人でなしの終着駅

一初ゆずこ

 ストッキングの電線でんせんに気づいたのは、駅にいたときだった。

 黒いパンプスをいた足からひざにかけて、肌色の線路が二本びている。一方の行き止まりの破れ目には楕円だえんの落とし穴がいびつに広がり、もう一方の行き止まりには朱色がじんわりとにじんでいた。遅ればせながら怪我に気づき、玉岡芙由たまおかふゆ逡巡しゅんじゅんした。

 駅構内のコンビニに寄るか、このまま改札を通って電車に乗るか。二叉ふたまたに分かれた道の片方を選ぶまでに、さほど時間は掛けなかった。パスケースを改札にかざした芙由ふゆは、二十二時がせまるホームに向かう。ICカードの情報を読み取る電子音が、芙由ふゆが選ばなかったほうの未来を閉ざしていく。自宅には替えのストッキングがあるので、残業帰りに急いで買い足す必要はないだろう。

 間もなく到着した電車はいていて、仕事を終えた社会人や、塾帰りと思しき学生たちが、シートをまばらにめている。芙由も彼らの一員にまぎれるように、シートのできるだけすみに座った。あとは自宅の最寄り駅まで運ばれるだけだが、遅めの夕食と入浴を済ませてから、どれだけ睡眠時間が残るだろう。

 重い疲労からうつむくと、冷たい風を頬に感じた。肩口までの髪を耳にかけた芙由は、顔を上げて前を見る。正面の窓が一か所だけ、ほんの少し開いていた。

 寒さが厳しさを増す一月に、誰が窓を開けたのだろう。近くに座る女子高生が、窓の隙間すきまうらめしそうににらんでいたが、わざわざ閉めに行くのは億劫おっくうなのか、マフラーに首をうずめて動かない。芙由は再び逡巡しゅんじゅんすると、バッグをかかえて立ち上がった。親切心というよりも、気まぐれによる行動だった。

 乗客たちの視線が、芙由に集まる。後悔したが後にも退けず、芙由は手早く窓を閉めた。結露けつろが指に伝ってしびれたが、先ほどの女子高生がもそりと会釈えしゃくをしてきたから、少しむくわれた気になった。芙由もあごを引いて会釈を返し、元いたシートに戻ろうとする。

 そのとき、近くから女性の声が、芙由を呼んだ。

玉岡たまおかさん?」

 落ち着いたアルトの響きをみずにして、かつての冬の残り香を思い出す。あの日の春風も、今夜のように、肺に痛いほどんでいた。既視感きしかんられた芙由は、声の主を振り返る。

 懐かしの彼女が、シートから芙由を見上げていた。長い黒髪を一つに束ねて、ベージュのトレンチコートを着込んでいる。品良くそろえられた両足で、綺麗なパンプスが光っていた。少女から女性に変わった彼女の姿は、芙由を激しく打ちのめした。

 歳は互いに二十三で、まだ学生に間違われそうな面差しのあどけなさも同じなのに、着衣が地味で色彩にとぼしい芙由よりも、彼女は容姿と雰囲気が洗練されていた。これが、社会に出て一年目の芙由と、三年目の彼女の差異さいだろうか。窓さえ閉めに行かなければ、芙由が注目を浴びることはなく、時の流れの残酷さを、まだ知らずにいられただろうか。

 二度目の後悔に苦しむ芙由を、彼女がどうとらえたのかは分からない。ただ、高校生時代の同級生は、あの頃と同じきよらかさで微笑むと、芙由との再会を喜んでくれた。

「玉岡さん。久しぶり」

「久しぶり……清野きよのさん」

 清野小静きよのこしずとの間に、言葉はらない。そんな己の信仰しんこうが、別れの日の願いが叶うという形で揺らぐなんて、想像すらしていなかった。

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