第7話
二条院に一度下がり、立后の宣旨を受けて中宮の格式で入内する。
乗るのは車ではなく
二度と、乗ることはないと思っていた、その懐かしい輿に揺られ、晶子は後宮へと向かう。
数多の公卿の供奉を受け、何両もの女車を連ねて進む行列は、晶子に昔を思い出させた。
髪に挿された別れの小櫛。
振り返る事なく後にした内裏へと、同じ葱華輦に揺られて今、入内しようとしている。
あの時、京を離れて神に仕える清らかな生活に入ることが、晶子には無性に嬉しかった。母と二人、ずっと伊勢にいたいと思っていた。母を執着させ苦しめる、不実な源氏が憎かった。
今、その源氏の養女として、おそらくは源氏の血を引く帝の元へと向かう。
晶子の心に迷いはない。
かつて神に仕えた如く、一心に帝に仕えるべく、晶子は中宮として後宮に入った。
中宮となり、様々な格式が改まっても、晶子の生活はほとんど変わらなかった。
昼間には良くおいでになる帝からは、夜のお召はほとんどなく、稀に夜の御殿に招かれても、ただお話をして隣あって眠るだけ。
今までの晶子なら、その生活になんの疑問も不満も抱くことはなかっただろう。
あの一夜はなかった事だ。
そうでなければかつて女御として入内した折の、誓いの続きのようなもの。
そうは思っても肌に刻み込まれた記憶は、不意に甦ってくる。
熱も
重さも
息遣いも
触れられる感触も
痛みも
全てはあまりに深くくっきりと、晶子の中に刻みこまれてしまった。
閨の闇に浮かぶ帝の輪郭が、寝息が、晶子の記憶をくすぐる。
唇の味、指の感触、触れ合う肌の熱。
どうして、忘れることも封じることも出来ないのだろう。
記憶は身体の内側から、晶子を食い破り、苦しめる。
最初から、遊び相手と割り切って入内した。もともと独り身で通すつもりでいたのだ。男女の仲にならないなら、むしろ望むところだった。
そのはずだったのに。
閨の中だけでなく、記憶は晶子を苦しめる。
弘徽殿の女御が夜の御殿へ上ると聞けば、胸がざわめく。
弘徽殿の女御はあのような記憶を無数に持っているのだ。あんな夜は、弘徽殿の方にとっては珍しくもないのだろう。
弘徽殿の方があの熱に、感触に包まれ、あの息遣いに触れている。そう思うだけで身のうちを掻きむしられているように苦しい。
たった一度、たった一夜の事だ。
それがこんなにも全てを変えてしまうなど、晶子は想像もしていなかった。
もしもあの記憶が忌まわしいものならば、むしろ忘れてしまえただろう。なかった事にすることも封印してしまうことも、きっとできたのではないかと思う。
けれど実際にあの記憶に纏わりつくのは、充足感と幸福感だ。
あの時、確かに晶子の何かが満ち足りた。
そして満ち足りることはこの上ない、幸福感を伴っていた。
満ち足りた記憶を持つことは、足りない自分を知るということ。
幸福を知ることは、そうでない自分に気づくということ。
そんな単純な事にさえ、晶子は初めて気付いた。
抱きしめられたい。
抱きしめたい。
帝と肌を重ねたい。
でも、今更どうしてそんな事が言えるだろう。
晶子は斎宮だ。
一生を斎宮でありたいと願ってもいた。
それはおそらく叶ってしまった。
帝にとって、晶子は今も斎宮なのだから。
ただ、あの記憶だけが。
あの刻みこまれた記憶だけが晶子を苦しめる。
ただの女でありたいと、女として愛されたいと、晶子の内側から叫ぶのだ。
静かに、何食わぬ顔でその叫びを圧し殺し、抑えつける。
羨望も、渇望も、何一つ漏らすまい。
それが晶子自身を圧し殺すことに他ならないのだとしても、それ以外にどんな道があるだろう。
帝が求める自分でありたい。
帝がそう望まれるなら、神に仕えるが如く帝に仕えたいと思う。
神が見守る如く帝をお支えしたいと思う。
ただ無心に、ただ帝のためだけに。
あの一夜の記憶がなかったなら、きっとそれは難しい事ではなかったはずだ。
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