さよなら
鳥山留加
さよなら
蝋燭の灯りだけが、今の私を照らしてくれる。もう少ししたら、朝日がその手助けをしてくれるだろう。
初めて出来た恋人に、この古いアルバムに収められた、私の幼き日の恥ずかしい場面を見られるわけにはいかない。
写真が趣味だった祖父は、私が小さな池の水面からお尻を突き出している光景や、クリスマスの夜、鼻の穴にアーモンドを詰め込んではしゃぐ姿までをもそのカメラに収めていた。恋人が訪れる前に、それらの写真を抜き取っておかなければならない。
長く開かれることのなかったアルバムを繰っていくと、手を繋いでポプラの木の前に立った姉と私が、満面の笑みを浮かべている写真を見つけた。姉は十歳、私は五歳。写真の下に、祖父の字で年月日が記してある。
私は最後に見た姉の笑顔を思い出してみた。
姉は、強い風が西から吹いたおとといの午後、しばらくぶりにこの寂れた故郷へ帰ってきた。三年前に、世界中を旅する大商人の後継ぎ息子と恋に落ちた彼女は、恋人が父親と共に東の大国へ旅立つと聴き、自らもその旅に参加すると決めたのだった。
それから三年間、一つの庭に象が一頭いる国や、絨毯二枚分の広さしかない平和な国など、様々な土地を歩きまわった彼女は、おとといの夜、ひょっこりとこの家に帰ってきた。後継ぎ息子は一緒ではなかった。
その日の夕食後、姉は本を読んでいた私を誘い出した。丘へ行こうというのだ。丘は家のすぐ裏にあり、村の若者達が初めてのキスをする舞台として知られていた。私達は丘の頂上に、並んで腰を下ろした。
「色んな景色を見たわ。色んな人々も。素晴らしいのよ。でも私はまだ知り尽くしてはいないわ。それが素晴らしいのよ」
そう言って姉が小さく笑うと、呼応するかのように、柔らかな風が一瞬、私達に向かって吹いた。
「それに、旅の間考えたのだけれど、ほんとうに自分のやりたいことがわかったのよ」
それは何? 尋ねると、まわりに誰もいないのに、姉は私の耳元に手を当てて囁いた。
素敵だね。私は言った。すると、姉は微笑みながらポケットに入れていたチョコレートドーナツを取り出した。そしてそれを二つに割ると、大きく割れた方を私に手渡した。
「でもね、それをするには西の国へ勉強に行った方が良いのよ。だけど、出来ないだろうと思うの。なぜなら、私達の家には夢を叶えるためのお金が一人分しかないんだもの。だから夢の可能性は半分こしなくちゃいけないのよね。そうよ、パパやママをあなたに預けて、私だけ西の国に行くなんて、あなたに悪いもの」
姉が呟いている間、私は遠い輝きを見ていた。あの時私が見ていた、空と街の境に光る一点の黄色い輝きは、知らない街に聳える尖塔の灯りだったのだろうか。それとも星の光だったのだろうか。
私は口の端についたチョコレートを舌で舐めながら、「西へ行った方がいいよ」と、言った。
翌朝、私が起きると、姉はもういなかった。
蝋燭の橙色が、わずかに和らいだ気がした。顔を上げると、昇りかけた太陽が、窓外に広がる空を水色に変え、たなびく雲に青い影を塗りつけている。部屋の隅で、小さな蜘蛛が一匹、ひっそりと動いた。そろそろ、朝食を作り始めなければならない。母は昨日、吐き気がすると言って真夜中まで眠りにつけなかった。今朝は遅くまで寝ているだろう。
何気なく空を見ていると、ふいに、奇妙な音がした。
犬の声に似せたのだろうが、これではまるで病み上がりの犬のようだ。窓を開け、地面を見下ろすと、そこに白い手袋をした恋人が立っていた。
今日の午後、この家にやって来る約束だったのに、どうしても会いたくなって来てしまったのだという。
私は抜き取った写真をアルバムの表紙と最初のページの間に挟んで閉じると、壁に掛けてあるマフラーを取り上げて巻いた。そうだ、今度の父の誕生日にはマフラーをプレゼントしよう。
私は軽快な足取りで軋む階段を下りた。
五歳のあの日、ポプラの前で握った姉の手と、シャッターを切る祖父の、皺だらけで優しい手を思い出していた。
最後の一段を下りる前に、滲んだ涙を拭った。
さよなら 鳥山留加 @toriyama_lukas
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