清野小静きよのこしずの存在を初めて意識したのがいつだったのか、正確には思い出せない。人付き合いが下手で冗談の一つも言えない芙由は、クラス替えで刷新さっしんされたばかりの環境に慣れることにただ必死で、周りに目を向ける余裕が全くなかった。

 昨年まで一緒に過ごした友人たちとは、皆クラスが離れていた。芙由のような立場の者は他にも大勢いたようだが、彼らは休み時間のたびに余所よそのクラスへ出掛けていった。高校三年生にもなれば皆、親しい友人は決まっている。新しいクラスで新しい友人を作るよりも、既存の関係維持を選びたい気持ちはよく分かる。

 だが、芙由は後者を選べなかった。芙由の元友人も、芙由の教室まで会いに来ようとはしなかった。芙由と元友人たちは、学校という閉鎖的なよどみがこごった水槽すいそうで、なんとか自らの居場所を確保したくて、互いに寄り掛かっていただけだった。もたれ合える関係なら、きっと誰でもよかったのだ。そんな薄情な関係が長続きするわけがなく、クラスの変わり目が縁の切れ目、制服のセーラー服が半袖に変わる頃には、芙由は現状を受け入れた。クラス替えから一月たっても築けなかった関係は、今後どう足掻あがいても築けない。黒髪を野暮やぼったく胸元に垂らした芙由は、教室のすみの椅子にしかばねのように背を預けて、己の心を落ち着かせた。

 居心地が悪くても、この居場所は仮初かりそめだ。芙由は学校で過ごす間だけ、立ち位置をひととき借りている。そして下校のチャイムが時を刻めば、間借まがりの拠点きょてんは自宅へ移る。そこで眠る自分もまた、居場所の間借りを続けている。そんな堂々巡りの毎日を幼い頃から送るうちに、現実感はけていた。生身の心に薄い膜で覆い隠して、孤独に慣れたつもりでいた。

 にもかかわらず、六月の半ばの昼休みに、芙由は突然に限界を迎えた。

 その日は何の変哲もない一日で、少しばかり前日の夜更かしがたたってしまい、体調が優れないだけだった。いつも通りのことだと思う。本当に、いつも通りのことだと思う。

 着席した芙由が、母が作ってくれた弁当の包みを机に置いたときだった。昼休みの喧騒けんそうで浮き立つ空気が小波となって、芙由の全身を呑み込んだ。教室に海水を流し込まれたかのように、ノイズの泡にぶくりと侵された聴覚が鈍磨どんまする。眩暈めまいを誘発するアクアリウムで、重いエコーの掛かった声が、ひそひそと芙由を笑った気がした。うつむく芙由の全身から、嫌な汗が噴き出した。被害妄想かもしれないと理性の欠片かけらが訴えても、己に都合のいい解釈はできなかった。芙由は顔を上げないまま、弁当の包みを胸に抱いて、ついに教室を飛び出した。いつもは耐えられる嘲笑ちょうしょうに、この日は一秒と耐えられなかった。

 だが、行くあてはなかった。芙由には、もう誰もいない。自業自得の儚さで、友達は皆消えていった。廊下を行き交う生徒たちは、隣に当然のように誰かがいる。居た堪れなくなった芙由は、誰の顔も見ないように下を向いて、いくつもの教室を通り過ぎた。扉はどこもかしこも開いているのに、どこにも芙由が借りられる居場所がない。そんな逃亡と紙一重かみひとえの、必死でみじめな放浪ほうろうの果てに――女子トイレ前に、行き着いた。

 ごくりと、唾を嚥下えんげした。心臓が、早鐘はやがねを打ち始める。浅く吸い込んだ空気には、尿の匂いが混じっていた。このままここへ踏み込めば、芙由はもう戻れない。そんな確たる予感があった。だが、ここ以外にはもうないのだ。間借りできる居場所など、どこにも。弁当の包みを、震える指で、しわになるほど強く握った。早く死にたいと魂をかけて願ったのが、もう何度目だったのかは忘れてしまった。

