花を捧ぐ幽霊

ムリ

第1話

 気が付くと彼は、暗い夜の中に、ぽっかり浮かんでいました。ふわふわした揺らめきが、彼の体を優しく包んでいます。それはちょうど海辺の穏やかな波のようでした。

 雲は いつもより近くに居ます。しかし、寒さを感じた空気がふるふると震えて、漂う雲をあちらこちらに押しやります。彼は自分がどうしてここにいるのか? また、自分が何者であるか解りません。気が付けば存在していた。そう、彼の正体は幽霊でした。

 幽霊は、たった一人孤独です。とても寂しい。自身の寂しさを埋める為にはどうすればいいのか。そんな事を考えていると、遥か下方で何かがキラリと輝きました。

一体あれはなんだろう? 幽霊は、ふわふわとした空のベッドから、はるか下方にあるキラメキを目指し飛び降りました。


 地上に着くと、ちょうど夜の闇が濃くなる時間帯でした。闇は質量を持ったように、彼の体に絡みつきます。まるで水の中を進んでいるような感覚です。

 彼が降り立った場所は、とある街の中心部でした。青や黄色の電飾が飾られ、とても賑やかです。街全体が淡く照らされて、行き交う人々は、皆笑顔です。何かお祭りでも近いのだろうかと思い、幽霊は道ゆく人に声をかけました。しかし、行き交う人々は、彼の言葉にまったく反応しません。子供連れも、老紳士も、恋人達も、まるで彼が見えていないかのようです。そこで彼は、強引に道行く人を止めました。しかし、道行く人は彼の体をすり抜けてしまいます。

 一体どういうことだろう? 不安になった幽霊は、自分の姿を認識しようと、鏡を探しました。しかし、鏡の前に立っても、何も映りません。角度を変えても、横から覗き込んでも、何も映りません。


 幽霊は自分に関することを思い出そうとしました。しかし、闇の中に浮かんでいた以前の事は何も思い出せないのでした。不安と焦りが頭の中でグルグル駆け回ります。なんとか自分の事を思い出せないかと、自分の顔をペタペタ触ってみたり、肩をさすってみたりしました。そこに確かな形があるのに、どうしても自分を認識できません。

 やがて胸の中に、言いようのない孤独感が産まれました。それは存在しないはずの肉体を、きりきりと痛めつけます。

 幽霊は泣きました。声をあげて泣きました。しかし、彼の声は誰にも届きません。そもそも、それが涙であるのかどうかも確証が持てないのです。


 しばらく経つと、気持ちが落ち着きました。このままでは何も変わらない。この広い街なら、きっと自分の声を聞いてくれる人がいるはず。そんな希望を抱き、幽霊は歩き出しました。

 当てもなく歩いて行くと、一つの広場に辿り着きました。広場の中心には大きなもみの木がそびえ立っています。そのもみの木は、赤青黄色の電飾に彩られ、天辺には大きな星が飾ってあります。

 それは聖夜を彩るクリスマスツリーでした。幽霊の中に、ふっ。と、懐かしいなにかがよぎったけれど、やっぱり何も思い出せません。

 幽霊は、もみの木を見上げる人達に声を掛けました。しかし、誰も彼に気付きません。彼の言葉を無視して、「綺麗」とか、「幸せ」だとか、感嘆の声をあげるのです。幽霊はどうする事もできずに、「幸せ」を与えてくれるツリーをずっと見上げました。

 そのうち夜の闇はどんどん濃くなって、もみの木に集う人たちは一人、二人と減って行き、やがて誰もいなくなってしまいました。誰もいない空間にいると、胸の中にぼっかり穴が空いたようになります。辺りを見回すと、花壇には赤色のポインセチアが咲き誇っています。ポインセチアの他にも、赤青黄色。様々な花が咲いています。それは電飾に負けないくらい美しく、輝いていました。

 咲き誇る花々を見ると、幽霊の中に不思議な感情が産まれました。それは言葉では表現できない感情だったけど、何故か心が落ち着きました。嗅覚なんてないはずなのに、甘い香りが彼を包むのです。少しの勇気を覚えた幽霊は、次の場所へ向かう決心をしました。


 街中には誰もいません。何故なら闇が空間の八割りを占める時間帯だったからです。それでも彼は懸命に歩き続けました。歩いているうちに、大地を蹴る感触がぼやけて、ふわふわした浮遊間に包まれました。気が付くと、体がふわりと宙に浮いていたのです。

