第8話

 最初、古くなった六条の邸に手を入れるという話だったのが、いつの間にか建て替えとなり、気がついたときには周辺の邸の権利を源氏が手に入れて、広大な邸を作るという話に変わっていた。

 六条の邸はその邸宅の一部として秋の景色を重視して作り上げられるのだという。

 その壮大な邸宅が出来上がり、源氏の一家が引き移ったのは、秋の彼岸の頃だった。

 春の御殿には権の北の方と源氏が源氏の大姫と共に住み、夏の御殿には源氏のもう一人の夫人が源氏の故北の方の産んだ長男と暮らす。源氏一家の引き移りの数日後、晶子も秋の御殿に初めての里下がりをした。

 邸は新しいだけでなく、何もかもが作り変えられて、見る影もなかった。ただ遠くの山並みぐらいにしか、もはや面影の追いようもない。

 いや、ただ一つ。

 池の端の岩だけが、わずかに面影を伝えていた。

 それは岩の窪からひょろりと細い楓の生えた岩で、早くも葉の何枚かが仄かに黄みを帯びている。

 なんと、気の利かない。

 晶子は御簾越しに岩を見て、伏目がちに目をそらした。

 邸も庭も、池の形に至るまで好きにいじっておきながら、よりにもよってあの岩だけを残すとは。

 あの岩の傍に晶子の母はいつも香の壺を埋めた。

 合わせた香は蜜や梅肉で練り上げて、池の端などの湿り気のある土中で熟成させる。どこに埋めたかわかるように、母はいつもあの岩を目印に香を埋めていたのだ。

 母がいつも、源氏のために身にまとった香染めの衣。それに合わせるための特別な香もあの場所に埋められていた。来ない源氏を待つ母が、ふらりと岩の傍に立ち尽くす姿を何度も見たことがある。

 懐かしい邸の面影もなく変えるなら、あの岩こそ取り捨ててしまえばよかったものを。

 木の香も新しい邸は、むしろ晶子に黒木の宮を思い出させた。

 黒木の宮は斎宮としての潔斎の宮。

 潔斎が終われば壊される決まりの宮は、木の皮を剝かない柱で建てられるが、板はどれも磨き立ててあるので、爽やかな木の香に満ちていた。

 野々宮から始まって群行の宿もみな、黒木の宮が当てられる。伊勢で暮らす斎宮はさすがに黒木の宮ではないが、代替わりにあたって手を入れて、やはり新しい木の香がした。

 清らかでありたい。

 いつも静謐でありたい。

 心を揺らしたくない。

 それは臆病ということなのだろうか。

 では、

 傷つき、もがき、妬み、憎み

 全力で苦しみ抜き、慟哭し、執着にまみれる事は勇敢だということなのか。

 それが勇敢であるとして、傍らの人間がその事に傷ついてゆくことはなんと捉えればいいのだろう。

 例えば母が源氏に対してもっと臆病であれば、晶子の少女時代はずっと平穏であったろう。思えば母と言う存在を通して、晶子はまだ少女の内に恋というものの醜くさ、酷さ、恐ろしさを味わい尽くしてしまったのだ。

 でも、それでも。

 人は恋に落ちる。

 今になって晶子は、僅かに母の気持ちがわかるような気がする。

 恋は落ちるものなのだ。

 突然、足元に穴が空くように。

 それはきっと逃げようも避けようもなく、落ちた穴の底からふと見上げた青空が、丸く切り取られているさまを見て、初めて落ちたと気づく事ができる。

 私は今上を乞うている。

 今ではもう晶子も、その感情を自分で認めている。

 随分と年下の背の君は、陰を宿した真摯な瞳で晶子を捕らえた。晶子は女として殿方である今上に叶わぬ恋をしている。

 いっそ叶わぬ恋ならば、本当に一度も結ばれないで良かったのに、たった一夜の契は晶子を苦しめた。

 いや、そうだろうか。

 その一度さえもなかったなら、恋は明らかになる事も出来ずに、晶子の内側で腐り落ちてしまったろう。

 今、こうして恋に悶え苦しむことと、静かに腐臭を放って恋が腐り落ちること。どちらの方がまだ堪えやすいのかを、晶子は見極めることが出来ずにいる。

 

 六条院の秋は静かに深まった。

 秋の庭というだけのことはあり、晶子の住まいから見える紅葉は、驚くほどに鮮やかだ。

 とりどりの楓、桜、蔦、銀杏、そして梅。

 あの岩窪にひょろりと生えたか細い楓も、滴るような鮮やかな紅に染まった。庭から室内に吹き込んで来る風も、紅葉の薫りに染まって仄かに甘い。

 風が吹いておびただしく葉の散った夕べに、晶子は艶やかに色づいた葉を集めさせ、秋の花も添えて春の庭の権の北の方に贈った。


 心から春待つ園はわが宿の

      紅葉を風のつてにだに見よ


 住まう御殿から早くも春の御方と呼ばれ始めた権の北の方を、晶子は嫌いではない。

 幾度か対面したその人は、晶子と同じくらいの年頃の美しい人だった。

 樺桜を思わせる華やかさと儚さを共に感じさせる人だ。

 教養も心映えも群を抜き、年の変わらない晶子に母代としての心遣いまで見せるその人は、あの母でさえ物足りないように扱った源氏が一の人として重んじることも納得できる、優れて魅力的なひとだった。

 源氏が外に作った大姫を引き取り、、目に入れても痛くないほどに鍾愛しているのだという。大姫も春の御方によく懐いて、母子の睦まじさは実の母子にも珍しいほどのものらしい。春の御方が甲斐甲斐しく幼い大姫の世話をやく様子は、晶子にも目に浮かぶように思われた。

 返事はすぐに来た。

 先程紅葉を盛って届けた硯蓋に苔を敷き岩を据え、青々とした松の枝に文を結んだ物が添えられている。


 風に散る紅葉は軽し春の色を

       岩根の松にかけてこそ見め


 実に見事で打てば響くような返し方だった。

 本当に、と思う。

 紅葉の美しさなど散るためのものだ。

 散っても花のように実を結ぶこともない。

 それに引き換え春の御方の見事さはどうだ。まさに岩根の松のごとく根を張り、揺るぎない地位を築いている。

 晶子の指が、色づいた梅の葉をもてあそぶ。それは淡く夕焼けの射すような、仄かな色に染まっている。

 あの岩窪の楓の滴るような赤に比べて、なんともささやかな色づきだ。

 まるで私のようだと晶子は思う。

 岩根の松の根の張りもなく、滴る紅に染まりもせず。

 ただあるかなしかに色づいて、すぐに散ってしまう梅紅葉こそ、晶子にはふさわしい。

 庭から吹き込む風は、すでに冬の気配をはらんでひやりと冷たい。

 甘く香る紅葉の庭は、すぐに訪れる冬枯れを前に、ただ鮮やかに燃えている。

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秋の梅 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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