 しかし、この瞬間に訪れた出逢いが、新たな道を芙由に提示した。

 背後から足音が聞こえてきて、芙由は身を固くした。葛藤かっとうすくむ姿を目撃されたのかとあやぶんだが、足音の主は芙由のそばを通り過ぎて、そのまま廊下を去っていく。慌てて振り返ると、黒髪を二つに結った女子生徒の後ろ姿が見えた。

 ――清野小静きよのこしず。名前が、ふっと脳裏のうりに浮かんだ。クラスメイトとはいえ、当時の芙由が小静のフルネームを覚えていたのは、教室で耳にした陰口かげぐちの所為だ。小静という名前が古臭いと、誰かが軽い調子で笑ったのだ。この出逢いをのちに回想するたびに、芙由は何度も胸を痛めた。小静にまつわる記憶の一つが、他人の陰口だったことが、とうに捨てたはずの悲しさを呼び覚まして、苦しくなった。

 午後の廊下には小静ひとりの足音だけが、こつこつと静かに響いていた。心地よく刻まれる歩調のリズムは、芙由にメトロノームを連想させた。背筋を伸ばして歩く小静は、プリーツスカートの裾を揺らして、突き当たりの階段を上がっていく。踊り場の日差しが、白い横顔を照らしていて、頬の輪郭に輝きを纏う姿が、ひどく清らかに目に映る。視界から小静の姿が消えたとき、芙由の足は自然と動いていた。

 追いかけたい。初めて知る感情が、芙由をき動かしていた。学校で一人きりなのに、孤独を感じさせずに水槽を泳ぐ小静のことを、もっと知りたくなっていた。

 三年生の教室が並ぶ廊下は、生徒たちで賑わっていたが、制服で個性を均された群れに紛れても、美しい後ろ姿は目を引いた。小静は芙由たちの教室に入り、芙由は扉の前で立ち止まった。廊下側の席に着いた小静に、一人の女子生徒が話しかけていた。

「清野さん、おはよう。今日は遅かったね」

「おはよう。病院に寄ってたから」

「病院? どうしたの?」

「風邪気味だっただけ。大したことないから、気にしないで」

 初めて聞いた小静の声は、少し突き放すような言い方だった。それでいて声には他者をとがめる響きはなく、真冬の澄んだ空気のように、冷たく張り詰めた美があった。女子生徒も気分を害した様子はなく「お大事にね。授業のノート、写していいよ」とこころよく言って、小静にノートを手渡した。小静が午前中に学校を休んでいたことを、芙由は今さら思い出す。ノートの女子生徒は「じゃあね」と小静に別れを告げて、別の女子グループの輪に入った。みんなで華やかにはしゃぎながら、着席して弁当を広げている。

 展開に面食らう芙由に対して、小静は涼しい顔のままだった。穏やかな眼差しには、突然に一人きりにされた理不尽に対する怒りはない。小静はノートを机に仕舞うと、鞄から青い包みを取り出した。細い指が包みの結び目をほどき、花柄の弁当箱が顔を出す。

 つい見入っていると、背後から別の女子生徒に「どいてくれる?」と文句を言われた。入り口を塞ぐ芙由への不満がありありと窺えて、追い立てられるように教室に入った芙由は、自分の席に着いてから、小静の席を盗み見る。

 小静は、一人で誰の目も気にせずに、弁当に箸をつけていた。周囲の生徒たちがみんな誰かと一緒に過ごしていても、昼休みの喧騒に臆することなく、寡黙に昼食を取っている。芙由は、視線を己の机に戻した。

 ぎゅっと命綱いのちづなのように握っていた弁当の包みを、とんと机の上に置く。

 そして、包みを開いて、弁当箱の蓋を開けると――いつもとは明らかに違う気持ちで、心の中でいただきますと唱えて、手を合わせた。

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