 そうだ。自分は、はじめ宙に浮いていたのだ。もしかしたら、あの場所が自分の故郷なのかもしれない。そう思い、浮遊感に身を任せ、はるか天空を目指しました。しかし、いくら浮かび上がっても重苦しい闇と雲ばかりで人っこ一人居ません。当然です。何故なら生身の人間は地上で暮らすものだから。しかし、幽霊にはそんな事は解りません。

 空の上には、あのクリスマスツリーやポインセチアのように、幽霊の心を締め付けるものは存在しませんでした。これが晴れ渡る正午の時間帯ならば、まだ違ったのかもしれません。

 やがて夜の闇が十割。すなわち全てを占める時間帯になり。黒く塗り潰された空間の中、肩を落としながら街中に戻りました。


 街中に着くとやっぱり誰も居ません。灰色がかった空は朝の到来を予感させるけど、朝になっても何も変わらない気がしました。幽霊は、立ち尽くしながら空を見上げます。空は段々白んで行きます。星の輝きが弱々しくなります。月がどこか遠くへ逃げて行きます。無音だった筈の空間に、木々のざわめきや小鳥の囀りが響きます。やがて完全な朝がやって来ました。呑気な猫や、散歩の人間が彼の横を通り過ぎたけど、やっぱり彼に気が付く事はありません。

 幽霊は、とぼとぼと歩きます。一軒のパン屋の前を通りかかると、焼きたてのパンの甘い香りが鼻腔をくすぐりました。でも、幽霊は一切食欲を感じません。だって幽霊が食事をするなんておかしいでしょ? 食べるという事は生の象徴。しかし、幽霊となった彼はまったくお腹が空きません。美味しそうなパンを見ても何も感じません。

 パン屋の隣では、仕立て屋が朝から洋服を裁縫していました。身を飾るのは生の象徴。しかし、幽霊となった彼は身を飾る必要がありません。綺麗な洋服を見ても、着る体がありません。

 自分自身を必要とするもの。または、自分自身が必要とするものが、ここでは全く見当たりません。どうしたものかと思い、とぼとぼと歩き続けました。

 道中には名もない花が、雑草のように咲き誇っています。昨日見たポインセチアのように、可憐ではなかったけれど、不思議と気持ちは落ち着きました。


 それからどれだけ歩いたのでしょうか。幽霊は墓地に辿り着きました。寂れたその場所には誰もいません。大小様々な石碑は、その場に寂しく佇んでいます。まるで人々の記憶から忘れ去られたようです。

 幽霊には墓地の存在意味が解りません。薄気味悪い場所だなと思っただけです。こんな場所に居てはいけない。早く立ち去らなければ。そう思ったのですが、何故か体が動きません。疲れたのでしょうか? そういえば幽霊は昨日から寝て居ません。しかし、幽霊には眠るという概念がありません。朝も、夜も、眠ることなくそのままです。

 しばらく休憩すると、ようやく足が動きました。いち早く、墓場を後にしようとその場を振り向くと、真新しい石碑が目に映りました。それは小さく、ピカピカですが、この墓地の中で一番寂しく感じました。もしかしたら、それは幽霊のお墓だったのかもしれません。しかし、幽霊にはそんなこと解りません。足早に墓地を抜け出し、賑やかな場所を目指しました。

 気がつくと、夕暮れのオレンジが迫って来ます。赤やオレンジの暖色は、生のエネルギー。幽霊にとっては苦手な色です。生前の彼には、好きな色や、お気に入りの食べ物があった事でしょう。しかし、もう思い出せません。生者は生者。幽霊は幽霊。その理は絶対です。


 幽霊は、ようやく解りかけてきました。自分が、この街の住人と違う存在である事。自分がここに居るべき存在ではない事。それならばどこへ向かうべきなのか? 何一つ思いつきません。

 幽霊はただただ救いを求めました。その気持ちが通じたのか、はたまた今日が聖夜だった為か、この街の教会に辿り着きました。その場所はとても壮厳で、街中を暖かくする為に、何百本もの蝋燭が飾られていました。ゆらゆら炎がゆらめいて、お祈りを捧げる人達の顔を、ぼぉっと浮かび上がらせます。上昇気流を巻き起こし、黄色い花びらを、天高く舞い上がらせます。

