ってくれて、ありがとう」

「あんまり無理しないでね。玉岡さんに元気がないと、友達も心配すると思うから」

 小静は、愁眉しゅうびを開いていた。恐縮した芙由は、「それも大丈夫。友達は疎遠そえんになったし、彼氏とも最近、別れたから……」と、言うつもりのなかったことまで、つい勢いで口走った。

 小静が、目をみはった。失言に気づいて血の気が引いた芙由の脳裏に、今度は一人の青年の顔がよぎっていく。普段からぼんやりしている芙由のどこにかれたのか、大学の卒業直前に告白してきた男の子。溌溂はつらつと笑う三つ年下の青年は、芙由の乾いた日常に爽やかな風を吹き込んだが、日向ひなたを歩いた日々を追憶すればするほどに、芙由は鬱々うつうつと沈黙した。彼の鮮やかさに最後まで染まれなかった芙由は、きっと心に重篤じゅうとく欠陥けっかんを抱えている。

「その人の話を、訊いてもいい?」

 小静に神妙な顔で問われたが、芙由は考えてから、かぶりを振った。

「あの人とは、もう二度と会わないから。そんな人の話なんて、聞かされても困るでしょう?」

 芙由が物憂ものうげな顔をするたびに、彼はもどかしそうな顔で何度も言った。何か悩みがあるのなら、何でも自分に話してほしい。きっと助けてみせるから。芙由と一緒に、悩むから。――芙由は、声を上げて泣きたくなった。

 彼は、本当にいい人だったのだ。彼の心は健全で、だからこそ徹頭徹尾、芙由には不適格な存在だった。もしあのまま日向の彼と一緒にいたら、芙由はいつか壊れただろう。彼の眩しさにあてられて、身体を覆ったまくがれて、内側に閉じ込めた生身の心を思い出す。たとえ彼に助けを求めたところで、何も変わりはしないのだ。芙由という人間は、ただ鬱屈の闇に溺れるだけの、感情の死んだ人形だ。そんな暗い女のことなど早く忘れて、彼には日向を共に歩ける可愛い子を見つけてほしい。それでいいと、芙由は切に思うのだ。その程度で諦めがつくほどに、さほど愛してもなかったのだ。

「私は、彼を裏切っていたもの。愛してもらう資格なんて、最初からなかった」

「……そう」

 小静は、もう何も訊かないでいてくれた。

 タタン、タタン、と電車は夜闇を拓いてひた走る。芙由も小静にならって車窓を眺めたが、夜景のスクリーンに暗い女が映るだけで、気鬱きうつさが極まって目をせた。せっかく小静と会えたのに、芙由は嫌な話ばかりをしている。

 車内アナウンスが、次の駅の名を告げた。芙由の降りる駅までは、あと四駅分ほど時間がある。小静の最寄り駅はどこだろうかと、芙由が訊きかけたときだった。

「玉岡さん。今度は、私の話を聞いてくれる?」

 どきりとした芙由は、顔を上げた。車窓に映る小静の笑みが寂しげで、これから大切なことを告げられるのだと予感した。電車がホームに着いて、ドアが開く。乗客が数人下りて、入れ替わりで数人乗って、また走り出す。街の灯りが流星のように四角い夜空をいろどると、ネオンの星影ほしかげに願いをかけるような密やかさで、小静はゆっくりと言ったのだった。

「私は、今の会社を辞めることにした」

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