しあわせのねこ5
優と話し込んでしまったので、教室に入る時にはすでにゼミが始まっていた。
教室の後ろの扉から静かに中に入る。初老の教授は黒板に癖のある字でなにやら書き込んでいる。
結衣は教室を見渡し、席を探した。30人ほどしか入らない小さな教室で、空いている席は、教壇の前に数席あるのと後ろよりの窓際に1席あるのみだ。ゼミは必須科目のため出席率が高いのだ。
教壇の前の席には行きにくかったので窓際の席を目指して歩く。
隣に座っている男性に「すいません」と小声で声をかけた。すると男性が結衣の方に振り向いた。
結衣は声こそ出なかったが「わぁ」という口の形になった。蘇我である。
「あぁ、西村さん。どうぞ」
「あ、はい」動揺しながら席に着いた。
どうしよう、緊張する。ただ隣に座っているだけなのに結衣の心拍数は速いリズムを刻む。
気を紛らわすためにテキストを開き、教授の話に集中しようとした。
ところが、蘇我が「どうしたの? 顔赤いよ?」と尋ねてきたのだ。
ちょっと、ちょっと、待ってよ。どうしたらよいの。
結衣は半ばパニックになっている。ホームセンターの店員とはレベルが違いすぎるほど、緊張している。
「あ。……んと。……んと、その、ちょっと。その……風邪が、長引いちゃって」
本当の理由は別にあるが、風邪が長引いているのも事実だった。「風邪が長引いている」と話すのにどれだけ時間をかけただろう。そのぐらい長い時間かけて話した感覚がする。
「そうなんだ、無理しないでね」蘇我は心配そうに結衣を見つめてきた。
やだ、どうしよう。結衣は目を逸らした。
「あれ? 西村さんひょっとして猫飼ってる?」
なに? どうして猫を飼っていることを知っているの。蘇我の予想外の質問に驚いた。
「えっと……その、飼って、ます」
「やっぱり。ほら、そこ。それ猫の毛だよね」
蘇我は結衣のロングパンツを指差している。見るとディ子の白い毛がたくさんついていた。黒い生地なので余計に目立つ。きっと朝出かける際、ディ子を抱きかかえた時についたのだろう。
「あ。ほんとだ。ありが、とう」
「へぇ。猫飼ってるんだ。俺もほしいんだよねー。まぁ実家では飼ってんだけどね」
え、まだ会話が続く。どうしよう。
「癒されるよね猫って。どんな猫なの? 写真とかみたいな」
緊張で頭が真っ白にならないように結衣は心を落ち着かせようと深呼吸をした。今日のためにディ子さんと話の練習をしたのだ。ホームセンターの店員とも少しだけども話せるようになった。服だって自分なりにおしゃれをしたのだ。頑張れ。頑張れ私。
「……あの、えっと。スマホに、写真がありまして」
妙な敬語を使いつつ結衣はスマートフォンを取り出し、写真を蘇我に見せようとした。
「西村くん、当時のメランコリアの症状を説明しなさい」
急に教授が結衣を指名してきた。
「あ……っと……」瞬間、記憶が飛んだ。
頭が真っ白になったのは、蘇我と話している時ではなく、不意に教授に当てられたその時で、結局結衣は教授の質問には答えられずに黙り込んでしまった。
その後は教授がマークしていたので、蘇我と会話することもなく、ゼミが終わってしまった。蘇我はテキストを鞄にしまいながら話しかけてきた。
「あ、西村さん。今度、猫の写真見せてね。それと、もしよかったら、ここにラインして」
蘇我はノートの切れ端を結衣に渡した。そこにはラインのIDが書き記されていた。
結衣は手に紙切れを持ったままきょとんとしている。
「んじゃ、また来週ね」
そのまま蘇我は教室の後ろの扉から出ていってしまった。
その場でしばらくきょとんとしていた結衣は時間差で「わぁ」と驚いた。蘇我の連絡先を知ったのだ。紙切れを両手で胸の近くに引き寄せ喜びを噛み締めた。
家に帰るとディ子が「にゃおにゃお」と鳴きながら足元へ寄ってきた。
「ただいまぁー。いい子にしてた? ごはん待っててね」
キャットフードの袋からいつもより少し多めの量を取り分ける。
「今日は良いことあったから、ディ子さんにもご褒美ね」ディ子はおいしそうに食べる。
「今日ね、蘇我くんとたくさんお話したんだよ。しかもラインのIDもらっちゃったの。そうだ、返事送らないと」
結衣は紙切れをもらった後、何度も講義中に蘇我と話した内容を思い返していた。あまりすぐに友だち登録してしまうのも下心があるようで嫌だったので、家に帰ってからやろうと考えていた。
ディ子はご飯を食べ終わりベッドで横になってくつろいでいる。その姿をスマートフォンで写真を撮り、ラインの文章を作り始めた。
――こんばんは、西村結衣です。
今日はありがとうございました。お話しできて楽しかったです。先ほど撮った猫の写真を送ります――
「お話しできて楽しかった」たった少し話しただけなのに、重苦しい内容じゃないかな。
「先ほど」は「さっき」にしたほうが親しみがあるかな。絵文字をつけたほうが女の子らしいかな。
たった3行の文章を作るのに、書いては消し書いては消しを繰り返し、納得のいく文章が出来るまで二時間もかかってしまった。
「よし、できた」
送信ボタンを押す時にも迷ってすぐには押せなかったが、決心してぎゅっと目をつぶりながら勢いよく送信ボタンを押した。
「送っちゃった、ディ子さん、私、送っちゃった」
ディ子は「やっと送ったの?」とでも言うように伸びをしながら「にゃあーあ」とあくびのような鳴き方をした。それから5分も経たないうちに蘇我から連続して返信がきた。
――こんばんは、蘇我です!
――今日はごめんね。俺のせいで教授に目つけられちゃったかな?
――おぉ! 猫すげー可愛いね!
――まだ子猫なんだね。 俺も猫欲しいな
嬉しかった。何かが始まったようで嬉しかった。
その夜、結衣は布団の中で何度も何度もラインを読み返した。
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