 教会はちょうど礼拝中でした。神父や修道女が、主への祈りを説き、人々は一心に祈りを捧げます。あぁ、ここが自分を救う場所だ。自分はここで救われる。幽霊は訳もわからず、祈りを捧げたのです。

 幽霊は祈りました。ただ祈りました。心の中で、お願いです。お願いです。と、何度も何度も復唱しました。一体何のお願いをしているのでしょう? しかし、そんな事はどうでもいいのです。この場は祈りを捧げる場所。お願いです。お願いです。幽霊の祈りはずっと、ずっと、続きました。


 幽霊は我に帰りました。お祈りの時間は、とうに終わっていたようです。教会にはもう誰も居ません。神父も、修道女も、光り輝く蝋燭も消されてしまったのです。幽霊は救われたのでしょうか? いや、誰もいないその空間は、余計に幽霊を寂しくさせました。

 結局幽霊は一人きりです。彼を救うものは何もありませんでした。祈りは届かないのでしょうか? それとも彼の祈りが足りないだけなのでしょうか? ガランとした教会で、一人寂しく肩を震わせました。それから大きな声で泣きました。声をあげて泣きました。

 それから幽霊は考えた。自分の存在意味を。自分の居るべき場所を。自分の進むべき道を。

 幽霊が考え事をしている間に、辺りは真っ暗になりました。しかし、幽霊は考える事をやめません。そのうち、空が白み始めて朝になりました。それでも幽霊は考える事をやめません。早朝のミサの間も、修道女達の昼食の間も、蝋燭を燈す時間になっても考え事をやめません。

 時間はどんどん過ぎていきます。聖夜は終わりました。さらに時間は過ぎて行きます。その間も幽霊は考える事をやめません。やがて考える意義が解らなくなりました。なぜ考えているのか、解らなくなりました。何を考えているのか解らなくなりました。

 幽霊はこのまま自分が薄れて行くような気がして、怖くなりました。けど、じきにそんな感情も薄れて行きます。このままでいいのかもしれない。そんな思考がどこからか産まれました。



…………。



………………。



……………………??



 それは偶然だったのかもしれません。薄れかけた幽霊の頭に、誰かの声が響きました。その声は、ぼやけた幽霊の頭を少しだけ明確にしました。誰だろう? 何日ぶりかに幽霊は違う事を考えました。

 声が聞こえたおかげで、ぼやけていた感覚が鮮明になりました。 瞳には教会のステンドグラスが色鮮やかに映ります。ステンドグラス越しに淡い日差しが網膜をヒリヒリと刺激します。どこからか朝露の鮮烈な香りがしました。緑の匂いです。

 幽霊は生き返ったような感覚に陥りました。死んで居るのも解らないのに、実に滑稽なことです。

 幽霊は、声の主を探そうとしました。声の主に会えば、きっと何かが変わる。そんな予感と共に、必死にその声に耳を傾けました。


 どこだろう? どこだろう? ここではない。ここではなく、教会の外に居る。聖堂の扉を開き、外へ飛び出しました。


 どこだろう? どこだろう? ここではない。ここではなく、教会の庭園を抜け出し、街中へ走りました。


 走り続けると、空気が流線状に見えました。日差しが粒となって降り注ぎました。体の中に温度が産まれました。


 幽霊は恋を覚えたように、その声の主を求めました。


 しばらく走り続けると、幽霊は声の主がいる場所まで辿り着きました。そこはかつて見た墓地のように、寂れた場所でした。枯れ木が立ち込め、生の鼓動はどこにもない。小動物や虫の息吹さえも感じられません。地面には、カサカサの白い砂が敷き詰められています。その空間に入った途端に、空気は灰色になってしまいました。そんな寂れた場所の中央に、声の主は横たわっています。

 声の主は虫の息でした。まだ小さな男の子でした。今にも死んでしまいそうな位弱っています。現実的に考えれば、幽霊の居た場所まで声が届くはずがありません。あの教会からこの場所はかなり離れています。それでも幽霊はその声をキャッチしました。何があるのでしょう? この小さな子に何の力があるのでしょう?

 幽霊はその子の発する声を聞き取ろうと、精一杯耳を傾けました。しかし、その子は幽霊なんてお構い無しに、ずっとずっと横たわっています。その時、幽霊は感じました。あぁ、この子は自分と同じだ。この子はもうすぐ失われる。大切な何かを無くして、自分と同じ存在になるのだ。本能的に、そう感じ取りました。幽霊の予感の通り、その子は死にかけだったのです。

 幽霊は笑いました。彼の頭では、死という概念は解らない。けれど、この子は自分の仲間になるはず。そんな確信が産まれました。この子と居ればこれからの孤独を埋めることができる。初めての仲間に、心が踊りました。きっと、あの子も仲間を求めて声を発したのでしょう。だから自分がこの子の声をキャッチする事ができたのだ。幽霊は待っている。この子が幽霊になるのをただ待っている。

 男の子は、ゆっくり、そして確実に心臓の鼓動を緩めています。どうしてこの子は死にそうになってしまったのでしょう? それは解りません。この世の至る所に、不条理と死は転がっているのです。

 幽霊は、遠巻きに男の子を見つめています。まだかまだかと、ウキウキしながらその子を見つめています。しかし、男の子は一向に幽霊に近付いて来ません。 痺れを切らして、幽霊は男の子に近付きました。


 幽霊は近付きました。歩を進め、その子に近付きました。男の子はうつ伏せに寝っ転がっています。体をピクピク震わせています。頭から血を流しています。舌をダランと垂らしてたくさんの涎を垂らしています。そんな状態のくせに、瞳だけは安らかに閉じられています。

 それはとても残酷な光景でした。一人の人間の臨終には、残酷さと神聖さが同居しています。幽霊の中に、衝撃が走りました。胸が痛くて、痛くて、その場に倒れ込みました。その時、気が付いたのです。男の子は自分を呼んでいたのではなく、助けを求めていたのだという事を。幽霊が男の子の声を聞いたのは、自分も同じように助けを求めていたからです。

 しかし、助けようと思っても、もう間に合いません。見るからに手遅れです。顔が青紫に変色しています。痙攣が止まりません。青黒い血は、白い砂粒の上で乾ききっています。

 幽霊は自分を恥じました。自分の事しか考えていない自分自身を強く恥じました。男の子は自分よりも苦しんでいたのです。幽霊は自分が死んだ時の事をうっすら思い出しました。詳しい状況までは思い出せません。でも、痛かった。苦しかった。寂しかった。そうして幽霊は今までで、一番泣きました。存在しない体の全てを震わせて泣きました。

 幽霊は泣き続けたまま立ち上がりました。体の中には悲しみしか存在しません。そのまま走りました。空を飛びました。手足をバタつかせました。半狂乱のまま最初に訪れた公園へやって来ました。幽霊は公園の花壇に飛び込み、手当たり次第花を摘み取りました。赤いポインセチア。薄紅色のシクラメン。青いリンドウ。その他、名もない花を涙ながらに摘み取って、それら全てを胸いっぱいに抱え込みました。それから幽霊は、けして花を傷付けないように、優しく、優しく、それらを抱きしめたのです。


 幽霊は泣いています。まだ涙が止まりません。涙がポタリと垂れて、抱え込んだ花びらを揺らしました。その揺らめきに涙がはじけ、広がり、空間を潤しました。朝露に濡れたように、花々は美しくなります。

 幽霊は男の子が待つ場所へ帰ってきました。男の子は完全に息絶えています。幽霊はつややかに濡れた花々を、その男の子に捧げました。一本一本思いを込めて。この甘い香りと、美しい色彩が男の子を救ってくれますように。と。

 やがて男の子の体は色鮮やかな花で埋め尽くされました。幽霊は祈りました。心の底から祈りました。自分が味わった恐怖を。寂しさを。痛みを。全てを思い出しながら祈りました。男の子の為だけに祈り続けました。










 どれ位の時間祈っていたのでしょう? 幽霊はそっと立ち上がりました。それから薄ぼんやりと曇った空を見上げました。空には大小様々なキラメキが争うように輝いています。それは命の灯火でした。


 そして幽霊はその場所から飛び立ちました。空高く飛び立ちました。

 

 幽霊はどこに行くのでしょう?

 

 どこに行くのでしょう?


 幽霊が飛び立った遥か空高くから、色とりどりの花びらが地上へと降り注ぎました。その花びらは、風にさらわれ命の灯火を包み込むのです。

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